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「人間って車のエンジンに似てるよな」 寒い冬の朝、俺達は両手をコートのポケットに突っ込みながら道路を歩いていた。「似てますか?」 聞き返されてしまった。俺は思いつきで言っただけだった。良く考えれば二つはそんなに似ていない。だけど、似ている所が一つも無いなんて事もない。だから俺は適当な事を言って誤魔化す事にした。「寒いと、なかなか動かないだろ?」「まあ、そこは似てます」渋々、納得したようだった。「今日みたいな寒い冬の朝は、俺達もエンジンももうちょっと寝ていたいと思うんだよ」 俺は白い息を吐きながらそう言った。 隣を歩く職場の後輩は俺の話に何の返事も寄越さなかった。「何で黙るんだよ」「ええと、その、寒いからです」取り繕ったような答えが返ってきた。 俺は、はあっと溜息をついた。その瞬間、辺りが真っ白になって、何事も無かったかのように透明に戻った。「寒い朝に車を動かすときは、事前にエンジンをあたためておくだろ?」「ええ、普通は、そうしますね」「俺もエンジンと同じで毎朝、事前にやっておくことがあるんだよ」「へえ、何ですか、それは」後輩はまったく興味が無いといった風で話の先を促した。「俺は仕事に入る前にココアを飲まないと仕事が上手くいかない」「ココアですか」「そう、ホットのココア。自動販売機で売ってるだろ?」「その歳でココアなんて、随分可愛いものを飲むんですね」普段はとても温厚な男なのだが、今の言葉は百パーセント悪意があってのものだった。「ココアがいいに決まってる。おっさんがブラックのコーヒーなんて、ありきたりだ」「ありきたりでいいと思いますけど」「馬鹿、たまには意外な一面が必要なんだよ。今のかみさんもそれで落としたようなもんだ」「ギャップ、ですか」「そういう事だ。ギャップは女を揺さぶる秘密兵器みたいなもんなんだよ」「勉強になります。先輩」後輩は適当な言葉で誤魔化した。 確かにどうでもいい話だったが、ここまで後輩に馬鹿にされているとなると悔しい。俺は先輩という立場を使って嫌味の一つでも言ってやろうと思って、こう言った。「俺の話をちゃんと聞いてたのか?」「聞いてましたよ。先輩の最終兵器はココアなんでしょ?」「え? あ、ああ……」 後輩は俺より一枚上手だった。 話の流れからすると、確かに最終兵器がココアという事になる。しかし中年の俺にしてみれば、ココアはあまりにも情けない最終兵器だった。「そういう言い方はないだろう」「先輩が言ったんじゃないですか」「そうだけど、流石にそれは格好悪すぎる」「ギャップ、ですよ。先輩」後輩は嫌味ったらしくにやりと笑った。「しかし寒いなあ。こういうときになると夏が恋しくなる」「先輩、夏は夏でつらいと思いますよ」「うーん、……確かに、そうだな。でも、夏の日差し、青い海を想像してみろよ」「想像したくないです。今だけは『広いもの』から遠ざかる話にしましょう」「う。そ、そうだな分かった。今の話は無しにする」 この後輩はとても冷静だ。少しミスをしてもちゃんと修正してくる。だからこいつは仕事仲間からも信頼されているし、実際に俺も評価している。 だが、こういう時に少しは先輩の顔を立ててくれても良いのではないだろうか。「まあ、状況が状況だしなあ」一人で納得してしまった。寒さで脳も動いていないんだろう。「先輩、そんなに夏が恋しいなら、怖い話でもしましょうか?」何故か急に後輩が話を切り出した。「お、何か面白い話でもあるのか?」このとき面白がってしまったのを、俺は後になって少し後悔する事になる。「そうですねえ、一体、何処から話せば正確に伝わるかなあ」少し間を置いて、後輩は話を始めた。「ある冬の日の夜の事です。雪の降りしきる中、道路を車が走っていました。 車から見える景色は前後にまっすぐ伸びる道路と真っ白な雪に覆われた平らな大地だけでした。しかもそれが見えるのはヘッドライトの光が届く範囲までで、その外には暗闇が広がっています。そんな中、運転手は助手席に座る男にこう切り出しました。『眠いから今日はこの辺で、車を停めないか?』 助手席の男は辺りを見回し、車を停めるような場所が無い事を確認しました。『路上駐車で、仮眠ですか?』 運転手は言いました。『さっきから車は一台も通らないし、迷惑にはならないだろ?』 確かにさっきからこの道に車は通りませんでした。それでも、助手席の男は運転手に提案しました。『もう少しで人気のあるところまで行けますから、寝るのはそれからにしませんか?』と。 しかし、運転手の男は頑なに拒みました。『いや、もう限界だ。俺は寝る』そう言って、車を路肩に寄せました。『あと小一時間ほど運転すれば町に着きますから、そこまで行きましょうよ』必死に助手席の男は食い下がりました。窓の外に広がる雪と暗闇を見ると、何か嫌な予感がしたのです。『そんなに言うならお前が運転しろよ』何が気に食わなかったのか、運転手は不機嫌になり助手席の男に冷たく言い放ちました。 助手席の男は免許を取得していませんでした。そして運転手の男はその事を知っていながらも、そう発言したのです。この一言には助手席の男も口をつぐむしかありませんでした。運転手の言葉はどちらが主導権を握っているかという事を助手席の男に理解させました。 こうして道の端に車を停めて二人は車の中で仮眠を取る事にしました。 さて、どれほど眠っていたでしょうか。寒さに体を震わせながら助手席の男は目を覚ましました。外は未だに雪が降り続けているので寒いのは当然です。当然なのですが、助手席の男は不思議に思いました。『暖房が入ってない』 寒いからこそ車内は暖房で暖かくしているはずです。助手席の男は、なぜ暖房を切ったんだと憤りながら運転手を起こしました。『先輩、寒いんですけど』 起こされた運転手は不機嫌そうに顔をしかめた後、助手席の男が言った事の意味を考えました。そして運転手は暖房が入っていない事に気付きました。運転手には暖房のスイッチを切った覚えはありません。何があったのか、と少しの間、頭を巡らせた後、運転手は一つの結論に辿り着きました。『――バッテリーが、あがった』」「わ、分かった。やめてくれ」俺はもう限界だった。助手席の男、いや、後輩が話したこの話は、まさについ数時間前の俺達に起こった出来事だった。 雪が降り積もる寒い冬の朝、かなりバッテリーが上がりやすい状況。こうなる事は考えるまでも無く、容易に想像できたはずだった。バッテリーが上がってしまえば、エンジンを動かす事が出来ない。進退ここに窮まれりだった。 しかし、俺はバッテリーが上がったのに気付いた時には大して焦っていなかった。何故か? それは俺が馬鹿だったからだ。「先輩、怖い話はまだ終わってませんよ」どうやら後輩は俺に追い討ちをかけるつもりのようだ。「この後、先輩は『バッテリー上がりぐらい大した事じゃないだろ。困ったときは助けを呼べばいいんだ』と言いましたが――」 こんなだだっ広い雪原では周囲に人も居らず、頼みの綱である携帯電話も当然のように圏外だった。 そして今、俺と後輩はただただ真っ直ぐに伸びる道を歩き続けている。町に辿り着くにはそれしか方法が無いのだ。「車、通らないかなあ」俺は弱々しく呟いた。しかし、待っているのは後輩の手厳しい言葉だけだった。「先輩が言ったんですよ。全然、車が通らないって」 後輩の怖い話はとても恐ろしく、ただでさえ寒いのに、より一層寒さが増してしまった。こんなときに俺は思う。温かいココアが飲みたいと。
January 16, 2007
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久々の更新となります。まあ、更新頻度は大して重要ではないんですが。いつも何もないときは適当に何か書くんですが、それもできず。次までには何か書いておきたいと思います。
December 13, 2006
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翌朝、僕は授業開始の一時間前に起きた。 日の光はそれほど強いものではない。だからこそ目覚めのいい朝になったのだろう、と僕は勝手に推測した。 とりあえず、目覚めの一杯だ。 僕はコーヒーを淹れて、淹れたばかりのコーヒーをテーブルの上に置いた。 そして僕はテーブルの上に置かれた紙を見て、聞かせる相手もいないのに感想を告げた。「和泉さん、これはちょっと、簡単過ぎです」 突然の事だった。 朝起きたら和泉さんが居なくなっていたのだ。ただ、僕はなんとなくそんな気がしていたから、特に驚きもなかった。 どうせいつもの事だ、すぐに帰ってくるに違いない、と思わなくもなかった。しかし、テーブルの上に書き置きが残されていた。それにはこう書いてあったのである。『元はといえばアランを連れてきてしまった俺の責任だ。面倒な事を持ってきてすまなかった。勝手だが、これ以上ここに居てもお前に迷惑を掛けるだけだと判断した。ここを出て行く事にする。 和泉』 何というか、実に和泉さんらしい話だ。あの人はいつも何でも自分で考えて、何でも自分で行動してしまうのだ。大体、迷惑というのはこの部屋に住むところから始まっている。今更、誘拐事件の一つや二つどうって事はない。あの人にとってみれば、よく分からない奴と一緒に暮らすのは良くて、誘拐事件に巻き込むのは駄目らしい。……一体、どういう基準で判断しているのだか。 でも僕はなんとなく思う。この手紙で大事なのは僕に謝る事ではないんじゃないだろうか。本当に大事なのはもっと他のところにあるのではないか、と。『俺の責任だ』とか『面倒を持ってきて』とか『お前に迷惑を掛けるだけだ』とか、和泉さんは必要以上に自分の責任にしようとしていると思う。 僕は気付いた事を漠然と考えてみた。考えてみると、僕には思い当たることがあった。いや、正確には今の僕にはそれしか思いつかないと言ったほうが正しい。昨日から意識していた事が答えだった。 和泉さんは、僕がアランさんに適当な場所を教えてしまった事で自分を責めている、と思ったんだ。 僕は和泉さんの予想通りに自責の念に駆られていた。 僕の適当な道案内のせいで一つの家族を壊してしまった。一人の少年の心を傷つけ、一人の人間を殺してしまったのだ。 こんなもの、僕にはどうしようもない。今更謝ったってアランさんは生き返らないし、時間が戻るわけでもない。 あの誘拐事件は僕がちゃんと案内していたらあんな事にはならなかった。和泉さんは親切心でアランさんをうちまで連れてきたのに、僕のせいで死んでしまったんだ。 そう、僕が、僕こそがこの事件を捻じ曲げた大きな要因だ。 だから和泉さんは僕に責任はないのだと手紙に残したんだろう。この手紙は謝罪の手紙ではなく、責任の所在を書いた手紙なのだ。和泉さんは僕の代わりに罪を被って姿を消した。そうは言ってもこれは二人だけのやり取りに過ぎないのだから、実際に罰があるわけではない。二人の事件に対する認識がどうであるか、これが変わる程度のものだ。 和泉さんは僕を救ってくれようとした。あまりに意識しすぎて僕に意図がばれてしまったけど、その事はとても嬉しい。あの人は少年を救った。そして、最後には僕までも救ってくれようとしたのだ。「かなわないな」 ああ、かなわない。和泉さんは気付いてしまうんだろう。人が悲しんでいる事や、何が悲しませているのかを。そして和泉さんはそれを解決しようと頑張るのだ。助けるためなら人の双眼鏡だって勝手にあげてしまうし、――本当に泥棒にだってなってしまう。 とても馬鹿だけど、同時に、とてもすごい事だ。 僕は残ったコーヒーを一気に飲み干して、深呼吸を一つした。時計を見るとそろそろ最初の授業が始まりそうな時間だ。バッグに必要な荷物を詰めて、部屋を出る。鍵を掛けながら、もうここの鍵穴を勝手に開けるような人は来ないんだろうな、と思った。でも、もう和泉さんに会う事もない代わりに、僕が自責の念に駆られる事もおそらく、ない。
November 27, 2006
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読み終えて和泉さんに話しかけようとすると、和泉さんは静かに俯いていた。僕は掛ける言葉も思いつかず、眺める事しか出来なかった。 和泉さんは右手でテレビのリモコンを操作した。 テレビではちょうどこの事件のニュースが流れていた。『国際的誘拐事件』のテロップと無表情でニュースを読み上げる人気キャスターが映っている。「――二人は銃を撃ち合い、銃で撃たれた被害者の父親は間もなく死亡しました。犯人は重体となっています――」 キャスターがそう言うと画面はアランさんの名前と死亡の文字に切り替わった。「銃で撃たれて、すぐに死んだんだ」和泉さんは誰にともなくそう呟いた。 僕は黙っているのが苦痛だったのでどうでもいい事を話し始めた。「アランさんは誘拐犯じゃありませんでしたね」「アランはジョンの父親だった」「仲間割れなんかしていませんでしたね」「アランと犯人は仲間じゃない」「アランさんが倉庫に入っていった理由が分かりました」「自分の息子がいると分かったら、まあ、入っていくものなんだろうな」「アランさんは偶然倉庫を見つけました。だったら、アランさんの本来の目的地って何処だったんですか?」「身代金を受け渡す場合、犯人は場所を指定する事が多い。だから受け渡し場所を探していたんだろう。アランの様子から見て昨日のは下見だ」「双眼鏡のおじさん」「何だよ」「僕の双眼鏡、ジョン君にあげちゃったんですね」「ああ、すまん。勝手にあげた」「十万円もしたのに」「……あれ、そんなにしたのか」「泥棒」「初めに泥棒だと言っただろう」「そうですけど」「それに」「何ですか?」「あげてもよかったんだろう?」「……ええ、あんなもので良かったのなら」 僕は一度席をはずし、コーヒーを淹れる事にした。アランさんと僕は飲んだけど和泉さんはこのコーヒーを飲んだ事がない。お湯が沸くまでの間に、僕はコーヒーカップの中にインスタントコーヒーの粉を入れた。 お湯を注ぎ、コーヒーを入れて和泉さんのところに戻ると、テレビでは相変わらず『国際的誘拐事件』の報道をしていた。犯人がどうやら一命を取り留めたらしく、今後はこの犯人が所属する組織を探っていく事になるらしい。少年は確かにいろんな国を回ったと言っていたから大きな組織なのだろう。 僕はテレビを消してコーヒーを飲んだ。コーヒーはコーヒーより苦かった。「和泉さんは優しいんですね」僕は急に話を振った。「ジョン君は和泉さんが手を握っていてくれた事に感謝していますし」きっとわざわざ病院を探してジョン君のお見舞いをしたのも和泉さんの優しさだし、手紙を書かせた事だってそうなのだろう。人は誰かに話を聞いてもらうと落ち着くと聞いた事がある。「子供が苦しむのはおかしいと思う」和泉さんはコーヒーを見つめて、自分に言い聞かせるように言った。「俺は、子供のためなら双眼鏡だってあげるし、泥棒にだってなる。……子供のときくらいは、平和に過ごしてもいいじゃないか」 僕はその後、部屋でゲームをした。昨晩、ほとんど寝ていない和泉さんは僕のベッドで眠った。 僕はすぐにゲームに飽きた。いつもならいい暇つぶしになるのだが、今日はまったくそんな気分にならない。僕は三十分ほどでやる事がなくなって困った。それから時計の長針が一回転するのを、ただ眺めた。 そして、ふと思いついて、すかさず僕は本を探し始めた。探すといっても普段からたまに使っている本なので見つけ出すのにさほど時間は掛からない。僕が手に取ったのは一冊の料理本。僕は和泉さんのために料理をする事にした。今日のメニューはカレー。料理本がなくても作れそうなメニューだけど、料理本は必須である。僕が作るのはカレーではなく、おいしいカレーなのだから。 カレーをつくるといってもほとんどの時間はじっくり煮込んでいるだけだった。だから結局は暇で暇でしょうがなかったのだが、それはそれで有意義な時間だったと思う。 きっと僕も和泉さんのように誰かの役に立ちたかったのだと思う。カレーをつくる事なんて、絶望に沈む少年を救う事に比べたら、何もしていないのとほとんど変わらないかもしれない。それでも何かしたかったのだ。和泉さんのために料理を振舞うなんて事は何にもならないかもしれない。でも、和泉さんはきっと喜んでくれる事だろう。この事件であの人の事がよく分かった。和泉さんはものすごく適当で、ものすごく優しい泥棒なのだ。 夕食の前には和泉さんが目を覚ました。本人曰く『コーヒーを飲んだ後にぐーすか寝れるもんじゃない』との事である。 その後二人でカレーを食べた。『レトルトよりはうまい』と言われた。僕は無理やり褒め言葉として受け取る事にした。 カレーを食べて、テレビを何とはなしに観賞した後、僕は眠った。次の日の授業には出るつもりだったから、その日のうちに床に就いた。
November 25, 2006
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森野が家を出てから五分後、入れ替わるような形で和泉さんが帰ってきた。「何処行ってたんですか、和泉さん?」「いや、何処というわけでもない」和泉さんは少し疲れているようにみえた。「お仕事ですか?」僕が間接的に聞いたのは詳しい事を聞いてはいけないと心の何処かで思ったからだ。「いや、私的な事だ」和泉さんは息を大きく吐き出した後、話を始めた。「あの少年に会ってきた」 少年?「昨日の現場にいた少年だ。久倉も話しただろう」 どうやら昨日縛られていた少年の事のようだ。和泉さんは今の今まであの子と会っていたらしい。僕は、何故今更会いに行くのかを疑問に思い、すぐに行動に移すその行動力に驚かされた。「えっと、彼ですか。何でまたそんな事を」「そんな事はどうでもいい」和泉さんは服の内側のポケットから綺麗に折りたたまれた紙を取り出した。「これを読んでくれないか」 その紙は英語で書かれた手紙だった。「あの少年は俺と言葉が通じないから、この紙にいろいろ書いてもらった」「何をですか?」この人が何のために少年に会いに行ったか、さっぱり分からない。「まあ、愚痴とかいろいろだ。読めば分かる。俺は英語が読めないんだ、早く読んでくれ」「分かりましたよ」 この紙は手紙を書くための紙なんかではなく、ただのルーズリーフだった。きっと和泉さんがどこかで買って、持って行ったのだろう。 僕はルーズリーフの一番上から日本語に訳していく事にした。「双眼鏡のおじさん達へ」僕は一行目から早速意味が分からなかった。「これ、僕達の事ですか?」「そうだ。その調子で訳していってくれ」「分かりました。では」僕は一呼吸置いてまた続きを読み始めた。「双眼鏡のおじさんが『好きな事を書け』と言うので書きます。きっとこれを英語のお兄さんが読むのでしょう。そのときは僕の代わりにこのおじさんに助けてくれてありがとうと言ってください。お願いします。 今僕がいる病室におじさんが来たとき、僕はまた、さらわれてしまうのかもしれないと思い泣いてしまいました。でも、僕を昨日助けてくれた人だという事に気付き何とか泣き止みました。おじさん、泣いてしまってごめんなさい。 おじさん達はなぜあの場所に来たんですか? 僕には分かりません。おじさん達は警察の人ではなく、まったく関係ない人だと聞いています。もしそうだったら、何があったか分からないと思いますので、僕がこの手紙で少し説明しようと思います。 僕の名前はジョンです。イギリスに住んでいました。でも何日か前に、無理やり車に乗せられて、誘拐されてしまいました。車でたくさん移動しました。船にもたくさん乗りました。いろんな国に行きました。そしておととい、あの倉庫に移ってきました。 昨日、誘拐犯の人はこんな事を言ってました『ここは日本だ。誰も助けに来ないだろう。明後日にはようやく身代金も取れそうだし、自由まであと少しだ』と。僕はもう疲れきっていて、うとうとしながらその話を聞いていました。 でも、誘拐犯の言う通りにはなりませんでした。昨日の事です。誰も来るはずがない倉庫に人が入ってきたのです。それはパパでした。『ジョン、助けに来たぞ』 パパは右手に拳銃を握っていました。僕は久しぶりに会えたパパがうれしくて、やっぱり泣いてしまいました。 誘拐犯の人は扉が開いたときには油断をしていて、ライフルには手が届かないところにいました。僕は助かったと思いました。しかし、パパは油断せずに誘拐犯を撃つ事を優先していました。パパは誘拐犯にしっかり狙いを定めて拳銃を撃ちました。 でも、誘拐犯は懐から拳銃を取り出しパパを撃ちました。ほとんど同じタイミングでした。僕は目の前が真っ白になりました。何回も同じシーンが頭の中で繰り返されました。僕は嫌でした。何回そのシーンを頭の中で繰り返してもパパは撃たれてしまっていたのです。 僕は悲しくてまた泣きました。とてもとても悲しくて、よく分からなくなってしまいました。そして、僕の知らない間におじさん達が倉庫の中に入ってきていました。いつの間にか僕の隣には双眼鏡のおじさんがいて、僕の手を握っていました。おじさんは英語ではない言葉で何かを僕に言った後、どこかに電話を掛けました。お兄さんが外に出ている間だったのでお兄さんはその事を知らないかもしれません。でも、僕はおじさんが手を握ってくれていたお陰で少し落ち着く事が出来ました。何もかもがめちゃくちゃでよく分からなかったけど、あのときのおじさんのやさしさだけは覚えています。僕はおじさんに感謝しています。今はあのやさしさだけが僕の希望です。 これが誘拐されてから今までに起こった事です。パパは他の病室で寝かされているそうです。僕はもう元気になったのでパパも早く元気になって欲しいと思います。いろいろあったけど、整理してみると短いです。僕は早くこの事を忘れていつもの生活に戻りたいと思います。今日中にママが来てくれるそうです。僕達はすぐに帰国します。だから、おじさん達に会う事はもうないと思いますが、僕はおじさん達を忘れません。 こんなに長く手紙を書いたのは初めてなので眠くなってきました。もっといろいろ言いたい事があったけど、もう終わりにします。おじさん達、ありがとう。 あと、双眼鏡大事にします。僕の一生の宝物です」
November 23, 2006
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家に帰るともう夜で、僕は緊張しきっていた神経が一気に緩んで眠くなってしまった。「和泉さん、僕はもう寝ますね」「ああ、俺も疲れたからもう寝るよ」そう言って和泉さんはクッションを枕にして床に寝転がった。僕はそれを見た後、電気を消してベッドに潜り込んだ。 何だったんだろう? 疑問が僕の頭の中で繰り返される。 こうやってぼんやりと考えると、頭の中が整理されてきた。今日の事はもう過ぎ去った事なのですべてを過去にしてしまいたかったのだが、ある事に気付いてしまった。いや、これは気付くのに遅すぎたくらいだ。ふと振り返ってみればすぐに分かる。 アランさんは、誘拐犯なんかではない。 誘拐犯だったら、道に迷っても僕や和泉さんのような人に場所は聞かないだろう。もし本当に道に迷ったとしても、仲間に電話でもすればいいし、電話が出来なくたって一般人に場所が知られてしまうような方法をとるとは考えづらい。 さらにアランさんが誘拐犯ではないとする根拠がもう一つある。 そもそも僕はアランさんに正しい場所を教えていないのだ。 僕は極度の方向音痴で地図の内容もさっぱり分からない。だから道を尋ねてきたアランさんには、僕なりに頑張ったつもりでも全然違う場所を教えてしまったはずだ。そうなればますますアランさんは誘拐犯とは違う事になる。 もちろん僕の考えにだって穴がある。アランさんは少し緊張感のない誘拐犯で、僕の絶対的な方向音痴も運良くかいくぐった、という事かもしれない。まあ、そんな誘拐犯がいるとも思えないし、地図も読めない僕の道案内がたまたま当たるなんて、それこそ確変が起こらない限りありえないだろう。 だが、逆にアランさんが誘拐犯という身分ではないと説明がつかない事がある。アランさんが誘拐犯ではないとすると、アランさんは、あの誘拐犯が来るまではおそらく使われていなかったであろう倉庫に用があると言う事になってしまう。それはおかしい。 目的地ではないはずの倉庫の周りでアランさんは緊張した面持ちで歩いていた、少なくとも一時間以上は。アランさんには目的地ではない場所にとどまるような理由があったのだろうか? そして最後にあの惨劇だ。ここまで来ると説明がつかないどころではないし、思い出しただけでもがくがくと震えてしまう。でも、それは脳の片隅に追いやっておいて、疑問点だけを抽出する事にする。 なぜ、目的地ではない倉庫をすぐに離れなかったのか? なぜ、倉庫の中に入っていったのか? 分かるわけがなかった。 ……寝るか。 僕は早々にこの問題を投げ出して寝た。 朝の寝覚めは良くもなく、悪くもなかった。ただ、人の死体を思い出そうが、真っ赤に染まったコンクリートの床を思い出そうが、寝起きの頭では想像力が追いつかないという事には助けられた。はっきりした頭で未だに鮮明な記憶を思い出す事は非常に苦痛だ。これから結構の間、僕はあの光景を思い出すだろう。でも、いつしか記憶が薄れ、ぼんやりとしたイメージになるまで、僕はその光景に耐えなければいけない。 今日は気分が乗らないので大学をサボる事にする。 いつものように森野にメールを送る。『今日は全部サボるから、出来る限り出席を頼む』 これで今日一日はオフになった。 そうは言っても外に出るような気分でもないのでテレビをつけて、昨日、アランさんに出したのと同じコーヒーを淹れる。 スポーツのニュースを眺めながらコーヒーに口をつけたとき、ふと気付いた。「和泉さんがいない」 昨日あんな事があったのに仕事に行ったのだろうか? 仕事熱心なのは偉いが、泥棒は偉くない。真面目に働けばいいのになぜあの人は泥棒なんかやっているのだろう。 ニュースの内容がスポーツから天気予報に移ったとき、森野からメールが届いた。『今日、レポート提出があるけど休むのか?』 そうだった。今日はレポートを提出する日だったのだ。 僕は授業中に終わらせたはずのレポート用紙をバッグの中から探した。紙がぐしゃぐしゃになってはいたが、ちゃんと最後までやってある。せっかくやってあるんだから今日はレポートを提出しなくてはならないだろう。しかし、僕には外に出る気なんて毛頭ない。どうするか迷った挙句、僕は森野に電話する事にした。「久倉、どうするんだよ。今日は来ないのか?」僕が話す前に森野が先に話を始めた。「森野さん、相談なんですが、この部屋まで取りに来ては頂けないでしょうか?」「え?」「あっ、やっぱり無理だよね。そうだよね」「……じゃあ、今から行くよ」「あ、そう? 助かるよ」「プリントを用意して待ってろよ」「はいはい、お願いします」 森野はうちまで来てくれるようだった。なかなか気の利くやつである。それから僕は森野が来るまで、またボーっとしている事にした。『ピンポン、ピンポン』 来客を知らせる音がした。今はちょうど授業が終わってお昼の時間だから、やってきたのは森野だろう。僕は、のそのそと玄関まで移動して玄関の鍵を開けた。「よう、久倉」やってきたのはやはり森野だった。「特に用事もないのに休んでるのか。風邪?」「いや、今日はだるいから」昨日あった事を森野に話すわけにもいかず、適当な理由を作った。「ああ、そう」森野はその事には特に興味を示さなかった。「ちょっと待ってて、レポート取って来るから」「あ、それと財布も持って来いよ」森野は妙な注文をした。「財布?」「この前飲んだとき、二千円貸しただろ?」「ああ、そうか。分かった」森野は僕に貸したお金を返して貰うついでにレポートを出してくれるようだった。なるほど、と感心しつつ、僕は千円札二枚とレポート用紙を取ってきて、森野に渡した。「ではご注文の品、確かに受け取りました」何かの業者のような台詞を吐いて森野は僕の家を後にした。
