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先に、私は以下のようにいいました。”(シュルレアリスムにおいては)現実そのものを「超現実」に変容させることが重要なのであって、その契機を与えてくれるものであれば、その方法や技術は何だっていいわけです。”現実そのものを「超現実」に変容させる手段のとして、「デペイズマン」(本来あるべき場所から物あるいはイメージを移動させて、思いがけない別の場所に配置する)とか「コラージュ」(既成の図版の一部を切り取って貼りこむこと)とかいった方法があるわけですが、これは合理的・合目的的に配置または構成された物事の、【空間的属性】を変化させるものです。そのことによって、思いがけない現実、すなわち「超現実」が出来するというわけです。他方で、【時間的属性】を操作して、「超現実」を出来させる方法があります。よくあるのが、過去のものと現在のものを同時に配置するといった具合に、物事に必然的に備わった時制(時代)を無視して作品を構成するものです(通時態から共時態へ)。また、我々が生の肉体では経験しえないような時間を導入して現象や物事を提示することによっても、思わぬ効果(すなわち「超現実」としての効果)がえられることがあります。上に掲げたのは、上田薫氏による『なま卵 B』という作品です。ちょっと見には、単に生卵を割ったところを捉えただけの作品です。このような瞬間は現実には確かに存在しますが、我々は生の肉体という制限の基では決して経験することができない、つまり肉眼では視覚的に捉えることができないものですね。できるのは、絵画か写真のみです。これは絵画としては特別な作品ではないのですが、我々の心に強烈に訴える何かがあります。その「何か」については、ここでは敢えて述べませんが。上田薫氏の作風は「スーパーリアリズム」と称されていますが、私の眼からすれば、【時間的属性】をちょっと操作することによって現実そのものを「超現実」に変容させた見事な例で、シュルレアリスム以外の何ものでもありません。ちなみに、「スーパーリアリズム」と「シュルレアリスム」は、フランス語と英語の違いはありますが、語句の意味は全く同じです。ただし、芸術上の意味が異なります。スーパーリアリズムは、超写実主義とでも称すべきもので、写真と殆ど変らない絵画のことです。シュルレアリスムは、多少とも現実離れした要素がどこかに含まれます。まあ、細かいことを言いますと、スーパーリアリズムは「スーパー・リアリズム」、シュルレアリスムは「シュルレアル・イスム」なのですが。この辺は、本日記の冒頭で説明してあります。しかしながら、「美術の理性化」に対するアンチテーゼという、共通するモチーフを有します。シュルレアリスムは現実との接点を失わないことが一つの特徴なのですが、その特徴を極限化したのがスーパーリアリズムということになりましょうか。
Jan 30, 2004
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『まぼろし』(2001年 フランス)。監督は気鋭のフランソワ・オゾン、主演は『愛の嵐』(1973年 イタリア リリアーナ・カバーニ監督)のシャーロット・ランプリング(56歳)です。ストーリー:マリー(シャーロット・ランプリング)は毎年夏になると、夫のジャン(ブリュノ・クレメール)と共に海辺の別荘に滞在していた。 しかし、ある日二人で浜辺に出かけ、マリーがうたた寝をしている間 にジャンの行方がわからなくなってしまった。警察に捜査を依頼するも 見つからず、マリーはそのままパリに戻るはめになった。失踪から数カ 月たってもなお夫の不在を受け入れることができないマリーは、友人らの前で あたかもジャンがその場にいるかのように振る舞ったりする。そして、ジャンの「まぼろし」がしきりにマリーの前に現れる。果たし てジャンは事故にあったのか、それとも自発的に彼女の元を去ったのか…。 ある日突然、25年連れ添った夫を波にさらわれ失くしてしまった婦人が、夫の突然の不在を受け入れられずに、時に錯乱し、現実から浮遊した狂気ともいえる日々を送ります。そして、どうしようもない現実に直面し、ためらいながらも希望を失意に、失意を受容に変えることを試みていきます。そのような中年女性の心の内面の揺れや葛藤を描いた映画で、徹底的にナイーブかつ官能的な作品です。