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母は妹として生まれた。2歳年上に兄が居た。
土地は持っていたがかなり生活は厳しかったらしい。
土地はあったので母の父(私の祖父。以下「祖父」と書く)は農業をしていた。
とにかくいろんな作物を作ったらしい。
特に多く作ったのはブドウ。一番単価が高いから。他にもいろんなものを作っていて兄ともども学校から帰ってくるなり手伝いに行かされたようだ。
母の母(私の祖母。以下「祖母」と書く)は結構しっかりしていて、農作物の出荷した後に入ってくるお金の管理などをしていた。土地も同様に。
母の兄(私の叔父。以下「叔父」と書く)は農業が嫌で商業系の高校に行った。叔父は結構優秀な方で商業高校卒ながら工場のラインの改良も案を出して実際に採用され、効率化にも貢献したらしい。しばらくして親が居ない女性と付き合い、結婚した。周囲は「親が居ないからあまりいいことがない」と反対したらしいが、叔父はそれを聞かずその女性と結婚(以下叔父の妻と書く)した。子供は1男1女に恵まれた。
一方の母は農業を手伝っていたのと、就職先で良い会社があったので高校に行くのは辞めたと言っていた。本当かどうかは調べることは今となってはできない。母は就職した会社で父と会い結婚。子供は姉と私だ。
が、祖母は私が生まれる2年前ぐらいに亡くなった。私は会えずじまいである。
母は家を出た(父と家を買った)。母の実家には叔父家族と祖父が住んでいた。
5歳ぐらいだったろうか?叔父の家に泊まりに行ったことがあり、その際は仲の良い夫婦だな、と思った。叔父の妻の屈託のない笑顔が思い出される。
が、小学校に上がったあたりからだろうか?叔父の家にはあまり行かなくなった。
別に叔父が嫌だったわけじゃない。叔父の妻が嫌だったわけじゃない。二人の子供と仲が悪かったわけでもない。私の両親が叔父の家族に近づかなくなったのだ。
正直この時に叔父の家族に何があったかは分からない。今知っているのは二人の子供だが心中を考えれば聞きづらい。
そして小学校高学年になってから、両親が叔父の家に頻繁に行くようになった。私も二人の子供と遊んだ。違和感があった。叔父の妻が居ないのだ。
それを聞くのに私自身が遠慮してなかなか聞き出せなかった。母が「叔父の妻が男を作ってふたりの二人の子供と叔父を捨てて出て行った」と。
父もそう言ってた。信じられなかった。あの叔父の妻が。屈託のない笑顔が思い出された。
叔父は優しい方だった。それが物足りなかったのか?
私の両親は「だから親が居ない人と結婚したらあかん」と言っていたがこれには疑問が残る。
夫婦の間の事なんか夫婦でしかわからない。
今でも両親は叔父の妻を蛇蝎の如く嫌ってるが、私はどうも真実ではない気がする。がそれを証明しようもない。あの世に行かないとわからないだろうな。
叔父はその後二人の子供を育てつつ、何とか踏んばっていたが、寂しさからか酒におぼれるようになった。アルコール中毒になっていた。これも正直疑問が残るのだ。叔父の親である祖父は何をしてた?
放置していたのだったらかなりの親だな、と思う。母が祖父の事を語ることが少ないのはそのためかな、と今でも思う。
両親もこうなったら定期的に叔父の家に行くようになった。叔父は勤務していた会社からはついに「辞めてくれ」と言われた。アル中で欠勤が続いていたから。ただ、解雇にしなかったのは昔頑張っていた時の恩情からかも知れない。叔父は退社した。幸いにして土地があり、賃貸をしていたので食うには困らない(といってそんな贅沢はできないが)状態が続いた。
一時叔父はアル中を治すべく入院もして通院もしたが、結局は元の木阿弥。私が高校2年の時にアルコールが元で急死した。
二人の子供が不良になってない事を考えれば叔父はそこまで悪い人ではないと思う。叔父がどうしようもない人なら二人ともグレてる。
その2年後、祖父が亡くなった。祖父は病院が大嫌いでずっと病院に行かなかった。畑作業から帰ってきたらお尻が強烈に痛い。排便したら血便。病院に行ったが大腸がんの末期。手術したが「気休めです。数か月伸ばしました」と。
祖父にはいろいろと聞きたかった。叔父をあそこまでなぜ放置したのか?とか。が、チューブで常に繋がれた状態の祖父にいろいろと聞くのは何かはばかられた。
叔父の家族に対し今でも「何かできなかったのか?」と心残りである。
叔父の二人の子供はいたって普通の人である。「親が居ないから~」のセリフを言った両親が親代わりになったのはすごい皮肉だな。
時にオチもない。ただただ叔父の家族の思い出を書いただけ。