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関東地方が梅雨入りだそうで、例年に比べて10日も早いそうだ。異常気象を含めて大自然界の気象システムがずれてきていると言う挨拶が慣用句になっている。 昨日までは目に青葉が相応しい時期で、身体に感じる暑さも初夏を通り越した真夏日となる日が多くなっていた。 ちょっとだけ陽射しの中を歩くと顔がヒリッと感じるのだ。 繊細に感じることは、それだけ強い紫外線によっての影響だろうが、人生の老化による肌の劣化もあるのだろう。 先日のこと、初めて広島の街を尋ねることが出来た。 空から観る街並みは綺麗で新緑が目に優しく迎えてくれた。飛行場から小一時間ばかりかかる市街地へのシャトルバスも、その車窓からはあくまでも新緑の優しさが目に飛び込んできて嬉しかった。 天候に恵まれたこともあってか、青空と新緑のコラボレーションは旅先を忘れさせるほど、爽やかな風と共に優しく包み込んでくれた。 このバスは本来であれば市街地にあるバスセンターが終点なのだが、ホテルがある平和公園までの路線をサービスしていて、空港で案内された通りに200円の追加料金を払い平和公園そばの白神社前バス停で下車することが出来た。平和大通りに面する10階のホテルの部屋からは、太田川の川上方面が望めて一帯が平和公園と原爆記念ドームを眺めることができる。 改めて市街地の緑の多さが理解され、広島は緑に囲まれた平坦な街であることを認識することが出来た。 幼いころに絵葉書で知った原爆ドームも、セピア色の記憶だけが脳裏にあって、新緑の中に毅然としている姿に触れることができた時代の対比をしてしまう。 大戦時の残酷で忌まわしい原爆ドームは時代の流れの中でどのような役割を果たしているのだろうか。 そばを流れる太田川も何事もなかったように、実にのんびりと流れていた。 川沿いの散歩コースも整備されていて、平和の尊さを享受できた意識は別にして、現実の平和の中を、国際色豊かな多くの観光客が散歩を楽しんでいた様子そのものが平和なのだ。 悲しく忌まわしい歴史は語り続けしっかりと歴史認識をていってほしいと願う中にも、木々の緑豊かな環境は、改めて平和の大切さを教えているようだ。 どれほどの人が原爆の恐ろしさを憂いているか、ガイドさんの案内の指差す平和ドームや記念館の穏やかな現実が、言葉を超越させて平和の価値を考えることに気付かせてくれる。 平和公園の一角にある記念館に於いて開催された、国際ロータリー世界平和フォーラムが、世界中のロータリアンやロータリーファミリーを集めて開催された。 ロータリーがプログラムを作成した平和についてのフォーラムだが、全体会議や各セッションに分けてプレゼンテーションや意見交流が活発にされた。最後の全体会議に於いては、時間内意見発表が大幅な希望者の為に、時間切れのまま、集会の幕を閉じる結果となり、若い人が如何に平和について気づき尊さを脳裏に焼き付かせてくれたか、期待と不安があるのだが若さの特権である明朗な闊達さに、国際人としての真価を発揮してもらいたい。 Peace Begins with YOUで開会されたフォーラムも、二日間の交流の輪が広がった閉会式に出は、参加した全員がPeace Begins with ME.で唱和することが出来た感動を、それぞれの国で発揮することが、真の平和の心なのだろうから。 会場全体の参加者がスタンディングオーベーションで拍手したその姿こそが、人類としての役目を担っていることを自覚できた。 新緑の広島の空に平和のシンボルである白い鳩の風船が、爽やかな青空に一斉に舞い上がった光景は感動の坩堝であった。
2013.06.01
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ことあるごとにお会いする方が、皆さん先輩に思えてしまうのですが、何かの機会にその方の年齢をお尋ねすると、後輩だったりするケースが多く、なかにはひと回りも年齢差がある方と出会うこともある。いくつになっても気が若いつもりでいても、身体の衰えには負けてしまい、最近は肉体的なことよりも、頭脳の働きが鈍くなってきたことが強く感じてしまう。人様の御名前が直ぐに出ないし、その直ぐの時間が時間の経過と共に大幅に長くなっている現実があって、一人寂しい思いをしている。それでも天然ボケが功を奏しているのか、若いつもりのままい、興味心を旺盛にさせて、多少でも加齢の弊害を食い止めようと、人生修行の学びを励んでいるところである。何歳になっても人間性を高めることが必然なのだが、年齢相応の対応が出来ないことを痛切に感じてしまうこの頃であるなか、一工夫も二工夫も心得る努力は欠かさない。こころの修練と言うものは、日々繰り返しの心がまえが絶対的に必要のようで、多忙を訳に感けていると、ほんとうに直ぐにでも愚かさが悪顔をだしてくる。一時は若気の至りでもって、結構生意気の風体をしていた時があり、度胸も腕力もないくせに、なで肩を持ち上げて活かっていた時代もあったものだ。今から思えば実に幼稚で滑稽な時代でもあったが、こうした無駄な時間が成長への反省ときっかけになってくれると感じている。そんな心変わりがあってから、できるだけ人生観の学びができる本を見つけては手にして、できるだけ感銘深き、心情に訴えてくれる言葉を探している。随分前になるが一つの諺をみつけた、それは、人に大きく己は小さく心を丸く腹を立てずに気を長く、今では毎朝の誦句に言葉に出していて、日々劣る気力に覇気を取りもどすべき、努力の一端を気構えている。あらゆる情報から知り得るすばらしい諺に関心をもっているが、身につかない日々の生活に、人としての学びの能力と備わった器の大きさに懸念をしてしまう。若い時はいざ知らず、70歳を前にしても人に好き嫌いがあることが、じつにくだらない可笑しさをみせてくれるこのごろである。人の度量を大きくさせて、ご縁があった素敵な諺を有効に活用させることで、粋で元気で多少でも世の中にお役にたてる人を心掛けていこうと思う。
2012.12.08
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来客が無い時には必ずと言って事務所には愛犬姉妹二匹が鎮座している。時々来客も呆れ顔で二匹の頭をなでながら、事務所での一時を過ごすこともある。夕刻の散歩を終えた姉妹が事務所の階段を昇り、疲労感を身体の伸びきった寝姿に漂わせて、暫しフローリングの冷えに心地よく眠りこけていた。仕事もひと段落して、夕飯に帰宅しようと二階にある事務所の階段に向かった。姉犬は鉄骨でできた階段の温度が快適なのか、眺めを楽しんでいるのか、散歩仲間が通りすがる様子をまっているのか、心地よさそうにして視線を遠くにむけている姿は、姉である沽券をみせているようでもある。妹は急な階段が苦手で、毎度抱っこをして貰い帰宅するのだが、まだ孫の抱き具合を味わっていない初老の身として、なぜか納得の和みを感じる一瞬でもある。そんな小さな幸福感を満喫しながらの帰宅で、家族が観ていた介助犬の訓練の番組は、食事も手にできないくらいの夢中で画面を追いかけてしまった。車椅子の生活を余儀なくされている障害者の方々を、少しでも生活しやすいように介助をする目的に訓練された介助犬である。厳しい訓練だけに明け暮れる日々、訓練師とのマンツーマンでの特訓は、観る者愛犬家の甘やかしを吹き飛ばしてくれる。完全な管理生活の中で、厳しい連続する訓練では相当な疲労とストレスがあると思う。その辛さを耐えて訓練に磨きをかける健気さは、いまの人間社会に苦言を呈しているようでもある。我が家の愛犬が事務所を我が物顔で占拠する愚の骨頂は、介護権には全く許されることでない。今も絶対感で大いびきをかきながら寝込んでいる姉妹は、同じ犬族でも与えられた宿命でもって、介助犬の苦労を分かち合ってほしいと思ってしまう。それでも、こうした環境にさせた張本人が我が家の住人各人であるのだから、介助犬の御利巧さんから比べれば雲泥の差で納得をしてしまう。テレビが写す介護の訓練が、粛々と繰り返して障害者に尽す姿は、犬族としても愛犬家同志としても実に誇らしいもの。なにやら人間社会の縮図をみながら、自身の役割と愛犬との関係を考え直しできるかと考えたが、結果的にはペットであるのか家族の一員なのか、お互いが甘えある構図を納得している現実だけが、紙芝居を観た後の割りきりで、幕を閉じそうな雰囲気になっている。ひょっとして、介助犬は孤高にも誇り高くもって犬の模範を示しているのかもしれないのだ。人も犬もそれぞれに与えられた宿命をもって、誇り高く日々を生きていくことが最善なのかもしれない。
2012.06.21
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曇ってはいるが実に穏やかな元旦を迎えることができ、家族の平安と安寧を喜び、2012年壬辰平成24年の安泰な生活を願ってしまう。新聞等の干支の絵が、昇り龍を凛々しく表現させた見事な絵を掲載しているが、だれしもが納得できる生き様の日々を送りたいものだ。年末に読んだ松下幸之助翁の記事の中に、人は不運になっても不幸になってはいけないと、書かれていたことが強い印象で残っているが、事実まぎれもない至言だと思っている。元旦だからおめでたいことだけを記載すれば好いのだが、生きる厳しさがあり世の中の決まりごとに生かされる日々を、何としても天命の恩恵を受けながら、清らかに穏やかに対峙をしていくことを目指している。元旦のテレビ画面からは、お正月の縁起良い富士山の初日の出とか、各地の神社仏閣の初詣の様子が伝わってきているが、外見からは観ることができない、様々な願い事を真剣に参拝する姿は、人の持つ人間の素と器として窺え知れないものがある。元旦の新聞記事にあった、アメリカの作家であるドナルド・キーン博士が、日本人が持つ心の勁さを、日本人以上の繊細さで評価をしていたことが嬉しくなる。ドナルド・キーン博士は長年日本文化を研究されてきて、昨年の3月にあった東日本大震災に期を同じくして、長年の夢であった日本人となる帰化申請を決断された方だが、知る限りもっとも日本人らしい優雅な心をもった文化人である。日本人として生まれ育っても、なかなか奥深い日本文学は馴染みが無く、古典の書籍も縁遠い学生時代が悔やまれるが、キーン博士の能力の高さと熱心な研究心の情熱を喝采しなければいけない。国籍に関係なく、人の持つ感性と意識の高さが、どれほどの感嘆と感銘を得ることが出来ることを、キーン博士が教えてくれているようだし、奥深く理解をしようとする意慾こそが、人を凛々しく若々しくさせてくれるようでもある。文学とは縁遠い人間を自認しているが、文学に限らない異文化の理解は、その人を豊かな心にさせてくれるようだし、包容力をもった人間の温かさが、人までも豊かな心にさせてくれる。元旦早々に素晴らしいキーン博士の文章に出会えて、とっても嬉しくあり、人情を厚くもった人やロマンティストの勁さが如何に大切で価値があるかを、縁起良く教えてくれたお正月のスタートが出来たことが嬉しいく心丈夫である。毎日は様々な情景をもって対峙をさせてくれていることに、難ありて感謝をし、無難に大きな感謝をし、あくまでも勁い心をもって、前を向き歩むことが肝心であるようだ。
2012.01.01
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威風堂々とは言わないまでも、淡々と正々堂々の心構えをする人として、常に虚心坦懐に生きることを心掛けていきたいし、できるだけ不平不満を吐露しない生き様を学んだ。今年も大晦日を迎えて、ひたすら感謝の気持ちが大きく、様々な物事を経験することができたことが、とってもありがたいことであり、手を合わせて謝恩をするばかりである。お蔭様で、様々な方々からありがたい教示を頂いたし、身に余る厚情を受け取ることもできた一年でもあったし、特に世話になっている方々からの情愛は、嬉しくも自分への御加護のありがたさを身に感じてしまう。悩み苦しむことが多くあったが、すべてのことは自身の因果があってのことと自戒し、そうした自己管理もできる余裕ができた。因果応報の教えではないが、年齢に関係なく反省をする素直な気持ちが大事であるし、何かというと人のせいにすること、物の性にすることが往々にしうてあるのだが、ものごとの摂理を理解するべきである。善悪や正邪は何時の時代も環流しているし反復しているのだから、それが当たり前のことと真摯になって対峙していけば、この世の中は天上天下の流れを俯瞰することができるかもしれないし、素朴になって皆さんからの理解を得ることができるだろう。一年が過ぎ去る大晦日に思うことは、元旦を迎える新年は年齢を一歳加齢するし、67歳の新年の一年間を、先ずは何よりも健康第一、家族ともども家内平安を願いながら、どうしても難儀を乗り越えていく必然を実現させてみたい。勇気と忍耐力をもって、正直に親切に愉快にして、信念をもった日々を淡々として生きていくことこそ、我が人生の大道無難としたいものだ。刻一刻と新年に向ってカウントダウンがされているが、去る一年間に大きな感謝をして、迎える新年を元気に輝かしくできる頑張りを、しっかりと果たしていくことを誓ってしまう。一人だけの願いや希望でなくして、世の中の全てが希望に満ち溢れた明るさをもって、助け合い尽くしあえる思い遣りも、大切に心においていこうと思う。姉が亡くなってから、多くの方々からお悔みや慰めの声掛けをして頂いてきて、この年末と年始はお祝いが出来ないが、それだけに一層の心掛けをして、価値ある一年間を振り返り価値ある新年にしていかなければいけない。
2011.12.31
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何回も何回も繰り返して発信をしても、その度に不具合で配信できない旨の案愛メッセージが届いてしまう。メールアドレスを確認して、できることをしても、日を改めても同じ結果に気が滅入るのだが、執拗に繰り返して配信の作業をしている自分がいて、作業をしながらどうすれば良い結果がでるのか、無い知恵を巡らせてしまう。年明け早々に東京である研修セミナーの案内と、参加を問うメールを出して、参加の集計をしているのだが、10数名から返信されてくる内容で、その人が持つ個性が伝わってきて、人を俯瞰してみれる機会にもなっている。返信や応答が素早い人もいれば、遅々として反応が無く、待つ身である立場がとても不愉快に感じることになるのだが、気にするほど気分的な不快感が増してしまうもの。その人の考え方や価値観の差異があり、基本的な人様との礼節を理解するのであれば、配信がされたら適度な日で持って確実な返信をするべきであろう。問い合わせる内容の返信をすることで、自分の責任を果たすことができるし、その返答の内容でその人の持つ徳目が伝わってくるし、人間性の発揮のしどころでもあるから、たかだかメールの返信で解釈されたら軽薄だと思う。メールを受けとっても内容を把握しても、だんまりの無視をする根性が分からないし、その人の心魂にある性格が理解できないのだが、こうした悪癖を持つ人の中には、一見した外聞が良さそうな責任ある立場の人もいる。此方とすれば人格者であると評価をしている人からすれば、あまりにも大きな差異がショックであり、期待を裏切られた失望感が大きくなる。世の中で一応の評価を頂いている人であればあるほど、自覚する責任感は比例するだろうし、自覚をする必要があると信じてしまう。メールの返信一つをもって、その人となりを評価すること自体が稚拙であるかと、自問自答をしてしまうのだが、たしかに、人は人としてみれば、自分の生き様を確りと構築させて、人から懐疑心を持たれないようにすることが肝心なのかもしれない。人の振り見て我が身を正すこと、こうして吐露を書き込んでくると、改めて自身の生きる姿勢を正すことを、もっともっと厳しく見つめ直すことが肝心であると気づかされているようである。まだまだ幼い小心者な証拠であることを認識しながら、稚拙な文章を書きこんである自身に、もっともっと叱咤激励が必用でもあることも反省をしている。
2011.12.24
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4時間の経過とともに疲労感が強まり、身体が火照っていくのが分かり、おそらくは耳たぶが赤くなっているのかと思いながら、熱気をもった会議室の机にむかっていたのだが、対面する二人の担当者も、顔に赤味の熱を帯びている様子が分かった。机を挟んで座った三人が、お互いに向き合いながら試行錯誤の会議をしていたのだが、暖房の性ではなく身体の奥から方出する熱気が、真剣な思考のエネルギーとなっていたのだ。さすがに時間経過とともに、三人の疲労感がピークを迎えたようで、どうしても緊張感が途絶えることになり、会合の最後には目が虚ろな情況で終わることになった。長い年月の懸案する事項につき、三人よれば文殊の知恵になると信じて、いつも同じメンバーで討議をしているのだが、抱える課題が大きいのか、なかなか一気呵成の解決策がみつからなくて、いつも進捗悪く往生をしてしまう。こんな時に思うことがあって、人間の力量では図ることのできない天真があり、すべての決め事とは、天命の大きな力によって加減されているように思えてしまうのだ。順調な時の天真もあれば、不調の時の天真もあり、大自然界のさじ加減は魔力そのものである気がするし、他力本願だけでない天命の真実が宿っていることを理解する。宇宙大万物の中で生きる我々人間は、いかに謙虚になって人間性を磨きあげる心構えがあるかを、確りと見極められているようで、ひたすら大自然界から認知されるかの判断をされているように信じてしまう。どんな時にでも、その人が備える徳や人間性が価値を持つのであって、傲慢な人欲では信頼を得ることはできないし、お互いの徳を感化し合う豊かな心は生まれてこない。何時も良心をもって心穏やかな生き方があれば、きっとどんな困難なことにも、確りと対峙をすることができるし、天真が加護をしてくれると信じてしまう。三人よれば文殊の知恵の会合仲間も、打開策を試行錯誤する中で、いつも結論が同じような落としどころとなってしま事が不思議なほどである。物事は無理強いしないことを心掛けて、しっかりと落ち着きを払うことが、最善を迎え入れる最高の言行となるだろうし、ことをやたらと性急にしないことも大切な心構えとなる。達観してしまうと、あまり物事の差異に気を持たなくなって、俯瞰する大局的な判断ができることが嬉しくなり、難儀で苦しむことが無くなっている自分を知るのだが、物事の解決に向けての念力だけは、いつも新鮮で屈強になっている。奢ることなく、時流からの天真に素直な心構えをして、これからの天命を全霊で受け止めていこうと念じるし、文殊の知恵が大きな果実を産むことができることを、心強く静かに待ちたいものである。
