全351件 (351件中 1-50件目)
先日、マンガで、進撃(しんげき)の巨人(きょじん)を読みました。この物語は、題名(だいめい)の通り、「進撃の巨人」が主人公であり、進撃の巨人が、物語の中心(ちゅうしん)にあります。文字の通り、進撃の巨人が、どんな時でも、ともかく、「進撃」、すなわち、前進し続けることによって、ストーリーが展開(てんかい)していきます。これが、進撃の巨人が、進むことを、やめてしまったら、物語が成(な)り立たなくなるし、終わってしまう。だから、進撃の巨人が、前進し続けることは、避(さ)けることができないことであり、絶対条件(ぜったいじょうけん)であると、言えます。けれど、考え方を変えれば、これはマンガ・進撃の巨人に限(かぎ)った話しではなく、あらゆる人間、あらゆるケースに当(あ)てはまることです。その『進む』ということが、どういう意味合(いみあ)いを持つかは、それぞれの人によって、違(ちが)うと思いますが、もし、進むのをやめてしまったら、その人の『何か』が、終わってしまう。そう、言えると思います。だから、どんな人にとっても、進むということは、必要不可欠(ひつようふかけつ)なことであり、絶対条件だと、いえます。進むということ、前進するということは、人生のすべてといっても、過言(かごん)ではないと思います。では、その「進む」ということは、どうやって、形成(けいせい)されているのだろうか?そこに、重要(じゅうよう)な意味合いがあると思います。マンガ・進撃の巨人に戻(もど)ると、進撃の巨人は、どんな時でも、進み続ける。進撃の巨人になることのできる、進撃の巨人の持ち主(もちぬし)である、主人公のエレンは、どんなに絶望(ぜつぼう)しても、どんなに悲しくても、どんなに涙(なみだ)を流しても、それでも、前進を続ける・・・!!なぜか???どうして、進むことができたのか???それは、進撃の巨人になることができる、進撃の巨人の持ち主である、エレンが、『未来(みらい)』を、知っていたからです。進撃の巨人には、未来を見る能力(のうりょく)があり、その能力によって、エレンは、未来を見ていた・・!!ゆえに、その未来に向(む)かって、そうなるまで、どこまでも、進み続けたわけです。未来を見ていたがゆえに、どんなことがあっても、進むことが、できた。その未来があるがゆえに、どんなに過酷(かこく)でも、進むことが、できた!!!そう、言えると思います。けれど、ここに、ミソがあり、仮(かり)に、未来が見えたにしても、それ自体、確証(かくしょう)はないし、あやふやです。人が聞いたら、そんなの、妄想(もうそう)だよ!と、いうかもしれません。それを、否定(ひてい)する要素(ようそ)は、山ほど、あるわけです。まして、困難(こんなん)であれは、困難であるほど、それを、否定するのは、たやすくなります。エレンのような場合、進むのは、辛(つら)く、大変な障害(しょうがい)がともない、悲しみをふりきって進むのは、大変な精神力とエネルギーを、必要としたはずです。にもかかわらず、エレンは、進み続けた・・!なぜか?それは、エレンが、『信じていたからです!!』これが、進むことの正体(しょうたい)であり、原動力(げんどうりょく)だと、言えます。進む原動力は、『信(しん)じる』ことにある。エレンは、進撃の巨人の能力によって、未来を見て、それを、信じることによって、初めて、進むことが、できた・・!信じること・・。ここに、重要なポイントがあるわけです。だから、「信じること」は、人生においても、未来においても、夢や希望を叶(かな)えるためにも、もっとも、重要な位置(いち)を占(し)めているわけです。だから、信じることの大小(だいしょう)、信じることの強さやエネルギー、あるいは、信じるものが、どれだけ正しいか、正しくないか。どれだけ価値(かち)があるか、ないかによって、人生は、大きく左右(さゆう)されていくわけです。人は、信じるということについて、それほど深(ふか)く、注意を向け、考えようとはしないように思うけれど、実(じつ)は、興味(きょうみ)をいだき、関心(かんしん)を向けなければならないのが、『信じる』というこのなのかもしれない。では、何を信じたらいいのか?どうしたら、信じる力を最大限に引(ひ)き出し、幸せになっていけるのか?そこに、最も重要な問題が、あります。要(よう)は、エレンのように、未来を見ることができて、そのことによって、強力に「信じる力」が生(しょう)じ、その信じる力によって、どんな困難があっても、絶対に負(ま)けないで、最後まで、進むことができれば、いいわけです。そうすれは、人生を勝利していけるだろうし、幸せにもなっていけるはずです。幸せの原動力も、やはり、「信じる」ことから始まるということです。だから、単純(たんじゅん)に考えれば、良い意味で、進撃の巨人に匹敵(ひってき)するような、信じる力をもたらすものがあれば、幸せになっていけるわけです。信じるといっても、間違ったものを信じたり、不幸(ふこう)になるものを信じたら、当然、幸せになれるはずがありません。信じるというと、宗教(しゅうきょう)を連想(れんそう)しますが、日本においても、一般的(いっぱんてき)に、それらの宗教が、観光(かんこう)や縁起(えんぎ)もの、儀式(ぎしき)や正月の行事くらいにしか考えられていないのは、それらの宗教が、現実問題として、なんの力もない!ということです。力がないだけならいいのですが、それらの宗教は、間違っているので、逆(ぎゃく)に、マイナスの作用(さよう)をして、人を、不幸にしてしまいます。それらの宗教は、人間の中の「幸せになる力」を弱め、不幸へと誘(さそ)い、不幸へと引きずり、結局(けっきょく)のところ、人間を不幸にしてしまいます。それが、日本の、観光(かんこう)宗教や神社信仰(じんじゃしんこう)、葬式(そうしき)宗教だと、いえます。だから、それらのものは、幸せになる「信じる力」には、なりえません。宗教というと、神頼(かみだの)みとか、おすがり信仰、区切(くぎ)りの行事のような、棚(たな)からぼた餅(もち)のようなことを連想しますが、そうではなく、エレンが前進したように、「信じる力」によって、人間が本来(ほんらい)、持っている、幸せになる力を無限に引き出し、開花(かいか)させるものが必要だ!ということです。信じる力によって、幸せになる力を、引き出す!!そのための宗教が、必要だ!ということです。宗教と考えるのがいやだったら、幸せになるためのルーティン 、幸せになるために、信じる力を引き出すルーティンと考えても、いいかもしれません。その、信じる力によって、あらゆる幸せを、無限(むげん)に引き出すルーティンが、創価学会(そうかがっかい)の人たちが実践している、ご本尊(ほんぞん)に南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、『仏法(ぶっぽう)』だと、いうことです。たとえるならば、進撃の巨人のように、あたかも、未来が見えているような「信じる力」をもたらすもの、そして、あたかも進撃の巨人のように、どんなことがあっても、幸せに向かって前進できる、無限の生命力(せいめいりょく)と希望をもたらすものが、創価学会(そうかがっかい)の『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』をとなえる、『仏法(ぶっぽう)』の信仰だということです。ここで、正しいということ、間違(まちが)っていないということ、幸せになるために価値があるということが、最も大切(たいせつ)になってきますから言いますが、信じることにおいて、本当(ほんとう)に正しく、本当に価値(かち)があり、本当に幸せになる力をもたらすものは、この、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰(しんこう)しか、ありません。進撃の巨人に戻ると、マンガの後半で、「始祖(しそ)ユミル 」という人物が、登場します。始祖ユミルは、マンガ・進撃の巨人に中で、主人公のエレンが生きている時代から二千(2000)年まえに生まれた、奴隷(どれい)の少女で、ほかの奴隷たちの悪事(あくじ)を、かばったため、王に殺されかけます。逃亡(とうぼう)の途中、多くの矢(や)を受け、死にかけますが、深い穴(あな)に落ち、有機生物(ゆうきせいぶつ)の起源(きげん)のようなものに接触(せっしょく)し、そこで、巨人の力を得て、復活(ふっかつ)します。マンガ的には、大地の悪魔(あくま)と契約(けいやく)して、巨人になる能力を手に入れたとされています。その後、巨人になる力は、始祖ユミルの子供たちに受(う)け継(つ)がれ、子供たちから子孫(しそん)へと、受け継がれます。その巨人になる能力のある人々のことを、「ユミルの民(たみ)」といい、悪魔の民として、恐(おそ)れられます。そして、始祖ユミルは、死後も、過去も未来もない、時空(じくう)を超(こ)えた世界に存在し、そこで、延々(えんえん)と、巨人を創(つく)り続け、巨人たちの能力や肉体を、つかさどっているとされています。すなわち、ある意図(いと)をもって、巨人を動かし、操(あやつ)りたかったら、始祖ユミルの存在する世界に行き、始祖ユミルと接触(せっしょく)し、「こうしてくれ!」と、始祖ユミルに願いを伝(つた)えて、始祖ユミルが、その願いを受け入れ、始祖ユミルが、それを実行(じっこう)したとき、願いが実現していくと、いいことです。そのため、主人公のエレンは、すべての巨人やユミルの民を、意(い)のままに操(あやつ)ることができるという、「始祖の巨人の力」を使うために、始祖ユミル との接触を、試(こころ)みる。エレンは、始祖ユミルとの接触を阻(はば)もうとする勢力(せいりょく)に、殺されかかるが、すんでのところで、始祖ユミルとの接触を果(は)たす。やがて、エレンの願いと思いは、始祖ユミルに通(つう)じ、ユミルは、エレンの願いを受け入れ、その願いを実行します。そして、始祖の巨人の持つ、強大な力が、動き出す。この始祖ユミルが存在している世界、過去も未来もない、時空を超えた世界に、エレンがいた時間は、永遠のように永(なが)くも感じられる。けれど、現実の世界に戻ってみると、始祖ユミルの世界にいた時間が、ほんの1秒にも満(み)たなかったことが、わかります。1秒にも満たない時間の中に、無限のように長(なが)い、ドラマとストーリー、そして、無限の価値があった!と、いうことです。思うに、もしかしたら、「祈(いの)り」とは、こういうものではないか?と、思いました。祈りといっても、棚(たな)からぼた餅(もち)のようなことではなく、創価学会の人たちが、ご本尊に、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、信じる力を、無限に引き出そうとする「祈り」のことです。確かに、南無妙法蓮華経をとなえて祈る時間は、一瞬(いっしゅん)かもしれない。けれど、そこに、未来を動かす無限のストーリーと価値が、あるのかもしれない。だから、南無妙法蓮華経をとなえる祈りには、願いを叶える力が、あるのかもしれない。ご本尊に、南無妙法蓮華経をとなえて祈る、その祈る前(まえ)と、祈った後(あと)では、表面的には、何かが、大きく変(か)わるということは、ないかもしれない。もちろん、時として、南無妙法蓮華経をとなえた後、劇的(げきてき)に何かが変わるということも、あります。けれど、普通(ふつう)は、南無妙法蓮華経をとなえた後、見た目(みため)、何かが大きく変わって見えるということは、ないかもしれない。けれど、表面的には変わっていなくても、何かが、大きく変わっている。未来という結果(けっか)が、幸せの方向に、大きく変わっていると、いえるかもしれない。だから、心が、スッキリするし、清々(すがすが)しくなる。素晴らしい歓喜(かんき)を、感じるときもある。それは、表面的には変わっていなくても、未来が幸せに変わったから、そう、感(かん)じるのではないだろうか・・。たとえば、家電(かでん)など、動かなくなって修理(しゅうり)に出すと、修理から戻ってきても、だいたい、見た目が変わるわけではない。けれど、劇的に変わっている!!なぜなら、動かなかったものが、動くようになっているのだから!それと同じように、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる祈りは、「自分の世界」という家電を、修理するようなものかもしれない。南無妙法蓮華経をとなえて祈った後は、「自分の世界」の見た目は、変わっていなくても、「自分の未来の世界」が、幸せの方向(ほうこう)に、劇的に変わっている!!そう、言えるかもしれない・・。日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)が、「日蓮が弟子檀那等(でしだんなとう)、正直捨方便(しょうじきしゃほうべん)・不受余経一偈(ふじゅよきょういちげ)と無二(むに)に信ずる故(ゆえ)によつて此(こ)の御本尊の宝塔(ほうとう)の中へ入るべきなり」と言っています。『宝塔(ほうとう)』とは、金・銀・ダイヤモンドなど、ありとあらゆる宝石、世界の美しい花や自然、素晴らしい音楽や芸術で飾(かざ)られた、地球の直径の3分の1もの大きさがある、巨大な塔(とう)で、ありとあらゆる幸せが詰(つ)まったものだと、考えられます。これが、何を意味しているかといえば、この宝塔は、「自分の生命(せいめい)」を、表現(ひょうげん)しています。「自分の生命」には、それだけスゴイ、宝と幸せが、詰まっていると、いうことです。また、その、ありとあらゆる宝石や幸せが、詰まった宝塔(ほうとう)を、文字で表現したものが、『ご本尊(ほんぞん)』でもあります。その宝塔の中に、どうやって入っていくのか?言い方を変えれば、それだけの宝(たから)や幸せを、どうやって、自分のものにしていくのか?といえば、『無二(むに)に信ずる故(ゆえ)によつて』すなわち、純粋(じゅんすい)に、信じることによって、その宝の塔(とう)の中に入ることができる。すなわち、ご本尊を、純粋無二(じゅんすいむに)に信じることのよって、ありとあらゆる宝石や幸せを、つかむことが、できる!!と、言っています。この話しは、さきほどの、進撃の巨人の中の、「始祖ユミル」の話しに、少し、似(に)ているかもしれない。信じることによって生(しょう)じた前進する力によって、始祖ユミルの世界に行き、ユミルに自分の願いを伝え、その願いが、始祖ユミルに受け入れられ、始祖ユミルがそれを実行した時に、願いが叶(かな)っていく。同じように、創価学会の人たちが、ご本尊に南無妙法蓮華経をとなえて祈る時、その「信じる力」のよって、ご本尊という、幸せと宝(たから)が詰(つ)まった宝塔の中に、自分の生命が入っていく。そして、ご本尊に願いが伝わり、自分の願いが、かなっていく!!そう、たとえることが、できるかもしれない・・。ご本尊は、功徳聚(くどくじゅ)といい、功徳(くどく)の集まりだという。功徳とは、物質的であれ、精神的であれ、この仏法(ぶっぽう)の実践によって、自分の生命に授(さず)けられる、『幸せ』という、とびっきりのプレゼントのようなものだろうか。また、ご本尊は、輪円具足(りんえんぐそく)ともいい、車輪が円を描くように、ありとあらゆる、一切の功徳が、欠(か)けることなく、そなわっている。すなわち、ありとあらゆる幸せが、欠けることなく、ご本尊(ほんぞん)の中にある!!ということです。それが、ご本尊という『宝塔』だろうか。その、ご本尊という幸せの塔(とう)には、欠けることなく、あらゆる幸せがあるのだから、自分の望む幸せも、必(かなら)ず、存在(そんざい)する!!と考えられます。ゆえに、純粋無二に、信じて、ご本尊に、南無妙法蓮華経をとなえていった時、その中に(ご本尊の中に)、自分の幸せもある!!ので、自分の願いや幸せも、当然(とうぜん)のように、叶(かな)っていく・・!!そう、表現できるのかも、しれない・・・。池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、子どもが怖(こわ)いことが起こると、「おかあちゃーん」と母親のところへ飛(と)んでいくように、母親のところへ、死にものぐるいというか、純粋(じゅんすい)というか、それ以外にないのだと言う、その一念(いちねん)で御本尊に直結(ちょっけつ)し、願っていけば、どんなことも通じます。その祈りは、かないます。と言っています。真剣(しんけん)を超(こ)えた、純粋な祈りは、ご本尊に通(つう)じ、そして、祈りは、かなっていく。それは、進撃の巨人の中で、エレンの、真剣を超えた、必死(ひっし)の願いが、始祖ユミルに通じ、ユミルが、エレンの願いを実現していったようなものです。ともかく、マンガ・進撃の巨人の中で、エレンは、進み続けた。そこにしか、活路(かつろ)はないからです。そして、その進撃するエネルギーは、強力に信じる力にあった。その信じる力ゆえに、負けなかった。信じているがゆえに、どんな絶望にも、耐(た)えた。どんな悲しみも、乗り越えていくことができた。それは、人生を勝利し、幸せになっていく道のりと同じだと思う。そう考えた時、どうしても、信じる力が、必要となる。強く、誤(あやま)りなく、最高に価値のある「信じる力」が、必要となる。その、最も、強力で、最も、正しく、最も、価値のある、最高に幸せになる『信じる力』が、創価学会が実践(じっせん)している、ご本尊(ほんぞん)に、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、となえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、いうことです。それは、マンガ・進撃の巨人の中で、エレンが、どんなに辛くても、どんなに悲しくても、どんなに苦しくても、どんなに絶望しても、最後の最後まで、前進し続けて、自分の目的を、果たしていったように・・・!!!
2025.12.01
この前、マンガで、「進撃(しんげき)の巨人(きょじん)」を、読みました。アニメの方は、途中で、頓挫(とんざ)していましたが、マンガを読んだら、また、アニメも、見たくなりました。その、マンガ・進撃の巨人の後半で、「始祖(しそ)の巨人」というのが、登場します。始祖の巨人は、始まりの祖(そ)と書く通り、全ての巨人のなかで最初に生まれた巨人、巨人の先祖(せんぞ)、巨人の大元(おおもと)と考えられます。その始祖の巨人から、進撃の巨人を含(ふく)め、超大型(ちょうおおがた)巨人、鎧(よろい)の巨人、女型(めがた)の巨人、獣(けもの)の巨人など、あらゆる巨人が誕生してきたということです。また、「始祖の巨人」は、あらゆる巨人を、肉体的にも、行動的にも、精神的にも、意(い)のままに操(あやつ)ることができるとされ、それゆえに、絶対的な力を有(ゆう)していると、考えられます。だから、進撃の巨人や他の巨人も、すごいですが、始祖の巨人は、巨人たちを、意のままに操れるので、いちばん重要(じゅうよう)で、いちばん力があって、いちばんスゴイということになります。ようするに、始祖の巨人は、いちばん最初であり、いちばん大元であり、巨人の力をつかさどる、源泉(げんせん)であり、根源の存在(そんざい)だということです。始祖の巨人とは関係ありませんが、創価学会(そうかがっかい)が実践している仏法(ぶっぽう)の言葉に、「久遠元初(くおんがんじょ)」という言葉があります。「久遠元初の仏(ほとけ)」とか、「久遠元初の生命(せいめい)」とかの使い方をするのですが、宇宙と生命の根源というか、始祖の巨人のように、いちばん最初で、いちばん大元で、生命の力の根源(こんげん)のようなものだと思います。その久遠元初の仏(ほとけ)の名前を、久遠元初の『自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)』というのですが、最も根源の法(ほう)をさとり、その力を自由自在に操(あやつ)ることのできる仏のことです。イメージとしては、ちょっと違(ちが)いますが、始祖の巨人のようであり、生命の次元(じげん)の王様のような存在だと思います。その久遠元初の仏であり、自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)が、実は、「日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)」なんです。だれもが、想像(そうぞう)しそうな、釈迦(しゃか)とかブッダとか呼ばれる「釈尊(しゃくそん)」ではないんです。釈尊は、自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である日蓮大聖人の法(ほう)、すなわち、久遠元初の生命の法則によって、その久遠元初の法則を悟(さと)って、仏(ほとけ)になったとされます。本来、上下関係はないと思いますが、位(くらい)としては、日蓮大聖人の方が、釈尊より偉(えら)いというイメージになります。なぜなら、釈尊は、日蓮大聖人の久遠元初の法(ほう)によって、成仏(じょうぶつ)したのだから。たとえて言えば、進撃の巨人が、釈尊ならば、始祖の巨人が、日蓮大聖人にあたると、思います。進撃の巨人もスゴイですが、その進撃の巨人のさまざまな力も、始祖の巨人から授(さず)かったと、いえるからです。だから、釈尊という仏(ほとけ)は、自受用報身如来である日蓮大聖人ほどは、大きな力がないと、たとえることができます。それゆえに、釈尊の仏法では、人々の心が純粋(じゅんすい)で、擦(す)れていない時代の、比較的(ひかくてき)、仏法を広めるのが安易(あんい)な時代の人々しか、幸せにすることができません。だから、現代のように、人心(じんしん)が乱(みだ)れ、悪(あ)しき思想が、はびこっているような時代の人々を幸せにする力は、釈尊の仏法には、ないんです。釈尊が死んでから、二千年後の時代のことを、「末法(まっぽう)」といいますが、この末法の時代が、人心が乱れ、悪しき思想が、うじゃうじゃと、はびこっている時代です。そして、現代が、その「末法(まっぽう)」の時代です。ですから、その末法という現代の時代では、釈尊の仏法には、なんの効力(こうりょく)もなく、幸せにする力はありません。それが、釈尊の仏法(ぶっぽう)の限界(げんかい)といえます。そして、その後の時代では、釈尊より、もっとスゴイ!もっと根源的な力(ちから)を持った仏!でないと、人々を幸せにすることは、できないんです。その時代に必要となるのが、さっき言った、始祖の巨人です。じゃなくて、イメージとしては、始祖の巨人のような存在である、根源的な生命の力を有した仏(ほとけ)。すなわち、自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である、日蓮大聖人だということです。ですから、現代では、すでに力(ちから)をなくした釈尊の仏法では、人々を幸せにすることはできず、より、大きな、より、根源的な力のある、日蓮大聖人の仏法(ぶっぽう)でないと、人々を、幸せにすることは、できない!ということです。それは、マンガ・進撃の巨人の中で、始祖の巨人が、あらゆることを可能(かのう)にする絶対的(ぜったいてき)な力を有しているように、日蓮大聖人の仏法に、どんな人心が乱れた、悪しき思想(しそう)にまみれた人々さえ、幸せにすることができる、より、大きく、より、絶対的な力がある!!ということです。ゆえに、現代では、悩みを解決でき、夢や希望、願いを叶(かな)えることのできる法則(ほうそく)は、『日蓮大聖人の仏法(ぶっぽう)』しかない!ということになります。その日蓮大聖人の生命の法則であり、宇宙(うちゅう)の法則であり、無限(むげん)の力が、創価学会の人たちが、となえている、『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』なんです。南無妙法蓮華経には、始祖の巨人のように、最も大元で、最も根源の力があるがゆえに、あらゆる悩み、あらゆる希望を叶(かな)える力がある!!ということです。それが、創価学会の人たちが、となえている『南無妙法蓮華経』です。譬(たと)え話(ばなし)にするならば、こんな感じだと思います。