動く重力

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価値ある双眼鏡の話(8)

価値ある双眼鏡の話(8)

 読み終えて和泉さんに話しかけようとすると、和泉さんは静かに俯いていた。僕は掛ける言葉も思いつかず、眺める事しか出来なかった。
 和泉さんは右手でテレビのリモコンを操作した。
 テレビではちょうどこの事件のニュースが流れていた。『国際的誘拐事件』のテロップと無表情でニュースを読み上げる人気キャスターが映っている。
「――二人は銃を撃ち合い、銃で撃たれた被害者の父親は間もなく死亡しました。犯人は重体となっています――」
 キャスターがそう言うと画面はアランさんの名前と死亡の文字に切り替わった。
「銃で撃たれて、すぐに死んだんだ」和泉さんは誰にともなくそう呟いた。

 僕は黙っているのが苦痛だったのでどうでもいい事を話し始めた。
「アランさんは誘拐犯じゃありませんでしたね」
「アランはジョンの父親だった」
「仲間割れなんかしていませんでしたね」
「アランと犯人は仲間じゃない」
「アランさんが倉庫に入っていった理由が分かりました」
「自分の息子がいると分かったら、まあ、入っていくものなんだろうな」
「アランさんは偶然倉庫を見つけました。だったら、アランさんの本来の目的地って何処だったんですか?」
「身代金を受け渡す場合、犯人は場所を指定する事が多い。だから受け渡し場所を探していたんだろう。アランの様子から見て昨日のは下見だ」
「双眼鏡のおじさん」
「何だよ」
「僕の双眼鏡、ジョン君にあげちゃったんですね」
「ああ、すまん。勝手にあげた」
「十万円もしたのに」
「……あれ、そんなにしたのか」
「泥棒」
「初めに泥棒だと言っただろう」
「そうですけど」
「それに」
「何ですか?」
「あげてもよかったんだろう?」
「……ええ、あんなもので良かったのなら」

 僕は一度席をはずし、コーヒーを淹れる事にした。アランさんと僕は飲んだけど和泉さんはこのコーヒーを飲んだ事がない。お湯が沸くまでの間に、僕はコーヒーカップの中にインスタントコーヒーの粉を入れた。
 お湯を注ぎ、コーヒーを入れて和泉さんのところに戻ると、テレビでは相変わらず『国際的誘拐事件』の報道をしていた。犯人がどうやら一命を取り留めたらしく、今後はこの犯人が所属する組織を探っていく事になるらしい。少年は確かにいろんな国を回ったと言っていたから大きな組織なのだろう。
 僕はテレビを消してコーヒーを飲んだ。コーヒーはコーヒーより苦かった。
「和泉さんは優しいんですね」僕は急に話を振った。「ジョン君は和泉さんが手を握っていてくれた事に感謝していますし」きっとわざわざ病院を探してジョン君のお見舞いをしたのも和泉さんの優しさだし、手紙を書かせた事だってそうなのだろう。人は誰かに話を聞いてもらうと落ち着くと聞いた事がある。

「子供が苦しむのはおかしいと思う」和泉さんはコーヒーを見つめて、自分に言い聞かせるように言った。「俺は、子供のためなら双眼鏡だってあげるし、泥棒にだってなる。……子供のときくらいは、平和に過ごしてもいいじゃないか」


 僕はその後、部屋でゲームをした。昨晩、ほとんど寝ていない和泉さんは僕のベッドで眠った。
 僕はすぐにゲームに飽きた。いつもならいい暇つぶしになるのだが、今日はまったくそんな気分にならない。僕は三十分ほどでやる事がなくなって困った。それから時計の長針が一回転するのを、ただ眺めた。
 そして、ふと思いついて、すかさず僕は本を探し始めた。探すといっても普段からたまに使っている本なので見つけ出すのにさほど時間は掛からない。僕が手に取ったのは一冊の料理本。僕は和泉さんのために料理をする事にした。今日のメニューはカレー。料理本がなくても作れそうなメニューだけど、料理本は必須である。僕が作るのはカレーではなく、おいしいカレーなのだから。

 カレーをつくるといってもほとんどの時間はじっくり煮込んでいるだけだった。だから結局は暇で暇でしょうがなかったのだが、それはそれで有意義な時間だったと思う。
 きっと僕も和泉さんのように誰かの役に立ちたかったのだと思う。カレーをつくる事なんて、絶望に沈む少年を救う事に比べたら、何もしていないのとほとんど変わらないかもしれない。それでも何かしたかったのだ。和泉さんのために料理を振舞うなんて事は何にもならないかもしれない。でも、和泉さんはきっと喜んでくれる事だろう。この事件であの人の事がよく分かった。和泉さんはものすごく適当で、ものすごく優しい泥棒なのだ。

 夕食の前には和泉さんが目を覚ました。本人曰く『コーヒーを飲んだ後にぐーすか寝れるもんじゃない』との事である。
 その後二人でカレーを食べた。『レトルトよりはうまい』と言われた。僕は無理やり褒め言葉として受け取る事にした。
 カレーを食べて、テレビを何とはなしに観賞した後、僕は眠った。次の日の授業には出るつもりだったから、その日のうちに床に就いた。

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