2011.12.15
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最近撮影された、集合写真を見ながらショックを受けているのだが、撮影された自身の写真からは、自分の顔や仕草や内面の身上状況まで露呈させられるようである。我が身を露呈すれば、艱難辛苦の状況は10年近くも引きずって、家人や知人の応援を貰いながら頑張っているのだが、すべてに自己責任として覚悟をしてきたし、時々の最善な施策をしてきた心算であるが、強欲な内面は自己保持の虚勢を張っていた昔が見え隠れする。自分の雅量を過分なまでに評価をしてしまい、時代背景や世相の力から享受できたものを、すべてに自分自身の力量として納得していた時があり、まるで太っ腹な拝金亡者そのままであった。バブルが弾けて社会の構築が崩れたり、経験則がまったく役立たない社会を迎えてしまい、歴史の寄り戻しが読み切れない時代背景では、経営才覚がない者としては、不況の嵐の中ではうまい対処が出来ないまま過ごしている。そんな最中に2年ほど前のこと急逝心筋梗塞を患い、不安の日々を重ねていた心労が重なってか、健康維持のための減塩や体重維持の食事療法もあって、身体が小さくなってきていた。最高10キロも減量をしてしまうと、衣類もぶかぶか合わなくて尚更身体が貧弱になるのかもしれないが、それ以上に感じているのが、顔の相の豊かさがなく張りもなく貧弱であるし、身体から発散されるパワーも衰えてしまう。10名の仲間と揃って一列に並んだ姿から、他の元気な仲間と比べてしまい、写真のなかでも溌剌さが欠けているのが明白である自身の姿を観るのは寂しいものがある。かといって空威張りに虚栄をはっても意味が無く、あくまでも自然体のなかから人格が発揚されることが最善であり、内面にもつ品性とは極自然に滲み出るものだと信じてしまう。加齢からくる老いた人の体形も味わいがあるが、そこには内なるカリスマ的魅力を望んでしまうし、相応な品格を醸し出す自覚をもちたいものである。写真で観る我が姿を良き機会にして、常に意識を発揚させてみたいし、他人からも貧弱な老人をイメージさせることなく、溌剌さのある元気を伝えることが出来るように、気をつける意識をもってみたい。
2011.12.12
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昨日は、所属しているロータリークラブで、ロータリアンはもっと自己の人格形成に向けて研修をする必要があると、地区の委員会が主体になって研究会が開催されたのだが、力量不足であったが精一杯のお手伝いをしてきた。このお手伝いのメンバーに駆り出された理由とは、他地区で先行して開催している、研究会に出向いて勉強をしてきた経験をもって、仲間の地区委員の方が声掛けをしてくれ、デスカッション・リーダーの要請がされたのだ。まだまだ人前で、リーダーの役目を実践できる実力が無いことを、自分が一番良く知っているところだが、学んだことがどれほど自分に身についているのかどうか、その試に丁度良い機会と理解して参加をしたところである。簡単には、思うようにいかないものであり、自分なりのイメージどころか、グループ討議の進行だけに注意力が傾注してしまい、参加されたメンバーとの討議は上手く噛みあわなかった。与えられた一時間であったが、まったくもって初めてのことであり余裕もなく、他地区に行って受講した立場が逆転した経験をすると、相手のリーダーの立場を理解することができた。ともすると、リーダーの良し悪しを決めつけたり、安易な批評はできないことを、しっかりと認識させられた。この世の中では、常に相手が有って成り立つ日常生活があるのだが、すべてが自分の思惑通りにはいかないものであるし、自分が悦に入れられる気分の最高な情況は、なかなか滅多には体験することができないものである。昨日の研究会にしても、何度か受講をして経験をして準備をしたにも拘らず、リーダーの立場を思い遣る良心が欠如したことを反省する。交流する多数の相手がいることは、様々な個性と意思をもち人格を形成する他人を相手となると、同じ状況を体験していても、その体感と価値となると討議場面の結果想定はできないものである。参加してくれたメンバー一人一人は、意識の強さや、目的意識にむけた意欲が全く違うし、全ての人とが波長が合った良縁者ではないことを知るべきである。リーダーとして初体験をさせて貰えた経験を喜ぶべきで、研修の成果もあるが、それ以上に良き機会を得れた恵みに感謝をすべきなのだろう。ましては、研修の成否をメンバーの波長が合わないことの性にすることが、非常に情けなく思うし、たとえ相手に瑕疵があったとしても、リーダーとしての資質や学力を見据えていくべきだろうから、千差万別なメンバーが師の立場なのだろう。全てに起こる因果応報は自分のなかにあることを理解することを再認識でき、世間は師であり続けさせるも、すべてに自分の意識により決まるのであるから、積極的な自己研鑽に励んでいきたいものだ。
2011.12.11
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母親の4人の兄弟と4人の姉妹は、いろいろな個性をもった叔父叔母であり、物心がついたころから、違った個性の人々との交流を楽しみにするようになった。父方は叔父と叔母が一人ずついて、ごく近所で共棲していたから非常に淡白な、家族の一員として馴染みが深くあったが、母方の叔父叔母たちは、それぞれ市内の遠方に居を構えていた関係で、遠方からの来客として実に新鮮に迎えることができた。市内各所にいる親類のお蔭で地理勘が良くなって、子供の割には世間に明るいし、耳歳寄りのように話題が豊富であった記憶をもっている。時々に入れ替わり訪ねてくれる叔父叔母たちは、お正月を迎えるような新鮮さをもっていて、マンネリ化している我が家に新風や期待感を届けてくれるほど、子供にとってはサンタクロースの存在でもあった。大勢の叔父叔母は心の中では宝物の存在であり、個性をもった一人一人の来家が嬉しくて仕方なかったし、ましてや宿泊をしてくれている時には、学校からの帰宅も早くなり、小躍りして下校したほどであった。そんな思い出を作ってくれていた叔父叔母たちも、年々寿命がきて一人欠け二人欠けてしまい、今ではたった二人の叔母がいるだけであった、そのうちの一人の叔母が昨日亡くなったことが伝えられ、今朝ほどお参りさせて貰ったのだが、小さくなった亡骸は長い闘病の辛さを物語っているようで、思わず、叔母さんよく頑張ったと、声を掛けてあげながら身体に手を当てて伝えてあげた。今年は年明けと同時に同年代のハトコを見送り、夏には実姉を亡くし、つい先日には一つ年齢が下の従兄弟が急逝したばかりであり、若い者が天国に召されていくのも辛いものがあるのだが、子供の頃に大事な存在であった叔母との死別も物悲しいものである。叔父叔母たちが家に来てもらえるだけで、心ウキウキした子供心の純粋さを、初老の身にありながら改めて、心にするべき大切な要素であることを再認識してしまう。現代の子供達には親類の叔父や叔母たちから、こうした損得の無い純粋無垢な感動は得れる機会があるのだろうか、機会があったら聴いてみたいものである。天国に召された家族や親類縁者の皆さんが、きっと心強い応援をしていてくれるに違いなく、難儀な日々の頑張りを励みたいと思う。叔父や叔母の存在が少なくなってしまったが、せめても、素敵な叔父として慕われる存在として、今後の人生に正直な心をもって精進を心得ていきたい。
2011.12.09
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人間とは生かされているのですねーと、何度も電話で耳にする相手の方は、年齢が85歳になる先達の方で、毎日元気にコンサルタントの仕事をして、合間には庭木の手入れや父親譲りの俳句の投稿をしている。若いころと変わりがない、とっても張りのある声と滑舌が素晴らしく、ついつい愚痴で甘えてしまうほどお元気で、相手の先達を若い時そのままに語りあってしまうほどだ。きょうも仕事の確認の電話を入れて頂き、直面している難問題の進捗を聴いてもらったのだが、多くの方が関与している難問題の事情を理解してくれ、励ましのエールを沈着冷静にしてくれたのだ。人の能力や評価はどのようにするべきであろうか、時々やその環境によっても大きく違うのだし、時流のなかで捗られること事は、一時に安易に判断ではできないことになる。時代背景にもよるし、何よりもその人のもつ資質や品格から醸し出される運もあるだろうし、安易には人の評価はするべきではないと思っている。最近になってから毎朝誦句するのだが、その中の一つが、天を恨めず人を咎めずと言う言葉なのだが、この言葉とて若いころには思いもしなかったし全く無視をしていた意識である。年齢と共に経験をしなかったことが重なり、色々な環境を体験してから俯瞰できることができ、その見方や価値観にも、人となりの格幅ができてくるのだろう。つねに虚心坦懐になって、素直なこころでもって世の中に接すれば、人様に悪い印象をあたえないだろうし、すべてを受け入れる度量であれば、そもそも小心な人間関係を詮索することもなくなる。全てを受け入れる器量をもって、孤高にして、確りと自分を律することを心得ているし、損得でない善悪を考えられる人となりを身に着けていきたいものだ。そんな無欲な善人である方が、電話で話をした85歳になる先達なのだ。今迄も様々なことを学びさせて貰ってきたが、波乱万丈の不透明な今こそ、こうした善行を淡々と実行することを目指して生き、いずれは他人にも感化ができる自分でありたいものと願ってしまう。善人の価値を求めて努力をする姿が、神々しく存在価値を高めることを、一人静かに楽しみができた。
2011.12.08
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生きているなかでの人様や物事のご縁とは、まったく自分の意志ではどうすることもできなく、摩訶不思議な力量をもった世界の魔力に、不思議な思いを巡らすことが多々ある。何年間にもわたって、自己責任の負債をもった環境があるのだが、けじめの為に打開に向けての努力はしているものの、一気呵成の妙案が無くただ日々が過ぎ去ってしまう。今日は24節季の大雪だそうで、朝晩はめっきり冷え込んできたし、朝の灯明時の声明が吐く息が白くなってきたし、手足の先がしびれが日増しにきつくなってきた。毎朝には、仏壇に先祖代々の皆さんに供養の読経をし、自前の呪文を唱えているし、勿論のこと神棚にも同じように拝礼と呪文を唱えることにしている。読経は菩提寺から頂いた真言宗の妙本があり、自己流につっかえつっかえ声明しているが、毎日の健康状態によって、その時々のインスピレーションをもって、様々なスタイルの読経や呪文が唱えられている。ここ数年だが、こうした体験をしていると、時々の心理状態によって読経のスピードが変わり、発声の調子が違ったりして、ど素人なりに読経の苦労をしているところだ。どれほどの効果が有るかよりは、つねに)冷静さをもって、素直な心を誠心誠意表現させて、自分自身に認識を高めることが大切だと認識し、読経を自己修業と心得てしまう。艱難辛苦の現状から逃避をするのではなく、一層の重き責任を感じ取らなくてはいけないし、その果たせる役目を真摯に夢中で捗らせたいと覚悟をしている。よく、世の中の性や人の性にする人が多いのだが、そんな人に出会う時には、一日も早く進化した自責を果たせる、自分自身を形成しなさいとアドバイスをしたくなる。反省することは、今でこそこうした心境になれたが、若い時からを振り返れば尚更のこと、自我の欲を強くだしていきり立っていた若造の頃があったからだ。物事がうまく動いている時は怖いものがなく、まるで自分がスーパーマンと錯覚してしまう愚かな人になるのだが、この反動の大きさで目を覚ますこととなる。そんな懺悔をするために、毎朝の読経と呪文となっていて、神棚への柏手とを欠かさずにおこなっていることが嬉しく、なぜか自信をもって誇らしくもなるのだ。こんな厳しい環境にあっても、毎日健康に家族ともども食卓を囲めることが、何よりの家宝となっているし、大きな支えになっている現状に、素直に喜ぶことにしている。自然法爾をこころにさせて、いつも明るく朗らかに精神の統一を専念させて、他力本願でない自責をもてる人間として、しっかりと自己形成させていこうと念じている。そのために神仏への祈願は貴重な学びの場とさせるべく、敬天愛人をおおいなる崇敬とさせることを、心の支えにできる幸せ感を享受している。
2011.12.07
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なにかと母親にすがり頼っていた幼稚園児のように、幼い子供心に還ってしまったようで、日常の生活空間において、ふと母親の存在が幻想されてしまい、現実の中に覚醒のように両親や姉の存在が強く感じることが多くなってきた。今でこそ、一家の大黒柱であるべき自身の立場だが、すっかり自信喪失にさせるに相応しいほど、幻想的に思い起こさせる、母親と姉の存在に依存をしている姿がある。なんとも情けなく、なんとも不甲斐なき反省の自己弁論にせざるを得ない時がままあって、滅入る気分に追い打ちをかけてしまっている。がむしゃらな働き者で子供思いの母親であったし、愚弟思いの姉であった母娘二人は、肉親を超越した人間的な大きな度量をもった人であった。育児とは母親であれば当り前なのかもしれないし、10歳年上の姉であれば当然であったかもしれないが、姉弟の年齢差が違いすぎると、まるで二人の母親に育てられてきたのかもしれないと思えることは、本人たちもそうした意識を持っていたと思えるのだ。古びた家屋の隙間風のように、薄暗い何度の中のように、子供の時味わった昔の郷愁がまるでそのままに覚醒されてくることは、還暦をはるかに超えて古希を迎える大の男が味わうことなのか戸惑うのである。いまだ親離れがされていない、幼い精神状態に加えてとんだ幻想を味わっていることは、自分の意志に関係ない何か自然界の力が作用している気がしてしまう。他人のせいにするのでなく、幼稚な発想をするのでもなく、現実にある大きな影響をおよぼす、非科学的な別世界との交流がされているとしたら、どんなにか現実的な解釈ができることだろうか。全てが解決されることばかりでなく、非日常のなかでの作用はきっとあるに違いないし、だからこそ未知の宇宙が存在していると思ってしまうのである。それが神仏の世界かも知れなく、深い知識もない何となくの曖昧な思いの中から、今回の幻想が感じ取れるのかもしれないけど、きっと天国からの愛する父母や姉の激励が真実の応えであると信じてしまう。全てに虚栄をすてて、しっかりと甘えることに納得した老いた自分とは、所詮は甘えん坊のままであることを誇ることにした。父親も母親も姉の魂は、いつも一緒にいてくれることを信じていることを、改めて確認できたことが覚醒のように気づかされているのだろう。
2011.12.05
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電力の節電協力だけではなく、我が事業所の経済情勢も合致して、できるだけ脱エアコンの生活をしているのだが、プレハブ建ての二階にある事務所の室温がうなぎ上りになっている。室温系のデジタル数字が35度になっていて、まるでサウナ風呂に入っている気分だし、事務仕事をするには不向きで、二の腕の汗が書類にくっついてしまい、効率が悪いことこの上ない状況である。流石にエアコンの威力は凄くて、室温のピーク時には威力を発揮してもらうのだが、室外機の騒音が気になってしまうのだ。たまたま稼働している時に室外機の傍にいると、モーターの騒音と比例して温風が勢い良く排気される温風に嫌悪感があって、この機械の廃棄温度が総じて、地球温暖化の一因になっていることが如実に分かってしまう。ぎっしり並ぶ街並みの中で、各家庭からエアコンの排出熱の弊害は、きっと車の排気ガスン熱と同じくらいの温度上昇に起因する諸問題を源泉させている気がする。
2011.07.11
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仲間意識があってのことかわからないが、皆さんがありきたりに周りを気にしながら、少しばかり他人行儀な余所余所しさをみせて、人の出入りをじっくりと目で追っている様子が窺えた。朝から連日の猛暑であるなか義母がリハビリでお世話になっている施設に行って、屋外で行われた焼き鳥祭りに参加をすることができた。施設を利用するご家族の皆さんが集まり、リハビリを促進させるために家族との定期的な懇親会なのだが、家族が揃って食事を共にしての一時は和やかであり、障害の程度によって違いはあれど家族愛が髣髴していた。なによりもリハビリを受けている利用者が、安堵をした笑顔をもって食事をしたり、家族とのコミュニケーションを図っている姿があちこちにあり、施設側のスタッフもなにやら和やか笑顔をもって、細やかに対処をしている姿が散見していた。義母も猛暑の中で体力を消耗したと心配をしたのだが、元気に焼き鳥を口にしてくれて、露店の香ばしい臭いが食欲をそそって、楽しい一時を家族ともども体感できることが嬉しかった。怪我を元にした体力回復にリハビリをしている義母も、何よりも元気でいてくれることが安心するし、子供たちの献身的な介護によって、幸せな環境であることを実感していることを窺ってしまう。余りにも凄すぎる炎天下では、半袖から出た腕がひりひりしてしまい、結局のところ1時間は炎天の下では和むことが出来なく、早々に部屋の中に退避をしたほどである。帰路に立ち寄った山下清画伯展だが、展示会最終日とあって物凄い人出があり、入館するまでが大変な努力を必要とするくらいで、西日が強く差し込む炎天下に人も車も渋滞する現状があった。一緒した家内は先に降車して一足先に展示を楽しみ、追いかけて駐車スペースが空いた順番を待って入館することができたのだが、最終日とあって熱心に閲覧する方々が、目を輝かさせていた。老若男女が長蛇の列を作って作品に見とれていたのだが、外気の炎天下の待ち具合が考えられないほど、静寂に礼儀よく順番を待って並ぶ姿が気持ちよく感じてしまった。日曜にとあって家族ずれも多く見受けられて、親子で感想を述べあう姿が微笑ましく、美術館の品格が照明を下げた会場に一層の価値を高めてくれていた。人に譲る精神が髣髴として感じられて、居心地の良い空間に自己陶酔をしてしまったのだが、人間が持つ豊かな心を共鳴することが出来た空間であり、厳しい暑さの中で一服の清涼剤になってくれた。義母が世話になっている施設でも、美術館でも、お互いを思いやり譲り合える心を持った方々が大勢いてくれることが嬉しく安心でき、非常に爽やかな気分になって満足できたことに感謝をしている。