久遠元初の自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である日蓮大聖人が、釈尊に頼(たの)みます。「釈尊ちゃん、釈尊ちゃん、ちょっと、先に行って、仏法(ぶっぽう)を、広めてきてくれないか。」釈尊は答えます。「はい、いいですよ。でも、私は、本家本元(ほんけほんもと)ではないので、期間限定(きかんげんてい)の仏法しか広められませんが、それでも、いいですか?」日蓮大聖人は、言います。「うん!いいよ。期間限定の仏法で、十分(じゅうぶん)だよ!その後は、ぼくが、本元(ほんもと)の仏法を、広めるから!!」と、こんな感じでしょうか・・。先程、少し、話したように、また、譬(たと)え話にもあったように、釈尊の仏法は、「期間限定」なんです。その期間が、どれだけか?といえば、釈尊が亡(な)くなってから、二千(2000)年間です。その二千年は、とうに過(す)ぎています。ですから、先程(さきほど)、言ったように、釈尊の仏法には、もう、効力(こうりょく)がないんです。何の効力かといえば、それは、人を幸せにする力です。だから、釈尊没後(ぼつご)、二千年が経(た)った現代では、釈尊の仏法をやっても、なんの効力もないし、幸せにもなりせん。かえって、期限が切れているので、期限(きげん)が切れた薬(くすり)と同じように、害(がい)になってしまいます。すなわち、現代、釈尊の仏法をやったら、幸せになるどころか、不幸になってしまうということです。それが、現代、一般的に広まっている、葬式仏教(そうしきぶっきょう)であり、観光(かんこう)仏教です。ですから、お葬式(そうしき)などで、葬式仏教や観光仏教の坊(ぼう)さんを呼んで、お経(きょう)を読んでもらったところで、真実(しんじつ)を言えば、お金を払って、不幸にしてもらっているようなものです。マンガ・進撃の巨人に戻ると、やはり、最(もっと)も重要なポイントは、「始祖(しそ)の巨人」だと言えます。その始祖の巨人の力を、手に入れることが、できるかどうかが、勝敗の鍵(かぎ)になっているということです。そして、その始祖の巨人は、進撃の巨人の、以前(いぜん)の持ち主であったエレンの父が、始祖の巨人の持ち主であった王家の女性を食ったことにより、始祖の巨人を大家の女性より奪(うば)って、所有(しょゆう)していた。すなわち、エレンの父は、進撃の巨人と始祖の巨人の両方の力を、自分の中に所有していたということです。その二つの巨人の力は、エレンの父の命と引(ひ)き換(か)えに、エレンに引き継(つ)がれた。すなわち、エレンが、進撃の巨人の力も、始祖の巨人の力も、もっているということです。だから、最も重要な、「始祖の巨人」は、エレンが持っている!!ということです。そうなると、エレンは無敵(むてき)ではないか!と考えられる。なぜなら、巨人たちを、意のままに操(あやつ)ることができる『始祖の巨人』を、自分の中に持っているからです。ところが、そう、うまくはいかない・・。始祖の巨人の力を使うためには、条件(じょうけん)があり、その条件をクリアしないかぎり、始祖の巨人を持っていても、その力(ちから)を使うことができない・・。ちょうど、どんなに高価(こうか)でスゴイ武器(ぶき)や、最新鋭(さいしんえい)の機械をもっていても、使い方を知らなければ、なんの役にも立たないのと同じです。宝(たから)の持(も)ち腐(ぐさ)れと、いうものです。エレンの中に、無敵であり、無限の力である、「始祖の巨人」の力はある。けれで、その始祖の巨人の力を、使うことができない!自分の中に、その無限の力があっても、使うことができなかったら、無(な)いのと同じです。それが、エレンの状態(じょうたい)です。では、その無敵の力である、始祖の巨人の力を使うには、どうしたらいいのか。そのためには、「王家(おうけ)の血(ち)を引く巨人」と、接触(せっしょく)しなければならない!!王家の血を引く巨人が、始祖の巨人の力を使うための鍵(かぎ)になっていて、その王家の血を引く巨人と接触することによって、はじめて、鍵が開(あ)き、始祖の巨人の力を、使えるようになる。だから、エレンは、始祖の巨人の力を使うために、王家の血を引く巨人を、求(もと)めていきます。その「王家の血を引く巨人」が、エレンの腹違(はらちが)いの兄である、『ジーク 』です。そこで、エレンとジークは、始祖の巨人の力を行使(こうし)する目的(もくてき)のために、なんとしても、兄弟の接触を、果(は)たそうとします。そして、始祖の巨人の力の行使を避(さ)けようとしている、もろもろの勢力(せいりょく)と、壮絶な戦いを、繰(く)り広げるわけです。どんなにスゴイ力(ちから)があっても、使うことができなかったら、何の意味もない。どんなに大きな可能性があっても、その可能性を、出すことができなかったら、無いのと同じです。人間の中にも、無限の力は、ある。人間の中にも、無限の可能性は、ある。エレンが、始祖の巨人の力を持っていたように、それに変(か)わるような、「幸せになる力」というものが、あると、思う。幸せになる力があるということに抵抗(ていこう)を感じるにしても、どんな人でも、幸せになる可能性(かのうせい)は、ある!!と思う。たとえば、宝くじに当たって、億万長者(おくまんちょうじゃ)になることだってある。仮に、99%、宝(たから)くじに当たって億万長者になることはないとしても、だからといって、無(な)いとは、いえない。当(あ)たった人は、現実にいるのだから。ということは、人間は、幸せになる可能性を、持っている!!ということだと思う。また、そんな棚(たな)からぼた餅(もち)のような話しでなくとも、必死に努力して、運(うん)とチャンスに恵(めぐ)まれれば、幸せになる人は、山ほど、いる。ということは、人間は、やはり、幸せになる力を、持っている!ということです。それは、可能性を無限に広げれば、進撃の巨人の中のエレンが、始祖の巨人の力を持っているのと、同じようなことだと、思う・・。そして、エレンと同じように、その力を、出すことができるか、できないかが、鍵(かぎ)となる。エレンは、始祖の巨人の力を持っている。しかし、その力を、使うことが、できない・・。なぜか?始祖の巨人の力を使うためには、それを使うために、『縁(えん)』が、どうしても必要となるからです。『縁』とは、何かを起こす「きっかけ」となる対象(たいしょう)のことですが、その『縁(えん)』に触(ふ)れないかぎり、始祖の巨人という無限大の力を、使うことが、できない。マンガ・進撃の巨人の場合、その『縁』が、王家の血を引く巨人であり、エレンの兄、ジークだと、いえます。それと同じように、人間も、幸せのなる無限の力を、持っている。幸せになる、無限の可能性を、持(も)っている。そして、その、幸せになる無限の力を出すためには、エレンと同じように、『縁(えん)』が、必要となってくるんです。その『縁(えん)』とは、何なのか?幸せの縁とは、何なのか?その幸せの縁の中で、最も、強く、最も、大きく、究極(きゅうきょく)の、無限の可能性を持った、『幸せの縁』が、創価学会の人たちが、日々、祈(いの)っている、『ご本尊(ほんぞん)』なんです。ご本尊とは、仏(ほとけ)の生命(せいめい)を、そのまま表現して、書き表(あらわ)したものですが、その「仏の生命」が、根源的な幸せの力であり、最も大元(おおもと)の幸せを創造(そうぞう)するエネルギーのようなものだと、思います。人間には、幸せになる力が、ある・・!その幸せになる力を引き出すためには、『縁(えん)』が必要となる。その幸せを引き出す縁が、「ご本尊(ほんぞん)」だということです。そして、もう一つ、重要なことが、あります。幸せになる縁であるご本尊に、ただ、接(せっ)すれば、幸せの力を引き出せるかといったら、そんなことは、ありません。それだったら、まだ、簡単(かんたん)かもしれない。けれど、違います。ご本尊から、幸せになる力を引き出すためには、方法(ほうほう)がある・・!それが、ご本尊に、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、となえる!ということです。これ以外、ご本尊から、幸せになる力を引き出す方法は、ありません。南無妙法蓮華経とは、仏(ほとけ)の生命の名前です。その南無妙法蓮華経という仏の生命の名前に、そのまま、仏の生命の無限の力も、無限の可能性も、含(ふく)まれているということです。だから、南無妙法蓮華経を、となえた時、呼(よ)ばれて、仏の生命の無限の力も、無限の可能性も、出てくるわけです。進撃の巨人でいえば、始祖の巨人の力をつかうためには、「王家の血を引く巨人」に接触しなければならないが、それ以前に、自分が「始祖の巨人の力」を、所有(しょゆう)していなければならない。始祖の巨人の力を所有していないものが、王家の血を引く巨人と接触しても、何も起(お)こらない。それと同じように、自分の中に、「幸せになる無限の力」を、所有しなければならない。その幸せになる無限の力を所有するということが、『南無妙法蓮華経を、となえる』ということになるんです。南無妙法蓮華経をとなえるということは、その行動と直結(ちょっけつ)して、自分の中に、「幸せになる無限の力」を所有することに、なっていくんです。南無妙法蓮華経をとなえた途端(とたん)、自分の中に、幸せになる無限の力が発現(はつげん)し、その瞬間、自分の中に、幸せの無限の力が、所有されるんです。だから、南無妙法蓮華経を、となえないと、いけないんです。結論(けつろん)からいうと、本当の幸せを、つかみたいんだったら、南無妙法蓮華経を、となえる以外(いがい)、ありません。ほかの何をやっても、無理(むり)です。それほど、南無妙法蓮華経は、スゴイということです。マンガ・進撃の巨人に、たとえるならば、南無妙法蓮華経をとなえた時、自分の中に、始祖の巨人を、所有したことになる。進撃の巨人でいえば、南無妙法蓮華経をとなえ、始祖の巨人を所有した状態で、「王家の血を引く巨人」という『縁』、すなわち、『ご本尊』という無限の幸せを引き出す『縁』に接することによって、自分の中から、幸せが、発現(はつげん)してくる。そう、言えると思います・・・。マンガ・進撃の巨人では、最終的に、エレンは、「王家の血を引く巨人」である、兄のジークとの接触を果(は)たし、始祖の巨人の力を、行使(こうし)できるようになる。そして、エレンの目的のために、始祖の巨人の力を行使したとき、なぜだか、エレンは、少年の姿(すがた)に戻(もど)る。そして、少年の姿に戻ったエレンは、叫(さけ)ぶ。『自由だ!!!』それは、人間が持っている、本源的な、生命の叫(さけ)びだと思う。人間が持っている自由への欲求(よっきゅう)、幸せへの希望、さまざまな不幸の足かせを、取(と)っ払(ぱら)って生きたいという欲求。エレンの姿が、少年に戻ったというのは、それが、生命(せいめい)の上で、可能になったということではないだろうか・・。自由とは、なにものにも束縛(そくばく)されない喜(よろこ)びのようなものだろうか。それは、生命が、舞(ま)い上がるような感動!!おそらく、それは、生命が感じる、最極(さいごく)の歓喜(かんき)ではないかと思う。創価学会では、あるいは、仏法では、『南無妙法蓮華経は、歓喜の中の大歓喜(だいかんき)!』だと、いう。それは、言い方を変えれば、『自由の中の、最大の自由!!』ということだと思う。南無妙法蓮華経をとなえた時、自分の生命が、解(と)き放(はな)たれる。それは、幸せの力を、自由につかえるようになる!ということではないだろうか。マンガ・進撃の巨人にたとえれば、始祖の巨人の力を、使えるようになる。始祖の巨人の無限の力を、行使できるようになる。すなわち、幸せの無限の力を使って、さまざまな悩みを解決し、さまざまの夢や希望をかなえ、無限に、幸せを、つかんでいける!ということだと思う。だから、南無妙法蓮華経は、「歓喜の中の大歓喜」なんだと思う。ご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえる時、自分の中から、久遠元初(くおんがんじょ)の生命の力が、湧(わ)き上がり、その生命の力を、使えるようになる。そして、自分の生命は、少年や少女が、夢を、かなえるような生命状態に、変(か)わっていく。歓喜の中の大歓喜は、そんな風(ふう)に、譬(たと)えられるかもしれない。そして、その生命状態は、エレンが、始祖の巨人の力を、行使できるようになったのに似(に)ている。なぜなら、その大歓喜の生命状態には、困難(こんなん)や障害(しょうがい)に打ち勝つ、強い強い生命力があるので、さながら、それは、無敵のように思えるからです。だから、負けない!だから、勝っていける!!悩みを解決し、希望を、叶(かな)えていける。そして、自分らしい、素晴(すば)らしい、最高の幸せを、つかんでいける。それが、「ご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえる!」ということかもしれない。あたかも、それは・・、マンガ・進撃の巨人の中で、エレンが、始祖の巨人の力を行使した時、少年の姿(すがた)に、戻り、『自由だ!!!』と、叫んだように・・。
2023.05.05
先日、ディズニーのアニメ映画、「シュガー・ラッシュ」の話しをしました。この物語では、ゲームの世界の『お菓子(かし)の国』で、少女たちが、カーレースで、勝敗を競(きそ)っている。ゲームセンターのカーレースのゲームを、擬人化(ぎじんか)したような設定(せってい)です。そして、ヒロインのヴァネロペは、カーレースに出たくても、出ることができない、不具合(ふぐあい)をもった存在として、生きている。いわゆる、コンピューターの中の『バグ』というやつで、ヴァネロペがカーレースに出場すれば、ゲームに不具合が発生(はっせい)し、ゲーム自体が壊(こわ)れてしまう・・。そうなれば、ゲームの世界の『お菓子の国』は、崩壊(ほうかい)し、みんなが生きていけなくなる。ヴァネロペ自身も、自分が『バグ』であるために、お菓子の国から逃(に)げることもできず、死んでいくしかなくなる。ゆえに、どうしても、ヴァネロペをカーレースに出場させることはできない!!これが、お菓子の国の王たちが、ヴァネロペをカーレースに出場させず、ヴァネロペを排除(はいじょ)して、いじめ、蔑(さげす)み続ける理由です。けれど、そこには、トリックがある・・!そのトリックに、他のゲームの世界から迷(まよ)いこみ、やってきたラルフは、気付(きづ)く・・・!そして、ラルフの助けを得(え)て、ヴァネロペは、カーレースに出場する。やがて、お菓子の国の王の正体(しょうたい)も、暴(あば)かれ、お菓子の国の王は、実(じつ)は、その国を乗(の)っ取った、悪(あ)しき「ウイルス」であったことがわかる。ラルフとヴァネロペは、そのお菓子の国を乗っ取(と)った、悪のウイルスを倒(たお)し、ヴァネロペは、カーレースで勝利して、ゴールする。その瞬間(しゅんかん)、悪のウイルスに支配(しはい)されていた呪縛(じゅばく)が解(と)け、お菓子の世界は、劇的に、美しく、平和な世界に変わる。ヴァネロペ自身も、劇的に変化して、素晴らしい女王の姿(すがた)を現(あらわ)す。ふと、考えるに、ヴァネロペは、自分が、このお菓子の世界で、不具合(ふぐあい)、すなわち、「バグ」として生き、みんなから蔑(さげす)まれ、のけ者にされて生きることもできた。けれど、ヴァネロペは、それを選(えら)ばなかった!!すなわち、幸せになることを、選んだ・・!!ゆえに、レースに出場して、偽(いつわ)りの王(おう)の正体が、暴かれ、ヴァネロペはゴールして、勝利した。これが、もし、ヴァネロペが、自分が「バグ」であることに甘(あま)んじ、諦(あきら)めて、レースに出なかったら、どうなったであろうか。状況(じょうきょう)は、何も変わらず、ヴァネロペは、蔑(さげす)まれ、不幸のまま、死んでいったであろう・・。不幸というのは不思議(ふしぎ)で、そういう不幸に慣(な)らされてしまうと、一歩、踏(ふ)み出すのにも勇気がいるし、新しい環境や世界に行くのが、おっくうだから、自分自身で、自分を、だましてしまう場合さえ、ある・・。けれど、それは、ディズニー映画「シュガー・ラッシュ」の中で、ヴァネロペが、お菓子の国の「偽りの王」、「悪のウイルス」に、だまされているのと同じで、自分の中の悪(あく)のウイルスが、自分の「本当(ほんとう)の姿」、すなわち「幸せ」を、出させないようにしているのかもしれない。だまされる、もっともな何かの理由は、ある思う。けれど、だまされていたら・・、ドラマもストーリーも、始まらない。まして、幸せが生まれることはない。だから、だまされてはいけない。幸せになるか、ならないかを決めるのは自分自身なのだから!!仮(かり)に、自分が、不遇(ふぐう)であり不幸であったとする。そうであったならば、環境や、周(まわ)りの状況、周りの人たちの見方や考え方に、甘んじている必要は、ないと思う。試(ため)しに、映画・シュガー・ラッシュのように、その環境をつかさどる、国や世界、王のほうが、偽りの、悪しきウイルスであり、間違っていると、自分の環境や状況を、ゲームのような感覚(かんかく)で想像(そうぞう)してみたら、何かの新しい視点(してん)が、見えてくるかもしれない・・。自分が、ヴァネロペのような立場(たちば)だと、想像してみたら、ひとつの考えに囚(とら)われていた心が、いったん、解放されて、精神的(せいしんてき)に、楽(らく)になるかもしれない。さらに、それを、きっかけにして、良い方向(ほうこう)に、前進することができたなら、なおのこと、幸せではないのだろうか・・。ただ・・、人が持っている「宿命(しゅくめい)」というものは、生(なま)やさしいものでは、ない・・。持って生まれた運命や境遇(きょうぐう)、そこから引(ひ)き起こる、さまざまな悲しみ、苦しみ、どうして自分だけがと思うような、辛(つら)い出来事、災難(さいなん)、そのような、どうしても避(さ)けることのできない宿命のようなものを、仏法(ぶっぽう)では、『宿業(しゅくごう)』という。それは、自分の中に宿(やど)ってしまっている『業(ごう)』であり、この「宿業」があるから、人は苦しみ、悲しみ、幸せになれないまま、不幸を背負(せお)って、生きていると言えると思います。そして、この『宿業(しゅくごう)』ほど、やっかいなものは、ない・・!この宿業だけは、そんじょそこらのことでは、打ち破(やぶ)ることが、できないからです。それこそ、岩を切(き)るような思いがするかもしれない。そして、その宿業を打ち破る、唯一(ゆいいつ)の利剣(りけん)が、創価学会(そうかがっかい)の人たちが、日々、となえている、『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』であり、『ご本尊(ほんぞん)』だと、言えます。この『宿業』だけは、創価学会の人たちが、となえている、『南無妙法蓮華経』と『ご本尊』でないと、断(た)ち切ることは、できません。横暴(おうぼう)なように聞こえますが、本当にそうだから、しょうがありません。他のなにをやっても、だめです。※ちなみに、「ご本尊」とは、仏(ほとけ)の生命そのものを、目に見える形に、書き表(あらわ)したものであり、同時に、自分の生命そのものを、表現したものでもあり、その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、自分自身の中にあることを、あらわしたものが、ご本尊(ほんぞん)です。人気のマンガ、『鬼滅の刃(きめつのやいば)』の中で、主人公の炭治郎(たんじろう)が、修行中、岩を切るシーンがあります。師匠(ししょう)の言いつけで、「岩を切れ!」というのです。岩(いわ)を切れと言われても、炭治郎は、とても、岩が、刀(かたな)で切れるとは、思わない。あたりまえです。そして、炭治郎が、岩を切るために、さまざまな苦心(くしん)で努力をしている時に、炭治郎の前に、少年の剣士(けんし)が、あらわれる。その少年の剣士は、炭治郎に襲(おそ)いかかり、それ以来、二人で、剣の修行を重(かさ)ねる。しかし、その少年の剣士は、とても強く、炭治郎は、歯(は)がたたない。実は、その少年の剣士は、鬼(おに)に殺された剣士の幽霊(ゆうれい)であった。また、同じ時期、鬼に殺された少女の剣士の幽霊も、登場して、炭治郎に、さまざまな「知恵」を、さずける。炭治郎は、最後まで、二人の剣士が、幽霊であることには、気づかなかったが、二人のおかげで、成長していく。やがて、まったく歯が立たなかった少年剣士と、互角(ごかく)に、戦えるようになっていき、鬼(おに)と戦うための糸口(いとぐち)も、つかんでいく。そして、炭治郎が、初めて少年剣士に勝ったとき、少年剣士は、にっこり笑って、消えていく。そのとき、なぜだか、岩が、切れていた。漫画(まんが)だから、なにか、すごい力(ちから)で、岩が切れたように描(えが)いてもよいのだけれど、そうは描かないで、ふたりの子供剣士の幽霊と修行(しゅぎょう)する中で、成長し、岩が切れたというのは、とても素晴(すば)らしい表現(ひょうげん)だと、思った。思うに、岩と、炭治郎だけだったら、客観的(きゃっかんてき)にも、岩が、切れるようには思えない。けれど、そこに、二人の子供剣士の幽霊が、加(くわ)わることによって、何かが生まれ、人間の中にありながら、人間の意識を超(こ)えた『何か』の働きによって、岩を切ることができた。そういう表現だと、思う。人間の中にありながら、人間の意識を超えた『何か』?人間の中に、あることはわかる。けれど、それを出すことは、考えもしない。たとえば、思いもしない力(ちから)、思いもしない可能性、思いもしない希望、思いもしない才能(さいのう)、思いも及(およ)ばない知恵、そして、思いもよらない幸せ・・!!それが、何であるのか、わからなくても、それを出すことのできる武器(ぶき)が、実は、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)であり、ご本尊(ほんぞん)だと、たとえることが、できます。前の、「宿業(しゅくごう)」の話しに戻(もど)ると、宿業を断ち切ることのできる、マンガ・鬼滅の刃でいえば、岩を切ることができる、その、人間の中にありながら、人間の意識を超えた『何か』が、「南無妙法蓮華経」であり、「ご本尊」であると言えば、わかりやすいかもしれない。また、宿業を断ち切るためには、「南無妙法蓮華経」と「ご本尊」が、鬼滅の刃の、二人の幽霊剣士のような役目(やくめ)を果(は)たしていると表現すれば、納得(なっとく)しやすいかもしれない。仏法(ぶっぽう)では、『妙法(みょうほう)の利剣(りけん)』という言葉を、使う。「妙法」とは、「南無妙法蓮華経」を略(りゃく)したもので、妙法と南無妙法蓮華経は、同じです。そして、「妙法の利剣」でないと、「宿業(しゅくごう)」という岩は、切ることができない。それは、鬼滅の刃の中で、日輪刀(にちりんとう)という、年中日光を浴びている特殊な鋼(はがね)で作られた刀(かたな)でないと、鬼を倒(たお)すことができないのと、同じです。普通の刀(かたな)で、鬼を、どんなに切っても、首(くび)を切っても、鬼は死なない。日輪刀で、鬼の首を切ったときだけ、鬼(おに)は死ぬ。それと同じように、「宿業」を「鬼」にたとえるならば、宿業という鬼は、「妙法の利剣」でないと、死なない。宿業は、妙法の利剣、すなわち、「南無妙法蓮華経」でないと、断ち切ることができない!ということです。やがて、妙法の利剣である「南無妙法蓮華経」で、宿業(しゅくごう)を断ち切ることができたならば、アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、ヴァネロペが、悪のウイルスの王を打ち破ったように、自分の世界が、不幸から、幸せの世界に、変わっていく。悩みが、解決していく。夢や希望が、かなっていく!!ということです。それが、創価学会が実践(じっせん)している、ご本尊に、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、言えると思います。それは、あたかも、マンガ・鬼滅の刃の中で、炭治郎が、岩を、切ったように・・・!!