November 21, 2006
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倉庫の中から、子供の泣く声が聞こえた。何かを叫んだが、少年、もしくは僕が激しく動揺していたため、僕には聞き取る事が出来なかった。 目の前の光景には現実感が足りなかった。 本当に縛られている子供がいる。本当に銃弾で倒れた大人が二人いる。本当に血が噴き出しているし、本当に子供が泣いている。これは全部本当の事だ。でも、これほど作り物のような、悪夢のような光景を僕は見た事がない。 僕は今、驚いている。もし本当にこんな現場に来たら、僕は叫び声を上げながら呼吸も忘れて走って逃げるものだと思っていた。それなのに、実際に来てみればそれほど高等な事は出来ないと思い知ったからだ。 目や耳が正常に作用しているのかを確認し、それを確認した後に映画の撮影ではないかとカメラを探す。カメラが無かったら幻覚を見せられているのではないかと何かを疑い、何かなんて思いつくわけも無く、子供の泣き声に吐き気を覚える。 僕に出来たのはこれぐらいだった。現実を認められず、小指の先さえ動かせなかった。僕は自分で思っていた以上に役立たずだったようだ。 和泉さんがアランさんに駆け寄る。そして、もう一人の男にも駆け寄った。「久倉、電話だ。救急車を呼ぼう」和泉さんはこんな事には慣れているのか、とても冷静だった。 僕は自分で電話が掛けられられる状態ではなく、和泉さんに携帯を投げて外に出た。外に出た理由は特にない。強いて挙げるなら、子供に僕が嘔吐する姿を見せるのはあまり良い事ではないな、と思ったぐらいだ。 僕は吐いた。情けない事かもしれないが、僕は吐いてしまった。 人は船酔いで吐き、酒の飲みすぎでも吐く。それぐらいは僕にも分かっていた。でも、頭がおかしくなるほどの泣き声を聞きながら広がっていく血だまりを見ても吐く、という事までは知らなかった。まあおそらく、知ったところでこれを今後の人生に活かす事などないだろう。 一通り吐くと、僕はまた倉庫の中に戻った。倉庫の中ではやはり子供が泣いていた。そして、和泉さんが険しい顔をしてそれを見ていた。「おかしいと思わないか、久倉」 僕は一度吐いたお陰で、気分はだいぶ楽になっていた。「何がですか?」「この二人は互いに撃ち合った」二人とも銃を手にしていて、二人とも胸の辺りを撃ち抜かれていた。「そうみたいですね」僕達はもちろん撃ってないし、子供は縛られていて撃てないのだからアランさんともう一人がお互いに撃ち合ったのだ。 和泉さんは言った。「この二人は仲間だったんだろう?」「それはまあ、そうなんじゃないですか? 仲間じゃないのに同じところに居るのはおかしいですよ」正直なところ、そんな事はどうでも良くて、僕は一刻も早くこの場を離れたかった。「こいつらは、何で仲間なのに撃ち合いをするんだ?」「そんなの仲間割れに決まっているじゃないですか」パートナーの相性が悪かった場合、結婚相手となら離婚をするし、犯罪グループの中なら仲間割れをする。そういう事だろう。「久倉。仲間割れっていうのは金を得てからするものだ。こいつらは少年を近くに置いているんだからまだ金をもらっていない。仲間割れはおかしい」「何でそう言いきれるんですか。人間いろいろ居るんですから、いつ仲間割れをするかなんて分からないですよ」「仕事をするときは人数が多い方がいい。金を分けるときは人数が少ない方がいい。殺すなら、金を得てから金を分ける前の間が基本だ。でもまあ、今後一緒に仕事を続けていった方が何かと便利な事が多いから、本当は殺さない方が良いに決まってるんだがな」 和泉さんは一般常識のように言い切った。でも、一般人の僕にこれが基本だと言われても戸惑ってしまう。 僕と和泉さんが話していると誰かが嘔吐するような音が聞こえた。和泉さんは平気そうだし、僕は今は吐いていないので、僕でもない。それなら、他には誰なのだろうか? 思いを巡らせて見ると、僕は肌の白い少年がいた事を思い出した。 僕はあわてて駆け寄り、国籍不明の少年に英語で話しかけた。(大丈夫?)言いながら、僕は少年が嘔吐したものを見て『ちゃんと食べ物は与えられていたんだな』と妙に冷静だった。(お兄ちゃん、英語、話せるんだ)この少年の言葉も、目の前で起きたであろう銃撃戦の後に発した言葉にしては冷静だった。 僕も少年もきっとまだ混乱していて、大事なところが考えられないようになっているんだろう。だから体に一番なじんでいる日常的な行動、ありふれた行動しか出来ないんだ。(お兄ちゃん、今度は僕を何処に連れて行くの?)この少年は犯人達に何度も連れまわされていたようだった。(またコンクリートの部屋に行くの? それは嫌だけど、う、海よりは、そっちがいい) 少年は『海』と言う言葉に恐怖を抱いていた。おそらく『海に行くときは自分が死ぬ時なのだ』と犯人達に聞かされていたのだろう。 僕はとりあえず敵ではないと示すために説明する事にした。(これからここに『ピーポー、ピーポー』とか『ファンファンファンファン』とかそういう音を出す車が来て、日本のおじちゃんたちが君を保護してくれるからちょっと待っててね) 僕は極力優しさをアピールするために音の真似を面白くやってみせた。だが、少年の視界には僕と僕の後ろに転がっている二人の大人が同時に入っていた。だからなのだろう。少年には引きつった笑顔を浮かべるのが精一杯のようだった。しかもそれは、僕の気遣いに対する少年のやさしさから出た笑みではなく、ここで笑わなくては殺されるのではないかという恐怖から生まれた笑顔だったので、僕は少しもうれしくなかった。「久倉。もうここは危ない、行こう」「危ないってなんですか?」「そろそろ警察が来る。早く」和泉さんは言い切る前に僕の腕をぐいぐい引っ張ってその場を後にした。ちなみに僕は和泉さんと違って『警察が危ない』と思った事はない。
November 20, 2006
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「おい、久倉」僕は双眼鏡で頭を叩かれた。「何するんですか、和泉さん」「なんで寝てるんだ。俺が倉庫の中の様子を探ってくるから待っていろと言ったじゃないか」和泉さんがそんな事をしていたなんて、今始めて知った。 時計を見て時間を確認すると、和泉さんが偵察に行ってから一時間が経っていた。「もうあれから、一時間も経ってるじゃないですか」「だからって寝ていいという事にはならない」「待ってる間、僕は何しててもいいですよね?」「よくないと言いたいところだけど、もうやめよう。俺達のやり取りは小学生みたいだ」 僕はこの人よりは大人なので黙っておく事にした。 「それで倉庫をざっと見てきたんだが、中に一人、外に一人ってとこだろう」和泉さんはどこか浮かない顔をして言った。「どうしたんですか?」「少し気分が悪い」そういうと和泉さんは一回深呼吸をした。「外に見張りは一人、あのアランだ。そして中にも男が一人いる。おそらく二人とも銃で武装しているだろう」「銃? 何ですか? 本当に宝の隠し場所だったんですか、ここは」僕は当然のように趣味の悪い冗談だろうと決め付けた。しかし、和泉さんには笑いを取ろうという気配はない。「宝、かどうかは分からない。だが、ある程度の金にはなる」 僕は驚いた。真っ先に、なぜ? という疑問が頭に浮かぶ。「和泉さん、中には一体何があったんですか?」「白人の子供が一人」抑揚のない口調だった。「誘拐か、人身売買か、少なくとも家族旅行ではない」 僕には容易に想像できた。倉庫には、大人の男二人と、子供が一人。きっと今も銃で脅され、身動きが取れない事だろう。「和泉さん。僕ちょっと、電話を掛けてきます」「何処に掛ける」「警察に決まってるじゃないですか」それからこうも言った。「子供の命がかかっているんですよ? 友達に電話してもしょうがないでしょう」「ちょっと待て」和泉さんは僕を止めた。「何ですか」「警察はまずい。俺は泥棒だ」「そんな悠長な事、言っていられないでしょう。子供が死ぬより泥棒が捕まった方がいいです」よくよく考えれば、僕は至極当たり前の事を言っている。そりゃもちろん、比べるまでもない。「子供を助けて俺が逃げ切るのが一番いい。それに、……何より、警察だけは信用出来ない」そう言った和泉さんは一瞬だけ怒りの感情を覗かせた。 どうやら和泉さんは泥棒とか以前に、本気で警察を嫌っているらしい。泥棒だから警察が嫌なのではない。もっと、僕の知らない複雑な理由で和泉さんは警察を嫌っているのだ。 そして僕はと言えば、本当に自分勝手ではあるのだが、家賃の半分は大きいし、この人との付き合いも面白いといえば面白い。 だから、「俺達で救い出す」 それが一番だ。 少年を救出する方法は和泉さんが一人で考える事になり、僕は十万円の双眼鏡で様子を探り続けていた。 しかし、隣で聞いているとどの作戦も不可能なものばかりだった。このままでは進入する事だって難しい。 ただ、そんな僕達、というか和泉さんを尻目に状況は一気に変わった。 偵察をしていた僕はその状況を和泉さんに伝える。「和泉さん、アランさんが建物の中に入っていきました」「本当か。これはチャンスかもしれない。俺達も行こう」 僕達はなんとなく、本当になんとなく倉庫に入る事にした。 倉庫に入る扉は一つしかない。だから僕達は正面から入る。 扉の前に着くと、和泉さんはポケットから針のような道具を取り出した。「何です、それ?」なんとなく想像はついたが、僕は儀礼的にその道具の事を聞いた。「これで鍵を開ける。こういう倉庫だったら針金一本で充分だ」和泉さんは少し自慢げに答えた。人間は鍵を開ける事にさえ誇りを持てるらしい。「でも、和泉さん」申し訳なさそうに僕は言った。「鍵、開いてますよ?」 僕は取っ手を持ち、扉を開けようとした。和泉さんは『そんな無用心な誘拐犯がいるわけがない』といった顔で僕を見た。 この瞬間だった。 中から、何か大きな音が聞こえた。「久倉」「和泉さん、今のって」「銃声。二発だ」そう言って和泉さんは狙われたのが僕達でない事を確認して、扉を開けた。
November 18, 2006
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アランさんが帰った後、朝一の授業にまだ間に合いそうだったので僕は大学で講義を受けた。その授業の内容はいつも通りのつまらない内容。しかし一応最後まで聞いて僕は家に帰った。「久倉。結局、あの外人は何だったんだ」家に帰ると和泉さんが話しかけてきた。和泉さんも、自分が連れてきたからには何があったか知りたいのだろう。だが僕は、アランさんとの出来事を話す前に和泉さんに言っておかなければならない事がある。「何で英語も分からないのに勝手にうちに連れてきたんですか。僕が英語を話せなかったらどうするつもりだったんですか」「英語が分からないから連れてきたんだ。久倉は英語を専攻してるんだろう? 俺がしゃべれなくてもしゃべれる奴がいるんだ。だったらそいつに任せた方がいい」「何も連れてくる必要はないんじゃないですか?」「困ってる人がいたら助けるのが人間だ」視界に捉 この人が泥棒を生業にしているって言うんだから世の中分からないものである。 僕は和泉さんにアランさんとの出来事を話した。 話を全部聞いてから、和泉さんはさも当然のようにこう言った。「よし、じゃあ行こう」「え?」何がよしで、何が行こうなのか。僕にはもちろん分からない。「久倉。その場所は怪しい。宝が眠っているという事もあり得るかもしれない」 何処をどうやったらそうなるのか、僕は和泉さんに聞いた。「根拠はあるんですか、和泉さん?」「ああ、珍しく根拠がある」 普通、根拠がある事は珍しくない。何をするにもある程度は根拠が必要だからだ。それでも和泉さんにとっては珍しい事であるらしい。僕はこのとき、この人がいい加減に生きている事を知った。「久倉、外国人が道を尋ねるときはどんなときが多いと思う?」「分かりにくい質問ですが、道に迷ったとき、でいいですか」「そう、それでいい。道に迷っているんだ。道に迷うって事はその人には行きたい所がある」「そうですね」「その行き先は観光地である事が多い」「そうですか? 仕事とかの場合だって多いと思いますよ」「もちろんそうだが、この辺は住宅街で近くには大学くらいしかないだろう」「まあ、そうですけど」「だから、観光地である事が多い」「でもこの近くに観光地はありませんよ」「そう。だから他に思い付く目的地は宝の埋蔵場所くらいのものだ」 にわかには信じ難かった。「知人の家がこの辺にあるとか」「だったら俺に聞かないで、知人に電話すればいいじゃないか」 その辺は言われてみればその通りだ。携帯電話がもてはやされるこの時代。だいたいの目的地は分かっていて、相手とは連絡出来ない。こんな条件に当てはまる所は確かに観光以外ではありえないのではないだろうか。そして、観光でもないんだから、……宝探しなんだろうか?「よし、出発だ。久倉、その場所まで案内してくれ」「えっと」「案内だ。久倉」 僕はしぶしぶアランさんに場所を説明するために使った紙を取り出して和泉さんに見せた。「何だ、これは」「僕がアランさんにあげるつもりだった紙です。アランさんにはもっと綺麗なのをあげましたけど」「そうか、ならこの場所に行けばいいんだな」「ええ、まあ、そうです」 僕達はアランさんがいるであろうその場所に向かった。 もちろん僕は乗り気ではない。宝の埋蔵場所って、どう考えてもおかしいだろう。確実に徒労となる行動でやる気を出すなんて出来るはずもなかった。「久倉。宝の在り処が見える」「正確には宝の在り処ではなく、アランさんの目的地、です」 そこは住宅街から少し離れた場所にある工業団地の一角だった。そこには煙突を持った建物や、ただ砂利が敷き詰めている土地などがあったが、僕達の地図はいくつかある倉庫の中の一つを示していた。「ほら、ただの倉庫ですよ、和泉さん。宝なんてあるわけないじゃないですか」 和泉さんが果たして僕の話を聞いているかどうか。それは分からないが、和泉さんは慎重に建物の方へ近づいていった。仕事のときもきっと、ああやって移動しているのだろう。その動きはとても洗練されていて物音一つ立てる事はない。ただ、それは和泉さんが本気を出しているという証に他ならないので、僕としては面白くなかった。 和泉さんが物陰に隠れて、こっちへ来いと僕に合図を出した。仕方なく僕は和泉さんのいる場所まで向かった。「これであの場所を見ろ」そう言って和泉さんは双眼鏡を取り出した。僕が騙されて、十万円も払ってしまった双眼鏡である。「和泉さん、これ持ってきたんですか?」「ああ、何かの役に立つと思って」なるほど、確かに役に立っている。和泉さんの役に。「そんな事より久倉、これであの倉庫を見てみろ」 言われて僕は双眼鏡を覗き込んだ。覗き込むまでは、どうせ何に使っているのか分からない倉庫が見えるだけだろう、と思った。まあ、予想の大半はそれで合っているのだが、僕は思わぬものを視界に捉えた。「アランさんだ」 彼は倉庫の周りをぐるぐる回ってとても落ち着きがない。何が起こっているかまったく分からず、とてもうろたえているように見える。 僕は内心しまったなあ、と思った。彼がここにくる事はないだろうと楽観的に考えていたのだ。「久倉。ちょっとここで待ってろ」和泉さんは僕から双眼鏡を取り返すとどこかへ行ってしまった。 僕はこれからどうなるのだろうかと少し不安に思った。
November 17, 2006
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そして、僕達の共同生活が始まった。 和泉さんは住むところがなく、僕はお金がない。この僕達の利害関係は、お互いを裏切らせる事なく、生活を円滑に進めていく事だろう。我ながら楽観的な発想だとは思うが、実は、この人とはなんとなくうまくやっていけそうな気がしていたのだ。 大学の友達に和泉さんとの共同生活の事は話すつもりはない。話せば絶対変な顔をされるという事ぐらいはさすがの僕でも分かるし、それに何より、芋づる式に僕が十万円の無駄遣いをしてしまったという恥ずかしい過去を掘り返されるのが嫌なのだ。 和泉さんが部屋に住み着いた次の日、僕は大学に行った。別に休もうと思えばいくらでも休めるような授業ばかりだが、僕はそこそこ真面目なので授業にはしっかり出る。 家を出る前に「いってらっしゃい」と声を掛けられた。今のところ来てから寝る事しかしていない和泉さんを置いて僕は大学に向かった。 僕は文学部英文学科の学生だ。だから当然、英語を使った授業が多い。 今日のリーディングの授業は方位と磁石の話だった。地磁気というらしいが、地球の地磁気は北にS極、南にN極という配置になっているらしい。もちろんSはSouthのSでNはNorthのNである。 この文章のテーマは『なぜ北にSouth極があり、南にNorth極があるのか?』というものだった。そして読み進めていくと答えが出てくる。『N極とS極が互いに引っ張り合う性質を持っている事はよく知られている事だ。方位磁石の針は地磁気によって指し示す方角を決める。 では磁石のN極が北を指し示すとき、北は何極でなくてはいけないだろうか? 答えはもちろんS極である。NとSは引き合うからだ。このN極、S極の名称は方位磁石を基準に作られたために、実際の地磁気は北にS極、南にN極となってしまったのだ』「方位って分かりにくいよね」授業が終わった後、僕は友人の森野に話しかけた。「分かりにくいって、何が?」森野には僕の言っている事の方がよっぽど分かりにくいようだった。「例えばさ、いくら東に歩いたって東にはたどり着けないだろう?」「何それ?」「東西南北だって分かりにくいし」「何が?」「東、西、南、北っていう順番があるわけでもないのに、東西南北って」「じゃあ、全部一緒に言えば久倉は納得するのか?」「全部一緒に言うなんて無理じゃないか」「俺もそう思う」「でも何かこう優先順位とかをつけて言えばいいんじゃないかな」「方位に優劣なんてないだろ」「じゃあ、何か適当に」「なあ、久倉。お前はただ方位に難癖を付けたいだけだろ。方位に何か恨みでもあるのか?」「だってさあ、僕は方向音痴なんだよ?」「ああ。それは、悲劇だな」森野はなぜか芝居がかった口調で言った「方位も久倉も悪くないのに、罵り、罵られる関係になってしまうとは」 どうでもいい事だが、森野は一つ間違った認識をしている。僕は方位に罵られた事なんて一度もない。 ある日、といっても僕達の共同生活が始まって三日も経たない日の事だ。 和泉さんは朝に知らない外人を連れて部屋に帰って来た。歳は三十台か四十台くらいだろうか。僕より頭ひとつ分くらいは大きい男の人だった。 僕はちょうど一時間目の授業に行こうと思っていたところで、時間が無かったのだが、和泉さんに「ちょっとそいつの相手をしてくれ。俺は英語が分からない、任せた」と言われてしまったので仕方がない。出席は別の方法でする事にして、今日はこの外人の相手をする事にした。 僕は通用するかしないかの瀬戸際の英語で(ちょっとコーヒーを淹れてきます)と外人に言い、我が家の小さいキッチンに向かった。 お湯を沸かしながら、僕は一時間目の授業に出るであろう森野にメールを送った。『僕の単位は、君に託す』 返事はすぐに返ってきた。『了解』 大学というのは面白いもので、授業に出ずとも出席した事になる。これで堂々とサボれるのだ。 薬缶から白い湯気がもくもくと上がった。お湯が沸いたので二つのコーヒーカップにお湯を入れ、インスタントコーヒーを作る。ちなみに和泉さんの分は僕に外人を押し付けた後にすぐ寝てしまったので無い。(どうぞ)ミルクも砂糖もなかったが、急の来客なので仕方のない事だった。(ありがとう)(あ、僕、久倉って言います)(私はアランです) アランさんはコーヒーを眺めながら、一回大きく深呼吸をした。コーヒーは苦手なのだろうか?(コーヒーは苦手ですか?)(ああ、コーヒーね。コーヒーは、好きだよ。うん) 僕の英語は意外に通じるらしい。結構、勉強を頑張ったから自信はあったのだが、やはりこんな何気ないやり取りでも話せるとうれしい。(それで、私は道を聞きたいんだけど)アランさんは少し困った顔をして、そう言った。(道? あなたがここに来た理由はそれだけなんですか?)(ああ、初めはそこの、寝ている人に道を聞いたんだ。だけど、とりあえず付いて来いと言われて、言われるがままにここへ来て、ここは何処だろうと考えている間に、気付いたら君がコーヒーを淹れていたのさ)(あ、そうなんですか。それはすみません。この辺の事なら答えられると思います。何処に行きたいんですか?)(助かるよ。ちょっと待って)そう言うとアランさんはバッグの中を探った。中からは一枚の紙が出てきた。(ここに行きたいんだ)アランさんはその紙をテーブルの上に広げた。その紙は手書きの地図だった。アランさんは目的の場所をごつい人差し指で指し示す。(ああ、『ここ』ですか)僕は少し迷った。場所を教えるべきだろうかと。しかし、教えないというのも変だ。僕は仕方なくこの場所を教えた。(ありがとう。早速そこに向かうよ)アランさんは笑顔で部屋を後にした。僕としては冷や汗をかいた出来事だったけど、いざ送り出してみればもう関係ない。彼もうまく立ち回れば無事に目的を達成させる事だろう。
November 16, 2006
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「おかえり」 扉の向こうから僕を迎える声がした。 僕は通っている大学の近くにアパートを借りている。地方から出てきた身なので、親元を離れて生活をしなければならないのだ。しなければならない、と言っても特にそれで不満を感じているわけではない。 そもそも大学を選んだ理由に一人暮らしをする、というのがあったので、僕としては親がいない不自由さより、いろんな面で自由になったという充実感の方が大きい。今のところは大きな問題もこれと言って無く、満足の一人暮らしである。 玄関で靴を脱いで、中に入る。この部屋はそう大きい部屋ではないので、三歩歩けばキッチンと風呂、トイレ、洗濯機を通り過ぎる。よくもここまで、と言えるほどぎゅうぎゅうに押し込んだ空間だが、都会には場所が無いらしいので、これくらいはする必要があるのだろう。そして最後、突き当たったところに僕が生活するための空間がある。狭いワンルームだが、ここが僕の生活の軸だ。僕はここで寝たり起きたり、食べたり食べなかったり、落ち込んだり落ち込まなかったりしている。 とりあえず僕は大学の講義で使うものが入ったバッグを置いて、ベッドに座った。僕に『おかえり』と言った人が、ベッドの上の僕を見ている。 ちなみに僕が『おかえり』に『ただいま』と返さなかったのには、ちゃんとした理由がある。僕が礼儀を知らない若者だったわけでも、日本文化を知らなかったわけでもないのだ。手短に言おう。 ――僕はこの人を知らない。「あなたは、誰ですか」 僕は間違っている。ここはそんな質問をするべきではない。僕の部屋に勝手に入り込んで我が物顔で居座り、あまつさえ家主に向かって『おかえり』なんて言ってしまう人を前にしたら、何よりも110番である。日本国民ならまず間違いなくそうすべきであるし、他の国でも110番で警察につながる国の国民なら、是非そうすべきだ。「お前は変なやつだな」目の前の男は言った。「こんなに怪しい奴と普通に話し合おうだなんて」 この人はは僕より10歳ほど年上、三十台の中盤くらいに見える。しかし、なんとなく年齢よりも老けている。何と言うか、妙に落ち着きを持った変な男だった。 変な男に変と言われてしまうのは癪だけど、一々そんな事も言っていられない。「あなたは誰ですか?」僕は初めにした質問をもう一度繰り返した。「和泉」「いずみ?」「俺の名前だ」「いや、そうじゃなくて」名前を言われても困る。「じゃあ、何でここにいるんですか?」「俺がここにいる理由か」「ええ、ここにいる理由です」「俺は今、住む所がない」何の関係があるのか、と思いを巡らせていると和泉さんは思いもよらぬ事を言ってきた。「だから、ここに住む事にしたんだ」「え?」 当然、僕は驚いた。何でこんなにわけの分からない事を言うのだろうかと。「そういうわけだから、よろしく頼む」 和泉さんはやはり落ち着いた人だった。だからこんな無茶な提案も淡々と話す。 確認すると、この部屋は空き物件ではなく僕が住んでいる。そして、僕は和泉さんとは面識がない。それでも、どうやら和泉さんはこの部屋に住むつもりらしい。 普通、大抵、一般に、常識で考えれば、日本人の感覚から言わせてもらえば、まず無理だ。首を縦に振る人間がいるとは思えない。 そして、もちろん僕もこの提案を受け入れるつもりはない。「許可は取ったんですか?」僕のこの質問に和泉さんは初めて表情を翳らせた。「誰の許可だ」「僕の、ですかね」「取ってない」「出てって下さい」 僕はそう言うと玄関の方に向かって手を向けた。このジェスチャーの意味は言うまでもなく『出てって下さい』という意味だ。「それは、断る」「何でですか?」僕は本当に困惑していた。「許可は取ってないんですよね?」「俺は泥棒だ」和泉さんは何を言うにも顔色一つ変えない。「だから、この部屋を盗む」 僕は『この人、頭おかしいんじゃないだろうか?』と思った。「そういうわけだからよろしく頼む」泥棒の和泉さんはそう言ってテレビのスイッチを入れた。「和泉さん。僕、ちょっと電話を掛けてきます」「何処にだ」「警察に決まってるじゃないですか」それからこう言ってやった。「家に泥棒がいるんですよ? 友達に電話してもしょうがないでしょう」「ちょっと待った」和泉さんは僕を止めた。「何ですか」「分かった。お前の許可を取ればいいんだな」 そこに気付いたという事は、少しは僕の言い分を理解してもらえたようだ。しかし、僕は許可を出さない、という事も理解して欲しかったところである。「和泉さん。僕は許可を出しませんよ」「家賃の半分」「え?」「俺が家賃の半分を払おう」 予期せぬ申し出だった。僕は最近、通信販売に踊らされて十万円の双眼鏡を買ってしまったので、お金がなかったのだ。 僕は迷った。 こんな人と一緒に暮らしていける自信はない。ないが、お金もないのだ。この部屋に金目の物は特にないから、セキュリティという面では問題ない。しかし、面倒事がないとも言い切れない。僕は決断しなければならない。ない、ないと考え続けてもしょうがないのだ。 散々迷った挙句、僕には何よりもお金がないという結論に至った。和泉さんとの同居を承諾したのだ。「今月分を早速払おう。いくらだ」「あ、よ、四万円です」僕は嘘を吐いた。少し金額を割り増ししてしまった意地汚い自分に自己嫌悪を感じながら、四枚のお札を受け取った。「これで俺はここに住めるようになった」「ええ、まあ、そうですね」「これからよろしく頼む。……お前、名前は?」和泉さんは僕の名前が分からず言葉に詰まった。僕はついちょっと前まで名前も知らなかった人といきなりルームシェアをする事に、やはり不安を抱いた。「僕は、久倉です」「俺は仕事の都合で昼間にここで寝る事が多くなると思う。久倉が出かけてるときはこのベッドを使ってもいいか」「いいですよ」ここで和泉さんの日常に関わりそうな事は聞かなかった。聞いたらきっと面倒な事になるような気がしたからだ。「なんだったら合鍵も作りましょうか? 和泉さんと僕は生活のリズムが違うんだから、部屋への出入りが面倒でしょう」「それには及ばない。大体、俺は鍵もないのにこの部屋に侵入していただろう」「そう言えばそうですね」「このアパートの鍵は開けやすい。初心者の練習にちょうどいい」やはり僕は和泉さんの事を少しは聞く必要があるような気がした。「和泉さん、その、ご職業はもしかして」「初めに話した通り、泥棒だ」「僕はてっきり冗談だと思ってました」「俺は冗談が好きだが、それは冗談じゃない」 それでも、僕が和泉さんの言い分を信じなければならない、という事にはならないのだが、すぐに四万円を払って見せたり、夜中に仕事が多かったり、開錠(鍵無し)が上手かったりするのを知ってしまった以上、僕は納得するしかないのだった。