2011.07.10
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人様々な人間模様があってこそ世の中の醍醐味が表現させられる、すべての人が全く同じでは無味乾燥で面白味がなくなること請け合いだ。意見百出して侃々諤々の討議も面白いし、気の合う仲間とのバカ話も味わいがあるし、時々に巡りあえる色々な方との交流が幅広くできる環境を持っていたいと、つねに願ってしまうこのごろでもある。理路整然に語る人もいればとつとつと話をする人もいて様々だが、なによりも謙虚で誠実な人柄が優先されるし、聴く側の心の安心は言葉によって癒されてくる。ブランドの持ち物を限定する人もいれば、ごく普通の市販品をさり気無く身に着けて、それでいてブランドイメージ以上の品格を醸し出してくれる方もいる。先日のこと新しい事業を立ち上げるについて、請け負う約束をしている建設業者が曰く、何時お会いしても着こなしが素晴らしいですと、柄にも似合わないことを言われてしまい、一瞬自分のことかと耳を疑ったことがあった。ここ数年は新しいスーツを始めすべての衣類を購入していなく、時代掛った時代物を身に着けているのだし、ましてや、病気をしてからは激痩せををした関係で、着るものが身体にフィットしなくて困るのである。大昔の痩せた時に購入した古着を身に着けると、サイズ的には丁度良いのだが、上下のスタイルが大昔のスタイル絵を髣髴させる古風なスタイルである。人は形でなく心であることを信じて、できるだけ質素な中にも心配りや思い遣りを専念させていき、自分の人間形成を光り輝かせたいものだ。誰でも目にすることができる外見ではなくて、知るほどに交流が深まるほどにその人の人間性が理解でき、相互に研鑽ができる関係になりたいものである。その人の表現手法の一つとして、発する言葉の一つ一つを大切にして、心と連動させた自身の品格を構築させたいものである。先ずは人の話を聴くこと、意見を確りと伝達させることができる人、平等に意見交流に専念させることが出来る人、真面目になれる人、誠心誠意を心掛けることが出来る人を願うのだが、欲張りでなく本気の願いであることを忘れないようにしたい。
2011.07.09
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アメリカNASAのスペースシャトルが退役して、今後は民間企業の開発したロケットと宇宙船を活用して、宇宙開発の大役を担っていくことが報道されている。最後のスペースシャトルが間もなく発射されるが、これまでの開発や宇宙実験では、数々の成果が生まれてきているし、何よりも宇宙開発に参加する各国のプロジェクトが大きな成果をだしていて、研究の成果が生かされることを期待してしまう。すっかりお馴染みになったシャトルの発射や着陸状況の模様は、当たり前のこととなってしまっていたが、複雑なミッションを組み込み過ぎた結果が、打ち上げ費用を高騰化させてしまい、世界的な経済不安の社会になって経費が負担になっているとのこと。ロシアはソビエト連邦時代から、至ってシンプルな打ち上げ回収がされてきたが、素人目にもアメリカのスペースシャトルが遥かに技術的な能力が優勢であると信じていたら、結果的にアメリカがロシア式を継承する模様だ。勿論サル真似でなく、究極的に合理化と経費の削減を追求した最新型として開発されて、米ロの単純型ロケット打ち上げの興味が湧いてきた。車で表現をすると高級サロンバスが軽自動車になった感じがするのだが、人や物を運ぶ手段になっていることが大切なことであり、過剰コストの削減を目的としては、シンプルイズベストなのかもしれない。我々の日常も同じことが言えるかもしれなく、日々の生活からは過剰な物が多くあり過ぎる環境になって、無駄が多くある生活になり、物が豊富にあることが帰って負担になっている現状があるようだ。無駄を省くこととは簡単に思い言及できるのだが、果たして実践させるにはとんでもなく必要になる決断力や実行力が伴うことがあり、思うほど簡単にはいかない現実となっている。事業も同じことが言えて、万年惰性的に継承されていることに傾注するのだが、見直しが必要な時にでも英断ができないのでは、負債を背負ってしまいがちだし、何年も同じことの繰り返しでは最悪、破産や倒産の憂き目を負うことになる。日常的にただ流されるのではなく、意識の改革の見極めを磨き、感性の向上を図るのであれば、虚心坦懐の心の自由度と偏見をもつことなく、ひたすら向上心を燃やすことが出来る精神力を身に着けたい。正邪の両面を併せ持つ我々の属人がもつ意識とは、とかく邪の毒された生温さに溺れてしまいがちだが、深い見識を持つことにより欲望の亡者から隔離して、広く深く見識を広めることが出来る胆力を身に納めることになるかもしれない。惰性的な日を送るのではなく、改革改善を常に念頭に入れて生活して、誰よりも人様や世の中の為に成果が得れる価値観を持ちたいものである。そのためにもある種の逆転の発想が一層の結果を生むことになり、結果として社会貢献が発揮されることになると信じてしまう。大震災後の世の中の流れが、節電や倹約の意識にスイッチが切り替えられている現実を、もっと本気に受け止めて判断し実践をする必要がある。
2011.07.08
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年に一度のデートを天の川両端にあるかささぎの橋で行う、織女の織姫と牽牛の彦星物語は、年代に関係なく語り続けられている七夕の日として夢とロマンの協演を意識させるが、ギリシャ神話とする起源とか中国の伝説だとする諸説があるらしい。古来日本本来の物語と一心に信じ込んでいた浅はかさが悲しくなるし、根っからの勉強嫌いの学生時代の弊害が一気に噴出しているようで、今更に大きな反省をしているところだ。天の川は生憎の曇天で観ることはできないが、天空に輝くキラ星のロマンスは、老若男女に関係なく天空の星雲は人それぞれに感受性を高くして、各地にあるプラネタリュームは人気のスポットになっているようだ。天の川を挟んで住む、織姫と彦星を年に一度合わせてあげる約束を取り交わした天神の策が、短冊に願い事を書いて笹の葉に下げて、願い事の成就を祈念する伝説は、その人を思い遣る精神の伝播にしてもらいたい。何事も数字や実績だけに集約する経済市場原理主義の無機質さでなく、多少は無駄な時間を味わいながら、その失敗した体感から学びとる教訓が意味あることであり、教科書の学びだけが勉強ではない。教室内の授業も大いに重要なことで学ぶ姿勢や熱意を身に着けて、室外においては血の通った人との交流の中で、お互いを思いやり助け合う優しい心の育成を、励んでいくことが大切に思う。一年に一度の再会が約束される環境を持つ七夕が、天の川を挟んだロマンの伝承で終わらせることなく、もっと現実の話題も含めて、家庭の中で語り合う時間を設けて欲しく思う。大震災後に家族や身内や近所の方々との絆の大切さを再認識されたり、人の大切さを知る好い機会になったことが、人は一人では生きていけないと言うことであるし、もっともっと謙虚な人生を構築しなければいけない。とかく自分勝手な自意識過剰な世の中の風潮になっているが、自分の立ち位置を確りと認識させて、毎日流されていく人生に、自己の責任をもてる克己心を養いたいし、感謝と報恩の真心は必然の要素でもある。遥か昔からの伝説が伝承されているということは、人の心が同じ波長をもって大切に真心にしているからだと思うし、一年に一度だけでなく、生活する中では毎日のように人間社会の認識をしていくことが肝要だと思う。人の心がお互いに同じ認識として思い遣れる涵養さを計れるほどに、自問自答できる心の余裕とさせてみたいし、心の中にはいつも天の川がキラキラ輝かさせてみたいものである。
2011.07.07
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事務所から自宅に戻って夕食やお風呂を済ませてから、家族が就寝してからはテレビチャンネルを握りしめながら、各局チャンネルを渡り歩きながら、好みの番組を探し出している毎晩の生活がされている。最近は厳しい暑さが深夜にも残り、エアコンを切った部屋は網戸を大きく開き、時々吹きこむ少しだけ過ごし易い風を感じるのだが、エアコンや扇風機の冷風が欲しいくらいの熱帯夜の連日となっているが、深夜に就寝する頃には寝苦しくはない。それでも一緒にダイニングに付き合ってくれている愛犬二匹は、お腹を出し仰向けになったままびくともしなく、じっと暑さをこらえている様子が窺えて、エアコンの入った時の昼間にぐっすりと寝入る姿が羨ましい。風呂上りには冬用ジャージーのパジャマを着ているのだが、外気や室内の温度が高くても、寝入った時の寝冷えを考慮すれば丁度良くて、深夜のダイニングに愛犬二匹と共に、パジャマ姿で気に入ったテレビ番組を探すこともある。夏に向けてこれから深夜の過ごし易い方法として、何年か前から慣習化していることがあって、ラヂオ深夜便の番組がNHKから放送されているが、過去にも何度か過ごし易い間は毎日のようにラヂオをBGMにさせて楽しんでいた。担当するアナウンサーが曜日で決まっているのだが、現役から退かれた方が多く懐かしい声を聴くことが出来るし、とんでもなく驚きの思いがけないアナウンサーの方とも接することができる。その中のお一人に遠藤ふき子さんがいて、遥か昔のテレビ番組でも活躍をされた方ですから、その語りからは非常に懐かしくも、心豊かな時間を楽しませてもらえることがある。遠藤ふき子さんは神奈川県にあるロータリー・クラブのメンバーであり、数年前に偶然にも例会場でご一緒出来ご挨拶することができたのだが、お声は昔のままにつやっぽいお元気な声であった。今夜の番組にはミッドナイト東京と言うコーナーがあって、対談の相手が加山雄三さんで、その対談に引きこまれてしまい就寝時間がずれ込んでしまった。テレビ放送とは全く違う、ラヂィオは人の本質が伝わってくるのは何故だろうか、声を聴き入る感性がそうさせるのか、聴く側の意識にも因ることが大きいと思うし、声だけを聴き入る創造性や理解性が深まってくれると思う。華やかな舞台生活だけがトピック的に報道されて、ファンとすれば一方通行の思い違いをすることが多々あるのだが、加山雄三さんご本人の人間性が伝わってきて、さらには聴く側としてイマジネーションを高める聴き側の空気が好きである。人知れないご苦労を孤独に耐えてきている人生を振り返ってくれたが、ラヂオだからこそ聴き取れる言葉であったのかも知れないし、深夜の時間帯だからこそ感情を豊かにして受け止めることが出来たのかもしれない。テレビでは味わうことが出来ない、語りの間合いが理解できるし、一人だけで静かに聞き入る環境が、学び取る意識を猛烈に高めてくれているようだ。外気の温度に関係なく、深夜と言う時間帯が人の感性を素直にさせて、修行僧のような修練が似合う場になっていることに満足をしていることが、唯一の宝物として楽しんでいる昨今である。
2011.07.06
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暇なときにはまったく暇な時間があること、忙しい時には追いかけてくる用事が重なることとなり一層多忙になること、こんな経験は何度となくあるし、人生の縮図を感じてしまう。繁忙と閑散、上手く交互にやってきてほしいものだが、誰に聞いてもほとんどの人は異口同音に、繁閑をバランスよく経験をしたいものだし、気分よく時間を過ごせる環境を望んでいる。朝から厳しい暑さとなってしまい、庭木の散水を早朝にするほどであったが、半袖のシャツからでている腕には、光り輝く太陽光線が照りつけて、ひりひりと痛いくらいに感じてしまった。朝食も摂らずに事務所に閉じ籠って、明日に決まっている大事な用件の準備をしていたら、ロータリー・クラブの例会に行く時間となってしまい、慌ててカバンを下げてJRの駅に向かったが、昼前から日差しは厳しかった。7月に入って初めての例会となる日、今日の日を迎える新しい会長と幹事の心境は、皆さん緊張をして一種異様な雰囲気の例会を体験されて、気付かれの最高になっている様子が窺えて、凛とした例会場の雰囲気が心地よく受け止められた。関係する他クラブの会長幹事の皆さんも大勢表敬に来会されて、いつもの例会場にあるパーテーションを開放させて、賑やかな中にも煌びやかさが広まった。初めて開会の点鐘をする新会長も、晴れ晴れした笑顔をもって一年間の抱負を語ってくれたし、新しく任命された委員会の役割を、それぞれがぎこちなくも新鮮に対応をされていることが嬉しく見て取れた。衰退したロータリー活動と言われて久しく、新年度を迎えるたびに、国際ロータリーは新しいテーマや活動に傾注できるスローガンや組織の改善を提案してきたが、会員増強拡大一本やり時代の弊害があるし、時代の流れの環境変化は自流として受け止めることしかないようだ。其々のクラブはその創設に至っての歴史を積み重ねていることを、改めて大切に理解をして、振出しに戻る英断を持ちながら、ロータリーの本質を学びとり自分の人格を向上させる心構えをもって、何でもフランクに語り合えるクラブ例会が肝要に思うのだ。小手先的な手法ではなく、入会の履歴に関係なく目線を同じくさせて、人の語りをじっくりと聴き合う空間をもって、定期的な例会ごとに地道になってコミュニケーションをはたすことが、何よりのクラブ活性に結びついていく気がする。其々が一業の責任者であるし実績を誇っているプライドを持つ人ならば、自分自身が一番だと錯覚するほど優秀な経営能力を持った方々なのだが、人としての品格をもって、人様の為になれる人格者の陰徳を積める人を自覚していく努力も必要だと思う。毎週のクラブ例会が、人生の修業の場であることの源流に、少しでも遡っていき、ロータリーの歴史やり理念や本質のおさらいをするべき時として、孤高になってひとり静かに念じてしまうのだ。会員の皆さんが超多忙なお昼時間に集まって、貴重な例会時間をどの様に評価をして有益にさせるかは、その人の意識の持ち方に寄ってしまうが、意識をもつことの有意義さを知って、多忙な時こそ例会の有意義さを見出すことにしたい。一時間の例会時間が感動の体験や至言に溢れていたら、もっともっと多くの方が参加してくれることだろうし、活性化が近々に実現されることを念じている。とかく忙しい日々だからこそ、自分の背中が人様に良い影響を与えることができる、そんな背中に自信をもてる品性と人格を構築させるための修業を積み重ねて、仲間との交流に華を咲かせていこうと念じてしまう。
2011.07.05
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パソコンから自由な時間に気に行った品物が買えたり、仲間との交流をしたり、時間が足りないくらいに調べ物をしてみたり、好きな文章を書き込んでみたり、ある種の中毒めいたパソコンの依存度が増えている。一日の時間ではとても足りないので、毎日深夜までパソコンを膝に乗せて叩いているのだが、疲労度によって体調が不機嫌になると、足が浮腫んでしまうのが気になる。自分の足でないような赤ちゃんのふっくらアンヨにそっくりで、時分の手で確認をすると、押したところが凹んだままになって戻らない。12年前に亡くなった親父さんが、病院で医師に相談をしていた症状とそっくりで、すっかり親父さんの老後を追っかけているように感じてしまう最近になっている。ここのところ3台のパソコンの片隅に、ウイルス駆除のソフト契約の更新案内が、ひっきりなしに小さな案内版を掲示させて、事あるごとに気になって仕方なく、倅に更新について相談をしていた。契約更新は7月末とあり気にもしていなかったのだけれど、期限の日が無くなってくると慌てる悪癖を持っているために、もうそろそろ本気になって処理をしようとスイッチを入れてみたのだが、ネット上での更新が煩わしくなってきた。なにしろ定期的に案内が掲示されるのだがから、気になることこの上なく、加えて期限が切れることが注意力の散漫になってしまい、早くに決着を付けなければと思いつついたのだが、夕刻になってソフトの会社に電話をしてみた。ウイルスソフト導入の時であった三年前には真剣になって、夢中で取り組んだ記憶だけが残っていて、具体的にどのように対処をすればいいのか、頭の中には記憶が全く残っていない。当時の契約ではパソコン一台につきウイルス駆除ソフトの契約がされて、台数分のコストが当り前であったし、申し込み方法も比較的安易にできたものだ。最近になって知人から教えてもらったことが、ウイルス駆除ソフトは一台分が契約になって、三台までは駆除ソフトを導入できるように、サービスが向上していることを、知らされていた。そこでネットよりは駆除ソフト会社のサポートに電話をして、30分に4及んでの教示をうけることとなり、メモを書き込みながらの悪戦苦闘をしたのだが、メモがメモの役を果たさないくらいの書き込みとなってしまった。結論的には三台分の駆除ソフトを契約更新する必要が無くなっていて、一台分だけの更新手続きをして、あとは枝番号を付けて三台分が駆除ソフトを活用することができることとなった。契約満期まで暫く時間があるから余裕をもっているのだが、今日教えてもらった更新マニュワルが忘れてしまう事になることが懸念されるのだが、電話口で優しく教えてくれた担当者の方が、遠慮なく電話を掛けてきてくださいと言ってくれた。何回も何回も繰り返して質問をした結果が、長時間の電話になってしまい、20秒10円の課金があることを思いだし、会社のサポートも有料になっている時代を知らされたし、今度はメモを書き置いて、系統的に要領よく教えて貰おうと思ってしまった。