・軽い、重くない男どもこの映画を観たのは日曜日だというのに、なんと観客(20人ぐらい)は私以外はすべて女性でした。映画館につきもののカップルさえいなかった。日本の男性諸君には、こういった類の映画はあまり受けないようですね。そう思っていて『まぼろし』のパンフレットをみたら、脚本家の筒井ともみさんが以下のように述べています(「豊穰たる孤独」)。”まず、私はこの映画を見て、とても羨ましく思った。理由はふたつ。ひとつはこんな女の、魂の領域を見つめようとする映画が作られたということに。もうひとつはシャーロット・ランプリングという女優が存在すること。私自身、『まぼろし』とテーマがリンクするような映画の企画をずっとあたためている。もう十年位前から。それは須賀敦子さんの作品、というより、彼女が最愛の夫ペッピーノを突然失くしたあと、二十年の孤独の時を経て作家として文章を書き始めるまでの、魂の軌跡を映画化したいと願ったのだ。「生きていくことほど、人生を癒してくれるものはない」。この須賀さんが記したことばは、『まぼろし』の主人公マリーが到達する心境でもある。でも、この企画の成立はむずかしい。信頼できる(と思われる)映画制作者やTV制作者にもちかけても、彼等から返るのは「そんな高尚で上品なもの、誰が観るの。当たりっこないよ」。そればっかり。どうしてそんな風に決めつけてしまうの?日本の男たち(全部とはいわないが)には成熟が足りない。だからひと筋縄ではいかない大人の女の、魂や肉体について興味が持てない、持とうとしない、面倒くさい、恐れさえなしている。老いや不安や孤独について係るなんてもっと嫌なのだ。映画制作に携る男たちにも、いつまでコミック原作やテレビ的なものにしがみつき、若いターゲットに媚を売るつもりなのだろう。もちろん、この国の男が成熟しないのには、女の側にも責任がある。成熟するというのは決してたやすいことではないのだから、その複雑で困難な状態を引きうけることを女たち自身も避けているのだ。だから大人の映画がなかなか生まれない。そんな困難を回避しようとしている女たちにこそ『まぼろし』を見てほしい。” 「日本の男たちには成熟が足りない」ーーーー確かに、その通りかもしれません。そして、映画では、日本の男に限らず「世の中の男たちの殆どは、成熟が足りない」と訴えているようにも思えます。それを示唆するのが、マリーの以下のセリフです。”何か違うの。あなた軽いんですもの。”これは、夫を失ったマリーが知り合った、ヴァンサン(ジャック・ノロ)という男との情事の最中に、突然笑いだしながら吐くセリフです。後にも、マリーは、「もう自分のことを考える時だ」「真実を知りたいんだ」というヴァンサンに向かって、以下のように冷たく言い放ちます。”真実を知りたいの? あなたは軽いのよ。”上の二つの「軽い」という言葉の意味なんですが、パンフレットで泰早穂子さんが以下のように解説しています(「海の記憶」)。”最初の台詞は、ヴァンサンの体重の軽さに対して、馴れていないのと、マリーはつけ加える。がっしりとしたジャンと小柄なヴァンサンの肉体の相違をまざまざ感じたマリーは、笑ってしまった。二回目の台詞は軽い(レジエ)のではなく、重さ(ポア)である。あなたは重くないというフランス語独特の云い回しを、日本語としては前の台詞に合わせることで、強調したのであろう。とはいえ、重くないとは、力量がない、器ではないという意味が含まれていて、もはや肉体だけの域を越している。”つまり、ヴァンサンは、肉体的に軽く精神的にも重くないとマリーから拒絶され、せいぜいがジャンを補間するような存在にしかなりえなかった、ということです。つまり、現実(生きているヴァンサン)のほうが幻想(死んだジャン)より軽かった、重くなかった、ということです。・「喪の仕事」この作品は、愛する者を失った人間が、しかも遺体が見つからない状況で、どうやって「喪の仕事」をなしえるのか、また、周りの人間はそれをどうやって助けることができるのか、ということがテーマの一つです。その「周りの人間」の側からは、ヴァンサンがエース的存在として現われるのですが、結局、彼は古典的な恋愛映画にありがちな主役(傷を癒す救済者)にはなれなかったわけです。つまり、マリー自身が一人でジャンの死と向き合うわなければならなかったわけです。周りの人間にできることはといえば、せいぜいが見守ることであり、迂濶に遺族の内面に踏み込むべきではないーーーそのことを理解できずに、男として女の内面に踏み込もうとして拒絶されたのがヴァンサンでした。