心の赴くままに

心の赴くままに

PR

Profile

kishiym

kishiym

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Comments

cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2022.03.26
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類

 ”埴輪は語る”(2021年6月筑摩書房刊若狭」徹著)を読みました。

 3世紀中頃に出現した前方後円墳に、弥生時代以来の葬送儀礼の器物として採用されほどなく古墳を守護する呪的な道具として発展していった埴輪について、発掘、歴史、群像、登場人物、支えた仕組みなどを解説しています。

 そこに据えつけられた埴輪は、古墳を荘厳に見せる飾りです。

 埴輪は前方後円墳という古墳時代の指標となる記念物と共に現われ、日本各地の古墳に分布しています。

 やがて、王のもつ器物を造形した器財埴輪や家形埴輪が登場すると、墓の主が眠る場を示し、そこを護ると共に、荘厳に飾る性格をもつようになりました。

 そして五世紀に至り、被葬者の治世のようすをビジュアル化する人物群像として完成しました。

 埴輪は古墳時代の日本に特有の器物であり、一般的に土師器に分類される素焼き土器で、祭祀や魔除けなどのため、古墳の墳丘や造出の上に並べ立てられました。

 若狭徹さんは1962年長野県生まれ群馬県育ち、明治大学文学部史学地理学科考古学専攻を卒業しました。

 2007年に「古墳時代地域社会構造の研究 上毛野から提唱する水利開発主導型の社会モデル」で明大博士(史学)となりました。

 史跡保渡田古墳群の調査、整備、かみつけの里博物館の建設、運営にたずさわりました。

 高崎市教育委員会文化財保護課課長を経て、明治大学文学部准教授となりました。

 藤森栄一賞、濱田青陵賞、古代歴史文化賞優秀作品賞を受賞しています。

 1988年のこと、関東平野の内陸部、群馬県高崎市の榛名山東南麓地域で、農地改良事業のために削られる台地の緊急発掘調査が行われていました。

 一帯は、井出、保渡田と呼ばれる地区で、国指定史跡の保渡田古墳群が存在する考古学的に重要な地域です。

 保渡田古墳群は、墳丘の長さが100mほどの3基の大型前方後円墳から成り立っており、5世紀後半の東国を代表する遺跡として知られています。

 そのひとつである井出二子山古墳のすぐ北側のエリアの発掘調査で、幅2m深さ1mほどの溝の中から、茶褐色をした握りこぶし大の焼き物を掘り出していました。

 それは素朴な表情をたたえた男子埴輪の頭部で、この発見をきっかけにして、溝のなかから続々と埴輪の破片が出土しはじめました。

 出土した数干点の破片は、およそ1年をかけて丹念に接着剤で接合する作業を行いました。

 その結果、馬、犬、猪などの動物、さまざまな人物、家、盾などの器物をかたどった埴輪が復元されました。

 円筒埴輪は、普通円筒、朝顔形埴輪、鰭付円筒埴輪などに細分されます。

 墳丘を取り囲む周提帯の上や、墳丘頂部、墳丘斜面に設けられた段部に横一列に並べられました。

 形象埴輪は、家形埴輪、器財埴輪、動物埴輪、人物埴輪の4種に区分され、墳丘頂部の方形基壇や、造出と呼ばれる墳丘裾の基壇状構造物の上に立て並べられました。

 形象埴輪からは、古墳時代当時の衣服、髪型、武具、農具、建築様式などの復元が可能です。

 埴輪の構造は基本的に中空で、粘土で紐を作り、それを積み上げていきながら形を整えて作りました。

 時には、別に焼いたものを組み合わせたりしています。

 また、いろいろな埴輪の骨格を先に作っておき、それに粘土を貼り付けるなどしました。

 型を用いて作ったものはありません。

 中心的な埴輪には、表面にベンガラなどの赤色顔料が塗布されました。

 畿内では赤以外の色はほとんど用いられませんでしたが、関東地方では形象埴輪に様々な彩色が施されています。

 最終的に、およそ50個体の形象埴輪の存在が明らかになりました。

 貼り付いた破片どうしの関係性を検討した結果、もともとは古墳の墳丘に立てられていた埴輪群が、倒れ割れ散ってまわりの溝に流れ込んだものと推定されました。

 倒れた位置から元の位置を推定する作業を行うと、溝の背後の前方部における埴輪の配列のありかたがおおよそ復元できました。

 埴輪群像は、2つ以上のグループに分かれており、古墳の外方から見て、左側に王が儀礼を行っている様子、右方に狩猟の様子が表現されていたようであったといいます。

 自然環境の変動は神の仕業と信じられていた古代において、地域の王は、民のために神をまつって環境を安定させ、悪神が里に災いをもたらさないように努める使命を帯びていました。