2011.07.04
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家族が皆いい大人である夫婦長男長女の一家4人の家で、時として平穏な家族の一時があり、時として自己主張を言い合ってみたり、日々の健康状態や気の持ち方によっては、思うように平穏安寧な家庭環境が構築されなくなる。40年も一緒に夫婦生活を送っていても、常に意見の相違があったり、何ともない一件が根深い昔話を掘りくじだされてしまい、藪から棒の体で降参するケースとなる。上さんと言い争ったりしても勝ち目はなく、お上の僕として同じ屋根の下で生きざるを得ない御身を、いつもいつも頭の中で計算をしてしまうのだが、それでも感情のままに、あるいは主人の立場として意固地になってしまうもの。我が家のお上はトラ年の生誕で、俗にいう気が強き女性として家内中を護ってきてくれたし、二人の子供を育て上げてくれた良妻賢母でもあるから、心の底から尊敬をしている。一緒になってくれたころから、病床にあり自宅介護を受けていた母親の身に沿って、新婚から2年間は献身的な介護をしながら、子育てや留守居をしてくれた。こんな現状があったからこそ、できるだけお上孝行を心掛けてきたし、外出の予定に合わせて同伴の行動をとることにして、少しでも理解し合える僕の夫をしてきたのである。母親の介護をしてくれたことは今でも感謝をしているし、30年も前のことでも当時のお袋さんの寝たきり状態での介護の真心は、家族一体になっての昼夜の献身があった。深夜に呼び起されることも間々あり、家族が一生懸命に手助けしていた姿に、身内の親類からは、今でも当時の様子を労ってくれるのだが、家族からすればお袋を介護することが当り前であり、極自然なこういでもあったのだ。そんな介護の一助に新しく家族になったばかりの若奥さんが、積極的に家族の一員として手伝ってくれたことには、心からの感謝をしている。そんなこんなの家族も、お袋さんが亡くなり10年後には父親も亡くなり、今ではすっかり家の主として安堵すべき努力奮闘中であるのだが、年齢が重なってくると致し方ない不平や不満の遠慮の一線がきれてしまい、勝手な主義主張を言い出してしまう事が多い。平穏な日常が当り前だし、職住が離れている一般的な家庭からすれば、職住が一体しているから、それだけ一緒する時間が多くある現実がある。したがって、老いた夫婦が交わす言葉も多く、意外にも安易な言い争いは無く、自分でもある程度の平穏な環境構築に長けていると信じてしまう一面もある。一家の長であるべき主人の頼りない現状をみて、時にはお上さんが角を出してくれ、頬を一層膨らませてくれることが気になるのだが、ここ二日ばかりがご機嫌斜めにしてくれて、どうしたらコントロールが利いてくれるかを考える日となった。以前からの約束とかでお昼前から夕刻まで出かけたお上さんが、帰宅早々にご機嫌が直されていて、今朝までの不機嫌が無くなっていることが、素直に嬉しく受け止めた。夫唱婦随と言うよりは婦唱夫隋の我が家の夫婦関係が事実になっていることが、世間から観られている事よりも、家庭内で活き活きと健康的に快活されることを念じて、益々お上さんの立場に寄り添っていこうと思う。一日も早く肉体的にも精神的にも安堵ができるお上さんを願い、夫の役目は佳境に入る為の働きをしていく気概があるのだ。
2011.07.03
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アメリカ大リーグの名門であるロサンジェルス・ドジャースは、つい最近に経営破綻から倒産だと言うニュースが流れているが、にわかに信じがたいしよほどの事情があるのだろうか。最近日本人がMLBアメリカ大リーグに入団して、活躍している選手の数は10名を超えているのだろうが、イチローも松井も年齢からくる衰えもあるのか、一時の輝かしい活躍が懐かしいほど沈滞している気がする。スピードとパワーが売り物のMLBの試合中継をテレビで観ていても、立派な立体的なスタジアムが満員になっている試合が無く、大リーガーの破格の高給は何処から生まれるのだろうか不思議な一つに思っていた。聴くところによれば、球団も複合的な多角経営を積極的に行っているそうで、球団のオーナーも資金繰りが結構大変な様子が窺える。オーナー夫婦の経営手腕の違いや離婚裁判費用も球団が負担するくらいに、キャッシュフローがタイトに不足している現状もあり、現投手の黒田選手や、遥か昔に退団した現西武の投手である石井選手も、球団からの未収金が数億単位で債権として持っているようだ。一見華やかな歴史ある大リーグ社会でも、お家の事情があるようで、経営オーナーの理念や姿勢が大きく反映しているのだろうし、試合の成績が経営状況と比例するのだろうか、数多くある球団の個性はわからない。イチローや松井または松坂が所属するチームの事情は分かるはずもないが、今回の情報はオーナー夫妻のプライベートの問題が大きく報道されたお蔭で、図らずも球団の経営内情を知ることになった。日本のプロ野球球団も同じような状況を懸念するのだが、最近の野球ゲームをテレビ観戦していると、パシフィック・リーグの試合がエキサイトしていて、一昔前の巨人軍と阪神戦に似ているように思える。好きなプロ野球が健全な経営をもって、末永い発展をして貰いたいし、若く魅力ある選手が活躍してくれることを期待してしまう。日本のプロ野球でも数億円プレーヤーが沢山いることで、経営逼迫が心配されるのだが、恐らくは急激な給与の支払いは無くなることだろうし、活躍する選手とそうでない選手の格差が益々広がることだと思う。大リーグではメージャーの傘下に5球団くらいの予備軍があるらしいが、日本でも2軍や3軍があるし、その育成投資費用も馬鹿にならないだろうから、球団のスポンサー会社がある程度の補填をしていることは、以前からの公言となっている。ほかにあるサッカーやバスケットボールのプロスポーツ集団も、飛び切り経営が楽ではないだろうから、スポーツ少年たちに夢を提供する社会的役目をもって、健全な経営ができることを願ってしまう。華やかなプロスポーツ集団が、世の中の牽引を果たしてくれて、プロ選手が希望の星となってくれることを、立派な経営から社会にアピールをして、社会貢献を果たして貰いたい。人件費に過大な投資を掛けるプロ集団の勢いを心から期待するし、多くの人々の期待を果たしてくれる魅力あるスポーツ振興を広めてほしいためにも、選手以上に一層のファン愛護と感謝と工夫に重きを願いたいと思う。
2011.07.02
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夕立と神立は同義語なのだろうか、今の時節午後になると急に雨模様になって、暫くの時間に雷雨が激しく降り止まないことがある。今日から七月に入ったのだが、昨日に引き続いて雷雨に見舞われて、一時の集中的な豪雨には驚かされてしまい、雨宿りに観る道路には、流れる雨の川が勢いよく流れている。昨夕にあった雷雨は午後4時過ぎで、事務所で来客と難しい会合を持っていたためか、さほど気にすることなく居れたのだが、いざ見送りの時になって驚いたことが、土砂降りの雨模様になっていたのだ。客人も事務所の玄関で躊躇をするくらいで、傘の役が果たせない様な始末であったが、雷雨は降る時も止む時もさっとしてくれるから、雨雲の切れるのも比較的早い。まるで判を押したようにして二日続けて同じ時間帯に雷雨となり、今日は出先での車の乗り降り時に土砂降りの中となってしまい、頭からびしょびしょに濡れてしまった。今は全く無縁だと思うのが、家族を駅まで予備傘をもって迎えに来てくれることが当り前で、そうあっても車で迎えを頼んでしまう世の中だから、こうした時に思い出すくらいであるのだが、子供のころは母親が迎えに来てくれたものである。小学校時代は学校まで傘を届けに来てくれる親御さんが行列して、帰宅時には親子の傘が開いて、狭い通学路がお祭りのように人出で賑わっていたもので、特段のコミニティー施設もないころだから、絶好の母親たちの息抜きの場になっていたようだ。高学年になっても電車通学時にはJR駅に傘を届けに来てくれたのだが、携帯電話が無い時代で今から思うと不思議なのだが、到着する時間を打ち合わせしなくても、電車を降車して改札口に母親が居てくれたことが不思議でもある。中学とか高校の時であったのだが、父親が事業をしていて、働き盛りの時代だから市内中を掛け釣りまわっていて、たまたまバス停とかで出くわすと、仲間の何人かを送ってくれて、まだ車社会になる前の世の中、仲間が車での送迎に感嘆をしてくれたものだ。父親が言うに、神立だ神立と夏の雷雨を呼び、酷い時には庭が池になり床下浸水は当り前の時代で、長靴をはいて池になった庭で小魚をすくっていたものだ。いまほど生活インフラが整備していない時代で、大きな雨が降れば庭が池になることが理解でき、特段に市役所に苦情を入れる発想もなく、ひたすら雨がやみ水が引く時を待つことが当時の生活定式であった。神立とは雷のことを言うそうで、夕立とはしっかりと意味を違えているところが、農作物を栽培する農家が、恵みの雨として大切に扱っていた名残からであるらしい。適度な雨が降ってくれることは、樹木のためにも自然界の保持のためにも必要で、電力不足でなくても、夕涼みにはうってつけの雷雨でもある。天恵の雨も被害がなく適度な降雨をお願いしたいものだし、神立の言語を復活させてエアコンに頼らない自然の恩恵を満喫してみたいものである。都市の上下水のインフラが整備されて、街の川が溢れて住宅街に池を作るほどの豪雨は無くなったが、水遊びを楽しむ心の余裕を忘れてしまっているようだし、せせこましい世の華ではその時間さえないのかもしれない。この時期だからこそ神立の語彙を広めたいし、家族の為に傘を持って駅に届ける情緒も呼び戻したいし、雨宿りをしている人への心遣いも発揮させてみたい、面倒をかけた子供のころの気概が蘇ってきた。
2011.07.01
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夕飯の後にパソコンをいじっていると電話があり、台湾の仲良しからで、37度Cの蒸し暑さの中でゴルフを楽しんでいるとのこと。恐らくは早朝のゴルフを楽しんでいるのだと思うのだが、とにかく亜熱帯でのゴルフは酷であるし、日本のようには生真面目プレーにならなくて、適当にずぼらをしながら、ワイワイガヤガヤお祭り気分で楽しんでいる。台湾とタイのバンコクでプレーを楽しんだ思い出があるのだが、キャディーさんも適度に遊び心をもっていて、大らかさにはとってもハッピーな気分にさせられる。タイでの楽しみの時にはキャディーさん同士が、お互いにビニールパックに入れたお弁当を広げて、コースの片隅で長閑に昼食をしていたり、お願いをすれば、日よけ係とか何人でもキャディーさんをつけることができた、良き時代でもあった大昔の思い出が蘇ってきた。ゴルフ好きの仲間には悪いが、日本のきめ細かで律儀なコースとプレーには程遠く、のんびりと身勝手にプレーを楽しむ姿がみえるのだが、こんなことを言える立場には無いことを十分知ってのことで、台湾の仲間には随分失礼な言葉だと、重々事情を知っている。昔から何でも相談できる仲間にあったし、お互いに家族ぐるみの交流がされて、今では冗談を言い合える関係にあるからこそ、ゴルフを一緒になって遊んだこともあるから、ゴルフを彼流に遊び心にしていることが分るのである。その仲間である彼からの電話は、アフリカ:フォンジュラスにNPOで参加をしていた長女が一時帰国して、台北で生活をしているから、一家で出かけてこいとの要請であった。長女は3年前に我が家でホームスティーをして気心が知れた娘さんであり、その後にも日本の雪を観るために立ち寄った時にも、家族で歓待をした関係で、アフリカから久しぶりに里帰りしている長女にあって欲しいとのこと。NPOの仕事が苛酷であると父親が心配をしていたのだが、子を思う心は世界中一緒であり、電話でも表現の一言が自分を元気づけていることが理解できる。台湾に出かけるときは、できれば週末は外してくれとの確認をされてしまい、土日のゴルフを楽しみたいとのことであったが、電話の最後になるとゴルフの件はジョークにして、是非遊びに出かけてほしいと請われた。身体の調子をみながら、負担の無いゴルフを解禁したのだが、体調と天候、無理のないカートを利用したゴルフの遊びができることを願ってしまうし、できれば台湾の仲間と彼流のゴルフを遊んでみたいと、新たな欲望がでてきたことが嬉しい。
2011.06.15
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記憶とはいい加減なものであることを知ってはいるが、たった一年前の体験すら記憶から抜けてしまっていることが、虚しいというよりは、これが加齢の老いた姿であることを認めてしまう。ましてや、昨日の会議の議事録にしても確信が薄れてきたし、毎朝の読経にしても七遍の回数があやふやになるほど、記憶力や集中力が薄れてしまいがちであるから、記憶に関しての確信は当てにならないことを宣言したい。自分としてはまだまだ生気あふれる若さがあると思っていても、生身の肉体を元気に維持させていくことが、いかに注意深く気を付けていく必要があるかを、老いが重なるごとに身に染みてくる事実がある。一昨年の二月に心筋梗塞のカテーテル施術を受けてから一年目で再検査を昨年に受けたのだが、その間にお世話になっている県立の医療センターには何度か足を運んで、定期的な検査になる、ラジオアイソトープやレントゲン心電図のお決まりの検査を受けてきている。当然のことだが、病院の中もある程度は迷わずに指定を受けた検査室に行けるし、親しみをもって訪問することができているのだが、昨年に検査を受けたカテーテルの様子が消えてしまい、覚えていることが施術台の上でのことだけである。家を出る前から施術台には裸で寝たのかとか、着替えは何処で行ったかとか、貴重品は何処に預けたか等々がまったく頭に残っていなく、準備をする物も含めて一挙に不安がおおきくなってきた。いくら記憶を思い出しても施術台の上で寝ている姿ばかりで、病院の受け杖からの過程が分からないのでは、健忘症の治療を受けたほうが良いのではと、誰からも勧められてしまう。先日の検査時に承諾をした施術の承諾書も忘れたままに、朝一番から順番を指定されて、手続きを終えてからは看護士さんがテキパキと準備を進めてくれて、重病人のように施術を受ける部屋まで付き添ってくれた。長い廊下を何回か曲がりながら、何度も大丈夫かと顔を観ながら心配をしてくれることが、どれほどか、患者としての不安感を払しょくさせ、心安らかな精神状態にさせることが、結構なテクニックだと共感をしてしまった。ほどなく案内をされた控室に入って、傍と気づき思い出したことが、去年もこの部屋で入院着と着替えて、ローッカーに貴重品を預けたことが蘇ってきたのだ。頭から消えさってしまった記憶が鮮やかに思い出して、ある種の安堵感を覚えながら、順番を待つことができた。パンツ一つに入院着の格好ではエアコンの風が寒くて、施術台に寝てからは、その準備に費やされる時間にも、天上から冷気が寒くて仕方なく、早めにお願いをしたことは、厚手の掛け毛布をお願いしてしまった。お蔭で分厚い施術時に掛けるビニールのシートも加担してくれて、肌が温かく感じることが嬉しかったのだが、部屋の中いっぱいに丸いジャイロ護摩があって、臓器撮影の器械も含めて新導入された数種の機器が圧迫感を伝播してくれた。スタッフが慌ただしく、点滴注射や動脈にカテーテルを差し込む準備になると、多少の違和感と鈍痛や薬独特の熱さや冷気感が過去の思い出として、確りと脳裏に記憶に残っていることが理解されてきた。恐らくは次回検査時にも、まったく同じ体験をしたとしたら完全な痴呆の予備軍になると自覚をして、今回の体験を脳裏に植え付けるように心がけるし、検査の結果が健康改善されていることを期待しながら、脳の活性もあわせて心掛けることにした。
2011.06.14
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梅雨空を地でいくような精神的に不安定な時間を過ごしているが、気合いを入れて頑張るように試行錯誤をしてみても、なかなか思うような天気青朗な気分になれないまま、雨上がりの湿った夕方を迎えることになってしまった。気分一新させるたびに、心のスイッチを切り替える必要があるし、大いなる自覚をして軌道修正を試みているが、夕食時間を過ぎてからの気分転換ができることに期待をして、できるだけの模索をしているところである。こうした湿ったふっきれない気分は、良く子供のころに経験をしたことを思い出しているのだが、親に叱責を受けたときとか、人に迷惑を掛けてしまい、自分の責任では解決できない落ち度をしたときに、こうした憂鬱さをもった心配事が重荷になって、子供心にも不安定な心境になっていたものだ。とっても意気地無しの子供であったから、いつもこうしたじめじめとした経験を覚えていて、特に母親からの叱責は子供心にきつく、暫し家族にも疎外感をもってしまったり、閉塞感をもったままに、気分転換の利かないまま過すことがあった。母親っこで甘えていたから、その母親からの叱責があると、父親以上に精神的に滅入ってしまい、随分精神的にダメージをうけてしまい、意気地なしの子供が行き場のない不安定な一時を過ごしていた。虐められっ子でもあり、ガキ大将には打って付の目標になっていたのかも知れなく、いつも意地悪をされていたことを塞ぎ込んでしまい、大いに自虐的に塞ぎこんでいたものだ。それでも子供は日々成長するもので、何かの切っ掛けがあれば自立をすることができ、中学生になった時に、自己形成の芽生えができてからは、当時の苛めっ子に対して手向かっていく意気地を見せ始めたもので、ここからが人生の大きな分かれ道となった。そんな思い出が遥か昔になってしまったのだが、当時の虐め子が皆さん孝行爺になって居てくれることが嬉しいし、苛め当人はその頃の記憶が全くないとの話が、実に面白く話題になってしまう。大人に成長するために、時々にあるつまずきが、子供のころには脱皮を繰り返すほどに人間を、成長させる事件が待っていてくれるもののようだ。いまでも意気地なしだし、三つ子の魂百までと言われるように、いくら歳を重ねても基本的な人間性は遺伝を引き継ぐ役目をもって、確りと形成の時期を待っていてくれるようだ。人間の感情をもったロボットが研究されていて、将来のロボットには感情が備わっていて、すべての表現が自己意識的にされることを、テレビ報道で知ることになった。ロボって開発の大学教授の話を聞いていて、ロボットも性借者の性格とか躾が関係するのか、はたまた、幼かった頃の子供心が理解できるのか、非常に興味が湧いてきて、今後の開発状況が楽しみになってきた。鉄腕アトムのような、意志と感情を表現できるロボットが開発されたら、人間との交流はどのようにされるのか、感情に訴えて反応がされるのだろうか。子供のころに芽生えた自己が成長する過程を、ロボットだったらどのように対応させてくれるのか、自分の経験をもとに比べてみたいと思ってしまう。人間が成長するためには苦悩の体験が重要であり、それを活かすための学びをする場が必要なのだが、ロボットも学習効果を発揮させることになり、ますます人間らしいロボットが誕生するかもしれなく、ロボットの影響で人が悩み深める悲惨なことだけはなくしたい。