November 15, 2006
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週末には間に合いませんで。もう一週間あれば何とかなるやも知れませぬ。まあ、今週は少しばかり忙しいんでもう一週延びる可能性もありますが…。あと、日米野球を見てたんですが、日本負けすぎだと思います。確かに、今回のメンバーは少し小粒で全日本という感じのメンバーではありません。ですが、何とか一勝くらいはして欲しいもんです。
November 7, 2006
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週一とか言っておきながらいきなり二週間空いてしまいました。今は三つ目の長編を書いているのでしょうがないんです。ええ、そうです。いいわけです。そろそろ終盤なので近いうちに公開できると思います。目標は今週末。その頃までには完成させたい。
October 29, 2006
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ゆるい更新ですが、まあ大体こんなもんだと思います。きっと次の小説が出来るまではこんな感じです。僕は遅筆ですから、あまり量がなくても完成させるのに時間がかかります。まああんまり頑張ってもしょうがないんで、マイペースに更新していきますよ。最近、舞城王太郎の本を読んでいるのですが、何かすごいですね、あれ。まだ一冊も読みきってないんですが、新鮮だなと思いました。
October 16, 2006
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今日の夜空は明るかった。きっと秋だから月明かりが強くなっていたのだろう。夜中に家を出た瞬間は、近くに車でも停まっているのかと思った。それぐらいはっきりとした影があった。だから僕は本当にこの明るさが月明かりであることを疑ったのだった。今日の空を見てそう感じたのは果たして僕だけなのだろうか。とにかく僕は明るい空を見て嬉しくなり、少し不安になった。確かに綺麗な空だったけど、普段と違う空は少し気持ち悪かった。人が本当に綺麗だと思うものは少し怖いんだなと知った。
October 8, 2006
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ペットボトルのふたを開けると、気の抜ける音がした。『どうするんだ?』 自分にはツキがなかった。すべての努力も結局は運に左右されるらしい。そして、ツキのないものは容赦なく蹴落とされるのだ。『あんたは間違っていたのか?』 分かった事は自分が無能で、努力は徒労だったという事。 私が積み重ねてきた事など、気付かないうちに飲み干されてしまうんだ。『そうじゃない。俺が聞いているのは――』 開けたペットボトルに口を付ける。中のコーラが少し減った。『俺が聞いているのは、あんたが間違っていたかどうかだ』 そんな事知らない。 自分のした事が間違っていたかなんて分かるわけがない。 ただ、自分がベストだと思う事をしてきただけ。『あんたが間違っていたかどうか。そんな事は誰にも分からない』 何だよ。それなら聞くなよ。答えがないのに聞くなよ。『だが、そんな事をずっと考えていたのは、あんたの方だろ?』 何だよ、何が言いたいんだよ。『あんたが間違っているかどうかは分からない。だが少なくとも、ずっとこのままでいる事は間違いだ』 私はペットボトルの中のコーラを一気に飲み干した。 何がなんだか分からない。 だいたい何で私はこんな気に食わない奴と話さなきゃならないんだ。 ただ、棘棘したこいつの言葉はどこか優しいと、私は感じた。 漠然と、コーラみたいなやつだな、と思った。 攻撃的な泡の刺激と、それを乗り越えた後の甘さ。 こいつはその二つを併せ持っているような気がした。 私はよく考えなければならない。 そう、だって私はさっき偉そうに言われた。このままでいてはいけないと。 それなら――。 私は、景気よく空になったペットボトルをゴミ箱に叩きつけた。
October 5, 2006
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でっかい水溜りの上に小さい帆船が浮かんでる船員達は楽しそうに真上にある太陽を見ながら宴会を始めた旅先で手に入れた世界中の銘酒を味わいもしないで一気に飲み干す誰もが思った嵐も海賊も怖くない俺達に恐れる事があるとするならばそれは酒が尽きてなくなってしまう事だけだと太陽が水平線で半円になったとき突然、嵐になった高い波で船を揺さぶり激しい雨を船員達に叩き付けた船員達は楽しかった雨と嵐で酒が進む宴会は嵐のおかげで盛り上がった太陽が水平線から消えたとき海賊が襲ってきた斬りつけられる船員達激しい血飛沫が飛び交った船員達は楽しかった傷の痛みで酒が進む一方的な殺戮も船員達にとって見れば愉快なショーに過ぎない船員達は楽しかった嵐と海賊酒と船員風で折れた帆も剣で切られた傷もすべてはそう宴を彩る豪華な装飾
September 26, 2006
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僕は最近、酒を飲むときは必ずウコンの力を飲みます。そのウコンの力なんですが、一体あれは何に効くんですか?個人的には気持ち悪い状態が治るような気がするんですが、そういう事なんですか?いつも何に効くのか分からずに飲んでます。飲めば飲まないときより体調がいいような気がします。……特に書く事がないんから、ついこんな話に。何も書かないわけにもいかずだからといって書く事があるわけでもなく結局はウコンの力話です。日記の才能が欲しいと思う今日この頃です。
September 21, 2006
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この話は書き始めたときから話の方向が定まらなくて、とても苦労した話でした。それで、その話を二つほど挙げたいと思います。まず一つは、登場人物の性別です。僕は最初、高校生の二人の性別を男同士にしようかと思った事がありました。しかし、書いている途中で台詞がごちゃごちゃになってしまうという事に気付きました。ただでさえごちゃごちゃしてるのでこれ以上はまずいと思い、異性のペアを起用する事にしました。二つ目はどちらを主人公にするかです。楓側、友人が殺されると予言される方と、長岡側、自分が殺されると予言される方、両方のパターンについて考えました。ですが、考えてみるとどちらを主人公にしても最後の解説の部分が長くなってしまいます。それで結局、折衷案というわけでもないですけど、視点を交互に変えていく形式にしました。ある程度、両者の立場を出しておいた方が後で一気にまくし立てるよりも分かりやすいような気がしたのです。この話もけちを付けたいところはいっぱいありますが、とりあえずはこれで終わりです。きっと文章が上達するには量をこなさないといけないはずですから、また次の話を書かないといけませんね。僕は一作を書くのに本当に時間がかかるから、次は次で大変だなあ。
September 15, 2006
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<四日目_朝_楓> また、朝だ。 私は昨日の夜更かしのせいでまだまだ眠かったのだが、気合で何とか起きた。長岡にも遅刻するなといった手前、私が寝坊するというのも変な話だ。 そういえば、今日は夢を見なかった。少年は本当にいなくなったらしい。短い期間だったとはいえ、いないと寂しくなるものだ。 集合場所の公園には私より先に長岡が来ていた。「長岡、今日は早いね」別に今まで遅かったわけでもないが、昨日の出来事の次の日なので、私はそう言った。「いや、今日は朝から警察から電話があって」「電話?」 話によると、コンビニ強盗を捕まえた件で長岡が表彰されるという事だった。長岡にしてみれば表彰はいいから寝させてくれというところだったんだろうが、警察はしっかりこいつを表彰してくれるようだった。長岡は一応、私の命の恩人でもあるので、表彰してもらうのはいい事だ。「そういえば長岡さ」私は長岡が命の恩人である事を思い出し、長岡に聞いておく事があるという事も思い出した。「長岡は私の命を助けてくれたわけよ」「まあ、そういう風に仕向けられただけなんだけどな」「だからさ、なんか私にして欲しい事は無い?」「俺が、楓に?」 うーん、と考える長岡。何か突拍子もない事をふっかけられたらどうしようと思いながら、出来る限りは頑張ろうと思った。何と言っても命の恩人なのだ。「あ、じゃあさあ」長岡は私に何をさせるか決めたようである。この気軽さから見て私に無理難題をやらせようとは思っていない事が分かり、内心ほっとした。「スリープスのアルバムを貸してくれよ。『エーテル』が入ってるやつ」 私は少し驚いた。強盗との死闘の見返りがそんな事でいいのだろうか? 私の思った事を理解しているように長岡は言った。「あのとき俺が頑張ったのは自分のためだったから、楓に何かしてもらう事自体おかしいと思うんだよ」 まあ、長岡がそれでいいんならいいだろう。「分かった。『エーテル』が入ってるやつね。お安い御用ですよ」「そうか、ありがとう」 気になる事は、何でこいつが『エーテル』を知ってるかという事だ。私は長岡に話した事はない。「『エーテル』なんてどこで知ったの?」「いや、少年とちょっとね」 私に詳しく教えるつもりはないようだ。まあいいだろう。今はそんな事より学校へ急いだ方がいい。私が少し遅れてきたせいか、ぎりぎりの時間だ。「長岡、時間」「分かった。走ろう」 こうして私達はまたいつも通りの生活に戻っていく。 ただ私は、できればいつも通りの生活に、遅刻を防ぐために走るという項目は入って欲しくない、と切に願うのだった。
September 15, 2006
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<三日目_夜_長岡(4)> 楓の部屋に入ると俺達は今まで以上の驚きを体験した。先を進んでいた楓が『きゃああ』という声を上げ、それを聞いて覗き込んだ俺は『うわあ』という声を上げた。言うなればそれほどの驚きだった。「お二人とも、こんばんは」 涼しい顔をして楓のベッドに腰掛けるこの少年は、まごう事なき幽霊の少年だった。「えっ、何で?」 言いながら俺は周囲を確かめる。俺の場合、こいつが出てくるときは何だかわけの分からないところにいる事が多いからだ。だが、周囲は先程と変わらず、楓の部屋のまま。俺は今、特に夢を見ているというわけでもなさそうだ。「ねえ、どういう事なの、これ?」 楓は俺と少年に説明を求めたが、もちろん俺は答えられない。こっちが聞きたいくらいだ。どういう事だ、これは?「いやあ、お二人にこんなに驚いていただいて幽霊冥利に尽きます」 ずっと驚いていてもきりがないので俺と楓は落ち着く事にした。驚いたときのままだから電気もついておらず、暗闇で三人、顔をつき合わしているという事になる。だが事態はそんな事に構っていられないほど切迫している。兎にも角にも俺達は少年の話を聞かないといけないだろう。「やあ、夢の外で君に会うのは初めてだね」 俺は少年の手前、年長者として、負けまいと平静を装ってみた。しかし言葉の端々から混乱が見て取れる。もっと言えば、実際のところ俺と少年のどっちが年長者かだって分からない。だから、俺のやっている事にはまったく意味がない。「こうして三人で会うのは初めてですね。改めまして、今までお二人に助言をしてきた幽霊です」「「はあ、どうも」」 すっかり少年のペースだった。まあ『幽霊です』なんて真顔で話せるやつが相手なんだからそれは仕方のない事である。「ナガオカさん、強盗との死闘は素晴らしいものでした。お陰ですべてうまくいきましたよ」「ああ、そうだった。君の印象が強すぎて忘れていたけど、これで俺は助かるのか?」 あの強盗を倒したことで俺は勝手に死を免れたと思っていたが、実際のところは少年のみぞ知るというところである。「ええと、ナガオカさん。言いにくいんですが」 言いよどむ少年。それもそのはずだ。俺は彼の次の言葉を理解するのに数分を要したくらいだ。「ナガオカさんは、もともと死にませんでした」 いつ開け放たれたのか、窓から差し込む光はカーテンを揺らし、少年の顔を照らし、楓の顔を照らした。俺はそんな二人の顔を見ると幻想的に見えなくもないな、と思った。「じゃあ、あなた何なの?」先に少年に質問したのは楓だった。「僕はカエデに言いました。『本人に死を告げることが禁止されています』と。その僕がナガオカさんに死にます、なんて言えません。本当に今日死んでしまうのは、カエデだったんです」 俺と楓は言葉を失った。「でも安心してください。カエデが死ぬ事も、もうありません」少年はここで少し間を置いて俺達を眺めた。どう話すべきか考えているようでもあった。「数日前に、僕はカエデが死んでしまう事を知りました。それで、何とかそれを避ける事が出来ないかと考えました。先程も言ったとおり、僕は死んでしまうカエデに直接忠告する事が出来ません。ならば、一体どうすればいいのか? 僕はいろいろ考えた挙句に、ナガオカさんを利用する事を思い付きました」 俺は利用されたのかと少し憤ったが、人の命を助けたと思えばそんなに悪い気はしなかったので、そのまま少年の話を聞く事にした。「カエデは今日のあの強盗に殺される予定でした。そのために僕はカエデを使ってナガオカさんを呼び、強盗と対決させる事を思い付きました。ただ、そのまま行かせると二人とも死んでしまうので事前にヒントを用意しておきました。これでナガオカさんは強盗を撃退する事ができます。結果的にナガオカさんは強盗を撃退し、すべて僕の計画通りに進みました」 ヒントとは『エーテル』の事か。確かにそういう事ならすべての辻褄が合う。俺達は感心した。「幽霊って凄いな」「ええ、人間よりは凄いです」「きっと、この世界で上から順に凄いものを挙げていけば、一番目が幽霊で二番目が神様だ」 少年は俺の評価に満面の笑みを浮かべた。「ありがとうございます。ちなみに、三番目は何です?」「間違いなくグラタンだな」 少年は俺の冗談を満足そうに聞いた後、何故か少し暗い笑顔を浮かべながら話し始めた。「でも、これもお二人が僕の言うとおりにしてくれなくては成功しなかったんです。僕はまた考えました。カエデの死を防ぐために、楓の死とは別の、二人が僕に従う理由はないだろうかと。だから僕は、ナガオカさんが死ぬという嘘を吐きました。その、嘘を吐いてしまった事は謝ります。ごめんなさい」 言って少年は頭を下げた。俺達としては楓が生き残っているのは少年のお陰なのだから怒る理由もない。「私の命は助かったよ。助けてもらってありがとう」楓は少年に礼を言った。「いえ、カエデにお礼を言ってもらうのは筋違いです」少年は笑顔でそう言った。もうその笑顔に翳りはなかった。「僕はどちらかといえばカエデに死んでもらった方がうれしかったんです。人間のカエデと友達になるよりは幽霊のカエデと友達になった方がいいでしょう?」 俺は、こういう事を笑顔で言われると怖いなあ、と思った。当然、楓も何ともいえない表情になった。可哀相なやつである。「じゃ、じゃあ何で楓を助けたんだ?」 俺は場の雰囲気を変えようと、すぐに少年に話を振った。すると思いもよらない答えが返ってきた。「スリープスです」「え?」「僕はスリープスのファンです」「う、うん」それが一体何の関係があるのだ、と俺と楓は少年を見た。「スリープスは随分長く活動しているバンドですが、まったく売れてません」「ああ、ファンの注目が次のシングルより、いつ解散するかの方に行くぐらいだったよな」 そこまで言わなくてもいいではないか、と俺は二人に睨まれた。なんだかんだ言っても二人はやはりスリープスのファンのようである。「とにかく、今またファンが減ってしまってはスリープスの進退に影響が出るんです。僕はスリープスに解散して欲しくありません。だからカエデには生きていてもらわなくてはいけないんです」 少年は力強くそう主張した。これが一人の命を救うための動機なのかと考えると頭が痛くなりそうだが、死ぬところを助けてもらったのだから文句は言えない。俺も楓も呆れはしたが、感謝もしていた。「僕からは以上です。お二人とも何か僕に聞いておきたい事とかありますか?」「あ、あのさ」楓は少し興奮気味に言った。「握手してもいい?」「ええ、どうぞ」 そう言うと二人は握手を交わした。このとき楓が何を考えていたのかは俺には分からない。幽霊を触ってみたかっただけかもしれないし、少年に対する感謝の意味が込められていたかもしれない。どちらにしてもこの握手は少年と俺達の別れの儀式だったという事は間違いない。「それじゃあ、お二人とも、僕は消えます。お元気で」「ああ、じゃあな」「じゃあね」 少年はやはり最後まで笑顔でいなくなった。「俺も帰るよ。もういい加減眠くなってきた」「そうね。明日、遅刻しないように気を付けなさい」「言われなくても分かってるよ。じゃあ、また明日」 俺は楓の家を出て家へ向かった。空には大きい満月が偉そうに居座っている。その月明かりのお陰で俺は辛うじて家までの道を辿る事ができる。道の所々に立っている街灯も役には立つが、俺の家まで付いて来てくれる月の方がありがたい。 ふと、その月明かりが弱くなった。何かと思って見上げれば雲が月を覆っていたらしい。すぐに月が顔を出した。こうして俺は家に着くまで再三、月を見ていた。そうする理由は俺にもよく分からない。だが、このときの俺は偉そうな満月を見る度に少年を思い出していた。
September 14, 2006
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<三日目_夜_長岡(3)> 楓の家に戻る途中で興奮冷めやらぬ俺は、意を決して楓に少年の事を話した。「夢に少年が出てきて、そいつは、今日俺が死ぬっていう予言をしたんだ」 俺は、楓が『そう、親切な少年がいるのね』とまったく信じていないような言葉を返してくると思った。だから意外だった。まさか楓が大きく目を見開き、声にならないくらい驚くとは。「えっ、楓さん、何でそんなに驚いているのですか?」 俺は驚きを隠せない楓に驚きを隠せない。そりゃあ、敬語も使うってものだ。普通、そんなに簡単に信じるだろうか、こんな話を。「あのさ」こう前置きした楓の話は俺達の立場を逆転させ、俺をさらに驚かせた。「私の夢にも、その少年、出てきたよ?」 二人して困惑した。俺は楓と細かい点をいろいろ確認する。「その少年は、今日俺が死ぬみたいな事を言ってた?」「うん。言ってた」「その少年は、自分が幽霊だとか言ってた?」「うん。言ってた」「その少年はもしかして、『スリープス』が好きだとか言ってた?」「うん。言ってた」 俺が言う少年と楓が言う少年はどうやら同一人物のようだった。俺は混乱していた。分からない事がたくさんあるのは分かる。だがしかし、俺は一体何が分からないのだろうか? 大量の疑問を一息のうちに浴びせられると人間はこうなってしまうらしい。俺は、よくある『ここは誰? 私はどこ?』の問いかけの意味が分かったような気がしていた。「聞いていいかな?」 少し歩いて少し頭の中を整理した後で、俺は楓に少し質問する事にした。少年の事に関する俺の疑問は、もう全世界でこいつにしか答えられない。まあ、少年が今日も俺の夢に出てくるのかもしれないから、断言は出来ないけど。「なんでも、どうぞ」 俺の質問に少し間を取ってから楓は答えた。とにかく、先に質問する権利を得たのは俺なのだから楓に聞かなければならないだろう。「少年はどうして楓の夢に出てきたんだ?」「曰く、長岡を助けたかったから、という事のようですけど」「楓は俺に何かしてくれたのか?」「今日、あんたが私の家に来れたのはまさに私のお陰じゃない」 用もないのに俺を呼んだのには、どうやらそういった事情があったらしい。「そうか、呼ばれたのには意味があったのか」「意味とかまでは分かんないけど」「まあでも、別にお前と少年に面識があったっていいか。少年がやりやすいようにやってくれれば良かったんだ」 そっかそっか、と納得する俺。こんなにも物分りがいいのは、以前少年に幽霊がいかにでたらめな存在かを教えられたからだった。人間は学習するのだ。 ただ依然、隣の楓は納得していないようだった。 俺は楓を納得させるようにこう言った。「幽霊っていうのは俺達の常識じゃ測れないんだ」「でも、彼が言ったのよ?」「何を?」「『幽霊は直接的に本人に死を告げることが禁止されています』って」 口調があの少年に良く似ていた。俺は本当に楓の言うのと同じ少年の夢を見ているらしい。ただ、そんな事はどうでもいい。今の言葉のせいで再び俺は混乱した。 俺は少年に『ナガオカさんは死にます』と言われた。 幽霊は直接的に本人に死を告げることが禁止されています。 これはおかしい。少年の言っていることは矛盾している。 俺は少年が楓に嘘を吐いたのではないかと考えた。今までの彼のやり方は、結構、強引だ。強盗をやっつけたスリープスの曲のヒントだって、あの時たまたま思い付いたから良かったものの、とても親切だとは言い難かった。だから、嘘を吐いている可能性が低いとは決して言えない。俺はそう結論付けた。 ただ、そうなると何のためにそんな嘘を吐いたのかさっぱり分からなかった。今回の件と、幽霊が本人に死を宣告してはいけないというルールは一体どこで結びつくのだろうか?「長岡、家に着いたよ」 気付けば楓の家だった。 まあ、いいか。 俺は先程の疑問はもう忘れる事にした。そもそも人間の俺に幽霊の考える事が分かるわけがない。分からなくても俺は生きてるし、全部丸く収まったのだ。だから、これでいいだろう。俺はこの事が、CDの仕組みを知らなくても音楽は聴ける、という事に似ているような気がした。
September 13, 2006