 また、農地の実りを保証し、遠来の物資を確保し、最新技術を移入して地域を富ませなければならない宿命を負っていました。

 埴輪群像は、この世を去った被葬者のそうした生前の事績を示し、それをみる共同体の人々に認知させるための仕掛けだったと考えられます。

 人物埴輪は、古墳づくりに従事し、葬送儀礼に参加する共同体の者たちや近隣首長を意識した、見せるためのツールでした。

 人物埴輪群像の中には複数の場面があり、その場面ごとに被葬者の姿が表現されていました。

 神まつりを行う王、狩猟を行う王、武威を誇る王、服飾品や物資をこの地に導く王、馬を所有し生産する王などの像です。

 古墳時代は350年(3三世紀中葉~6世紀末)続きましたが、その間、列島中に5000基もの前方後円墳が造られました。

 他にも円墳冲方墳が造られましたが、前方後円墳こそが中央政権と連合したことをビジュアル化するための仕掛けでした。

 その連合に加われば、安全保障と経済的ネットワークに連なることができました。

 ゆえに、有力豪族たちは競ってそれに連なろうとしました。

 埴輪の起源は、考古学的には吉備地方の墳丘墓に見られる特殊器台、特殊壺にあるとされ、それらから発展した円筒埴輪と壺形埴輪がまず3世紀後半に登場しました。

 次いで4世紀に、家形、器財形、動物形が出現し、5世紀以降に人物埴輪が作られるようになったという変遷過程が明らかとなっています。

 3世紀後半になると、岡山県岡山市都月坂1号墳、奈良県桜井市箸墓古墳、兵庫県たつの市御津町権現山51号墳などの前方後円墳から、最古の円筒埴輪である都月型円筒埴輪が出土しています。

 この埴輪の分布は備中から近江までに及んでいます。

 最古の埴輪である都月型円筒埴輪と、最古の前方後円墳の副葬品とされる大陸製の三角縁神獣鏡とは、同じ墳墓からは出土せず、一方が出るともう一方は出ないことが知られていました。

 ただ一例、兵庫県たつの市の権現山51号墳では、後方部石槨から三角縁神獣鏡が5面、石槨そばで都月型円筒埴輪が発見されています。

 古墳時代前期初頭(3世紀中葉〜後葉)には、吉備地方において円筒形、壺形、少し遅れて器台と器台に乗せた壺が一体化した形の朝顔形埴輪などの円筒埴輪が見られました。

 これら筒形埴輪は、地面に置くだけではなく、脚部を掘った穴に埋めるものへと変化しました。

 前方後円墳の広がりとともに全国に広がりました。

 4世紀前葉の前期前葉には、これらの埴輪とは別の系統に当たる家形埴輪のほか、蓋形埴輪や盾形埴輪をはじめとする器財埴輪、鶏形埴輪などの形象埴輪が現れました。

 初現期の形象埴輪については、どのような構成でどの場所に建てられたか未だ不明な点が多いそうです。

 その後、墳頂中央で家型埴輪の周りに盾形、蓋形などの器財埴輪で取り巻き、さらに円筒埴輪で取り巻くという豪華な配置の定式化が4世紀後半の早い段階で成立しました。

 そこに用いられた円筒埴輪は胴部の左右に鰭を貼り付けた鰭付き円筒埴輪です。

 さらに、5世紀中ごろの古墳時代中期中葉からは、巫女などの人物埴輪や家畜である馬や犬などの動物埴輪が登場しました。

 埴輪馬は裸馬のものと装飾馬があり、装飾馬は馬具を装着した姿で表現されます。

 群馬県高崎市の保渡田八幡塚古墳は保渡田古墳群に含まれ、5世紀後半代の前方後円墳で、馬や鶏、猪など多くの動物埴輪が出土しています。

 保渡田八幡塚古墳から出土した鵜形埴輪は首を高く上げ口に魚を加えた鵜の姿を形象しており、首には鈴のついた首紐が付けられ、背中で結ばれる表現も残ります。

 鵜形埴輪の存在から、古墳時代には祭礼や行事としての鵜飼が行われていた可能性が考えられています。

 またこの頃から、埴輪の配列の仕方に変化が現れました。

 それは、器財埴輪や家形埴輪が外側で方形を形作るように配列されるようになったのです。

 あるいは、方形列を省略することも行われています。

 さらに、靭形埴輪の鰭過度に飾り立てるようになったり、家型埴輪の屋根部分が不釣り合いに大型化したりするようになりました。

 畿内では、6世紀中ごろの古墳時代後期には、次第に埴輪は生産されなくなっていきました。

 しかし、関東地方においては、なおも埴輪の生産が続けられていました。

 なかでも、埼玉県鴻巣市の生出塚埴輪窯跡は、当該期の東日本最大級の埴輪生産遺跡として知られています。

 群馬県保渡田古墳群の三基の前方後円墳のなかで、最後に完成したのは保渡田薬師塚古墳です。

 墳長105mで二重の堀を巡らす大型前方後円墳ですが、発掘調査の結果、5世紀末頃の榛名山犬噴火を間に挟んで築造されたことが判明しました。

 周堀の堆積土の観察では、外堀は噴火の前、内堀は噴火の後に掘削されており、被葬者が王位に就いた後、墓の範囲を定める外堀から着工されたとみられます。

 本古墳を最後に保渡田古墳群の王の系列は途絶しており、葬送を行う集団の結合が不安定化したために、仕上げが不完全に終わったのでしょう。

 このことからも、本古墳が王の生前から造られており、埴輪が最後の仕上げ段階で配置されたことが推定できるといいます。

 本書では、そうした王の治世の具体像、その歴史的意味、埴輪を通じて明らかにされる古墳時代社会の実像を、順をおって詳らかにしていこうとしています。

第1章埴輪を発掘する/第2章埴輪はどのように発展したかー三五〇年の歴史/第3章見せる王権ー人物埴輪の群像/第4章埴輪の登場人物たち/第5章埴輪づくりを支えた仕組み/終章埴輪は語るー歴史の必然

[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2022.03.26 07:24:11
コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: