ヘイフリックの限界part2

ヘイフリックの限界part2

2009.07.30
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 「それから」を読みながら、考えさせられる。文学とは、小説とは、どれくらいに人間の中に、暮らしの中に必要なのだろうか。色々な物語を読んできたが、自分の精神とどれだけ係わってきたのだろうか。様々な人間がいることは分かっている。現在では地上に67億人もいるし、日本にも1.3憶人いる。代助がどんな人間なのか、それは謂わばどんな人間であろうと知ったことではないが、自己主張はするとしても、親に寄生しているに過ぎない男でしかない。然し、それでも日本という社会が生み出した或る種のシンボルでもあるのだろう。

 ・小説が描かれた背景にあるものがある。根拠のない話はない。いても可笑しくない人物だろう。それは「源氏物語」のように、貴族社会だろうか。そういう通俗の世界を描いているに過ぎないのが小説の根幹にあるということか。持ってまわっているだけで、時間だけが過ぎてしまう。何も生産されない。連鎖がない。そこでその人格は終わってしまう。何のために教育があったのだろうか。インテリとはそういう取るに足らない者たちなのだろうか。

 ・へ2・・・どうもわからない。漱石の歪な現実肯定が根底にあるのだろう。然し、そこから学ばねばならない私たちの立場がある。何でも腹の中に入れなければ先に進めないとしたらそうするしかないのだろう。すべてを遣り切ってこそ、初めて見えるものがあるかも知れないからだ。誰も遣ろうとしないではならない。どんな川でも海でも、渡るべきなのだろう。それくらいの我慢がなければ、この社会を理解などできないからだ。






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最終更新日  2009.07.30 17:06:11
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