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今回は、3人の実業家の生涯について整理をしてみました。ところどころに、はなはだ僭越ではありますが、私の見解も入れさせてもらいました。
3人の特色をまとめてみると、渋沢栄一、岩崎弥太郎、五代友厚は対照的な経営手法で事業を拡大し、日本の資本主義の発達に貢献したといえます。ただ、四民平等の世が訪れていなかったなら、こうした実業家は登場しなかったと思われます。そういった意味では、明治維新は日本の社会構造を抜本的に変えてしまう大きな出来事でした。
→「渋沢」は私の蓄財というよりも、日本の近代産業の発展という理念をもって行動した。実業界のみならず、近代教育の発展にも寄与し、公共社会福祉事業にも力を注いだ。
→「岩崎」は明治維新の大物政治家大久保利通、大隈重信との人脈を通じて「政商」としての特色がみえる、海運事業としての「三菱」、弟弥之助手腕による多角経営の礎と大財閥への成長した。
→「五代」は、豊富な人脈のなかで生涯だった。足跡としては「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った。イギリスへの渡航もありこの時代に語学力に卓越していたことは大きな強みだった。
下記の「3人の生涯」については下記を転載にて紹介させていただきました。
〇出典:渋沢栄一、岩崎弥太郎 nippon.com
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06903/
〇出典:渋沢栄一 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80
渋沢栄一 記念財団
https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/eiichi.html
〇出典 岩崎弥太郎 三菱グループ
https://www.mitsubishi.com/ja/profile/history/series/yataro/
岩崎弥太郎 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E5%BC%A5%E5%A4%AA%E9%83%8E
〇出典:五代友厚 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%8F%8B%E5%8E%9A
<「渋沢栄一」の生涯 (1840/3/16-1931/11/11) >
500 余りの会社創設に貢献した渋沢栄一は第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約 500 もの企業に関わった。
武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)の渋沢家は、農業のほか養蚕、藍玉の製造・販売、村人相手の金融業などを営む多角的な豪農であった。栄一は天保 11 年( 1840 年)、渋沢市郎右衛門の長男として生まれた。幼い頃から賢く、両親から将来を嘱望された。とにかく本が大好きで、 12 歳のときには歩きながら読みふけり、溝に転落して泥だらけになって帰ってきたという逸話が残る。

(深谷市に残る渋沢栄一の生家:渋沢栄一記念館)
[尊王攘夷思想と渋沢]
幕末になると尊王攘夷思想にかぶれ、一時は高崎城を襲撃して武器を奪い、横浜に住む外国人たちを追い払う計画を立てるが断念。
[一橋慶喜の家臣へ、そしてパリ万博]
やがて、平岡円四郎の紹介で一橋慶喜の家臣に採用され、慶応
3
年(
1867
年)、慶喜の弟・昭武がパリ万博へ列席するのに随行して欧米諸国を周遊、当地の文物や制度を学んで帰国した。

(パリ万博使節団一行。後列一番左が渋沢栄一:渋沢史料館) パリ万博使節団の一員としてヨーロッパ滞在中、渋沢栄一はちょんまげを切り、洋装に変えた(渋沢史料館)

[新政府の官僚としての活躍と実業家へ転身]
明治維新後、新政府に入って民部省の租税正、大蔵省の大蔵権大丞など経済官僚として活躍、国立銀行条例の制定や第一国立銀行の設立に尽力。明治 6
年( 1873
年)に政府を辞めて実業家に転身、王子製紙会社、大阪紡績会社、東京海上保険会社、共同運輸などの創立を手掛けていった。生涯に創設に関与した企業は 500
に上ったが、 多くの会社を興したのは、自分の利益のためではなかった。
実際、関わった会社の株式はほとんど保有しておらず、経営が軌道に乗るとサッと身を引いた。列強諸国の経済的強大さに対抗するため、日本に近代産業を早急に根付かせて発展させる必要があるという理念を持っていたからである。だから、実業界の力を結集すべく東京商法会議所など、さまざまな経済団体を組織し、自ら会頭に就いて政府に実業界の要望を積極的に伝えた。
