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佐美長神社(さみながじんじゃ)伊雜宮 所管社三重県志摩市磯部町恵利原。■御祭神 大歳神10年ぶり3度目の参拝。造替は2014年11月。この神社は皇大神宮・別宮 伊雜宮の所管社ですが記録を見ると20年で修繕ではなく、毎回「遷御」されるようです。皇大神宮の第一摂社・朝熊神社ですら、最初の20年は修繕のようです。伊雜宮に準じた扱いということなのでしょうか。瀧原宮・所管社の二社も同様のようです。。。社殿は鳥居から石段を上った、小高い場所にあります。神社に駐車場はありません。。。石段を上ると、下からは想像も出来ない広い空間。奥に見えるのは佐美長御前神社四社(さみながみまえじんじゃ)。。。佐美長御前神社は別の敷地ではなく、同じ場所に造替されるようです。御祭神は「佐美長神御前神」(さみながみまえのかみ)。こちらも伊雜宮の所管社です。。。来る度に思うのですが、何度でも訪れたい神社です。惜しむらくは駐車スペースがないこと。広い駐車場がある伊雜宮からは、およそ1kmほどでしょうか。歩くには少し微妙な距離。私は歩こうとは思いませんが…。。。2014年10月 遷御前の佐美長神社。
2024.10.14
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新羅善神堂。「御祭神」の新羅明神は円珍の前に顕現した神です。従ってこの新羅善神堂は平安時代の創建となるのでしょう。しかし、それ以前から新羅ゆかりの何かがあった可能性もあります。この新羅善神堂は中心伽藍の方に向けて鎮座しているようです。しかしその参道は弘文天皇陵に向かっているのです。。。参道入口にある鳥居は、弘文天皇陵に寄りそうように立っています。そこから新羅善神堂に続く参道にも注目です。。。。。今ではこの参道を利用する参拝者がいないせいか、参道には苔が生えています。しかしかつては立派な参道だったことが伺える姿。そして下鴨神社(賀茂御祖神社)の「糺の森」を彷彿とさせる、参道を包み込むような森。この先にあるものが「ただ者」ではないことを想像させる参道です。。。そして参道は突き当り、右(北)へ90°新羅善神堂・本殿(本堂)前へと石段を上がるのです。このように本殿(本堂)は中心伽藍の方を向いていますが、参道はどう考えても弘文天皇陵に向かっています。両者が無関係であるとは思えません。。。しかし前の記事でご紹介したように、大和は唐・新羅連合軍にコテンパンにやられたはず。弘文天皇(大友皇子)にとっても、新羅は宿敵であり脅威であったはず。祖母の斉明天皇と父の中大兄皇子(天智天皇)が九州に遠征し、そして大和軍が白村江で大敗を喫したのは大友皇子が20歳前後のことでした。日本書紀には大友皇子が斉明天皇らと、九州遠征に参加した記述はありません。しかし大友皇子にとって、唐・新羅連合軍との戦いに無関心だったはずはありません。。。白村江の大敗から200年後とは言え、円珍がこの地に新羅善神堂を建てたことは弘文天皇への「いやがらせ」みたいです。しかしはたしてそうなのでしょうか?日本書紀は日本古代史の「正史」ではありますが、それは天皇の命により天皇に献上された、天皇の歴史書。全て真実が記されているわけではないことは、学者だけでなく古代史を研究するほぼ全ての論者が認めるところ。。。。白村江から200年後の人物とは言え、円珍は新羅の商船で唐に渡った留学僧なのです。むしろ、当時の大和と唐・新羅との真の関係を知っていた可能性があります。この記事で完結させるつもりでしたが、申し訳ありませんが、思わせぶりに…「その3」につづく。。
2025.03.23
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宇奈多理坐高御魂神社(うなたりにいますたかみむすびじんじゃ)奈良市法華寺町(平城宮跡内) ■御祭神 高御魂尊(タカミムスビノミコト) 天太玉命(アメノフトダマノミコト) 思兼命(オモイカネノミコト) 高御魂尊は天御中主神の次に高天原に顕れた神。高御産巣日神、高木神とも呼ばれる造化三神の一柱。天御中主神や神産巣日神と違って、古事記の神話では司令神として何度か登場します。登場するのは「国譲り」「天孫降臨」「神武の東征」の場面など。天太玉命と思兼命が御祭神の神社は、初めてです。思兼命は高御魂尊の息子で、読んで字のごとく思慮深い神。天戸隠れの場面では、企画・演出家として手腕を発揮。天太玉命はその時の総合司会を務めた神と言えるかも。 東院庭園 平城宮跡内に復元された「東院庭園」のすぐ近くに鎮座。草原のような平城宮跡内で、唯一この一角だけこんもりとした森が繁っています。お社周辺は枯葉一枚落ちていないほど掃き清められていますが、門が施錠されていて入ることが出来ませんでした。お社前にお賽銭箱も見当たらず、普段は開放されていないのかも知れません。 塀周辺の苔を踏まないように注意しながら、少々お行儀の悪い撮影をさせていただきました。小さなお社ですが、室町時代に造られたもので重要文化財の指定を受けています。平城宮跡には来年春の完成に向けて工事中の大極殿や、復元された東院庭園、朱雀門や資料館などがあります。広大な敷地なので、全て見て回ると1日かかります。宇奈多理坐高御魂神社は平城宮跡内にある唯一の神社です。 朱雀門.