ヴァンサンとは男一般の象徴であって、その彼に投げかけられたのが「軽い」「重くない」という言葉。つまり、「世の中の男たちは、成熟が足りない」と言いっているのです。 そして、彼女をして(拒絶していた)ジャンの遺体の確認に向かわしめたもの、それはジャンの母(義母)つまり結局は女だったのです。マリーは義母が暮らす養老施設を訪れ義母と相談するのですが、二人の間で壮絶な会話が交され、最後にはお互いに「精神病院へ行け」というような言葉を浴びせあって別れてしまいます。マリーとジャンの間には子供がいなかったことと合わせて、「家族」というものについて考えさせられるシーンでした。この会見のあと、マリーは遺体確認に向かうことになりますが、あたかも、「息子の病気(抑うつ傾向)のことは知っていたわよ。自殺でもなく、あなたに飽き飽きして失踪したのよ」という義母の言葉に対抗意識をもやし、それを否定すること自体が目的であるかのように。・分身ないしは鏡としての義母この義母、私には、マリーの分身か鏡のように思えます。つまり、マリーは義母の言葉や振る舞いのうちに自分自身をみているのです。例えば、義母は「ジャンに抑欝傾向があったことを知っていた」と誇らしげに言いますが、マリーにその根拠を問われて「母親だから当然です」としか答えません。つまり、これは義母のハッタリなんです。これ以外にも、義母はマリーとの会話でジャンの母親であることをしきりに強調します。他方、マリー自身にしても、ジャンの妻という立場に言わば安住して、義母と同様に、ジャンのことを全て分かったつもりでいたのです。しかし、ジャンの「蒸発」後、ジャンが抑欝であったことをはじめて知って、マリーは愕然としていたところでした。つまり、ジャンという人間の理解度において、義母とマリーには大した差がなかったのです。マリーは、そのことを義母を通じて痛感させられたのでした。マリーの目の前の義母は、徹底的な「老いの醜悪」として描出されています。まるで、マリー自身の今の姿を鏡で見せられているかのように。その現実(=醜さ)を振り払おうとするかのように、マリーは遺体確認に向かうのです。マリーは、遺体安置所の係員の心遣いを無視するかのように、腐乱した遺体を自分の眼で敢て確認するのですが、マリーをしてそこまで冷徹に行動せしめたのは、義母(すなわち、それまでの自分)への対抗意識に他ならなかったのではないでしょうか。 ・移行対象精神分析の分野には「移行対象」という言葉がありますが、斎藤環氏が同パンフレットで以下のように説明しています(「喪の仕事と移行対象」)。精神分析的には、子供は全て、母親との間にはぐくまれた幼児期特有の幻想世界の住人ということになります。そこへ、父親という現実的な他者が介入してきて、子供は少しずつ現実感覚を磨くようになります。しかし、それは子供にとっては苦痛なことで、現実世界のなかに慣れ親しんだ幻想の切れ端を持ち込もうとしますが、例えばそれは人形であったり、雑巾のようなタオルであったりします。このような「自我がしみついた対象」を「移行対象」と称します(by ウィニコット)。そして、このような「移行対象」は、子供が幻想から現実へと移行している時に、その橋渡しをしてくれる重要な存在なのです。マリーはジャンを失くしたあと彼の「まぼろし」をよく見るのですが、彼女にとって「まぼろし」は「移行対象」であったといえそうです。マリーは、まるでジャンがまだ生きていて傍にいるかのように振る舞い、周りの人間を困惑させます。その行為は、周りの人間からすると錯乱や狂気と映るわけです。しかしながら、この種の錯乱や狂気は、精神的な回復すなわち現実を受け入れる過程において助けとなる「移行対象」を求める行為の一種と理解できます。上で家族についてちょっと言及しましたが、肉親を失した場合、家族の一員の誰かが一種「移行対象」となる場合があります。夫を失した場合の子供なんかがそうですね。では、そのような「移行対象」が無い場合は?というと、それが正にマリーの立場で、彼女が(無意識に)選択したのが夫の「まぼろし」だったのです。そして、この映画は、マリーという人間を舞台にして、現実と幻想(まぼろし)とがせめぎ合いを繰り返すことでストーリが進行します。マリーが心地よい幻想(まぼろし)を見い出し、束の間そこに安住するのですが、やがて厳しい現実が否応無しにマリーを襲ってきます。それでも、何とか幻想の場を見い出しマリーは一人夢にひたる。そこへ、また現実が・・・。これの反復なのです。 そして、ラストシーン。マリーは、海辺の砂を手ですくって泣き濡れ、ジャンの死を現実として受け入れたと思えた直後、それでもやはり幻想(まぼろし)に向かってつたない足取りで海辺を走っていきます。”人間は、幻想なしでは生きる意味を見い出しえない存在である。”この映画が訴えたかったことは、こういうことだろうと思います。・老いちなみに、ランプリングは当時56歳。”私から年齢を奪わないで。一生懸命に生きて、働いて、ようやく手に入れたのだから”(メイ・サートン『独り居の日記』)美貌とは外面としての美、すなわち仮面ですね。その仮面をはがすと、否応無しに内面がさらけ出されてしまいます。この映画では、マリー(シャーロット・ランプリング)の老いというものが容赦なく描出されています。つまり、仮面を徹底的にはがしにかかっているわけです。内面的な美は、現実と幻想(まぼろし)との狭間で磨かれていくものですが、そのためには「年齢」を経ることこそが不可欠なのです。シャーロット・ランプリングの老いは、まさにそれにピッタリでした。
Jan 7, 2004
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1999年、アメリカ、ノーマン・ジュイソン監督、デンゼル・ワシントン。冤罪で投獄され、半生を刑務所で過ごさざるをえなくなった黒人ボクサー(ルービン・カーター)の実話を描いたヒューマンドラマです。ルービン・カーターのニックネームは「ハリケーン」で、大ヒットしたボブ・ディランの『ハリケーン』という曲(ジャック・レビィ作詞)は、彼の冤罪を世に訴えた歌でした。*******************1966年6月17日、ニュージャージー州パターソン。ボクシングのウェルター級チャンピオン、ハリケーンことルービン・カーター(デンゼル・ワシントン)は強盗殺人事件の犯人として検挙され、翌年終身刑を宣告された。すべては彼を幼年時代から知る仇敵の刑事デラ・ペスカのでっちあげ捜査によるものだった。ハリケーンは、収監後も囚人服の着用を拒み、無罪を主張するため自伝を執筆に勤しむのだっだ。74年、出版された自伝『The 16th Round』は反響を呼び、ボブ・ディラン、モハメド・アリら著名人が釈放活動に乗り出した。しかし、2年後の再審でも有罪判決が下り、彼の存在は次第に世間から忘れられていった。やがて、カナダのトロントに住むレズラ・マーティンという黒人少年が、古本市で見つけたハリケーンの自伝に感動し手紙を送ったことがきっかけで、再び希望が湧き上がってきた。レズラの保護者であるリサ(後にハリケーンと結婚)、テリー、サムら3人もレズラに賛同し、ハリケーンの再審・釈放運動に立ち上がった。85年11月7日、連邦最高裁判所で、サロキン判事は再審の有罪判決を覆して、ハリケーンの即時釈放を認める判決を下した。*******************「実話」と称しながらも、そこは映画ですから、若干の修飾や創作はつきものです。例えば、ハリケーンの再審運動に立ち上がったカナダ人は8人、彼が少年院を脱走したのは17才の時 (入所した6年後) 、実際には囚人服を着用していたこと、また、感化院に再収監された後、自暴自棄に陥り女性のハンドバックをひったくった上、ふたりの男に暴行を加えたことで3年~7年の不定期刑を言い渡されトレントン州立刑務所に収監されたこと、など。しかし、問題の強盗殺人の件が完全に冤罪であったことは、紛れもない事実です。ハリケーンの非凡なところは、刑務所のなかにあっても精神性を失わず、むしろ読み書きを磨くことによって、自らの冤罪を訴える本を書いたということですね。彼は肉体の自由を奪われながらも、精神の自由は頑として守りとおしたのです。そして、彼の本が遂には世の中を動かしたわけです。彼の本の題名は『 The Sixteenth Round ( 第16ラウンド ) 』ですが、ボクシングの試合は15ラウンドまでです。16ラウンドとは、彼の冤罪をはらすための「裁判闘争」を意味していたのです。”監房の中でも、心の中でも俺は生きていない。精神と魂の中だけで生きているんだ。救いを求め希望は膨らんだが幻に終わった、枯れ草がチリとなって消えるように。今は何も期待せず、何も求めてはいない。””