2023.05.05
ディズニーのアニメで、「シュガー・ラッシュ」という映画があります。この物語は、ゲームの世界のキャラクターを、擬人化(ぎじんか)したような物語で、ゲームセンターのモニター画面の中で動いているキャラクターが、いかにもその時間、働いて生活しているような構成(こうせい)になっています。その中でヒロインとして登場するのが、少女ヴァネロペです。ヴァネロペは、お菓子の世界に存在(そんざい)し、その世界では少女たちがカーレースで勝敗を競(きそ)っている。簡単(かんたん)に言えば、ゲームセンターのカーレースのゲームの世界に生きているという設定(せってい)です。けれど、ヴァネロペには、不具合(ふぐあい)がある!!コンピューターでよく言う 「バグ」 ということでしょうか・・。ヴァネロペは、そのゲームの世界の不具合であり、マイナスの存在だと扱(あつか)われている。そのために、ヴァネロペは、他の人たちから「のけ者」にされ、カーレースに出ることもできない。みんなから、蔑(さげす)まれ、嫌(きら)われる存在として生きている。ある時、別のゲームの世界から迷(まよ)い込んだラルフは、お菓子の世界で、そのヴァネロペと出会う。そして、ラルフが持ってきたメダルによって、ヴァネロペは、カーレースの出場の権利(けんり)を得る。しかし、お菓子の世界の王は、なぜだか、執拗(しつよう)にヴァネロペのレースへの出場を阻(はば)もうとする。ヴァネロペには「不具合」、バグがあり、彼女がカーレースに出場すれは、このお菓子の世界自体(じたい)がおかしくなり、壊(こわ)れてしまい、このカーレースのゲーム機自体が廃棄(はいき)され、お菓子の世界の住民、そしてヴァネロペ自体も不幸になる!というのが表向(おもてむ)きの理由です。けれど、実は、別の理由があった。ヴァネロペは王の妨害(ぼうがい)によって、窮地(きゅうち)に追い込まれるが、決して屈(くっ)しない勇気と行動、そしてラルフの助けを得(え)て、お菓子の国のカーレースに出場する。ここでも、ヴァネロペをゴールにたどり着かせないように、王の容赦(ようしゃ)ない妨害が続く。それは、なぜなのか???実は、「王」というのは偽(いつわ)りで、その王の正体(しょうたい)は、お菓子の国のゲームの世界を乗っ取った、 悪(あ)しき「ウイルス」 だからです。この「ウイルス」である偽りの王によって、お菓子の国の世界は支配(しはい)され、そのことによってヴァネロペは不具合となり、この世界から排除(はいじょ)された存在になっている。ヴァネロペは、実(じつ)は、このお菓子の世界を元の世界に復活(ふっかつ)される重要な存在であり、ヴァネロペがゴールした時、この世界を復活させる 「何かが起こる!!」 ということです。だから、ウイルスである「王」は、ヴァネロペのゴールを阻止(そし)しようとしている。しかし、ヴァネロペとラルフの活躍(かつやく)により、ウイルスである王は敗れ、消えていく。そして、ヴァネロペは、とうとうゴールにたどり着く!!その時、いままでウイルスである王に支配されていたお菓子の国のゲームの世界に、劇的(げきてき)な変化がもたらされる。ヴァネロペ自身も劇的に変化し、「女王」の姿(すがた)をあらわす。実は、ヴァネロペは、お菓子の国を統治(とうじ)する女王であった!!!そして、ウイルスによって記憶(きおく)を消されていた住民たちも、記憶を取り戻し、女王に深く、お詫(わ)びをする。考えてみると、不具合により皆から嫌(きら)われ、のけ者にされていたヴァネロペも、女王であるヴァネロペも同じ人物です。ヴァネロペは、不具合で皆(みな)から嫌われ、のけ者にされている世界で、そのまま生きていくこともできた。けれど、ヴァネロペは屈(くっ)せず、あきらめず、希望と勇気と挑戦によって、自分のいる世界を、自分が女王として堂々(どうどう)と生きていける世界に変えた。人間も同じなのではないだろうか・・・!仮(かり)に、今、自分がいる環境が、不遇(ふぐう)であり不幸だったとする。けれどその環境(かんきょう)は、アニメ「シュガー・ラッシュ」のように、偽りの世界であり、ウイルスによって支配された環境だと考えることはできないだろうか・・・?そう考えた時、今、自分が、かかえている不遇(ふぐう)や不幸も、仮(かり)の姿であり、偽(いつわ)りの姿だと考えることはできないだろうか・・・?そして、ヴァネロペのように、希望と勇気と挑戦によって、道を切り開きゴールした時、自分の世界が、自分が、王者のように輝(かがや)く環境へと変わっていくと、とらえることができないだろうか・・・?創価学会(そうかがっかい)が実践している仏法(ぶっぽう)では、『一念三千(いちねんさんぜん)』という法則(ほうそく)を説いています。「一念三千」とは、一念(いちねん)、すなわち心(こころ)の違いによって三千の違(ちが)う世界ができあがる!という生命の法則です。三千の心の違いによって、未来の世界は、それぞれ三千の違う世界が生まれていく・・・。自分の心によって、世界が変わり、自分の心に合った世界が、そこに存在していくことになる。ものすごく単純(たんじゅん)に考えれば、人は三千の違う世界の中から、自分の心で、そのどれかの世界を選(えら)んでいる!!と、とらえることができます。その三千の世界の中には、ヴァネロペのように、自分が、のけ者にされ、蔑(さげす)まれ嫌(きら)われている世界もあるかもしれない。また、これもヴァネロペのように、自分が女王、あるいは王のように、堂々と生きている世界もあるかもしれない。一念三千の法則から考えるならば、人は、自分がいく世界を、自分の心によって選んでいる・・!!と言えます。楽観的(らっかんてき)にポジティプに考えれは、人は、未来の三千種類の世界の中から、自分が行く世界を選ぶことができる!!と、とらえることもできます。それが、生命における『一念三千(いちねんさんぜん)の法則』です。確かに、未来はわからない・・・。未来には無限(むげん)の可能性がある・・・。不幸になる可能性も、幸せになる可能性も・・・。それを選び、つかむことのできる法則が、先程(さきほど)から話している「一念三千の法則」ですが、この、「一念三千の法則」を、いったい? どうやって使っていくのか・・??どうやって、自分の人生に生かしていくのか?そして、この「一念三千の法則」を、どうやって、ものにし、人生を勝利していけるのか・・・?それが、問題です。実は、この「一念三千の法則」を、現実に動かし、現実に結果を出し、現実に幸せになっていける、究極(きゅうきょく)の力であり方法が、創価学会(そうかがっかい)が実践している、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、となえる、仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。けれど、おそらく、だれでも思うのではないか?と思うのが、いくら一念三千の法則を説(と)いても、そんなものは、単(たん)なる机上(きじょう)の空論(くうろん)にすぎないのではないか!ということです。問題は現実だからです。現実を変えられなければ、何の意味もない。現実の悩みを解決できなかったら、そんなものは、よくある言葉の遊びでしかない。そして、現実の夢や希望を、かなえていけなかったら、いったい、一念三千の法則が、なんだというのだろうか・・・。けれど、創価学会が実践(じっせん)している南無妙法蓮華経を、となえる仏法の信仰(しんこう)は、言葉の遊びではない!!『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』は、現実を変える、ものすごい力(ちから)なんです。南無妙法蓮華経は、一念三千の法則を現実のものとする『秘宝(ひほう)』なんです。幸せをつかむ究極の法則であり、未来を幸せに変える究極の力(ちから)が、『南無妙法蓮華経』なんです。だから、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)を実践していった時、自分の世界が、環境が、大きく変わっていく。自分自身の境涯(きょうがい)が、大きく変わっていく。そして、王者のように幸せを勝ち取っていける!!昔、アンドレイ・タルコフスキー監督の『惑星(わくせい)ソラリス』という映画を見ました。その世界では、自分が深く思い願っている存在が、現実の姿(すがた)をして、具現化(ぐげんか)され、あらわれてきてしまう。すでに自殺して亡(な)くなり、いるはずのない妻(つま)が具現化し、さまよい、主人公は苦しむ。その果(は)てに、自分が子供のころから、愛してやまない故郷(こきょう)、地球の、我(わ)が家と家族、その土地と自然が、惑星ソラリスから、出現(しゅつげん)してしまう・・・。この物語は、SFの架空(かくう)の物語ですが、人間の『一念(いちねん)』には、「こころ」を、具現化していく力(ちから)が、あると思う。人は、自分の夢や希望、願いを、現実に、実現してきた・・。それは、人間のこころには、夢や希望を、実現していく力が、『ある!!』 ということです。そして、その、人間の『こころ』の力が、明確(めいかく)に発揮(はっき)された時、夢や希望が、かなっていく・・・!!しかし、その「こころの力」が、不明瞭(ふめいりょう)で、さまざまな障害や不純物(ふじゅんぶつ)によって、発揮されなくなってしまっている。そのために、さまざまな苦しみや悩みが生(しょう)じて、人は、不幸に沈(しず)んでいく・・・。そう、言えると思います。しかし、「こころ」における、さまざまな障害や不純物が、取り除(のぞ)かれたならば、「こころ」は、力を、存分(ぞんぶん)に発揮して、夢や希望が、かなっていく。それが、「こころの力」ではないかと、思われる。そして、「こころ」から、障害や不純物を取り除き、こころの力を、無限大に発揮していく力が、さきほど話した、 「南無妙法蓮華経」 です。そして、南無妙法蓮華経の力によって解放(かいほう)された、「こころの力」によって、惑星ソラリスのように、幸せの世界が出現してくる。ヴァネロペのように、貧(まず)しい姿から、女王の姿を、あらわす。それが、南無妙法蓮華経であり、南無妙法蓮華経を、となえることだと、思います。昔、創価学会は、貧乏人と病人の集まりだと言われた。その人たちが、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を実践することによって、どうなっていったかといえば、貧乏人は裕福(ゆうふく)になり、病人は健康になっていった。そして、ことごとく、創価学会の人たちは、幸せになり、人生を勝利していった。それは、アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、自分が、のけ者にされ蔑(さげす)まれている世界にいたヴァネロペが、女王となり、その世界を幸せに変えていったのに似(に)ている。そういう変化を、現実のうえで可能にしてきたのが、創価学会だとも言えます。いまでは、創価学会は世界192カ国に広がり、その世界中の人たちの悩みを解決し、夢や希望をかなえる大きな大きな力となって、その人たちの環境を変え、自分を変え、その人たちに幸せと勝利を、もたらしている。たとえば、道が何本にも分かれた分岐点(ぶんきてん)があるとする。そして、その道の先(さき)に何があるか、すべて見えているとします。そうしたならば、人は、わざわざ自分が不幸になる道を進みはしない。自分が行きたい道、自分が幸せになる道、自分が勝利していける道を、進むでしょう。ところが、人は人生の道の先に、何があるか、わからない・・。だから、途方(とほう)にくれたり、あきらめたり、絶望(ぜつぼう)したりしてしまう。そして、敗れていく人も多くいる・・・。創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰は、いくつも分かれた道の先に、何があるのか、見えているのに似(に)ている。見えていれば、幸せになる道を進んでいける。不幸になる道を避(さ)けることができる。そして自分の夢や希望をかなえて勝利していける。そういう生き方ができるのが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰です。もちろん、幸せになっていくために、さまざまな努力、挑戦が必要なのは当(あ)たり前です。また、アニメ「シュガー・ラッシュ」のヴァネロペのように、それを妨(さまた)げる、さまざまな妨害(ぼうがい)があるかもしれません。ある意味、幸せにさせまいとする、さまざまな勢力(せいりょく)が自分の前に立ちはだかることもあるかもしれません。けれど、ヴァネロペのように、希望を持ち続け、勇気と挑戦によって、立ちはだかる苦難(くなん)を乗り越えていったとき、必ず幸せになっていけるのが、創価学会の信心です。また、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法を実践していくことによって、自分の中から自然(しぜん)に、その「勇気」と「希望」を湧(わ)き上がらせていくことができる!!その、自分の中から湧(わ)きあがってきた勇気と希望によって、どんな苦難(くなん)も乗り越(こ)え、勝利していけるようになっていく!!その大元(おおもと)のエネルギーが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は、環境とか境遇(きょうぐう)とか、運命とか宿命とか、それらの軋轢(あつれき)や障害(しょうがい)の上にある力(ちから)であり法則だと言えます。運命や宿命(しゅくめい)、軋轢(あつれき)や障害の、『上』にある力であるがゆえに、悩みや困難(こんなん)を乗り越え、夢や希望を、かなえていく力(ちから)が、ある!!ということです。それが、『南無妙法蓮華経』であり、『南無妙法蓮華経を、となえる』ことだと言えます。たとえば、話しのよくわかる、良い社長がいたとします。会社内に、さまざまの問題があり、ある社員が悩(なや)んでいる。同僚(どうりょう)や課長や部長に話しても、さまざまな思惑(おもわく)や軋轢(あつれき)があって、まったく解決しない。けれど、その話しのよくわかる、良い社長に話し、訴(うった)えていったなら、希望や要望(ようぼう)がかなっていく可能性が高い。今度は、ブラック企業(きぎょう)で、社長も、頑固(がんこ)で、話しのわからない社長だったとする。けれど、その国の王がいて、その王は、大変、優秀(ゆうしゅう)で、善良(ぜんりょう)な王だったとする。その優秀な国の王に、問題を訴え、伝えることができたなら、国が動き、ブラック企業の問題が解決できる可能性(かのうせい)もでてくる。こんどは、国の王も、暴君(ぼうくん)で、どうしようもないような王だとする。しかしその国の王の上には、 「宇宙(うちゅう)の王」 がいて、その宇宙の王は、大変、優秀で、ものわかりの良い、素晴(すば)らしい王様だったとする。宇宙の王から見れば、地球の一国の王など、小さな島の住人(じゅうにん)にすぎない。だから、その素晴らしい宇宙の王に話しを伝え、訴えることができたなら、宇宙の王が動き、暴君の圧政(あっせい)を改(あらた)め、民衆の希望や願いが、かなっていく可能性も強くなる。その『宇宙の王』が、南無妙法蓮華経であり南無妙法蓮華経の力だと、たとえることができます。だから、南無妙法蓮華経をとなえることは、願いや祈りを、宇宙の王に伝え、訴えることになり、宇宙の王を動かす行為(こうい)だと、考えることができます。宇宙の王に訴え、宇宙の王を動かすのだから、願いや祈りが、かなわないわけがない!!!宇宙の王は、地球のちっぽけな王とは比(くら)べものにならないほど広大(こうだい)で無限の力を有(ゆう)していると、考えられます。その『宇宙の力(ちから)』を動かしたならば、さまざまな悩みや問題も、悠々(ゆうゆう)と解決できるのではないかと、思われる。それが、『南無妙法蓮華経を、となえる』ことだと、たとえることができます。ヴァネロペは、あきらめなかった。絶対に負(ま)けなかった。絶対に希望を捨てなかった。それと同じように、南無妙法蓮華経を、となえることによって、絶対に負けない「生命力(せいめいりょく)」を湧(わ)き上がらせていくことができる。その「生命力」は、強い強い「心(こころ)」、希望の心、幸せの心となって、その人の人生を開花(かいか)していく。その生命力、強い強い心は、悩みを解決し、困難を乗り越えさせ、夢や希望をかなえる力(ちから)となっていく。さきほど話した、「一念三千の法則」によれば、その強い強い心、幸せの心によって、世界が幸せに変わっていく。自分にとって、希望に満(み)ちた世界に変わっていく・・・!それが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、「仏法(ぶっぽう)」の信仰です。それはあたかも、アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、ヴァネロペが、虐(しいた)げられ、のけ者にされている世界から、自分が女王となり、堂々(どうどう)と生きていく、幸せと希望の世界に、変えていったように・・・!!
2023.01.05
「シュタインズ・ゲート」というアニメがあります。この「シュタインズ・ゲート」という物語は、映画やドラマ、アニメなどではよくある、「タイムマシン」を題材にした話しですが、携帯電話を使って、過去にメールを送るというのが、斬新(ざんしん)かもしれない。主人公の岡部は、ひょんなことから、過去にメールが送れる装置(そうち)を発明する。しかし、過去にメールを送るたびに、過去が変わり、そのことによって現在も大きく変わる。その繰(く)り返しの中、最終的には、取り返しのつかない大変なことになってしまうという、物語です。たった一通(いっつう)のメールであったとしても、過去にメールが送れるとしたら、ひとりの人生、あるいは世界を大きく変えることになってしまう。場合によっては、人の生死を変えることすら可能となってしまう。その繰(く)り返しの中、世界が大きく変わり、大きな事件をもたらす結果となってしまう。このアニメの中では、このように説明している。ひとつの人生、あるいはひとつの運命、ひとつの人生軸(じんせいじく)のもとに形成(けいせい)された世界を、ひとつの『世界線(せかいせん)』ととらえる。人間の人生、世界の成り行きを、ひとつの『世界線』のうえに成(な)り立っていると考えるわけです。ところが、タイムマシンを使い、過去に行って、Aという人を殺したとする。そうすると、その世界は、今まで、Aという人間が存在する「世界線」であったものが、Aという人間が存在しない、別の世界線へと移動する。「世界線」が変わるわけです。そうすると世界の歴史や、さまざまな人間の人生までも変わってしまう。そう、とらえています。そして、そのことを 『世界線が変わる』 と表現しています。主人公の岡部が、過去にメールを送ることによって、その「世界線」が変わり、その繰り返しの中、とんでもない事件に巻(ま)き込まれるということです。やがて岡部は、仲間とともに、メールではなく、人間の記憶(きおく)を過去に送る装置(そうち)を開発する。肉体は無理でも記憶を過去に送ることができれば、ほとんどタイムマシンと同じようなことができるということです。そのことを、このアニメでは、「タイムリープ(時間を跳躍[ちょうやく]すること)」と表現しています。そして、その装置をめぐり、岡部の幼(おさな)なじみである、マユリが殺されてしまう。岡部は、マユリを助けるために、タイムリープ・マシンを使い、過去へと戻(もど)り、マユリを救(すく)おうとする。マユリを逃がし、別の場所へと逃避(とうひ)する。しかし、なぜだか、同じ時刻になると、マユリは殺されてしまった。そして、岡部は、そのたびにタイムリープを繰り返し、過去に戻るが、どんな手をつかっても、どんな場所に逃げても、暗殺者に殺されなかったとしても、暗殺者が現(あらわ)れなくても、マユリは同じ時刻になると、必ず死んでしまった。まるで、運命に殺されるかのように・・・。このアニメの中では、このように説明しています。一本のロープを天井に吊(つ)るしたとする。一本のロープは、一見(いっけん)、一本に見えるけれども、実際は、細い糸が何本も何本も重(かさ)なって、一本のロープを形成(けいせい)している。その一本一本の細い糸が、「世界線」だというのです。一本一本の細い糸は、それぞれが独立(どくりつ)した糸ではあるけれど、それがまとまったロープの到達点(とうたつてん)は、必ず、天井に吊るした到達点である『一点』にたどり着く。一本一本の細い糸が、それぞれ違(ちが)うように、かりに「世界線」が違ったとしても、最終的には、同じロープの到達点、「一点」にたどり着いてしまう。すなわち、最終的な結果を変えることは、できない!ということです。ゆえに、岡部が過去に戻り、どんなにマユリを助け、行動を変えても、最終的な到達点である「マユリの死」を変えることができない・・・!このような、どうしても避(さ)けることのできない宿命(しゅくめい)のようなものを、創価学会が実践する「仏法(ぶっぽう)」では、「宿業(しゅくごう)」といいますが、小手先(こてさき)で、どんなに手を尽(つ)くしても、どんなにお金を使っても、ありとあらゆる方法を駆使(くし)したとしても、変えられないのが、悪(あ)しき運命といえる「宿業(しゅくごう)」です。では、宿命とも宿業ともいえる、「マユリの死」を、どうやって回避(かいひ)し、変えていくのか・・・?このアニメでは、こう説明している。たとえ過去に戻り、世界線を変えたとしても、その世界線が、一本のロープのような一点の結果に向かう世界線であるならば、結果を変えることはできない・・!宿命とも運命ともいえる、その変えられない結果を変えるためには、一本のロープに束(たば)ねられた世界線ではなく、別の違うロープに束ねられた世界線に移動するような大きな変化を、もたらさなければならない。すなわち、別の、もう一本のロープに飛び移(うつ)るような、大きな、劇的(げきてき)な変化が必要となる。その大きな劇的な変革(へんかく)を成し遂(と)げないかぎり、「マユリの死」という結果を変えることは、できないと・・。そして、その劇的な変化を起こすために、この物語は展開(てんかい)されていくわけです。かりに、世界線という運命の糸を、少し変えることができたとしても、その到達点である結果を変えることは、できない・・・。先ほど言ったように、 このようなどうしても変えられない悪(あ)しき宿命を、宿業(しゅくごう)と言いますが、この「宿業」を打ち破(やぶ)り、変えないかぎりは、未来は開けない。人は、この宿業があるから、苦しみ、敗れ、不幸に沈(しず)んでいく・・と言えます。そして、その宿命を変えるためには、世界線の集まった一本のロープから、別の世界線のロープに飛び移るような、劇的な変革が必要となる・・・!実はその、世界線の集まった、宿業という結果を変えられない一本のロープから、宿業を打ち破り宿命を変えることのできる別の世界線のロープに飛び移るようなことを可能にする、唯一(ゆいいつ)の方法といえるのが、創価学会(そうかがっかい)が実践する、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰であり、その仏法の実践活動である創価学会の活動なんです。南無妙法蓮華経とは、南無妙法蓮華経という法則(ほうそく)であり力とは、この宿業を打ち破り変えることのできる力(ちから)であり、法則だと、 言えます。創価学会の人たちは、その『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の仏法』を実践しているから、幸せになっていけるんです。どうしても変えられなかった宿業を打ち破り、宿命を転換(てんかん)して、幸せをつかんでいけるんです。そして、そういう偉業(いぎょう)を創価学会のひとりひとりが、ことごとく!やってきたのが、創価学会の歴史です。だから、創価学会は発展しているのであり、世界192カ国に広がっているんです。別に、タイムマシンがなくても、世界を、平和に、幸福に、変え、ひとりひとりの悩みを解決し、夢や希望をかなえさせ、最高の幸せをつかませてきたのが、創価学会です・・・。あえて例(たと)えるならば、このアニメでいう、世界線の集まった一本のロープから、別の世界線のロープに飛び移るような変化を、現実の世界で実現してきたのが、創価学会だと言うこともできます。また、それを可能にするのが、創価学会が実践(じっせん)する、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。このアニメでは、過去を変えることによって、未来を変えていった。けれど、未来を変えるのだったら、別に、過去を変える必要はない・・。すなわち、「今」を変えればいいわけです。そして、その「今」を劇的に変えていく、究極(きゅうきょく)にして最大の力が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰です。創価学会が実践している、その「仏法(ぶっぽう)」では、『一念三千(いちねんさんぜん)』という法則を、説いています。『一念三千』とは、心の違(ちが)いによって、違う三千の世界ができあがる!という生命の法則です。どういうことかというと、もし、本当に「こころ」を変えることができたとしたら、その人の世界は変わっていく!ということです。そしてその「こころ」を本源的(ほんげんてき)に、本当に変えていける唯一(ゆいいつ)の力と言えるのが、創価学会の人たちが、となえている『南無妙法蓮華経』です。その南無妙法蓮華経をとなえているから、創価学会の人たちは、心を変え、そのことによって自分の世界を変え、不幸から幸せへ、絶望から希望へと、人生と未来を変えていけるわけです。このアニメの物語は、架空(かくう)の物語であり、ありえない話しです。けれど、仏法で説く「一念三千」の法則の、説明に利用することは、可能です。創価学会の人たちが、ご本尊(ほんぞん)に、南無妙法蓮華経をとえなえていく時、南無妙法蓮華経とは、生命を、心を、本源(ほんげん)から劇的に変革していく力なので、南無妙法蓮華経をとなえていくことによって、その人の「こころ」が、パッと変わる。簡単に言えば、不幸だった心が、幸せに変わるわけです。一念三千の法則から言えば、こころが変わるということは、その人の世界が変わる!ということです。シュタインズ・ゲートというアニメで言えば、「世界線」が変わる!わけです。心が変わることによって、いままで不幸なる世界線にいたものが、別の、幸せをもたらす世界線に変わる!わけです。かりに、その変化が最初は目だたない、ごくわずかの違いだったとします。けれどそれでも、最初にいた不幸なる世界線には、その人はもう、いない!と考えられます。こころが変わったことによって、その人の世界が変わり、世界線が変わったと考えるわけです。そして、その世界線が変わった世界で、また創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる信仰をやっていくことによって、また「こころ」が変わり、世界が変わっていく。その時点でまた世界線を移動し、「世界線」が変わるわけです。そして、その世界線が変わった世界で、また南無妙法蓮華経をとなえていった時、また「こころ」が変わり、世界が変わっていく。そしてまた世界線が変わっていく。幸せの方向へ、幸せの方向へ、どんどん世界線を移動していくと、考えることができます。そして、その人のいる世界線は、どんどん分岐(ぶんき)していき、最初にいた「不幸なる世界線」とは、遥(はる)かに、かけはなれた「大いなる幸せの世界線」に移動している!!と、とらえることができます。だから、幸せになっていける。勝利していける。最初の不幸なる自分とは、かけ離れた、素晴らしい幸せをつかんでいけるわけです。そして、そういう変化を現実の上で可能にするのが、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰だということです。そして、最も重要なことは、この、創価学会が実践している、『南無妙法蓮華経をとなえる仏法』の信仰は、宿命を変え宿業(しゅくごう)を打ち破ることのできる、唯一(ゆいいつ)の方法だということです。ゆえに、どうしても変えることのできない宿命、宿業(しゅくごう)が立ちふさがったとしても、シュタインズ・ゲートの中で言う、一本の、宿命を変えられない世界線のロープから、運命を変え宿業(しゅくごう)を打ち破ることのできる、別の世界線のロープに飛び移るような劇的な変革を、もたらすことができる。そして、宿業(しゅくごう)を打ち破り、新(あら)たな、最高の幸せと勝利を、つかんでいける!!創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰が、『宿命転換(しゅくめいてんかん)』『人間革命』を、可能にするわけです。それはあたかも・・、アニメ・シュタインズ・ゲートの中で、主人公たちが、マユリを死から救うために、世界線を大きく変える、劇的な変革を、もたらしていったように・・・。