2009.02.14
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茨木神社大阪府茨木市元町4番3号茨木神社・公式ホームページ■御祭神 建速素盞嗚尊 誉田別命 天児屋根命この神社との出会いは、ネットで知り合った神社仲間の紹介がきっかけでした。「茨木市に、参道の長い神社がある」神社巡りを始めたばかりの頃、そう聞いて参拝に出かけたのです。以来、仕事で茨木市に行く度に必ず立ち寄った、北摂で最も好きな神社です。しかし今回は12年ぶりの参拝。拝殿が建替えられたと聞いて、久しぶりに参拝しようと思ったのです。。。。。。。上の写真は旧拝殿です。この茨木神社は、実は奥宮である天石門別神社を護った神々を祀っています。戦国の世、織田信長は天下統一の道具としてキリスト教を利用し、各地の神社・仏閣を焼き払いました。高槻城主・高山右近もそれに倣い、北摂地域の神社などを焼き払っていたとか。しかし信長は「天照大御神、春日大神、八幡大神及び牛頭天王(素盞嗚大神)の諸社は焼くべからず」そうお達しを出していたため、天石門別神社は「牛頭天王を祀る神社」と詐称し焼き討ちを免れたのだそうです。どういうことかは、茨木神社公式HPの「御由緒」をご覧ください。。。。。東 門。。。茨木神社・東門は茨木城の搦手門(からめてもん)を移築したものと言われています。城主はいろいろ代わっているそうですが、建てたのは楠木正成だそうです。城郭の跡などは残っておらず、この門が唯一の城跡の証のようです。。。。。本 殿。。令和4年、拝殿と幣殿の造替が行われ同時に本殿の修復と屋根の葺き替えも行われたそうです。この本殿のすぐ裏に、奥宮があります。。。。。奥宮・天石門別神社(あめのいわとわけじんじゃ)。。■御祭神 天手力男命(あめのたぢからおのみこと)天手力男命は天照大神がお隠れになった天の岩屋の扉をこじ開けた神です。しかし神社名となっているのは天石門別。天石門別神というのは天手力男命とは別の神さまなので、ちょっと混乱しそうになります。天石門別神は天の岩戸を神格化したものと言われており、この神社の名称になったということなのではないでしょうか。この奥宮・天石門別神社は、本宮を差し置いて(?)式内社です。。。。。。。なんとも美しい社殿です。神明造ですが、伊勢神宮とは違って妻入りの社殿。あまりにもこの神社が好きすぎて、同じようなアングルで何枚も写真を撮ってしまいました。久しぶりに訪れた大好きな神社なのに、この位置と正面しか見ていません。そう言えば、今までも裏手や他の位置からこの神社を眺めた記憶がありません。あまりの美しさに、いつも舞い上がってしまうからかも知れません。男神を祀っているので千木は外削ぎですが、鰹木は不思議なことに2本(偶数)。。。。。天石門別神社・正面(2007年)。。2007年に撮った写真を見て気が付いたのですが、この社殿は「本殿」ではなく覆い屋的なものかも知れません。社殿の中に祠のようなものが見えるからです。タイトルに「北摂で最も好きな神社」と書きましたが、本宮ではなく、大好きなのはこの奥宮のことです。。。。末社・皇大神宮御祭神 天照大御神手水舎:末社・手前から順に多賀神社、御祭神 伊射那岐命主原神社 、御祭神 天児屋根命・応神天皇天満宮、御祭神 菅原道真公事平神社 御祭神 大物主神・崇徳天皇・金山彦命。。。。末社・厳島神社御祭神 市杵島姫命。。皇太神社御祭神 天照大御神。。。他に事代主命・大国主命を祀る恵美須神社や愛宕神社 稲荷神社などがあります。奥宮の前で舞い上がってしまったせいか、ちゃんと全ての境内社の写真を撮りそこなってしまったようです。【参考】龍水御朱印帳・掲載寺社索引。
2023.06.03
