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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2025.10.11
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 アラン(Alain)はペンネームで、本名はエミール=オーギュスト・シャルティエといいます。
 フランス第二帝政時代のノルマンディー・モルターニュ=オー=ペルシュ出身の、哲学者、評論家、モラリストです。
 ”アラン 戦争と幸福の哲学”(2025年6月 筑摩書房刊 田中 祐理子著)を読みました。
 20世紀前半にフランスの思想界に大きな影響を与え、二度の世界大戦を生き抜いた、合理的ヒューマニズム思想家アランの評伝です。
 ペンネームのアランは、フランス中世の詩人、作家であるアラン・シャルティエに由来します。
 1868年生まれで、リセ・ミシュレやエコール・ノルマル・シュペリウールに入学し、哲学を専攻しました。
 リセ・ミシュレで、教師だった合理主義哲学のジュール・ラニョーの講義を受け、後々まで大きな影響を受けました。
 卒業後は、ポンティヴィやロリアン、ルーアンに位置するコルネイユ高等学校などのリセで教師を務めました。
 1909年から、アンリ4世高等学校に哲学を教える教師として務めました。
 過去の偉大な哲学者達の思想とアラン独自の思想を絡み合わせた哲学講義は、学生に絶大な支持を受けたといいます。
 レイモン・アロンやジョルジュ・カンギレム、シモーヌ・ヴェイユ、ジュリアン・グラックなどの作家・学者・思想家を輩出しました。
 第一次世界大戦が始まると、46歳で自ら願い出て志願兵となり好んで危険な前線に従軍しました。
 戦後は再びアンリ4世高等学校に戻り、1933年頃まで教師を務めました。
 教師を退職した後は、亡くなるまで執筆活動を続けました。
 1951年6月2日に、フランスのル・ヴェジネにて83歳で没しました。
 田中祐理子さんは1973年埼玉県生まれ、2000年に東京大学大学院総合文化研究科博士課程を単位取得退学しました。
 2000年に日本学術振興会 特別研究員となり、2001年に京都大学人文科学研究所の助手となりました。
 2009年に同研究所の助教となり、2018年に同大学白眉センターの特定准教授となりました。
 2021年に神戸大学大学院国際文化学研究科の準教授となり、2025年に教授となりました。
 東京大学博士(学術)で、専門は哲学・科学史です。
 アランはフランス各地の高校で、哲学の1教師として生涯を貫きました。
 第一に、第二次産業革命で人々のライフスタイルが大きく変化しました。
 第二に、帝国主義の延長線上に二度の大きな戦争がありました。
 第三にロシア革命をはじめとする革命の機運が高まった時代でした。
 そして、第四に、1929年にアメリカのウォール街から広がった金融危機が世界大恐慌へと発展しました。
 目まぐるしく変化する社会にあって、人々の不安が蔓延していた時期でした。
 19世紀末のフランスは、第二次産業革命の恩恵と、植民地からの収益によって繁栄していました。
 人々は富を享受しましたが、必ずしも平等に富が分配されたわけではありません。
 新興ブルジョワジーが出てきましたが、貧者は相変わらず厳しい労働にさらされていました。
 20世紀になると、サラエヴォ事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発しました。
 アランは1874年、6歳のとき、カトリック系の規律の厳しい学校に入れられました。
 冒険譚に親しみ空想を好んだアランは、勉強には興味を示さなかったものの成績は良好でした。
 国立高等中学校でも優秀な生徒で、どの科目もよくできたそうです。
 教師からは高等理工科学校を勧められましたが、受験には失敗しました。
 そして、パリのミシュレ校に進学することになりました。
 ここで17歳年上のジュール・ラニョーという教師に出会い、哲学に目覚めました。
 とくに、プラトンとスピノザについて学びました。
 1892年に24歳で高等師範学校を卒業し、哲学の先生になりました。
 その後は、フランス各地の高校を転々としました。
 アランはラニョーのことを、自分が出会った唯一の偉人と称えました。
 1894年にラニョーが亡くなり、のちにその作品を『ジュール・ラニョーの遺稿』と題してまとめました。
 1894年のドレフュス事件では、ドレフュス擁護派の論客として活躍しました。
 ドレフュス大尉が逮捕されたのは、冤罪のためでした。
 これによって、アランの名は世に知られることになりました。
 1900年から、ロリアン新聞にアランというペンネームで寄稿するようになりました。
 民衆大学という啓蒙活動に参加し、科学などを教えたり講演や論争したりしました。
 1930年代には、反ファシスト知的監視委員会を組織しました。
 相変わらず一高校教師であることを貫き、1909年にはパリの名門アンリ四世校に移りました。
 引退するまで、この高校で教鞭を執りました。
 1925年に57歳のときに、『幸福論』の初版がプロポの数60編で出版されました。
 第1次世界大戦前後の執筆した文章から、幸福をテーマとしたものを集めて編纂した書です。
 プロポは断章と呼ばれ、短くて独立したコラム的な形式で書かれています。
 『幸福論』は加筆され、93編のプロポから成っています。
 難解で観念的な哲学書と異なり、平易な言葉で書かれた思索の本です。
 アランは1933年にアンリ四世校を退職しましたが、その後も執筆を続けました。
 新聞への寄稿も精力的に行い、連載した文章は膨大な数に及んでいます。
 アランは、二度の世界大戦を生きた哲学者でした。
 一度目の大戦では、徴兵対象の年齢を超えていながら志願兵となってフランス東部の前線に赴きました。
 深刻な怪我を負いながらも、3年間の軍役を果たして生還しました。
 二度目の大戦では、老境のため戦場に立つことはありませんでしたが、戦争に反対しました。
 そして、ナチスドイツ支配下でヨーロッパ各地に生じた民族的憎悪と虐殺の事実に直面しました。
 戦争とは石と同じように、無遠慮で執拗に人間たちに圧おしつけられている事実です。
 石は情け容赦なく存在する、石は私たちの同意を必要としません。
 厳然としてそこにある事実たる石を前に、純然たる理念の絶望的な弱さの直視から出発します。
 人々がこの理念の方に向けて、石から離れる一歩を踏み出すことを願い告げるといいます。
 アランは生涯独身を貫いていましたが、1945年に77歳のときかつての恋人と再会して結婚しました。
 そして、1951年に83歳で亡くなりした。
 数々の教室や、より広く人々に哲学や科学を講じる民衆大学などで、終生、教師であり続けました。
 アランは、短く、一見とてもシンプルとも思える言葉で、自分の哲学を伝え続けました。
 一つの主題ごとに便箋2枚ほどの言葉で書かれるプロポは、手紙のように読者に話しかけました。
 しかし、語り続けた言葉は、甘くやさしいものばかりではありませんでした。
 正義や真理は最も強いものなどと、決して言ってはならないといいます。
 現実離れしている理念が、それ自体で最も強いものとしての力を持つことはあるわけありません。
 美しい理念と私たち人間の関係は、決してそんなに都合のよいものではありません。
 だからこそ私たちは、幸福であろうとしなければなりません。
 いま現実としてないものだからこそ、それであろうとします。
 いつでも、すべての力を振り絞って私たちはそれを求めなければなりません。
 「アラン?彼はいま煉獄にいるし、おそらくはしばらくの間そうだろう。」

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Last updated  2025.10.11 10:10:26
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