[近代教育の発展に寄与]
栄一のすごさは、その活動が実業界だけにとどまらなかったことである。
東京高等商業学校、高千穂高等商業学校、大倉高等商業学校、東京高等蚕糸学校、岩倉鉄道学校の創立に関わり、 近代教育の発展にも大きく寄与した 。晩年は実業界の第一線から手を引き、東京市養育院の院長として恵まれない子供たちを救うなど公共社会福祉事業に力を注ぎ、同時に欧米を歴訪して民間の立場から平和外交を促進していった。そして昭和 6 年( 1931 年)、 91 歳でその生涯を閉じたのである。
<「岩崎弥太郎」の生涯 (1835/1/9-1885/2/7) >
岩崎弥太郎は天保 5 年( 1835 年)、土佐国(高知県)安芸郡井ノ口村の地下浪人の家に生まれた。地下浪人とは、藩士の身分を失った武家のこと。先祖が落ちぶれて武士の権利を売り渡してしまったのだ。だから元武士といっても庄屋(名主)の下位に置かれた。しかも父の弥次郎は頑固だったので、あるとき庄屋の手下から暴行を受けて大けがをする。憤慨した弥太郎は奉行所に訴え出るが相手にされず、怒って奉行所の壁に落書きして投獄された。

(岩崎弥太郎の生家:一般社団法人安芸市観光協会)
このとき弥太郎は同室の囚人に算術を教わり、それが後に商売に役立つのだから、人生は何が幸いするか分からない。しかも出獄後、藩の参政・吉田東洋と知り合うことになった。弥太郎の謹慎先の近くで、東洋もまたお叱りを被って一時蟄居(ちっきょ)していたのだ。東洋は弥太郎の才能を知り、下級役人に抜擢した。まさに塞翁が馬である。算術に優れていたこともあり、慶応3年( 1867 年)、弥太郎は長崎にある藩の出先機関(土佐商会)の主任者となる。外国人との対外交易が主な仕事だった。また、坂本龍馬の海援隊(土佐藩付属の海運組織で海軍にもなる)の会計も任され、龍馬と意気投合してその生き方に大いに啓発された。
[三菱、国内最大の海運業者に発展]
明治維新後、弥太郎は九十九(つくも)商会を創設して海運(汽船回漕)業に乗り出したが、廃藩置県で名実ともに藩から独立、社名を三菱と改めた。弥太郎は社員たちに「三菱商会は、国内に大きな力を持つ外国の汽船会社を追い払い、大海に進出して世界中に航路を開く」と大きな夢を語った。そんな三菱商会が飛躍するきっかけは、台湾出兵であった。外国の汽船会社は中立を唱えて日本兵や兵糧の輸送を断った。また国内の海運業者も、リスクを嫌って引き受けなかった。ところが、弥太郎だけが政府の依頼を快諾したのだ。
弥太郎は「人間は一生のうち、必ず一度は千載一遇の好機に遭遇するものである。しかし凡人はこれを捕らえずして逸してしまう。(略)これを捕捉するには、透徹明敏の識見と、周密なる注意と、豪邁なる胆力が必要である」(『岩崎彌太郎伝』)と語っているが、まさに台湾出兵は、三菱にとって千載一遇のチャンスだと判断したのであろう。
三菱は期待通りの働きをし、政府の最大実力者・大久保利通は弥太郎に信認を寄せ、西南戦争の輸送も一任した。そして、その後は政府の絶大な保護と援助が与えられ、三菱はたちまちにして国内最大の海運業者となったのである。
[三菱つぶし]
ところが大久保の死後、頼みとしていた参議(閣僚)の大隈重信が明治
14
年の政変で失脚してしまう。三菱は大隈に資金を提供しているとして薩長閥に憎まれ、政府は三菱つぶしを開始する。政府は三井などの資本で共同運輸をつくり、三菱と競争をさせたのだ。しかし弥太郎は屈せず、激しい船の運賃・スピード競争により、共倒れの危険が出てきた。驚いた政府は、三菱に対して共同運輸との合併を進めたが、弥太郎は頑として応じなかった。しかをしこの戦いの最中、弥太郎は胃癌のために死没してしまった。まだ
50
歳だった。
[後をついた弟の弥之助]
後を継いだのは弟の弥之助だった。弥之助は不毛な戦いをやめ、三菱から海運部門を切り離して共同運輸と合併させることに同意した。こうして弥太郎が
1
代で造り上げた海運事業は岩崎家の手を離れたが、弥之助は鉱山、造船、地所、銀行など、多角経営によって発展の礎を築き、その後、三菱は大財閥へと成り上がっていったのである。
<「五代友厚」の生涯 (1836/2/12-1885/9/25) >
五代 友厚(ごだい ともあつ)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本の武士(薩摩藩士)、実業家。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現:鹿児島市長田町)生まれ。大阪経済界の重鎮の一人。大阪市の本邸跡は大阪科学技術館・日本銀行大阪支店になっている。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った。贈正五位、勲四等。