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久しぶりの更新です。特にこれといった理由もなく、1年以上も放置しておりました。久しぶりなので、大好きな神社の記事で再スタートしたいと思います。 ●室生龍穴神社 この神社と出会ってから、もうすぐ10年になります。 神社巡りを始めたばかりの頃、やたらと龍雲を見る友人がいました。そいつを逐一サイトにUPしていたのですが、それが羨ましくてなりませんでした。 私はそれまで、龍雲を見たことがなかったからです。ネット上で頻繁に交流していたのですが、龍雲の話題になるとついて行けません。 友人たちは龍雲の話題になると龍神の話を始めるのですが当時の私は、龍神についてもほとんど知識を持たなかったのです。そこで起死回生、一発大逆転ネタを狙って検索して見つけたのが龍穴神社でした。どんな神社かという情報はどうでもよくて、ただただその神社名がドンピシャだったのです。 「龍穴神社って知ってる?」ただその一言を友人に言うために龍穴神社を訪れたのです。JR、近鉄、そしてバスを乗り継いで約4時間もかけて・・・。しかし、それだけの価値がある神社でした。 境内に林立する杉の大木。そのいづれもが、他の神社にあれば御神木となりうる大木ばかり。 境内に立っていると、それらを柱とした巨大な神殿の中にいるような感覚でした。 初参拝のその日は、本殿を見るのを忘れてしまったほど舞い上がってしまいました。この日以来ずっと、室生龍穴神社は最も好きな神社となったのです。■御祭神 タカオカミノカミ 奈良県宇陀市室生1297 龍穴神社の名前の由来は奥宮にあります。奥宮については、次の機会に紹介したいと思います。 境内に「連理の杉」という大木があります。いわゆる夫婦杉。この杉には秘密があります。 境内から見ると、仲むつまじい夫婦杉なのですが・・・ 裏に回ると蹴り合いのけんかをしているようにも見えます。しかし今回はけんかではなくて、やっぱり仲むつまじく ちょっぴりえっちなポーズにも見えました^^ .
2014.01.30
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高鴨神社(たかかもじんじゃ)奈良県御所市大字鴨神高鴨神社公式HP■御祭神 阿遅志貴高日子根命(あじすきたかひこねのみこと・迦毛之大御神) 事代主命 阿治須岐速雄命 下照姫命 天稚彦命鎮座地は葛城山(金剛山)山麓の高台。この付近は鴨一族発祥の地と言われ、ここから平地に移った鴨一族が祀った神社が葛木御歳神社、そして鴨都波神社。当社を「高鴨」葛木御歳神社を「中鴨」鴨都波神社を「下鴨」とも呼ぶそうです。京都の上賀茂神社、下鴨神社など、高鴨神社は全国賀茂社の総社と称しています。拝 殿本 殿御祭神の阿遅志貴高日子根命と下照姫命は兄妹で大国主命と多紀理毘売命の子。事代主命も大国主命の御子神です。大和盆地を挟んで対峙する三輪山の神とともに日本最古級の大和にある神社の御祭神が「出雲系」であることは興味深いです。ところが当社公式サイトによれば、ここの宮司・鈴鹿家は中臣連で祖神は天児屋根命とのこと。古代史ファンとしては、若干違和感を感じるところです。参拝日は2017年5月5日。ここには何度か参拝していますが、この境内には新緑がよく似合います。境内の森では新緑とともに、小鳥のさえずりも心地よく思わずスマホで録音したほどです。境内は東西に広がっており、多くの境内社がありました。それらをこのブログでご紹介することはほとんどないので、重要なもの以外はほとんど写真も撮っていません。将来、神社巡りのHPでも作る気になった時は後悔するかも知れませんが。西神社(西宮)御祭神 多紀理毘賣命 天御勝姫命 鹽冶彦命 瀧津彦命東神社(東宮)御祭神 天兒屋根命 天照大御神 住吉三前大神市杵嶋姫命神社御祭神 市杵嶋姫命ところで神社好きの方々のブログやSNSの投稿で拝殿下の東側の石垣に「灯篭が埋め込まれている」という話題を目にしました。こうして見ると、あるようなないような…。まぁ、次回参拝時のお楽しみということで。★高鴨神社駐車場 有 トイレ 有近くの高天彦神社の御朱印もここでいただけます。龍水御朱印帳・裏ばなし「新緑の葛城」高鴨神社境内の鳥のさえずり拝殿下石垣の幻の灯篭.