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<三日目_夜_長岡(2)>『ピー』 俺の頭上で音がした。わざわざこんな状況で口笛を吹くやつがいるのか、と半ば感心しながら、俺は音のした方を見た。 電子レンジだった。 俺が頼んだグラタンを、強盗が現れているにも関わらず律儀に温めていたらしい。 強盗はちらりと音がしたこちらを見た。俺は焦って、咄嗟に電子レンジを指差しながら左右に首を振った。『こいつがうるさいんです。俺じゃありません』という意思表示のつもりだ。さらに『後でよく言い聞かせますんで、今日のところは見逃してやってください』という意味を付け加えても良かった。 彼に意思が通じたのかどうかは分からないが、強盗は再びレジと店員に意識を戻した。店員は相当焦っているらしく、普段慣れているであろうお金を出すための一連の動きを再現できずにいた。強盗はそれを見て苛立つ。それがかえって店員の恐怖を煽り結果的に悪い方向は向かって行くのだが、日本の景気と同じで、それは仕方のない事だった。 事態はさらに悪い方向に向かっていく。痺れを切らした強盗は店員に向かってこう言った。「どけ」 言いながら、強盗はカウンターを乗り越えてきた。そして、刃物を振りかぶり店員に切り付ける。幸いな事にすべての動作で一番早かったのが店員の動きだったので、店員は腕に切り傷を負うだけで済んだ。まあそれでも、浅い傷とはとても言えないものなのではあるが。 店員が逃げた所はまさに俺がいる所だ。狭いカウンターの中で店員が動けるところなんてここしかない。すばやい動きでレジに手を伸ばす強盗。自分でレジを開けようという魂胆らしい。 店員は全力でこちらに飛び込んできていた。だからだろう。何かにぶつかったようだ。そのせいで俺の隣に何かが落っこちてきた。『ガン』 電子レンジだった。 こいつは、何か俺に恨みでもあるのだろうか? 強盗はちらりと、音がしたこちらを見た。俺は焦って、咄嗟に電子レンジを指差しながら左右に首を振った。『こいつもわざとやってるんじゃないんです。仕事を始めると周りが見えなくなるやつなんですよ』という意思表示のつもりだ。さらに『ほら、今はこんなやつの事よりもレジの方に集中してください』という意味を付け加えても良かった。 やはり彼に意思が通じたのかどうかは分からなかったが、強盗は再びレジに意識を戻した。 そして、俺は、何故か、また、あるフレーズを思い出した。『電波を放ち続ける機械 機械と踊る無数の白衣 白衣を纏った黒い生物 彼らは言った「これが人間の力だ」』 俺は考えた。今、何故『エーテル』なのか? 俺はこのフレーズに、何でこんなにも意味を見出そうとしているのか? 俺は唐突に『そうか!』とまるでノーベル賞級の発見をした科学者のように、すべてを理解したような感動を覚えた。あまりの感動のために本当に声を上げていたかもしれない。 いや、上げていた。 強盗が再びこちらを見る。 フルフェイスヘルメットのせいでどんな顔をしているのか分からないが、きっと怒っている事だろう。俺だったら間違いなく怒る。しかし、彼は再びレジと向かい合った。強盗は時間との勝負だ。うるさいやつを殺す暇があったら一円でも多く金を取ることに集中した方がいい。 一方、俺は切られた傷に対処している店員の補佐をする振りをしながら、大発見を実行する準備を整えていた。店員はそんな俺に不快感を示す事も無く、強盗に聞こえないような声で俺に言った。「何をしてるんですか?」 店員は俺より間違いなく年上なのだが、お客様に対しては敬語、という接客業の基本をこんな時まで守っていた。「店員さん、聞いて驚かないでくださいよ」俺はグラタンを包んでいたビニールを解きながら言った。「俺はあいつを、ぶん殴ってやろうと思うんですよ」「え?」 案の定、店員は驚いていたが『驚かないでくださいよ』という言葉が効いたのか大騒ぎはしなかった。俺は店員が落ち着けるほどの間を取ってから、これからどうするのかを話した。「やめた方がいいですよ」店員は俺の話を聞き終えてから言った。「絶対、危ないですって」 俺はそう言われるのを見越していたから、既に次に言う言葉を準備していた。「店員さんは見ていてくれればいいですよ」それからこうも言った。「俺は絶対にやらなくてはいけないんです」 俺はこのとき幽霊の少年の事を考えていた。あの少年はなかなか、気が利く。 店員と話している間に準備を終えた俺は、すぐに行動を起こした。迷ってはいられない。強盗はたった今レジを開けることに成功し、後はお金をバッグに詰めるだけとなっているのだ。 俺は強盗に向かって走った。もう、後はやるだけだ。 『電波を放ち続ける機械』 これはまさに電子レンジの事だろう。強盗が来てから『ピー』とか『ガン』とかうるさかったのにも意味があるのかもしれない。まあ、それを抜きにしても今この状況で電波を放つ機械なんて電子レンジくらいのものだろう。『機械と踊る無数の白衣』 機械が電子レンジ、白衣がグラタンとすると、分かりにくいこの歌詞もかなり具体的で分かりやすくなる。 だから俺は、電子レンジの中でくるくると回って熱くなったグラタンを手にして強盗のすぐ近くに立った。 強盗は近寄った俺を警戒し、刃物を握った。だが、遅い。もう俺の次の行動は始まっている。強盗は次の瞬間にも俺の一撃を受けて混乱するだろう。『白衣を纏った黒い生物』 白衣はグラタンで、黒い生物というのは、強盗の黒いフルフェイスヘルメット。俺は強盗の顔面にグラタンを叩きつけた。「うっ」 惜しい事に、強盗が熱さで悶え苦しむという事はない。ヘルメットのお陰でグラタンは皮膚まで届かないからだ。 闇雲に包丁を振る強盗。俺はとっさに当たらない位置まで下がる。 ヘルメットがグラタンを被ると前が見えなくなる。ダメージはないが、これは強盗にとっては致命的だ。 急いでグラタンを手で拭おうとする強盗。焦ったためかどうかは分からないが両手を使っている。 俺は間髪いれず腹を蹴った。よく考えてみれば刃物を持った相手に随分と大胆な行動をとっているが、俺だってもう正常な判断が出来るほど落ち着いてはいない。 結果的に俺の行動が功を奏したのか強盗は素直にヘルメットを脱ぐ事にしたようだ。俺から見ればまんまと引っかかってくれた、という所なのだが強盗は気付くまい。 俺は強盗がヘルメットを取るのを待った。それからここだけは落ち着いて行動する。ヘルメットがないせいで強盗の頭部を守るものは、もうない。 俺は最後の気力を振り絞って『武器』を振り回した。 『ガン』 電子レンジだった。 後頭部を電子レンジで殴られた強盗はそのまま気絶した。専門的なことはよく分からないがしばらくは眠っている事だろう。 あまり格好のつく戦法ではなかったが、俺は死ななければ良かったので気にしない事にする。 唖然としている店員。気持ちは分かる。俺だって、昂っている今でこそ何も思わないが、後で振り返れば『凄かったなあ』と思うに違いない。 休憩室から人が現れた。楓ともう一人の店員だ。もう一人の店員は、強盗が刃物を振り回し始めてすぐに警察を呼んでいたらしい。それから後は怖くて隠れていたそうだ。楓も似たようなもので俺に突き飛ばされた後に休憩室に逃げ込んだのだという。 少しして警察が到着した。かなり時間をとられるだろうと思っていたが、数分話をして連絡先を教えた後ですぐに俺達を解放してくれた。監視カメラのお陰らしい。警察としてもどう見ても強盗が悪いのだから、俺達を疑いようがない。 俺は安堵した。 きっと、これで終わったのだろう。 今日、強盗に殺されるはずだった俺は、幽霊である少年の予言によって命拾いした。 きっと、そういう事なのだ。 すべてを終えた俺と楓は、流石に今からDVDを借りる気にもなれず、一路、楓の家へ向かった。
September 12, 2006
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<三日目_夜_長岡(1)> 放課後。 俺は朝に楓に言われたとおり、楓の家へ向かっている。目的地が同じだから楓も一緒だ。 下校中の俺達の間には妙な緊張感があった。さっきからずっと考えているのだが、俺は楓の家に行って何をするんだろうか? これは俺ばかりではなく、誘った方の楓でさえ、そう思っているようだった。 俺は楓がその話を切りだしてくるのを待った。しかし、一向に切り出される気配がない。俺がどれほど待ったかを考えていると、いきなり楓が口を開いた。「さあ、着いた。入って」 結局、楓の部屋の中まで入ってきたものの、楓が何もしゃべらないので俺から切り出す事にした。「なあ、どうしようか?」「うん、何も思い付かないんだよね」楓の返事はそっけなかった。 お前が呼んだんだろう? と思わなくもなかったが、俺はあの少年の言う通りに動かなくてはいけないため、一緒に案を考えた。 30分くらい考えた結果、楓はこう言った。「よし、映画を見よう」 俺達は映画を見る事になった。そのためにはDVDを借りてこなくてはならない。俺達は近所のレンタルショップに行って、映画を二本借りた。今から映画を二本も見てしまったらもう真夜中になってしまうのだが、俺は一体どのくらいまで楓の家にいればいいのか分からなかったので『二本見よう』と提案した。すると、何故かすんなり楓も納得して二本借りることになった。そんな夜中まで人の家に上がりこむのも悪いとは思うが、すべては俺の命のためである。楓も『もっと居てくれても構わない』と言い出す始末なのでここは遠慮なくお邪魔する事にしよう。「ちょっと買い物に行きましょう」 そう言い出したのは他でもない楓だった。 俺達はすでに映画を二本見終えて、一時間くらい二本目の映画の感想を言い合っていた。魔王と勇者の話で、最初は『何も考えずに見られる映画なんだな』と思わせておいて、最後は人間を皮肉ったような展開で終わるという少し変わった展開の映画だった。楓も始めは勇者の仲間である盗賊に『何で犯罪者が勇者の仲間なのよ』と言っていたが、最後には『まあ、それならしょうがないね』と納得していた。 そんな映画評論ももうどうでも良くなってきて、ふと時計を見ると真夜中の十二時を回っていた。俺は未だに何の事件も起こらない事で、これからどうしようか考えた。さすがにもう帰らないとまずいだろう。若い男女が同じ部屋にいていい時間ではない。しかし俺の死がこれからで、家に帰ってから事が起こるのでは、と思うと帰りたくなくなった。本当ならいっその事泊めてくれ、と言いたいところだが、当然そんな事は言えない。だから俺はいつ家に帰るかを真剣に考えていた。 そのときに楓は言った。『ちょっと買い物に行きましょう』 本心を言えば、俺は外に出るのも嫌だった。もはやこの世界で安全なのは楓の部屋だけで、信じていいのは楓だけなのだと思っていた。だからこの部屋を出るのには少し抵抗があったのだが、考えてみれば映画を見終わった俺達にもうやる事なんて無い。ただ部屋に居座るというのは俺には耐えられそうも無かったので、俺は楓の言う事に従った。 とりあえず俺達はコンビニへ向かう事になった。話によると楓はもう一本映画を見る腹積もりらしい。何でだかは分からない。俺が『その映画、俺も一緒に見ていいかな?』と言うと『あんたがいないと見る意味が無いでしょ』と言われた。何でだかは分からない。 そういう事で俺達は、コンビニで何か適当に菓子や飲み物を買ってから、再びレンタルショップへ行き、DVDを一本借りて楓の部屋に戻るという事になった。 深夜のコンビニに俺達以外の客はいなかった。入り口から入ると、右側にはコピー機、その奥にレジカウンターがあり、左側には熾烈な生存競争を勝ち抜いている商品が並ぶ、陳列棚がある。俺達は思い思いの品物を手にしてレジに向かった。「こちら、温めますか?」「あ、はい」 バイトの人は俺が買った商品を電子レンジで温め始めた。「ねえ、長岡」それを見ながら、楓は俺に言った。「あんた、やっぱりグラタンが好きなの?」「グラタンは素晴らしいよ」 俺は電子レンジの中で回っているであろうグラタンに思いを馳せながら、楓にグラタンへの思いの丈をぶつけた。 すると、入り口から一人の客が入ってきた。俺にはその様子が分かるが、楓には分からない。なぜなら俺達は向かい合う格好をしていて、楓は入り口に背を向けていたからだった。 だから、反応できたのは俺だけだ。 つい先程まで楓がいた場所に、少し大きめの刃物が振るわれた。つい先程までそこにいた楓は、既に俺に突き飛ばされて陳列棚の奥に消えた。 刃物を振るった男がこちらを見る。 俺は思った。何だ、これは? 俺は急に訪れた場面転換に付いていけず置いていかれそうになった。目の前に立っている刃物を振るった男は、今しがた店に入ってきた客だ。黒いフルフェイスのヘルメットを被っていて、見た目はまるでコンビニ強盗のようだった。 そして、男は俺に狙い定めた。 つい先程まで俺がいた場所に、少し大きめの刃物が振るわれていた。つい先程までそこにいた俺は、辛うじてカウンターを飛び越え、刃物をかわす事に成功した。そして俺は低い姿勢のまま強盗らしき人物からは遠い方へ移動し、少しの間、強盗らしき人物を見ていた。「金を出せ」 強盗らしき人物は、もはや俺と楓など無視してレジの前で硬直していた店員にそう言った。店員は刃物と黒いフルフェイスのヘルメットを見てから、『は、はい』と言ってレジを操作し始めた。 さすがにここまで来れば誰でも分かる。強盗らしき人物は、強盗だ。 俺はここで、あるフレーズを思い出した。『何も見えない暗い夜 夜を照らすコンビニの明かり 明かりに群がる無数の人間 僕は思った「人か虫か分からないな」』 これはいつか幽霊の少年に教えてもらったスリープスの曲『エーテル』の歌詞だ。なんとなくこの状況は今の状況と合っているな、と役に立つ情報をまったく寄越さなかった少年に腹を立てながら、俺はそう思った。
September 11, 2006
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<二日目_夜~三日目_朝_楓>「ねえ、長岡に教えてあげればいいんじゃない? 『あんた、そろそろ死ぬよ』って」 少年を前にして私は以前から思っていた事を言った。すると少年は少し困った顔をした。「ナガオカさんにですか?」「なんなら、私が代わりに言ってあげてもいいよ」「いえ、ダメです。幽霊は直接的に本人に死を告げることが禁止されています」「だから私が言うって」「カエデを介したところで、それは僕がナガオカさんに教えているようなものですから駄目なんです」「そうなの? でも、間違って私が言っちゃうかもしれないじゃない」「カエデは言いません。あなたと僕が出会うのは本来あり得ない事なので未来が見えにくくなってますが、それでもカエデがナガオカさんに告げてしまう事はありません」 確かに少年の許可もなく教えるつもりはない。私は駄目と言われている事をわざわざやる人間ではないからだ。「分かった。それで長岡はいつ死ぬんだっけ?」「明日です」「え、もう?」「明日です」「何とかならないかな?」「出来ますよ。そのために僕はカエデの前に現れたんですから」 そういえばこの少年が私の前に現れた理由を私は知らなかった。長岡を助けるためというならば確かに理由になるだろう。なら、何故長岡を助けるんだ? と思わないでもないが、この際、何でもいい。「じゃあ、私はどうすればいい?」「簡単です。明日の夜にナガオカさんをカエデの家に呼ぶだけです」「それだけ?」「はい」「そんな事で人が死んだり死ななかったりするの?」「死ぬ予定の人が死ななくなるんです」 この少年は妙に説明的だと思う。私は質問を続けた。「でも、私が長岡を呼んでもあいつが家に来るかどうか分からないわ」「ナガオカさんは来ますよ、絶対」「そうなの?」「僕には未来が分かります」「それじゃあ、長岡は何しに家に来るの?」「それは分かりません」「えっ、未来が分かるんでしょ?」「ええ、そうですけど、僕が関わってしまうと僕にも予測しにくい未来になるんです。だから僕にも、分かる未来と分からない未来があります。何をするかは、二人で相談して決めてください」「そう」 明日、私達はどうやって時間をつぶそう。やはり私から誘うんだから何か用意をしておく必要があるんじゃないだろうか? 私はそれからずっとそれについて考えていたが結局何も思いつかなかった。 いつの間にか少年はいなくなっており、私は気付いたらベッドの上で朝を迎えていた。「夜、うちに来ない?」 私はうちで何をするのかも思いつかないまま、長岡を誘った。これで長岡の命が助かるのなら安いものである。何をして暇を潰すかというのはおいおい考えていけばいい事だろう。 そんな私に対して長岡は目を見開き、酷く驚いていた。今にも『まさか本当にこうなるとは』と口に出しそうな表情である。 長岡は少し考えてから、こう言った。「ああ、いいよ」 私は長岡が、もうちょっと考えるなり、『楓のうちで何をするんだ?』と質問するなりの反応があると思っていた。だが予想に反して長岡はすんなりオーケーした。 だから私は目を見開き、酷く驚いた。今にも『まさか即答されるとは』と口に出しそうな表情になっていた事だろう。 私は少年の予言がいよいよ現実のものとなるような気がして、なんともいえない緊張感を持った。こころなしか長岡の方も緊張しているように見えた。
September 10, 2006
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<二日目_夜_長岡> 俺は海に一人立っていた。足下に水はないけれど、ここは間違いなく海だった。見渡す限り続く海。水平線まで何もない。 また今日も少年がそこにいた。「こんばんは、ナガオカさん」「やあ」俺はそう言った後、少し少年の様子をうかがってみた。しかし、彼は殊更話したい事があるようではなさそうだったので、俺が少年に質問する事にした。「今日、車に轢かれそうになったんだけど、あれは君がやったのか?」 少年に死ぬと言われて、あの事故だ。疑うなと言う方が難しい。「いえいえ、幽霊ごときにそこまでは出来ません。僕に出来る事は先を見る事ぐらいなんです」 言い訳のようには聞こえなかった。だが、自信満々で穏やかに言い放った少年は、事がうまく運んでいる事を確信しているようにも見える。 彼が本当の事を言っているかは分からない。「昨日、君は僕に何かの力を使ったじゃないか。音がしないのに音楽が頭で鳴り響くやつを」「あれですか。幽霊は夢の中なら何でも出来るんですが、現実の世界だとほとんど何も出来ないんです。信じてもらえるか分かりませんがそういう事なんです」「そうなの?」「夢と現実は別物です」 こう言われたら、俺はもう何も言い返せない。確認する方法がないからだ。だから俺は少年の話を聞いてもどうしようもなかった。 そして、それとはまた別に俺には納得いかない事があった。「あのさ、未来が分かっているんだったらあの事故についても教えてくれれば良かったんじゃないかな?」「僕はあの事故の事を知っていました」「そうだろう?」「ただ、僕はナガオカさんが無傷で済む事も知っていました」「だから、君は言わなかったのか」「ええ」「そうなんだ」 俺は一応納得した。そういう事ならもう仕方ないのかもしれない。「さて、ナガオカさんはとうとう明日、死ぬ訳なんですが」 少年の言葉には重みが一切無かった。俺にしてみれば広辞苑くらいの重さの話が、彼にとっては電子辞書くらいでしかないらしい。「君は俺が死ぬって事をえらくあっさり言うんだね」「僕達にしてみれば仲間が一人増えるという、ささやかなイベントに過ぎないんです。人間の死は」 言われてみればその通りだ。幽霊にしてみれば俺の死なんてささやかなイベントに過ぎないのだろう。 幽霊の少年は話を元に戻した。「死に逝くあなたに贈る言葉があります」どこか聞いた事あるような台詞だった。「ナガオカさんは明日カエデに『夜、うちに来ない?』と言われます」「明日、楓に?」「ええ、そこでナガオカさんは『ああ、いいよ』と答えて下さい」「それだけ?」「はい」「別にいいけど、一つ問題があるよね?」「なんですか?」「そのままだと、俺は楓の家に行かなくちゃいけない」「ええ、そういう事になります」「面倒なんだけど」「ナガオカさん。死ぬのは嫌だって言ってませんでしたか?」少年は少し呆れて言った。「そうだった。でも、俺はまだ君の事をあまり信用していないんだ」「それでも、僕の言う事に従った方がいいです。まあカエデに家に誘われたら断りきれないとは思いますが」 確かにそうだった。死ぬと言われた後で、少年の言うとおりに事が進み、家に誘われるのならば、俺は少年の言う事を聞かずにはいられないだろう。少年の予言が当たると分かれば、藁をも縋る思いだ。「じゃあ、楓に誘われたら行けばいいんだろう?」「ええ、それで充分です」「あのさあ」俺は少年に聞いた。「俺が楓の家に行くと楓が危ないんじゃないのか?」「いえ、彼女に危害が及ぶ事はありません」「本当か?」「ええ、本当です。彼女に何かあったら意味が無いじゃないですか」少年はこうも言った。「僕に任せてくれればすべて丸く収めて見せます」 それならそれでいい。俺がうまく生き残って、楓にこの少年との出来事を話さなければ、楓は俺が死ぬ予定だったっていう事を知らずに済む。だから俺は何事も無かったように元の日常生活に戻れるだろう。「今日、僕がナガオカさんに言うべき事はもうありません」「そうかい。しかし、楓の奴は何で俺を呼ぶんだろう?」 今まで、俺があいつの家に行ったことはない。あいつの家より俺の家の方が高校から近いから、家に行く必要があるときは大抵、俺の家に来る。「なあ、本当に俺は楓の家に呼ばれるのか?」 俺は未来を知る幽霊の、未来の話に疑問を抱いた。「ええ、あなたは必ず呼ばれます」「まあ、そんな事どうでもいいか。とりあえず俺は生き残るために頑張るよ」「そうですね。がんばって下さい」 少年は人事のように俺を応援した。「じゃあ俺はそろそろ寝るから」「そうですね。もういい時間です。では、おはようございます。」 そう言えばここでは寝るときは『おはよう』だったな、と思い出しながら、俺は深い眠りに、つまり起床する事にした。
September 9, 2006
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<二日目_朝_楓> まさか二日続けて、とは思わなかった。このままでは本当に長岡がどうにかなってしまうかもしれない。 何の事かと言えば、少年が出てくる夢の事だ。 今回は内容をはっきり覚えている。少年は『僕は幽霊です』と自己紹介した後に、また例の、長岡が死ぬという話をした。私はやはり信じていなかったのだが、少年は絶対にそうなると言い張る。そんなやり取りだった。 しかし、重要なのはここからで、今回私が見た夢では、長岡が死ぬとか死なないとかはどうでもいい事だ。 私達は話を進めているうちに、お互いにスリープスのファンだという事が分かった。幽霊のくせに、なかなか話の分かるやつである。私達はその後、スリープスの話で大いに盛り上がった。この辺の話は本当に楽しかった。どの位楽しかったかと言えば長岡が死ぬという事をすっかり忘れるくらいだ。 そして、最後に少年は言った。とうとう長岡が死ぬという事を信じなかった私に、少年は別の予言をしたのだ。「翌朝、登校中にナガオカさんは車に轢かれるでしょう」 私はそこで質問をする事にした。「その事故で長岡は死んじゃうの?」「いえ、予定ではその次の日のはずですからそれはありません。さらに付け加えるなら、その事故でナガオカさんが傷を負う事も無いでしょう」「そう。無傷なのね」私は少し安心した。そして、ついでにもう一つ質問をした。「どうしてあなたは未来が分かるの?」 少年は何度もこの質問を受けたことがあるのか、慣れた口調でこう言った。「幽霊だからです」 そして、私は今、長岡と共に学校へ向かっている。もしここで長岡が車に轢かれでもしたら私は少年の予言を信じるしかないだろう。 私達が登校する時間は小学生が登校する時間と重なっている。彼らは朝から元気がある。起きた瞬間からフルスロットルで動いているのではないかというほどパワフルなのだ。彼らは実に楽しそうだが、こんなに朝の早い時間からはあのテンションについていけない。見ていると、とても疲れるのだ。だから私達は彼らと同じルートを通らないように、静かなルートを選び出し、極力、小学生を避けるように登校している。 それでも、どうしても高校までのルートで小学生に遭遇してしまう箇所がある。それが今、私達のいる、車がぎりぎりですれ違えるような狭い道である。道の反対側には小学生。今日も今日とて、ぎゃあぎゃあと大騒ぎだ。 そんな中、一台の白いバンが前方からやってきた。それはよろよろと危なっかしい運転をしていた。 私はそれを見た瞬間に驚いた。『え?』と声を上げていたかもしれない。狭い道、話に夢中の小学生、不安定な車。この瞬間に一つ一つの僅かな危険が一度に集まって、事故までの状況を着々と整えていくではないか。これはもう準備が出来たとか出来ないとかそういうレベルの話ではない。完璧だった。三国志に出てくる天才軍師でさえこのような布石を打つ事が出来ないのではないだろうかという程の完璧な状況だった。 とにかく、後は路上に子供が飛び出し、その子供をかわそうとした車がこちらに突っ込んでくるだけで交通事故の完成である。『翌朝、登校中にナガオカさんは車に轢かれるでしょう』 私は少年の予言を思い出しながら、これから起こるであろう事故を見守る事にした。その予言の通りに行けば長岡は傷一つ負わないという事なので、私は事故が起こる事を事前に知っていながら、ただ見守る事に徹した。無傷で済むと知っているから、私が黙って長岡が車に轢かれるのを見守っていても、それは薄情でもなんでもない。 程なくして、事故は起こった。私が思ったとおりに小学生が飛び出して、私が思ったとおりに車が突っ込んできたのだ。「あ、危なかった」 ぎりぎりで止まった。長岡は呆然としてしばらく動けそうも無い。少年の予言は当たった。 もちろん私はこの事故の事を知っていたので、少しも危険は無かったのだが、長岡は車の正面で尻餅を着いていた。間一髪である。運転手が、後ほんの少し酒を飲んでいたり、携帯電話を使っていたりしたら、ブレーキを踏むのが遅れて、長岡は今頃幽霊の仲間入りを果たしているところだった。 車から人が降りてきた。私は地面に腰を降ろしたままの長岡の後方から、その様子を固唾をのんで見守った。 運転手は長身の綺麗な女性だった。私は漠然と『モデルみたいな人だなあ』と思った。 女性は言った。「ちょっと、危うく引くところだったじゃない。気を付けてよね」 小学生はもう既にいなくなっていたから、その言葉は長岡に向けられたものだろう。だが悪いのは確実に長岡ではない。なぜなら、私達はただ道の端を歩いていただけだからだ。 当の長岡は人の話を聞いているのかいないのか、女性の顔を見ているだけだった。「まったくもう」 女性はまるで自分には非がないような態度だった。 そこに少し遅れて助手席から男性が下りてきた。年は私達の少し上くらいだろう。「雪穂さん」 私も長岡も雪穂という名前ではなかったから、そのモデルみたいな人の名前なのだろう。「後のことは僕がやりますから、雪穂さんは車で待ってて下さい」 男性は女性が言った事を聞いていなかったはずだが、何が起こっているのか察しているのだろう。素晴らしい対応だった。 この男性はこの女性の扱い方を既に心得ていると見える。女性は不服そうな顔をしながらも大人しく運転席に戻った。「ごめん。怪我はないかい?」 気付けば男性は長岡に話しかけていた。「あっ、平気っす」 長岡の答えは随分暢気な物だった。 平気なのは当然だ。車は長岡にぶつかってない。「平気でも、何かあったら大変だ。病院まで送るから、車に乗って」 男性は長岡に丁寧な対応をした。 私は、何か言おうとしていた長岡を遮って言った。「こいつは大丈夫です。どうかお気になさらず」 しかし、私の言葉に男性ではなく長岡が不満を漏らした。「何でお前が決めるんだよ」「平気なんでしょ?」「まあ、そうだけど」 やはり不満そうではあったが長岡は渋々、納得した。 私が男性の申し出を断ったのには理由がある。 一つは夢に出てくる少年が無傷で済むと言っていたからだ。私はこの時点で少年を信じていた。事故をしっかりと予言して見せた少年が、ここで外すとは思えない。 もう一つは、ただ単に私があの女性を好きになれなかったからだ。私はあまり自分勝手に振る舞う人が好きではない。 男性の申し出はありがたいが、以上の理由から私は断る事にした。 男性は少し考えた後、車に戻って鞄を取ってきた。「あの、これなんだけど」 そう言ってしばらく鞄を探った後で、一枚の紙を取り出した。それは名刺だった。「何かいろいろ書いてありますね」 私は自分でも何故そう言ったのか分からないが、当たり前の事を言った。 だからだろう。二人は変な顔をして変な事を口走った私を見ていた。そして、見かねたというような素振りで長岡が私に言った。「楓、俺は何も書いてない名刺を見たことがない」 私もそう思う。そして、間を取り繕うように男性が言った。「もし、今日の事で僕達と連絡を取る必要が出てきたら、その名刺の番号に電話をして欲しいんだ」 いいかな、と私達を見る男性。 私は何気なく名刺を見た。そこには電話番号が書いてあり、男性の名前も、働いているところも書いてある。 ペットショップ『homeless』の桐原さんという人らしい。 ペットショップ、ホームレス。その言葉の組み合わせ方はなかなか斬新だ、と私は思った。「ホームレスって、結構奇抜な名前っすね」 長岡は思ったままの事を言った。私は『あまり失礼な事を言うな』と思ったが、桐原さんは言われなれているらしく特に気分を害したわけではなさそうだったので、私は何も言わなかった。「この店名は確かに変わってるよね」 桐原さんは腕時計を見ながら言った。若干その言葉には苦笑が混じっていた。「さ、君達も、もう時間だろう? 僕も仕事があるからあまり時間はないんだ。何か用があったら名刺に書いてある番号に電話してくれ。当店の優秀なスタッフが対応致しますよ」「優秀なスタッフってあの女の人ですか?」 私はなんとなく聞いてみた。「いや、僕らとはまた別の人がいるんだ。電話に出るのはその人だと思うよ」「そうですか」 特に意味の無い質問だった。それもそのはずで、私は本気でそんな事を聞きたかったわけではないのだ。私は、誰でもいいから『本当に長岡は死ぬんですか?』と聞きたかった。だが長岡の手前、直接そんな事を言うのも憚られて、つい私は無駄な質問をしてしまった。何と質問すれば言いか考えて、私は慎重に桐原さんに質問した。「桐原さん、運命って信じますか?」「運命?」 桐原さんは突然の質問に少し困惑していた。そして長岡は、黙って聞いていた。「信じますか?」私は再び質問した。「運命、か」 桐原さんは少し考えてこう言った。「それは僕にはよく分からないけど、不思議な出来事なら世の中にたくさんあると思うよ」「本当ですか?」「ああ、例えば猫に就職先を斡旋してもらう、とかね」 それは確かに充分不思議な出来事だった。 桐原さんがそんな馬鹿馬鹿しいを信じるというのなら、私は少年の言う事を信じる事が出来るような気がした。「えっと、桐原さん。参考になりました。ありがとうございます」「そう? こんな事くらいしか言えないけどそう言ってもらえるなら良かった。じゃあ、僕は仕事があるから本当にもう行くよ」 そう言うと桐原さんは車の運転席に向かってしまった。 私と長岡も遅刻しそうだったので、すぐに学校へ向かった。 ただ、私は隣で少し暗い顔をしている長岡が気になった。 まあでも「雪穂さん、何で運転席にいるんですか。ここからは僕が運転するに決まってるじゃないですか」という声を聞いたせいでそんな事はどうでも良くなってしまったのだけれど。
