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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2019.09.28
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 8世紀の日本は、律令制の時代、平城京の時代であり、文化的には天平文化とも称されています。

 天平文化の最盛期は、東大寺大仏と正倉院宝物で代表され、聖武天皇と光明皇后を中心に考えられることが多いです。

 その同時代の重要な政治家の一人が橘諸兄=たちばなのもろえです。

 “橘 諸兄”(2019年7月 吉川弘文館刊 中村 順昭著)を読みました。

 藤原四兄弟が疫病に倒れると政権の中枢に立ち聖武天皇の度重なる遷都や東大寺大仏の造営など天平期の諸政策を主導した、奈良時代の政治家の橘諸兄を紹介しています。

 五世王にすぎなかった諸兄はいかにして政界の頂点に登りつめたのでしょうか。

 最新の発掘成果にも触れつつその生涯を描き出します。

 中村順昭さんは1953年神奈川県生まれ、1978年に東京大学文学部を卒業し、1982年に東京大学大学院人文科学研究科博士課程を中退しました。

 文化庁文化財保護部美術工芸課文部技官、文化財調査官などを経て、現在、日本大学文理学部教授で博士(文学)です。

 橘 諸兄は奈良時代の皇族・公卿で、初名は葛城王(葛木王)といい、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となりました。

 敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子であり、母の橘三千代は、光明子(光明皇后)とは異父妹にあたります。

 橘諸兄は737年に藤原武智麻呂らが疫病で亡くなった後、756に致仕するまで20年近くの間、右大臣・左大臣として太政官のトップの座にありました。

 奈良時代の8世紀の政治を政権のトップに立った人物で見ると、藤原不比等、長屋王、藤原武智麻呂、橘諸兄、藤原仲麻呂、道鏡、藤原永手などとなり、藤原氏とそれ以外とが交互に権力を握りました。

 奈良時代の朝廷は、皇族と藤原氏が権力の座を巡り争っていた時代です。

 この両者の争いは、超絶金持ちエリートだった長屋王という皇族が729年に藤原氏の策略で自殺に追い込まれて以後、藤原氏の圧倒的勝利に終わりました。

 藤原氏は朝廷の主要な役職を占め、朝廷を支配しました。

 藤原氏を中心にした観点では、藤原氏対反藤原氏の対立という図式を設定して、政権交代を経て藤原氏が勢力を拡大していったととらえることも行われています。

 藤原不比等(藤原氏)、長屋王(皇族)、藤原四兄弟(藤原氏)、橘諸兄(皇族)というふうに、藤原氏と皇族が交代して政権運営することになりました。

 橘 諸兄は和銅3年=710年に無位から従五位下に直叙され、翌年に馬寮監に任ぜられました。

 元正朝では、霊亀3年=717年に従五位上、養老5年=721年に正五位下、7年=723年に正五位上と順調に昇進しました。

 神亀元年=724年に聖武天皇の即位後間もなく、従四位下に叙せられました。

 6年=729年に長屋王の変後に行われた3月の叙位にて、正四位下に叙せられると、同年9月に左大弁に任ぜられました。

 天平3年=731年に諸官人の推挙により、藤原宇合・麻呂兄弟や多治比県守らとともに参議に任ぜられ、公卿に列しました。

 天平4年=732年に従三位、8年=736年に弟の佐為王と共に、母・橘三千代の氏姓である橘宿禰姓を継ぐことを願い許可され、以後は橘諸兄と名乗りました。

 9年=737年4月から8月にかけて、天然痘の流行によって、太政官の首班にあった右大臣・藤原武智麻呂ら政権を握っていた藤原四兄弟をはじめ、中納言・多治比県守ら議政官が次々に死去しました。

 9月には、出仕できる主たる公卿は、参議の鈴鹿王と橘諸兄のみとなりました。

 そこで急遽、朝廷では鈴鹿王を知太政官事に、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に任命して、応急的な体制を整えました。

