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私の人生で、一番長い1年だったかも。★1989私、まだ21歳。念願のご懐妊で、ウキウキ結婚準備。この時とばかりに、母親も頑張っていました。殆ど、私の希望通りの結婚式に決定。ここで、忘れてならないのが父方の祖母。内孫第一号で、とても大事に育ててくれた。幼少期はほとんど、ババ子でした。ババが小さい頃にしてくれた、戦時中の話ババが教えてくれた家事のあれこれ。忘れられない。母が離婚して出て行ってから、とても支えてくれた。困ったときには、助けてくれた。私には、黒い髪が似合うと褒めてくれたババ。お金を無くしたら、そっと新しい財布とお金をくれた。年老いてからも、脊椎損傷の父を気にかけていた。父の行く末を心配していた。そんなババが、病気で(後に膠原病と解った)入院してから少しずつおかしくなった。ボケが始まったのだ。けれど、みんながお見舞いに行くと、必ず父の心配をした。私が行くと、「お父さんが心配だから早く帰れ。」と言った。そんなババが一番私の妊娠を喜んで、産まれる日を待ち望んでいた。ババは、結婚式に出席できない。父は、皆に迷惑がかかるからと、出席しないと言った。どちらも、しかたなかった。5月結婚式美容院で、お嫁さんになった私は、父の待つ自宅に向かった。父は、いつものように横たわり何も言わなかった。「行ってくるね。」「おう。」会話はこれだけ。他に何も言えなかった。それから、ババの入院している病院に出かけた。ババは、車いすに乗り、玄関で待っててくれた。ババと、手をつないだ。丸くて柔らかいそして小さな暖かい手の感触は今でも忘れない。にこにこ笑顔のババだった。最後まで私の結婚式に出たがっていたけど、無理でした。結婚式後、新婚旅行から戻り聞いた話。父は結婚式のビデオを見ながら、泣いた。「結婚式に出れば良かった。」と。父の近くにアパートを借りて、毎日父の所に通った。朝から夕方まで、父の世話をし、夕方から妻に変身の毎日だった。お腹の月子は、ちょっと早く出てきそうにはなったけど順調でした。8月になり、私も臨月。ババの所にもなかなか行けず、父の所に通う毎日。ババは、日に日に弱りもう長くない様子でした。ボケながら私の子どもが見たいと何度も何度も話していた。従兄の奥さんが、私より少し早く出産していたのでその赤ちゃんを、私の子として見せてあげようか?親戚中でそんな相談をしていたらしいが結局、騙すことは止めようと、なったらしい。その話、ババが亡くなってから聞きました。8月末予定より少し遅れて、月子出産。3600gの元気な子供。陣痛10分おきから、11時間かかった。死ぬかと思った。妹から、「窓側の不細工な方が、まさか!姉ちゃんの子供じゃないよね。」なんて、言われたけど。けど、女の子は小さい時に不細工な方がいいらしい。。?今の月子は、人並だけど愛嬌があって可愛いよ。育児は、楽しかった。若いから体力抜群。母は、毎日月子の入浴の為に、父宅にやってきた。もう、ババになってる。ジジになってる父と、月子を褒めちぎる。離婚しているのに、へんな二人。自分の出産に手いっぱいで、ババの事を忘れていた。なんて、ババ不幸なのだろう。私が月子と退院して1週間後、ババは亡くなった。今日は、ババの所に行こう。そう思っていた日。最後まで月子が見たい。と話していたそうだ。ババには、何もしてやれずそして、月子を見せてあげれなかったことが人生1番の後悔です。ババの病院に着いた時には、まだ温かだった。もう少し、早かったら。もう1日早かったら。。ババの枕元で、月子を紹介した。ババが目を開けてくれることを願いながら・・帰って父に報告。父は泣いていた。初めてみる父の涙だった。父もババをとても大事にしていたから。毎年、ババの命日になると、思い出す。「お父さんが心配だから、早く帰れ。」「私の産んだ子供が見たい。」この言葉。ババ私、お父さんを大事にするよ。月子をちゃんと育てるよ。安心してね。
2007年08月23日
父親のこと。。私の父は、もう36年殆ど寝たきりです。交通事故で、頚椎損傷してからベットと車椅子の生活。厳しかったけど、とてもユーモラスで素敵な人です。毎年父の日には、アピールしてました。私が中学生の時には、朝起こされると天井に「今日は父の日。」と紙に書いてはってありました。^^どうやって、貼ったの?父は、箸が使えずフォークで食事をするほど手が不自由です。寝たきりの父は、長い竹の棒でテレビのボタンを押したりしていました。その父が、文字を書いて、紙を竹の棒を使い天井に貼るのです。呆れるような、おかしいような・・そんな父だから、父子家庭でも生活保護の貧乏でも私は明るくやってこれたのだと思います。けれど、父はとても厳しく怖い存在でした。足が不自由なので動くことが出来ませんから叱られても、追いかけてきて叩かれることもありません。けれど、父が怖くて、父の言う事は絶対でした。学生時代は、家事もあったので門限は5時でした。勉強の事を、とやかく言う事はありませんでしたが外泊、お友達のおうちに遊びに行く。これは絶対に禁止。「なにか、問題が発生した時に、自分が対処してあげられない。」これが、父の理由です。今思えば、ごもっとも。。ですが、当時は「なんでよ==。」でした。お年頃になって、彼氏から電話があっても「そんな子はいません。」チン・・切られてました。父の頭元に電話はありました。。厳しかったけど、貧乏でクリスマスプレゼントも誕生日もなかったけど手がかかり、辛い介護もあったけど、大事に育てられたと感じています。父は、私にとってかけがえのない存在です。生きている限り、大事にしたいと思います。以前「お父さんの死ぬ所を見たくないから、私は先に死ぬ。」なんて話しましたら「お前の子供はどうするのか?」と言われました。そうですね。私も親でした。子供から、大事にされるような親になります。父が常々言っていた事。「人は一人では生きていけない。」「人を大事にしなさい。」父はとても周りの人を大事にする人でした。だからか?人からも大事にされてます。私も、少しずつ真似したいと思います。
2007年08月22日
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