September 7, 2006
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<一日目_夜_長岡> 俺は砂漠に一人立っていた。地面に砂はないけれど、ここは間違いなく砂漠だった。見渡す限り続く砂漠。地平線まで何もない。 ぐるっと周囲を見回す。そこには何もないから、地平線が途切れるような事はない。俺はぼんやりと『地平線が円を描くなんて知らなかったなあ』と思った。 薄い紫色の空はもうすぐ太陽が昇ってくる事の予兆だ。こんな何もないところまで昇ってくるのだから、太陽はよっぽど暇なのか几帳面なのか、そのどちらかなのだろう。 気付くと目の前に小学校低学年くらいの年の見知らぬ少年が立っていた。「こんにちは。ナガオカさん」 少年はそう言った。「あれ? 何で君はこんなところにいるんだ?」 俺がここにいる理由も、初対面の少年が俺の名前を知っている理由も聞きたかったが、とりあえずそれだけ聞いてみた。「どうでもいいじゃないですか。そんな事」「そうだな。どうでもいい」 答えになってなかったが、納得する。ここでは何もかもどうでもいいような気がした。「ナガオカさん。言いにくいんですが」 少年は確かに言いにくそうに言った。「何?」 俺は続きを促した。「明後日、ナガオカさんは死にます」 どうやら俺は死ぬらしい。「死ぬって、俺が?」「そうです。死にます」 少年はまるで確認するかのように言った。「君は何でそんな事を知ってるんだ?」「説明しにくいんですが、幽霊には人の死が分かります。それで、僕は幽霊なんです。 だから、僕には人の死が分かります」「へえ、それはすごい」 俺は幽霊と話している事なんかどうでもよくて、少年の丁寧な言葉遣いに感心していた。若いのに礼儀正しいじゃないか、と。「こんな事は別にすごい事ではありませんよ。ナガオカさんも死ねば分かります」「じゃあ、分からなくてもいいや。俺は、死にたくない」「人間が恐れているのは死と未知です」 少年は昔を思い出すように言った。そこで、俺は人が恐れるものについてもう一つ加えておくべきものがある事に気付いた。「人間にはまだ怖い物がある」「何ですか?」「幽霊、だな」 さっきも言ったが俺は死ぬのが怖かった。「死なないためにはどうすればいいんだ?」 少年は『そう言うと思ってました』と言わんばかりの笑みを浮かべた。「僕が何とかしてあげます」「本当か?」「ええ」少年は言った。「僕の話を聞いてください。ナガオカさんが僕の話を聞けば、きっといい事があります」 笑顔を崩さずに少年はそう言った。 少年は本当に俺を助けてくれるつもりのようだ。いい事とはきっと明後日以降も俺が生きているという事に違いない。そもそもそれ以外に、少年が俺の前に現れる理由がないのだ。「分かった。話を聞くよ」「ありがとうございます」少年は話を始めた。「僕は、ですね。最近、あるバンドの曲が気に入りまして、それをずっと聞いてるんですよ」 少年が始めた話は世間話だった。俺は慌てて話を止める。「ちょっと、待った」「何です?」「そんな世間話を始めてどうするんだ?」「幽霊が人の死に関わるには回りくどくする必要があるんですよ」「何で?」「例えば、ナガオカさんが銃で撃ち殺されるとします」「俺は銃殺されるのか」 俺はあっさりと自分の死に方を言われた事でかなり怯えた。「例えばの話です。ただ、その時僕には銃弾の軌道を変えることは出来ません。言うならば、銃を撃たれてしまった時点で手遅れです」 俺は手遅れと言う言葉にまたも怯えた。「だからこうして、考え得る最悪の事態から遠ざけようとわざわざ話をしているんです」「分かった。助かるんなら、もう何でもいい」 俺は我慢強く少年の話を聞く事にした。「それで、その先程のバンドの話なんですけど。ナガオカさん『the sleeps』って知ってます?」「ああ、知ってるよ。スリープスな」 朝に楓と話した、さっぱり売れないバンドの事だ。「僕はそのバンドが好きなんです」「俺の友達にもそのバンドのファンがいるよ」 もちろん楓の事だ。「カエデ、ですね。彼女も数少ないスリープスのファンです」 少年は何故か楓の事を知っていた。「俺、楓の事を君に話した?」「話してません」「それなら、何で楓の事を知ってるんだ?」「幽霊だからです」 難しい事は聞かない事にしよう。この少年は幽霊だ。俺には理解出来ないような事が出来るに決まっている。「幽霊って便利だな」「ええ、人間よりは便利です」「きっと、この世界で上から順に凄いものを挙げていけば、一番目が神様で二番目が幽霊だ」 少年は俺の評価に満面の笑みを浮かべた。「ありがとうございます。ちなみに、三番目は何です?」「間違いなくグラタンだな」「ナガオカさん、スリープスの『エーテル』っていう曲を知ってますか?」「俺はスリープスというバンドがある事は知っているんだが、曲を聞いた事は無いんだ」「じゃあ、今から教えますね」「教えるって?」 俺がそう言うと、頭の中で曲が流れ始めた。音は耳から入っているのではなく、頭で直接鳴っている。当然、俺の周りにスピーカーは無い。スピーカーどころか、砂漠なのに砂すら無いんだから、ここには何も無い。それでも俺の頭では曲が流れていた。「これは君の力?」 俺は少年に聞いた。「ええ、僕の能力です」「何でこんな事が出来るんだ?」「幽霊だからです」 どんなに理屈をこねようと幽霊にはかなわないだろう。「幽霊って便利だな」「ええ、人間よりは便利です」「きっと、この世界で凄いものを上から挙げていけば、一番目が神様、同着で幽霊だ」 少年は俺の評価に満面の笑みを浮かべた。「ちなみに、三番目は何です?」「間違いなくグラタンだな」 俺は大人しく曲に耳を傾けた。すると歌詞が頭の中に流れ込んできて、一回聞くだけですっかり覚えてしまった。「どうですか? この曲は」 この曲を作った人は人間嫌いなのだろうか? 俺は頭の中で繰り返し歌詞を読んだ。『何も見えない暗い夜 夜を照らすコンビニの明かり 明かりに群がる無数の人間 僕は思った「人か虫か分からないな」 電波を放ち続ける機械 機械と踊る無数の白衣 白衣を纏った黒い生物 彼らは言った「これが人間の力だ」 朝も夜も 過去も未来も いつでもどこでも 僕は苦痛に耐えているんだよ エーテルに乗って光さえ届かない場所へ行きたいな』「あの、エーテルって何?」 俺は少年に聞いた。「これは物理学に関係するエーテルだと思いますが、詳しく知りたいですか?」「えっと、いいや」 難しそうな話は聞かないに限る。「それで君は何でこの曲の話をしたんだ?」「僕はスリープスの中でも僕はこの『エーテル』という曲が一番好きなんです」「へえ」「はい」「それだけ?」「はい、それだけです」「そう」 俺はこの少年に関する記憶を否定する事にした。結局、訳の分からない事を言われただけだ。きっと今の事は全部嘘で、少年は幽霊じゃないし、俺は明後日に死なない。 結論は出た。もう早く寝よう。「俺、もう寝るから」「はい、結構です。おはようございます」 寝るときは『お休みなさい』ではないかと思いながら俺は目を閉じた。目を閉じたはいいがよくよく考えると変な話だ。 俺は、何で砂漠の真ん中にいるんだ? この砂漠には、何で砂が無いんだ? 俺は、何で砂漠で眠るんだ? よく分からないままとりあえず俺は眠った。 俺は起きた。「あれ、俺、寝たんじゃなかったっけ?」 寝たはずが起きてしまったという長い人生でもなかなか出来ない経験をした俺は、寝ぼけた頭で少年との最後のやり取りを思い出した。『俺、もう寝るから』『はい、おはようございます』 「分かった」つまりこういう事だ。「俺は夢を見ていたんだ」 あくまでこれは俺の推測に過ぎないが、あの少年との出来事は夢だったと思うのが自然ではないだろうか。 これは別に俺がいろいろ考えた結果こうなった訳ではなく、ベッドの上で目覚ましの音を聞きながらぼうっとしている、というこの状況から考えた事だ。大体、あれだけ非常識なことが現実で起こるはずも無い。しっかり寝ていたような感じも体に残っているし、これはもう夢を見ていたとしか言いようが無い。それに、そういう事にしておいた方があの少年が言った事を受け入れなくていい。『明後日、ナガオカさんは死にます』 俺の一日は悪夢を振り切るところから始まった。
September 6, 2006
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<一日目_朝_楓>『ナガオカさんが、死にます』 寝起き特有の虚脱感から解放された私が覚えているのは、その言葉と、少年の顔だけだった。 覚えている。私は、夢を見た。 覚えている。少年が、立っていた。 覚えている。少年は言った。『ナガオカさんが、死にます』と。「だから、何だ?」 私は自分に問いかけた。だから、何なんだろう? 私は夢を見た。少年が『ナガオカさんが死にます』と言う夢を。 断っておくと、夢は夢である。それは、たとえ夢がどんなに頑張ったところで変わる事は無く、現実とは全くの別物である。もし仮に夢が現実になってしまったら、それはもう大変な事になってしまうのだから、夢は夢でなくてはいけないのだ。 例えば私は以前、映画を食べながらポップコーンを観るという、とんでもない夢を見た事がある。もしそれが現実になってしまったら、私はどうすればいいのだろうか? 私には映画がおいしいかどうかは分からない。だから、そちらについては何も言えないのだけれど、二時間もポップコーンを見続けるのは、きっと苦痛だ。だから私は、夢が現実になるのには反対する。まあ幸いな事に、賛成も反対も無く夢と現実の間にはしっかりと線が引かれているので、私はまだポップコーンを見続けるという苦しみを味わわずに済んでいる。 私が夢を気にする必要は、無い。それは映画を食べながらポップコーンを観る夢であろうが、少年が『ナガオカさんが死にます』と言う夢であろうが同じだ。 だが、私はこの、つい先程見たばかりの夢が気になっていた。何故かは分からない。何故だろう? よく分からなかったけど、目覚めたばかりのぼんやりとした頭で思いついた事がある。「あの少年は、お子様ランチを頼んでも、ぎりぎりセーフ」 もう一度言おう。だから、何だ? 私はベッドから起きて、もそもそと活動を始めた。 よく考えれば、夢の事なんてどうでもよかった。高校生の私が気にしなきゃいけないのは、夢より現実なのだ。私の経験上、現実は思ったより厳しい。思いついたものをいくつか挙げるだけでもきりが無い。宝くじは当たらないし、学食はおいしくない。貯金は減っても、体重は減らない。世の中間違っているとしか思えないけど、それが当たり前なのだから仕方がない。 現実は今、こうなっている。私は人間で、女で、高校生。今日は平日で、時刻は午前七時。起床してから登校するまでの、朝の貴重な時間である。 目を覚ました私は、とりあえず音楽を流すことにした。この前出したアルバムで人気が出始めた、とあるロックバンドの曲である。私はこのバンドより好きなバンドがあるのだけど、寝起きに聞くのはこのバンドの曲と決めていた。 音楽を聞きながら、私は制服に袖を通す。着替え終わって時計を見るとまだ、十分しか経っていない。私の家から学校までは割と近く、八時に家を出れば間に合うので、かなり余裕がある。お陰で今日の私はゆっくり身支度を整える事が出来そうだ。 家を出ると、私は待ち合わせ場所の公園に向かった。 私は高校に行く時、友人と待ち合わせをして一緒に行っている。今日は私の方が先に来たらしく、公園にはまだ誰もいない。私はいつも通り友人が来るのを入り口近くのベンチに座って待つ事にした。 私とその友人が親しくなるのに、これといって特別な出来事はなかった。なんとなく仲良くなって、なんとなく一緒に登校しているのだ。 これは私だけではないと思うけど、友人関係を築く上で特別な出来事なんて早々起こるものではない。まあ、そういう奇妙な縁というものがあってもいいとは思うが、少なくとも私とその友人には無い。だからもちろん、私とその友人との間には出生の秘密は無いし、命を懸けるような大事件も無い。私達が親しくなった要因を、敢えて挙げるとすればそれは、私達を取り巻く環境のせい、としか言いようが無いのだ。 私と友人は現在、高校三年生だ。私達は高校に入ってから三年間、ずっと同じクラスだった。そしてこれは、後に発覚したのだが、私達の家の距離は近い。なんでもない事のようだが、私達はこの偶然によって仲良くならざるを得なくなった。友達になる理由なんてそんなものだろう。よく顔を合わせる奴とは仲が良い方が良い。私と友人の関係はそんなところだ。つまり始めに言った通り、なんとなく仲良くなって、なんとなく一緒に登校しているというわけである。「よう」 聞き慣れた声のする方を向くと、見慣れたやつがベンチに近付いてくるのが見えた。これが待ち合わせ相手、友人の長岡だ。ちなみに、今朝の夢に出てきた『ナガオカさんが、死にます』のナガオカでもある。 それにしても、一体あの夢は何だったのだろうか? その事をぼんやりと考えていると、長岡が私の肩を叩いた。「何だよ楓、無視するなよ」「ああ、ごめんごめん。ちょっと考え事を」 楓というのは私の、名前だ。「そうかい。まあ、いいや。早く行こう」 長岡は男だ。互いに異性である私達が毎朝一緒に登校しているから、付き合っているのではないかと言われたりするのだが、そんな事は断じて無い。何度でも言おう。長岡は、私の、友人だ。「何だよ楓、無視するなよ」「ああ、ごめんごめん。ちょっと考え事を」私の知らない間に長岡が何かを話していたようだ。でも私はまるで聞いていなかった。「それで、何の話?」 私は先程の話を聞くために話を振った。「グラタンの話だ」「グラタン?」「そう。俺がグラタンを好きになるまでの話」「グラタン、好きなの?」「昨日、好きになった」長岡は昨日グラタンが好きになったらしい。私の夢ではもうそろそろ死ぬ予定だが、その割には能天気なやつだ。「グラタンはいいぞ」「どの辺がいいの?」「全部だよ。グラタンは世界を救う」 長岡はグラタンを、まるで何処かの英雄のように言った。「じゃあ、グラタンに世界を平和にしてもらおうよ」 もちろん私の気がふれたわけではない。なんとなく長岡に話をあわせただけだ。「世界平和の実現も近いな。何と言ってもほら、グラタンだから」 もはやグラタンと言えば何でも許されるようだった。こいつは明日にでも、国連の事務総長がグラタンでない事に腹を立てるのだろう。 私は思った。好きにしてくれ。「楓だって、何だかよく分からないバンドが好きじゃないか」 長岡は私がグラタン話を話半分で聞いている事に気付いたのか、急に話の方向を変えた。「確かに好きだけど、別に関係ないでしょ」「そうだな。関係ない」「好き嫌いは人それぞれ」「そうだな。それぞれだ」「私はスリープスを応援し続けるから」スリープスというのは私が好きなバンドの事だ。正確には『the sleeps』という名前である。「あんたはグラタンを応援し続けていけばいいじゃない」「グラタンを、応援、ね」 長岡は冷めたグラタンのような苦笑いを浮かべた。無茶苦茶な事を言っても、ぎりぎりのところで正気は保っているようだった。「『スリープス』って名前は妙に力が入らない名前だよな」 私がスリープスのファンだと知ってか知らずか、長岡はそう言った。「どの辺りが?」 私は聞き返した。実は私も前々からそう思っていたのだ。「やっぱりさ、プスって入ってると、空気が抜けたような感じがするんだよ」「ああ、なるほどね、気付かなかった」「それが未だにスリープスが売れてない原因だろうな」「そうかもしれない。だから売れてないんだ」 私は納得した。バンド活動を十年以上もやっておいて鳴かず飛ばずなのにはそういう事情があるらしい。名は体を表す。スリープスはこのまま眠り続ける運命のようだ。
September 5, 2006
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正直な話、自分が日記を書いたってしょうもないんですが、ずっと放置ってわけにも行かないんで何日かに一回くらいは何か書きます。……と思ったけど何も思いつきません。他の皆さんは一体どうやって日記を書いているんでしょうか?『日記』「なあ、兄ちゃん。兄ちゃんの日記を勝手に見たんだけど」 弟はどうやら俺の日記を勝手に見たらしい。普通の人なら怒る。自分のプライベート、赤裸々な本音を書き込んだものなのだ。怒らない方がおかしい。 だけど俺は大人だ。そのぐらいでは怒らないのさ。「どうだった?」俺には感想を聞くほどの余裕すらある。まるで仏のような人格者だといえる。「それが……」弟は困った顔をした。それは困るだろう。あんなものを見てしまったのだ。困らない方がおかしい。「どうした。俺の日記で話があるんだろ?」 俺が促したので、弟は意を決して話す事にしたようだ。「――兄ちゃん、何で、何にも書いてないの?」弟は言いながら真っ白な日記を開いて俺に見せた。「何だ、そんな事かよ」俺は何でもない事のように言い切った。「それは世の中が退屈だからだ。つまらない日常は日記を白くさせるという事なのさ」 弟は先程よりもさらに困った顔をして言った。「世の中の事はよく分からないけど、兄ちゃんが可哀想だっていう事はよく分かったよ」 俺の弟は聡明だった。(誤解を招くといけないので書きますが、この話はフィクションです)とりあえず今日は日記の小話を書きました。ここまで読んだ方、お疲れ様です。つまらない事を書いてすみません。今日は小話をはさみましたが、次は普通に書きたいです。まあ、また小説になるかもしれませんが…。
September 2, 2006
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魔王を倒しに行く前日。俺達は魔王の城の少し手前の森で、一晩野宿する事にした。 煌めく星空の下、俺と勇者は燃えさかる火を囲んでいた。「なあ、勇者。今更だが、敵の城の近くで焚き火をするのは危なくないか?」 空に向かって伸びていく煙は、城からもよく見えるだろう。敵に自分の居場所を知らせる、という行為が戦いに赴く者のする事とは思えず、俺は一応、忠告した。 勇者には俺の忠告を受け入れる気はないらしく、こう言った。「何だ、盗賊はそんな事で臆するのか」「お前は知らないかもしれないが、盗賊は臆病じゃないとやっていけない」 俺の言葉に勇者は愉快そうに微笑んだ。「そうか」勇者は言いながら焚き火に木をくべた。「なあ、勇者」俺はもう一度勇者に言った。「これじゃあ、敵に居場所がばれるぞ」「いいじゃないか。どうせ奇襲なんだ。向こうはこっちに勇者がいると知っても何もしてこないよ」 俺にとって敵に居場所が知られている奇襲というのは、初めての体験だった。「それで、話って何だ?」 他のメンバーはとっくに眠ってしまったのだが、俺は勇者に『後で話がある』と言われて、こうして残っていた。勇者は火を見つめながら穏やかに話し始めた。「君は僕の仲間になってから、まだ日が浅い」「そうだな」「だから君は、僕が何をしているのか知らないだろう?」勇者はそう言った。だが、知らなかったら誰もついては来ないだろう。 確かに不可解な点はある。でも俺は宝を盗めればいいだけなので、その点に関しては特に興味は無い。 返答に困った俺は、仲間になるときに、勇者に言われた言葉をそのまま言って答えとした。「俺達はこれから、魔王を倒しに行く」「その通り」「だったらもうそれでいいじゃないか。当分、俺はお前についていく」 勇者は一つため息を吐いて言った。「明日は決戦だ」「ああ」「盗賊、君は魔王についてどう思う?」 随分急な質問だった。俺は適当にその質問をやり過ごす。「どうって、俺は魔王に会った事がないから分からない」「僕はある」「そうだろうな」会った事がなければこいつが勇者と呼ばれるわけがない。「魔王は悪だ」 勇者は当然の事を言った。当然の事を言われただけだから、俺にも返す言葉はなく、適当に相槌を打つ。「そうらしいな」「だが、違った」「何?」「魔王は、人間として尊敬できる人物だった」 パチパチと弾ける音が焚き火から聞こえた。 オレンジ色の光が勇者の顔を照らし出しているが、その真剣な表情から先程の台詞が嘘ではないのだと分かる。「本気で言っているのか?」 俺は勇者がここに来てとびっきりの冗談を言ったのかと思ったが、やはり表情は固いまま動かなかった。「これが冗談だとしたら、僕は随分笑えない事を言う勇者だね」「ああ、世界でも一、二を争うほどのくだらなさだ」「僕は真剣だ」「それはもっと酷い」 俺はこれから話される内容に少なからず興味を抱いた。空を見上げるとやはり満天の星空。明日の戦いは雲一つ無い青空の下で行われそうだ。「僕は魔王がとても悪い奴だと聞いていた」勇者は昔の話を始めた。「僕は冒険の末に魔王と相対した。そこで、魔王の本当の姿を見た」「どうだった?」「素晴らしい人間だったよ。彼は伐採され続ける森を守り続けていた」「大した偽善者だ」「そういうもんでもないよ。森が切り開かれる事によって彼が住んでいた村に悪影響があったんだ。住処を奪われた動物達に作物を荒らされ、伝染病も流行ったらしい」「随分、庶民的な魔王だな」「そう、彼は村を守るために全力を尽くす小市民だった」「お前はそいつをどうしたんだ?」「殺したよ」 俯いた姿で出されたその声は、淡々としていたがどこか暗いものだった。 俺は単純な感想を述べる。「お前は、酷い奴だな」「そう、僕は酷い」 遠くで犬の遠吠えが聞こえた。それは勇者を蔑んでいるように聞こえた。あるいは勇者の心が犬に乗り移って出てきたようでもあった。勇者は話を続ける。「彼は話してみれば非の打ち所のない人格者だった」「お前はなぜ、殺したんだ?」「彼は世界中から魔王と呼ばれていた」「それは俺も覚えている」「だから、彼は、魔王なんだ」 ここで俺は話の先を読んでこう言った。「お前は自分を信じられなかったんだな」 勇者は俺の言葉には何の反応も見せず話した。「世界中から魔王だと罵られていたその人は、僕から見れば素晴らしい人だった。世界と僕のどちらが正しいかを考えた僕は、世界が正しいと判断した」「そこで自分が正しいと判断するには勇気がいる」「僕には、勇気がなかった」だから、魔王を殺した。「お前は後悔しているのか?」「ああ、しているよ。彼は魔王なんかじゃなかった。どちらかといえば聖人に近い人だったんだ」 皮肉な事に勇気を出せずにとった行動が、勇者と呼ばれる原因となったのだ。こいつにとって勇者という称号は最上級の嫌味でしかないだろう。 俺は今まで相槌を打っただけだったが、この話にはよく分からない点がある。だから俺はそれを聞いてみる事にした。「そいつは、ただの小市民は、何で魔王と呼ばれていたんだ?」「貴族というのは自分の利益を最優先に考える」「そうだろうな」「自分より身分の低いやつは人間とも思ってないのさ」「まあ、大体はそうだろうな」 俺は過去に高潔な貴族を一度だけ見たことがあったから敢えて全部とは言わなかった。 勇者は続ける。「この国の主要産業は林業だ。木を伐採して外国に売っている」「そうだ」「この国の貴族は木を切り過ぎて、新しい森に手を出さざるを得なくなった。だが、木を切ろうにも森の近くの村のある男が邪魔をしてきた。そのために貴族は焦ったんだ。木の伐採本数が減れば、大きな赤字を出してしまう。利益が無くなってしまう。 貴族はその邪魔な男を消そうと画策した。男が絶対的な悪であれば殺してしまっても構わない。