2011.06.13
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毎月12日が父親の祥月命日であるために、その近辺の週末には必ず家族でお墓詣りをすることが習慣となっていて、途中の街にある長兄に当たる従兄弟のお墓参委も合わせて、切り花と線香を手向けている。今月も時間の経過が早く、あっという間に12日の日曜日を迎えて、阿吽の呼吸でもってお昼前に出かけたのだが、昨日までの大雨もあって、生けられていた花が腐ったように墓石に張り付いてしまい、先ずはその清掃作業から始まった。上手い具合に梅雨の晴れ間を迎えて、家族との墓参りに出かけることができたのだが、僅かな墓地に沢山の雑草がびっちりと元気に成長していて、毎月の墓参りだが一カ月間の時間の長さがわかるほど、草木が活き活きと元気に成長していた。墓掃除の作業が結構な時間となり、特に屈みこんでの草取りが大変な労苦になってしまい、身体の調子を考えながらのんびりと進めるのであった。隣接する姉家や親類の墓まで作業をすると、たちまち持参した買い物袋に一杯になってしまい、もっぱら草取り作業専任になって、一人で請け負ってしまったのだが、身体を気遣っての動作がなかなか捗らない。先月のお詣りの教訓から小さな鎌と鋏と買い物袋を用意して、皮の作業手袋をつけての本格的な準たし、草の根張りが強くてなかなか除去しきれない。毎月墓参りを欠かさずに行っているのは、先ずは先祖の霊に線香を手向けて奉られている仏様に、尊敬の気持ちを伝えてあげることが役目だし、あらためて先祖の遺徳を評価して心からの感謝をしている。すべてに恵まれた環境として、なんとか人様同様に生活ができていることに、日々手を合わせて神仏に拝む行為が、どれほどか大切で有意義なことであるか、毎日の灯明と線香の手向けることの意味合いが、十分に深く理解をすることができている。代々の働きを務めてくれたお蔭があるからこそ、こうした家族継承が受け継がれているし、今の家族が何とか生活ができていることを深く認めることによって、先祖への敬愛を深めてくれる。もちろん傍系の家族関係の先祖がいてくれて、その代々に適切な交流ができていて、さらには互恵の精神があるからこそ、時々の大小の難儀を解決させてこられた事実を確りと認識していくのである。今現在でも心配なことが沢山あるし、難儀な問題を解決させる役目を担っているから、当たり前のように先祖にすべてを報告するし、深く崇めることになるのだ。心からのお参りの心ができてこそ、その結果が具体的な現実になることを信じて、毎日のお勉めとして崇敬な念仏となることを、これからも継承させていく責任を感じている。世の中や人様の為になることも、代々の皆さんが行なってきた善意を継承させるためにも、先祖が奉ってきた神仏を大切に崇敬していくことを、もっともっと大切に受け止めて承継させいていく役割を感じている。決して神仏に縋ることではなくして、自分の生き様を真摯に報告できる道すじを、神仏を大切に護ることから実践できることが、信頼し合える家族の誇りと信念としたい。
2011.06.12
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先の大震災は国内外の仲間たちが個々に、あるいは仲間同士がまとまって、心配する内容を伝えてきているが、日本から報道される震災関係の記事に、結構な関心を持っていることが分る。特に原子力発電所の事故からは、放射線漏れによる様々な弊害に神経質になって、海外の仲間達も個々に連絡をしてくれて、如何に放射線の影響が大きいのか、実感として理解されてくる。国境や時間を超えて、また人種を超えて人間として仲間の愛情を、同じ目線で価値観をもってくれるありがたさを受け止めているところだ。韓国の大先輩である長老から緑茶が届き、添えられていた手紙には福島原発の事故で、放射線汚染により新茶が飲料に適していないことが報道されていて、千里山名産の緑茶を送ると書かれてあった。長い年数何回も韓国ヘは訪問をしているが、緑茶を頂いた記憶が無く、この長老のお宅に訪問をした時に頂いた緑茶は、日本の緑茶パックをサービスしてくれていた。送付された添付資料に書かれた伝票から、千里山の結構高額な緑茶であることが分り、韓国にも緑茶があり珍重されていたことを知ったのだ。恐らくは、過去の訪問時にお土産屋さんで扱っていたお茶が、高麗人参茶であったことで、3年間服用していたことを思い出している。毎年何回か訪問する機会があっても、その時にお土産に頂く品物の第一が海苔と高麗人参茶であって、頂きものをお裾分けして、多くの方から喜ばれていた時期が結構長くあったものだ。放射線の飛散模様と内容が、どのように報道されているか分からなくて心配なのだが、わざわざ緑茶を送ってくれるのだから、よほど心配をしてくれていることが分る。つい先日は三陸の海産物が汚染されていると報道されているのでと、生のワカメを送ってきてくれたばかりであり、ちょっと心配の過剰だと伝えてあげたいほどである。今日の午後に愛犬の散歩をしていたら携帯電話にも連絡が入り、新茶を二種類送ったから好みを伝えてくれれば、再度送るからとありがたい言葉が伝わってきた。今のところなにも心配いらないと伝えたのだが、長老の気配りや思い遣りが強くて、一度思い込んでしまうと制御が利かなくて、一日もはやい放射線の汚染問題が収束されることを期待するし、韓国での報道が適切にされることを願ってしまう。とにかくも、心配をしてくれる方がいてくれることは、とっても嬉しくありがたいことは間違いなく、こうした関係が継続されてきた事由と、信頼関係が一朝一夕に構築されていないことを思い返してしまった。それなりの御礼や心遣いをしているのだが、秋に予定されている企業の周年事業には是非とも家内ともども訪問をして、心からのお祝いを伝えてくるつもりでいる。世界中が原子力発電の将来に疑問をもって、今後の取り組みを研究しているが、安全で環境汚染の無い低コスト発電源として、原子力の安全と最善な活用ができることを願って、今回の事故の教訓を世界の平和や環境保持に功績させ、韓国の長老が要らぬ心配をしないで済むように、安全確保をして貰いたいと期待をする。
2011.06.11
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人とのご縁とは不思議なもので、五感では掴みきれない何かの強いつながりをもっているようで、過去も未来も深いご縁があればこそ、先祖からの生き様が営々と引き継がれていているようで、時の巡りあいは一時に出来上がるのではなく、古のご縁があればこそなのだろうか。全ての人との出会いが、その人の交流から生まれたものと錯覚をするのだが、恐らくは、すべての人生が、代々からの太く信頼される絆によって繋がられていることを信じて、出会いの約束事ができあがっているのかもしれない。それは、地球上のすべての必然的出会いは、決して偶然にする一過性ではなく、代々歴代のお蔭があればこそ、その人の生きざまに繁栄がされてくるわけで、毎日の生活にされる出会いを大切に心得ていくことが、一層大切になってくる。心清らかにすればそうした清々しい交流が構築されて、ご縁で知り合える.すべての方との交流が、素敵な繁栄をもたらすことになるだろうし、精神的にも明るく負担の少ない生活と交流が約束されるのだと信じている。だとすると、世の中でのものや人の出会いと境遇に愚痴を並べたり、不平不満の文句を並べるのであれば、それなりの不遇な環境が構築されてしまうのだと思う。すべての生き様が、自然界からの因果応報によって定められているとすれば、日常の心掛けを確りとさせて、人間的な資質のたかい暮らしを心掛けたいし、一層の励みをもって成長をしていきたい。世の中や人様の為になれることを念じて、日々の暮らしぶりを反省をして厳しく磨き上げていきたいものだし、一途な信念をもって真面目な生き様を目指すことは、決して世間から乖離することなくお役にたてる源泉になる。毎日の心掛けが直ぐに聖人君子的な聖域に達することは不可能だし、先ずは稚拙さから無理もあることを自覚していると、挫折を体験しながら繰り返しの学び取りをすることが、最枢要の生き様になってきそうだ。仲間との交流を通してお互いに切磋琢磨をして、信頼し合える素晴らしい仲間の交流が、大きな生き甲斐とエネルギーになって、開花してくれれば本望だ。こうした修練は一朝一夕に成長や進化ができるわけでなく、常に繰り返しの日常に蓄積されるし、意識を高める中で様々な媒体を通して、気付きの訓練がされることを自認させるように、まだまだ未熟な歩みをする必要がある。兎角孤高な存在になりがちであるが、決してそうした身になることは望まなく、多くの仲間からは、いつの日か孤高の意味合いと存在が、どれほど有益に人の為になっているかを理解してもらえることに、大いになる心配りをすることを心得たい。仲間と一緒になって、共に成長できる喜びを享受してみたいし、少しでもお役にたてる立場になれることを期待して、心新たな成長のための修練を積み重ねていくつもりでいる。仲間全員が喜び合って手をとりあい、信用し合いながら信頼の絆をもって、相互に更なる成長に向けて仲間の皆が良きリーダーに成長できるよう、大きい期待感をいだいてしまう。
2011.06.10
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先日の東日本大震災では、震源地に近い東北三県沿岸が計り知れない未曽有の被害を受けたのだが、実は地元の千葉県各地でも旭市が津波の被害で甚大な被害を受けて、13名もの尊い命が奪われてしまい、破壊された家屋が多数に上った。未だに復旧復興に向けて、地元のお役所と民間の支援をうけながら、日々大変な尽力が行なわれている現実があるのだが、千葉県では茨城県との県境の印西香取市と東京に接する浦安市および、県央に位置する千葉市の一部に液状化現象が発生した。主に昔埋め立て事業がされた、海岸沿いと河川敷の地が広範囲にわたって被害に遭っているのだが、道路地下に埋設された上下水道管が、地上に飛び出てしまったり、道路面が波打ってしまったり、家屋が傾斜してしまったお宅が多数発生をしてしまった。今にしては地元の被害状況が完全に把握できているし、被災されている救援のお手伝いもできているのだが、液状化で被害を受けた方々が生活復興にむけて、これからの支援が長引くのかもしれない。地元の自治体も全力で復旧にむけて尽力されているし、民間の支援も日増しに強まっているのだが、一カ月ほど前に体験した印西市の液状化はひどく、道路に立っているコンクリート製の電柱が斜めになっていた。ところどころブロック塀が倒れ地盤沈下がされた様子は、惨さを感じて身体が強張った思い出があるし、町全体が悲惨な情況は精神的に大きな負担を負うこととなった。東北も関東でも、直に被災を受けられた方々の精神的な負担は、当時者でなければ理解できない重圧として負担がのしかかっているのだろうし、将来の展望を想定できない様々な人間模様が伝わってくる。以前のテレビ報道番組の中で、確か学者さんらしき方が一度液状化された地域は、地盤が強固になり二度と液状化にはなりづらいことを伝えてくれたが、とんでもない間違いで、関東近辺は粒子の細かな砂を埋め立てに使っているから、何度でも液状化になると、専門家の先生の指摘が新聞報道されていた。二度と起こらないし却って強固な地盤になったからと、高層マンションや高級住宅の需要が高くなって、液状化対策にお墨付きを出していたテレビ報道の責任はどうするのだろうか。その言葉を鵜呑みにして、テレビ番組の中でも契約にむけて、売買の手続きをしていた模様もあったのだが状況が心配になっている。確か三つの大きな大陸からのプレートが、重なりあっているところが我が日本の土地になっていて、プレートが微妙に動いている上に生活させてもらっている現状に、どんなことでも起きて当たり前の自然現象があるそうだ。火山列島のお蔭で地下では地熱が噴き出るし噴火もあり、地殻が動いていることは自然の摂理であって、その自然に生活をしていくには、どうしても災害と向き合う宿命があることを理解すべきだと思う。繰り返される自然災害の歴史が物語るように、過去には今回の災害と同じような大きな震災が襲ってきているわけで、多くの犠牲を伴って尚且つ再発される、多くの被災者が悲惨に思える。自然界の摂理で繰り返される災害だとすれば、できるだけ人災を無くすためにも、心して危険性を少なくさせて、少しでも安心度が高まる政治力を期待する。自然災害に立ち向かうのではなく、発生時に如何に安全に避難ができ平常と変わらぬ日常とさせることが出来るか、人類の叡智を集めて活用させることが要となるが、自然界との融和や共棲を優先させることが一層大切になることを、各人が肝に命じる必要があるだろう。
2011.06.09
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少しでも感激し感動をしあえる仲間の存在は嬉しいし、同じ価値観をもって交流ができることが尚更嬉しくて、実に大きな宝物となるし、その至宝を無にすることなく、いつも輝き増して善きご縁をひろめるように心掛けしていくことが大切であるようだ。善き仲間と改めて考え直してみると、日ごとに生きる中で増え続けることがなく、真逆の状況が日常にあって、どうしても、納得できる善き仲間が増えてくれない悩みを持ってしまう。勿論のことだが、ごく日常に出会える多くの友はいるし、毎日のお付き合いの交流の中からは、仕事仲間もいるし趣味仲間も大勢いるのだが、その交流の範囲と資質のレベルが高まれば、自ら仲間の価値判断を評価し直すことができる。誠意を尽くしあえる仲間の集まりは、心ウキウキして楽しいし、気楽に様々なことを相談し合ったり、お互いに切磋琢磨の磨き合いがごく自然の日常にされることを期待でき、意識をしなくとも向上心の啓蒙ができることがことの他嬉しいもの。できれば出会いができるすべての方々と、存在価値を高める交流が出来ればよいのだが、なかなか思うような良縁があるわけでなく、どうしても範囲を広げる中から必然的な良縁が構築されてくるようだ。お互いを尊敬し合える仲間としての交流は、心を許しあい感化をしあえることであり、生活空間の距離感を無にさせてくれて、どんなに遠方の方でもお逢いできる機会に関係なく、正直な心模様の伝播が清楚感が強く感じてしまう。袖振り合う身近なところでは、お互いの欠点が目に入ってしまうことになり、なかなか思い切っての意志が統一することができないし、直言するにもあれこれと贔屓にする仲間同士の兼ね合いがあることが懸念されてくる。大人の工夫と思い遣りになるのか、どうしても身勝手さも理解してあげる必要があり、自分が寛容の身構えができることを信じ、確りとブレることなく遠慮なく直言して、もっと素直になって聴き入れることができるように、できるだけ大きな心の持ち主として自覚したい。同じ価値観をもってする仲間は、遠近に関係なく心を許しあうことが出来、尽くしあいや分かち合いの精神も発揮させ、信頼し合える真摯さを共有したいもの。どれほどか価値ある仲間の皆さんが、幅広くより多く心の中にいてくださるか、大きな努力の結果として、真の仲間という宝物を大切に矜持したいもの。日々身近に生活を共にする人も、遠く思いを伝える仲間の人でも、同じ欠点を自分自身が素直に認め合い、距離感に関係なく愚直に思い遣る精神を発揮させてみたいし、顔を合わせるたびに成長したお互いの姿を、心の中で誉めてあげたいものだ。
2011.06.08
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いつもJRに乗る時に投げかけられる言葉が、もっと余裕ある時間に出かけて、ゆっくりと負担が掛からないようにしてください、と何年間同じ言葉が、きつく言われているのだろうか。御天気も上々で外出には半袖が丁度良いくらいなのだが、ネクタイと上着を羽織っていても、JR駅に到着する時間で、少々暖かく感じる程度の健康状態を確認しながら、運動の為に歩く、駅舎までの階段を昇り終えてホームまでの階段を下り始ていた。横須賀に行く電車はどちら側ですか、と老齢な女性の方が質問をした相手の若き女性がいて、改札からホームに降りる階段の途中で、聴かれた若い女性は、機械的に右手で指を指し、小声でこっち方と説明をしてあげた。こっち方ですかと確認の声掛けをした老いた方は、心配そうにしながら遠慮ある小声で、何事かぶつぶつ言っていたので、直ぐその後ろについて、ホームに向かって下りていた身とすれば、親切な心をもって丁寧に電車の乗車案内をしてあげた。横須賀まで直通の快速電車だから、安心して乗っていてくださいと、分かり易く説明をしてあげたのだが、当り前のことだが、ありがとうございますと頭を下げて同じ電車に乗り込んだのだが、老いた方や困った人から質問をされたら、誠意をもって分かり易く丁寧に教えてあげることが、真の親切心であることだと思っている。こんな情景にぶつかって、こんな思考もできるほど、心の余裕があることは、乗車時間より早めに出かけたからこそで、時間の余裕があればこそ、精神的な余裕をもって補足的な案内をすることができ、大いに人助けになることができたことが嬉しかった。同じ車両に乗ってからも、申し訳なさそうにして視線を送ってくれたのだが、時間帯もあって二人とも立ち席のまま次の駅で降りるまでの時間が、お互いに声掛けしてくれた関係者として、事の敬意を反復しながら反省や工夫をしていたように思えた。時としてケースバイケースのやり取りは、物事を果敢に教えてあげることもベストなことは理解しているが、積極的に教えてあげることだけがベストではなく、公共の社会生活の中で学び取ることが大切になってくる。自らの思考と判断能力を高めて、自ら瞬時にその場の最善な選択をできるように、学び取りの修練を公衆の場で得ることの機会を、多多体験をしていかなければいけない。日常の生活範囲で、身に着くために意識高揚をさせて、学ぶ心を養っていくことを、一人でも多く一日も早く修練の習慣を日常とさせてみたい。最善の気付きができることを願って、世の中の瞬時が自分を磨く対象になってくれているし、様々なことを教えてくれている事を意識でき、人間として学びとれる環境に喜びを得たい。
