
「盾はヰリアムであり、ヰリアムは盾である」。これは「一心不乱」の極致であり、絶対の境地である。(石井和夫著「漱石と次代の青年」より)漱石の「幻影の盾」解説の中にある。拘りは拘りを生む原因になる。一片の小説も内奥に至れば、二度とこの世には、帰って来れないかも知れない。文豪の小説と云うものはそんな原生林の世界でもあるのだろうか。謂わば一端踏み込めば蟻地獄にもなる。作家の仕掛けた罠に嵌まるからだろう。ミイラ取りがミイラになる運命でもある。
・何時も現世に帰る準備をしておかないと偉大な作品ほど、迷わされるだろう。好きな場所でミイラになるのだから本望だと云う研究者もいるだろうが、如何に自分の精神を燃焼できるかでもあるだろう。ことばに溺れることが、人生を台無しにもしかねない。AはAであり、非Aではない。「盾」はヰリアムではない。あり得ないからだ。然し、小説の中ではそれが通用する。あり得ないことが起きるから小説でもある。ひとは想像力の威力を持つ存在でもある。
・へ2・・・詭弁を弄して平気でいるひとがいる。それを許す社会もある。何が言われているのか、本当のことは中々証明できない。すべてを知る目を持たないからだ。聖職者が500人も幼児虐待をしたと海外ニュースで報じられている。ローマ法王は知っていたのではないかと疑いを持たれているが、そのことさえ真実は解からない。宗教さえ誠実さが欠けているのだろうか。