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「殿様の生活」デビューまで 編


Inu

【「昔、バンドやってたんですか?」】
昔バンドをしていた事実を人に話す時、私はいかにも「意外な隠された一面」でも垣間見せるかのように、ちょっと得意げに、大袈裟な勿体ぶった話し方をする傾向がある。「昔、長髪だったんですか」とか、「バンドやってたんですか」などと尋ねられると、私は大抵ストレートには答えずに、「まあ、そうこともあったかな」とかとぼけたり、あっちの方を遠い目で見やりながら「いやー、本当にあのバンドはスゴかった」とか独り言のようにつぶやいたりする。さらに、「どんなジャンルのバンドだったんですか」などと尋ねられようものなら、「うーん、ちょっとひと言では言えない」と答え、「例えば、既存のバンドで言うとどんな感じの音楽ですか」とか聞かれたりしたものなら、「いや、どうせ近い傾向のバンドの名前を言ったとしても、絶対に知らないよ」などと言って煙に巻いたりする。それは、若い同僚や部下に対して、ネクタイを締めて背広を着た中年のオッサンが「オレはこう見えてもただのオッサンじゃあないんだよ」といった一面をアピールし、一目置かせる効果がないでもない。

実際、我々のバンドは最盛期には100数十人の観客を動員し(その多くは対バンドが目当てだったかも知れないが)、その特異なバンドコンセプトといいメンバーのカリスマ性といい、日本の音楽界にはちょっと例の無いユニークな存在であったと私は心ひそかに自画自賛している。
ただ、本当のことを言えば、バンドのメンバーは誰もいわゆる「バンド野郎」ではなかった。そもそも、それまで誰もがライブバンドなんてやったことのない素人だったのである。ギタリストにせよ、ベーシストにせよ、ドラマーの私にせよ、バンドを組むまではそれぞれの楽器自体触ったことがなかったくらいである。それはもう、演奏のテクニックにしてみたら稚技に過ぎなかった。ただ、我々が自負していたことは「自分たちがしていることはタダごとではない」という自覚と、「我々がタダ者ではない」といった意識であった。私個人は今でも、我々の奏でる音楽にはきっと、世の中を変えかねないスゴい力が篭っていた、と信じているし、バンドの思い出は「もしかしたら世の中を変えたかも知れない」という「実現しなかった」可能性の、甘くて輝かしい、陶酔の記憶でもある。

【怠学 -一風“変わった”後輩との出会い】
私が、バンドを組むことになった仲間と出会ったのは、大学の美術サークルでのことであった。当時3年生であった私は、2年次の不摂生な生活と怠学が祟り、週のうち2日は新キャンパスにて1、2年生と机を並べる立場に甘んじなければならなかった。
この新キャンパスのサークルの部室に、彼らはいた。

もっぱら「お絵かき」が趣味で入部してきた10数人の新入生の坊ちゃん嬢ちゃんの群れの中に、明らかに異彩を放つ男たちがいた。
ひとりは私の1年後輩で、名前をYといい、年齢は私と同じであった。彼は同美術サークルには私同様に昨年から入部していたが、2年生になるその年までほとんどサークルに顔を出すことはなかった。彼は一浪して美術系国立大学の受験に(実技試験で)失敗し、うちの大学に入学して国際政治学を専攻しているという変り種であった。美少年といっても過言ではない、いかにも傷つきやすそうな芸術青年の風貌をし、その腹の中には爆発寸前の一物を抱えている、といった危ういバイブレーションを放っていた。この男の描く絵は基礎の裏付けがあり、暗くシュールで、ひと言で言えば「ダリに印象派とヘタウマを掛け合わせた」ような特異な世界であった。

もうひとりはその年に学内高校から進学してきた2年後輩のMで、この男は誰もが認めるであろう美形であった。「母親がインドの富豪の娘」だとか「父親がフランス人の詩人」だとか言えば、相手は疑いもしないような日本人離れした顔をしていた。この男は学内高校からのエスカレーター進学であったが、その高校に入学する前にある私立有名進学高校を中退していたため、年齢は1歳下であった。学内高校では成績上位であったにも拘わらず、文学部を志望し美学芸術学を専攻していた。彼はまた「詩を描く男」でもあった。彼は在部中に絵は2、3作しか発表していなかったが、見る人に作者の神経症と鬱病を疑わせないような絵であった。