そこで、世界中にこの森には悪党がいるという噂を流したんだ」「魔王じゃなかったのか?」「いや、彼は最初、悪党だった。だが、噂というのは拡がるに連れ、いろんな脚色をされて世に流れていく。それが世界の端まで流れていったんだ。だから、負のイメージが急速に膨らんでいって、最終的に魔王になってもおかしくは無いだろう?」「なるほど」「まあそれは、貴族にも予想できなかったらしい。噂の効き目が強すぎ、悪党が魔王になってしまったせいで、国のイメージが急速に下がってしまったんだ。そこで貴族はもう一つ策を練った」「勇者か」「そう。貴族は魔王を討伐する勇者を作って、魔王出現に伴って下がった国のイメージを回復させようと目論んだんだ。結果は君も知っての通り。魔王は勇者によって倒された。平和を取り戻したこの国は、再び林業を主軸にして栄える事になったんだ」「結果的に貴族の思惑通りに進んだんだな」「ああ」 俺はあらかじめ用意しておいた薪を一本取り出して、炎の中に投げ入れた。これで、少し弱くなった火も、再び元の勢いを取り戻すだろう。「勇者」 俺は呼びかけた。「なんだい?」 勇者はそれに答えた。「どうでもいい話だったが、謎が解けてすっきりした」「君にはこの話がどうでもよかったのか?」「盗賊が興味を持つのは宝の価値と身の危険だけだ」「そうか」 俺は確認するように言葉を紡ぐ。「お前は、魔王を殺した事を後悔している」 勇者は黙って火を見つめていた。「魔王を殺すために利用された事で、お前は、貴族を恨んでいる」 もう一度犬の遠吠えが聞こえた。「明日は、戦いだ」 そして、俺はこの旅で唯一の、不可解な点を知った。「だから明日、俺達はこの国の国王が住む城に攻め入る」 勇者は穏やかに頷いた。「盗賊、君は別に来なくてもいい。国王を襲ったという不名誉な肩書きがつく事になるよ」「盗賊には最初から名誉なんて無い」 それを聞いて勇者は少し笑った。「勇者、お前は強いのか?」 聞けば魔王も一般人のようだった。こいつは世間ではドラゴンをも倒すほどの強さを持っていると言われているが、実際、普通の人間と大差ないように見える。 勇者は静かに答えた。「君が気にしている事は大体分かるよ。僕達、四人で城を攻めたところで何万もいる兵士を倒す事なんて出来ないんじゃないかって事だろう?」「まあ、そんなところだ」「僕は魔王を討伐するときにこの国の国宝を授けられたんだ。一振りで小さな村くらいは壊せる剣。これがあれば僕が弱くても城の兵士くらいは苦も無く倒せるよ」「何で一般人である魔王を倒すのに、そんな剣が必要だったんだ?」「その時、魔王が一般人だと知っていたのは貴族だけだった。僕を騙すにはこれぐらい大掛かりな小道具が必要だろう?」大掛かりな小道具とは、勇者はなかなかうまい事を言う。「それに、勇者に力を貸すことは、国にとって大きなプラスになる」 外国に対するイメージはいいだろうし、勇者本人にもよく思われようという魂胆だろう。「じゃあ、勝てるのか?」「楽勝だよ」「それは良かった」「なんだよ、城攻めの動機はどうでも良さそうに聞いてたのに」「さっきも言ったが、盗賊が興味を持つのは宝の価値と身の危険だけだ」「そうだったね。それと、兵が俺達の敵に回るのは王を倒してからだから、うまく逃げれば戦わずに済むかもしれない」「そういえば城に入るのは簡単なんだったな」「僕は勇者だからね。王の間に連れて行けって言えばいいだけだ」「勇者、お前はいいのか?」「何が?」「これは今の勇者という地位を捨ててまでする事ではないだろう」 勇者はそれがどんな話であろうとも終始、穏やかだ。「僕は魔王の正体を知った。村を守ろうとした男は魔王じゃなかった。悪というのは、一部の人間の事だった」 そして、うんざりするような口調で言った。「本当の魔王は」勇者は城を指さした。「あそこにいるんだ」 一度勢いを取り戻した火がまた弱くなってきていた。「お前は、苦労しているんだな」「僕は勇者だ」「そうらしい」「勇者がいて魔王がいれば、魔王は勇者に倒される。それだけだ」「そうだな。そのルールは守らないといけない」「僕は魔王を倒して本当の勇者になる」「その決断には勇気がいる」「自分を信じるというのは難しい事だね」「そうだな」 そこで勇者は少し笑った。「でも、盗賊の君は自分が思うように生きてる」「俺は自分を信じているというより、世界を信じてないだけだ」「それでも、その決断には勇気がいるよ」「買いかぶりすぎだ」 俺にしてみれば世界を信じる事の方がよほど難しい。勇者はそれを今までやっていたんだから大したものだ。俺は心の中で尊敬した。そして、勇者はくだらない事を言った。「君が勇者だったら良かった」「俺は魔王を倒さない」「勇者には魔王より、勇気の方が大切だよ」「盗賊は目立つ事を嫌う。目立たないなら、なってやらなくもない」「じゃあ、無理だね」「そういう事だ」 夜空は相変わらず綺麗なままだった。このままいけば明日は晴天だ。この時間、俺はいつも仕事中だから、ゆっくりと星空を眺めるのは久し振りだった。 俺は普段、空になんて興味はないが、何故か今日ばかりは、綺麗な星も悪くないな、と思った。 話は終わったらしく、勇者はほとんど燃え尽きている火に砂を掛ける。「先に寝てていいよ」勇者は俺にそう言った。「ああ、なら遠慮なく先に寝させてもらう」 そう言うと俺は他の仲間が既に寝ている寝床に向かった。だが、そこで勇者に再び話しかけられた。「言い忘れたけど、明日は朝早いから寝坊しないでくれよ」「それは難しいな」俺は続けた。「盗賊は夜型だから朝に弱いんだ」 それを聞いて勇者は少し笑った。
August 30, 2006
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ようやく終わりました。とは言ってもこれは今年の春に書き終わったやつですから、今の僕は特に苦労していません。毎日連続であれくらいの量の長文を書くことは僕には出来ません。いつも何時間もかけてちょっとしか進まないんです。速く書くコツがあったら誰か教えて下さい。『普通免許とフリーター』いざ読み返してみると、やっぱり書き直したくなってきます。一応、これは初めて完結までいった話です。伏線の回収に苦戦して、思ったより解決編的なところが長くなってしまったのを覚えています。当初、僕はミステリにしたかったんです。でも、それも中途半端に終わってしまったような気がします。ただ、ペットショップ『Homeless』の面々(主に雪穂さんですが)が書けたので、まあこれはこれで良かったのかな、とも思っています。黒猫『シロ』から始まったこの話、とりあえずはこれで終わりです。次は一話完結のものを一本載せるつもりです。個人的には好きな話なんで、是非そちらもよろしくお願いします。書き忘れましたが、この『普通免許とフリーター』の登場人物は、『白夜行』(東野圭吾著)の登場人物から名前を取ってます。名前が思い付かなかったんです。次からは自分で考えたものにします。先生、勝手に使ってごめんなさい。
August 27, 2006
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「へえ、本当に白い」 僕が篠塚さんと話している間にシロの名前の由来を知った雪穂さんは、感心したようにシロのお腹を見つめていた。 僕はその話を聞いた雪穂さんが、どう思ったかが気になっていた。普通の人が聞いたら、この話は作り話にしか聞こえないだろう。きっと『それは面白いジョークだね』と、気の利いた反応を返してくれるだけだろう。 だが、雪穂さんは真剣に聞いていそうだった。この、ある意味安易な名前の付け方を、適当な生き方をしている雪穂さんは共感さえしてくれるかもしれなかった。「帰るの?」 雪穂さんは言った。「はい、もう今日はこれで帰ろうかと思います」「そう。出勤日は一週間後だからね、桐原君」「分かってます、出勤時間の五分前には着きますよ」 路地裏に一時間も前に到着した僕の言葉には説得力があった。「夏美ちゃんもまたね」「また気が向いたら来るね」 後で聞いたのだが、夏美は雪穂さんと話すとき、同年代の友人と話すのと同じ口調で話しているらしい。 僕と夏美は店を出て家路に着いた。そこでふと気付いた。夏美と二人きりにならなかったら気付かなかっただろう。「なあ、夏美は何でここにいたんだ?」「私は雪穂さんにも黒猫を探して欲しいって頼んでて、黒猫を捕まえたから見にきてって呼ばれた。ただ、それだけのことよ」 なるほど、僕は思った。その辺にいる猫をたちどころに捕まえてくる雪穂さんは確かにシロを捕まえてくる可能性が高い。僕の他に、雪穂さんも頼まれていたのだ。しかも、本命は雪穂さんの方だったのだろう。昨日、夏美は僕にはあまり期待していないというようなことを言っていた。「あの二人、兄ちゃんが来たから困ってたんだよ」「困ったって、何で?」「あの二人は私たちが兄妹だっていうことを知らなかったから、シロの飼い主が二人もいるって混乱してたのよ」 なるほど、と僕は思った。黒猫にシロという名前を付ける人間が二人もいたらあの二人も訳が分からなくなってしまうだろう。僕は気付かなかったけど、そんなこともあったらしい。今日は本当にいろんなことが起こる日だ。 帰り道、家が近づくに連れ、シロの落ち着きがなくなってきた。これは帰りたくないということではなく、早く帰りたいということだ。結局、シロは我が家が一番落ち着くと気付いたらしい。それに気付くために、こんなに話をややこしくするシロは、やはり頭が悪い。だが、だからといって責めるわけにもいかない。シロは僕に就職先を斡旋してくれたのだ。 僕は複雑な心境でシロを見た。するとシロは『にゃあ』と鳴いた。それは『就職、出来て良かったね』というよりは『人間って面倒なんだね』と言っているように聞こえた。「そうだね」 シロの言う通りだった。猫の気まぐれで人生を左右されている姿は、動物から見ればさぞ滑稽に見えることだろう。「何がそうなのよ?」 夏美は急に喋りだした僕を見て不思議そうに首を傾げていた。 さて、就職先が決まったことで、僕はこれからバイトを辞めなくてはいけなくなった。フリーターとして過ごす期間はもうすぐ終わりだ。来週からはかなり癖のあるペットショップで働くことになっている。あそこはいろんな意味で大変そうな職場だった。 でも、だけど、だからこそ、それはそれで楽しいのかもしれない、と人間特有の楽観的な考えをしながら、僕は一週間を過ごすことになったのだった。 仕事を始めて数日経った、ある日のことだ。「篠塚さん、これは何ですか?」「名刺だよ、名刺」 僕は受け取った小さな紙に書かれた店名と、自分の名前を見た。それは紛れもなく名刺だろう。「こんなの、使う機会があるんですか?」「ないかもしれないけど、君は社会人だからね」 社会人は名刺を持っているらしい。なら、名刺を持っていなければ社会人ではないのだろうか? そう思ったら、途端に欲しくなくなった。若者が嫌いなものは退屈と責任だ。 もう一度名刺を見る。そして、僕は思った。ペットショップ『Homeless』と書かれた名刺を渡された人は困るんじゃないか、なんてことを。
August 27, 2006
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「よし、決まり」 雪穂さんは言った。「そこの奥に篠塚君がいるから、シロを返してもらいなさい」 僕はその言葉に従って篠塚さんが入っていった店の奥の方へ向かった。 そこには部屋が二つあり、まっすぐ突き当りまで行くと、手術室、手前の右側の部屋が事務室となっているようだった。廊下には段ボール箱がたくさん積んであり、見たことのない記号や、僕の読めない外国語が書かれていた。こんなものどうするんだろうか、と気になったが、すぐに思い当たった。篠塚さんは獣医もやっているらしい。だから、その医療関係のものが置いてあるんだろう。僕は薬品なんだか道具なんだか分からないダンボールの山を抜けて、事務室に入ることにした。「そうですか。では、お返しします」 そう言った篠塚さんはキーボードで何か言葉を打った後、モニターの上でぐっすり眠っている我が家の黒猫、シロを僕に渡した。「桐原君、勘違いしないでくださいね」「何をですか?」 僕はそれが何を指している言葉なのか分からなかった。それに、勘違いをするかどうかは、僕がどうにかできる問題ではないだろう、と思った。「店長は一見、適当にやっているように見えますけど」 店長というのは確か雪穂さんのことだったなと思い出しながら話を聞いた。「店長は相当、頑張って働いているんです。私は店の資金繰りと動物の健康管理をやっているに過ぎませんが、店長は外回りはもちろんのこと、動物の食事と世話、そしてこの店の掃除を一人でやってきました。あんなに適当にやっているように見えても、意外に真面目な人なんですよ」 それは確かに意外だった。外装も内装も清潔感のあるこの店の掃除は、細かいところまで気配りが利く人がやっているものだと思い、僕は勝手に篠塚さんの担当だと思っていた。だが、あの何でも適当にやりそうな雪穂さんの仕事らしい。「店長はどうも他の人から見るといい加減な性格だと思われてしまうんです。まあ、あながち間違ってはいないんですが」「そうなんですか?」 掃除の件を持ち出されるまでは僕も何の疑いもなく頷いていただろう。だが、僕は雪穂さんが意外に几帳面なのかもしれないと思い始めていた。「店長は適当なところも多々ありますよ。店長がこの店を始めようと思った理由だって、まるで博愛主義者みたいに聞こえますけど、ただ店長が気に食わなかっただけですからね。あの人は動物を守るということよりも、自分が満足できるように行動するということのほうが大事なんです」「それは雪穂さんらしいですね」 自分を周りに合わせるのではなく、周りを自分に合わせる。まるで子供みたいな生き方だな、と一方で呆れながら、僕はそんな生き方が少し羨ましかった。 篠塚さんは言った。「店長が動物好きで良かったですね」「どうしてですか?」「もしゴジラ好きだったら、店長は今頃、放射能を世界中にばら撒いているところですよ」「この話を素直に笑い飛ばせないところが、雪穂さんのすごいところですね」 事務室にはため息に似た笑い声が響いた。 僕と篠塚さんは事務室を出て、雪穂さんと夏美がいるところに戻った。このとき僕は忘れずにシロを抱えていた。シロは寝起きのせいかボーっとしていて、僕が抱えても、ぐったりしたまま、されるがままだった。こんなところがシロの頭が悪いとされる所以なのだが、本人が幸せそうなのでそのままでもいい、というのが我が家の総意だ。 戻ってみると、僕と篠塚さんが奥で話している間に、雪穂さんと夏美も何かを話していたようだった。「夏美、何の話をしてたんだ?」「シロの話よ。シロに名前を付けたときの話」 ああ、と僕は思った。黒猫の名前がシロだということが雪穂さんも気になっていたのだろう。 雪穂さんはシロをじっと見た後、僕に言った。「ねえ、ちょっと見せてよ」 シロが我が家にやってきたのは二年ほど前のことだ。ちなみに、僕はその頃まだ高校に通っていて、その後フリーターになるなんて思っていなかった。もし昔の僕が今の僕を見たらこう言うだろう。『何やってんだ。しっかり働け』ただ、今の僕も言い返す。『お前のせいだろう。先のことぐらい考えとけ』 その日は帰りが少し遅くなった日だった。家には両親と当時、高校一年生だった夏美が、つまり、家族全員が揃っていた。家に入った後、僕は居間に向かった。そこで 僕は驚いた。居間に黒い猫がいたからだ。「夏美、何でここに猫がいるんだ?」 驚きながらも僕は聞いた。「買ってきたのよ。これから毎日この家にいるから仲良くしといてね」「何で買ってきたんだ?」「何でって、ものを買う理由なんて一つしかないじゃない。私が欲しかったからよ」「何で急に?」「急に欲しくなったから」「ペット?」「そう」 もう僕は何も言わなかった。普通はもっと手順を踏むのものだとは思うのだが、それがなかっただけだ。反対する理由もないし、動物は嫌いでもないのですぐに受け入れることが出来た。 夏美は猫で遊んでいた。猫と遊ぶというよりは、猫で遊んでいるという表現が正しかった。実際、猫は迷惑そうな顔をしていた。だが『嫌だ』と言うこともなく、夏美を引っかくこともしなかった。ただ流れに身を任せてすべてが終わるのを待っているようだった。僕はこのとき、こいつは動物としてどう生きてきたのだろうかと疑問に思った。「兄ちゃん、これ見てよ」 僕は夏美に呼ばれて、大の字になって横たわる猫を見た。こいつはストレスで死ぬかもしれないと思った。「全身真っ黒なのに、お腹のここは白い」 確かに腹部のちょうど真ん中辺りに、ゴルフボールより大きく野球ボールよりは小さい大きさの、白い毛が生えている部分があった。「こんな毛の生え方があるんだな」 僕は月並みな感想を言った。すると、夏美は心底感心したように僕とはまったく違った感想を述べた。「すごいよね。腹だけは黒い人間とは大違いだよ」 とても高校一年生の言葉には思えなかった。「夏美、腹黒くない人間だっているよ」 僕は月並みな忠告をした。「兄ちゃん、この猫の名前どうしようか?」「シロとか?」 僕は冗談のつもりで言った。ただこのときこの黒猫は、僕と夏美の間でだけ、白い印象が強くなっていた。そのせいだろう。「じゃあ、シロね」 おいおい、冗談だろう?
August 26, 2006
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僕は聞いた。「何でこの店の名前はHomelessなんですか?」「『a homeless dog』『a homeless cat』」 雪穂さんは妙に発音が良かった。「それぞれ『野良犬』『野良猫』っていう意味。この店はノラ専門店だからそのまま店名にしたのよ」 聞いてみればそのままの意味だった。はじめに店名を見たときは『考えたって分からない』と思ったのだが、今となっては何故分からなかったのか分からないくらい明快な名前に思えた。 僕は聞いた。「雪穂さんが作ったお店なら、何で篠塚さんが店長なんですか?」「事務仕事は店長の判子が必要なの。あたしはほとんど書類とか見ないから、その内容の判断は全部、篠塚君がするわけでしょう」 篠塚さんは苦笑していた。「だから、篠塚君が店長になったほうがスムーズに仕事が出来るというわけ」 改めて思った。篠塚さんは優秀だ。 僕は急に思い出した。『ノラ』というフレーズがさっきから何か引っかかっていたのだが、このときになってようやくその理由を突き止めることが出来たのだ。「雪穂さん。僕、昨日テレビを見たんです」「今の時代、テレビを見たくらいじゃ誰も驚かないわ」 その通りだが、僕が言いたいことはもちろん、そんな報告ではない。「最近『ノラ』が減ってるっていうニュースがあったんですけど、あれは雪穂さんの仕事のせいなんですか?」 僕が、フリーター嫌いの政治評論家を見直すきっかけになったニュースだ。「それはあたしのお陰ね。他に減る理由がないじゃない。だから、そのニュースは、あたしの仕事の成果」 確かに、原因はまだ分からないというようなことを言っていた。専門家もまさか一人の女性が捕まえて回っているなどとは思わないだろう。 今までの雪穂さんの話はどこか真実味がない、霞がかかったような話を聞いているような感覚だったが、すでにニュースとして放送されているということで、僕は実際に起こっていることだと認識することが出来た。篠塚さんは言った。「桐原君、疑問は全て解決しましたか?」「いえ」 言いながら思った。疑問の疑問は疑問なのだろうか?「僕は何で疑問を解決しているんでしょうか?」 これはカルト教団の思想ではないし、哲学的な命題でもない。僕はただ、シロを返してもらいに来ただけなのに、何故この店の歴史なんかを聞いているのか、というとても具体的な問題だった。「何故かと言われると、私たちが君に聞いて置いてもらいたかったから、としか言えません」 そう言うと篠塚さんは席を立ってまた店の奥へと行ってしまった。「話があるの」雪穂さんは心なしか真剣な顔つきになっているような気がした。「桐原君、ここで働かない?」「はい?」「君は今、無職だよね」 無職ではなくフリーターなんです、と言いたかったが、何故雪穂さんがそのことを知っているかということの方が気になった。「夏美ちゃんがここによく来るから『お兄さん』の話を聞くこともあるのよ」 一体、僕のどんな話をされたのだろう?「どう、桐原君? 君の仕事は今のところ車の運転って事にしようかと思ってるんだけど」「車の運転ですか? それなら雪穂さんがしてるじゃないですか」 雪穂さんの運転がうまいかどうかは別の話だ。ただ、してるかしてないかを言えば雪穂さんは車の運転をしていた、ということだ。「篠塚君、ドライバーが欲しいってうるさいの。まあ、確かにあたしは下手なんだけどね。桐原君は無職で免許を持ってるんだから、まさに私たちが探していた人材なのよ」僕が気付かないうちに面接が始まっていた。「普通免許とフリーター、まさに鴨がネギを背負って来た感じですね」 僕は冴えないことを言ってお茶を濁した。正直なところ、僕は勢いで入りそうになっていた。フリーターという現代社会では居心地の悪い地位、人とは違うことをしたいという若者特有の欲求。目前に迫った短絡的な解放を求めて、僕は一歩足を踏み出してしまうところだった。僕は現実を見る必要がある。労働の量、金銭、考えることはたくさんある。一歩踏み出した土地が、地雷原になっていないとも限らない。これは当然、慎重に考えるべき問題だった。僕が真剣に考えていると雪穂さんは何でもないように言った。「そんなに考えなくていいじゃない。始めてから少しの間は研修期間にして、いつでも辞められるようにしておいてあげるから」「いいんですか? そんなバイト感覚で入っても」「いいわよ。但し、お金とかそういう細かい話は篠塚君と話して決めてね。私はその辺、ノータッチだから」 この人は本当に動物を集めてくることしかしないのだろうかと、僕は少し不安になった。「じゃあ、とりあえず入ります。いつから来ればいいですか?」 とりあえずで就職を決める辺り、僕には男らしさが足りない。「次に来るのは一週間後でいいわ。その代わり、一週間でバイトを辞めてくること」「分かりました」僕はあの店長ならあっさり話が通ると思って、すぐに了解した。
August 25, 2006
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「どこから話せばいいか分からないから、はじめから話すわ」「はい」 この切り出し方から、僕は話が込み入ったものになることを覚悟した。一回深呼吸をして心を落ち着けさせる。「あたしはね、動物が好きなの」「ちょっと、雪穂さん」「何よ?」 話し始めてすぐに話を切られたせいで雪穂さんはまた不機嫌になった。だが、僕も覚悟をしていたために我慢できなかった。「僕は別に自己紹介をしろって言ったんじゃないですよ」「わかってるわ。最後までに大抵の疑問を取り除いてあげるから、ちゃんと聞いてて」 僕は聞きながら、雪穂さんが僕の頭からクエスチョンマークを引っこ抜いている姿を思い浮かべていた。「動物好きのあたしは動物と接するうちに扱いがうまくなったの」「ああ、あのとき急にシロが懐いたのはそのせいだったんですか」 シロは僕の呼びかけを無視したくせに、雪穂さんの呼びかけには応じた。あれはシロが僕を嫌いなのではなく、雪穂さんが猫の扱いに慣れていただけだったということだ、多分。「保健所、野犬」「何ですか?」 雪穂さんは何の脈絡もなく言った。「この二つの言葉で、文を一つ作ってみて」 いきなり出された二つの言葉に僕は戸惑ったが、言われるままに考えてみた。『野犬は、保健所に連れて行かれる』 普通に考えたら、こういうのだろう。『野犬は、保健所に捕らわれる』 さっきとあまり変わらない。『野犬は、保健所に向かう』 これは今までのものとは違って、何か深い意味がありそうな文だった。巨大な権力に立ち向かう社会的弱者の隠喩のようでもあり、13階段を上る囚人の揶揄のようでもある。 結局、僕は何を答えればいいのか分からなかったので、分かりませんと答えた。「保健所はね、野犬を殺すのよ」 雪穂さんは淡々と物騒なことを言った。「こ、殺すって」 日常的に見られる言葉、軽はずみに用いられる言葉でも、生命に関する言葉は重い意味を持っている。それの本来の働きを引き出すためには、雪穂さんのように、ただただ、無感情に発すればいいらしい。「知ってた、桐原君? あそこは野犬を一旦は預かるけど、人に渡らなければ最終的には殺すのよ」 雪穂さんは不愉快だと言わんばかりに顔をしかめた。僕は殺すという言葉が再び出てきたことに顔をしかめた。「人間の都合で勝手に殺しているの。動物好きのあたしとしてはあまり気分のいい話ではないわ」 分からないでもなかった。人間は身勝手だ。 だが、 僕は人間だった。 だから僕は、身勝手だった。「人間の都合です。公衆衛生上、仕方ないじゃないですか」 言いながら、コウシュウエイセイなんて言葉は滅多に使わないな、と思った。使わないということはそんなことは考えるまでもなく、当たり前のように与えられていたということでもあった。「そう、仕方ないのよ」 雪穂さんは言った。「あたしたちには必要なこと。だから保健所が悪いって言ってるんじゃない。ただ、動物が殺されてるのが気に食わないだけ」「はあ」 僕は割とどっちでもいいと思っていた。いつの時代も、若者が見ているのは自分の周囲だけだ。もし、僕に犬が殺されていると言っても、僕は『かわいそうだね』と半笑いを浮かべるくらいの反応しか示さないだろう。だから僕は、適当に相槌を打つことしかできなかった。「野犬や野良猫、そういった動物たちが殺されないためには、保健所に捕まる前にあたしが捕まえればいい」「随分、思い切ったことをしますね」「そういう性格なの、あたしは」 思い当たる事柄はいくつもあった。「動物を集め始めて気づいたわ。あたしには資金も場所もないってこと」 人間の行動は計画を立てて実行するのが理想だ。だから、その状況は決して理想的とは言えなかった。「資金と場所を確保するにはどうすれば良かったかわかる?」 何となく察しがついた。ここはペットショップ。資金と場所の問題は一気に両方とも解決する。「そう、めでたくペットショップHomelessの開店よ」「捕まえたのを売っちゃったら何の解決にもならないと思いますけど、良いんですか?」「確かにまた捨てられちゃったら意味がないけど、あたしにも限界があるの」 限られた個人の能力で野犬に出来ることなんて、この程度なのだろう。雪穂さんには悪いが、人間は本当に無力だと思った。「捨てられたら、また拾ってくるわけですしね」「そういうこと。だから、今のあたしの仕事は、篠塚君が店の中の事をやってる間、そこらじゅうのノラを集めて片っ端からここに連れてくることなの」 僕は雪穂さんのことをかなり理解した。そういう背景があったからこそ、シロは雪穂さんに連れて行かれたのだ。「ちなみに」 雪穂さんが言った。「あたしと桐原君とシロが出会ったあの路地裏、あたしの巡回コース」