 翌年=738年に諸兄は正三位・右大臣に任ぜられ、一上として一躍太政官の中心的存在となりました。

 これ以降、国政は橘諸兄が担当、遣唐使での渡唐経験がある下道真備(のち吉備真備)・玄昉をブレインとして抜擢して、聖武天皇を補佐することになりました。

 11年=739年正月に諸兄は従二位に昇叙されましたが、母の県犬養三千代の同族である県犬養石次を近々の参議登用含みで従四位下に昇叙させました。

 同年4月に石次に加え、自派の官人である大野東人・巨勢奈弖麻呂・大伴牛養を参議に任じて、実態として橘諸兄政権を成立させました。

 12年=740年8月に大宰少弐・藤原広嗣が、政権を批判した上で僧正・玄昉と右衛士督・下道真備を追放するよう上表を行いました。

 しかし実際には、国政を掌っていた諸兄への批判と、藤原氏による政権の回復を企図したものと想定されます。

 9月に入り広嗣が九州で兵を動かして反乱を起こすと、10月末に聖武天皇は伊勢国に行幸しました。

 さらに乱平定後も天皇は平城京に戻らず、12月になると橘諸兄が自らの本拠地にほど近い恭仁郷に整備した恭仁宮に入り、遷都が行われました。

 15年=743年に従一位・左大臣に叙任され、天平感宝元年=749年4月についに正一位に陞階しました。

 しかし、同年8月に孝謙天皇が即位すると、国母・光明皇后の威光を背景に、大納言兼紫微令・藤原仲麻呂の発言力が増すようになりました。

 同年11月の聖武上皇が病気で伏していた際、酒の席で上皇について不敬の発言があり謀反の気配がある旨、側近の佐味宮守から讒言を受けました。

 この讒言については聖武上皇が取り合わいませんでしたが、諸兄はこのことを知り翌天平勝宝8歳=756年2月に辞職を申し出て致仕しました。

 9歳=757年1月6日享年74歳で薨去しました。

 諸兄の没後間もない同年7月、子息の奈良麻呂は橘奈良麻呂の乱を起こし獄死しました。

 藤原不比等、武智麻呂、仲麻呂、永手らを藤原氏ということで一律にとらえることが適切なのでしょうか。

 また長屋王、橘諸兄、道鏡は、それぞれの置かれた政治状況が異なっていて、反藤原氏と一括するのは一面的にすぎましょう。

 とりわけ橘諸兄は、もと葛城王と称する皇親でありましたが、母は県犬養 橘三千代で、光明皇后と父は異なりますが母は同じ兄妹でもありました。

 藤原氏を代表する光明皇后と諸兄は、互いに支え合うような側面もありました。

 子の奈良麻呂がクーデタを計画したとき、大伴氏や佐伯氏などの伝統的豪族を同士としていました。

 諸兄も守旧派と位置づけられることもありますが、橘氏は諸兄に始まる新興氏族でもあります。

 このように橘諸兄には多様な側面があり、天平期の政治を考えるうえでは諸兄をどのように位置づけるかが重要な問題となります。

 そのためには諸兄の経歴、事績などをきちんと把握する必要があり、本書はそのための試みです。

はしがき/生い立ち(父祖/県犬養三千代/五世王)/皇親官人としての葛城王(藤原不比等と葛城王/長屋王政権/長屋王の変/藤原武智麻呂政権と葛城王/藤原武智麻呂政権の政策/橘宿禰諸兄)/疫病大流行(藤原四兄弟の死/橘諸兄政権の成立/阿倍内親王の立太子/疫病後の政策/橘諸兄の相楽別業)/彷徨五年(藤原広嗣の乱/関東行幸/恭仁京/国分寺造営/紫香楽行幸と大仏建立/難波遷都と安積親王の死/平城還都/彷徨五年期の政策)/左大臣橘諸兄の政権(橘奈良麻呂のクーデタ計画/皇太子阿倍内親王/陸奥の産金/平城還都後の政策/橘諸兄の家産)/橘諸兄と藤原仲麻呂(孝謙天皇の即位/橘諸兄の致仕と死/橘奈良麻呂の変/橘諸兄の子孫たち)/橘諸兄関係系図/天皇・皇族略系図/略年譜





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Last updated  2019.09.28 06:09:20
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