2011.06.07
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大震災を契機にして日増しに、涙腺が弱くなってしまい、事あるごとに目を真っ赤にさせてしまう場面が増えてしまい、テレビを観ながらも、家族が分からないようにその場を離れて、流れ出た涙をふく機会が多くなってきた。生来気が小さくて弱虫なのは分かるのだが、感情移入が激しくなったようで、感激屋を自認することができるのだが、大震災以後はテレビ画面を観るたびに、とりとめなく涙を流していることが多く、翻って感極まることができることを、生きるものの喜びとしている。今日の午後に届いたメールを読んでいて驚いたのだが、やはり大震災で福島県の原子力発電所の放射線被曝を避けて、立ち入る禁止になっている地域のペットや家畜が、3月の避難時のままにされていることを、実にリアルに報道されていたのを目にできた。三カ月もすると口にする餌も無くなって、屋内で飼っている場合などは、共食いをする時期になっているそうで、現実にショッキングな証拠写真もあるそうで、小動物としても極限状態になれば本能がむき出しになることは良く理解できる。今後は生き延びたとしても、野生時の本能化が厳しくなっていき、人に危害を及ぼすほどどう猛になり、危険になる可能性が強くあるそうだ。日々飼い主の手厚い愛情に育てられて、家族同然に何不自由なく生活してきた動物たちも、ここまで長期にわたって無視をされてしまうと、いい加減に反抗を起こす時期であることは、素人としても十分納得できるのだ。立ち入り禁止区域の中に、どれほどの家畜やペットがいるかは分からないが、即急に保護をしないと日増しに野生化が進んで、人に危害を及ぼすそうで、原子力発電所の修復も一層急いで、更には放置されている飼育動物を保護して、十分に介護をしてあげるべきである。生きる権利は人間だけでなく、すべての命を育んでいる動物にも同じように言えて、家族の愛情を切り裂かられては人間不信になるし、飼う立場の勝手な論法は罰が当たる。放射線の危険性は十分理解できるが、一刻も早い保護救済をしてあげ、安心した生活ができるようにするのが、飼い主としての責任でもあるし社会の大きな役目にもなるので、官民が知恵を出し合って行動をしてほしいもの。それにしても、家族同様に生活してきたペットが、人間の勝手な判断で置き去りにされてしまい、同じ家族として飼われていた仲間を共食いしなければ生きていけない極限状態にさせたことに、誠に持って怒りと同時に情けない涙が落ちてしまった。普段の情感の範囲では、何とも感涙までの感情の高ぶりはないのだが、動物まで悲惨さが及んでは愛犬家でもある身としては、非常に辛いものがあり、我が家の愛犬の立場になって考えてみれば、良く理解ができるのである。人だけでなく、たとえ動物でもこの世の中での機縁があればこその、強い絆も育まれているはずで、可愛られていた動物こそ目に涙を浮かべて号泣したことだろう。人事でなく、確りと自覚をしながら、動物たちとの共存共益に生活できる環境の構築に、笑顔をもって対処し、感動の喜びを涙する役目を果たしてあげたいと願う。
2011.06.06
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物事に慎重に対峙して、時間をゆっくりかけながら物思いにふけること、限られた時間の制約がなく、あくまでもマイペースの謀をしてみたいし、あくせくしない時間の空間は、大いに望むべきことであるように思う。嵐のような時間経過がされる中で、その時流に乗っていける才能が有ればいいのだが、時間や仕事に振り回されてしまうことが不条理だし、力量不足の身では愚痴が先になってしまう気配がある。人様との会話にしても意見交換にしても、即決の判断をすることも勿論のこと大事なのだが、時と場合によってはじっくりと時間を掛けながら、皆が納得をする話合いをすべきだし、討議をする時空を常としてみたい。今回の東日本大震災も、世界中から多額の寄付金が寄せられているし、様々な物品も沢山届けられているようだが、未だに寄付金も物品も満足に、震災を受けた方には届いていない事実の報道がある。一刻も早く適切な寄付金と物品を届けることが、間髪を入れなく被災された方々に届くことを願うのだが、一方、届けられた善意の寄付を最善の有益性を求めて、沈思黙考を尽くすことも大切なことであると思う。新聞報道でも集まった寄付金の3割しか被災地に届いていなく、赤十字他募金元の今後の対応を記事にしていたのだが、被災地の現状は地域によって大きく様々な様相があるのかも知れないが、即助けを望む人に瞬時に届けることも大事な用命である。テレビ報道で知ったのだが、被災地の方々が商店街をテントで復旧したら、被災された方々が買い物を楽しまれて、大賑わいの状況を画面で魅せてくれたのだが、ロータリーの仲間がメールで配信している内容では、末端の被災者は職もなく消費するための金銭に困っている、厳しい現状もあることを伝えてくれている。災害に遭い、困っている人々を救うための寄付墓金活動で、集まったお金は即被災された方々に届けられるのが自然であるし、寄付行為をされた方の願いでもあると思っていたのだが、世の中の判断とは違うこともあるようだ。全国にいる、ロータリーの仲間が拠出した多額の寄付金も、ほんの一部は被害状況に応じて、公平に配分を済ませているようだが、残った大きな寄付金額を、今後に活用させるべき方法の検討がされているのだが、様々な活用方法を模索するなかでも、一刻も早く被災地に届けて利用してもらうことが最善であるし、必然でもあると思ってしまうのだが、社会に役立つ奉仕の在り方が難しい。確かに弱者である罹災者の為、特にご両親や親御さんを亡くされたお子さんの、成人までの育英を特化して支援をするプログラムがあるのだが、現実には身動きできないほど大きな被災を受けた仲間たちがいる現実も無視することが出来ない。国や地元の行政が主導権をもって、罹災困窮者に向けて支援金や寄付金を提供するのが、常套手段でもあり最善なのだが、ロータリーの支援先の選択を、今後も時間を掛けてじっくりと沈思黙考をすることが、どこまでの範囲で沈思黙考をしているのかも、社会からすれば不信感となる。皆で考え相談をし会合をする経緯を説明する必要もあるし、門戸を開いて、もっと自由闊達な意見交流もされ、最大の善行ができるように風通しを良くさせる現実も知り、現状を把握する中で最善策を見つけ出してほしい。その結果として善意の寄付をした人も受け取る方も、心からの納得をして寄付の効果がされることを信じて、有益な会合を期待してしまう。何よりも一刻も早く安心できる生活環境の構築に向けて、最大公約数の効果を提供でるように、ロータリーの支援金を世の中の為に活用させるべきだろう。
2011.06.05
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所属するロータリー活動のなかで、クラブから排出された地区の一員として、一昨年から声掛けされて、真っ新な準備から携わった事業があり、丸一年と半年があっという間に過ぎ去って、何とか無事に事業報告ができるまでになってくれた。ありがたくも地区の責任者の方から、声掛けされて準備段階はチンプンカンプンが多くて、それ以後は知識の吸収に傾注をして、夢中で準備に携わっていたことが懐かしく思い出されるが、これほど時間経過が早すぎるほどに、まったく光陰矢のごとしの心境である。思い起こせば、全く初対面の方々とチームを組むことから始まったわけで、精神的にも肉体的にも随分良い体験がされて、この一年間の経験と実績は、人生の中でも価値ある一時であると、大いに自負できる喜びを味わえる心境になっている。実際のところ、ゴールができるのかと不安が大きく募り、随分心配をしてきたのだが、チームの方々が力強く応援をしてくださり、今になってみれば、あれもこれもと余計な我欲までもってしまい、改善と改良点を自己反省できるまでになった。役割はチームが学んだ理念等を発信させ、ロータリー本髄の情報を伝達して、理解をして頂いた範疇から、受けての皆様が自分の思考力をもって、闊達な意見交流を討議して頂く計画であったのだが、チームが伝達した主旨が上手く届かないことも多く、結果はまちまちの状況であった。各地区に訪問できた、メンバーの意識の持ち方によって、グループ討議の際に大きな要素となって具現化され、主旨の理解度が全く違ってしまうこともあり、何回かの訪問時に、経験則として有益に学ぶことが出来た。訪問できた地区の経験をもとにして、更にスキルアップすべき、一層の学びごとが多くなり、これで御仕舞と言うわけにはいかなく、ロータリーの理念は如何に深いかと、あわせて様々な広さを持っていることが痛感させられた。まったく自信がなかった当初からすると、回数を重ねてくると、図々しくも余裕を持つようになってしまい、チームが主導的なイニシアチブをとることを考えたり、大いに自己反省をすることも何度かあった。それでも惰性的になることは全くなく、常に緊張感がもてる素晴らしい会合で会ったのだが、時には人のエゴがでて傲慢な思考から打算的な考えがされたことも事実で、こうした反省点も含めて、常に人生の修業を習得することができた。大変な思いをしたしそれなりの悩みや苦労もしたのだが、すべてが素晴らしい人生経験として、人格向上に結びついたことが、本心からの強い自負となっていて嬉しい。同じ釜のご飯を頂く関係になった、チームの皆さんとの交流にしても、人それぞれの個性を強く持っていて、常に謙虚に礼節を重んじてくれたことが貴重で、大きな感謝をしている。チームを組んだ仲間の絆も日増しに強くなり、信頼関係も深まることが出来、役目が終わってホッとする以上に、仲間の皆さんとの交流が、少々希薄になることが寂しくもある。何処に行っても気心が伝達できる、素晴らしい仲間がいてくれるロータリー、際限なく自己習練ができる場があるロータリー、寛容の精神をもって、皆で力を合わせてする多様的な奉仕活動だが、幅広く奥深くあるがために、とかく思考の悩みに嵌まってしまう時もある。そんな時こそ、分かち合い尽くしあえる仲間がいてくれて、活動の積み重ねから構築された、国内や国外も仲間の御顔が思い出されて、力強い心の支えになってくれている。満足は傲慢だが、時々に傲慢を甘えさせて貰える環境ができることも、一歩一歩亀のように歩んできたことが、自分の人格として形成されたと信じたいし、もし品性も備わっていたとしたら感激物であると思っている。ロータリーを愛しロータリアンを矜持にして、まだまだ未体験の喜びを味わう機会を、大いに楽しみにしながら、多くの仲間との、幅広く一歩を歩める亀になっていけたら、本心からの喜びになってしまう。
2011.06.04
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寒かったり暑かったりの不順な天候になっているが、梅雨入り宣言の直後からは、台風が近づいて来たりして、その影響からなのか冬のような寒さになったことがきつく、ガスファンフィーたーを利用してしまったほどだ。台風一過の爽やかさはないが、雨空が無くなると陽射しが強くなり、車の移動時にはエアコンを入れて丁度良く、強い日差しのなかに置いていた車は、蒸し風呂のような状況であった。日増しに炎天の陽射しが強くなり、体力消耗も大きくなりやすいが、今夏は大震災で被害のあった、原子力発電所の事故から電力不足の節電が日常化して、極端なクールビズが流行りそうである。年代にも因るのだろうが、ネクタイや上着が恋しいし、ある程度の礼節を思えば、極端なクールビズの姿はできないものである。所属するロータリークラブでも、6月からクールビズを採りいれているのだが、半分の比率でネクタイ派と分かれているようだし、仕事柄からかまだら模様に窺える。それにしても、お堅い銀行すらノーネクタイ姿が主流になっているし、議員もお役所も同様だし、すっかりノーネクタイ姿が市民権を確立しているが、今迄の概念からすると、強い先入観念もあって未だ馴染めない状況にある。最近感じていることがあるのだが、きちっとネクタイと上着を身に着けていても、なんとなくだらしなくして、前ボタンもしない上着を広げたり、襟元を開けてネクタイも崩れたままでいる人がいる。人から観られることも大いに気にして貰わないと、不快感が迷惑となってしまい、ある程度は自分の生き様の生き甲斐が服装にも影響されていると信じてしまう。そんな人までもノーネクタイにクールビズでは、その人の人格までもがだらしなく観えてしまい、外見が見っとも無い風体が見苦しく感じてしまう。どんな服装をしていても、律儀な信念を持っている人は、服装に関係なく人間味が醸し出されてくるもので、その人を服装や風体で、安易に見極めてはいけないのかもしれない。そうは言っても先入観念が強く有り、外見で人様を評価しているのだけれど、特に身に着けている高級品の装飾品には、どうしても一定の物差しが働いてしまいがちである。たしかに、自分自身がブランド品や高級品を身に着けてみると、その品物の既得権を利用させてもらい、有頂天になれる時空があることも確かなのである。そんな一時のブランド志向も一段落してみると、身に着けている服装や装飾品でなく、身体の所有者である人格が一番の心意気になることを学ぶことが出来た。誠実さを確立させるためにも、心の奥底から滲み出る品格を磨き上げてみたいものだし、これから本格化する真夏の服装も、気品良く心がけることで、暑さを和らげる爽快さと清潔さを心掛けてみたい。昨年と同じような猛烈な暑さが再現して、熱中症なる厳しさがあれば、一層服装に気をつけてみたいし、人にも爽やかさを与えられる、人間味を身に着けてみたいものだ。
2011.06.03
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世の中様々な性格をもって色々な価値観をもって、其々の営みをするのが世の中を生きていく常なのだが、日々の変わらぬ日常生活で、お互いに感じ取れる感激や感動が、多くの学びごととして、教えてくれることがありがたい。タイプが合う人もあれば、まったく油水のように反発をするだけの人もいて、仲間の集まりでも近隣の企業団体の集まりでも、距離間を置く人と近すぎる関係の交流をする方が、必ず相反する形で存在をしている現状がある。年齢が若ければ若いほど、好き嫌いを意識してしまい、極端に自分の意識や態度を表現させてしまいがちだが、こうした刺々しい時間も人生の修業の機縁として、誰しもに与えられているに違いない。全ての人々と公平に平等に交流ができることを願って、お互いの刺々しさを理解してあげる、心の奥ゆかしさを磨くべきだし、時間経過と共に人生を修練させていく、自助努力をできる環境を構築させたい。経験的に言えることは、随分人間的に丸みがでてきたし、人生を達観できるようになってきているが、数年前までの自分を振り返れば、自己意識が強すぎて、なんでも自分の思うように動かせなければ気が済まないし、不埒で勝手な思いをしていたものだ。人の好き嫌いも激しくあって、徹底した上から目線で侮辱した意識をもっていたものだが、ここ数年にして漸くだが、温かな人間味に開眼することができたのか、すべての方々に公平に平等な交流をすることが、当たり前のように実践することができている。一言で言えば、人が持つ善悪の両面を、許しあいできるようになったことは、自分の心の幅が広くなり、奥ゆかしい豊かさが成長してくれたからで、全く禍根をもたなく平然として許せる感情になれるものだ。時として、バカヤロウ呼ばりをした人でも、今では手を差し伸べて○○さん呼ばりもできて、泰然自若に自分の身をおくことができるし、先入観念をもつことなく、平然にして交流をすることができていることが、実に嬉しいこととして受け止めることが出来ている。拘りなく、先輩も後輩も同じようにして○○さん呼ばわりをしていたら、10歳も年上の先輩も、同じようにさん呼ばわりしていることが分り、恐らくは、色々な修羅場の境遇を潜り抜けてこられた、深い事情があることを詮索している。誰でもが言えることは、順風満帆な日常であれば、なんの不満も不安もなく、平然として日常を過ごせるのだが、ご苦労を経験してみての心境は、人様を大事にすることの意義と、意味合いを感じ取るからなのだと推察してしまう。先の大震災での教訓からは、誰しもが一様に言えることは、家族の大切さであり仲間との友愛であり、地域住民との相互扶助であり、世界中の人々からの善意の心遣いが、何よりも大切で貴重であることを知らされた。人としては決して、一人では生きていけないこの世の中であり、誰しもが願うことは、皆が蟠りを持つことなく、仲良く友愛を深めることが出来、自由闊達に意見交流することができれば最善で、肝胆相照らす善き仲間になれることが大切である。歳相応な仲間との交流ができることは、とっても素晴らしいことであり、拘りのない平然とした交流をできるように、まずは自分自身の心構えを養生させて、泰然自若の堂々とした風貌を、是非とも心のなかに宿させたいもの。何事も時間が解決してくれることを信じれば、時として口角泡を飛ばしながら、本心の分かち合いをすることが、大きな友愛に発展させることができることを、もっともっと俯瞰させながら相互理解を深めてみたい。
2011.06.02
