動く重力

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普通免許とフリーター(09)

普通免許とフリーター(09)

「どこから話せばいいか分からないから、はじめから話すわ」
「はい」
 この切り出し方から、僕は話が込み入ったものになることを覚悟した。一回深呼吸をして心を落ち着けさせる。
「あたしはね、動物が好きなの」
「ちょっと、雪穂さん」
「何よ?」
 話し始めてすぐに話を切られたせいで雪穂さんはまた不機嫌になった。だが、僕も覚悟をしていたために我慢できなかった。
「僕は別に自己紹介をしろって言ったんじゃないですよ」
「わかってるわ。最後までに大抵の疑問を取り除いてあげるから、ちゃんと聞いてて」
 僕は聞きながら、雪穂さんが僕の頭からクエスチョンマークを引っこ抜いている姿を思い浮かべていた。
「動物好きのあたしは動物と接するうちに扱いがうまくなったの」
「ああ、あのとき急にシロが懐いたのはそのせいだったんですか」
 シロは僕の呼びかけを無視したくせに、雪穂さんの呼びかけには応じた。あれはシロが僕を嫌いなのではなく、雪穂さんが猫の扱いに慣れていただけだったということだ、多分。


「保健所、野犬」
「何ですか?」
 雪穂さんは何の脈絡もなく言った。
「この二つの言葉で、文を一つ作ってみて」
 いきなり出された二つの言葉に僕は戸惑ったが、言われるままに考えてみた。
『野犬は、保健所に連れて行かれる』
 普通に考えたら、こういうのだろう。
『野犬は、保健所に捕らわれる』
 さっきとあまり変わらない。
『野犬は、保健所に向かう』
 これは今までのものとは違って、何か深い意味がありそうな文だった。巨大な権力に立ち向かう社会的弱者の隠喩のようでもあり、13階段を上る囚人の揶揄のようでもある。

 結局、僕は何を答えればいいのか分からなかったので、分かりませんと答えた。
「保健所はね、野犬を殺すのよ」
雪穂さんは淡々と物騒なことを言った。
「こ、殺すって」
 日常的に見られる言葉、軽はずみに用いられる言葉でも、生命に関する言葉は重い意味を持っている。それの本来の働きを引き出すためには、雪穂さんのように、ただただ、無感情に発すればいいらしい。
「知ってた、桐原君? あそこは野犬を一旦は預かるけど、人に渡らなければ最終的には殺すのよ」
雪穂さんは不愉快だと言わんばかりに顔をしかめた。僕は殺すという言葉が再び出てきたことに顔をしかめた。
「人間の都合で勝手に殺しているの。動物好きのあたしとしてはあまり気分のいい話ではないわ」
分からないでもなかった。人間は身勝手だ。
 だが、 僕は人間だった。
 だから僕は、身勝手だった。
「人間の都合です。公衆衛生上、仕方ないじゃないですか」
言いながら、コウシュウエイセイなんて言葉は滅多に使わないな、と思った。使わないということはそんなことは考えるまでもなく、当たり前のように与えられていたということでもあった。
「そう、仕方ないのよ」
雪穂さんは言った。
「あたしたちには必要なこと。だから保健所が悪いって言ってるんじゃない。ただ、動物が殺されてるのが気に食わないだけ」
「はあ」
 僕は割とどっちでもいいと思っていた。いつの時代も、若者が見ているのは自分の周囲だけだ。もし、僕に犬が殺されていると言っても、僕は『かわいそうだね』と半笑いを浮かべるくらいの反応しか示さないだろう。だから僕は、適当に相槌を打つことしかできなかった。
「野犬や野良猫、そういった動物たちが殺されないためには、保健所に捕まる前にあたしが捕まえればいい」
「随分、思い切ったことをしますね」
「そういう性格なの、あたしは」
思い当たる事柄はいくつもあった。
「動物を集め始めて気づいたわ。あたしには資金も場所もないってこと」
人間の行動は計画を立てて実行するのが理想だ。だから、その状況は決して理想的とは言えなかった。
「資金と場所を確保するにはどうすれば良かったかわかる?」
何となく察しがついた。ここはペットショップ。資金と場所の問題は一気に両方とも解決する。
「そう、めでたくペットショップHomelessの開店よ」
「捕まえたのを売っちゃったら何の解決にもならないと思いますけど、良いんですか?」
「確かにまた捨てられちゃったら意味がないけど、あたしにも限界があるの」
 限られた個人の能力で野犬に出来ることなんて、この程度なのだろう。雪穂さんには悪いが、人間は本当に無力だと思った。
「捨てられたら、また拾ってくるわけですしね」
「そういうこと。だから、今のあたしの仕事は、篠塚君が店の中の事をやってる間、そこらじゅうのノラを集めて片っ端からここに連れてくることなの」
 僕は雪穂さんのことをかなり理解した。そういう背景があったからこそ、シロは雪穂さんに連れて行かれたのだ。
「ちなみに」
 雪穂さんが言った。
「あたしと桐原君とシロが出会ったあの路地裏、あたしの巡回コース」

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