August 24, 2006
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「次の日、まあ今日なんだけど、あたしの予想に反して桐原君が現れた」「はい、僕は1時間も前から待ってたんです」「あたしはまだペットを返せと言う桐原君を見て、本当に飼い主なんじゃないかと思ったわ」「本当に飼い主なんです」「ただ、完全に信用するわけにもいかなかった。だから、ちょっと試してみたの」 この辺は今日の出来事だった。だから、試したというのが何のことかすぐに思い当たった。「ああ、あれはそういう意味だったんですか」 勝手に納得する僕たちを見て、今まで話を黙って聞いていた夏美が口を挟んだ。「何をしたの?」「そのペットの名前を聞いたの。いかにもとっさに付けたような名前だったから、もう覚えてないんじゃないかと思って」 雪穂さんは名付け親がいるにもかかわらず酷いことを言った。「兄ちゃんは答えたんだね?」「そう、だから全部あたしの勘違いだったんだと思い直して返すことにしたの。でも、シロはこの店に置いてきちゃったから桐原君を連れてきたわけ」 この話を聞いておいて良かった。聞かなければ僕は、変な人がいると110番に電話を入れてもおかしくなかったはずだ。「店長、ちょっと」 声のした方を向いてみると、篠塚さんが雪穂さんを手招きしていた。「何? 何か問題でもあったの?」 言いながら雪穂さんは篠塚さんとともに奥へ行った。残された僕たちはお互い何も話さず、物思いにふける。とりわけ僕は、雪穂さんの話で意味の分からなかったところを考えていた。話を聞いていて二、三引っかかるところがあったし、今のやり取りだって変だった。『店長』とは一体どういうことだろうか? さっきの話によれば、この店の店長は確か篠塚さんだ。しかし、その篠塚さんが雪穂さんに対して『店長』と呼んだ。 ここに着てからのやり取りからは雪穂さんの方が偉いように見えた。しかし、この店の店長は篠塚さんなのだ。 僕に考えられるのは二人とも店長だという可能性ぐらいだった。店長が二人というのは良いことなのか悪いことなのか。ただのフリーターには一党独裁政冶と二大政党政治のどちらが優れているかなんて分かるはずもなかった。「そういうのにあたしの許可はいらないわ」 篠塚さんと一緒に雪穂さんが戻ってきた。二人はやることが終わったのか僕たちの前の席に腰を下ろした。雪穂さんは、言うべきことは言ったというように静かにティーカップを眺めている。その様子を見た後、篠塚さんがおもむろに口を開いた。「どうですか、桐原君。知りたいことは大体分かりましたか?」「気になることはありますが、大体は」『分かりました』と頷きながら僕は雪穂さんを見た。「桐原君」 篠塚さんは言った。「分からないことがあったら聞いて下さい」 まるで学校の先生のような口振りだった。そして、こう続けた。「私たちとしても話しておきたいのです」 僕は思った。何で話しておきたいのだろうか? そういう言葉こそが僕の疑問を増やしていくというのに篠塚さんは至って涼しい顔をして言った。 僕は迷ったあげく、質問することにした。それは僕が、疑問を放っておくと気になって眠れなくなるという俗説を信じていたからだった。「質問があります」 まるで教師に質問する優等生のようだった。ここが教室の中だったら、きっと挙手していただろう。 僕の質問はつまるところこれに尽きる。「雪穂さんって何なんですか?」 あまりに抽象的な質問だったが、僕の聞きたいことを聞くには他に言いようがない。すると、黙っていた雪穂さんが言った。「何って、何よ?」 僕と出会ったときと同じくらい不機嫌だった。それを見て篠塚さんは雪穂さんをなだめた。「まあまあ、最初から答えるつもりだったんですから教えてあげて下さい」 篠塚さんは雪穂さんの扱い方がうまかった。篠塚さんは不機嫌だった雪穂さんを、渋々ながらも回答させる方向に持っていった。「そうね。仕方ないわ。教えてあげようじゃない」
August 23, 2006
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「桐原君は知らないだろうからさっきの篠塚君について少し説明するわ」 ということは夏美とは知り合いなのだろうか。「彼はこのお店の獣医兼、店長。店の中のことはほとんど彼が一人でやってるわ。お金の管理から動物の管理までね」 篠塚さんは眼鏡を掛けた優しそうな顔立ちの人だった。雪穂さんによると彼は一人でこのお店を支えているらしい。「それで、篠塚さんがどうしたんですか?」「いや、篠塚君とあんたは今後も何かと縁があるだろうから紹介しただけ」「よく分からないですけど、僕はシロを返してくれれば、もういいですよ」「それは今、篠塚君が用意してくれてるから待って」 雪穂さんは少し目を閉じて考え込んだ。「桐原君、あんたにはあたしってどういう風に行動してるように見えたの?」 雪穂さんは突然、口を開いた。「ああ、それは答えましょう。僕は雪穂さんのせいでシロまで随分遠回りしてるんです」 僕はシロを見つけたところから思い出しながら話した。「ええと、つまり、あんたから見ればあたしは猫泥棒なんだ」「はい。あまりの態度の大きさに『人間は開き直れば何でも出来る』ということを学んだ気さえしました」「それはあまりいい教訓じゃないわね」「そうですね」 雪穂さんには僕の嫌味が通用しなかった。「それで、何でシロを盗んだんですか?」「盗むつもりはなかったの」「万引き犯は必ずそう言うんです」「あんただって悪いわ」「逆ギレですか」 僕は自分が正しいことを疑わなかった。この状況を見れば僕は百パーセント被害者だ。こうなると、もはやお気に入りのバンドのCDが発売されないのも、スロットで勝てないのも、地球温暖化が進んでいるのも雪穂さんのせいに思えた。「あんた、覚えてる?」 雪穂さんが言った。「何をですか?」「『あなたが、ファッション誌のモデルのように見えたので』って言ったこと」「え?」「夏美ちゃん、今のはあたしに君の兄が言ったことなの」「え、本当? 兄ちゃんが、雪穂さんに?」「そう、あたしを口説くなんていい度胸だわ」「そんな言葉で女が口説けると思ってるなんて、がっかりした」 夏美は僕に軽蔑の眼差しを送っていた。このままこの話を続けても僕は面白くない。何より、僕には口説くつもりなんてなかったのだから尚更だ。僕は苦し紛れに話を逸らすことにした。「僕がそれを言ったことと、雪穂さんがシロを盗んだことは関係ないじゃないですか」「関係あるわ」 雪穂さんはそう言ったが、さすがにそれは無理があると思った。僕だけでなく夏美でさえも信じていない顔だった。 そうね、と雪穂さんは話の入り口を探した後に言った。「まずあたしがあんたを初めてみたとき、あんたは黒猫を捕まえようとしていたわ」 高いところにいる黒猫に『降りて来い』と言っている人間は、少なくとも猫に用がある。そして猫に用がある人間の大部分は猫を捕まえなければいけない。だから、雪穂さんのように考えるのは自然なことだった。当然僕も例に漏れず、ペットを連れ戻すという用事があったし、その方法として捕まえるという方法を採用した。僕だって本当はもっと穏やかに連れ戻したかった。だが、僕は猫との話し合いが苦手だった。「それで、あたしはあんたが黒猫を捕まえようとする理由を想像してみた。すると、あんたが黒猫の飼い主だったら、すべての辻褄が合うことに気づいた。逃げたペットを捕まえに来た飼い主。そのときのあたしは、きっとそうに違いないって思ったわ。」 そのときの雪穂さんは大正解だ。そのままにしておいてくれれば良かったのに。「そして、あたしは猫を捕まえるのが他の人より得意だから、手伝ってあげようと思った。だけどその瞬間に、あの台詞を言われたのよ」「『あなたが、ファッション誌のモデルのように見えたので』」 夏美は得意げに言った。「そう」 と雪穂さん。「いちいち蒸し返すな」 と僕。「ここでさっきの話になるわ。あんたが言ったこととあたしがシロを盗んだことの関係」 雪穂さんの説明は徐々に核心に近づいているようだ。「ペットを探している途中の人間が、女性を口説いたりすると思う?」「僕にそのつもりはなかったんですけど」「仮にそうだとしてもあたしは口説かれているように感じたわ」「すいません」「普通は女性よりペットが先」「でも、自分の家のペットより見知らぬ女性が好きな男なんて探せばいくらでもいると思いますよ」 むしろ世の中が腐っていることを証明するためには、そういう人間が存在していなければいけないような気がした。「そんなやつがわざわざ路地裏までペットを探しに来るわけがないわ」 確かにそうだった。「僕は雪穂さんから見ればおかしい人ですね」「もう一つおかしかったのは、あんたがシロの悪口を言ったこと」「言いましたっけ?」「『シロは頭が悪いんです』って」 そう言われると言ったような気もする。「それがどうしたんですか?」「あたしから見ればあんたはあたしを口説いてシロの悪口を言っていたのよ。黒猫に何の興味もないってことじゃない」 雪穂さんにはそう見えていたらしい。「おまけに、黒猫なのに名前が『シロ』だし」「それはそれで正しいんです」 雪穂さんは紅茶を手にとって少し間をおいた。「あたしはまた考えたの。猫に興味のない人間が、あの路地裏で猫を前に何をやってるんだろうって」 僕たちも考えた。夏美より先に僕が言った。「ペットを捨てているんじゃないか?」「半分正解」 半分だった。続いて、夏美が言う。「野良猫を捕まえているようにも見えるよ」「なあ、夏美」 僕は言った。「野良猫なんか捕まえてどうするんだ?」「昨日言ったじゃない。『最近の若者は頭がおかしいのばっかりなんだから、暇つぶしにシロを殺すかもしれないでしょ?』って」「確かに僕は頭がおかしい若者に見えなくもないね」 損な役回りばかりだった。「そう、だからそのどちらかだと思ったの。あたしはちょうどそのとき仕事中だったから黒猫を連れて帰ろうと思った」 少し分かりにくい部分があったが雪穂さんは話を進めた。「そうしたら、桐原君はその猫は自分の物だって言ったの。あたしはすぐに、こいつはペットを捨てに来た人じゃなくて、野良猫を捕まえに来た方だ、と思ったわ。だから、あたしは迷った挙句に『じゃあ、明日もここに来るからそのとき話しましょう』と言った」「明日も来るってどういうことなんですか? 翌日にまた来られたら渡さざるを得ないじゃないですか」「もし暇つぶしで猫を苛めているようなやつなら、再び来るなんて面倒なことはしないわ。猫が苛められるっていう最悪の事態を避けるためにはうってつけの方便だったのよ」「なんか複雑な話ですね」 もちろん話の中身もそうだったが、僕が余計なことを言ったせいでいろいろ考えさせてしまったと思うと、心境が複雑だった。
August 22, 2006
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僕たちを乗せた車が辿り着いた先は、ある店の前だった。「雪穂さん、ここはどこですか?」 僕の知らない土地に着いたために出た質問であり、ちゃんと目的地に着いたのかという確認でもあった。「見ての通り、ペットショップ」 雪穂さんは躊躇いもなく中に入ろうとする。「ちょっと待ってください」 雪穂さんは入り口の前で振り向いた。「もしかして、ここでシロの代わりを買うなんて言うつもりじゃないですよね」 僕にシロを返せないような理由があって、代わりに黒い猫を買って誤魔化そうというつもりなのかもしれないと思った。「そんなの、もうシロじゃないんですよ」 まるで猫と家族同然の付き合いをしている人間の言葉に聞こえた。だが、僕の言いたいことはもっと現実的なことだった。「ちゃんと返すから、黙って付いてきなさい」 そう言うと雪穂さんはペットショップの中に入っていった。「はい」 ペットショップを見上げながらため息をつく。 外観を見ると、このペットショップは一部を除けばまともだった。 まめな店員がいるのかしっかり掃除は行き届いており、プランターの中では植物が花を咲かせている。きっと衛生面は問題ないだろう。少なくとも、近隣から苦情が出るようなことはなさそうだった。 ただ、問題は看板だ。出入り口のドアの上、二段にわたって店名を大きく掲げているのだが、その店名に込められた意味は、よく分からない。『ペットショップ、Homeless』 ペットショップという文字がなかったら、ここがどういう建物なのか、誰も分からないだろう。 Homeless、ホームレス。 考えたって分からない。僕は雪穂さんの後を追うことにした。 信じられないことが起こった。 信じられないことなんて昨日、今日と僕の周りで何回か起こっているから、もう慣れたと思っていた。それは勘違いだ。信じられないことは信じられないから信じられないことなのだ。「あれ? 兄ちゃん」 きょとんとした顔でこちらを見る夏美。それは僕も同じだった。何でこのペットショップに夏美がいるのだろうか? 僕は言った。「こんなところで何やってんだ?」「何って、見れば分かるじゃない」 よく見れば、夏美の足元には、シロがいた。「何でシロがいるんだ?」「それは、探し出してくれたからよ」「探してくれたって、誰が?」 一体誰がシロを探し出したのだろう、と思っては見たものの、シロは雪穂さんに連れ去られていったままなので答えはすぐに分かった。「雪穂さんか」「雪穂さんよ」 僕たちはほとんど同じタイミングでほとんど同じ事を言っていた。「何? 二人して」 自分の名前が聞こえたからやってきたのか、雪穂さんはペットショップの奥の方から一人の若い男性を伴って出てきた。「雪穂さん」 僕は続けた。「どこに行ってたんですか?」 僕が店に入ったときは夏美しかいなかった。だが、ここに僕を連れてきて、僕より先に店内に入ったのは、他ならぬ雪穂さんだった。「ちょっと、奥の方にいたの」 答えは歯切れの悪いものだった。僕には雪穂さんが困惑しているように見えた。「そんなことより、あなたたちに聞きたいことがあるから、そっちに座ってちょうだい」 雪穂さんは客用に用意された椅子を指した。「それと、篠塚君はお茶でも用意して」「はい。すぐに持ってきますね」 雪穂さんとともに現れた男性は篠塚さんという人らしい。篠塚さんはお茶を淹れるために店の奥に戻っていった。 このペットショップは外装からも予想できる通り、内装もきれいだった。よく磨かれたタイルの床と、ほどほどに置かれている観葉植物。それらがお客さんを不快にさせることはまず無いだろう。檻に入れられた動物たちも毛並みが整っていて実に健康そうだ。ペットショップとして良いお店であることは間違いなかった。もちろん、名前を除けばの話だが。 篠塚さん、そして雪穂さんがここの店員であることも間違いないだろう。二人は先ほどから店の奥に入っている。中に入っていいのは当然、店員だけだろう。 目の前に紅茶が並べられた。四つの椅子と真ん中に置かれたテーブルに四人が座る。隣に夏美、対面に雪穂さんと篠塚さんが座るという配置だ。「まず聞きたいことがあるんだけど」 雪穂さんは言った。「二人は知り合いなの?」「二人っていうと、僕と夏美のことですか?」 他にないだろうが、僕は一応聞いた。「そう。あんたたちは一体どういう関係?」 隠すようなことでもないので、僕は答えた。「兄妹ですよ」 僕の答えを聞くと、雪穂さんと篠塚さんはお互いに顔を見合わせた。「兄妹、兄妹よ。そういうことなんだわ。篠塚君、分かった?」「はい、分かりました。僕は手続きを済ませておきますから、話を先に進めててください」 そう言うと篠塚さんはシロを連れて店の奥に行ってしまった。「何があったの? 私たちが兄妹だと何が分かるわけ?」 夏美の疑問は僕の疑問でもあった。僕たち兄妹と雪穂さんたちの間には理解と言う名の壁があった。「二人にもちゃんと説明するから、これから話すあたしの話を良く聞いて」「はあ、分かりました」
August 21, 2006
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今の時間は、昨日雪穂さんと出会った時間の約一時間前。場所は雪穂さんと出会った路地裏。僕はシロを連れ戻すために再びここを訪れた。今ここには誰もいない。シロはもちろん雪穂さんの姿だって見えない。僕はコンクリートで出来たジャングルの中に一人ぽつんと立っていた。 朝早くに起きて悩んだ結果だった。理由は大したことではない。僕は昔から決めたことを覆すのが苦手だった。そして僕は一度シロを探すと決めてしまっていた。ただそれだけのことだった。こうして僕はもう一度雪穂さんに会うと決めたのだが、問題が一つ残っていた。 昼頃、僕は携帯のアドレス帳を開いて目的の名前を探した。するとそれはすぐに見つかったので、早速電話をかけた。「もしもし、バイトの桐原です。おはようございます」 僕がかけたのはバイト先のコンビニだった。「ああ、桐原くんか。おはようございます。どうしたの?」 都合がいいことに電話には店長が出た。「店長。すみませんが、今日は休ませてもらいます」「何で? 風邪でもひいたのかい」 ここで僕は『そうです』と言えばよかった。でも、考え事が終わった後に嘘を考えることが面倒だったので、僕はなんの捻りも加えずに話した。「昨日、綺麗な女の人に出会ったんです」「うん、それで?」「それで、今日待ち合わせをしたんです」「その人と会うからバイトには来れないって?」「ええ、そうなんです」「桐原君、それはデートだな?」「いえ、違いますよ」「いや、きっとデートだ。そういうことなら休んでもいいんだけど」 店長は随分適当な人だった。「それなら、僕はこれからデートに行くでしょうね」 無職の人間が自分のことを無理やりフリーターと呼んでいるぐらい、不自然な会話だったが、僕は店長から休みをもらうことが出来た。 最後に僕は言った。「女の敵はデートをすっぽかす男なんですよ」「なら、男の敵は強引にデートの予定を組む女だよ」 言われてみればまさにその通りだった。 待ち合わせの場所に来た一時間後、つまり先日雪穂さんと出会った時間と同時刻だ。そのときにこの袋小路に入ってくる人間がいた。そして、その人間は間違いなく雪穂さんだった。これでとりあえず僕は雪穂さんとの接触に成功したことになる。「雪穂さん」 僕は話しかけた。「言われた通り、来たんですけど」 雪穂さんは肩をすくめた。「何しに来たの、桐原君?」 この人は人の猫を盗むのが日課なのかもしれない。そうじゃなければ『何しに来たの?』なんて言えるはずがなかった。「うちのペットを返してもらいに来たんですけど」「ああ、昨日の?」「そうです。昨日のです」「あのこ、可愛いのよね。ねえ、なんて名前だっけ?」 僕はだんだん苛立ってきた。一時間も待ってシロが戻って来なかったら、僕は今日何のためにアルバイトを休んだのか分からなくなってしまう。「とぼけてないで、早く返してください」 僕がそう言った後、雪穂さんは、急に鋭い目つきになった。「名前を言って」「は?」「いいから名前。兎にも角にもあんたがあのこの名前を言わなかったら返せないわ」「分かりましたよ。あの猫の名前は、シロ、です」 僕は基本的に物事を穏便に済ませようとする人間だった。それは大国の言いなりになっている国の国民として相応しい態度に思えた。 こうして二度目になるペットの名前紹介を終えたとき、雪穂さんの目つきがやわらかいものに変わった。「え?」 僕は初めて雪穂さんに出会ったときと同じくらい間の抜けた声を出していた。そして、そんな僕など意に介さないように雪穂さんは言った。「ついてきて」 そして、僕の返事を聞く前に路地裏から出て行ってしまった。結局、僕は雪穂さんの言いなりになってついていくことしか出来なかった。 雪穂さんの後についていくと、そこは僕が働いているコンビニだった。店長に休む許可を得たとはいえ、さすがに中に入るのはまずいので僕は雪穂さんを止めた。「雪穂さん、ちょっと待ってください。僕達の目的地はあのコンビニなんですか?」「半分正解。あたしは車をこのコンビニの駐車場に止めたの。だから一旦そこまで行って、その車に乗って目的地まで行くわ」 コンビニを見ると客は少ししかいなかった。きっと僕が休みを取れたのは今日の売り上げが少ないことも関係しているだろう。 駐車場に目を向けると、廃車が一台置いてあるだけだった。 雪穂さんはその車の前で立ち止まる。 僕は言った。「雪穂さん、どうしたんですか、止まったりして?」「あんたこそどうしたの?」 僕が戸惑ってるうちに雪穂さんは廃車の運転席に乗り込んでいた。「早く乗ってくれないと出発できないんだけど」「乗るんですか?」「車は乗り物でしょ?」「そうですか」 僕はへこんだと言うよりも折れ曲がったと言えるような助手席のドアを開けて中に乗り込んだ。「雪穂さん、是非とも安全運転でお願いします」「当然だわ」 雪穂さんはなぜか言い切っていた。「教習所で教わるのは安全運転と教官の性格の悪さだけなんだから」 僕達を乗せた車は言うまでもなく暴走していた。「雪穂さん、一ついいですか?」 飄々としながら運転していた雪穂さんは僕の話も涼しい顔で聞いていた。「何で助手席にブレーキペダルを付けてもらわなかったんですか?」 スピードは他の車と同じくらいだったが、それでもそれぐらいは必要なほどの酷い運転だった。「そんなの、要らないからに決まってるじゃない」「そうですか」 窓の外を見ると、車は交差点で子供にぶつかる間一髪のところを通り過ぎていくところだった。「桐原君、あんた免許持ってる?」「普通免許ですか? 持ってますよ」 代わってくれという意味だろうか?「そう、聞いただけだから気にしないで」 僕達を乗せた車は、目的地に向けて進んでいった。
August 20, 2006
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雪穂さんは猫を見上げながら言った。「おいで」 僕は危うく雪穂さんに駆け寄るところだった。男は美人に『おいで』と言われたら付いて行きたくなるものだ。僕が駆け寄らなかったのは先ほど似たような間違いをしたからだった。雪穂さんが興味を示しているのは僕ではなく、シロの方だ。 シロはその言葉を聞いた途端に雪穂さんの足元へ一目散に向かっていった。パイプからパイプへ、上るときに通ったルートを逆に辿り、雪穂さんの足元で止まる。その後でシロはよほど機嫌がいいのか甘えるように『にゃあ』と鳴いた。 僕が呼んでもあくびをするだけだったのに、はじめて見る雪穂さんにはものすごく懐いていた。『誰がここまで育てやったと思ってるんだ』シロに言ってもどうせ分からないので心の中でそっと呟く。シロがこちらを向いた。その目は『頼んだ覚えは無いんだよね』と言っていた。 雪穂さんは少しシロを撫でた後に、シロを抱きかかえて立ち上がった。「じゃあね、桐原君」「え?」 僕は一瞬、雪穂さんが言っていることが分からず固まってしまった。抱きかかえられたシロは満足そうにこちらを見ている。「ちょ、ちょっと待ってください」 雪穂さんはもうすでに歩き始めていたが声は届く距離だった。「何?」 雪穂さんはまるで何もなかったかのように振り返った。「その猫は僕の家のペットなので返してください」 この言葉は日本語のあらゆる組み合わせの中で最も自分の主張が出来る組み合わせだった。「えっと」 少し考え込んだ雪穂さんは僕ほど日本語が得意ではなかったのだろう。「じゃあ、明日もここに来るからそのとき話しましょう」 こんな返答が帰ってくるくらいなのだから。 雪穂さんは僕が混乱している内にシロを抱いたままどこかへ行ってしまった。僕の方はと言えば『何時ごろくればいいんだろう?』なんて、どうでもいいことを考えていた。 僕は路地裏で明日まで待ち続けるつもりはなかったので家に帰った。そして何事もなかったかのように一日を終えたのだが、途中夏美とシロについて話した。「兄ちゃん、シロは見つかったの?」「今日は収穫なしだったよ」 僕はサッカー選手のように両手を広げて何もなかったと審判にアピールした。プレイ中にこちらを有利にするためにつく嘘だ。本当は心苦しいが、まさか『僕の目の前で連れて行かれた』と言うわけにもいかないだろう。「兄ちゃんだったら、そんなものよね」 少しは落ち込んでもよさそうなものだが、平然と言う夏美。「ほっといてもそのうち帰ってくるよ」 本当は連れて行かれてしまったからそんなことはないのだけれど、僕は然るべき態度を取らなければならなかった。「兄ちゃん、そんな偶然は期待しない方がいいよ」「何で?」「最近の若者は頭がおかしいのばっかりなんだから、暇つぶしにシロを殺すかもしれないでしょ?」「そんな大袈裟な」「世の中は何があるか分からないの」「そうかもしれないけど。それでも、何かが起こるなんて到底思えない」「世界は皮肉で満ちているのよ」「どういうこと?」「悪いことをしている人間は何をやっても成功して、普通に暮らしている人間は全部失敗する」「そんなわけないだろう」「あるの」 根拠は無さそうだったが、夏美がきっぱりと言い切ったので信じることにした。「きっと、僕が就職してないのもそのせいだな」「きっと、努力してない人は報われないんだよ」 今日の主審は辛口だった。 僕は考えなければならなかった。問題は明日、雪穂さんがいる場所に行くかどうか、行くとしたら一体何時に行けばいいか、そんなところだろう。ただ、人間とは面白いもので難しいことは先送りにする傾向がある。僕はベッドで寝ながら考えていたのだが、何も決まらないまま寝てしまった。
August 19, 2006
