動く重力

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普通免許とフリーター(05)

普通免許とフリーター(05)


 今の時間は、昨日雪穂さんと出会った時間の約一時間前。場所は雪穂さんと出会った路地裏。僕はシロを連れ戻すために再びここを訪れた。今ここには誰もいない。シロはもちろん雪穂さんの姿だって見えない。僕はコンクリートで出来たジャングルの中に一人ぽつんと立っていた。
 朝早くに起きて悩んだ結果だった。理由は大したことではない。僕は昔から決めたことを覆すのが苦手だった。そして僕は一度シロを探すと決めてしまっていた。ただそれだけのことだった。こうして僕はもう一度雪穂さんに会うと決めたのだが、問題が一つ残っていた。


 昼頃、僕は携帯のアドレス帳を開いて目的の名前を探した。するとそれはすぐに見つかったので、早速電話をかけた。
「もしもし、バイトの桐原です。おはようございます」
 僕がかけたのはバイト先のコンビニだった。
「ああ、桐原くんか。おはようございます。どうしたの?」
 都合がいいことに電話には店長が出た。
「店長。すみませんが、今日は休ませてもらいます」
「何で? 風邪でもひいたのかい」
 ここで僕は『そうです』と言えばよかった。でも、考え事が終わった後に嘘を考えることが面倒だったので、僕はなんの捻りも加えずに話した。
「昨日、綺麗な女の人に出会ったんです」
「うん、それで?」
「それで、今日待ち合わせをしたんです」
「その人と会うからバイトには来れないって?」
「ええ、そうなんです」
「桐原君、それはデートだな?」
「いえ、違いますよ」
「いや、きっとデートだ。そういうことなら休んでもいいんだけど」
 店長は随分適当な人だった。
「それなら、僕はこれからデートに行くでしょうね」
 無職の人間が自分のことを無理やりフリーターと呼んでいるぐらい、不自然な会話だったが、僕は店長から休みをもらうことが出来た。
 最後に僕は言った。
「女の敵はデートをすっぽかす男なんですよ」
「なら、男の敵は強引にデートの予定を組む女だよ」
 言われてみればまさにその通りだった。


 待ち合わせの場所に来た一時間後、つまり先日雪穂さんと出会った時間と同時刻だ。そのときにこの袋小路に入ってくる人間がいた。そして、その人間は間違いなく雪穂さんだった。これでとりあえず僕は雪穂さんとの接触に成功したことになる。
「雪穂さん」
 僕は話しかけた。
「言われた通り、来たんですけど」
 雪穂さんは肩をすくめた。
「何しに来たの、桐原君?」
 この人は人の猫を盗むのが日課なのかもしれない。そうじゃなければ『何しに来たの?』なんて言えるはずがなかった。
「うちのペットを返してもらいに来たんですけど」
「ああ、昨日の?」
「そうです。昨日のです」
「あのこ、可愛いのよね。ねえ、なんて名前だっけ?」
 僕はだんだん苛立ってきた。一時間も待ってシロが戻って来なかったら、僕は今日何のためにアルバイトを休んだのか分からなくなってしまう。
「とぼけてないで、早く返してください」
 僕がそう言った後、雪穂さんは、急に鋭い目つきになった。
「名前を言って」
「は?」
「いいから名前。兎にも角にもあんたがあのこの名前を言わなかったら返せないわ」
「分かりましたよ。あの猫の名前は、シロ、です」
 僕は基本的に物事を穏便に済ませようとする人間だった。それは大国の言いなりになっている国の国民として相応しい態度に思えた。

 こうして二度目になるペットの名前紹介を終えたとき、雪穂さんの目つきがやわらかいものに変わった。
「え?」
 僕は初めて雪穂さんに出会ったときと同じくらい間の抜けた声を出していた。そして、そんな僕など意に介さないように雪穂さんは言った。
「ついてきて」
 そして、僕の返事を聞く前に路地裏から出て行ってしまった。結局、僕は雪穂さんの言いなりになってついていくことしか出来なかった。


 雪穂さんの後についていくと、そこは僕が働いているコンビニだった。店長に休む許可を得たとはいえ、さすがに中に入るのはまずいので僕は雪穂さんを止めた。
「雪穂さん、ちょっと待ってください。僕達の目的地はあのコンビニなんですか?」
「半分正解。あたしは車をこのコンビニの駐車場に止めたの。だから一旦そこまで行って、その車に乗って目的地まで行くわ」
 コンビニを見ると客は少ししかいなかった。きっと僕が休みを取れたのは今日の売り上げが少ないことも関係しているだろう。
 駐車場に目を向けると、廃車が一台置いてあるだけだった。
 雪穂さんはその車の前で立ち止まる。
 僕は言った。
「雪穂さん、どうしたんですか、止まったりして?」
「あんたこそどうしたの?」
 僕が戸惑ってるうちに雪穂さんは廃車の運転席に乗り込んでいた。
「早く乗ってくれないと出発できないんだけど」
「乗るんですか?」
「車は乗り物でしょ?」
「そうですか」
 僕はへこんだと言うよりも折れ曲がったと言えるような助手席のドアを開けて中に乗り込んだ。
「雪穂さん、是非とも安全運転でお願いします」
「当然だわ」
 雪穂さんはなぜか言い切っていた。
「教習所で教わるのは安全運転と教官の性格の悪さだけなんだから」

 僕達を乗せた車は言うまでもなく暴走していた。
「雪穂さん、一ついいですか?」
 飄々としながら運転していた雪穂さんは僕の話も涼しい顔で聞いていた。
「何で助手席にブレーキペダルを付けてもらわなかったんですか?」
 スピードは他の車と同じくらいだったが、それでもそれぐらいは必要なほどの酷い運転だった。
「そんなの、要らないからに決まってるじゃない」
「そうですか」
 窓の外を見ると、車は交差点で子供にぶつかる間一髪のところを通り過ぎていくところだった。
「桐原君、あんた免許持ってる?」
「普通免許ですか? 持ってますよ」
 代わってくれという意味だろうか?
「そう、聞いただけだから気にしないで」
 僕達を乗せた車は、目的地に向けて進んでいった。

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