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今回は、「徳川家康」と自分の住んでいる「磐田市との関係」をまとめてみました。浜松城、三方ヶ原古戦場、犀ケ崖(さいががけ)などの浜松地区との関係も興味は尽きませんが、次回以降にまとめてみたいと思います。
今回のブログは《武田軍の遠江侵入・戦いと磐田の旧跡》 ( 磐田に絞ってみました ) です。

( 出典:磐田市 )
<当時の時代背景>
1542
年 12
月 家康誕生
・・・
1560
年 5
月 桶狭間の戦い(織田信長 VS
今川義元)
家康が岡崎城に帰還した
1561
年 1
月 信長と「清州同盟」を結ぶ
1570
年、家康、岡崎城から「浜松城」に移る
年、武田軍、遠江に侵入し、磐田市の「三ヶ野・一言坂」で徳川軍が武田軍に敗れる( 10月
)、二俣城が武田軍に落とされる(11月)
・三方ヶ原の戦い( 12月
)で武田軍に敗れ、家康は浜松城に敗走する
1573年、武田信玄甲斐への帰還の途で死去
1575年、長篠の戦い(織田徳川連合軍、武田勝頼軍を撃破(5月)
・・・

( 出典:「一言坂の戦い」岡部英一著 )
<「家康」と「磐田市」の関連>
わたしが、調べ、確認できた範囲では「家康」と磐田市の関係は、以下の事柄が考えられますが、そのうちの「見付豪商」についてちょっと深堀してみます。
出典:「家康と磐田」 (
磐田市パンフレット )
「家康ゆかりの地を訪ねて」 (
磐田市観光ボランティア )
「一言坂の戦い」(岡部英一著)
① 見付の町 1572 年武田軍と徳川軍が戦闘の場
三ヶ野と一言坂の間にあり、三方ヶ原の戦いに先立ち、遠江の各所で徳川家康と武田信玄の戦いが行われた。袋井市木原に本陣を置いた武田方と、三ヶ野に偵察に出た徳川方の間で小競り合いから、見付の町を経て一言坂での戦いが行われた。
② 三ヶ野(ものみの松など)
三ケ野台の上に平地があり、当時はここに古墳 ( 円墳 ) があって、広場にはなっていませんでした。
周りの木は無く、大きな松の木が1本だけありました ( 本多平八郎物見の松 ) 。平八郎は三ケ野台にある松の木に登って偵察します。
2万数千の武田軍の大軍が三ケ野川越しの袋井一帯に展開していましたが、信玄の本陣位置は遠くて見極めることが出来ません。そこで、地理に詳しい内藤信成選抜隊が12日の夜、夜陰に紛れて三ケ野川を渡って、木原付近まで侵入したとき、武田の警備兵に発見されて「木原畷の戦い」になった、と推定されています。信玄の命令で、先陣として川向こうの西島に陣を構えていた馬場信春勢3000が一斉に三ケ野台に押し寄せた。
③ 一言坂

( 出典:筆者撮影 )
この合戦を、「一言坂の合戦」と呼んでおり、このとき家康の家臣本多平八郎忠勝が奮戦し、武田方の進軍を防いだといわれています。このときの平八郎の活躍は武田方にも称賛され、信玄の近習が「家康に過ぎたる物は二つあり、唐の頭に本多平八」と落書きしたと伝えられています。
④ 池田の渡し(船頭)
1000
年も前から続いていたと記録される、天竜川で行われていた池田の渡し。徳川家康が池田の渡船衆に与えたとされる朱印状のレプリカなどが展示され、池田の渡船の歴史が分かりやすく紹介されています。徳川軍は武田方からの退却戦でこの付近からは天竜川を渡ったと思われ、史実を探しましたが明確に記載されたものは見つかりませんでした。

(
出典:磐田市 )
今回の第 1 回はここまでとさせていただきますが、第 2 回目には挑燈野(ちょうちんの)、中泉御殿・陣屋、宣光寺(家康寄贈釣鐘)、酒井の太鼓、見付の豪商、一言観音などについて触れてみたいと考えています。以上
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