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2019.04.01
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カテゴリ: 60歴史

大好きな奈良県「飛鳥」地域の旅行を振り返っていたら、「飛鳥寺」の仏像が頭に浮かびました。そういえば、仏教伝来からその後の時代に影響力のあった仏教がどのように変容するのか昔から興味がありました。今回は仏教伝来の黎明期から新しい宗派が続出した鎌倉仏教までを深堀してみました。

<仏教伝来>


4 5 世紀には渡来人が「秘伝」として伝えていたようです。

その後に仏教が伝来(公伝)し、その時期は538 年と 552 (29 代欽明天皇 ) の二つの説があります。その時に、百済聖明王から仏像、経典が献上された。


[ 仏教伝来の時期の根拠 ]

※『日本書紀』( 720 年成立、以後、書紀と記す)では、欽明天皇 13 年( 552 年、壬申) 10 月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている

※『上宮聖徳法王帝説』( 824 年以降の成立)や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』( 724 年)においては、欽明天皇御代の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとある。しかし書紀での欽明天皇治世( 540 - 571 年)には戊午の干支年が存在しないため、欽明以前で最も近い戊午年である 538 年(書紀によれば宣化天皇 3 年)が有力と考えられた。

その後、
仏教をめぐる対立蘇我稲目⇔物部尾輿、中臣鎌子があった。






<崇仏論争?蘇我氏と物部氏>

仏教を取り入れた蘇我氏と、「国の神を放って異国の神を崇めるなどとんでもない」という物部氏が衝突。蘇我氏の勝利に終わり、物部守屋は殺害され物部氏は没落してしまう。この際、聖徳太子は蘇我氏側に付き物部氏調伏の儀を行った。



<蘇我馬子 / 厩戸皇子(聖徳太子)>

蘇我馬子「飛鳥寺」建立

推古天皇の摂政 厩戸皇子 「日本仏教の祖」

豪族支配から天皇中心の政治システムへ

中国から属国支配の脱却

仏教が国の宗教であることを宣言

四天王寺、法隆寺建立

<奈良時代>

奈良時代になっていよいよ国政と不可分の関係を強めるにいたった。国分寺や国分尼寺の創設,東大寺大仏の建立などに象徴される鎮護国家,統一国家への祈念は,一方で唐僧鑑真らの授戒制度の確立や教学振興の実となって現れ,南都六宗の成立をみた。聖武天皇「国分寺建立の詔」(金光明最勝王経を引用)




南都六宗

奈良時代の国家仏教で6派の公認された宗派。奈良付近の寺を中心に研学された。後世の宗派とは性格を異にし,宗は学僧の集団を意味する。寺も一宗一寺ではなく,広く各宗を研学した。法相 ( ほっそう ) 宗・華厳 ( けごん ) 宗・倶舎 ( くしゃ ) 宗・三論宗・成実 ( じょうじつ ) 宗・律宗をいう


<平安遷都・平安仏教>

794 年 桓武天皇平安京遷都

行き詰った律令政治の立て直しを目指す

旧来の「奈良仏教」から「平安仏教」へ

二人の巨僧の出現、最澄、空海→遣唐使、日本仏教に新しい風を吹き込んだ

仏教が庶民にまで広く浸透する土台を 築いた。桓武天皇・嵯峨天皇は奈良仏教に対抗しうる新しい仏教として、最澄が唐から持ち帰った天台宗や空海が持ち帰った真言宗を保護した。

特徴は一つに山岳仏教の発展である。奈良仏教が都市仏教であったのに対し、最澄は比叡山に延暦寺を、空海は高野山に金剛峯寺を開いた。

もう一つの特徴は加持祈祷を行なう密教を持っていたことである。真言宗の密教は東密(京では東寺が中心であったため)、天台宗の密教は台密と呼ばれ覇を競った。平安仏教は皇室や貴族の現世利益をかなえる性格が強くあった。基本的に皇室や藤原氏などの貴族仏教としての性格を持つ。

平安中期になると、天台宗の源信らにより死後の阿弥陀如来による救いを説く、浄土教が大きな力を持ってくる。

やがて武家勢力の台頭と併せ、平安末期に法然の専修念仏が広まり、民衆全体への広がりを見せ鎌倉新仏教のさきがけとなって行った。




平安時代末期から鎌倉時代にかけて興起した日本仏教の変革の動きを指す。特に浄土思想の普及や禅宗の伝来の影響によって新しく成立した仏教宗派が登場。

鎌倉時代にあっては、国家的事業として東大寺をはじめ南都(奈良)の諸寺の再建がなされる一方、 12 世紀中ごろから 13 世紀にかけて、新興の武士や農民たちの求めに応じて、日本仏教の新しい宗派である浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗の宗祖が活躍した。このうち、この 6 宗はいずれも、開祖は比叡山延暦寺など天台宗に学んだ経験をもち、前 4 者はいわゆる「旧仏教」のなかから生まれ、後 2 者は中国から新たに輸入された仏教で ある。




これに対し、「旧仏教」(南都六宗、天台宗および真言宗)側も奈良時代に唐僧鑑真が日本に伝えた戒律の護持と普及に尽力する一方、社会事業に貢献するなど多方面での刷新運動を展開した。 最澄、空海の死後、次第に権力者に取り込まれ、宗派の分裂抗争や僧兵の横行があった。また、 末法思想による「鎌倉新仏教」の成立で主導的役割を果たしたのも天台、真言両宗の僧侶だった。

信仰と実践を重んじる「新仏教」があいついで生まれ、武士や庶民に徐々に浸透していったものの、社会的勢力としては南都六宗や天台宗・真言宗などの勢力(旧仏教)が、依然として大きな力を保っていた。特に山門(天台宗)は大勢力を保ち、権門勢力と結んでしばしば新仏教に弾圧を加えた(権門体制)。しかし、「新仏教」の活発な活動に刺激をうけて、いわゆる「旧仏教」内部でも現状の反省と革新への気運が盛り上がってきた。なお、後述するように、「新仏教」と呼ばれる変革運動が実際に社会を動かすような力を持つようになるのは室町時代から戦国時代にかけてのことである。



仏教伝来以後、仏教は日本では為政者や貴族の中で信仰され保護されてきた。それが国家仏教としての位置づけやまた、鎮護国家など国政の中で利用されてきたが、それが、庶民の信仰に結びついてきたのは、やはり「末法思想」が漂う鎌倉新仏教の出現とともに広まってきたといえる。その後の時代の経過とともに仏教はどのような形で存在しているのかよく見えないところがありますね。

他国をみてみると、仏教の生まれたインドから始まり、中国、韓国を通じて伝わった仏教も仏教発祥のインドをはじめ、中国や韓国でもその影響を物心両面でみることはできるものの、現代では庶民の信仰や生活と強く結びついているとは言い難い。日本でも、仏教は各宗派や数多い仏教寺院の存在などがあり、旅行などでも必ず寺社などを訪問するのも定番にもなっているし、日常の場面でお墓や仏壇、葬儀などで仏教との結びつきはあるものの、精神的な「信仰」という側面での仏教の存在は時代を経るうちにそのつながりが薄まってきていると感じざるを得ない。自分も含めてこの「信仰心」が薄くなってきた背景はなんのなかと興味につきないものがありますね。











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最終更新日  2019.04.01 03:54:30
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