最後のひとりもその年に入学した後輩で、名前をKといった。この男は2浪して入学しているため年齢は私と一緒なはずであったが、外見はまるで10代半ばのようなさわやかで清純な外見をしていた。男性には珍しい色白で、陸上部出身の痩せた体形であったが、彼の声は外見を裏切って至って重く低かった。しかも彼は滅多に口を開くことがなく、部室に居てもいつも窓際で遠くを見つめたりしていたため、彼については多くを知る者はおらず、私を含め誰もが彼をミステリアスな人物だと感じていた。彼について誰もが知っていたことと言えば、自宅が大学キャンパスから2時間半も離れていたため、サークルのアトリエに寝袋を持ち込んでたまに泊り込んでいたことである。彼の作品は写実的な静物画ありひねりのあるイラストありと多様だったが、前述の二人に比べれば病的なところの少ない、センスの良い絵であった。

私はと言えば、同サークル入部当時は専攻の心理学及び学友たちへの幻滅から鬱状態にあり、不吉な自画像や人物画を中心に描いていたが、彼らと出会う頃には自称「モダンアートに開眼」し、「ヘタウマ」的な、お絵描きが趣味の人たちから見れば冗談のようなごく単純な作品ばかり発表していた。


【「本来中心にいるべき」ハズレたオレたち】
そんな我々4人は、初めから意気投合してバンドを始めたわけでは決してない。そもそも、私自身を含め多少なりとも絵画やアートに興味があったから美術サークルに入部したわけであって、バンドがやりたければ学内には軽音楽からヘビーメタル、邦楽からインド音楽に至るまで、ありとあらゆる音楽系サークルが存在したのである。そもそも前述のように、当時我々は楽器が弾けなかったのである。厳密に言えば、Yは兄貴のドラムを借りて基本的なリズムは叩けたし、Kと私は鍵盤楽器が多少弾けたが、Mはほとんど楽器を触ったことさえなかった。
ただ、とにかく我々4人に共通していたのは、自分がいつも中心から外れたところにいながら、心の奥底では「本来中心にいるべきなのは自分らだ」とつぶやきつづけているようなところであったろう。そして、「絵画や文章だけでは表現しきれない何か」を内面に抱えていたこともある。したがって、自分たちにとって「絵」は表現手段のほんの一部に過ぎず、音楽・思想・文学等の総合的な「アート」こそが自分たちの属する領域であった。

私はと言えば、もともとは心理学や哲学にしか興味のない「田舎の優等生」であったのが、学問の世界に挫折してから暇つぶしに絵を描くようになり、同時に屈折した内面のBGMを求めて「特殊な音楽」の世界に傾倒していった。具体的に言えば、イギリス70年代終盤のパンクロックの流行の後に開花した、80年代のいわゆる「ニューウェーブ」の中でも、暗くて重い「ポジパン(ポジティブパンク)」系の音楽がそれであった(当時はまだ「オルタナティブ」などという便利なジャンル名も存在せず、私は自分の好きな音楽ジャンルを訊かれても、「暗くて、重い、一種のニューウェーブ」などと説明していた記憶がある)。比較的知名度の高いバンド名を挙げれば、「キュア」のLP「ザ・トップ」や「コクトー・トゥィンズ」のファーストLP「ガーランド」、あまり知られていないバンド名でいうと「And Also the Trees」や「Christian Death」
CureTopGarlandsChristianDeath

のような悪魔的な、あるいは今にも自殺するんじゃないかと思われるような、重苦しい音楽が当時の私の「定番」であった。日本でこれらに該当するようなバンドは当時存在しなかったが、いわゆる「インディーズ」と称される自主制作的なバンドの中には、私のインスピレーションを湧かせるバンドもあった。例を挙げれば、メジャーなところでは日本のパンクの金字塔である、ライブで豚の臓物をばら撒いたりマスターベーションしたりして有名になった「ザ・スターリン」、マイナーなところでは、その破壊的なパフォーマンスで知られた「ボアダムズ」なんかがそれであった。

【即興で「曲」を作る】
ところで、我々のうちの誰が、バンドをしよう、などと言い出したのかは、実は今ひとつはっきりしない。ひとつには、Mがギターを始め、一緒に演奏する仲間を求めていたことと、私が地元のアングラ系のライブハウスにときどきライブを見に行っていて、自分も人前で自己表現する機会を密かに夢見ていたことがあろう。

