血流が止まり出して悲鳴の上がるような痛みを何度も感じたけれど、それが自分の会社だと気づくのは遅くなるものだ。その度に否定しようとしたからだろう。ただ私は未経験ではなかっただけだ。企業が破綻するときの、放漫経営を小規模ながら見ていたからだ。企業もひとも、ある相似したものがあるだろう。ものが尽きて倒れるのだ。
よく見れば解ることがあるだろう。それを見ようとしないだけだ。死病に対する多くの患者の受け止め方も一つのパターンがあると訊いている。最期は受容しなければならないだけだろう。燃え尽きるのにも早いか遅いかの違いだけなのだろうか。サドンダイが話題になるがそれが自分のことだと気づくのはいつも手遅れだろう。まさか自分がそんな莫迦だとは誰も気づかないだろう。そうして死んだ人は身近にもいるだろうに。
しっかり物事をみていないのは、そうさせまいとする力があることを忘れてはならない。罠に落ちたものがそれと気づくような簡単な装置であるわけがないだろう。自分で努力をしないで解るような社会ではない。解るものだけが解ればいいのだろう。
写真を観て、分るものは分る、がわからなければわからない。書き手の意図がどこにあるか想像できなければならない。イメージできないものに明日のイメージを描くことはできないだろう。段々と自分の体がシンメトリーではなくなっていくようだ。ヘイフリックの限界がじわりと近づくだろう。今すぐ死にたくないから現代医学にすがってもいる。信用はしないだけだ。「薬は毒だ」と言った薬剤師の卵がいた。汚染された環境がどれほどのものか知っている研究者たちはどこにいるのだろうか。