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「その猫に何の用があるの?」 路地裏で猫を追い詰めていた僕は急に人が現れたことに驚かされた。もしかすると猫に話しかけていたところを見られていたかもしれない、と思って妙に気恥ずかしくなった。 現れた人影は長身の女性だった。整った顔立ちと長く伸ばした黒髪が印象に残る美人だ。モデルとして雑誌の表紙を飾っていてもおかしくないような風貌だった。「あ、あなたは、な、何ですか?」 僕の言葉はあまりに不出来だった。最近のロボットでももう少しましなことが言えるだろう。「何って、何?」 何と言われても焦っていて勝手に口をついて出ただけの言葉なので意味などまるで無かった。僕は女性の質問に答える代わりにとっさに思いついたことを聞いた。「撮影ですか?」 こんな路地裏でモデルと出会うなんてそういうコンセプトの撮影でもない限り有り得ないように思えた。「サツエイ?」 僕の質問は随分的外れだった。「どういう意味なの?」 疑問を重ねてくる女性。しょうがないので僕は正直に答えた。「あなたが、ファッション誌のモデルのように見えたので」 その気は無かったが、まるで口説いているようだった。「モデル、ねえ」 女性は少し考えた後に言った。「覚えておくといいわ。モデルはこんなところで撮影なんかしない」「そうですか?」 僕は続ける。「そういうコンセプトで撮ることがあるかもしれませんよ」「そういうコンセプトで撮るんならそういうセットを使うんじゃない? わざわざこんな暗くてじめじめした所で撮影なんかしたくないもの」「そうですか」「きっとそうだわ」 『それならあなたは何でこんな暗くてじめじめした所に居るんですか?』と聞きたかったが、向こうにしてみればまさに僕もその状況なので聞くことは躊躇われた。ひょっとしたらこの人も僕と同じで猫を追いかけているのかもしれない。 なんとなく空を見上げる。ビルとビルの僅かな隙間から太陽が顔を出しているのが分かった。それでも、ここは薄暗い。少なくともモデルがどんな表情をしようが不気味に見えることは間違いなかった。 女性は猫を見上げながら言った。「名前、何ていうの?」「桐原です」 女性がこちらに顔を向ける。「そう。あたしは、雪穂。でも」 女性は再び猫を見る。「あたしが聞いたのは猫の名前なんだけど」 どうやら僕と雪穂さんは相性が悪いらしい。さっきから会話がちぐはぐだ。「その猫の名前は、シロです」 こんな呼ばれ方をするのは無実の容疑者かうちの猫くらいだった。「あなたは随分ひねくれているのね」 黒猫の名前がシロなのだからひねくれていると言われてしまえばその通りだろう。必死に弁解してもよかったが、わざわざ説明しても別段面白くもなんともないのでその件に関しては何も言わないことにした。「雪穂さん。シロの特徴は」「黒いことでしょ」 話し終わる前に割り込まれる。その言い方は若干棘があった。猫の名前がお気に召さなかったのだとすぐに分かる。「ええ、黒いことです。でも、もう一つあるんですよ」 何? という視線で僕を見る雪穂さん。大して興味はなさそうだったが、僕は元から話を変えようと思って言ったのだから、雪穂さんが興味を持っていなくても構わなかった。「シロは頭が悪いんです」「ふうん。まあ、そうなんでしょうね」「ええ、そうなんです」「路地裏なんかに逃げ込んでいるわけだし」 雪穂さんはそう言うが、僕には路地裏に逃げ込むことの何が悪いのか分からなかった。現に僕はシロを捕まえ損ねているのだから逃げ込む場所としては悪くないように思えた。「路地裏はだめなんですか?」「路地裏はだめね」「だったら、猫は一体どこに逃げればいいんです?」 僕は全国の猫の代表になった気分だった。「そんなの、交番に決まってるじゃない。あそこは世の中で一番安全な場所だわ。女性を痴漢から助けてくれるのも警官だけだし」 僕は雪穂さんに『警察が助けるのは人間だけですよ』と教えてあげても良かったが、話がややこしくなりそうなので適当に合わせることにした。「痴漢は女性の敵ですもんね」「それははずれ。女の敵はデートをすっぽかす男」 やはり僕と雪穂さんは相性が悪いようだった。
August 18, 2006
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朝の事だ。 僕は今日、昼までは寝ていようと決めていたのだが、予定よりも早く起きてしまった。昼まではまだ時間があった。カーテンの隙間からは日の光が漏れてハウスダストを光らせている。素晴らしき日曜の朝。気分としては今すぐにベッドから飛び出してもいいくらいだったが、そうはしない。理由は特にないけど僕は昔から決めたことを覆すのが苦手だった。昼までは寝ていようと決めてしまったからには寝ているしかない。そのため僕は、何の意味もなく昼までベッドの中で休日を楽しむことになった。「兄ちゃん、頼みがあるんだけど」 休日は妹の一声であっけなく終わってしまった。「夏美、兄に出来ることはあまりに少ない」 最後の悪足掻きだった。「いいよ。兄ちゃんには大して期待してないから」 それなら頼まなければいいのではないかと思いながらも、今日の予定が何もないことを思い出して僕は話を聞いてやることにした。「何をすればいいんだ? 話によっては手伝うよ」 夏美は僕の聞き分けの良さを訝しんでいた。「本当に?」「フリーターっていうのは時間と体力が余っているんだ」 今の言葉は自ら自分の欠点を晒しているようで空しくなった。「じゃあ兄ちゃん、シロを探してきて」「シロ? どこかそこら辺にいるんじゃないのか?」 シロというのはうちで飼っている猫の名前だ。「そこら辺にいるんならわざわざ頼まないよ」「それはそうだね」「それじゃ、よろしく」 そう言うと夏美は部屋から出て行こうとした。「ちょ、ちょっと待った」 僕は慌てて夏美を引き止める。「何?」 夏美は僕が慌てている理由を分かっていなかった。「シロは、家の中にはいないんだよな?」「うん」「ということは外にいるわけだ」「うん」「外は広い」「うん」「どのくらい広いかと言えば」 僕は広さをアピールするために例え話をしようと思ったがうまい例えが思い付かなかった。「少なくとも、兄ちゃんの心よりは広いよね」「そう。そのくらい広い」 全然広く聞こえなかったが間違ってはいない。話を先に進めよう。「手がかりはないのか?」 その程度の要求をする権利ぐらいは僕にもあるように思えた。「あれば良かったのに」 夏美はとても残念そうにそう言った。もちろん遠回しに手がかりはないということだ。「どうやって探せばいいんだ」僕は独り言のように呟いたが、夏美は丁寧に答えてくれた。「フリーターっていうのは時間と体力が余っているらしいよ」 言うまでもなく僕はフリーターだ。余った時間と体力で猫をしらみつぶしに探すことは、少なくとも今日に限り、出来る。残念ながら。「それじゃ、よろしく」 夏美は満足げに僕を見た後、部屋から出て行った。 夏美は今、高校三年生だった。もし来年家事手伝いとかにでもなっていたら僕にも頼みごとが出来てしまうだろう。余った時間と体力を使うような。 僕はトーストを齧りながらテレビを見始めた。朝食とも昼食ともいえないような時間だったが猫を探す前には空腹を満たしておく必要があった。インスタントコーヒーが湯気を立ち上らせている。味は何度飲んでもコーヒーだった。お手軽にコーヒーの味が楽しめるのは良いことだが、『お手軽』と『コーヒーの味』にこだわりすぎて、うまいかまずいかが重視されていないのはメーカーの怠慢のように思えた。でもまあ、その点を除けばインスタントコーヒーは優秀な商品だ。 テレビを見ると丁度ニュース番組を放送していた。まるで始めて紹介するかのように、朝から繰り返し取り上げられている事件を読み上げている。よく見るとうちの近所のことだった。 聞くところによると、最近はノラが減っているらしい。聞いていてノラって何のことだろうと思ったが何のことはない、野良犬とかそういった動物のことだった。専門家にも原因がよく分かっていないようだったが、ノラが減っていることは喜ばしいことだと思った。 番組は次のニュースに移る。 聞くところによると、最近は痴漢が減っているらしい。痴漢が何のことかは僕にだって分かる。何のことはない、主に電車で女性に性的な嫌がらせをする人間のことだ。警察の努力が実ったということだったが、何にせよ痴漢が減っていることは喜ばしいことだと思った。 番組の最後で僕の嫌いな政治評論家が言った。「迷惑な犬が減るよりも、迷惑な人間が減っていることの方が嬉しいものですな」 まったくだ。僕はフリーターのことを悪く言うこの政治評論家のことが嫌いだったが、この一言で考えを改めることにした。 やることも無くなった僕は一旦部屋に戻ってからシロを探しに行くことにした。「夏美、出かけるのか?」 部屋に行く途中で夏美とすれ違った。様子から察するにどうやら外出するようだ。「うん、ちょっとこれから友達と出かけてくる」「そうか」「時間が無いからもう行くね」 そう言うと夏美は玄関に向かっていった。だが、途中で何かを思い出したように振り返った。「そうそう、忘れるところだったよ」 夏美はその一言を、忘れればいいのに忘れなかった。「シロのこと、よろしく」 可哀想だった。もちろん僕もだが、シロが可哀想だった。もはやペットとしての立場が無い。 僕は何も答えなかった。そして、シロと僕が互いに肩を抱いて慰め合う姿を目に浮かべながら部屋へと向かった。共通の敵を作るとお互いの距離を縮めることが出来ると聞いたことがある。僕とシロは夏美という共通の敵を見出して仲良くなることだろう。猫にもその法則が当てはまればの話だが。
August 17, 2006
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路地裏という場所は僕には不利な場所だった。 薄暗い灰色のコンクリートで囲われたその場所は、高いビルの影のお陰でより暗さを増していた。壁を這うように伸びているパイプはさながら血管のようだ。でも、僕はそのパイプを見ながら老朽化した校舎に絡まるつたを思い浮かべていた。 『コンクリートジャングルというのはこの場所のことなんだよ』もし誰かにそんなことを言われたら『ええ、きっとそうなんでしょうね』と信じていたに違いない。 僕はそんな薄暗い路地裏で黒猫を追い詰めていた。 不利だ、僕は思った。 無理だ、僕は思った。 黒猫を袋小路に追い込んでいるのだが僕には捕まえることが出来なかった。当の猫はパイプからパイプへ何の苦もなく移動した後、二階の窓の上についている雨よけの上で顔を洗っていた。 猫は軽々とあそこまで移動できた。僕はきっとあそこまで移動できない。僕は猫ではなく人間だった。ジャングルの中だと人間では猫に勝てない。そう考えれば、あの黒猫を捕まえられないことはある意味当たり前のことのように思えた。 銃を突きつけられて『登れ』と言われたら登るだろう。誰だって死にたくはない。両手を挙げて降参のポーズを取った後で、えっちらおっちら登り始めるに決まっている。 しかし、猫を捕まえるとなると話は別だ。人間と猫では動く速さが違う。猫が一回跳び移るだけのことでも、人間は長い時間を費やす必要があった。 追いつけるわけがなかった。付け加えるなら、僕は銃で脅されてはいなかった。 万策尽きたように見える僕だったが、最後の手段が残されている。「頼むから、降りてきてくれないかな」 呼びかけた。 僕の最後の手段を黒猫はしっかり聞いていた。 だから猫はあくびをひとつして見せた後、再び顔を洗い始めた。この時点で僕にはもう、打つ手がなくなってしまった。
August 16, 2006
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結局、援護がなく三対一まま九回も投げたが、俺は持ちこたえられなくなり二点を失ってしまった。まあ、援護がなかったのは仕方ないのかもしれない。向こうのピッチャーは140キロ台後半のストレートと大きく縦に落ちるカーブを武器にするプロも注目するピッチャーである。打つのはとても難しかったし、俺だってこの試合、ノーヒットだ。 五対一、最終的なスコアは俺達と相手の実力差を表している。 試合後、俺はキャプテンとサードの先輩の二人と話をした。俺は『五点も取られやがって』とか『お前が完封すれば勝てたじゃねーか』とか言われるのかと思った。普段は優しい先輩達もこのときばかりは誰かのせいにしたいだろうし、そう言われても俺は静かに受け止めようと思っていた。この試合は先輩達の最後の試合だ。俺はもう一年ある。だから後輩と言えど落ち着いているのは俺の方だと思った。 まず、最初に言っておこうと思う。 俺は、勘違いしていた。「今中、お前今日なかなかいいピッチングだったぞ」 まず話し始めたのはサードの先輩だった。「え?」 俺は半ば怒られる事を覚悟していたからその言葉には拍子抜けだった。「そうですか? 五失点ですよ?」「九回までは三失点だった。それでリードを奪えなかったんだから、お前が打たれたって仕方ないよ。負けてる方はピッチャーが切れる前に点を取って、楽にさせてやらなきゃいけないんだから、九回まで粘ったのは充分頑張っていたと思うよ」 キャプテンは優しかった。「あ、ありがとうございます」 敗戦投手にかける言葉にしては優しすぎるが、素直にお礼を言っておく事にした。「ところで、今中。草野なんだけどなあ」「あっ、俺、今日気付いたんですけど、草野が出てきた後は、何故か落ち着いて投げられるような気がするんです」 草野という名前が出たせいで、俺は反射的に話し始めていた。人は発見をしたらすぐに人に言いたがるものらしい。 先輩は神妙な顔をして俺の話を聞いていた。「今日、あいつが出てきた後にもキャッチャーミットが大きく見えて、いや、実際には大きくなってないんですけど、精神的に楽になったって言うか、そんな感じなんです」 言いながら少し恥ずかしくなった。ひょっとすると先輩達に気が狂ったとでも思われるかもしれないな、と思った。 だが、そんな事はなかった。「今日のあれはね、俺達が草野に頼んだんだよ」「え?」 キャプテンはよく分からない事を言った。「今中は追い詰められるとどうしても逃げのピッチングをする。だからリラックスできるように、今日もいざとなったらあれをやってくれって、草野に頼んだんだ」 確かに俺はあのピンチのときに自分の逃げ道を用意していた。「草野は頼んだ俺達の話を聞くなり『やっと気付いたんですか、先輩』と言ってたよ。あいつは前々からその事に気付いていて、何とかしてやろうとタイムを取っていたらしい。もっとも、もうちょっとやり方ってもんがあるとは思うけどな」 草野のタイムはメンタルが弱く、不甲斐無いエースのためのものだったらしい。「そうだったんですか」「まあ、でも今中が自分で草野の偉大さに気付いたのは偉いな。あのタイムももう無くなるだろう」「何で、ですか?」「だから、それは今中が成長したからだよ。もう必要ないだろう? お前はピンチになってもこの事を思い出せば、もう逃げようなんて思わない」「はは、そうですね」 俺は乾いた笑い声を出す事ぐらいしか出来なかった。草野の事を聞いたせいで軽い自己嫌悪に陥った。あいつはあんな事をしてまで俺を助けてくれていたのに、俺は自分の事しか考えてなかった。 俺は、あいつには後でお礼を言っておく必要があるな、と思った。「今中のフォーク、全然落ちないな」 投げ込みでフォークを投げ始めて五球目、草野は早くも文句を言い始めた。「落ちないから、練習してるんだろうが」 草野の文句は軽く流しておいて、俺はフォークの投げ込みに集中する事にした。 俺は草野を二人目のエースとして認めている。 注意深く観察すればよく分かる。草野のチームメイトへのさり気ない気遣いを、俺はよく見かけるようになった。草野はチームを円滑に動かしている。まあ、あいつの性格からしてそこまでは考えが及ばないとは思うから、ほとんど素でやっている事だとは思う。引退した先輩も、草野が打たれているときの俺の癖を掴んでいたような事を言っていたが、あれも草野が話をうまく合わせただけなのだと思う。明確な根拠はない。でも、思慮深い人間がマウンドでおにぎりを食べるなんて事、あるわけがないではないか。「お? 落ちた落ちた」 フォークを取り続けていた草野が俺のボールに手応えを感じていた。「嘘を吐くな」 俺は草野が嘘を吐いていると見抜いていた。見抜くのは簡単だった。なぜなら、俺は手応えを感じていない。「本当だって、さっき落ちてたじゃん」「じゃあ、監督に見てもらおう。落ちてるかどうかはそれで分かる」「悪かった。落ちてない」 草野はすぐ謝った。「草野、何でそんな嘘を吐いたんだ?」「いや、少し飽きてきたから落ちてると思い込む事にしたんだ。落ちてると思い込めばそのうち本当に落ちてくるもんだろ? 信じるものは救われるって言うじゃねーか」 毎度よくそんな事を思いつくな、と俺は少し呆れた。「捕ってるお前が思い込んだって何も変わんないんじゃないのか? 投げてるのは俺なんだぞ」「だから落ちてるって言ったんだ。今中も騙されたと思って、落ちてると思いながら投げよう」「はいはい」 俺はグローブで合図を送って草野を再び座らせ、投げ込みを再開する事にした。「今中、お前のフォークは野茂より落ちる」 草野は本当に俺に思い込ませるつもりのようだ。 再び投じたフォークは今までより少し違う感じだった。しっかり抜けたと言うか、変化したと言うか、その、一番しっくり来る言葉で表すとすれば、「落ちた」 俺達は二人共飛び上がって、大いに喜んだ。
August 13, 2006
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うちのチームにはエースが二人いる。 だが、正確に言えば一人だ。 これだけでは俺が言いたい事が理解できないだろう。だから順を追って話そうと思う。 日下東高校、俺が通う高校の名前だ。そして俺はその高校の野球部に所属している。今の時期はまさに甲子園大会の真っ最中なわけだが、今の俺達には関係がない。俺達のチームは地方大会の二回戦で強豪校に負けた。だから今は来年に向けて、とりあえずは秋季大会に向けて始動したばかりの時期だ。「おい、今中。早く戻って来い」「はっ、はい。監督」 ちなみに今中というのは俺の事だ。今、俺は練習中で、ランニングをしている。監督から出される少し軽めのノルマを走り終えようか、というときに監督から声をかけられたのだ。「今中、次は投げ込みだ」「はい」 監督に言われるままにピッチングの準備を始める。 俺はピッチャーだ。今年の夏も背番号1を背負ってマウンドに登った。まあ、強豪校に5点取られて途中降板という苦い経験もしたのだが、このチームでは間違いなく不動のエースだ。中堅の高校からなら二桁奪三振の完封もしたし、第一、俺の他にエース候補がいないのだから不動である。一年生はまだ、球威やコントロールなどが足りない。俺と同じ二年生にもう一人ピッチャーがいるのだが、そいつも本職は内野手だ。だから、消去法から言ってもエースは俺がやるしかないだろう。「今中、これから投げ込みだろ?」 ランニングシューズからスパイクに履き替えているとき、俺はチームメイトに肩を叩かれた。「ああ、こっちから呼びに行こうと思ってたんだ。悪いな、草野」 草野がキャッチャーミットを持ってベースの方へ歩き出した。草野はさっき話した同学年のピッチャーである。こいつには投げ込みのとき良くキャッチャーをやってもらっている。俺はわざわざ進んでキャッチャーをやってくれている草野を待たせないようにプレートの方へ急いだ。「なあ、草野」「何?」「今日は俺、変化球の練習していい?」「ああ、フォークだっけ? 少しは落ちるようになった?」「前と一緒だよ。俺はお前が取るときにしか変化球の練習をしないんだ」「何で? 俺って信頼されてんの?」「正捕手がいるときはもっと実践的な練習ができるけど、草野がいるときはコントロールを失った落ちないフォークを投げるのが一番練習になるだろう?」「何だよー、期待させんなよー。要するに俺は壁と一緒って事じゃん」 グラウンドの隅の方に俺達の笑い声が響いた。 俺達はとりあえず投げ込みの前のキャッチボールを始めた。いきなり全力で投げると肩を壊すのでまずは軽めに投げておくのだ。このときはキャッチャー役の草野もまだ座らない。俺達は他の野球部員が厳しいノックを受けている間にゆるいキャッチボールをしている。 なんだか悪いな、と思っていたら草野が口を開いた。「いやー、厳しいノックを受けずに済むのは今中のお陰だよ」 この言動ではまるで草野がノックを受けたくないかのようだが、俺は知っている。これはこいつの本心ではない。俺が二人目のエースと認めるこの男は、そんな事を思うようなやつではないのだ。 地方大会の二回戦。俺が強豪校に打ち崩されてしまった試合だ。 七回表、日下東はツーアウト、二塁三塁というピンチを迎えていた。三対一でうちが負けている状態だった。もし一打出れば、差を広げられて逆転は難しくなってしまうだろう。 そんな事は俺が一番分かっていた。何しろピッチャーだ。自分が打たれているんだからピンチには責任を持たなければいけない。まあ背負いすぎもあまりよくない。何しろエラーを除けば点を取られるのはピッチャーだけなのだ。チームの敗戦すべての責任を背負うなんてばかばかしい。 つまり何が言いたいかといえば、強豪校を三点に抑え切れれば、負けても胸を張っていいんじゃないかという逃げ道はある、という事だ。 そんな事を考えていると草野がグラウンドの中に入ってきた。草野はどこのポジションも守っていなかったからベンチから飛び出してきた事になる。守備側のタイム、草野は伝令だった。ピッチャーの俺を落ち着かせるために間を取ったのだろう。すぐにみんながマウンドに集まってくる。「おい、草野。またいつものあれじゃないだろうな」 四番サードの三年生が草野に聞いた。「先輩。あれってどういう事ですか?」 草野は本気で理解していないようだった。「分かってるだろう? お前は監督の指示なしにタイムを取る。その事だ」 次にショートでキャプテンの三年生が草野に言った。「えっと、いつものように事後承諾でいいかなーって。だって、今中のピンチにベンチでじっとしていられないじゃないですか」 草野はこういうとき、半分本気で半分冗談だ。これはいつもの事だから皆慣れていた。監督もさぞ呆れている事だろう。ちなみに、これのせいで草野はスターティングメンバーに選ばれていないのだが、本人がそれでいいと言っているので、まあ、いいのだろう。「じゃあ、その貴重なタイムで草野は何をしてくれるのかな?」 またキャプテンが言った。これは別に嫌味ではなく、本当に期待しているのだ。草野のタイムは本当に面白いと思う。毎回毎回、俺達の予想を超える事をしてくれるのでつい皆も期待してしまうのだ。 「今日は本当にピンチなんです。ここに勝ったら甲子園も夢じゃないでしょう。しかし、三対一の劣勢の中、今またピンチに直面する今中、そして日下東ナイン」 このときの草野は生き生きしていると思う。水を得た魚ならぬ、ピンチを得た草野である。「皆のために、今日はこれを持ってきました」 草野が手にしている帽子の中には、アルミホイルで包まれた三角形の物体が四つ入っている。これは学校の課外活動でお昼の時間によく見かける、あれだった。「お、お前これ、おにぎりじゃねーか」 皆、笑いを堪えていた。以前に大笑いして審判と対戦相手の監督に怒られたから大笑いはできない。だから皆必死に笑いを堪えていた。「さあ、今中。これは俺からの差し入れだ。遠慮せずに食え」 草野はご機嫌だった。ニコニコしながら俺におにぎりを押し付ける。「誰も食わないの?」 結局、誰もおにぎりには手をつけなかった。当たり前だ。今は試合中である。「ったくしょうがないなあ。じゃあ、俺が食うか」 そう言うと草野は躊躇せずおにぎりにかぶりついた。皆は必死に笑いを堪える。 今は試合中だ。ここはマウンド上だ。こいつは確か、伝令のはずだ。 普通に考えれば、野球の試合中、マウンドにおにぎりを持ち込む事は基本的に駄目だと思う。食べる事だって一部の例外を除き駄目だろう。ただ、それを平気でやるこいつは少し格好よく見えた。『ルールなんて関係ねえ』と言うドラマの主役のようだった。まあそれ以上に、救いようのない馬鹿に見えたのは、本当に、しょうがない事である。 ここでの草野の暴挙も永遠に続くわけではない。何故かと言うとそれは、「ちょっと君、何やってんの」 審判に止められてしまうからである。「タイムはタイムでも、お食事タイムです」 簡単には引き下がらないところもまた草野らしいところだ。「早く出てって」「すいません」 もはやお決まりのフレーズとなっているフレーズを言いながら、草野は審判にベンチへと引きずられていった。これから草野には監督の説教が始まるのだが、さすがに試合中なので、選手である俺達は気持ちを切り替える。「今日の草野はすごかったなあ」 サードの先輩が感想を述べた。「試合中のマウンドでおにぎりを食べ出すとは思わなかったよ。やっぱり大きい試合になると、草野も飛ばしてくるなあ」 キャプテンもそれに続く。三年の先輩は草野のタイムを見たからか試合中にもかかわらず、もう悔いはないという顔をしていた。「まあ、今中」 サードの先輩が今度は俺に向かって話しかけた。「気楽に投げろよ」「あ、はい」 確かに気が楽になった。 そして、キャプテンは最後にこう言ってタイムを終わらせた。「まあ、最悪この試合に負けたとしても、マウンドでおにぎりを貪る事と比べたら大した事じゃない。のびのびと守ろうじゃないか」 俺は再びバッターと向き合った。 気のせいかもしれないが、キャッチャーミットが少し大きく見えた。 俺はその回、そのバッターをツーストライクに追い込んでから、スライダーで空振りを取った。ピンチを凌いで二点差のビハインドながら望みを繋ぐ事が出来たのだ。「まあ、九回に二点取られて負けちゃったけどな」「なんか言ったか? 今中」「いや、なんでもない」 キャッチボールで肩が出来上がったので俺は投げ込みを始める事にした。「草野、始めはストレートからな」「おー、来ーい」 俺は振りかぶってストレートを投じた。
August 12, 2006
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ブログ始めました。当ブログは小説的なものを公開していくブログです。始めの挨拶はこのくらいにして、早速一番目の作品の事です。『草野のタイム』まあ、一番目と言っても、書いた作品の中では今のところ最も新しい話。始めにいきなり十話くらいの話を載せるのはあまり良くないかな、と思い急遽書きました。全二話。今が旬の高校野球の話です。ただ、これは書いてて恥ずかしかった。題材が題材なだけに、青春っぽい話でいいんじゃねーかと思いながら書いたんですが、個人的には少しやりすぎたような気がしてます。でもまあ、僕が書く話は大体こんな風になるというサンプルとしては成功したかな、とは思っているので一番最初に載せときます。とりあえず当面の目標は最後まで読んでもらえるような話を作る事にしよう。最後に、正直タイトル付けるのって悩みます。『草野のタイム』これも恥ずかしいです。でも、話の内容も考えればこんなもんでいいよ、多分。
August 12, 2006
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