実際に我々がバンドらしきことをした一番初めのきっかけは、たぶん部室で私とYとMが遊んでいた時のことである。その晩、部室に置いてあった誰かのアコースティックギターをMが弾き出し、私がそれに合わせてバケツやキャンパスを叩いてリズムをとり始め、さらにそれに合わせてYが即興で歌を唄い始めた。言わば、酒の席で酔っ払ったオッサンたちが皿だの茶碗を箸で叩いて得体の知れない唄をがなり始める、そんなノリと変わらなかった。それは電気さえ使用しない実に原始的な「バンド」であったが、我々3人は確かに何らかの手応えと快感を感じていた。テクも基本もないそんな演奏でありながら、3人の「絵画や文章では表現しきれない内面の何か」が形を成したと少なくとも私は感じていた。そう、それは音楽というより、ある直接的・肉体的な自己表現の手段の発見であった。

そんな即興的かつ原始的な演奏を、我々3人は部室で何回か繰り返し、ある日それを生でカセットテープに録音した。我々は一応それらの「曲」にタイトルを付けていた。今でも覚えているが、たしか「ひまわり」「冬眠」「レクイエム」「金ピカ エディ」「ゲイ・ボーイ」「ラブソング」とかいうタイトルだったと思う。そのテープを、MはKに手渡した。Kは知人がドラムマシーンを持っており、打ち込みでデモテープを作った経験があった。

ある日、Kはそのテープの「原始的」な曲の一部-「ひまわり」「冬眠」「レクイエム」の3曲-を、ギター、ベース、ドラムス、ボーカルの典型的な4ピース・バンドのフォーマットにアレンジして重ね録りしたデモテープを持って部室に現れた。正直なところ、そのテープを聞いて、私は最初「何んかちょっと違うなあ」と思っていた。「きちんとし過ぎてる」というのがその感想であった。要は、その場にあり合わせたバケツを叩いたり、思いつきの歌詞をがなったりするような「直接性」や「即興性」が失われたように思われたのである。しかしKは、これらを恒久的な曲として4ピース・バンドの形態で演奏するのであれば、「きちんとした曲」にすることは避けられない、と主張した。それはそれでもっともな意見であった。結局、ともすると「勢い」だけでバンドをやろうとしていた残りのメンバーの傾向を、一般の人間が音楽として認識できるようなかたちにまとめるためには、Kの「常識性」が不可欠であった。

【結成「殿様の生活」】
我々はその年の3月だか4月から、「殿様の生活」というふざけたバンド名を名乗り、旧キャンパスに近い京都市内のスタジオを使って練習を始めた。そのバンド名は、私を除く3人が部室に居合わせた時に部室に置いてあった本に由来した。その本は、私が警備員のアルバイトをしていた頃、その某警備会社の研修合宿に参加した際に社長の著作として配られたもので、たしかタイトルを『ありがとうの心』とか言った。その本のある章では、「われわれが生活している現代は、封建主義の時代とは比べ物にならないくらい便利であり、そういう意味で当時の殿様の生活よりも現代の貧乏人の生活の方がよっぽど恵まれている」といった趣旨のことを述べており、見出しには「殿様の生活」とあった。このひと言が3人の気に入ったらしい。

楽器の担当については、Mがギター、Kがベースを担当するのは決まっていたが、Yと私のどちらがそれぞれドラムスとボーカルを担当するかは当初未決であった。Yはドラムが叩けたが、「原始バージョン」の曲を録音した際、彼がほとんどのボーカルを担当した。私は鍵盤楽器なら多少は弾けたが、バケツでなく本物のドラムを叩いた経験は皆無であった。したがって、初めてスタジオに入った時、Yと私は交替でボーカルとドラムスを担当した。私は未経験とは言え、それでもほどなく基本的なリズムを叩けるようになった。Yは絶叫ボーカルに磨きをかけ、やがて結果的にこの分担は定着するようになった。