明日もなく、自由もなく、正義もない。最後には、この刑務所も消え、ルービンも消え、カーターも ・・・、残るのはハリケーンの名だけ。その後には、永遠の空白だけが ・・・。”再審への道が閉ざされ、支援運動も下火となって、虚無に捉われた彼は上のように書いているのですが、彼は宗教関係の本も多数読みこなしていたそうです。ちなみに、映画の中で彼の弁護士が「多くの支援者がいたが、みんな結局は裁判の長さと困難さに負けて離れていった・・・」と語るシーンがありますが、これは、ボブ・ディランら、かつての支援者に対する皮肉に他なりません。そして、釈放が決まった後、ハリケーンはニューヨークのホテルで以下のような演説を行ったのでした。” ・・・ あるとき、わたしはチャンピオンを争うプロボクサーでした。つぎの瞬間、そしてそれからの20年間、わたしは3人の殺人犯としてののしられ続けました。それからつぎにはあやまって投獄された無実の男になったのです。さて、こうした事実をわけがわかるように説明できるものなら、やってみてください。とてもわたしにはできません。あまりにめちゃくちゃすぎて!””「 ルービン、怒っていないの?」 その質問に答えて、わたしはこういうでしょう。結局何もかもすんだことだと。29歳から50歳までの、わたしの人生のもっとも生産的な時期が奪われたという事実、自分の子供たちの成長を見守ることを許されなかったという事実からすれば、わたしには怒る権利があると思いませんか? 実際のところ、怒るのはとてもたやすいことです。”” ・・・ わたしが人生で学んだことが何もほかにないとしても、怒りはそれを抱いた人を疲れさせるだけだということは学んできました。だからわたしにとって、怒りに人生を任せたり汚染させたりするのは、わたしを投獄して22年以上もの歳月を奪った連中に、さらにわたしの人生を蹂躙させるにひとしいのです。いまわたしが怒りに身を任せたら、彼らの犯罪に加担することになるのです。わたしがそれに屈すると思う人がいたら、まだ未熟で、経験不足だと言わざるをえません。” ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ノーマン・ジェイソンといえば、『シンシナティ・キッド』(1965)、『夜の大捜査線』(1967)、『ジーザス・クライスト・スーパースター』(1973)等、大作とはいえませんが印象に残る作品をコンスタントに世に送り出してきた監督です。ノーマン監督の最高傑作といえば、私は即座に『夜の大捜査線』(シドニー・ポワチエ、ロッド・スタイガー)をあげます。人種偏見が強いミシシッピーで、地元の白人警官ギレスビー(ロッド・スタイガー)と、たまたまそこを通りかかったフィラデルフィアの黒人の凄腕刑事ディップス(シドニー・ポワチエ)が、絶えず衝突しながらも協力して殺人事件を解決するというストーリーです。ラストで、フィラデルフィアに帰るディップスをギレスビーが駅で見送るシーンは、まさに感動ものでした。この映画で、ロッド・スタイガーはアカデミー主演男優賞を受賞しています。実は、『ザ・ハリケーン』で、(最後に釈放を言い渡す)サロキン判事を演じているのが、ロッド・スタイガーです。厳格さや冷静さの反面、ある種のユーモアや人間味を感じさせる演技力は健在でした。この映画の脇役でもう一人印象に残ったのが、刑務所の看守ジミー・ウィリアムズ(クランシー・ブラウン)です。クランシー・ブラウンは看守役が似合うようで、『 ショーシャンクの空に』(1994、アメリカ、ティム・ロビンス主演) でも個性的な看守を演じていましたね。 主演のデンゼル・ワシントンはもちろん熱演かつ好演でしたが、脇を固めるこれら俳優陣の、個性的でありながら抑揚を効かせた演技も見どころの一つです。
Dec 26, 2004
