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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
遠くへ行きたい
2024.11.23
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 頼山陽は、1781年に大坂で生まれ広島で育った江戸時代後期の歴史家・思想家・漢詩人・文人です。
 ”頼山陽 詩魂と史眼 ”(2024年5月 岩波書店刊 揖斐 高著)を読みました。
 詩人であり歴史家でもあった不世出の文人である頼山陽の生涯について、江戸後期の文事と時代状況の中で紹介しています。
 頼山陽は、幼名は久太郎、名は襄、字は子成で、山陽、三十六峯外史と号しました。
 有力な漢学者であり、歴史・文学・美術などのさまざまな分野で活躍しました。
 18歳のとき、江戸に出て尾藤二洲に師事し朱子学・国学を学びました。
 20歳のとき、広島藩医・御園道英の娘淳子と結婚しました。
 21歳のとき、広島藩を脱藩した罪で一時監禁されました。
 その後京都に出て、『日本外史』22巻を書き松平定信に献じました。
 これは没後に出版され、ベストセラーとなって尊王倒幕の志士にも影響を与えました。
 文学の分野では「鞭声粛々」の詩や、「天草洋に泊す(雲か山か)」の詩などが広く愛誦されています。
 美術の分野では、能書家として有名で絵画についても優れた水墨画を残しました。
 揖斐高さんは1946年福岡県生まれ、1971年に東京大学国文科を卒業し、1976年に同大学院博士課程を単位取得満期退学しました。
 1978年度第5回日本古典文学会賞を受賞し、1999年に文学博士となりました。
 白百合女子大学文学部講師、成蹊大学文学部教授等を務め、2017年に日本学士院会員となりました。
 現在、成蹊大学名誉教授で、2011年に紫綬褒章、2019年に瑞宝重光章を受章しました。
 1999年に第50回読売文学賞(翻訳・研究部門)、2010年に第18回やまなし文学賞、角川源義賞を受賞しました。
 頼山陽の父の頼春水は、若くして詩文や書に秀でて大坂へ遊学しました。
 そこで尾藤二洲や古賀精里らとともに、朱子学の研究を進めました。
 現在の大阪市西区江戸堀の江戸堀北に私塾「青山社」を開きました。
 頼山陽はこの頃、飯岡義斎の長女で歌人の頼梅颸=らいばいしを母として同地で誕生しました。
 頼山陽も父と同じく幼少時より詩文の才があり、歴史にも深い興味を示したといいます。
 1788年に、7代藩主が藩士教育のため開いた広島藩学問所に入学しました。
 その後、父親が江戸在勤となったため、学問所教官を務めていた叔父の頼杏坪に学びました。
 頼杏坪は1785年に広島藩儒となり、学問所の職務に精励していました。
 山陽は1797年に江戸に遊学し、父親の学友の尾藤二洲に師事しました。
 二洲は荻生徂徠に学んだあと朱子学に転じ、大坂に私塾を開いて朱子学の普及に尽くしました。
 1800年に突如脱藩を企てて上洛しましたが、追跡してきた杏坪によって京都で発見されました。
 広島へ連れ戻され、廃嫡され自宅へ幽閉されました。
 山陽はかえって学問に専念して、3年間は著述に明け暮れました。
 『日本外史』の初稿が完成したのも、このころのことだったといわれます。
 謹慎を解かれたのち、1805年に広島藩学問所の助教に就任しました。
 1809年に、父親の友人だった儒学者の菅茶山より招聘を受け、廉塾の塾頭に就任しました。
 茶山は少年時代の山陽の才能を高く評価しており、後継者にとの密かな思いを持っていたといいます。
 山陽は廉塾にいた1年余りに茶山の代講を行い、茶山の詩集の校正などを任されました。
 しかし、三陽には江戸・京都・大坂に進出して、学者として天下に名をあげたいという気持ちがありました。
 山陽は、比較的恵まれた境遇にあったものの満足することできませんでした。
 1811年に廉塾を去り京へと向かい、洛中に居を構え開塾しました。
 1816年に父親が死去すると、その遺稿をまとめ『春水遺稿』として上梓しました。
 1818年に九州旅行へ出向き、広瀬淡窓らの知遇を得ました。
 1822年に京都の上京区三本木に東山を眺望できる屋敷を構え、水西荘と名付けました。
 この居宅で著述を続け、1826年に代表作の『日本外史』が完成しました。
 1827年に、江戸幕府の老中松平定信に献上されました。
 1828年に文房を造営し、以前の屋敷の名前をとって山紫水明處としました。
 山陽の結成した笑社には京坂の文人が集まり、諸氏の交流の場になりました。
 その後も文筆業にたずさわり、『日本政記』『通議』などを完成させようとしました。
 しかし、51歳ごろから健康を害し喀血を見るなどして容態が悪化し、1832年に享年53歳で死去しました。
 『日本外史』は山陽が著した国史の民間による歴史書です。
 源氏と平家から徳川氏までの武家盛衰史で、すべて漢文体で記述されています。
 1827年に、山陽と交流があった元老中首座の松平定信に献上されました。
 そして2年後に、大坂の秋田屋など3書店共同で全22巻が刊行されました。
 幕末から明治にかけて、一番多く読まれた歴史書です。
 司馬遷の『史記』の体裁にならい、武家13氏の盛衰を記述しています。
 1800年の脱藩後の幽閉中に書き、放免後の1826年に推敲を重ねて全22巻12冊を完成させました。
 武家政権の成立と展開を跡づけた『日本外史』は、人知を超える勢いが歴史を動かすとしました。
 歴史の展開のさまざまな局面に際会した人間が、どのような表情を見せどのような行動を選択して対処したかを平明な漢文で表現しました。
 当時は武家政権の崩壊を経て、天皇中心の中央集権国家へという歴史が転換した時期でした。
 人々に、歴史の転換期における人間の在るべき姿を指し示してくれる魅力的な歴史書でした。
 ただし、歴史考証では難あり議論には偏りがあったため、史書よりはむしろ歴史物語でした。
 しかし、独特な史観と動的な表現で幕末の尊皇攘夷運動に与えた影響はきわめて大きいものでした。
 山陽は、歴史における勝者と敗者の姿を具体的に描き、その心情に分け入ろうとしました。
 山陽はこの時代を代表する漢詩人の一人で、その詩は人々に愛誦されたと内村鑑三が回顧しています。
 天皇中心の歴史書『日本政記』は山陽の遺稿を校正したもので、伊藤博文、近藤勇の愛読書であったといいます。
 山陽的な歴史観、国家観は、幕末から維新、戦前の日本に大きな影響を及ぼしました。
 山陽の歴史に対する問題意識や歴史著述の方法は、どのようにして生まれたのでしょうか。
 また、山陽の漢詩人としてのあり方はどのようなものであったのでしょうか。
 詩人と歴史家が同居していた山陽の全体像を、山陽自身の言説をもとにできるだけ具体的に明らかにしたいといいます。
 なお、本書は専門的な研究書ではなく入門的な概説書です。
1(第一章 生いたち/第二章 脱藩逃亡/第三章 回生の一歩/第四章 西国遊歴/第五章 罪を償う/第六章 山紫水明の愉楽)/2(第七章 山陽詩の形成/第八章 『日本外史』への道/第九章 『通議』と『日本政記』/第十章 「勢」と「機」の歴史哲学/第十一章 歴史観としての尊王/第十二章 地勢から地政へ/第十三章 『日本外史』の筆法/第十四章 三つの『日本外史』批判/第十五章 『日本楽府』-詩と史の汽水域)/3(第十六章 臨終その後)

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Last updated  2024.11.23 08:06:02
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