[開国論者としての五代]
安政元年( 1854 年)、ペリーが浦賀沖に来航し天下は騒然となる。その折、五代は「男児志を立てるは、まさにこのときにあり」と奮いたったと記されてある。安政 2 年( 1855 年)、藩の郡方書役助(当時の農政を司る役所の書記官の補助)となる。兄が鎖国論者にも関わらず、開国論者の立場に立つ。その翌年、長崎海軍伝習所へ藩伝習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学ぶ。
文久 2 年( 1862 年)、懇願するも渡航を拒まれた友厚は水夫として幕府艦千歳丸に乗船し上海に渡航(この時高杉晋作と出会う)、藩のために汽船購入の契約をする。文久 3 年( 1863 年) 7 月、生麦事件によって発生した薩英戦争では、 3 隻の藩船ごと松木洪庵(寺島宗則)と共にイギリス海軍の捕虜となるが、通弁の清水卯三郎のはからいにより、横浜において、小舟にてイギリス艦を脱出、江戸に入る。 国元ではイギリスの捕虜となったことが悪評となったため薩摩に帰国できず、しばらく潜伏生活をし、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の取り成しによって帰国を許された。
[英国への経験、パリ万博]
慶応元年( 1865 年)、 藩命により寺島宗則・森有礼らとともに薩摩藩遣英使節団として英国に出発 し、さらに欧州各地を巡歴。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン構内に設置されている記念碑は、当時関わった一人として「五代友厚」の名前を刻んでいる。ベルギーのブリュッセルでモンブランと貿易商社設立契約に調印、これは薩摩藩財政に大きく寄与するものとみなされたが、諸要因により失敗に終わる。しかし、この時の経験がのちの五代の経営手腕に大きな影響を与えることになる。
[薩摩藩の会計係と討幕運動]
慶応 2 年( 1866 年)に帰国。御小納戸奉公格に昇進し薩摩藩の商事を一手に握る会計係に就任。長崎のグラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど実業家の手腕を発揮し始めた。ここでいうドックというのは俗にそろばんドックと呼ばれるもので現存している。慶応 4 年( 1868 年)、戊辰戦争が勃発し五代は西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍した。
[大阪との関り、官僚を退官、実業家へ]
その結果、明治元年( 1868 年)に明治新政府の参与職外国事務掛となる。外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺事件、イギリス公使パークス襲撃事件などの外交処理にあたった。また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致。初代大阪税関長となり、大阪税関史の幕を開ける。
明治 2 年( 1869 年)の退官後、本木昌造の協力により英和辞書を刊行、また硬貨の信用を高めるために金銀分析所を設立。紡績業・鉱山業(初めて鉱山経営した奈良県吉野郡天川郷和田村天和銅山や、福島県半田銀山など)・製塩業・製藍業(朝陽館)などの発展に尽力する。薩長藩閥政府との結びつきが強く、明治 8 年( 1875 年)に大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが料亭に集って意見の交換を行った「大阪会議」や、黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件(参照 : 明治十四年の政変)にも関わり、政商といわれた。
他にも、大阪財界人、田中市兵衛(第四十二国立銀行)らとともに 大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)などを設立した。
鹿児島市泉町(泉公園内)、大阪市中央区の大阪証券取引所前、大阪商工会議所前には銅像が建立されている。
[鉱山王として]
五代友厚が明治政府に先駆け鉱脈探しを加藤正矩に命じた神子畑鉱山。