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では、映画の内容を紹介しながら、感想をつづってゆきましょう。クリスマス前後のニューヨークが舞台。医師のビル・ウィリアム・ハーフォード(トム・クルーズ)と、アートギャラリーのオーナーとして失敗した経験をもつ妻アリス(ニコール・キッドマン)は、結婚して9年目。7歳になる娘ヘレナをもうけ、瀟洒なアパートメントに暮らしている。つまり、中流WASPの都会型家族の典型として、二人は何不自由なく暮らしている・・・ようにみえる。映画のオープニングは、身体にぴったりした黒のイヴニング・ドレスを着たアリスの後姿ではじまる。彼女のドレスが床に落ち、裸体がむきだしに。ここで、見開いた観客の目が釘付けになる(”Eyes wide”)。次の瞬間、画面が真っ暗になり(”shut”)、次いで「EYES WIDE SHUT」のタイトル・カードが表れる。そして、ビルによる心の闇(潜在意識、無意識)への彷徨(ODYSSEY)がはじまる。**************何不自由のない幸せそうな夫婦。しかし、その確信が冒頭でいきなり揺らぐ。場所はバスルーム(この後にも、バスルームのシーンが多数登場する)。パーティに出かける二人は準備に余念がない。眼鏡をかけたアリスが、自分はどんな風にみえるか、髪型はどうかとビルに尋ねるが、そのたびに(鏡に向かった)ビルは彼女に振り向きもせずに「完璧」「素適だよ」「奇麗だよ」と素っ気なく答える。一見すると凡庸なシーンだが、表面的な愛情や幸福の下に隠された無関心を描くことによって、以後展開される潜在的悪夢(彷徨)のほのめかしとなっている。「いいわよ、いきましょ」アリスが眼鏡をはずす。すると、それまでのインテリっぽさや、くたびれた主婦といった雰囲気が消え、妖艶な表情へと一変する。二人は出かける前に、ヘレナの面倒をみてくれるベビー・シッターに挨拶をするが、ビルはベビー・シッターの名前さえ知らない。パーティは、ビルが日頃診ている金満家ヴィクター・ジーグラーが主催した、盛大なプレ・クリスマス・パーティだ。各界の有名人が集うが、ジムの知り合いは、ジーグラー以外には一人もいない。ジーグラーは美しい妻とともにビル夫妻を迎え、ウィットに富んだジョークを発する。会場のピアニストはビルの友人(医学部時代の同級生)で、ビルが彼と話し込んでいる間、アリスは一人バーへ向かう。バーの入り口でシャンパンを一気に飲み干したアリスの目つきが豹変する。男を求めるメスの目に。アリスにハンガリー人を名乗る紳士が近づき、巧妙にダンスに誘う。男は知的な言葉でアリスを誘惑し二階へと誘うが、アリスは丁重に断る。ジーグラーの邸宅の紋章や、パーティ会場のバー星飾りは、「ダビデの星」を連想させるものだ。同じ頃、ビルは、押しの強い二人の美人モデルに口説かれていた。「虹のふもとへ行かない?」と。その時、ジーグラーの使いの者が現れ、ビルも急遽二階に呼び出された。優雅な音楽が流れ、つつましく笑い声が響く一階のパーティ会場から、豪華な光の装飾に飾られた階段を登ってビルは二階へ向かう。シーンは突然、二階のジーグラーの部屋(超豪華だが悪趣味なバス・ルーム)に変わるが、その部屋の様子が尋常ではない。椅子にぐったり横たわり身動きひとつしない、娼婦のような全裸の若い女性。その傍らで、ズボンをずり上げるジーグラー。アリスは、まるで、このような結末を本能的に察知して、ハンガリー人紳士の誘いを断ったかのようだ。その女性(マンディ)は、ジーグラーとの性的な出会いの最中にヘロインをとりすぎて意識不明となったのだ。ビルは、マンディを蘇生させ優しく諭し、そしてこの出来事を秘密にすることをジーグラーと約束する。家に帰り、鏡の前で抱き合うビルとアリス。パーティをはさんで、二人の内面には何か変化が起こったようだ。翌日、いつものどおり平凡な日常がはじまる。ビルは仕事に、眼鏡のアリスは家事に。その夜、今度はアリスが(バス・ルームの鏡の裏に隠匿してあった)マリファナでバッド・トリップし、二人は昨夜の経験をきっかけとして意味不明の口論をはじめる。ビルは、男たちが彼女に関心を寄せる目的はただひとつ、ファックにあるとし、対して、女は本質的に男ほど不実・不貞ではないという。ビル 「ほら、女っていうのは・・・基本的にそんなふうには考えないものだろ」アリス 「何百年も進化してもそうなわけ? そう? 男たちはどんな時でも、アナというアナに突っ込みたがるけど、女に必要なのは常に安全と安心と約束・・・あとはなんだか知らないけど」ビル 「ちょっと極端すぎるけど、そういうことだ」アリス 「男って何も知らないのね。あたしのことで一度もヤキモチ妬いたことないでしょ。どうして一度も妬かないのよ!」ビル 「君が裏切らないと知っているから」アリス 「すごく自信があるのね」ビル 「いや、君を信じているんだ」アリスは大声で笑い出し、一年ほど前にケープ・ゴットで抱いた、性的なある妄想について話し出した。