2019.11.15
インドの大思想家である、ヴィヴェカーナンダという人が言っているそうです。「すべての教育、すべての訓練(くんれん)の理想は人作りであるべきである。が、その代わりに、われわれは常(つね)に外側に磨(みが)きをかけようと努(つと)めている。なんの内側もないとき外側に磨きをかけてなんの役(やく)に立つのか?すべての訓練の目的ないし目標は人間を成長させることである。」確かに、そうだと思います。特に、現代という時代は、外側に磨(みが)きをかけることに、世の中の注目も、人々の注目も集まっていると思う。けれど、外側をどんなに美しく飾(かざ)っても、内側がガランドウならば、何が残るだろうか・・・・・。外側の世界で、どんなにきらびやかに、美しく、幸せに装(よそお)っても、いざ、自分に立ち戻(もど)った時、何もない・・・。それを感じた瞬間(しゅんかん)、どれだけの虚(むな)しさ、空虚感(くうきょかん)を味わうだろうか・・・。それは、たとえば、日々、世の中のきらびやかな世界で、楽しく豪勢(ごうせい)に遊んでいるとしても、いざ、自分の部屋に戻ってきたら、そこには何もない。ただ、がらんどうの部屋があるだけ・・。そんな生活に似ているのかもしれない。物質が氾濫(はんらん)しているだけに、現代の人々には、そういう傾向性(けいこうせい)が強いのかもしれない・・。けれど、やはり、本当の幸せは、違(ちが)うと思う。本当の幸せは、内側(うちがわ)にある!この内側いかんによって、本当の幸せは決まる・・。そう言えると思います。実は、その人間の内側を、最高に、最大限に幸せにしていく方法が、創価学会(そうかがっかい)が実践している、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰だと言えます。もちろん、創価学会の仏法(ぶっぽう)の信仰が、内側だけで、外側のことはまったく考えていないということでは、ありません。内側が輝(かがや)くがゆえに、それに比例(ひれい)するように、外側も輝いていくということです。そういう本物の力(ちから)が、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法だということです。人生に直面(ちょくめん)する、さまざまな悩みや問題、試練(しれん)、苦しみ、それらは、一見(いっけん)、表面上の悩みや問題に見える。けれど、それらの本質は、やはり、内側にあると思う。自分の内部に、悩みや問題、苦しみの原因(げんいん)がある・・・!ゆえに、その内面の問題を解決していかないかぎり、悩みや問題も解決していかない・・。実は、ここに深く、大きな問題があると思う。悩みや問題の根源(こんげん)には、内面の問題がある・・。かりに、それをわかったとして、では、その内面をどうやって変えていったらいいというのだろうか?また、本当に内面を根源的に変えていくことが、できるだろうか・・?いろいろなアドバイスを聞いたりして、その場かぎりの、さまざまな方法を試(ため)してみたとしても、本当に内面を変えていくことができるだろうか・・?結論からいうと、それはほとんどの場合「できない!」と言ってもいいと思います。だから、多くの人々は、不幸や宿命(しゅくめい)に流され、苦しみ、その不幸と宿命を背負(せお)ったまま、生き、そして死んでいくのではないだろうか・・・。その不幸の流転(るてん)を打ち破る、決定的な秘剣(ひけん)が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。そう言えると思います。南無妙法蓮華経とは、人間の生命を、内面から根源的に変えていける究極(きゅうきょく)の力だと言えます。だから南無妙法蓮華経をとなえていった時、自分の内面から変革(へんかく)が始まる。生命が内面から歓喜(かんき)し、自(みずか)らの生命が、不幸から幸せへと変革されていく。そしてそれは行動となり、その人の人生と未来を大きく動かしていくことになっていく。すなわち、悩みや問題を解決し、やがて夢や希望をかなえていけるようになっていく。内面の問題は、実は、内面だけの問題ではない。内面の問題は、すべての問題だといってもいいくらい、実は重要な問題であると思う・・。その内面の問題を解決していったとき、さまざまなことがパッと開ける。悩みも、人生の方向性も、幸せも、希望も、そして勝利も開けていく。それを可能にする、究極にして絶対(ぜったい)の力(ちから)が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです・・・。
2017.10.29
人は時として、岐路(きろ)に立たされる。それは、ものすごく単純(たんじゅん)にいうと、「幸せになるか」「不幸になるか」という岐路です。大げさに言えば、人はその岐路に立った時、それを自分で選んでいる!と言えます。環境(かんきょう)がどうだとか、世間(せけん)がどうだとか、人がどうだとか、自分の状況(じょうきょう)がどうだとか、いろいろなことがあって見えづらくなっているけれど、実は、「幸せになるか」「不幸になるか」・・・、それを自分で選んでいると言えると思います。そしてその積(つ)み重(かさ)ねが、今の自分になっているんだと思う。けれど人は、往々(おうおう)にして、幸せになるか、不幸になるかを選んでいるのが自分であるということを、忘れてしまう。環境が悪い、状況が悪い、人が悪いと、人や世の中に振(ふ)り回されて、肝心(かんじん)なことを忘れてしまう。それは、幸せになるかならないかを決めるのは、自分自身だということです。ところが、だまされてしまう・・・!さまざまな状況や周りの人たちの見方や風潮(ふうちょう)、自分の今のさまざまな技量(ぎりょう)などのことを考えてしまい、自分は幸せになれないのではないか?などと錯覚(さっかく)してしまう。周りの環境や状況、まわりの人々の見方や流れにだまされてしまい、幸せになるかならないかを決めているのは、自分自身であることを忘れてしまう。けれど、だまされてはいけない!!幸せになるか、ならないかを決めるのは自分自身なのだから!!そして、それらの環境や状況、人々の風潮など、それら一切(いっさい)にだまされず、決然(けつぜん)と幸せになっていくために、創価学会の南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰がある・・!自らの一念(いちねん)、自らの心、自らの全生命で道を切り開き幸せになっていける、その究極(きゅうきょく)の行動が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。創価学会(そうかがっかい)の南無妙法蓮華経の仏法が、どれだけスゴイか・・!どれだけ、人々を幸せにしてきか・・・!どれだけ、未来を切り開き、勝利をもたらしてきたか・・!それは、本当に計りしれない・・!また、そのことによって、世界にどれだけ平和を、幸せを、もたらしてきたかも計り知れない。ご本尊に南無妙法蓮華経をとなえる時、その人は、人生の主人公(しゅじんこう)に変わる。ご本尊に南無妙法蓮華経をとなえる時、その人は生命の王となり、人生を切り開く王者となる。ドラマや映画の一国の王のように、自(みずか)らの力で幸せを勝ち取る生命状態に変わっていく。そして人生を勝利していける。※ちなみに、ご本尊とは、仏(ほとけ)の生命そのものを、あらわしたものであり、自分の生命そのものを、あらわしたものでもあり、その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、自分自身の中にあることをあらわしたものが、ご本尊(ほんぞん)です。よく宗教は弱いものがやるものだとか言うけれど、創価学会の信仰は、そういう部類(ぶるい)のものとはまったく違(ちが)ってくる。逆(ぎゃく)です。すなわち最強の人間が行う、最強の王者の信仰だということです。というか、ご本尊に南無妙法蓮華経をとなえていくことによって、自然に人間の王者になっていくんです。そして、先ほども言ったように、悩みを解決し、夢や希望をかなえて、幸せと勝利をつかんでいける。話しは違(ちが)いますが、池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、このようなことを言っていました。「絶対強盛(ぜったいごうじょう)な信心(創価学会の信心)とは、子どもが怖(こわ)いことが起こると、「おかあちゃーん」と母親のところへ飛んでいくようなものです。その気持ちで御本尊に願ったら、すごいことになります。これは理論(りろん)ではありません。信心です。母親のところへ、死にものぐるいというか、純粋(じゅんすい)というか、それ以外にないのだと言う、その一念(いちねん)で御本尊に直結(ちょっけつ)し、願っていけば、どんなことも通じます。その祈りはかないます。それが信心の究極(きゅうきょく)です。」何を言いたいかというと、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰が、どれだけスゴイか・・!ということです。本当に信じ、本気で実践していった時、どれだけ素晴(すば)らしい、どれだけスゴイ結果が生まれるか!ということです。そして、どれだけ幸せになっていけるか!ということです。だから、世の中の環境や状況にだまされてはいけない!!創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法の可能性は、無限大(むげんだい)なのだから。創価学会二代会長の戸田城聖先生は、言われた。「人生は、強気でいけ!!!」世の中は、世界は、良く言えば、愛情や善意に満(み)ちている。逆に、悪く言えば、悪意やマイナスのエネルギーが充満(じゅうまん)しているとも言えます。そして、時として、そのマイナスのエネルギーが、自分に襲(おそ)いかかってくることもある。さまざまな環境や状況、人間模様(にんげんもよう)や自分に降(ふ)りかかってきた運命が、自分を押しつぶそうとする時もある。けれど、戸田先生は言われた。「人生は強気でいけ!!」そして、強気でいけるだけの絶対的な確証(かくしょう)であり、力(ちから)が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰だということです。そして、決然(けつぜん)と、その創価学会の仏法の信仰に立ち上がった時、世界の善意のエネルギー、幸せのエネルギーが、自分のもとに集まってくる。自分の世界が、善意や愛情に満ちた世界に変わっていく。そう言えると思います。だから、周りがどうであれ、状況がどうであれ、それらの環境にだまされてはいけない!!なぜなら、幸せになるかならいなかを決めるのは自分自身なのだから・・・!そして、自分自身で幸せを切り開ていける、自分自身で悩みを解決していける、夢や希望をかなえていける、決定的で最強無敵(さいきょうむてき)の武器(ぶき)であり力が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです・・・!
2017.05.06
人気のあるマンガ、あるいはアニメに、「進撃(しんげき)の巨人」というのがあります。その「進撃の巨人」の中で、「女型(めがた)の巨人」というのが出てきます。女型の巨人は強力な敵(てき)で、最終的に、この女型の巨人と主人公であるエレンは、戦うことになるのだけれど、その女型の巨人の正体が、軍の訓練兵として3年間、同じ釜の飯(かまのめし)を食べた仲間である、アニであることを知って、エレンは戦うことができない。エレンの巨人化の能力を使うためには、確固(かっこ)たる目的が必要で、目的がはっきりしないと、エレンは巨人化の能力を使うことができない。敵であるアニが、訓練兵時代の仲間であったために、それがブレーキとなって、どうしても巨人化することができない。最終的には、他の仲間の叱咤激励(しったげきれい)によって、エレンは巨人化してアニと戦うが、エレンが躊躇(ちゅうちょ)し巨人化できなかったのも、ごもっともだとも思う。何かの明確な目的がないと、どんなにスゴイ力(ちから)も使うことができない・・・。明確な目的を持って、本当にそうしようと思わないかぎり、その力を使うことができない。確かにそれは、うなずける。目的もなく、本当にも、そう、思っていなかったら、その力が出てくるとは思われないからです。また、自分が、目的のもと、本当にそうしようと思うから、その力を発揮していくことができる。これは、アニメやマンガの中だけの話しではなくて、現実の中でも、そうだと思う。人は、何かの目的を持って、ほんとうにそうしようと思わなかったら、その力を発揮(はっき)することができない。目的に目覚(めざ)め、ほんとにそうしようと思うから、そのように行動し、それを成し遂(と)げていく。はっきりとした目的意識をもって、ほんとうにやろうと思う時、そのための、さまざまな知恵や能力を発揮し、自分が実現したいことを成(な)し遂げていく。それが、人間というものだと思う。けれど、それが難(むずか)しいのも、現実だと思う。だから、幸せになりたいのに、なかなかなれないことも、多々(たた)あると思う。また、不幸に沈(しず)んでいってしまう人々も、多くいる・・。やはり、幸せになっていくためには、明確な目的意識と、それを開花させていくための『方途(ほうと)』が、必要になってくると思う。その明確な目的意識と、それを実現していくための方法と行動が噛(か)み合っ時、人は幸せになっていけるのではないか・・!と思う。実は、その、幸せに対する明確な目的意識と、それを実現していく究極(きゅうきょく)の方法が、創価学会(そうかがっかい)が実践している、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。創価学会が実践(じっせん)する、南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰は、自分の中に、幸せに対する最高の目的意識をもたせてくれる。目的意識を持つというよりも、南無妙法蓮華経をとなえていると、自分の中から、幸せになろうとする、「最高の意識(いしき)」が、自然に湧(わ)き上がってくる。やがて自分の中から湧き上がってきた「幸せに対する最高の意識」は、さまざまな知恵や勇気、行動となって、その人を動かし、結果として、その人を幸せにしていってしまう。南無妙法蓮華経をとなえることは、自分の中から、幸せに対する最高の意識を目覚(めざ)めさせ、幸せに対する最高の目的、また、幸せに対する最高の生命力、最高の勇気や知恵をもたらし、それは、自分の中から、さまざまな力(ちから)、能力や可能性を発揮(はっき)することになっていき、そうなった時、おのずから、その人は、幸せになっていくことができる。それが、創価学会が実践している、『南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰』だということです。また、南無妙法蓮華経をとなえることの可能性と力(ちから)は、無限大なので、南無妙法蓮華経をとなえていくことによって、自分だけでなく、まわりの人々、環境や世界からも、幸せをもたらす、さまざまな可能性を引き出し、それは、結局(けっきょく)、自分のいる世界、環境を幸せに変えていくことになる。ゆえに、勝利していける。幸せになっていける。進撃の巨人の中のエレンのように、人は人生において、戦うか戦わないかの、瀬戸際(せとぎわ)に立たされる時が、ある・・・!!その時に、勝つか負けるかは、その人の中にある、『目的意識』にかかっている。その『目的意識』が、真(しん)に正しく、強靱(きょうじん)なものであるならば、その人は、どんな瀬戸際(せとぎわ)に立たされたも、戦うことができる。そして、勝つこてができるだろう。その最も正しく、最も強靱(きょうじん)な目的意識を持つことができるのが、この創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、言えます。幸せと平和に対する、これ以上素晴らしく、これ以上強靱な目的意識は、ありません!!また、幸せと平和に対する、これ以上の希望であり、エネルギーもありません。幸せと平和に対する、無限(むげん)の力(ちから)となるもの!それが、創価学会の、仏法(ぶっぽう)の信仰です。だから、創価学会の人たちは、幸せになっていけるんです・・!また、創価学会の信仰と、他の信仰との違(ちが)いは、ここにあります!!!どんな苦難(くなん)の中でも、どんな絶対絶命(ぜったいぜつめい)の時であろうとも、平和と幸福に対する、最高の目的意識をもって、立ち上がることができる。エレンが立ち上がったように・・!そして、勝利していける!!!・・・重要なことは、創価学会が実践している、『南無妙法蓮華経をとなえる』という仏法の実践が、自分の中から、幸せに対する最高の目的意識を、『現実に、湧(わ)き上がらせる!!』ということです。そして、それにともない、幸せをもたらすための、最高の生命力、最高の勇気、最高の知恵が、実際に湧(わ)き上がってくる!ということです。それは結局、自分の中から、さまざまな可能性を発揮していくことにつながり、やがて、悩みの解決や、夢や希望の実現など、さまざまなことを可能にし、その人に勝利と幸せをもたらしてくれる。あたかもそれは、「進撃の巨人」の中で、エレンが、明確な目的を持った時、巨人化という、とてつもない力を発揮できたように、大きな大きな可能性と力を、発揮してくれる・・・。
2017.05.06
1973年にノーベル平和賞を受賞し、アメリカの国家安全保障担当補佐官や国務長官を務めた、ヘンリー・A・キッシンジャー博士は、創価学会インターナショナル会長である池田先生と、8度にわたり、対談している。池田先生は、キッシンジャー博士に質問している。「人物評価(ひょうか)について、どのような基準(きじゅん)をお持ちでしょうか。」アメリカの国務長官を務(つと)め、世界各国のリーダーと丁々発止(ちょうちょうはっし)の交渉(こうしょう)を繰(く)り広げてきた、世界を動かす立役者(たてやくしゃ)である。答えは明快(めいかい)だった。「私の変わらざる信念は、交渉の相手を理解することが、きわめて重要(じゅうよう)だということです。相手の知性ではなく人格(じんかく)です。知性の程度(ていど)を確かめることはごく簡単(かんたん)です。しかし人生における困難(こんなん)な問題はすべて、賛否両論(さんぴりょうろん)が知的レベルで真(ま)っ二つに分かれた場合に起きるのです。ですから、いくつかの可能性の中から一つを選択(せんたく)する場合に『人格』がカギとなるのです。」池田SGI(創価学会インターナショナル)会長とキッシンジャー博士との出会いは、小雪が舞(ま)うアメリカの首都ワシントンだった。国務長官の博士が、国務省の執務室(しつむしつ)で池田SGI会長を待っていた。1975年1月13日である。池田SGI会長が、73年1月に、ベトナム戦争終結(しゅうけつ)を呼びかけるニクソン大統領宛(だいとうりょうあて)の書簡(しょかん)を、当時、大統領補佐官だったキッシンジャー博士に託(たく)して以来、博士と池田会長との手紙のやりとりが続いていた。訪米の際には立ち寄(よ)ってほしいとの、博士からの歓迎の意が示されたことを受けての訪問となったのである。あいさつ、会談風景の撮影(さつえい)が終わると、通訳(つうやく)一人だけを介(かい)して、二人は向き合った。キッシンジャー博士は、たずねた。「率直(そっちょく)にお伺(うかが)いしますが、あなたたちは、世界のどこの勢力(せいりょく)を支持(しじ)しようとお考えですか。」博士が直球を投げてきた。まさに、知識ではなく人格(じんかく)、すなわち、どんな思想、信念(しんねん)で動いているかを見きわめようとする、短いが鋭(するど)い問いである。もちろん、池田SGI会長が前年にソ連、中国を相次(あいつ)いで訪問し、コスイギン首相、周恩来(しゅうおんらい)総理らと会った事実が前提(ぜんてい)にある。即座(そくざ)にSGI会長が答えた。「私たちは、東西両陣営(りょうじんえい)のいずれかにくみするものではありません。中国に味方(みかた)するわけでも、ソ連に味方するわけでも、アメリカに味方するわけでもありません。私たちは、平和勢力(せいりょく)です。人類に味方します。」キッシンジャー博士の顔に微笑(びしょう)が浮(う)かんだ。会見を終える時、キッシンジャー博士は言った。「また、友人としてお会いしたい。これからも連携(れんけい)を取り合いましょう。」「中国に味方(みかた)するわけでも、ソ連に味方するわけでも、アメリカに味方するわけでもない。私たちは、平和勢力(せいりょく)です。人類に味方します。」人は、このことを、わかろうとしない。なにか裏があるのではないか・・?と邪(よこしま)なことを考えてしまう。そして、創価学会に対して、どうしようもないような下劣(げれつ)なデマを流したりしてきた。けれど、もしそれらの下劣(げれつ)なデマが正しければ、創価学会(そうかがっかい)は、これほど世界に発展することはなかったでしょう。また、創価学会の人たちが喜々(きき)として、創価学会の活動に取り組むこともないだろうし、創価学会の信心を真面目に実践(じっせん)することもなかったでしょう。それに、創価学会の信心と活動を実践することによって、創価学会の人たちが、悩みを解決したり、夢や希望を実現したりして、幸せになっていくこともなかったでしょう。ところが実際は、創価学会の人たちは、その創価学会の信心と活動によって悩みを解決し、夢や希望を実現して、大いなる幸せをつかんでいる。それは、創価学会が正しい証拠(しょうこ)であり、世間のデマが間違(まちが)いであることの証明になります。そう考えていった時、なにか裏があるのではないか・・?と、創価学会に対して、邪(よこしま)なデマを流している連中のほうが、よっぽど、何か裏があり、「邪(よこしま)」なことを企(たくら)んでいると考えるのが、妥当(だとう)なはずです。キッシンジャー博士の話しに戻ると、博士は、米中接近(せっきん)、米ソの緊張緩和(きんちょうかんわ)、ベトナム戦争からの撤退(てったい)、中東和平交渉(わへいこうしょう)など、まさに、『歴史を書き換(か)えた』その実績は、枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がない。博士は、池田SGI会長に語った。「どんな偉大(いだい)な事業も、はじめは、すべて「夢」にすぎなかったのです。だから必要なのは勇気です。前人未到(ぜんじんみとう)の道をひとりゆくには、勇気が必要なのです。」それを地(じ)でいったのが、71年7月、極秘裏(ごくひり)に訪中して、中国の周総理と会見し、ニクソン大統領の訪中、米中国交正常化に道筋(みちすじ)を付けたことである。国務長官を退(しりぞ)いた後も、博士は、米外交に影響力(えいきょうりょく)を持つ重鎮(じゅうちん)として、注目を集め続ける。2007年に発表した、核兵器廃絶(かくへいきはいぜつ)を求める共同提言(ていげん)は、核抑止(よくし)戦略の当事者だった人物の発言として重大な意義(いぎ)をもつ。博士と池田SGI会長との8度目の会見は、96年6月17日。同月、SGI会長がキューバでカストロ国家評議会長と会う予定を知ると、ニューヨークの宿舎(しゅくしゃ)に滞在中(たいざいちゅう)の池田会長を、博士が訪(たず)ねてきた。同年2月、キューバが米民間機を撃墜(げきつい)し、両国関係は悪化していた。博士は関係の改善(かいぜん)を願い、池田SGI会長のキューバ訪問に強い期待を寄(よ)せていた。そしてSGI会長は、カストロ議長と会見した際、キッシンジャー博士の真情(しんじょう)を伝えたのである。博士とSGI会長との初会見から40年。創価学会は、世界192カ国に広がり、博士と語り合った世界平和の道は、大きく広がったと言える。2015年には、米国とキューバの国交正常化も実現した。聞いた話しですが、キッシンジャー博士は、池田SGI会長と会見した後、池田会長を評(ひょう)して、こう言ったそうです。「グレイト・パーソナル(偉大なる個性・人格)」・・と。人格を最も重要視(じゅうようし)する博士の言葉だけに、重みがある・・。「グレイト・パーソナル・・!」キッシンジャー博士の池田SGI会長に対する期待とその対応を見るとき、その言葉はまさに真実であり本当なんだ!と、心から思う・・・。
2017.05.06
人間、だれでも失敗することはある・・。当然(とうぜん)です。その失敗が、簡単に流すことのできる軽(かる)いものなら、いい。けれど、時として、その失敗が、立ち直れないくらい大きな打撃(だげき)をもたらすこともある。それも、事実だと思う。それが、ビジネスの失敗である場合は、自分の生活すら、危(あや)ぶまれてしまう場合もある。また、それが、人間的な失敗である場合も、打撃が大きい。精神的に、立ち直れないほどのショックを受けることもある。また、その精神的ショックが、自分の体調(たいちょう)を害(がい)し、さまざまな病気にかかってしまう場合もある。そういう、さまさまな失敗やショックな出来事は、ないにこしたことはないけれど、人間だから、確かに、そういう出来事に出くわすこともある。そのショックな出来事を、いかにして、乗り越えていくか・・・?ここに、人生の勝敗が、分かれてきてしまうのではないだろうか・・・。ショックな出来事が、どういうことであれ、そこから立ち直るのは、大変なことです。よく、失敗を勝利の因(いん)にするというけれど、それがどんなに困難(こんなん)であるか・・。どれだけのエネルギーを必要とするか・・・。それが、どれだけ大変なことか・・、わかる人は、わかると思う。それら、さまざまな失敗がもたらす打撃・・・。それらの打撃を本当に解消(かいしょう)していくことは、できるのだろうか・・・?時とともに、その痛みは消えていくことはあると思うけれど、本当にそれらの失敗からの打撃を解消できるのかと、問いかけていったとき、確かに疑問(ぎもん)は残る。その失敗からの打撃を引きずり、痛手(いたで)を負(お)ったまま、人生を生きていく場合もあるのでは、ないだろうか?実はその、それらの失敗からの打撃を、現実に解消し、現実にプラスに変えていける、決定的な方法が、創価学会(そうかがっかい)が実践している、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰です。そういう、人生の痛手を負った時、本当に、創価学会の『南無妙法蓮華経の仏法』のスゴサがわかる。創価学会の南無妙法蓮華経の仏法の偉大(いだい)さ、その大きな大きな価値(かち)が、わかる。たとえ、人生に大きな失敗をし、打撃を受けたとしても、その打撃すらプラスに変えていける、もの凄(すご)い力が、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰には、現実にある!!『変毒為薬(へんどくいやく)』というけれど、毒を薬に変えてしまう、もの凄いエネルギーが、南無妙法蓮華経の仏法にはある。そして、打撃を乗り越え、幸せになっていける。勝利していける。『悲しみやショックを昇華(しょうか)していく』というけれど、それを現実に成し遂(と)げ、幸せをもたらしていけるのが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと思う。池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、この創価学会の仏法の信仰は、『過去さえ変えていける!』と言っていたけれど、それは、どんな悲しい出来事、ショックな出来事、打撃であろうとも、それを、『それがあったから幸せになれた!』と言えるほどに、転換(てんかん)して大いなる幸せをつかんでいける!!ということだと思う。過去がどうであれ、現実に今、大いなる幸せをつかむことができたとしたら、過去の悲しいショックな出来事でさえ、あたかもそれが、良い出来事であったかのように、思う事ができる!!それほど大きく、宿命転換(しゅくめいてんかい)、人間革命していけるのが、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰だということです。だから、この創価学会の仏法の信仰があれば、かりに、大きな打撃を受けたとしても、大きな失敗をしたとしても、真剣に創価学会の南無妙法蓮華経の仏法を実践(じっせん)していくことによって、それすら乗り越え、変毒為薬(へんどくいやく)して、幸せになっていける。失敗すら、大きな成功に変えていってしまう!そういう、スゴイ変革、スゴイ幸せ、スゴイ勝利を、もたらしていけるのが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰だということです・・・!
2017.05.06
幸せについて考える時、いろいろな基準(きじゅん)や考え方は違(ちが)うと思うけれど、ぼくが思うに、意識する、しないは別にして、幸せになる人というのは、基本的に、本気で幸せになろうとしているのではないか?・・と思う。幸せになる人というのは、本気で幸せになろうとしているから、幸せになる・・・。そういう考え方にも、一理(いちり)あるのではないか・・と思う。ところが、幸せにならない人というのは、確かに幸せにはなりたいけれど、「自分なんか幸せにはなれないのではないか・・」とか、ああだ、こうだ、と余計(よけい)なことを考えて、実は、ほんとうに幸せになろうとは思っていない場合もあるのではないだろうか・・。ほんとうに幸せになろうと思っていないのだから、結果として、本当に幸せになるはずがない・・・。そう、言えると思います。だれでも幸せになりたいけれど、環境(かんきょう)や周りの人々、世間(せけん)のことばかり気にかけて、自分の境遇(きょうぐう)や世の中のせいにして、幸せにならない理由を並(なら)べ立てる。そこに盲点(もうてん)があるのかもしれない。幸せになる、ならないは、実は、自分の外にあるものによって決まるのではなく、自分の中にあるものによって決まる。幸せになるか、ならないかという責任(せきにん)は、自分の外にあるのではなく、『自分の中』にある。そう言えるかもしれない。問題は、自分の中にあり、自分の中にある「なにか」を、幸せにしていかなかったら、幸せになるはずがない・・。自分は本当に幸せになろうとしているのだろうか?実は、幸せになろうとしていないのではないか?そこに問題があるのかもしれない。では、『本当に幸せになろうとする』とは、どういうことだろうか・・?『本当に幸せになろうとする』といったって、漠然(ばくぜん)としていて、よくわからない。意味がわからない・・・。だから、漫然(まんぜん)と生きるしかなくなっていくのかもしれない。その、『本当に幸せになろうとする』ということ。自分の生命自体を、『本当に幸せにしよう!とする』ということが、実(じつ)は、創価学会(そうかがっかい)の人たちが実践している、『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、となえる!』と、いうことなんです。『南無妙法蓮華経をとなえる』ということは、自分の生命自体を、本当に幸せにしようとする!ということなんです。また、自分の生命自体を、本当に幸せにしてしまう!!のが、『南無妙法蓮華経』だとも言えます。南無妙法蓮華経をとなえることは、自分の生命自体を、本当に幸せにしてしまうことなんだから、その結果として、幸せにならないわけがないんです。だから、幸せになっていける。現実に、悩みや問題を解決して、夢や希望を、かなえていける。自分の生命自体を、そういうふうにしてしまう!!のが、『南無妙法蓮華経をとなえる』ということだと思います。だから、創価学会の人たちが、幸せにならないわけがなく、現実に悩みを解決し、夢や希望をかなえて、世界中の人々が幸せを勝ち取っています。南無妙法蓮華経の力と可能性は、計り知れないから、一概(いちがい)には言えないけれど、南無妙法蓮華経をとなえることは、自分の生命の中から、本当に幸せになろうとする力を呼び覚(さ)ます。本当に幸せになっていく生命の力を無限に湧(わ)き上がらせ、輝(かがや)かせていく。その結果として、悩みを解決できたり、生命を蘇生(そせい)させて病気を克服(こくふく)できたり、夢や希望をかなえていけるようになっていく。それが『南無妙法蓮華経』であり、『南無妙法蓮華経をとなえる』ことではないかと思う。南無妙法蓮華経をとなえることがスゴイと言っても、いまいち、ピンとこないかもしれないけれど、池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、詩の中で、こういうことを言っています。「だれもが、宇宙の無限(むげん)の力を秘(ひ)めた「小宇宙(しょううちゅう)」である。だから、あの「太陽」も自分の中にある。自分の中に輝(かがや)く「銀河(ぎんが)」もある。星々(ほしぼし)をわたりゆく無数の光が、この胸(むね)の中にある。「内(うち)なる宇宙」も無限である。だから、私は言っておきたい。どんな悩みがあっても、君は負けるな!どんな障害(しょうがい)があっても、夢をあきらめるな!自分の中に「太陽」を輝かせて生き抜(ぬ)こう!」ぼくが思うに、南無妙法蓮華経をとなえて生きるとは、こういうことだと思う。南無妙法蓮華経をとなえて生きるとは、自分の中の内なる宇宙を、無限に輝かせ、どんな悩みも、どんな障害も乗り越えて、夢や希望をかなえ、幸せを勝ち取っていくことだと思う。また、それができる!のが、南無妙法蓮華経をとなえる生き方だと思う。だから、『南無妙法蓮華経をとなえる』ということは、自分の生命自体を、本当に幸せにしてしまう究極(きゅうきょく)の行動であり、それゆえに、必ず幸せになっていける・・!それが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、いうことです・・・。
2017.04.14
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が言っています。『御本尊(ごほんぞん)は、なぜ大切なのか ------ 。それは、御本尊への「信」によって、私どもの胸中(きょうちゅう)の本尊、仏界(ぶっかい)を開けるからです。この「御本尊」は、自身の「信心」のなかにこそある、と大聖人(日蓮大聖人)は仰(おお)せです。妙法(南無妙法蓮華経のこと)の当体(とうたい)である自分自身、人間自身が大事なのです。その胸中の妙法を顕(あらわ)すためにこそ、御本尊が、こよなく大切なのです。』ちなみに「ご本尊」とは、創価学会の人たちが南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえて祈る対象で、仏(ほとけ)の生命そのものを、あらわしたものであり、自分の生命そのものを、あらわしたものでもあり、その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、自分自身の中にあることをあらわしたものが、ご本尊(ほんぞん)です。そのご本尊がなぜ、大切かというと、自分たちの胸中(きょうちゅう)の本尊、自分の中にある本尊、仏界(ぶっかい)を開くためだという。自分の中にある本尊、仏界(ぶっかい)を開くといっても、わからないと思いますが、自分の中にある幸せを開く力、無限の力、計(はか)り知れない無限の可能性を開いていく!ということです。その幸せを開く無限の力が、『ご本尊』にはある!!ということです。そして、それは自分の中にあるのだけれど、その無限の力をどうして開花していっていいかわからない。具体性がない。その具体性がない自分の中にある無限の力を、形として顕現(けんげん)したものが、御本尊だということです。そして、御本尊を信じ、南無妙法蓮華経をとなえて真剣に祈っていくとき、その自分の中にある、無限の力、幸せになっていける力、智慧(ちえ)や希望、勇気が、まさに自分の中から湧(わ)き上がってくるということです。だから、創価学会の「ご本尊」は、おすがりするのとは違(ちが)う。また、棚(たな)からぼた餅(もち)のようなことを期待するものとも違う。根本は自分自身なんです。その根本の自分自身に挑戦するために、「ご本尊」はある。その根本の自分自身に対して、どんなことがあっても絶対にあきらめず、負けないで、自分の可能性、智慧(ちえ)、希望をどこまでもどこまでも開花していくために、ご本尊はある!!また、自分では思いもよらない可能性、力、運やチャンス、それらあらゆるものを引き出していけるのが、創価学会が、南無妙法蓮華経をとなえている「ご本尊」だと言えます。人間には無限の力がある。だれでも幸せになっていける力がある。だれでも、困難(こんなん)や悩みを乗り越え、勝利していける力がある。確かにそれは、あるんだけれど、ややもすると人は、そうは思えなくなっていく。さまざまな状況(じょうきょう)や悩み、困難に押(お)しつぶされ、自分が幸せになれるとは思えなくなってしまうことが多々(たた)ある。まして、自分の中に、無限の可能性、言い換(か)えれば、「無限の宝(たから)」があるとは、なかなか思えない場合もある。そして、時に流され、人生に流され、一生を終わってしまう。そういうことも、確かに、多々あると思う。それを打ち破ることが、どれだけ困難か・・・。その自分の中の闇(やみ)を打ち破ることが、どけだけ大変なことか・・・。また、それができないから、多くに人が自分が希望する人生を送れず、不幸に沈(しず)んでいってしまう・・・。その闇(やみ)、絶望、苦しみ、悩みや困難を、根底から打ち破るために、『ご本尊』はある!また、それができるのが、創価学会が信じ、祈っている「ご本尊」です。ご本尊は、自分の中にある、「幸せになる力」を現実に引き出す!!絶望を消し去り、希望を生み出す!!本来、人間は幸せになるために生きている。そして、その幸せになるために無限の力を引き出し、困難を乗り越え、勝利していける。その本来、人間がもっている、幸せになる力を無限に引き出し、悩みを乗り越え、夢や希望をかなえて勝利していけるのが、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰であり、創価学会が信じ祈っている『ご本尊』だと、いうことです・・!
2016.01.11
以前、聖教(せいきょう)新聞に池田先生(創価学会インターナショナル会長)が掲載(けいさい)てしてくれている「新・人間革命」に、兄が若くして他界(たかい)したある女性の話しが、のっていました。彼女の兄は、母に語っていた。「人生って、なんて不公平(ふこうへい)なんだろう。若くして死ぬなら、生まれてこない方がよかった。でも、そこにも、何か深い意味があるのかもしれない。それを教えてくれる、人生をよりよく生きるための、正しい宗教があるように思う。それを探してほしい・・。」そして、彼女は、創価学会の会合に参加する機会(きかい)にめぐまれ、そこで、兄のことを語り、質問している。「兄の言うように、正しい宗教が本当にあるのでしょうか。私には、人生も社会も不公平(ふこうへい)だし、正直者が損(そん)をするのが、この世であるとしか思えません。」それに対して、池田先生は、答えている。「そうですか。お兄さんは、最後まで、この日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)の正法(しょうほう)を探し求めていたんですよ。ご冥福(めいふく)を祈ってあげてください。南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)とお題目(だいもく)をとなえれば、全宇宙に、その力は波動(はど う)していきます。」「あなたも、ご苦労されたんですね。しかし、人間は、幸福になるために生まれてきたんですよ。仏法(ぶっぽう)によって、必ず幸せになれるんです。あきらめてはいけません。」「一緒に信心なさいませんか。人生には、幸福になるための軌道(きどう)があるんです。それが大聖人の仏法です。正しい人生の軌道に乗ったうえでの苦労は、すべて実(み)を結(むす)びます。しかし、根本の軌道が誤(あやま)っていれば、苦労も実(みの)りません。穴(あな)が開いた容器(ようき)で水を汲(く)もうと思って奮闘(ふんとう)しても、水が汲めないのと同じです。」人生には、幸福になるための軌道(きどう)がある・・。そして、その正しい軌道に乗ったうえでの苦労は、すべて実を結ぶ・・!その幸福になるための軌道が、創価学会(そうかがっかい)が実践している、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。自分の人生が、うまくいかない・・。また、悩みや苦しみだらけである。また、どうせ俺の人生なんか・・と、あきらめてしまう場合もあるかもしれない。それらは、すべて、自分の人生が、幸福の軌道に乗っていないことの証明(しょうめい)だとも言えると思います。では、なぜ?、自分の人生は幸福の軌道に乗っていないのか・・?それは、その人が、間違った思想、間違(まちが)った宗教の上に、生きているからだと表現できます。そしてその、間違った宗教が、日本にはびこっている葬式仏教(そうしきぶっきょう)や観光宗教、神社信仰などです。その間違った宗教の影響(えいきょう)のもとで、生きているとすると、その間違った当然(とうぜん)の結果として、自分の人生も、間違ったものになっていく。自分の人生が間違ったものになっていったなら、悩みが解決しない。苦悩が絶(た)えない。不幸だらけの人生になっていく。その根底(こんてい)の原因(げんいん)が、葬式仏教や観光宗教、神社信仰などの間違った宗教だと言えます。また、自分は、そんな宗教などにかかわってはいないと言うのならば、自分の過去世(過去に生きていた時代)に、間違った宗教にかかわってきたために、さまざなな悩み、苦しみをもって生まれてきてしまったと、とらえることもできます。ともかく、悩みが絶えない。苦しみだらけだ。自分の人生は、幸せではない!と思っているとしたら、それは自分が、幸福になるための軌道に乗っていないと、考えるべきです。では、どうしたらいいか・・?当然(とうぜん)、正しい軌道、幸福になるための軌道に乗るしかない。その決定的で、唯一(ゆいいつ)の方法と言えるのが、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰です。これしかありません。小手先(こてさき)で、ああだ、こうだとやってみたところで、無理です。何かの宣伝文句に誘(さそ)われ、どんなにお金を使ったところで、無理です。自分の人生を、自分の生命を、本当に、正しい軌道、幸せの軌道に乗せる方法は、この、創価学会の、『南無妙法蓮華経の仏法』しかありません。これだけは、言えます。だれでも、始めは半信半疑(はんしんはんぎ)かもしれない。けれど、それでも、勇気をもって、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰をやってみたとき、確かに、幸せに変わる。確信が生まれる。そして、真剣にやっていくことによって、悩みや問題を解決し、夢や希望も、かなえていけるようになっていく。だから、世界192カ国に、創価学会は広がり、世界中の人々を現実に幸せにしている。今日、話しをした女性の、亡くなった兄は、言っていた。「人生をよりよく生きるための、正しい宗教があるように思う。それを探してほしい・・。」そして、それは現実に存在する。そして、それが、人生を勝利していくために、幸福の軌道に乗っていく道です。幸福の軌道をつかむ道です。そして、それが、宿命(しゅくめい)も悩みも乗り越(こ)えていける、夢や希望をかなえていける、幸せと勝利をつかんでいける、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです・・!
2015.09.27
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。『ともあれ、これからも、我らの世界広布(せかいこうふ)の前進は、決して止まらない。なぜか?それは、幸福を求め、平和を願う友が待(ま)っているからです。仏法(ぶっぽう)の生命尊厳(そんげん)の哲理(てつり)を、世界の民衆が渇仰(かつごう)してやまないからです。』ちなみに、世界広布(せかいこうふ)とは、創価学会(そうかがっかい)が実践している、仏法(ぶっぽう)の哲学(てつがく)と思想を基調(きちょう)にして、世界に平和と幸福をもたらしていくことを言います。創価学会が実践(じっせん)していることは、なにか特別なことではない。一部の人だけに必要となるものでもない。すべての人が求め、欲(ほ)しているもの・・!!それが、創価学会の『仏法(ぶっぽう)』です。池田先生が言うように、世界には、幸福を求め、平和を願う友が待っている。その、世界の民衆が渇仰(かつごう)してやまない、生命尊厳(そんげん)の哲理(てつり)が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法の哲学(てつがく)だということです。だから、創価学会は広がり続ける。疑(うたが)いや偏見(へんけん)があったとしても、すべての人は平和と幸せを求めている。ゆえに、最終的には、疑いや偏見を乗り越(こ)え、この創価学会の仏法の哲理(てつり)にたどり着く・・!それは、だれでも、幸せを求めているからです。平和を求めているからです。その明確な哲学(てつがく)、人生を幸せにしていくエネルギー、力(ちから)が、創価学会の仏法(ぶっぽう)には、確実にある!!ということです。だれでも、夢があり、希望がある。また、だれでも、さまざまな現実の悩みがある。その夢や希望、現実の悩みに対して、いったい、どうしたらいいのか?だれでも、夢や希望の実現や、悩みの解決に向かって、一生懸命(いっしょうけんめい)、努力していくと思う。けれど、ほんとうに悩みや問題を解決できるのか・・?ほんとうに、夢や希望をかなえていけるのか・・?と考えた時、そこには、さまざまな問題があり障壁(しょうへき)がある。また、どうしても越えられない宿命(しゅくめい)がある場合もある。いったい、その宿命に対して、それを明確に打ち破(やぶ)り、解決していく方途(ほうと)があるのか・・?世間は、それを、だれも示(しめ)していない・・。だれも、明確な答えを出してくれない。その宿命に泣き、不幸に落ちていった人たちが、どれだけ多いことか・・。その宿命に対して、明確な解決方法と力(ちから)を持ち、人生を希望へ幸福へと、確実にもっていっていくことのできる哲学であり力が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰だということです。だから、創価学会は、世界に広がり続ける。それは、当たり前の結果だからです。必然(ひつぜん)の結果として、創価学会は、また一人、また一人と、広がり続ける。それは、創価学会が、本当に、世界中の、どんな「ひとり」であろうと、その人の悩みを解決し、夢や希望をかなえる、現実的な、決定的な力であることの、証明(しょうめい)になっていると、心から思う・・・。
2015.09.09
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。『生きるということは、宿命(しゅくめい)との壮絶(そうぜつ)な格闘(かくとう)といってよい。それに打ち勝ってこそ、幸せはある。勝つか、負けるか - - - - その避(さ)けがたき現実を直視(ちょくし)する時、信仰という生命の力の源泉(げんせん)をもち、何ものにも揺(ゆ)るがぬ人間の芯(しん)を確立する必要性を、痛感(つうかん)せざるを得(え)ない。』信仰といっても、葬式仏教(そうしきぶっきょう)や神社信仰、観光宗教のようなものとは、まったく違う。それらの葬式仏教や神社信仰、観光宗教が、なんの足(た)しにもならないことは、わかりきっているし、かりに、どんなに真剣にやったとしても、なんの効力(こうりょく)もないでしょう。かえって、それらの宗教は、デタラメな間違った宗教であるがゆえに、逆に、真剣にやればやるほど、その間違ったデタラメの結果として、その人に害(がい)をもたらし、その人を不幸にしてしまう・・!それが、本当のことろです。そうではなくて、生命の力の源泉(げんせん)をとなるもの、何ものにも揺(ゆ)るがぬ人間の芯(しん)を確立できるものが、真実の信仰であり、それが、創価学会(そうかがっかい)が実践している、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。人は、だれでも、おもしろおかしく生きたいと思っている。楽しく、軽快(けいかい)に、幸せに生きたいと思っている。また、世間は、その表面上の華(はな)やかさ、軽快さ、スマートなかっこ良さをもてはやし、宣伝(せんでん)しているようにも思う。けれど、現実は違う。すべての人に宿命(しゅくめい)がある・・。そして、その宿命との壮絶な戦いがある。そして、その宿命に勝つか、負けるか。この避(さ)けがたい現実がある。実は、幸せとは、見た目の華やかさや、きらびやかさではなく、その宿命に勝っていけるのか?いけないのか?ここにあるのでは、ないだろうか・・・!宿命に勝っていけるのか?いけないのか?ここに、幸せか、そうでないかの境目(さかいめ)があるのでは、ないだろうか!おそらく、幸せとは、どんな宿命も、悠々(ゆうゆう)と乗り越えていける境涯(きょうがい)、また、そのどんな宿命も乗り越えていける大生命力(だいせいめいりょく)の中にあるのではないだろうか・・。その大生命力を持ち、生ききっていくところに、本当の幸せはあるのではないだろうか。では、その大生命力を湧(わ)き上がらせて、悠々(ゆうゆう)と生きていく、その「生命力」は、いかにして湧き上がらせ、つかんでいくことができるだろうか・・・?その生命力を無限に湧(わ)き上がらせ、苦難を乗り越え、人生を勝っていけるのが、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰だと、いうことです。現実問題として、宿命を乗り越え、勝っていける方法は、この創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰しかない!!ということです。南無妙法蓮華経は歓喜(かんき)の中の大歓喜だという。南無妙法蓮華経をとなえること以上の遊楽(ゆうらく)はない!とも言う。それは、文字通り、南無妙法蓮華経をとなえることほど楽しいことはない!ということであり、南無妙法蓮華経をとなえることほど有意義(ゆういぎ)なこともない!ということです。なぜならば、南無妙法蓮華経をとなえることは、宿命を打ち破り勝っていける、唯一(ゆいいつ)の方法だからです。宿命を打ち破り勝っていける方法がこれしかない!ということは、南無妙法蓮華経をとなえることは、本当の幸せをつかむ、唯一の方法だ!ということです。だから、これ以上楽しいこともないし、これ以上幸せなこともない。だから、南無妙法蓮華経をとなえると、自分の生命が歓喜してくるんだと思う。それは、自分が幸せをつかんでいる証拠(しょうこ)であり、宿命に打ち勝っている証拠だと思う。ゆえに、悩みを乗り越え、困難を打ち破り、夢や希望をかなえて、幸せになっていける!池田先生が言うように、生きるということは、宿命との壮絶な格闘です。それに打ち勝ってこそ、幸せはある。そして、その宿命に勝っていける生命の力の源泉(げんせん)、何ものにも負けない、幸せの芯(しん)を確立していけるのが、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰だということです・・!
2015.08.23
オーストリア元文部次官で声楽家のユッタ・ウンカルト・サイフェルト博士が、池田先生(創価学会インターナショナル会長)との対談の中で、言っています。それは、池田先生が、仏典(ぶってん)の中の『声仏事(ぶつじ)を為(な)す』について語られた後です。池田先生は、言います。「仏典にはこうあります。『声仏事(ぶつじ)を為(な)す』と。他の言葉に言い換(か)えるならば、『仏事(ぶつじ)』とは、誰人(たれびと)にも胸中に尊極(そんごく)な生命があることを教え、人々に「生きゆく力」と「希望」そして「勇気」を贈(おく)るという意義(いぎ)になりましょうか。」それに対して、サイフェルト博士は言います。「その一節(いっせつ)、とても素晴らしいと思います。伺(うかが)って、忘れられない思い出が心に浮かびました。池田香峯子夫人(かねこふじん/池田会長夫人)についてです。私が個人的に悩みを抱(かか)え、本当につらかった時にお会いしたことがありました。内容はお伝えしなかったのですが、お別れの折(おり)、思わず涙(なみだ)が出てしまいました。その時、香峯子夫人は一言、とても優(やさ)しく寄り添(よりそ)うような言葉で慰(なぐさ)めてくださいました。そして南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)との題目(だいもく)を唱(とな)えてくださったのです。それまではとても不安で、できれば家に戻(もど)りたくないというのが本心(ほんしん)でしたが、それから帰宅し、全て解決(かいけつ)できました。あの時、香峯子夫人の声に救(すく)われました。思い返すと、今でも涙が出てきます。本当に感謝しています。私に日本語ができれば自由にお話がしたいのですが。」・・・・・・・・・・・・・ぼくが、かってに思うに、池田会長夫人(香峯子夫人)は、サイフェルト博士と別れるときに、南無妙法蓮華経をとなえただけではなく、その後もきっと、サイフェルト博士の悩みの解決と幸せのために、ご本尊(ほんぞん)に南無妙法蓮華経をとなえてくれたのではないか・・と思います。ちなみに、ご本尊(ほんぞん)とは、仏(ほとけ)の生命そのものを、あらわしたものであり、自分の生命そのものを、あらわしたものでもあり、その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、自分自身の中にあることをあらわしたものが、ご本尊で、創価学会の人たちは、その「ご本尊(ほんぞん)」に日々、南無妙法蓮華経をとなえて祈っています。そして、先ほど言ったように、ぼくのかってな思い込みではありますが、池田会長夫人(香峯子夫人)は、サイフェルト博士の幸せを願って、ご本尊に南無妙法蓮華経をとなえたにちがいないと思えてならないんです・・。何を言いたいかというと、池田会長夫人(香峯子夫人)がとなえた『南無妙法蓮華経』、創価学会の人たちがとなえている『南無妙法蓮華経』には、力(ちから)がある!ということです。人間の悩みを解決する力、人間に幸せをもたらす力が、南無妙法蓮華経には、確実に、現実に、『ある!!』ということです。それゆえに、サイフェルト博士の悩みも、解決していった。そう思えてなりません。また、『南無妙法蓮華経』には、人間の生命を変革(へんかく)していく力がある!ということです。それは、南無妙法蓮華経をとなえている自分自身の生命だけでなく、自分が思い願っている人、その相手の人の生命、その相手の人の心さえも、変えていける!ということです。ゆえに、サイフェルト博士の心が変わり、そのことによって、サイフェルト博士の悩みも解決していった。そう言えるのではないかと思います。また、南無妙法蓮華経をとなえる、その音声(おんじょう)は、部分的、局所(きょくしょ)的な人だけでなく、世界そのものに伝わっていく。その人が住む、家庭や地域、職場にも伝わり、間接的(かんせつてき)にも、直接的にも、その人や周りの人々を幸せにしていく。大きく言えば、南無妙法蓮華経の音声(おんじょう)は、全宇宙に通(つう)じていく。また、生命の次元(じげん)から言えば、死んでいった人々の生命、自分の家族や先祖(せんぞ)、今は亡(な)き人々の生命にも伝わっていく。たとえ、その死んでいった人の生命が、地獄(じごく)のような苦しみを味わっていたとしても、その苦しみを消し去り、昇華(しょうか)して、その亡くなっていった人々の生命を幸せにすることができる。たとえて言うなら、その亡くなった生命が、地獄にいたとしても、その人の生命を救いだし、幸福の世界へと導くことができる!それが、『南無妙法蓮華経』です。ともかく、南無妙法蓮華経の力は、計(はか)り知れない。たったひとことの『南無妙法蓮華経』であったとしても、無限の力と可能性を秘(ひ)めている。まして、その南無妙法蓮華経をとなえた人の真心(まごころ)と愛情が強ければ強いほど、その真心は伝わり、相手の心を変え、生命を幸せに変え、その人を幸せにしていける。ゆえに、サイフェルト博士の悩みも解決していった。そう言えると思います。また、その創価学会(そうかがっかい)の人たちがとなえる『南無妙法蓮華経』によって、どれだけの人の心が幸せに変わり、蘇生(そせい)していったかは、計り知れない。それは、もの凄(すご)いことであり、まさにそれは、生命の『幸せの革命(かくめい)』と言っていいと思います。そういう「幸せの革命」を世界中の人々の中に起こし、現実に悩みを解決させ、現実に夢や希望をかなえる力となって、人々を幸せにしてきたのが、 『創価学会』です。そして、その悩みを解決し、夢や希望をかなえていく、無限(むげん)の『幸せの力』が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです・・・!
