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January 8, 2010
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今日、1月8日という日は、父の命日。

31年前の今日、父は肺癌による1年半に及ぶ闘病の後、他界した。

最初はほんの軽い咳だった。それがいつまで経っても止まらない。風邪だと思っていたのが、喘息ではと疑い始めた。父方の祖父も喘息持ちだったので、遺伝したと思われていた。

ある時、僕が風邪をひいた。大阪の中心部にある総合病院に、僕の赤ん坊の頃から主治医の先生を訪ねた。

僕の風邪はどうってことのないもの。型通り薬を処方された。帰り際に母が一言。

「先生、うちの主人、なんだか軽い咳をこのところずっとしてますのよ。やっぱり、父親が喘息だったから、喘息なんでしょうか」

すると先生はこう言った。

「早く医者に行きなさい。肺癌ってこともあるからね」

僕も母も、この一言に大きなショックを受けた。まだ小学校高学年だったが、癌と言う病が言わば「不治の病」であることは知っていた。母とて、先生のこういう回答を予期していた訳ではなかった。



父が入院をしなければいけないことが判明した日の夕飯時、父はそのことを我々子供たちに話した。

肺癌と決まった訳ではないが、その恐れもあること。肺癌でない場合も治療は必要であること。だから、入院が必要であること。

僕は何故か涙が止まらなかった記憶がある。その僕に対して父は、

「どうした。別にまだ深刻な病気って決まった訳じゃないんだよ。泣くことないじゃないか」

僕も理屈では分かっていたが、涙が止まらなかった。

入院して数週間は順調であった。肺癌ではなく、肋膜炎である可能性高いということだった。肋膜炎の治療を続け、1週間程度様子を見て大丈夫そうなら退院してもいいよと先生に言われていた。その一週間に病状は悪化した。

後から思えば、その時に肺癌であることは判明していたのだと思う。しかし、我々家族には告知されなかった。母にも姉にも僕にも。もちろん本人である父にも。後で分ったことだが、その段階では母の弟と父の姉の夫に告知されていたそうである。しかも、その内容は「余命3カ月」というもの。

なにも知らない我々4人の病院に対する不信感は強まり、転院することとなった。大阪の某病院から兵庫県の某病院へ。

その段階では病状はかなり悪かった筈。しかし、ここでの抗癌剤治療で、劇的に回復する。そして、一度は完治に近い状態にまで回復し、担任も可能となった。

我々にとって、最初の大阪の病院は「悪」、二番目の兵庫の病院は「善」と映った。実はその「悪」の病院、今僕が働いている事務所からさほど遠くないところにある。でも、僕はそこには行けない。

その後、多分、母方の祖父が聞いてきた良い病院との評判の、大阪の別の病院に入院した。三度目の入院。この頃は、少なくとも祖父は最悪の結末を覚悟していた節がある。



「なんとか、助けてやりたいがなぁ…」

寺の住職として、檀家からの信望も厚く、かつ、我々家族にとっては太陽のような存在で、怖くもあり、頼もしくもあった祖父の、僕にとっては恐らく最初で最後に見た、祖父の弱音だった。

続けて祖父は言った。

「代わってやれるもんならなぁ」

この時、僕も事態が自分の想像よりもはるかに悪いことを理解した。



次に入院を余儀なくされた際、父は、やっぱり最初に治していただいた兵庫県の病院に入院したいと言った。

四度目の入院の日程も決まったある日、ほんの些細なことで、僕は父にこっぴどく叱られた。

今思い出しても理不尽な気がする。そんなに酷いへまをした覚えはない。実際、何をしたかも思い出せない。ただ、それまでの13年間で最も厳しく父から叱られたという記憶のみある。

父もこの段階で、自分の命が尽きようとしていることを、自分に残された時間が僅かであることを悟っていたと思う。その状況で、長男である僕には特に厳しくしなければならないと考えたのだろう。

中学1年生だった僕は、薄々、そのことが分った。叱られたことも辛かったが、こうやって叱られることも最後かも知れないと思うと、余計に辛かった。

1978年の12月に、父は4度目の入院をした。その数日前、今から考えると信じられないが、父の運転で、車で10分程度のファミレスに家族4人で行った。それが最後の晩餐となった。

年末年始は外泊が認められた。もちろん、病状が良いからではない。これが最後のお正月となることが主治医にも分っていたからである。

年末年始の外泊から戻ると、病院に母宛ての電話がたびたびかかるようになった。しかも、電話から戻ると、母の眼は赤くはれている。無邪気な僕は「何故泣いてるの?」と訊いたものだ。

実は、看護婦の「お電話です」というアナウンスは嘘で、実は主治医が病状を説明するために、母を呼びだしたのであった。母に最終的に告げられたのは「余命3カ月」であった。

前回の「余命3カ月」は逃れた父であったが、今回はダメだった。実際、その宣告から1週間も経たずに、父は亡くなった。

1月8日は3学期の始業式。父の病院は、大阪の自宅と、僕が通っていた西宮の中学の通学途上にある。終業式を終えて父の病室に向かった僕。前日や前々日は七転八倒する局面が何度かあった父であるが、その日は比較的安定しているように見える。僕は何をするでもなく、ただ、病室の椅子に座っていた。

両親がやっていた仕事の関係で不測の事態が発生した。誰かがそこに行かなければならないということで、本来は母が行くべきであるが、それは無理なので父の姉が行くことになった。でも場所が分らない。僕が付いていくこととなった。片道1時間半程度。往復で3時間強で戻ってくる予定だった。

行く時に、普通に病室を出ようとすると、叔母が僕に

「パパが握手したいって」

見ると、父が右手を差し出している。

僕も右手を差し出して握手をすると、父は心なしか微笑んでいるように見えた。

叔母と現地に到着した僕は、父の容体が急変したことを知る。往路は電車を乗り継いだ叔母と僕だったが、帰路はタクシーで急行した。

でも、間に合わなかった。

病室に近付くにつれ、きつくなるアルコール臭。父方の祖母が病院で他界した時と同じ匂いだと思った。

病室に入り、父が亡くなったことを知った。

聞くところによると、京都の中学に通っていた姉が病室に到着し、父の手を握った瞬間、まるで姉を待っていたかのように、血の気が引いて行ったそうである。

姉の到着から30秒後、父は亡くなった。

僕が到着したのは、父が亡くなってかれこれ30分は経っていただろうか。

父が亡くなった瞬間は、涙がまったく出なかった。

31年前のちょうど今は、こんなことをしてたなぁ…。と、今でもふと思うことがある。

31年経っても、あの日のことは記憶しているものだと、ちょっと驚き。





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Last updated  January 8, 2010 11:26:16 AM
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