それは、言葉を交わしたことさえない海軍士官と一夜をともにするためなら、家族も何も、全てを捨ててしまってもよいと思えたという内容だった。アリス 「あの朝、ロビーで初めて彼を見たわ。彼は・・・彼はホテルにチェック・インするところで、彼の鞄を持ったベルボーイの後に続いて、エレベーターのほうへ行った。彼は・・・彼は通りすがりにちらりと私を見た、ほんの一瞬。それ以上は何もないわ。でも、私はほとんど動くこともできなかった。あの日の午後、娘のヘレナは友だちと一緒に映画に出かけていて・・・・あなたと私は愛し合った。そして将来のことについてあれこれプランを練ったり、ヘレナのことを話したり、でも・・・・ひとときも彼のことが私の心から離れなかった。そしてもし彼が私をほしがったら、たとえそれがほんの一晩限りのことでも、私は何もかもすべてを投げ出すだろうと思ったわ。あなたも、ヘレナも、私のクソったれな全未来をも。何もかも。でも奇妙だった。だって同時にあなたが、これまでにないほど愛おしくなったんですもの。そして、あの瞬間、あなたへの私の愛は、優しく、しかも切なかったわ。その夜は一晩眠れなくて、翌朝起きた時はパニックだったわ。彼がいなくなることが恐かったのか、まだいたらと恐れたのか。でも夕食の時、彼は消えていたの・・・彼はいない。そして、私は、ほっとした」****************このアリスの告白(妄想)がバッド・トリップ中になされたことに着目して、この告白内容は一種の夢体験であると解釈してみよう。では、上のアリスの「夢」をどう解釈したらよいのであろうか。フロイトの夢理論の基本は、「夢は願望充足である」というテーゼに基づいている(願望充足説)。睡眠による自我活動の低下とともに、心的過程の退行が起こり、抑圧されていた願望が夢で再現されるとするわけである。夢の機能が睡眠を保護することにあるとすると、睡眠を妨害するものは、充たされないままで残っている願望である。だから、夢は願望を(幻覚的に)充足することで、睡眠を保護する機能を果たすわけである。 上のアリスの「夢」を、このような単純な願望充足とすると、無意識の中に封じ込められていた不倫願望という情動(=性的欲求、リピドー)が解放された、ということになるであろう。しかし、上のアリスの「夢」は、そのような単純なものであろうか? 単なる願望充足の「夢」なら、アリスはどうしてパニックになったり、恐ろしくなったりしたのであろうか? 誰にも経験があるように、夢には、単なる「願望充足」とはとても言えない嫌なものもある。遅刻しそうになったり、殺されそうになったり、試験で答えがわからなかったり、破滅しそうになったりーーーそれらを「不安夢」とか「恐怖夢」と称する。自己の破滅や家庭の崩壊を予感させる、上のアリスの「夢」も正にこれである。これらの夢のメカニズムを分析するために、フロイトは、夢には、潜在的な夢思考(【潜在思考】)と、顕在的な夢内容(【顕在内容】)とがあるとし、両者を区別した。そして夢の潜在思考は、そのままでは夢内容になることはなく、自我による検閲をうけて、偽装されて、夢内容(顕在内容)となって現れてくるとした。よって、本当の願望が何なのかを明らかにするためには、常にこの潜在的な夢思考について考えなければならない。夢の顕在内容だけからでは、直ちに夢の意味するところについて、正しくとらえることはできない。 自我による検閲【潜在思考】 ------------->【顕在内容】そこで、上のアリスの「夢」を顕在内容とし、隠された潜在思考を探ってみよう。アリスの不倫願望を顕在内容とすると、これは、ビルと刺激的に交わりたくてしかたがないのだ、という無意識の欲求(潜在願望)の現れである、という解釈が成り立つ。。しかし、その潜在願望は直接夢の内容として現れるわけではなく、自我による「検閲」を受けて、上のような顕在内容として現れているわけである。その「検閲」自我とは、WASP的道徳観というものではなかろうか。ともあれ、キューブリックは、私に対して、はやくも以下のような謎を投げかけたのだ。・アリスの本当の願望は、海軍士官へ向いているのであろうか、それとも、ビルに向いているのであろうか?アリスの「夢」の内容が単なる願望充足の類なら前者、「夢」の内容は健在内容であって深層には潜在思考があるとすると後者ということになる。
Jul 14, 2004
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