2018.05.15
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融神社(とおるじんじゃ)滋賀県大津市伊香立南庄町1846...社殿の近くに駐車場があります。しかし境内まで歩いてみたくなる美しい参道です。あまり知られていない神社で、私も最近まで知りませんでした。神社巡りを始めた頃から尊敬しているサイト、「神奈備」さま「玄松子の記憶」さまにも掲載されていない神社です。..参拝日は2020年8月16日。実は3回目の参拝でした。初参拝は2018年11月でしたが、駐車場に車を止めただけで鳥居すらくぐらずに帰りました。地元の方と思われるグループがいらっしゃったので、遠慮したのです。2度目は2019年10月。ちゃんと参拝したのですが、2回ほどシャッターを押したところでまさかのバッテリー切れ。..■御祭神 源融公(みなもとのとおる・右社殿) 大原全子(おおはらのぜんし・左社殿)源融は平安時代の貴族で、嵯峨天皇の皇子。大原全子はその母。3度目の参拝でやっと撮影のお許しが出た形ですが、神様から「出直してまいれ」と言われても仕方ない理由がありました。私はこの日まで、ここを「ゆずる神社」と読んでいたのです。ろくにリサーチせずに参拝するのはいつものことですが、さすがに神社名を間違えて訪問することは稀です(皆無とは言い切れない)。。。しかも御祭神の名を見ても、どういう神様なのかわかりませんでした。まだまだ白状しなければならないことがあるのですが、これ以上の露悪的な話は「裏ばなし」の方に書くことにします。ところでこの源融公という人はどんな人物で、どのような経緯で御祭神として神社に祀られるようになったのでしょうか。入口付近にあった「御由緒」には、特に理由のようなことは書かれてありません。。。御祭神がどんな人物だったかは、Wikipediaをご参照ください。「源氏」だから武将ってわけじゃなくて、貴族。左大臣にまで出世した人で、しかも美男子だったとか。のちに紫式部が書いた「源氏物語」の主人公、光源氏のモデルとも言われています。陸奥国塩釜の風景を愛し、それを再現したとされる六条河原院を造営。難波の海(大阪湾)から取り寄せた海水で、焼き塩を作っていたそうです。尼崎市に源融が海水を汲んだという伝承地があるそうです。融神社の「御由緒」には、全国で唯一「源融公」を祀る神社と書かれていますがその尼崎の伝承地にある琴浦神社の御祭神も源融公だそうです。。。その六条河原院は融の死後、息子から宇多天皇に献上されたそうです。源融公の晩年がどうであったか、例によって藤原氏などとの権力闘争があったかなどざっと目を通した資料から、付け焼刃的な想像しか出来ません。しかし宇治拾遺物語などに、源融公が亡霊となって現れた話があります。「融」という謡曲にもなっているそうです。この神社は鎮魂のために建てられたのかも知れません。鎮座地は源融公の所有していた荘園だったそうです。➡ 「龍水御朱印帳・裏ばなし」 神様からのダメだし 「出直してまいれ」.
2021.03.26
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