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起床時に感じる快調さが、その日の体調バロメーターになるのだろうか、目覚め時に覚える気分が爽やかな6月入りだが、毎日朝のお勉めになっている仏壇や神棚のお参りも、滞りなく気合を入れることが出来た。早めに起床しても月初のお勉めがあるから、あっという間の時間が経つのだが、毎月一日に行っている祭事の時間は、できるだけ丁寧な真心を込めることを心掛けているために、一通りお参りが終わるとホッと安堵する。日常の生かされている感謝を繰り返して唱えるだけでも、これからの安寧な事業繁栄や、家庭安泰の願いを込めての唱和は、結構その時になると、結構熱っぽくなってしまうものである。全くの独創的な自己流の祈念のお参りなので、傍で聴く人が有ったら、大笑いをされるに違いなく、艱難辛苦の厄落としに自分で考えだした呪文であるために、その時の体調や気分によって適度にアレンジがされてしまう。自分でも可笑しなくらいに、あらぬ方向も呪文に行ってみたり、毎日繰り返すなかで、何故に固定化しないのか不思議に思うほどで、毎朝頓珍漢なお参りの真似をしてしまう。あくまでも自己流であるし、自分が納得種れば済むことだから、適度に呪文のコースを変えてしまい、一人納得するまで灯明を前に座っている。結構精神の統一も必要であることも理解されて、集中できる健康体の時には、素人成りに流れるお参りができるし、爽やかな気分で終われば何か良いことが窺える思いができるし、いい加減な自己流は、あくまでも曖昧模糊とした気分になってしまう。今の自分を少しだけでも洗練させ、善人として世の中のお役にたてることを意識して、人様に良い影響や感化を伝播することができればと、ただそれだけを願い、社会貢献する人として、純粋な心を持っていたくなった。極々自然の成り行きで、厳しい人生の綾組を解き明かそうと、色々な人の書いた書籍をむさぼり読んで、講演会に出かけて行って、勉強をしていたころを思い出しながら、毎朝の灯明と呪文がされる。お蔭さまで、こうして家族が元気で生かされている現状を、確りと自覚しながら、自分で信じる勝手な自己流呪文を活用させて、せめても明朗で元気な人性に結び付けてみたい。善意を持って礼節を重んじる自分への修練があればこそ、一層謙虚な控えめな生き方ができてきたことが、他に迷惑を掛けないためにも、こうしたことが毎朝の呪文のお蔭だとしたら、損得から善悪の見極めができる人間になったことになる。月の始めに際して健康に元気よく呪文が唱えられ、清水も新しくすることが出来たことで、一安心をしながら、今後も精一杯の役割を果たしていくことを誓った。
2011.06.01
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知ることの大切さは一番心掛けることと認識しているのだが、幅広く知ることが大事なのか、深く知りつくすことが大事なのか、時々のケースによって変わってくるのだが、先入観念をもつことなく、様々に自由の発想をもって心構える必要がありそうだ。人を観ること、物を観ることあらゆる観察眼については、ひょとすると勝手な自己流の思い込みをもってしまい、一人妄想をもって物事を観てしまっている気がするし、人間の思い込みの果敢無さを知ることになっている。目利きをさせて二つの眼を効果的に働かせて、その場の空気の流れを汲みとって、人や物の本質を見抜くことが肝要だと信じているのだが、一歩突っ込んだ理解度を深めてみたいし、奥を深くさせ思慮深い思いは常に変わらないものとしたい。仲間との会話の中でも、過去の思いをそのまま引き継ぎてしまい、ついつい価値観のものさしを違えてしまうことがあるし、人からの受け売りが大きくあると、尚更とんでもない価値観を作り上げてしまう。ごく親しい人とてまったく同じことで、いっそうのこと懸念してあげないと、とんでもない失礼なことになるし、平凡なことではなく、非凡に成長されていたら尚更失礼だし、よく目を見開いて観察をしてあげる必要がある。一面だけで決して判断をすることなく、多面的に素朴にして接してあげないと、一皮むけての成長した人には失礼になるので、できるだけ、気を細目にさせてあげることを気付き、今後の学びとさせてもらう。物がもつ素晴らしい資質や価値を見出す眼力が無ければ、ただのものになるし、ただのものを只ものとさせない開眼は、自らの見抜く力の度量を試されてしまう。眼で見ることは誰でもできることだが、人や物が隠し持つ奥深い価値の輝きを、たやすくは見通すこともできなく、結局のところは、日ごろの子細な思考能力を発揮させて、多面的に心眼の眼力を養う事しかない。あくまでも自力の修練が繰り返されることが、大変に重要なことを知るし、如何に日常の訓練として観察をする気概を持ち続け、眼力の能力を研鑽させるかが重要になっている。気心を精査して、つねに相手になる人や物の立場になってこそ、その真実に一歩でも近づくことが出来ることを、漸く納得して受け止めることが出来たことが、自分でも驚くほどの開眼であった。人は人の素晴らしさや、物は物がもつ価値観を少しでも見出すことに傾注できるよう、未熟な眼力を補うためにも、心眼の威力を磨き上げてみたいもの。その結果が資質の高い物を見極めて、人に感化をしあって少しでも価値を高める効果が、できるだけ相互に利得を得れれるようにしたい。
2011.05.31
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一瞬にして気分転換がはかれるとは、心を許しあった絆を持ち合う知人や仲間の存在が大きな価値になるし、そうした知人や仲間がいてくれることが、どれほどかの心丈夫にさせてくれるかもしれない。嬉しく愉快な時でも悲しい時にでも、もちろん楽しくうきうきした時にでも、知人や友人からの便りは嬉しいものだし、気分が高揚してくれることがありがたいと身に感じている。ここのところ与えられた自分の役割と、その手法について、少々納得できない自信不安となってしまい、気分が滅入りがちでいたのだが、いたって現金なもので、頂いたメール1通が気分を爽快にしてくれるもので、心からの躍動感を覚えることとなっている。出る杭は打たれるし、出ない杭は無視され相手にもされなく滅入るし、どうしたら思うような運びごとができ、皆の為になれるのかと、接している人間関係を基本に一番大切にしながら、考えられることを一生懸命に試行錯誤してきた経緯がある。相手の方を思えば思うほど、百歩譲る大きな懐を持とうとする自分がいて、相手のエゴも素直に受け入れ、譲り合う精神が理解されなくとも、思い遣る精神が通じなくとも、大きな許容の懐を自負していたのだ。残念ながら、品性と人格が違いすぎることを嗜めて、はやく大人に成長してくれと祈りながら、心からの期待をもって応援をする方が何人かいる。親切心を理解してもらえないもどかしさを感じつつ、大きなストレスが積み重なってしまいがちな親心なのだが、強い個性を持つ人ほど、なかなか虚心坦懐の心にはなりきれないようだ。自我が強く自分の考えばかりを正当化して、理路整然に自己主張をされる方は、いい加減にして大きな耳を持ってほしいし、人の話を大切に聴きとることを学んでほしい。毎日のように愚痴めいた自問自答の暮らしをしていた時に、そんな気分一新の励ましをするかのような、嬉しく貴重なメールが届いた時には、感動のお裾分けのような嬉しさがこみあげてくるものである。知り合いや仲間のありがたさを、こうした時に何倍も感謝できるし、心の中の絆になっている友情を分かちあえる関係に、深いご縁を感じてしまう。頂いたメールの返信をしたのだが、自然と筆の運びも良くて、タイピングの調子が捗ってくれたし、とりとめない文章を長々と書き込むことができたし、なによりも書き込んでいる時の気分爽快さが最高である。快活な感情のままに素直な文書になるし、打ち込んでいる時の楽しさは至福の一時になるが、こうした知人や仲間がいてくれることが何よりも嬉しくて、御互いに利害関係のない友愛が、益々深く尽くしあいができていくことを望んでしまう。有難い知人と仲間の方々のためにも、できるだけ迷惑の環境を構築することなく、感激したり感動できる影響をもてる存在を心掛けていきたいものだし、謙虚な関係を大切に継承させていく心がけをしている。気楽に連絡をして相互扶助の関係となれるように、人様の為になれる善人を意識しながら、あちらこちらの楽しい知り合いの顔を思い出している。
2011.05.30
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感謝感謝の毎日であるが、こうした恵まれた日々を当たり前に生きていられることが、最も肝腎であることを理解しているつもりだが、凡人の身では生かされていることすら、気にすることなく気楽に過ごしてしまっている。大宇宙の大自然界や神や仏の御加護を存分に享受しながら、あくまでも自身の修練を積み重ねていき、自分自身が人間的に成長をしていかなければいけないし、生かされている感謝を、自分の意識の中で表現をしていく必要がありそうだ。あくまでもその人の持つ人間性が大切であり、あくまでも自己主張を強調するのでなく、世間への謙虚な心がけがもっとも尊いのだと思う。接する人々がいろいろな方がいて、様々な意見をもって接する中で、しっかりと自分を認識して幅広く交流がされる場にいれる自分に、深い感謝をする心がけをもっていこうと思うし、違った様々な方々はすべてに善き反面の人であると思う。世の中に感謝をする気持ちをもつことが、どんなにか貴重であるか、価値が生れることかを認識しなければいけないし、世間を通して学ぶすべてが、何よりも自分自身の人間性を磨くことが出来ることを知るべきだ。歳をとった今になってから、今更感謝もないと言われるかもしれなくて、毎日感謝とか、ありがたいことであるとかの御呪いだけでは、その意味が反するだけになり、本来の純粋な感謝の心構えができなくなる。なぜにこうした純粋無垢な感情になるのかは、自分自身の艱難に辛苦に関係するのだし、その苦難克服からの体験からは、決して一人だけでは生きていくことが出来なく、すべてが生かされている現実を教えられたからである。一心不乱に難局を脱することの努力は、純粋な信心から納得できる感謝の立場が伝播させられてくる。理屈でなくありがたい恩情をうけることが理解でき、生きる生きられる一つ一つの好意が実にありがたく思えるようになるし、手を合わせる感謝の念が深まってくる。人生七転び八起きの連続だとすれば、平常な時こそ感謝の念を持たなければいけないし、あまり自信過剰な傲慢になることを反省をしなければいけないし、素直で謙虚な心であれば、その純真な精神を世の中は認知してくれることに納得をしている。明日の心の安心の為にも、自分自身の生きる張り合いのためにも、その原点に善意の尽くしあいを確りと保持出来る自分を確認して、目にするもの接するものすべてに、感謝のありがとうを伝えていこうと念じる。どれほどの方が、その意味合いを理解してくれるかは別にして、自分自身のスキルアップや心の豊かさからくる自負を、改めて心にしながら、優しく謙虚に生きる覇気の高揚につとめてみたい。
2011.05.29
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ここのところ自分に自信が持てなく、ちょっとばかり自虐的になってしまい、自分の力量不足を嘆きながら、如何にしたら自信と矜持をもって自負していれるか、少々落ち込みながらも奮起の時を請願して、ちょっとばかりしんみりとしてしまう時間が増えている。世の人々に向けての人生修業が足りないのか、まだまだ邪険の思いが強くあり、ここの所やたらに修練が足りない自分を諌めてしまう事が多くあり、まるで梅雨空のように曇天の気分になっている。すべてが思うままに運んでくれるのであれば、何御苦労もなく、不安や悩みが消えてしまうのだが、日々待ち受ける諸事難題があったり、人間関係の気まずい思いをしたり、なかなか天気晴朗な気分にはなりきれない。いろいろな人の思考を受け入れることが出来ない、狭量がないことが一番の不満なことであり、なんとか幅広く交流を自然にできることを願っているのだが、自分の思うようにいかない交友関係に嫉妬を起こしてしまうのだ。まるで恋愛関係の深みにはまっていくようで、自分でもこの不安な感情がわからなく、相手の人への愛情が深いからか、何故にかこうしたジレンマに陥っているのかと思えるほど不思議である。仕事をしていても、何をしていても、やたらに人間関係を思い遣ってしまい、もっと不真面目の考えでいてくれと願うほどで、案外真剣になって交友関係の改善を図ろうとしているのだから始末が悪い。すごく風通しの良い仲間との日常があっていいのだが、それが全ての人とはいかなくて、どうしても意見の違う人が気になってしまうし、食い違いの解消に向けて努力や心構えをするのだが、上手くいかない。相手の人がしっかりしていればいるほど、もっと成長して欲しいと願う人ほど、思うようには理解してくれなく、意見のずれができてしまうことになっている。相手の年齢も後輩になればなるほど、何で理解してもらえないのかと、余計な神経を使って、後輩だけにあらぬ心配をすることになる。どうこう関係することの希薄な人ならば大した気にもすることなく、平凡に日常の交流ができるのだが、口角泡をとばしての自己主張をされては、噛みあうこともできなくなるし、可愛い後輩を思う心があれうから複雑である。少しは大人に成れよと戒めの激励もしたくなるのだが、ガッチリした体格からは怖いものない元気な声が聴こえてくるだけで、元気な人とは忠告を聴きいれない人が多い。善良な心をもって誰にでも公平な交流ができるように、最大の尽力をしているところであるし、誰でも許しあえることができる、大きな尽くしあいもできるつもりなのだが、結局のところは意気地なしなのかもしれないのだ。くよくよするのでなく、意気地をもって、堂々と剛毅に生きていく姿が、自分も仲間にも大きな安心を得れるのかも知れなく、自分の意気地を試されている今なのかもしれない。
2011.05.28
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どんよりとした天空はまるで梅雨空の陽気と思っていたら、はやくも今日から梅雨入りと言うことで、曇天模様は本格化しそうで、憂鬱な時間との闘いともなる。せめても精神的に心の中は天気明朗にしたいのだが、生身の人間を生きていると、日々の生活の中ではどうしても、心が晴れないこととなる問題があるもので、梅雨の期間の精神統一が一層肝心になってくる。梅雨入りとなれば長雨の時期だが、今回の大震災で大きく被害がでている河川とか、堤防の決壊があるだろうし、東北各県では地盤沈下も大きくなっているそうで、大雨の被害が心配になってくる。これ以上の天災は何としても起こさないように、人災と言われることが無いように、徹底した復旧工事を徹底して欲しいものだし、そんな思いやる心を持つことも、被災地から遠く離れた身の後方支援の役割でもある。最近なぜか、夕食後になると睡魔に襲われてしまい、テレビやノートパソコンをラップトップして打ち込んでいる時に、いつの間にか居眠りをしていることが、多々あるようになっている。更にはお風呂場でのこと、風呂桶のぬるま湯に浸かっていると、知らずに眠ってしまう毎日があり、こうした身体の変調が何を表現しているのか、加齢が原因なのか脳の働きに変化がでているのだろうか心配である。先日も徹夜で作成した資料をメールで関係者に送って、ほっと安心したのか、やけに眠気がおそってきてしまい、我慢が利かなくなって、ソファーに横になってしまい、毎年夏になると10分ほど定期的に昼寝を心掛けているのだが、今年初めてごろっと寝てしまった。体力的には何の問題もいないのだが、睡魔はきつく、我慢するよりは良いと、たまたま時間が空いている時でもあり、身体の健康を思って横になると、ほんの数分でも精神的な爽やかさが戻ってきて、午後の仕事がさっぱりと捗ることができた。意識もなき寝入ることが心配なことで、もしも病的な症状であると、大変なことになり、車の運転を考えると、恐ろしくなってしまうし、何よりも社会に迷惑をかけるのだから、心して注意をしていこうと念じている。身体の変調期には、何かしらのサインがあるそうだし、その変調さえも感知されないのであると、とんでもなく健康的に不安な気分になってしまうのだが、せめても、精神的に剛毅な信念を心掛ける必要がありそうだ。今年は台風の発生も早いそうで、週末に予報されている台風2号の進路が気になるのだが、これ以上の天災はご遠慮したいし、地震と津波に襲われた地方への、これ以上の被害はなくしたいし進路だけは変えてほしい。半病人の身である立場では、一病息災の日々を心掛けて生活をしていくことが肝要だし、大自然のなかで生かされている我が身を心得て、天候と共存共栄の日々のなかで、心地良い快眠を味わいたいもの。
2011.05.27
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溌剌と積極的にものごとと対峙して、溢れんばかりの情熱をもって、すべてに正義の御旗を掲げて、我ここにありと闊歩する方が、結構この世の中には沢山いることを知っている。こうした方と遭遇すると、じつに羨ましい人に思えてしまい、大いになる活躍と人望を磨いてほしいと応援をしてしまうのだが、声高に耳に届く言葉が、その人の価値を決めてくれるように思える。何かの切っ掛けで豪華なものを手にする生活ができると、実に沿わないもので身を包むこととなり、周りで観る立場ではハラハラどきどきしてしまい、本人よりもこちらの方が心配をしてしまうことになる。主義主張が強すぎたり、その場にそぐわない発言をしたり、なにかと自分を主張する方がいるものだが、時にはと言うよりも、そのほとんどが自分の為にならないことに、天上天下の判断がされるように思える。最近つくづくと身に染みて考えるようになったことがあって、今生に起きるすべては、自身の思いや考えや行動のなせる業が、すべてに天上天下の大自然界と同調されているように思えるのだ。天空に浮かぶ数々の星も地に潜る様々な生命体が、物言わぬ静かな動静を窺っていて、懐の器を大きくするために、豊かな心を育む成長をさせることと、反対に、身の丈に合わない素振りには、時にはお灸をするほど厳しいお咎めをする、そんな環境になっていることを気に掛けるようになっている。摂理には逆らえない宿命があってこそ、この世の中の調和がされてバランスが保たれているように思っているのだが、非科学的な解釈には、時として破廉恥に扱われてしまいがちになるから、勝手に自流の解釈に納得をしているところである。自然摂理を信じるのかも、自身の心の清らかさが同調されることが、上手く言葉で表現することが出来ないのだが、突き詰めてしまうと、身を預ける宗教の世界に入り込むのではないだろうか。深く信じる理念を追求すれば、必然的に心の奥深い信念に突き当たるし、常に悩める煩悩の世界があって、自分を律する厳しさをさらに深めて追及できる世界が、人類の進化に大きな役割を担ってきているのだと思うのだ。年齢と共に鋭く角になっていたものが、気性であれ言葉であれ、信じる宗教が無くても、精神的な苦悩から洗われて、少しでも丸くなってくることがある。刺々しさが無くなって、実に穏やかに物わかりが分る好好爺になることが、最近になってきてからは、実に憧れの境地になっていて、その実現のためにも自己の修練を積む必要がある。自流の宗教をつくって自己陶酔するもよし、様々な場面での生き様を反省することも大変結構なことだし、自分の世界を追及していくこともよし、接する人様の棘や気性を修正するための努力をすることもよし、すべてに受け入れることを心掛けながら、信念をこうちくさせてみたい。誰彼も認めてくれる信念があればこそ、宗教以上の信心ができるのだろうし、つねに施しの世界を経験することができるのだろうし、自己陶酔もできるかもしれない。言葉を発することなく、自分の信念が伝播できるような生き様を目指してみたいし、折角丸くなりかけた身であるから、せめても世間から少しでも信頼と信用を得れる、言行を正していかなければと念じた。
