動く重力

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普通免許とフリーター(04)

普通免許とフリーター(04)

 雪穂さんは猫を見上げながら言った。
「おいで」
 僕は危うく雪穂さんに駆け寄るところだった。男は美人に『おいで』と言われたら付いて行きたくなるものだ。僕が駆け寄らなかったのは先ほど似たような間違いをしたからだった。雪穂さんが興味を示しているのは僕ではなく、シロの方だ。
 シロはその言葉を聞いた途端に雪穂さんの足元へ一目散に向かっていった。パイプからパイプへ、上るときに通ったルートを逆に辿り、雪穂さんの足元で止まる。その後でシロはよほど機嫌がいいのか甘えるように『にゃあ』と鳴いた。
 僕が呼んでもあくびをするだけだったのに、はじめて見る雪穂さんにはものすごく懐いていた。『誰がここまで育てやったと思ってるんだ』シロに言ってもどうせ分からないので心の中でそっと呟く。シロがこちらを向いた。その目は『頼んだ覚えは無いんだよね』と言っていた。
 雪穂さんは少しシロを撫でた後に、シロを抱きかかえて立ち上がった。
「じゃあね、桐原君」
「え?」
 僕は一瞬、雪穂さんが言っていることが分からず固まってしまった。抱きかかえられたシロは満足そうにこちらを見ている。
「ちょ、ちょっと待ってください」
 雪穂さんはもうすでに歩き始めていたが声は届く距離だった。
「何?」
 雪穂さんはまるで何もなかったかのように振り返った。
「その猫は僕の家のペットなので返してください」
 この言葉は日本語のあらゆる組み合わせの中で最も自分の主張が出来る組み合わせだった。
「えっと」
 少し考え込んだ雪穂さんは僕ほど日本語が得意ではなかったのだろう。
「じゃあ、明日もここに来るからそのとき話しましょう」
 こんな返答が帰ってくるくらいなのだから。
 雪穂さんは僕が混乱している内にシロを抱いたままどこかへ行ってしまった。僕の方はと言えば『何時ごろくればいいんだろう?』なんて、どうでもいいことを考えていた。


 僕は路地裏で明日まで待ち続けるつもりはなかったので家に帰った。そして何事もなかったかのように一日を終えたのだが、途中夏美とシロについて話した。
「兄ちゃん、シロは見つかったの?」
「今日は収穫なしだったよ」
 僕はサッカー選手のように両手を広げて何もなかったと審判にアピールした。プレイ中にこちらを有利にするためにつく嘘だ。本当は心苦しいが、まさか『僕の目の前で連れて行かれた』と言うわけにもいかないだろう。
「兄ちゃんだったら、そんなものよね」
 少しは落ち込んでもよさそうなものだが、平然と言う夏美。
「ほっといてもそのうち帰ってくるよ」
 本当は連れて行かれてしまったからそんなことはないのだけれど、僕は然るべき態度を取らなければならなかった。
「兄ちゃん、そんな偶然は期待しない方がいいよ」
「何で?」
「最近の若者は頭がおかしいのばっかりなんだから、暇つぶしにシロを殺すかもしれないでしょ?」
「そんな大袈裟な」
「世の中は何があるか分からないの」
「そうかもしれないけど。それでも、何かが起こるなんて到底思えない」
「世界は皮肉で満ちているのよ」
「どういうこと?」
「悪いことをしている人間は何をやっても成功して、普通に暮らしている人間は全部失敗する」
「そんなわけないだろう」
「あるの」
 根拠は無さそうだったが、夏美がきっぱりと言い切ったので信じることにした。
「きっと、僕が就職してないのもそのせいだな」
「きっと、努力してない人は報われないんだよ」
 今日の主審は辛口だった。


 僕は考えなければならなかった。問題は明日、雪穂さんがいる場所に行くかどうか、行くとしたら一体何時に行けばいいか、そんなところだろう。ただ、人間とは面白いもので難しいことは先送りにする傾向がある。僕はベッドで寝ながら考えていたのだが、何も決まらないまま寝てしまった。

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