また私は個人的に、地元のアングラ系のライブハウスで知り合ったバンド、その名も「乳首見せんなヘソかんで死ね」のメンバー3人がその年にそろって学内高校から我が大学に進学してきたことから、我々「殿様の生活」メンバーとの交流を深めるために画策していた。この3人は、我が大学の学内高校3年次在学中に、変態女子高生バンドとして、当時の関西アングラバンド界ではちょっと名の知れた前出の「ボアダムズ」や「市民」などのギタリストをサポートメンバーに、関西を中心としたライブ活動を繰り広げていた。彼女たちはセーラー服やスクール水着でステージに立ち、「♪ ハゲなのに、何故かしら鼻毛だけ伸びていく、そんなあなたが大好き」とか「♪ あなたがセンズリするところを見せて」、とか「♪ 牛とやりたい、馬とやりたい、カバともゾウともやりまくりたいぃー」とかいったぶっ飛んだ歌を披露して聴衆の喝采を浴びていた。

【みんなサル-学内初ライブ】
そんな我々がついに初めて人様の前で演奏したのは、新年度の5月頃、新キャンパスの昼休みの食堂前広場であった。対バンドはもちろん「乳首見せんなヘソかんで死ね」である。私は食堂前広場の使用許可を学友会から取り付けるために、美術サークルの名前を借りて、「楽器を用いたアート・パフォーマンス」の実施を目的と称した申請書を提出していた。さらに、学内の音楽系サークルに頼み込んで、アンプ・マイク一式からドラムセットまでを借用できるよう手配していた。私はさらに
「○○だい学で、一ばんばかなのは、たぶん僕たちです。 ちくび見せんなヘソかんで死ね & 殿様のせいかつ 青空合同ライブ」
というコピーを戴いた手書きのポスターを作って学内に貼って回り、当日の聴衆の動員に備えた。

かくして、青空ライブの当日はまさに晴天となった。正午の昼休みのブザーを確認すると、我々はマイクやアンプのチェックに掛かった。その日までに我々は4つの曲を完成させていた。前出の「ひまわり」「冬眠」「レクイエム」に加え、新曲「魚Pの犯罪」も我々の自信作であった。ちなみに、「ひまわり」の歌詞とはこんな感じである。
「♪ ひまわりの歌がカニを捉えたら、ひまわりの歌がカニを捉えたら、カニの緑とひまわりの青が、混ざってしまう、イヤだー 句 チャック 結句」
こんな歌詞が、ダウンビートの重くてドロドロした邪悪な曲に合わせて、絶叫されるのである。新作の「魚Pの犯罪」はといえば、こんな歌詞だった。
「♪ 無数の虫と歌い、背骨が曲がった 重すぎる空気にぼくは昏睡 あまりの幸福に、ぼくは間違った 魚の犯罪 輪は拡がる」
なんと知的な歌詞であろう。虫とともに歌って背骨が曲がるは、魚が犯罪を犯すは、メチャメチャな話である。こんな歌がハードでスピーディーなドラムに乗って青空に向けて絶叫されるのである。

12時10分頃、高校卒業とともに「解散宣言」したはずの「乳首見せんなヘソかんで死ね」が、解散後最初で最後の演奏を始めた。その日のゲストギタリストは「市民」のギター兼ボーカルの青年であった。レパートリーは彼女たちに一任していたが、私たちの期待を裏切らずに「♪ 牛とやりたい…」の「動物を愛ずるこころ」も忘れずに曲目に加えてくれた。さすがに顔見知りの大学教授たちが通り過ぎる前で「♪ 私にセンズリするところを見せて…」の曲は披露しなかったが…。
「乳首」の演奏が終わり、我々「殿様」がスタンバイの状態についた。
バンド界の先輩「乳首」のボーカルのAさん(我々は3歳年下ながら貫禄のある彼女をいつも「さん付け」で呼んでいた)が、「初ステージ」の我々を「この大学の美術サークルの部員が結成した、私たちが推薦する期待のバンド」とか紹介してくれたのを私は覚えている。
その紹介が終わり、我々はお互いに目配せした後、私のドラムスティックの拍子を合図についに「ひまわり」をこの世に送り出した。
自らの演奏に陶酔しつつ、満場の観衆が我々の演奏に「何だこれは!」といった反応を示すことを我々は心密かに期待していた。
しかし実際に段々畑状の広場の席に腰掛けて曲を聴いているのは、美術サークル関係の内輪と、設備一式を貸してくれた音楽系サークルの面々だけで、それも興味というよりは困惑と同情の表情を浮かべているようであった。食堂棟の前を通りかかるほかの何百人もの学生は、まるで我々が存在しないかのように、我々に一瞥をも与えずに広場前を素通りしていた。