五代は幕末ころより富国策として鉱山業を掲げ、明治政府の銀鉱脈発見に先駆け、長く放置された鉱山から銀、銅などを採り出す製錬技術を海外から導入し、初めて【奈良県吉野郡天川郷】最初に手掛け多額の利益を得て後の資金源となった奈良県吉野郡天川村西部地区和田村・栃尾村の天和鉱山(てんなこうざん)や、福島県の半田銀山などを多くの鉱山の再開発を手掛けていた。 2015 年 9 月には、兵庫県朝来市の神子畑鉱山の鉱脈探しを指示していたことが判明。当時、地元の郷土史家の山内順治( 1881 年- 1969 年)の手記には、幕末から明治初期にかけ五代が神子畑に採鉱跡があるのを知り、部下の加藤正矩に探鉱を命じたと記されていた。神子畑の主要鉱脈を擁する加盛山の名は加藤正矩にちなんだとされる。その後、 1878 年(明治 11 年)には、明治政府により、朝来市の生 野鉱山の周辺調査に伴い鉱脈を再発見、鉱山として復興された 。

[大阪商法会議所設立]
明治初期、維新変動の波を受け、大阪経済が低迷する。銀主体の商取引の廃止や藩債の整理による富豪や両替商の資産消失が主な原因であった。この事態を打開し大阪経済の復活を願って財界指導者の有志 15
名が明治 11
年( 1878
年) 7
月に大阪商法会議所設立の嘆願書を大阪政府に提出。これが今日の大阪商工会議所の礎となる。設立背景は、国内に事件がおこると常にドサクサに紛れ悪辣な金儲けをする者が増えるのを防ぐため、また互いを助け合うために実業家たちの一致団結による協力と意見交換の場が必要とする考えに起因する。嘆願書の集め方は五代らしい強引な勧誘で、決め文句は「万が一、後に会へ加盟を申し込んでも拒絶、もしくは巨額の入会費を徴収する」で、結果的に 60
人の同志を獲得した。初代会頭は五代友厚。大阪商法会議所を設立した目的は大阪の実業家の相互扶助によって新時代の潮流に棹差し大阪商人の伝統である信用第一主義に則り以って自己の利益を増すと同時に大阪の繁栄を軸に国富の増強に資するといった教育勅語的な趣旨に基づいた遠大な意図だった。役員の構成は、五代を初め計 11
人が創立委員となり鴻池善右衛門、三井元之助(後の三井財閥)、広瀬宰平(後の初代住友総理人)、田中市兵衛(第四十二国立銀行)らの 150
株を筆頭に皆で立ち上げた。五代は初代会頭となった。
[五代と大阪との関り]
友厚の大阪との関わりは、明治の新政府成立後に始まった。新政府が諸外国との交渉窓口として外国事務掛を大阪に設け、五代を任命したのが起点である。この頃、大阪では日本人の無知につけこんだ外国商人の不正行為が後を絶たなかった。条約違反、購入料金の不払い、雇い人への賃金不払い等は日常茶飯事で、領事館の家賃不払いまでもが平気で行われていた。五代はこのような不正に対しては断固たる態度で臨み、一切の妥協を拒んだ。次第に五代が駐在する大阪港では外国船の荷物検査があまりにも厳しいという抗議が政府まで届き、政府が取り締まり緩和勧告を出すほどの騒動に発展した。しかし、五代は外国商人の要求の真意が荷物検査が行われることによる不満(脱税や不正行為ができなくなる為)であることを見抜いていたので全く動じなかった。
商売人にとって「信用」は最も大切であり、不正を容認することは信用を失い、不正を糾弾することでその信用を勝ち取ろうとする五代の信念があった。 五代は商人である前に「正義」「大儀」を重んじる一人の武士であり、不正を見逃すことも国益を損なうことも出来ない性分 だった。
~あとがき~
今年の大河ドラマ『青天を衝く』を見ていて感じたのは、明治維新以降の政治家ではなく、実業家として名を成した人物が今回の「渋沢栄一」に加えて「岩崎弥太郎」「五代友厚」が頭に浮かびました。わたしの中では「明治維新三大実業家」ではないかと思い、 3 人の時代、出会い、事業についての考え方、功績、年譜などを調べてみたい気持ちになりました。偉大な功績のある 3 人ですので、調べるうちに資料が豊富で言い尽くすことが難しく、どうまとめたらよいのか壁につきあたりました。そこで、個々の実業家について上手にまとめてある文献・資料を探しだしそのまま紹介 ( 転用 ) させていただくことにしました。本当は自分の中で自分なりの言葉も含めて記述できればと思いましたが軽々なものになってしまうのは失礼なことに当たりますので紹介を中心にさせていただきました。自分なりに 3 人の年譜を比較できるようにまとめたのが唯一の付加価値ですが、お時間がありましたらご一読いただければ幸いです。興味の一つは接点があるのかですが、渋沢栄一と五代友厚はパリ万博で、渋沢栄一と岩崎弥太郎は明治 14 , 15 年のアンチ三菱の共同運輸と郵便汽船三菱会社での会談があったり、明治 15 年 7 月の五代友厚の「共同運輸会社設立」の動きの中で、三人三様の絡みがあったものと推測されます。いずれにしても、偉大な 3 人の生涯については学びきれない様々なものがあふれています。以上
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