2015.07.20
ロシアの元宇宙飛行士である、アレクサンドル・セレブロフ博士が、池田先生(創価学会インターナショナル会長)との対談集の中で、言っています。宇宙飛行士に最も必要な資質(ししつ)は何か - - -「それは、『人間としての品性(ひんせい)』をもっていることです。つまり、ずるいことや卑(いや)しいことをしない『高潔(こうけつ)な人格』です。」「そして、もう一つ、大切な要件(ようけん)は、『ユーモアのセンス』です。」置かれた状況(じょうきょう)を笑い飛(と)ばすくらいの度胸(どきょう)が必要だということだそうです。アレクサンドル・セレブロス博士は、1982年から94年に至(いた)るまで、計4度、372日22時間52分にわたる宇宙飛行を経験。船外活動は10回に及(およ)んだ。その実績は、94年度版のギネスブックにも記録されている。セレブロス博士は、宇宙飛行の中で、死を覚悟(かくご)したことが三度あったそうです。1度目は1983年4月、2回目の宇宙飛行。宇宙ステーションとのドッキングに失敗し、衝突(しょうとつ)事故を起こす寸前(すんぜん)だった。「レバーを下ろせ!」セレブロフ博士のとっさの判断で、博士の乗った宇宙船「ソユーズT8号」は宇宙ステーションをかすめるように通り過ぎていった。2度目は93年9月16日、6回目の宇宙遊泳(ゆうえい)のとき。なんと、博士の命綱(いのちづな)が外れてしまったのだ。「外れてるぞ!」と船長が叫ぶ。「そんなことは、わかっている。」と博士。必死にステーションの一部にしがみつき、宇宙の藻(も)くずとなる運命を免(まぬか)れた。3度目は94年1月14日。宇宙船「ソユーズ」に乗って、ステーション「ミール」の近くを飛んでいた。すると突然、制御(せいぎょ)レバーが効(き)かなくなった。ソユーズが、秒速1メートルでミールに近づいていく。偶然(ぐうぜん)、ソユーズはミールのアンテナに引っかかった。衝撃(しょうげき)が和(やわ)らぎ、博士のいた居住区(きょじゅうく)の壁(かべ)が破壊(はかい)されずに済(す)んだ。そのセレブロス博士が、池田先生との対談を終えた後、言っています。「私が経験したことの内実(ないじつ)を吟味(ぎんみ)し、まさに新たな人生哲学(てつがく)に昇華(しょうか)しえたのは、池田先生という並外(なみはず)れた魅力的な、傑出(けっしゅつ)した深い人格と出会い、語り合えたからにほかならい。」そして、セレブロス博士は、池田先生を、『人生の師(し)』と呼んだ。宇宙飛行士といえば、エリート中のエリートです。そのエリート中のエリートでさえ、納得(なっとく)させ、尊敬と共感(きょうかん)を禁じ得(きんじえ)ないのが、創価学会の、『池田先生』だということです。また、創価学会(そうかがっかい)が実践している、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の仏法(ぶっぽう)には、宇宙を体験したようなエリート中のエリートでさえも、納得させ、大きな感銘(かんめい)を抱(いだ)かせる、明確な哲学がある!ということです。では、逆(ぎゃく)に、セレブロス博士のようなエリートでないと、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法は、理解できないか?というと、それも違(ちが)う。創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰は、専門的な知識など、まったくないような、おじいちゃんやおばあちゃんであっても、また、子供であっても、納得(なっとく)させられるものがある!すなわち、どんな人にでも、納得させ、歓喜(かんき)して実践(じっせん)していける、ものすごい力(ちから)であり、エネルギーが、創価学会が実践している南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰だということです。すなわち、この創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰を、現実にやってみることによって、理屈(りくつ)や理論など、まったくわからない人であっても、『この創価学会の仏法はスゴイ!!』『この創価学会の南無妙法蓮華経の仏法は、本物だ!!』と思えるだけの力とエネルギー、『結果』が、現実にもたらされる!ということです。すなわち、超エリートから見ても、この創価学会の仏法(ぶっぽう)の生命哲学は、非の打ち所(ひのうちどころ)がなく、また、その仏法を実践した結果としても、非の打ち所のない、大きな『幸せ』という結果がもたらされる!ということです。単純(たんじゅん)に言えば、世界中のどんな人であっても、幸せにすることができる!!ということです。どんな人の悩みも解決していけるし、どんな人の夢や希望もかなえていけるだけの、大きな大きな力(ちから)になっていける!ということです。どんな環境(かんきょう)の、どんな境遇(きょうぐう)の人の悩みにも対応(たいおう)し、どんな人の幸せにも対応して、その人たちの夢や希望をかなえていく、強力で決定的な力になっていく!ということです。それが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰です。ゆえに、セレブロフ博士は、池田先生の対談のなかで、大きな共鳴(きょうめい)と感嘆(かんたん)を味わい、池田先生を、『人生の師』と呼んだ。宇宙から見たとしても、人生という立場から見たとしても、世界の平和から見たとしても、悩みや問題の解決から見たとしても、夢や希望の実現、幸せという観点(かんてん)から見たとしても、非の打ち所がなく、完璧(かんぺき)な生命哲学、宇宙哲学、そして、現実に幸せになる!『幸福哲学』が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです・・。
2015.07.12
アメリカの良心と言われる、ノーマン・カズンズ博士が、言っています。『世界中で原爆(げんばく)よりも強力なのは、人間の精神の力(ちから)だけです。』創価学会インターナショナル会長である、池田先生が、言っています。『一人の生命が最も尊厳(そんげん)であり、宇宙大の力と智慧(ちえ)と可能性を秘(ひ)めていることを明確に説(と)き明かしたのが、私たちが探求(たんきゅう)し実践する大仏法(だいぶっぽう)です。』ノーマン・カズンズ博士が言うように、人間の精神には、計(はか)り知れない強力な力がある。また、池田先生が言うように、一人の人間の中には、宇宙大の力と智慧(ちえ)と可能性が秘められている。創価学会(そうかがっかい)の人たちがやっていることは、その一人の人間の中にある、無限(むげん)の力と可能性、その一人の人間に秘(ひ)められた、精神の力がどれだけスゴイか!ということの証明(しょうめい)だと思う。すなわち、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰には、人間の中に秘められた、知恵と力、可能性を、無限に引き出していく力がある!ということだと思う。確かに、人間の中には、無限の知恵と力、可能性が秘(ひ)められいる。それは、だれだってわかる。けれど、それは単(たん)なる一般論(いっぱんろん)であり、世間でいうところの、「人間の中には、無限の知恵と力、可能性が秘(ひ)められいる。」というのには、具体性(ぐたいせい)がなく、それが直接的(ちょくせつてき)に、悩みの解決や夢の実現、さまざまな環境(かんきょう)や世界を変えていく現実的な方途(ほうと)とはならない。「確かにそうだよね~」「人間には無限の可能性があるよね~~。」ということであり、何の解決策(かいけつさく)にも、人生を切り開く力にもなっていかない・・。けれど、創価学会が言うところの、『人間の中には、無限の知恵と力、可能性がある!!』というのは、まったく意味が違(ちが)ってくる。それは、現実であり、現実に実行可能なことであり、現実に、無限の智慧(ちえ)と力、可能性を切り開いていける!!ということです。ようするに、現実に、悩みを解決していけるし、夢や希望をかなえていける!し、環境と世界を、より良く、平和に、幸福にしていくことができる!! ということです。その現実を変えていくことのできる力(ちから)が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。たとえば、なにかの悩みがある。どうしても解決(かいけつ)したい・・!そんな時、創価学会の人たちは、「よし、創価学会の信心によって、必ず解決してみせる!」と決め、真剣にご本尊(ほんぞん)に南無妙法蓮華経をとなえていく。ちなみに、ご本尊とは、仏(ほとけ)の生命そのものを、あらわしたものであり、自分の生命そのものを、あらわしたものでもあり、その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、自分自身の中にあることを、あらわしたものが、ご本尊(ほんぞん)です。そして、仏法の実践活動である創価学会の活動に挑戦していく。そうしていった時、本当に悩みが解決していく。そして、より幸せになっていける!また、なにかの夢や希望がある。その時、創価学会の人たちは、当然、その夢や希望の実現のための具体的な努力はするとして、それにプラスアルファするかたちで、創価学会の信心に挑戦していく。『必ず、この願いをかなえてみせる!!』と真剣にご本尊に南無妙法蓮華経をとなえ、仏法の実践である創価学会の活動にも、真剣に挑戦していく。そうしていったとき、さまざまなことが積(つ)み重(かさ)なり、運を引き付け、まわりの人たちも味方(みかた)にして、本当に夢や希望をかなえることができていく。それが、創価学会(そうかがっかい)の信心です。どんな過酷(かこく)な運命であったとしても、どんな絶体絶命(ぜったいぜつめい)のピンチであったとしても、この創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信心によって、『悩みを解決することが、できた!!』『夢や希望を、かなえることができた!!』と、歓喜(かんき)の声をあげることが、できる。現実に、そうなっていけるのが、創価学会の信心です。また、それが、創価学会の歴史です。その、ひとりひとりが、悩みを解決し、夢や希望をかなえていった積(つ)み重(かさ)ねが、世界192カ国に広がる、創価学会になったわけです。ノーマン・カズンズ博士が言うように、人間の精神には、原爆(げんばく)よりも強力な力がある。また、池田先生が言うように、一人の人間の中には、宇宙大の力と智慧(ちえ)と可能性が秘められている。その生命の無限の力を、自分の人生の中で開花させ、自分の生命で体験し、勝利と幸せをもって、味わっていけるのが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰だということです・・・!
2015.06.02
世の中には、世界には、優秀(ゆうしゅう)な人がいる。素晴らしい人がいる。人道的(じんどうてき)に素晴らしいことをやっている人。人間性が素晴らしい人。素晴らしい才能と能力を発揮(はっき)して活躍(かつやく)している人。世の中を変えるような発明や発見をした人。どれも、これも、素晴らしいことであり、多いに尊敬すべきであり、賞賛(しょうさん)すべきだと思う。けれど、本当は・・、それよりも素晴らしいことがある。それよりも、讃(たた)えられるべきことがある。それよりも、尊敬(そんけい)していかなければならないことがある。それが、創価学会(そうかがっかい)の、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰を実践し、その具体的な活動である、創価学会の活動を、真面目にやっている人たちです。はっきり言えば、それは、究極(きゅうきょく)の正義(せいぎ)だからです。究極の善(ぜん)であるからです。人類と世界に幸せと平和をもたらす、究極の行動であるからです。はっきり言えば、人類と世界を、根本から幸福に変えていける、これ以上の行動はないからです。その人たちは、無名であり、名声も権力(けんりょく)もないかもしれない。名もない庶民(しょみん)かもしれない。けれど、根底(こんてい)から、確実に、着実(ちゃくじつ)に、世の中を良くし、幸せにしていく方法を知っている。そして、それを実践(じっせん)している。これ以上に尊(とうと)い行動があるだろうか・・・・!!創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰を行(おこな)っていくということは、実は、モノスゴイことなんです。たとえば、地球は自転しながら、太陽のまわりを回っている。それは、宇宙の、本源的(ほんげんてき)な法則(ほうそく)であり、力だと言える。それと同じように、生命を、宇宙を、人間を、本源的な部分から幸せにしていく法則がある。力(ちから)がある。その生命を、宇宙を、人間を、根本的な部分から幸せにしていく法則であり力が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)です。また、「南無妙法蓮華経」とは、地球が自転しながら太陽のまわりを回っているように、宇宙を動かしていく本源的な、究極の力(ちから)だとも言えます。幸せをもたらす力、宇宙を動かしていく力・・!それが、「南無妙法蓮華経」なんです。そして、その「南無妙法蓮華経」を自(みずか)ら、となえて、仏法の実践活動である創価学会の活動をやっていくということは、宇宙を、世界を、人間を、幸せに変革(へんかく)し、幸せを現実にもたらしていくことになる。それが、創価学会がやっていることです。世界は、善と悪のせめぎ合いだとも言えます。また、世界は、幸せと不幸のせめぎ合いだとも言えます。その中で、善の勢力(せいりょく)、幸せの勢力を、現実に増やし拡大(かくだい)しているのが、創価学会の人たちだと言えます。また、世界に幸せの勢力を、どこまでも増やしていく力が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰です。世界の鋭(するど)い有識者たちは、そのことに気づいているから、創価学会に、最大の敬意(けいい)と賞賛(しょうさん)を贈(おく)っているわけです。ある、世界の有識者が、創価学会のひとたちに向かって、言っていた。「あなたたちは、自分たちが、どれだけスゴイことをやっているか、どれだけ素晴らしいことをやっているか、わかっていない・・・。」確かに、創価学会の人たちは、そんな大げさなことは考えていない場合もある。創価学会の理念(りねん)と目標が素晴らしいことはわかっているし、 それを目指(めざ)して、がんばっているとしても、日々やっていることは、地道で目立たないことが多いので、それほどスケールの大きいことは、あまり自覚(じかく)していないこともある。けれど、その世界の有識者が言うように、創価学会の人たちがやっていることは、実は、スゴイことであり、素晴らしいことなんです。もっとも、創価学会の人たちは、そんな大げさな自覚はないとしても、素晴らしい賞賛(しょうさん)がなかったとしても、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法の信仰と、仏法の実践活動である創価学会の活動を、喜々(きき)として行っている。なぜなら、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法を実践することは、実質的(じっしつてき)に、ものすごく価値(かち)のあることであり、ものすごい力(ちから)のあることだからです。それだけの、ものすごい価値と力のあることをやっているのだから、幸せにならないわけがない!からです。その南無妙法蓮華経の仏法を実践していった結果として、現実に、悩みを解決していけたり、夢や希望をかなえていけたりしてしまうからです。結果が出てしまう。そして、最終的に、最高の勝利と幸せを勝ち取ることができる。だから、創価学会の人たちは、喜々として創価学会の活動をすることができる。また、それが、創価学会がやっていることが、どれだけ素晴らしいか・・!どれだけ偉大か・・・!どれだけスゴイことかの、実質的な証明(しょうめい)になっていると、言えると思います・・・。
2015.05.06
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が言っています。『人が同情(どうじょう)してくれない。理解してくれない。- - - あまりにも、ちっぽけなことである。正々堂々(せいせいどうどう)と、汝自身(なんじじしん)に生き抜(ぬ)き、祈りと行動で、この人生を飾(かざ)っていただきたい!諸天善神(しょてんぜんじん)を揺(ゆ)り動かしていく、自分自身になっていただきたい!』ちなみに、池田先生が言う『祈り』とは、世間一般的な葬式仏教(そうしきぶっきょう)や観光宗教の祈りではなく、創価学会(そうかがっかい)が実践している、南無妙法蓮華経(なんみょうほうけんげきょう)をとなえて祈る、『祈り』のことです。また、『諸天善神(しょてんぜんじん)』とは、自分を守ったり、助けたり、人生を導(みちび)いてくれるような、あらゆる働(はたら)きをいい、 諸天善神となるのは、人であったり、さまざまな環境や状況(じょうきょう)であったり、さまざまな運(うん)であったり、人生におこるさまざなな事柄(ことがら)が、自分にとっての諸天善神になっていきます。そういう自分に幸せをもたらす、あらゆる働きを『諸天善神』と言います。人が同情してくれない。理解してくれない。そんなことは小さなこと。とるに足(た)らないこと!!そんなことは、大きく見下(みお)ろして、自(みずか)らの、南無妙法蓮華経をとなえる祈りと、行動によって人生を飾(かざ)っていく・・!すなわち、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰は、自分自身を太陽と輝(かがや)かせる!自分自身が太陽と輝いたならば、人がどうあろうと、もう関係ない!!なぜなら、自分自身が、もう、輝いているのだから・・!もう、自分自身から光が発(はっ)せられているのだから、人が同情してくれなかろうと、理解してくれなかろうと、関係ない。逆(ぎゃく)に、自分自身の輝きの光によって、周りの人々、環境(かんきょう)や世界に光をあて、輝かせ、幸せにしていくことができる。それが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰です。自(みずか)らが、主体(しゅたい)となって、一国の王のように、人生に立ち向かい、そして勝っていく。それを可能にするのが、南無妙法蓮華経をとなえることを根本(こんぽん)とした、創価学会の信仰であり、活動です。そして、池田先生が言うように、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰を根本にして、人生に立ち向かっていったとき、南無妙法蓮華経は、あらゆるものを動かしていく力、あらゆるものを幸せにしていく力、あらゆる幸せを自分に引きつけ、引き込(こ)んでいく力(ちから)なので、結果として、必ず幸せになっていく。また、南無妙法蓮華経は、あらゆるものを変革(へんかく)していく力なので、自分自身が大きく変わり、より良く境涯革命(きょうがいかくめい)していくことができる。そうなれば、さまざまな悩みを解決することができるし、あらゆる困難(こんなん)も乗り越(こ)えていくことができる。そして、夢や希望をかなえていける自分になっていくことができる。それとともに、さきほど言ったように、南無妙法蓮華経は幸せをもたらす力なので、「運(うん)」が自分に引き寄(よ)せられ、幸せをつかむ上で、とても重要(じゅうよう)だと言える、ラッキーや運をつかむことができる。だから、人が同情してくれなくても、理解してくれなくても、関係ない!!自分自身が、この創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰によって、自(みずか)らが輝き、自らの運命を切り開き、一国の王者のごとく、 あらゆる幸せのエネルギーを引き寄(よ)せ、人生を勝利していける。それが、自分自身の祈りと行動によって、最高の人生、最高の勝利をつかんでいける、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、いうことです・・・!