それでも我々は予定どおり「魚Pの犯罪」「冬眠」を間違えずに完奏し、最後の「レクイエム」の演奏に入った。Mの悲しげなギターソロに始まり、ドラムスとベースが続き、そしてYが唄い始めた。
「♪ ぼくはいつも、サルと居るんだ サルはぼくのこと 何でも知ってる。 だからぼくは ノートに すべてのことを くまなくつける。 サルよサルよ、ぼくに電波で 指令を出しておくれぇー」
Yは、目を剥いて必死でサルに指令を出すようにお願いしていたが、そんなことは学生たちにとってどうでも良いことらしかった。それよりも、彼らは次の講義に遅刻しないようにさっさと移動しなければならないのだ。Yは続けた。
「♪ 夜また夜 サルと眠る 銀のサルは ぼくを笑う 黒いサルの陰謀に ぼくは警告し続ける サルよサルよ、ぼくに電波で 指令を出しておくれぇー」
学生たちは黒いサルの陰謀に対する警告等には目をくれず、食堂棟から教室へと急いでいた。それでも我々は続けた。
「♪ サル去るサルサル サル去るサルサル サルサルサルサル みんな去る サル去るサルサル ぼくから 去って行くぅー」
さらに曲は、Yの高まりゆく絶叫を以ってクライマックスを迎えた。
「♪ サル去るサルサル サルサルサルサルサルサルサルサル サル去るサルサル サルサルサルサルサルサルサルサル  サル去るサルサル サルサルサルサルサルサル ぼくから去っていかないでぇー サルよぉーっ」美術サークルの内輪もそろそろ去り始めていた。

【ライブハウスデビューに向け、さらに増える「トランス」な曲】
こんな一見期待はずれな結果にもかかわらず、我々は満足していた。バンドの醍醐味は、まずなんと言っても、日常的には禁じているような不謹慎な傾向を莫大な音量で外界に向かって表現することにあり、聴衆が興味を持ってそれを聴いてくれるか否かは、言わば副次的なことだったのだと思う。私に限らず、バンドのメンバーは、この自己表現の快感に病みつきになりつつあった。

やがて、我々は「乳首見せんなヘソかんで死ね」のメンバーの紹介で、ある日某楽器店に勤める地元ライブハウスに顔が利く「ブッキング」マンのところをデモテープを持参して訪れた。我々のテープを店内のテープデッキで再生し、何曲か試聴したブッキングマンの「ムクさん」は言った。「うーん、これは『トランス系』やね」私はこのコメントを聞いて、我が意を得たり、といった気がしていた。バンドのほかのメンバーは知らなかったかも知れないが、「トランス」というのは、「ボアダムズ」とか「YBO2」のようなバンドがレコードをリリースしていたインディー・レーベルのひとつで、ムクさんが我々の音楽をこれらのバンドと同列に扱ってくれたことはうれしかった。ムクさんは言った。「このテの音楽だと、演奏させてくれるライブハウスというと、『どん底ハウス』か『CBGB』になるかな」。両者とも、私がときどき目当てのバンドのライブを聴きに訪れていたライブハウスで、どちらでプレイできたとしても私にとっては申し分ないことであった。
結局、我々は7月に両ライブハウスでプレイできるようにブッキングしてもらえることになった。我々は有頂天であった。

それからの1~2ヶ月の間、我々は1、2週間間隔でスタジオを借り、練習を重ねた。前の4曲に加えて、我々は「セッシ(窃視)」、「パブロフ」、「落下夢」等のレパートリーを増やした。「セッシ」は、曲調は「キュア」に典型的なコード展開で、「レクイエム」に明らかなYの病的な傾向をそのまま言葉にした、こんな歌詞であった。
「♪ ぼくは みんなに 見張られている すべての落ち度は 報告される ぼくの手は清潔だよ 5分ごとに洗っているよ」
「パブロフ」は、「暗いロシアの小部屋の隅の実験室に縛られた犬」のことを詠った歌だった。これにつけたKのユニークな曲はこれまた「震える脚に光る鎖を付けられた犬」のイメージを想起させるドロドロした重苦しいベースと引っ掻くようなギターで、私が考えたドラムのリズムはまともにドラムを習った人間には思いつかないような、バスドラムとスネアドラムを2打ずつ交互に叩く、引きずるような ズンズン チャッチャ ズンズン チャッチャ… のテンポであった。
「落下夢」は、Mが書いたシュールレアリズムの歌詞と「REM」もどきのギターに、これまたKがユニークなドロドロしたベロベロのベースを重ねた幻想的な曲であった。ちなみに歌詞はこんな感じである。
「♪ 燃え始めた朝顔 消防士は眠れない 青空の割れ目から 真夜中が流れ出す (中略) 落下夢 ろくでもないことが 次々に起こる 気がする」いかにも喘息持ちの描きそうな不快なイメージである。