2011.05.26
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大震災も2ヶ月半も過ぎてしまい、徐々に復興に目指しての本格的な活動ができ、被災された方々が安定した生活ができるように、心からの応援をしてしまい、政府は勿論だが、我々も心温かに誠実心をもって、確りと見守ってあげる役目があるように思う。テレビの画面を通して観るのだが、復興に際しては多くのボランティアの方々が、活躍されている様子が紹介されているが、寄付金や寄贈品を贈ることも大切だが、直に被災地で汗を流すことも最も大切なことであると思う。ボランティア活動をする立場で思えば、全てに相手の方があってのことですから、その人やその団体や関係する処に向けて、最善の心配りをもって施することが、ボランティア精神の基本になってくる。今回の東日本大震災にしても、あらゆる国の団体や個人から、沢山の支援金や支援物資が提供されているのだが、それは善意の志の心算であっても、支援者のもつ物差しで図ってしまい、一方的な価値判断でもって、良かれと思って行なわれていることが多い。お金や物が被災地に届けられても、受け取る弱者である被災者へは、その全てが的確に有益に届けられていないことを報道で知ったのだが、広範囲の被災地では、そうしたミスマッチは避けることができないのだろうか。希望する必要な物を、的確で瞬時にお届けできれば良いのだが、必要としているものが、必要としている人になかなか届かなくては、せっかくの善意が思うような効果を生まない結果を生むことになる。被災地に直接出かけていき、被災された方々の要望に応えるボランティアが盛んに行われているようで、各企業も長期間にわたり派遣して、数人ずつのグループ単位で交代をしながら、後片付けや食事の提供を継続させていることを、テレビの報道で知ることになった。被災された方が、心底喜んでおられる姿をみると、地元に行って直にお手伝いをするボランティア活動が、何よりの価値があり助け合う心の触れ合いとなって、大きな感動をえることも貴重な体験となる。今回の大震災の支援活動からは、支援をしてあげるのだと言う傲慢さを捨て去って、どうしたら喜んでもらえるボランティア活動ができるのかを、あらためて見直すことの大切さを学びとることができた。多くのボランティア活動団体があるのだが、自分自身に施しをして人格を磨きあげていくことも、大切な奉仕をすることの意義も大きく、社会貢献する価値以上に尊い行為とおもう。大切な御身を労わり自身の人格向上を目指すことで、自負も生まれ人様の尊さと有難さを学ぶことができ、人格形成を磨きあげることの施しが、豊かな心となって自分自身が成長できるとしたら、どんなにか素晴らしい人生となることだろう。その素晴らしい人格と人間性をもって、弱者である方々に少しでもボランティア活動をさせて頂けるように、更なる自己研鑚を積み上げていくことが大切であると思う。それにしても、福島の原子力発電所の事故の収拾と放射線問題が解決して、平凡な日常を取り戻してあげて欲しい。
2011.05.25
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北からの寒冷前線が雨と共に寒く、冬物の上着を羽織って出掛けたのだが、寒いほどに電車内の人いきれが懐かしい暖かな温もりを感じさせてくれて、帰宅するJR車内はほのぼのとした空気が流れていた。発車時刻には間が無く、二駅で降りることを考えて、本を出そうかカバンを膝の上に乗せていると、真正面に対面し座っていた母子が、穏やかな顔をしながらなにやら語り合っている姿が目に入ってきた。JR電車は直ぐに発車してくれたのだが、沿線では逆光もありごく普通の母子の二人連れと思っていたのが、なにやら観察しているうちに、お母さんの手話の手が、はっきりと認識できるようになると、一変したことを考えてしまった。たった二駅の時間だから、ものの10分も同乗することが出来なかったのだが、その二人の仕草がまるで健常者以上に、ごくごく普通に会話を楽しんでいるのだから、ハンディキャップを感じさせない強者の生き様が感じられた。知っている限りなのだが、少しでも身にハンディキャップがあると、世間から距離を置いてしまったり、世間から隠れてしまいがちなのだが、こうして公衆の面前で家族の絆を確かめるようにする姿がうかがえると、実に神々しく感じてしまう。まだ御若いお母さんの笑顔が素敵で、こうしたお母さんのお子さんは幸せ者だし、お子さんは尚更幸せ者だと、二人の姿を拝見しながら感じ入ってしまったのだ。何気なくごく普通に過ごせる障害者の親子からすれば、それはなんの不思議もないくらいなのだが、おそらくは、同乗して周りにおられた方々には、この母子の愛情表現を多くの方が、心からの拍手をしてくれていたに違いないと思ってしまった。移動する電車の中にほのかに差し込んでくる陽射しも、とっても暖かくしてくれているのでしょうが、たまたまJR車内にいた言葉に不自由な少年の真心が、また母親の愛情の素振りが、どれほどか人の心を温かくさせてくれたかもしれない。一寸ばかり滅入っていた時であり、この光景を目にしてからは、こうした素晴らしい体験に出会えたことに感謝をして、心が晴れ晴れと清々しい気分になることができた。人を感動させてくれ、人の心を穏やかにさせてくれて、感化し合える境遇とはどんなにか素晴らしい時空であり、世の中の為になってくれているのだろうか、大切に受け止めていきたいものだ。生きるってことが、人様々に違った環境があって、その生き様が他の方の感化をさせるのであれば、こうした善良な行為を通して素晴らしい効果を生むように、世間から観られていることを知るべきだと思う。これ見よがしに見せるパホーマンスでなく、生き様から誇れる品格や人柄が滲み出れる、そんな人格者になれることを願ってしまう。すべてに自己を主張できるごとき、思うようにはことは進まなく、押し付けできることでないことを知るならば、公衆の面前でも恥じなく堂々と立派に生きている姿を魅せてくれる、今日の母子のように、滲み出る素晴らしい人間性を心掛けていいきたい。
2011.05.24
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被災者への慰問に際して、政治家の人間性と真心を考えさせられてしまった、昨日の晩のテレビ番組であったが、NHKで放送された3月11日の大震災の日の夕刻に、都心から帰宅する様子を再現していたが、色々と学ぶことが多々あった。初めて知ったことだが、アメリカへの海底通信ケーブルが、東京から埋設されているケーブル3本が全て切断してしまい、すべて大阪経由のケーブルに急遽切り替えた苦労話や、街のあちこちで、民間のボランティアが宿や食事やトイレの提供をしていたことが分った。震災以後ひっきりなしに耳にするようになった、公共広告のキャッチコピーがあって、聴くたびにメモや記憶に残したいと念じていたのだが、なかなか思うような機会が無く、暫く忘れかけていた。昨日にハタと気づき、徹底的にネット検索をしたのだが、検索に入力する言葉が曖昧であり上手く見つかることが出来なかった。夢中になって頭をひねるのだが、キャッチコピーやテレビでの広告映像シーンは目に浮かんでも、正確な言葉が見つからなくて、半分諦めをしていたら、念じれば通じることを実証して、漸く思いを果たすことができた。「こころ」はだれにも見えないけれど「こころづかい」は見える「思い」は見えないけれど「思いやり」はだれにでも見える誰しもが思いやりの気持ちを持っていても、なかなか行動に移すことは難しいし、その美しい気持ちは、実行に移した行為になってこそ、初めて価値があり意味があるということだろうか。既に鬼籍に入られている宮澤章二さんの詩「行為の意味」に込められたメッセージだそうで、すべての人が持っているやさしい気持ちが、たくさんのあたたかい行為となって世の中に生まれてほしいと説明があった。尚、行為の意味として、素晴らしい解説文が有ったので、書き写してみると次のような感化をうけて啓蒙される立派な教えがあった。あなたのはどんな形ですかと ひとに聞かれても答えようがない自分にも他人にもは見えないけれど ほんとうに見えないのであろうか確かにはだれにも見えないけれどは見えるのだ、それは人に対する積極的な行為だから。同じように胸の中のは見えないけれどはだれにでも見えるそれも人に対する積極的な行為だからあたたかい心が あたたかい行為になりやさしい思いが やさしい行為になるときもも 初めて美しく生きる-----それは 人が人として生きることだまさしく至言であり、心のありかたを改めて考えさせられてしまい、公共広告のCMを観たり聴いたりした多くの方が、同じようにこの詩の文章をメモしたり、検索をして書きとめていることと思う。未曾有の大震災が起き、原子力発電所の事故により、大規模な放射性物質の漏洩があり、まさしく日本列島が混沌として、大震災と原子力発電所の復旧や復興の索漠とした日々に、ふと精神的な自心の拠り所を考えてしまう。復興には多くの方がボランティアとして支援をしてくれて、被災を受けた方々も漸くにして、元気になって立ち直りの意気込みをしてくれている。どんな環境でも境遇になっても、確りと自分の心を大切にして、心遣いや思い遣り一杯の立派な人間として、社会に貢献できるようにと心掛けていきたい。いつも素直で美しい心を、若々しく初々しく心掛けることをして、常に強く誇れるように精一杯素敵な日常を積み重ねて、人間の大道を無難に生きる心としたい。
2011.05.23
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昨日のテレビニュースを観ていたら、大震災に見舞われた福島県の被災地を、中国の温家宝首相と、韓国の李明博大統領が気さくに訪問して、避難者と一緒に座って歓談している様子が放映されていた。それも大量のパンダのぬいぐるみや団扇のお土産を渡しながら、作り笑いでない親しみに満ちた震災見舞いをされてくれて、東北の被災者もいたく感激をされている様子で、大変に感激され喜びのインタビュが自然に聴くことが出来た。避難されていた方々が一応に笑顔で、ごく自然体で応対されていた様子がテレビから観ることが出来、中国と韓国の国家の首相と大統領が心配りをしている様子は、政治的な配慮は関係なく別にして、人間としての真心を感じてしまった。中国の温家宝首相も韓国の李明博大統領も、自ら避難者の人の輪の中に溶け込んでしまい、言葉の壁を取り払って被災者に声掛けをして、見舞ってくれた姿は尊くあり、避難されていた方は、心の中に感銘を覚えたに違いない。政治的な配慮なのか、人心を把握する術に長けているのか、国民性なのか、あるいは国際交流の演出もあったのだろうか、其々の国家の情報を判断して、あえて避難者の懐に飛び込んでの慰問にしたのか、外国の元首が心を許して談笑する姿が素晴らしい。我が国の首領はと言えば、作り笑いを恥ともせずに自国の被災者を案内したつもりが、中国と韓国の元首が自国民と同じように親しみ深くしてくれて、首領はどのような感じを持ったのだろうか。両国の首領が心を込めた愛情ある素晴らしい慰問の姿は、非常に共感を持てるし、実にありがたいことであるが、なぜこうした情愛をこめた慰問ができないのだろうか。我が国の首領も、こうした真心を込めた慰問の仕方を覚える必要があるし、本来ならば誠実な真心があれば、自然に態度に表現されると思うのだが、足早に避難所から去る姿をテレビから観ると、人の心が欠けているからではないだろうか。ものごと全てに一時の形骸的にするならば、如何様にも自由に表現することが出来るし、真心にしても形式的には安易にできるだろうから、避難者との自然なふれあいからは、とってもアットホームな雰囲気であり、家族のような和やかさと親しみを伝えてくれた。中国と韓国の大らかさは、大陸という風土環境に影響されているのだろうか、映像で観る限りでは、慰問する心構えと人間性に影響することが大きいと、一人勝手に思ってしまっている。できれば、時としてそうした場面に遭遇した時に、正視し対峙できる心の豊かさを養いたいし、積極的に真心を伝えることを実践してみようと思っているのだが・・・避難されていたご家族との触れ合いの場面にしても、手を取り合い子供を抱き、その親密感は計算高く政治的に利用する姿でなく、あくまでも人間性豊かな真心があるからと、確りと受け止めて確信をしてしまう。思えば、何度か養護施設や障害者の施設に慰問にいき、形ばかりの寄付金をお届けして、施設を見学させてもらい、それが真心込めた奉仕の一つと勘違いしていたようで、もっと弱者への思い遣りが大切であることを、大いに反省させられてしまった。政治家が人間性豊かな人格者として、国民を上手くリードしてくれて、国民からよきお手本として崇めることができるように、背一杯の真心を育成して、人間性豊かに政治をして欲しい。
2011.05.22
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国際連合は世界の政治問題の調整役として、世界平和の維持を図り、また、経済や社会問題を協力し合う大きな役割をもった組織であるが、しょせん国家の利益を政治の駆け引きにして、表舞台も裏の舞台も何やらきな臭い存在となっている。ニュヨークに建つ国連ビルは、世界平和の象徴としてその威厳をもって、十分な役目を果たすために、各国の国連大使の活躍を期待して、永久の平和宣言に役目を果たしてほしい。国内の政治問題にも、時として政治家の無策と横暴さに呆れきってしまい、政治不信を強く感じてしまう日常があるが、もっと念入りに政治を注視しなければいけないと、選挙民の立場として鼓吹をしてしまう。先日の大震災の復興も、なかなか思うようにはことが進まなく、被災をうけた地元の自治体が、渾身の努力をして被災された方々を支援しているが、国家の安泰と国民の生活を保障する大義が、時代の変遷によって、立派に進化をしてくれることを願ってしまう。一国内でも政治を民に為に、万全に施すことの難しさがあるのだが、今の時代はグローバル社会であり、一国の利益優先ばかりを推し量ることは難しい時代になっていて、国家利権があったり為替があったり、その駆け引きは計り知れない奥深さがある。自国家の利益を優先させることに、関係する隣国と友好国の関係に尽力をつくして、ロビー外交も含めて国家の交渉能力や折衝能力の向上が、国民の富や利得を増すために役立たせる必要があるし、もっとも大切になっている。国家を代表する国連大使にしても、国家の事情を背負っての代表であることが、とかく表舞台よりも裏のロビー外構が重きをなしているように思うのだが、我が国の一番のウイークポイントになるのだろうか。そんな本物の国連大使の活躍を自分自身が体験して、国家の利益になるような知恵を引き出すことと、世界の平和に貢献するための、各国との問題解決に向けての、創意工夫した交渉を勉強する機関があることを知った。その名も模擬国連であるが、想定問題の解決を、利害関係にある各国と直に折衝をしあう場があるのだが、その問題解決のための事前調査がされるし、問題解決に活動する本格的な模擬国連である。模擬国連の議長は専門的な経験を持つ、模擬国連の組織から派遣されて、各国の大使等および大使館員は、一般社会人から大学や高校生までの学生が務めることになった。議題も本物の国連に鼓舞してもらうためにも、地球環境を題材にして、各国大使館員は事前に調査や情報を収集するために、本物の各国大使館にも訪問をして、環境問題に関して事前調査さえ行っている。国際ロータリーの地元地区が主催する模擬国連は、すでに今月の1日に開催されて、午後の部に参加することが出来、熱心な模擬国連の討議や情報交換や折衝の場面を直に拝見することができた。驚くほどの主義主張をする発表能力の高さや、各国との調整能力も大人顔負けの集中力があり、模擬とうたわれた言葉がなければ、白熱した折衝能力の真剣さに言葉が出ないほどの緊迫感を覚えてしまった。その模様がダイジェスト版に千葉テレビで放映されて、改めて見入ってしまったのだが、流石にドキュメンタリー風に番組が進行して、まさしくロビー外交の有意義さをテレビ画面から感じてしまった。初めて参加した高校生の活躍ぶりを改めて、拍手をもって応援できたし、こうした意見交流の場の貴重さを感じてしまい、社会の中にも積極的に、討議する機会を構築させる大切さを教えられた。安に主義主張を押し付けるのではなく、御互いに利得になる問題解決を目指して、相互間の分かち合いの精神を身に着ける会合の有意義さを、この模擬国連で学ぶことができた。参加された高校生の貴重な体験が、きっと大きな果実となって成果を生むことを期待して、模擬国連以上にインパクトがあった、テレビ放映に引きこまれて、若者の純粋な情熱に感動をしてしまった。国連の調整機関も、若者のようなもっと純粋な気持ちで、世界平和に向けての思い遣り譲り合い分かち合う精神を発揮してほしいところだ。
2011.05.21
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