2015.03.17
以前、聖教(せいきょう)新聞に、ある創価学会(そうかがっかい)に新しく入会した壮年の体験がのっていました。その壮年(そうねん)の入会のきっかけは、三年前の東日本大震災(だいしんさい)の被災地(ひさいち)で目(ま)の当たりにした創価学会員の医師や看護士(かんごし)はじめ、創価の友の献身(けんしん)の姿だったそうです。彼は語っています。「その創価学会の人たちの言葉は苦しんでいる人々の心に染(し)み入る誠実(せいじつ)さに溢(あふ)れていました。その姿を見る度(たび)に、私は何度も目頭(めがしら)が熱くなりました。」「疲(つか)れを知らない情熱の根拠(こんきょ)を知りたいと思いました。」彼は、自分の生き方を根底(こんてい)から変えようと創価学会に入会。さっそく、二人の友も入会に導(みちび)き、共に黄金(おうごん)の人生を歩(あゆ)まれているそうです。池田先生(創価学会インターナショナル会長)が言っています。『創価の友の「人の振舞(ふるまい)」ほど、雄弁(ゆうべん)に仏法(ぶっぽう)の素晴らしさを物語るものはない。友のため、地域のため、社会のため、真心を尽(つ)くす、わが同志の「振舞」の積(つ)み重ねが、知らず知らすのうちに、無数の仏縁(ぶつえん)を結(むす)び、育(はぐくみ)み、広げてきたのだ。時代は一段(いちだん)と我らの価値創造(かちそうぞう)の行動を求めている。』人の振舞(ふるまい)は、ウソをつけない。人の振舞には、真実が込(こ)められている。とくに、何かあって、大変な時は、そうかもしれない。そんな時、光るのが、創価学会の人たちの、仏法(ぶっぽう)の信仰によって培(つちか)った生命の輝(かがや)きであり、その振舞だと思う。確かに、いいかげんな三流雑誌などを読んで、創価学会を良く思っていなかった人であっても、なにかの機会に、創価学会の人たちの振舞にふれ、見方が180度変わったということは、たくさんある・・!!創価学会の人たちの振舞が、多くの感動をもたらしたことも、多々(たた)あると思う。それは、人間としても、人生という道からしても、創価学会が間違(まちが)っていない!ことを表(あらわ)している。また、間違っていないだけでなく、人生にとっても、人間にとってもプラスになり、幸せと希望と勝利をもたらす、大きな大きなエネルギーであることがわかる。率直(そっちょく)に言えば、それが、創価学会の人たちが実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、 仏法の信仰なんだと思う。もとより、その創価学会の南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)は、人間にとっても人生にとっても、生き方としてプラスになるだけでなく、現実に悩みや苦しみを解決する力(ちから)となっていく。現実に、夢や希望をつかむ強力なエネルギーになって、その人々に夢や希望をかなえさせ、幸せを実現している。要(よう)するに、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰は、人間としても生き方としても素晴らしいだけでなく、人間として、人生として、素晴らしい生き方をするがゆえに、その素晴らしい結果として、悩みを解決できたり、夢や希望をかなえていけるようになっていく!ということです。すべてにわたって、人間としても、人生としても、自分の夢や希望にとっても、自分の悩みの解決のためにも、なんの矛盾(むじゅん)もなく、すべてを叶(かな)え、実現していける、ものすごい法則(ほうそく)であり、力(ちから)だということです。それが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰です。ともかく、池田先生が言うように、時代は、創価学会の哲学(てつがく)を求めている。生きることに対する確固(かっこ)たる価値(かち)と希望と力(ちから)を求めている。その絶対の価値となるもの。絶対の希望となるもの。どんな悩みや困難があったとしても乗り越(こ)え、解決していける、夢や希望をかなえていける決定的な法則(ほうそく)であり力となるものが、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということで す・・・。
2015.02.25
中国では、大変な尊敬(そんけい)を集めている、大指導者、周恩来(しゅうおんらい)総理の名前は、歴史などで、知っている人も多いと思う。その周恩来総理は、1972年、日中国交正常化を実現させた。日中国交正常化というと、日本では、表面上は、その時の総理だった、田中角栄氏が実現させたように言われているけれど、実情(じつじょう)は違っている。 田中角栄総理は、お膳立(おぜんだて)てが、すべて整(ととの)えられて、最後に調印(ちょういん)にサインしたということだけで、実際(じっさい)は、日中国交正常化のために努力してきた人たちが、別にいる。その日中国交正常化に尽力(じんりょく)した、大功労者(だいこうろうしゃ)が、創価学会インターナショナル会長である、池田大作先生だと、言える。当時、中国の周恩来総理は、民間交流の着実(ちゃくじつ)な積(つ)み重(かさ)ねの上に、国家関係の改善(かいぜん)を図(はか)ろうとしていた。『民(たみ)を似(もっ)て、官(かん)を促(うなが)す。』それが、周恩来総理の外交哲学(がいこうてつがく)であった。そして、その哲学は、対日政策(たいにちせいさく)にも適用(てきよう)された。周総理は、「大衆の中に基盤(きばん)を持つ団体」として、「創価学会(そうか がっかい)」に早くから注目していた。1960年代前半のことである。それは、池田先生が、創価学会第3代会長に就任(しゅうにん)し、日本を左右する社会的勢力(せいりょく)へ、大発展する時期である。周総理は、対日政策(せいさく)の関係者に、創価学会の研究を指示(しじ)した。また、そのころ、相次(あいつ)いで訪中(ほうちゅう)した、中国との友好を志 (こころざ)す松村謙三氏、高崎達之助氏が、周総理に創価学会を好意的に紹介した。一方、SGI(創価学会インターナショナル)会長の池田先生は、1961年、東京・両国支部の結成大会で、中国の国連復帰(こくれんふっき)を提唱(ていしょう)。1964年の11月、公明党結党にあたっては、「創立者からの唯一(ゆいいつ)のお願い」として、日中国交正常化への努力を促(うなが)した。1966年5月には、作家の有吉佐和子氏を介(かい)して、『中国にご招待(しょうたい)します。』との周恩来総理の伝言が、SGI池田会長に伝えられる。そして、周総理の信頼を決定づける出来事が起った。1968年9月8日、東京・日大講堂で、池田先生は、1万数千人の青年を前に、『日中国交正常化提言』を行った。当時、反対勢力(はんたいせいりょく)もあり、日本と中国の関係は、厳(きび)しいものがあった。そういう意味で、国交正常化を提言(ていげん)することは、自分の身に危険がおよぶ可能性もあった。その中での提言である。日中国交正常化を望む、友好の先達(せんだつ)である松村謙三氏は、『百万力の力を得た!』と語っています。そして、1972年、日中国交正常化は、実現していく。そして、後に、1974年、池田先生と周恩来総理は、会見する。その当時、周恩来総理の病状は、大変悪化していて、きびしい状態にあった。1974年12月5日、場所は北京(ぺきん)の305病院。周総理の入院先は機密事項(きみつじこう)で池田SGI会長は後に、そこが病院だったことを知る。その日の午前、池田SGI会長は、トウ小平(とうしょうへい)副総理に会っている。 中国側が池田SGI会長を最大に遇(ぐう)した表(あらわ)れだが、同時にそれは、総理自身には会えないことを意味していた。しかし、12月5日夜の答礼宴(とうれいえん)の席上、中日友好協会の・廖承志(りょうしょうし)会長が、そっと告(つ)げた。「池田会長、周恩来総理が、待っておられます。」それは、周総理自身の強い意向(いこう)であることは明らかであった。SGI池田会長は、総理の健康を心配し、いったんは固辞(こじ)するが、「それでは2、3分だけ。ひと目お会いしたら、失礼をさせてください」と、車上(しゃじょう)の人となった。実は、その時、周総理は、『会見するなら命の保証(ほしょう)はできない!』と医師団に猛(もう)反対されていた。だか、総理は、『どんなことがあっても会わねばならない!!』と譲(ゆず)らない。「周恩来同志(どうし)がそこまで言うのなら・・!」という、トウ頴超婦人(とうえいちょう/周総理夫人)の進言(しんげん)によって、『5分だけ』との条件付きで、認められたのである。会見上には、池田SGI会長と香峯子婦人(かねこ/池田会長夫人)だけが入った。総理を疲(つか)れさせないよう、SGI会長が、そう希望したのである。「池田会長とは、どうしてもお会いしたいと思っていました。お会いできて本当にうれしい。」「池田会長は、中日両国人民の友好関係の発展は、どんなことをしても必要であるということを何度も提唱(ていしょう)されている。そのことが私にはとてもうれしい。」池田会長は、答える。「中日友好が今日まで発展できたのは、私たち双方(そうほう)の努力の成果(せいか)であり、そして、私たちは、その努力をこれからも続けて行くことを希望します。」時に総理76歳、SGI池田会長46歳。「あなたが若いからこそ、大事に付き合いたいのです。」総理は言った。語らいは終始、和(なご)やかに進んだ。「そろそろお休みください。」と書かれた医師団からのメモが総理に渡された。総理は、メモを制(せい)して話しを続けた。「ご出身はどちらですか」「東京です」とSGI会長。香峯子夫人も「東京です」。SGI会長が「二人で一人前です」と付け加えると、呵々大笑(かかたいしょう)する総理であった。だか、中日の未来について語る時、その目は鋭(するど)かった。「中日平和友好条約の早期締結(ていけつ)を希望します」「20世紀の最後の25年間は、世界にとって最も大事な時期です。お互(たが)いに平等な立場で助け合い、努力しましょう。」池田SGI会長は、それを総理の『遺言(ゆいごん)』と受け止めた。医師団が、5分だけと条件をつけて認められて会見は、周総理の意向(いこう)によって、30分に及(およ)んだ。会見の後、池田SGI会長が、日中のために最も心血(しんけつ)を注(そそ)いだのは、青年交流だった。創価大学に、国交正常化後初の国費留学生を受け入れ、その後、創大に学んだ留学生の中から、友好を担(にな)う多くの指導者が育った。創大と中国の各大学との教員・留学生の交換(こうかん)、全青連(中華全国青年連合会)と創価学会青年部の相互交流(そうごこうりゅう)。- - - その池田会長が築(きず)いた『金の橋』を渡(わた)って、無数の若い友情が生まれた。思えば周総理も、日本に遊学(ゆうがく)し、青雲(せいうん)の志(こころざし)を燃やした一人である。「五十数年前、私は、桜の咲(さ)くころに日本を発(た)ちました・・・」会見で総理は、日本留学の日々を、懐(なつ)かしそうに振(ふ)り返った。周総理の来日は大正年代。中国人への強い差別(さべつ)にさらせれ、抗日(こうにち)運動にも関(かか)わっている。だが、その後の総理の日本へのまなざしには、鋭(するど)い分析(ぶんせき)の一方で、温かいものが通(かよ)っている。その感情の源(みなもと)には、日本の庶民(しょみん)との触(ふ)れ合いがあった。異国(いこく)から来た貧(まず)しい周青年に、何かと世話(せわ)を焼いてくれる下宿(げしゅく)のおばちゃんがいた。「お腹(はら)がすいてるでしょう?」と、いつもご飯(はん)をごちそうしてくれた。「とくに、その中の豆腐(とうふ)を使った料理が、じつにおいしかった。」「下宿に帰って、そのあばちゃんと話すとホッとした。」周総理が、日本の友人に語ったエピソードである。人間と人間との、温かな触(ふ)れ合いのひとしずくが集まって、やがて国と国の友好の大海へと注(そそ)ぐ。凪(なぎ)の時も、嵐(あらし)の時も、そのひとしずくに思いをはせたい。大衆の中で、大衆とともに - - -周総理が残し、池田SGI会長が受け継(つ)ぎ、広げてきた、友好の永遠の基盤(きばん)である・・・。
2015.02.08
人気のあるアニメで、「魔法少女まどか☆マギカ」というアニメがあります。この物語は、魔法(まほう)少女に対するあこがれを、逆手(さかて)にとったようなダークな内容ですが、通称(つうしょう)キュウべえという宇宙生命体が、 少女に、どんな願いでも、ひとつだけ叶(かな)えてあげるかわりに、魔法少女となって、魔女と戦ってほしいという契約(けいやく)を結(むす)ぶ物語で、少女たちは、自分の願いをかなえるために、魔法少女となって、魔女たちと戦うことになる。魔法少女となったものは、魔女の呪(のろ)いを受けることになり、ほっておいたら、その魔女の呪いによって、自分が死んでしまうことになる。けれど、魔女を倒すと、ある種の生命を浄化(じょうか)するアイテムが手に入り、そのアイテムによって、自分の生命を浄化して、生きながらえることができるという話しです。だから、魔女と戦い、魔女を倒(たお)すしかない・・。それでも、このアニメの中で、魔女は、呪(のろ)いによって、人間の命を奪(うば)う、悪そのもののような存在なので、魔法少女たちは、その悪である魔女を倒して、人々と、この世界を守るという正義(せいぎ)と使命感(しめいかん)があり、それが、彼女たちの支(ささ)えになっていた。けれど、魔法少女たちは、やがて、その悪そのものである「魔女」が、実は、魔法少女のなれのはてであることを知ってしまう。魔女とは、実は、魔法少女の生まれ変わりであり、魔法少女たちは、魔女の呪いによって、最終的には、「魔女」になってしまう。すなわち、自分たちは、世界のため、人々のためと思い、正義と希望をいだいて魔女と戦ってきたのに、結局(けっきょく)、自分たちが、人間を呪い、殺していく魔女になることがわかってしまい、正義と希望が、完全に打ち破(やぶ)られてしまう。そして、魔法少女たちは、絶望(ぜつぼう)していく。そして、最後の最後、魔法少女になることを拒(こば)んでいた、マドカは、魔法少女となることを決断する。ひとつの願いと、ひきかえに・・・。その「マドカ」が叶(かな)えてほしい願いとは、「過去から現在にいたるまで、魔法少女から魔女が誕生する前に、すべての魔女を消滅(しょうめつ)させてほしい!!」・・ということだった。そうなれば、魔法少女たちは、自分が死ぬ時に、自分が魔女になるという絶望をいだかず、希望と正義をもって、安らかに死んでいける・・。「魔法少女たちの希望と正義を奪(うば)わないでほしい・・」それが、マドカの願いだった・・。そのマドカの願いは、かなえられるが、その願いがあまりにも壮大(そうだい)であるため、マドカは、人間としての個体を保(たも)つことができず、宇宙のある種の法則(ほうそく)、概念(がいねん)となって、宇宙の中に溶(と)けこんでいく。マドカは、いわば、魔法少女の希望となって、宇宙に消えていった。そうして、魔法少女たちは、絶望をいだくことなく、死んでいけるようになっていく。絶望から、希望へ。マドカの願いは、この絶望を消し去り、希望を生み出すことだったのかもしれない。あらゆる人々の中から、絶望を消し去り、希望を生み出す・・・。わかりやすい譬(たと)えだから言うのだけれど、創価学会(そうかがっかい)の人々がとなえている、『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』とは、そういう力(ちから)だと思う。すべての人の中から、絶望を消し去り、希望を生み出してしまう!それが、『南無妙法蓮華経』の力です。だから、創価学会の人たちは、『南無妙法蓮華経を、となえる!』ことによって、どんな苦難(くなん)も乗り越(こ)えていくことが、できる。どんな絶望も打ち破(やぶ)り、希望を生み出し、そして人生に勝っていける。南無妙法蓮華経をとなえることは、無限の希望をもたらすので、結果として、それは、自分のさまざまな夢や希望も、かなえていけるようになっていく。南無妙法蓮華経の力は、計(はか)り知れないので、それだけではないけれど、希望を生み出す力、絶望を打ち破る力が、南無妙法蓮華経だと言えます。話しは少し変わりますが、このアニメのストーリーの中で、「祈れば祈るほど、呪(のろ)われていく・・」というような表現がでてくる。確かに、デタラメな宗教、間違(まちが)った宗教においては、そう表現(ひょうげん)しても、いいかもしれない・・。間違った宗教、デタラメな宗教に祈るということは、その間違った宗教、デタラメな宗教に、自分の生命と人生を、ささげていくことになる。間違った、デタラメの宗教に、自分の生命と人生をささげていったならば、当然(とうぜん)の結果として、自分の生命と人生は、間違った、デタラメなものになっていく。自分の生命と人生が、間違ったデタラメなものになっていったならば、その結果として、さまざまな不幸が、もたらされてしまう・・!ということです。だから、それは、結果として、「祈れば祈るほど、呪(のろ)われていく」ということになってしまう。それが、間違った宗教、デタラメな宗教というものです。そして、その間違った宗教、デタラメな宗教が、日本にはびこっている、葬式仏教(そうしきぶっきょう)や神社信仰、観光宗教などです。それとは逆(ぎゃく)に、『祈れば祈るほど、幸せになっていく!』『祈れば祈るほど、希望を生み出していける!』のが、さっきも言ったように、創価学会の人たちが実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)です。南無妙法蓮華経とは、希望の法則なんです・・!間違った宗教、デタラメな宗教のように、祈れば祈るほど、不幸になっていくようなことは、あってはならない!本当に幸せになっていける宗教。本当に悩みを解決していける宗教。本当に希望をかなえていける宗教が求められる。それが、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰です。このアニメで、まどかは、魔法少女たちの絶望を消し去り、希望となった。それは、アニメの中の話しだけに、あまりにも壮大(そうだい)で、宇宙規模(きぼ)の物語だけれども、それと同じように、壮大なエネルギーが、ぼくたち人間の中にもある!!その壮大な希望のエネルギー・・!それが、『南無妙法蓮華経』だと言える。絶望を打ち砕(くだ)き、希望を生み出す、壮大(そうだい)な壮大な、希望のエネルギーが、『南無妙法蓮華経』だと表現できます。だから、ぼくたちが、南無妙法蓮華経をとなえる時、ぼくたちの中から、その壮大なエネルギーが湧(わ)き上がってくる。それは、人間が持っている本源的(ほんげんてき)なエネルギーとも言えますが、その人間が本来(ほんらい)持っている本源的なエネルギーが湧(わ)き上がってくるから、悩みを解決していけたり、困難(こんなん)を打開(だかい)できたり、夢や希望をかなえていけたりするわけです。そして、幸せと勝利をつかんでいける・・!!あえて、譬(たと)えるならば、アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」の中で、マドカが、 自(みずか)ら、宇宙の力、宇宙の法則(ほうそく)となって、宇宙をかけめぐり、魔法少女たちの絶望を消し去り、希望を生み出していったように、ぼくたちが、南無妙法蓮華経をとなえる時、宇宙の希望のエネルギーが、ぼくたちの生命の中を、かけめぐる。そして、絶望を消し去り、希望を生み出していく。その本源的で、宇宙的とも言える、幸せのエネルギーであり希望のエネルギーが、『南無妙法蓮華経』であり、絶望を消し去り、希望を、どこまでもどこまでも開花していける方法が、創価学会の人たちが実践している、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰だと、いうことです。それは、あたかも、アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」の中で、マドカが、魔法少女たちの絶望を消し去り、希望を生み出していったように・・・。
2015.01.12
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。『御書(ごしょ)に、「教主釈尊(きょうしゅしゃくそん)をうごかし奉(たてまつ)れば、ゆるがぬ草木(そうもく)やあるべき・さわがぬ水やあるべき・・」と仰(おお)せの通り、ご本尊(ほんぞん)への必死の祈りは、一切(いっさい)を動かしていく。』ちなみに、御書(ごしょ)とは、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)が書かれた、論文や手紙をすべて集めたものです。また、ご本尊とは、仏(ほとけ)の生命そのものを、あらわしたものであり、自分の生命そのものを、あらわしたものでもあり、その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、自分自身の中にあることをあらわしたものが、ご本尊(ほんぞん)です。ここで、まず引っかかるのは、当然(とうぜん)これは、創価学会(そうかがっかい)の南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰のことを言っていますが、創価学会の信仰と、『釈尊(しゃくそん)』は関係あるのか??ということです。釈尊とは、ブッダとも釈迦(しゃか)とも言われていますが、いわゆる仏教の創始者(そうししゃ)ですから、知っていると思います。日本のさまざまな仏教の大元(おおもと)は、この釈迦(しゃか/釈尊)から来ていると言えます。ただし、現代の日本の仏教は、釈迦(しゃか)の仏法(ぶっぽう)とは、かけはなれたもので、単なる形だけです。釈尊(しゃくそん)の教えのかけらもない!と言ってもいいでしょう。だいたい、釈尊は、『坊主は葬式(そうしき)に出てはいけない!葬式というものは親しい知人や家族でやるものだ。 そんな暇(ひま)があったら、今、苦しんでいる人のもとに行ってあげなさい。』と言っているので、坊主が葬式でお経(きょう)をあげるのは、仏教でもなんでもない。ただの金儲(かねもう)けのエセ宗教だと言えます。形だけ真似(まね)て、お金儲けに利用しているだけですから、かえって害(がい)になり、そんな害になるものを人々に信じ込ませていれば、その人々に害毒(がいどく)が伝わり、その人たちを不幸にしてしまう!ということです。どういうことかというと、間違(まちが)ったデタラメの宗教に祈るということは、その間違ったデタラメの宗教に、自分の生命と人生をささげることになります。間違ったデタラメの宗教に自分の生命と人生をささげていけば、当然(とうぜん)、自分の生命と人生は、間違ったデタラメなものになっていく。自分の生命と人生が、間違ったデタラメのものになっていったならば、その結果として、さまざまな不幸がもたらされてしまう!ということです。不幸の根源(こんげん)には、形骸化(けいがいか)した仏教にかぎらず、神社信仰や観光宗教など、それらの間違った宗教がある!ということです。話しを戻(もど)しますが、釈尊は、仏教の創始者(そうししゃ)です。そして、釈尊が、何を伝えようとしたか?というと、それは、『生命の法則(ほうそく)』であり『宇宙の法則』です。簡単(かんたん)に言えば、それは、『幸せになるための法則』です。それを、釈尊は、伝えようとしました。そして、その幸せになるための究極(きゅうきょく)の法則がこめられたものが、釈尊の『法華経(ほけきょう)』です。だから、釈尊の法華経には、その生命における、あるいは宇宙における、『幸せになるための法則』が込(こ)められています。だったら、その釈尊の法華経(ほけきょう)をやればいいじゃないか・・!と思うかもしれませんが、それも違(ちが)います。法華経というと、釈尊の法華経を思い浮(う)かべますが、法華経というのは、さっきも言ったように、幸せになるための法則です。そして、それは時代時代によって、表現の仕方(しかた)が違ってきます。釈尊の時代であれば、その、釈尊の法華経をやれば、幸せになれましたが、現代では、なれません。この現代に、釈尊の法華経をいくら、やったとしたも、幸せにはなれないし、何の効力(こうりょく)もありません。これは、釈尊自身が言っていることですが、釈尊が亡(な)くなってから2000年以上経(た)った、この現代という、思想・人心が乱(みだ)れた時代では、釈尊の法華経は、返って害(がい)になり、人々を不幸にする原因(げんいん)にしかなりません。だから、現代の日本のさまざまな仏教は、良く見積(みつ)もっても、その釈尊の仏教の域(いき)をでていないし、はっきり言えば、釈尊の仏教を適当(てきとう)に変え、めちゃくちゃにしたような宗教ですから、なんの効力もなく、幸せにもなれません。 返(かえ)って、でたらめなメチャクチャな宗教ですから、そのメチャクチャの当然の結果として、害になり、人々を不幸にしてしまう!ということです。では、釈尊が、本当に伝えようとした『幸せの法則』とは何なのか?さきほど、法華経といっても、時代時代によって、表現の仕方(しかた)が違うと言いましたが、今生きている人々を、現実に幸せにしていける『現代の法華経(ほけきょう)』とは何なのか??ということになっていきます。実は、その答えが秘(ひ)められているのが、釈尊の法華経だと言えます。その釈尊の意図(いと)と隠(かく)れたメッセージをくみとり、唯一(ゆいいつ)正しく理解し、その現代の人々が幸せになっていける『真実の法華経』を発見し広めたのが、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)です。そして、現代の人々が幸せになっていける、『真実の幸せの法則』『生命の法則』『宇宙の法則』が、『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』なんです。だから、『南無妙法蓮華経』とは、釈尊が本当に伝えたかったものなんです。そして、『南無妙法蓮華経』が、今生きている人々が真(しん)に幸せになっていける、『現代の法華経』なんです。だから、今、現実に効力(こうりょく)のある、悩みを解決していける、夢や希望をかなえていける、力(ちから)ある幸せの法則が『南無妙法蓮華経』であり、それが、『現代の法華経』です。ですから、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる信仰は、釈尊が真に伝えたかった法華経であり、人々を幸せにしていける、仏法(ぶっぽう)の究極(きゅうきょく)の真髄(しんずい)なんです。だから、創価学会と釈尊は、深く密接(みっせつ)な関係があり、釈尊が望み、伝え、実現したかったものが、創価学会の中にある!!!ということです。釈尊が望んだもの、釈尊が望み実現したかったものが、まさしく、創価学会によって実現されている!!ということです。だから、最初に「『教主釈尊(きょうしゅしゃくそん)をうごかし奉(たてまつ)れば、ゆるがぬ草木(そうもく)やあるべき・さわがぬ水やあるべき・・』と仰(おお)せの通り、ご本尊(ほんぞん)への必死の祈りは、一切(いっさい)を動かしていく。」と話したように、創価学会のご本尊への必死の祈りは、そのまま『釈尊』に通じていく。なぜなら、創価学会が実践している南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)は、釈尊の望み、願いそのものであり、『南無妙法蓮華経』が釈尊が伝えたかったことだからです。ゆえに、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる祈りは、釈尊のいう宇宙の法則、生命の法則、幸せの法則を実行することになり、それはいわば、釈尊自身をうごかすような大きな結果を生み、その結果、悩みを解決できたり、夢や希望をかなえていけたり、さまざまな困難(こんなん)も乗り越(こ)えて、幸せになっていけるわけです。それが、創価学会の祈りなんです。ゆえに、池田先生が言うように、『教主釈尊を動かすことができれば、ゆるがぬ草木はない!さわがぬ水はない!』そして、祈りをかなえ、幸せになっていける!!それが、釈尊が本当に伝えたかった宇宙と生命の幸せの法則であり、究極の力(ちから)である、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです・・・!