練習は決していつも首尾よく行ったとは言えない。ギターのMとベースのKは下宿などでともに練習できたので、両者のコーディネーションは悪くなかった。しかし、ドラムセットを持っていない上にそれまでドラムを叩いた経験のなかった私は、オカズ(フィルイン)のバリエーションに限りがある上、いつも勢いだけで演奏するため、一定のテンポを保てなかった。そして、何よりも問題だったのは、「絶叫パフォーマンス」以外にネタのなかったYのボーカルであった。そもそも、Yは音感が良くなかった。彼のボーカル・ラインはいつもベースに引きずられ、絶叫していない時はベースのメロディーを伴奏していた。いくら独自にボーカル用のメロディーを彼に教えようとしても、演奏が始まるとベースのメロディに同調してしまっていた。要するにYには「コーラス」する能力がなかったのである。これではバックの演奏が彼のカラオケになってしまい、どの曲も単調になりかねないきらいがあった。
それでも、まだ曲数が7つ程度だった当時、まだこの「ワン・パターン」の印象を聴衆に与えずにライブを終えることが出来た。

【ついにライブハウスデビュー・その名も「どん底ハウス」】
我々の初の屋内ライブは、7月中旬の「どん底ハウス」であった。このライブハウスは京都のアングラ音楽界のメッカのようなところで、一般大衆がレコード屋で買えるような種類の商業的な音楽以外のバンドに積極的に演奏の場を提供してくれる、言わばパンク野郎や病人やキチガイのための聖域であった。その日の対バンドが何であったか思い出せない。当然のことながら、初出演の我々「殿様の生活」が「前座」であったことは間違いない。我々は何日も前から曲の演奏順やステージ衣装について打合せ、初舞台に備えていた。ボーカルのYはヘンなジャケットを着込み、ギターのMはインドの国民服である白いパジャーマ、ベースのKは同じくインド民族衣装で、スカートのような布切れのルンギーをまとい、私はといえば特にステージのためではなく、当時の普段着であった縦縞の半ズボンと黒のタンクトップにワンレンの髪、といったちょっとアブない格好であった。

観客は、「乳首」の3人をも含む10人弱の内輪を含め、30人程度だったと思う。「どん底ハウス」の地下の狭い客席のテーブルを埋めるにはそれでも十分だったはずだ。そのことを別にすれば、このライブでの演奏時のことはほとんど記憶に残っていない。ただ、客席の様子がほとんど見えないくらい強烈なスポットライトの当たったステージに立ち、はじめは震えるくらいに緊張していたのは確かだ。また、「青空ライブ」の時とは違ってミキサーによる音響効果も加わり、莫大な音量で放たれる自分らの音楽に圧倒され、そして呑まれてしまったのも「記憶がない」理由のひとつだと思う。強いて覚えていることと言えば、最後に演奏した「レクイエム」の終盤のクライマックスで、もの凄い感情を込めて「サル」を絶叫していたYの悶絶の後姿だ。私はそれまで彼の歌詞の「マジなのか冗談なのか判らないところ」に魅せられていたが、曲の終盤でYが「サル」を連呼しつつステージに崩れ落ちる姿を見ながら、「こいつの気違いはホンモノだ」と確信した。
このライブでの我々の演奏はなかなかだったはずだ。「青空ライブ」に比べれば、練習を重ねた甲斐あって、間違いらしい間違いもなかった。その晩、我々は2つの対バンドの演奏を聴き終え「どん底ハウス」を後にする際、ライブハウスのマスターから結成以来初めての「ギャラ」をもらった。ギャラは、スタジオ代にも満たない6,000円程度だったと思うが、それでも我々はついに「プロ」の世界に一歩踏み入れたようで気分が良かった。

(つづく)



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