2014.11.03
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)が、言っています。『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)と唱(とな)え奉(たてまつ)るは自身の宮殿(きゅうでん)に入(い)るなり。』この日蓮大聖人のご文について、池田SGI会長(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。『いかなる状況(じょうきょう)にあっても、題目(だいもく/南無妙法蓮華経のこと)を唱(とな)えれば、生命は「宮殿」に入っている。魂(たましい)は王者である。最後は必ず幸福になる。皆、立派(りっぱ)な勝利者の人生を綴(つづ)ってもらいたい。』南無妙法蓮華経をとなえたならば、自分の生命は『宮殿(きゅうでん)』に入っている。どういうことだろうか・・。生命の宮殿・・・。それは、どう考えても不幸なものではない。幸せなものだ。宮殿とは、素晴らしいものであり、光り輝(かがや)く豪勢(ごうせい)なものだ。すなわち、最高にきらびやかで、優雅(ゆうが)で威厳(いげん)があって素晴らしく、黄金(おうごん)のように輝く存在と言えるかもしれない。まさにそれは、幸せそのものと言えるかもしれない。南無妙法蓮華経をとなえるということは、その『宮殿』に入ること・・・!それは、まさしく、勝利をあらせてしてるし、幸せを表(あらわ)している。そして、自分の生命が宮殿に入ったならば、おのずから、幸せがもたらされていく。悩みを解決でき、時とともに、自分の望む人生、自分が望んだ未来、希望がかなっていく。そう言えるかもしれない。けれど、もし、自分の生命が宮殿に入っていないとしたら、かりに今良かったとしても、暗澹(あんたん)とした未来が待ち受けていたり、苦しく、望まない人生になってしまうことも多々あると思う。生命の宮殿・・!その生命の宮殿を築(きず)くことができるのが、創価学会(そうかがっかい)が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。生命の宮殿に入るとは、自分の生命の根(ね)っこにあるものを、ダイヤモンドのように輝(かがや)かせることだと思う。その、生命の根っこにあるものが、ダイヤモンドのように輝いたならば、おのずと、そこから、希望と勇気、幸せと勝利がもたらされていく。だから、生命の根っこは、大切!!!だから、生命の根っこを、より良く、より素晴らしく変えていくことができたならば、その人の人生は、希望に満(み)ち、幸せになっていく。けれど、自分の生命の根っこが、腐(くさ)っていたり、元気がなかったら、実際、根本的(こんぽんてき)には悩みや問題は、解決していかないし、夢や希望も、かなえていくことは、できないでしょう。そうなれば、結局(けっきょく)、夢や希望もなくなっていき、自分が望む人生を生きないまま、人生を終えることになる。夢や希望、自分の望む人生を生きるためには、やはり、生命の根っこを輝かせなければならない。根本のところ、生命の根っこ・・。その生命の根っこが、ダイヤのごとく、輝いていったとき、自分の人生も、環境も、未来も、輝き、幸せがもたらされていく。その生命の根っこを、黄金(おうごん)ように、太陽のように、輝かせることが、『南無妙法蓮華経を、となえる!』ということであり、それが、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)の信仰であり、それが、『生命の宮殿に入る!!』というこだと、思う・・・。
2014.10.07
二十世紀の天才ヴァイオリニストであるユーディー・メニューイン氏は、いつも、マッサージを頼(たの)む、知人の女性がいた。ある時、メニューイン氏は、そのマッサージを頼む女性に言った。「あなたのマッサージは素晴らしい。まるで指が話しかけているようだ。」そして、マッサージの秘訣(ひけつ)を尋(たず)ねると、女性は答えた。「私は仏教徒(ぶっきょうと)なんです。マッサージをする時は、心で南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)と唱(とな)えるんです。」仏教徒というのは、創価学会員(そうかがっかいいん)のことで、イギリスの婦人部員だった。「ナンミョウホウレンゲキョウ・・・・・素晴らしい音律(おんりつ)だ。」以来(いらい)、メニューイン氏は南無妙法蓮華経を口ずさむようになり、池田SGI会長(創価学会インターナショナル会長)の著作(ちょさく)を読破(どくは)していった。そして、思った。池田SGI会長に会いたい!!そして、数年後、メニューイン氏は、池田SGI会長と会見することになる。会見の中で、メニューイン氏は、言っています。『「南無妙法蓮華経」の「NAM」という音に、強い印象(いんしょう)を受けます。「M」とは命の源(みなもと)というか、「マザー (MOTHER)」の音、子どもが一番最初に覚(おぼ)える「マー(お母さん)、マー」という音に通じます。この「M」の音が重要な位置を占(し)めている。』この言葉に対し、池田先生は、言っている。『日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)は、「南無妙法蓮華経」を「歓喜(かんき)の中の大歓喜」「歓(よろこ)びの曲」である、ともされました。妙法(みょうほう/南無妙法蓮華経のこと)の音律(おんりつ)は、太陽が昇(のぽ)るような躍動(やくどう)の音律です。「永遠の創造(そうぞう)」であり「永遠の出発」であり、「永遠の戦い」である宇宙の大生命力が、こもっているのです。』メニューイン氏が、マッサージを頼(たの)む知人の女性に感じたように、『南無妙法蓮華経をとなえる』ことによってもたらされるエネルギーは、人に伝わる・・!その『南無妙法蓮華経をとなえる』エネルギーは、真心(まごころ)となって伝わったり、感動となって伝わったり、また、具体的(ぐたいてき)に病気などを蘇生(そせい)されるエネルギーとなった伝わることもある。ある創価学会員の看護士の方が、南無妙法蓮華経をとなえる祈りについて、「手から、毛穴から、祈りは、すべて、通じていく!」と言っていた。『南無妙法蓮華経をとなえる祈りは、通じる!』単(たん)なる一時しのぎでも、でまかせでもなく、自分ひとりの問題でもなく、南無妙法蓮華経をとなえる祈りは、人々に通じていく!!ここに『南無妙法蓮華経をとなえる』スゴサがあるのかもしれない。また、『南無妙法蓮華経をとなえる』ことによって、もたらされるエネルギーは、人に伝わるだけではなく、人に幸せをもたらしていく。南無妙法蓮華経をとなえるエネルギーは、幸せのエネルギーとなって、人へ、未来へ、世界へと伝わっていく。そしてその幸せのエネルギーは、地域や社会、職場や家庭に伝わり、その環境(かんきょう)をより良く、幸せに変えてくことなる。また、当然(とうぜん)、南無妙法蓮華経をとなえるエネルギーは、自分自身に伝わっていく。南無妙法蓮華経の幸せのエネルギーは、自分自身に伝わり、しみ入り、自分自身を幸せに変えていく。そしてその幸せのエネルギーは、自分の悩みを解決したり、夢や希望をかなえる力となっていく。あらゆるものを、あらゆる人を、あらゆる環境を、より良く、幸せにしていくエネルギーが、『南無妙法蓮華経』だということです。ゆえに、これほどスゴイことはなく、これほどの解決策(かいけつさく)もない。結論(けつろん)から言うと、南無妙法蓮華経をとなえきった人が、幸せになるとも言えます。メニューイン氏が思ったように、南無妙法蓮華経をとなえるエネルギーは、人に伝わる。伝わるだけではなく、その人たちを幸せにしていく。また、家族や職場、地域や世界に伝わり、その世界に幸せを満(み)たしていく。その無限(むげん)に伝わる究極(きゅうきょく)の幸せのエネルギーが『南無妙法蓮華経』であり、その幸せを確実にもたらすのが、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです・・・。
2014.09.18
創価学会(そうかがっかい)の、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰は、結論(けつろん)から言うと、あらゆるものを、あらゆる事象(じしょう)を、あらゆる人々を、幸せへと引(ひ)っぱり導(みちび)いてくれる。それは、自分だけではなく、家族や自分のかかわる人々にまで影響(えいきょう)を及(およ)ぼし、その人たちに最善(さいぜん)の幸せを、もたらしてくれる。時には、悲しいこと、辛(つら)いこともあるかもしれない。けれど、時とともに、自分が、家族が、最善の方向に進み、最良(さいりょう)の幸せをもたらしていたことが、わかってくる。それが、実感(じっかん)として言える。これほどの力(ちから)があるだろうか・・・?現実に、これほどの幸せをもたらす力は、あるだろうか?はっきり言って、他にはない・・!!この、創価学会の、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の仏法(ぶっぽう)でしか、この現実の中で、確実に、幸せと歓喜(かんき)をもたらす方法は、ない!!!それは、あらゆるものが積(つ)み重なり、関係し合い、ひとつひとつの事象(じしょう)からはわからないかもしれないけれど、それが重(かさ)なり合い、信じがたい錬金術(れんきんじゅつ)のように、すべてが、微妙(びみょう)に、しかも完璧(かんぺき)に結(むす)びつき、結果として、最高の幸せをもたらしている。そういう目には見えない奇跡(きせき)をもたらしていく力が、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰にはある!ということです。そして、その幸せの奇跡が、どれだけ多くの人を、幸せにしてきたか!!どれだけ多くの人の悩みを解決(かいけつ)し、夢や希望をかなえてきたか!!。それこそ計り知れない。その積み重ねが創価学会であり、世界192カ国に広がる創価学会の、平和と幸福のスクラムだと、思う・・・。
2014.09.02
オーストリア政府の元文部次官であり、声楽家(ソプラノ歌手)である、サイフェルト博士が、言っています。『創価学会(そうかがっかい)の皆さまとの出会いは、常(つね)にとても心温(あたた)まる、真心のこもった深い触(ふ)れ合いでした。本当に私の人生が変わったので、非常にありがたいと思っています。もっとSGI(創価学会インターナショナル)が発展(はってん)すること。--- これが私の願いです。なぜなら、今ほど人々が確かな哲学(てつがく)を求めている時代はないからです。』この言葉に対して、池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。『私たちの信奉(しんぼう)する日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)は、「人のために火をともせば・我(わ)がまへあき(明)らかなるがごとし」と言われております。こうした共生(きょうせい)の哲学(てつがく)が、ますます大事になってきています。「自分さえよければいい」という利己主義(りこしゅぎ)がはびこれば、地球は痩(や)せ細るばかりです。自分が幸せになろうと思えば、まず自(みずか)らの地域を安穏(あんのん)にしなければならない ----この「自他不二(じたふに)」の心が未来を豊(ゆた)かにします。何より、私たちSGI(創価学会インターナショナル)は、平和と友情と幸福の縮図(しゅくず)であると確信しています。だからこそ、この創価のスクラムをさらに広げられるよう、努力していきたいと思っております。』サイフェルト博士が、言っています。『今ほど人々が確かな哲学(てつがく)を求めている時代はない。』確かな哲学とは、なんだろうか?それは、現実を打開(だかい)できる哲学だと思う。混沌(こんとん)とした時代の中で、現実に自分の人生を切り開いていけるのか・・!現実に自分の悩みを解決していけるのか・・!現実に、自分の夢や希望をかなえていける力(ちから)となるのか・・!そして、現実に、揺(ゆ)れ動く時代の中で、確固(かっこ)とした、崩(くず)れない幸せを築(きず)いていけるのか・・!ここに、問題があり、注目が集まる。そして、混沌(こんとん)とした時代の中でも、現実に人生を切り開き、現実に幸せを勝ち取っていける哲学(てつがく)が、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。だから、サイフェルト博士は、もっと創価学会が発展することを、願っているんです。また、世界中の善意(ぜんい)の有識者たちが、創価学会に大きな期待(きたい)を抱(いだ)いているのも、そのためです。だれでも、悩みがある。それは、ひとりひとり違(ちが)う。状況(じょうきょう)も違えば環境(かんきょう)も違う。ひとりひとりの個性も境遇(きょうぐう)も違う。けれど、どんなに、ひとりひとりの悩みが違っていても、そのひとつひとつに、ことごとく対応(たいおう)して、悩みを解決 してける!それが、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)です。また、だれでも、夢や希望がある。ひとりひとりが違う願い、希望をもっている。そして、そのひとりひとりの夢や希望に対応して、現実に人生を切り開き、夢や希望をかなえていける哲学(てつがく)であり力が、創価学会の南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の仏法だということです。真実の哲学とは、人生と離(はな)れたところにあるものではない!よくある、空理空論(くうりくうろん)ではない。せっぱ詰(つま)った、現実の悩みや希望、その悩みや希望に、直接的に対応し、自分の目の前の人生を切り開いていけるもの・・・!それが、創価学会の仏法の哲学であり、仏法の信仰です。だから、今ほど、この創価学会が実践する、『仏法(ぶっぽう)』を求めている時代はない。ただ、それを、わからないだけなんです。すべての人が求めている幸せ、希望・・!その希望と幸せの本質(ほんしつ)に、直接的に結(むす)びつくもの・・・!それを、人々は、欲(ほ)しくて欲しくて、しょうがない。そして、その希望と幸せの本質に直結(ちょっけつ)し、現実に悩みを解決し、現実に夢や希望をかなえていける哲学(てつがく)が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰だと、いうことです・・・!
2014.08.11
「裸の王様」の物語は、皆さん、知っていると思います。裸(はだか)の王様は、アンデルセンの童話です。ある、おしゃれ好きな王様に、詐欺師(さぎし)の仕立(した)て屋が「バカには見えない布地」で服を作ります。自分が馬鹿者(ばかもの)だと思われたくない家来(けらい)や王様たちは、あるはずもない服を称賛(しょうさん)します。王様は、その服を着てパレードに出かけますが、やはり、バカだとは思われたくないので、誰一人『見えない』とは言えません。そんな中、子どもが『王様は裸だ!』と真実を言います。これで我(われ)に返った観衆も一転(いってん)して、『そうだ、王様は裸だ。』と言い出します。そして、ついに一人残らず、王様は裸だとさけぶようになります。王さまは大弱(おおよわ)り。王さまだってみんなの言うことが正しいと思ったからです。でも、「いまさら行進パレードをやめるわけにはいかない。」と思ったので、そのまま、今まで以上にもったいぶってパレードを続けたという話しです。これは、人間がよく陥(おちい)りやすい感情の風刺(ふうし)だと思いますが、探(さが)せは、似(に)たようなことが世の中には、あると思います。たとえば、日本にはびこっている、さまざまな宗教・・。それは、葬式仏教(そうしきぶっきょう)や観光宗教、神社信仰などですが、それらは、だれも本当に力や効力(こうりょく)、ご利益(ごりやく)があるとは思っていないけれど、かといって、だれも言わない。表面上は、いかにも、ご利益や効力があるように、もてはやす。あそこは、何々にご利益(りやく)がある。あそこはなんとかにご利益があるとかいっても、現実には、確証的(かくしょうてき)なものは、なにひとつない・・!だれも「王様は裸だ!」と言わないように、ただ、なんとなく、あがめたて、もてそやす。そして、「きっといい事があるに違(ちが)いない」とか言って、 祈ったところで、そんなことは、まず、起らない・・。宗教の虚構(きょこう)が通常(つうじょう)となり、それこそ、王様が裸で町をねり歩くような行為(こうい)が、まかり通ってしまう。それが、世間一般的な宗教だと思う。ところが、子供が、『王様は裸だ!』と言ったように、唯一(ゆいいつ)、真実を言ったのが、創価学会(そうかがっかい)です。「それらの宗教は、間違(まちが)っている。そんな宗教に祈ったところで、幸せになどならない。返(かえ)って、でたらめな宗教に祈るということは、自分の生命と人生に害(がい)をもたらし、不幸になる原因(げんいん)になってしまう!」そう、はっきりと明言(めいげん)したのが、創価学会の人たちだと言えます。事実、その通りです。それらの葬式仏教や神社信仰、観光宗教などは、明(あき)らかに間違っているがゆえに、その間違った宗教に祈るということは、自分の生命と人生を、その間違ったデタラメの宗教に、ささげることになる。間違ったデタラメの宗教に自分の生命と人生をささげていけば、当然、自分の生命と人生は、間違ったデタラメなものになっていく。自分の生命と人生が、間違ったデタラメなものになっていったならば、その結果として、さまざまな不幸が、もたらされてしまう。だから、真剣に祈れば祈るほど、逆(ぎゃく)に、不幸になる原因がつくられていき、その人の人生に、大きな害をもたらしてしまう。それが、真実だと言えます。不幸の根源(こんげん)には、間違った宗教がある!ということです。そして、間違いのない、人々に幸せをもたらしていける、真実の宗教が、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。それが正しい証拠(しょうこ)として、創価学会は、どんどん発展し、世界192カ国に広がっている。そして、その創価学会の南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の仏法(ぶっぽう)を実践した、世界中の人たちを現実に幸せにしている。それは、ひとりひとりの悩みを解決した結果であり、ひとりひとりの夢や希望を実現(じつげん)していけた結果であり、ひとりひとりが現実に『幸せになった!』という結果として、創価学会は世界中に広まっている。あたかも、それは、童話(どうわ)・裸の王様で、子供が『王様は裸だ!』と叫(さけ)んだあと、みんなが、『そうだ、王様は裸だ』と言い、最後は、すべての人が『王様は裸だ』と言ったように、ひとりの勇気の声が、まわりに広がり、世界に広がり、その真実の証明(しょうめい)として、これからも、創価学会は、広がり続けていくことでしょう・・・!
2014.07.27
聖教(せいきょう)新聞に、ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁(そうさい)の話しが、のっていました。その一部分を抜粋(ばっすい)したいと思います。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「言論(げんろん)の獅子(しし)」がそこにいた。顔に刻(きざ)まれた深いしわ。白く伸びた髪(かみ)。何より、小さい体から発散(はっさん)される威厳(いげん)は、地走る者の王・ライオンを 思わせた。1993年の2月9日。時間は午後9時。ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁は、貴賓室(きひんしつ)で、2時間も前から待っている。リオデジャネイロのガレオン国際空港。池田SGI(創価学会インタナショナル)会長が、27年ぶりに、このブラジルの古都(こと)に降(お)り立とうとしていた。総裁(そうさい)は94歳。頭脳(ずのう)は明晰(めいせき)だが、さすがに足腰(あしこし)は衰(おとろ)え、ふだんは歩くのに、2人に両脇(りょうわき)を抱(かか)えてもらうことも、たびたびであった。ソファに座(すわ)る総裁に、体調を心配(しんぱい)した周囲(しゅうい)は、別室で休んではどうかと進めた。だが、総裁は言った。「私は、94年間も池田会長を待っていたのです。1時間や2時間は何ともありません。」SGI会長を乗せた旅客機(りょかっき)が着いた。総裁はソファから身を起(お)こし、ドアのほうへ、一人で足を運(はこ)んだ。扉(とびら)が開いた。池田SGI会長が両手を大きく広げて歩(あゆ)み寄(よ)り、総裁の両腕(うで)を下から支(ささ)えた。「『世界の宝(たから)の人』です。私が総裁のことを、世界に永遠(えいえん)に残します!」総裁は応(こた)えた。「会いたい人にやっと会えました。池田会長は、この世紀(せいき)を決定づけた人です。戦いましょう。2人で力を合わせ、人類の歴史を変えましょう!」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ぼくが思うに、映画やドラマ、小説の世界ではなく、現実の生身(なまみ)の人間が、こういう会話をかわしていること自体(じたい)、スゴイことだと思いました。アタイデ総裁は、1930、40年代、独裁(どくさい)を真っ向(まっこう)から批判(ひはん)し、3度の投獄(とうごく)、3年間の国外追放(ついほう)に耐(た)えた人物である。70年間以上、ペンを振(ふ)るい、発表したコラムは5万本。テレビに20年、ラジオには30年にわたって毎週出演し、人権擁護(じんけんようご)の『声の弾丸(だんがん)』を放(はな)ち続けた。その名前は『強靭(きょうじん)なリベラリスト(自由主義者)』として、ブラジルにおいては伝統的な響(ひび)きを持っているそうです。そのアタイデ総裁が1959年から30年以上にわたって率(ひき)いてきたのが、南米最高の知性の殿堂(でんどう)、ブラジル文学アカデミーです。在外会員は、トルストイ、エミール・ゾラ、アンドレ・マルローらの名が連なる。そして、アタイデ総裁が34年間で初めて推薦(すいせん)したのが、池田SGI(創価学会インタナショナル)会長です。アタイデ総裁は、言っている。「私には池田会長の偉大(いだい)さがわかる。」「民衆のために戦い、苦しみ抜(ぬ)いた者にしか、彼と、彼を支(ささ)える香峯子婦人(池田会長婦人)の心は分からない。」「迫害(はくがい)を受けた者だけが、池田会長の価値(かち)を知るのだ。」さらに、アタイデ総裁は言う。「一人の指導者が道を開けば、皆がその後を従(したが)うものです。」「未来はひとりでに、やってくるものではありません。人間自身が切り開くものです。その人間の一人が、池田大作氏です。」アタイデ総裁と池田SGI総裁の2人は、対談集の発刊(はっかん)を目指して、口述筆記(こうじゅつひっき)などを通して、対話を続けることで合意(ごうい)した。だが、総裁の体調(たいちょう)は思わしくなかった。総裁の秘書は、率直(そっちょく)に「口述筆記も、タイプライターで原稿(げんこう)を打つことも無理(むり)でしょう。最近は笑(え)みを見せることもないのです」と話した。93年6月、SGIのスタッフから、「回復するまで、いつまでかかってもお待ちします」との池田SGI会長の伝言が、総裁に伝えられた。じっと聞いていた総裁が、ほほ笑(え)んだ。「ありがとうございます。私にはもう時間がありません。すぐに始めましょう。しゃべって、しゃべって、しゃべり抜きます。人類の未来のため、21世紀のために語り継(つ)ぎましょう!」口述はそれから、毎週土曜日、リオの総裁の自宅で行われた。SGI会長の書簡(しょかん)での質問に、総裁は毎回2時間、思索(しさく)を重ねながら、身じろぎもせず語り続けた。SGI会長からは毎回、花束(はなたば)が届けられ、総裁はいつもそれを、応接間(おうせつま)の純銀(じゅんぎん)の花瓶(かびん)に飾(かざ)って、眺めるのだった。最後の「対談」は8月21日。テーマは「人権の闘士・マンデラに学ぶ」であった。その6日後に、総裁は入院した。「私には、やらなければならない大事な仕事がある。早くここを出してください。私は、池田会長との対談を続けなければならないのだ。」医師や看護士にそう何度も訴(うった)えた。総裁が逝去(せいきょ)したのは93年9月13日。SGI会長は悲報(ひほう)を聞き、すぐさま弔電(ちょうでん)を送った。10月には文学アカデミーの強い要請(ようせい)により、2人の出会いを描いた油彩画(ゆさいが)「アタイデ総裁」が同アカデミーに贈られている。さらに息女(そくじょ)のラウラさんと夫のシィッセロ・サンドローニさん、子息(しそく)のロベルト・アタイデさんを、池田SGI会長は翌年8月、長野研修道場で歓迎(かんげい)した。「父が毎日、使っていたペンです。父の名前が刻(きざ)まれています。」席上、ラウルさんから、総裁の「武器」であった金色のボールペンが、池田SGI会長に渡された。友情は、家族と、アカデミーの後継者(こうけいしゃ)たちに受け継(つ)がれたのである。対談集「21世紀の人権を語る」は95年に日本語版、2000年にポルトガル語版が発刊(はっかん)。未来を見通(みとお)した総裁の『遺言(ゆいごん』で、語らいは結(むす)ばれた。『池田会長の存在(そんざい)は、人類の歴史に残り、その運動は時代とともに広がりゆくことでしょう。そして21世紀は、新たなヒューマニズムが実現された時代として、人類の歴史に深く刻(きざ)まれることになるでしょう。』
2014.06.24
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。『人は花に学ばなければ・・・。花はいつも一生懸命(いっしょうけんめい)だからだ。投げやりに咲いている花はない。いやいや生きている花はない。途中(とちゅう)で、へこたれる花はない。笑うことを忘れた花はない。過去にとらわれたり、人のあらを探(さが)したりしている花はない。』花は、だから、きれいなのかもしれない。なにものでもない、自分自身を咲かせることに、なんの躊躇(ちゅうちょ)もなく全力で立ち向かっていく。その健気(けなげ)な姿に人は、打たれるのかもしれない。創価学会(そうかがっかい)二代会長の戸田城聖先生が、仏法(ぶっぽう)の真髄(しんずい)は、『自分自身に生ききることだ!』と言っていた。あの人がこう、この人がどうではない。自分が自分自身に生ききるかどうか・・・。簡単なことのようで、これがなかなかできないのも、現実だと思う。そして、ああだ、こうだ文句(もんく)を言う。愚痴(ぐち)を言う。そして、世の中を恨(うら)んでしまう・・。何かかが間違(まちが)っているんだと思う。幸せというものの本質(ほんしつ)が見えなくなっているのかもしれない・・。何かが狂(くる)っている。人間の生命になにかの間違った思想や考えがこびりつき、花のように、健気(けなげ)に生きられなくしている。仏法(ぶっぽう)では、これを『宿業(しゅくごう)』という。『宿業(しゅくごう)』とは、自分の生命に、深く宿(やど)ってしまっている、その人を苦しめている根本原因(こんぽんげんいん)のようなもので、避(さ)けたくても避けることのできない苦しみや悲しみ、自分はどうして、こういう自分に生まれてしまったのか?というような、辛(つら)い境遇(きょうぐう)や環境、なんで自分がと思うような過酷(かこく)な病気や事故など、その人がもって生まれた、どうしようもないような運命などをいいます。その『宿業(しゅくごう)』が、人を苦しめ、狂わせ、花のように真っ直(まっす)ぐに生きることを、妨(さまた)げている。そして、その人を不幸にしている。不幸の根源(こんげん)には、『宿業(しゅくごう)』がある!と言えるかもしれない。そして、その『宿業』がどこから起ってくるかと言えば、それは、間違った思想(しそう)、間違った宗教から起ってくる。人は、自分の悩みや不幸について、その原因(げんいん)にたどり着くことはないけれど、人間の不幸は、間違った宗教によって、起こる!!と言えます。自分は、宗教なんかには、かかわっていないと、言うかもしれない。けれど、自分の先祖(せんぞ)をたどっていけば、なにかしらの宗教をやっているし、世の中は、間違ったデタラメの宗教だらけなので、日々、その間違った宗教に触(ふ)れていると、言えます。正月といえば、初詣(はつもうで)だといって、さまざまな神社やお寺に行くし、観光でもさまざまな神社、仏閣(ぶっかく)に祈りをささげる。また、葬式(そうしき)となれば、ほとんど、それらの葬式仏教などに祈りをささげる。そして、それらの葬式仏教にしても、神社信仰にしても、観光宗教にしても、デタラメな間違った、人を不幸にしてしまう宗教です。それらに、良いことだと思って、祈りをささげる。それらの、間違ったもの、デタラメなものに祈りをささげるということは、自分の生命に、間違ったもの、デタラメなものを投影(とうえい)することになり、間違ったもの、デタラメなものが、自分の生命に植(う)え付けられることになっていく。その植え付けられた間違った宗教、デタラメな宗教は、自分の生命に、さまざまな不幸なる宿業(しゅくごう)として植え付けられ、その宿業が、時ととともに噴出(ふんしゅつ)して、その人を苦しめることになる。また、過去世(かこせ/過去に生きていた時代)に、間違った、人を不幸にする宗教にかかわってしまったために、さまざまな不幸なる宿命(しゅくめい)を持って、生まれてきたとも言えます。人間は、花のように、生きるべきだと、思います。けれど、それをできなくしているのが、『宿業』だと言えます。そして、その宿業を打ち破(やぶ)る、決定的で唯一(ゆいいつ)の方法と言えるのが、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰です。南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、となえることは、自分の中から、花のように生きる力を復活(ふっかつ)させる。花のように生きようとする生命力が復活し、その人を、真っ直(まっす)ぐに生きさせる。太陽が昇(のぼ)れば、草木についた、つゆや水滴(すいてき)は、あっという間に消えてしまうように、南無妙法蓮華経をとなえることによって、花のように真っ直ぐに生きることを妨(さまた)げる宿業が、打ち破られ、幸せに向かって、希望にむかって、生きていけるようになっていく。南無妙法蓮華経には、宿業を打ち破る大きな大きな力(ちから)がある!ということです。南無妙法蓮華経を真剣にとなえ、仏法(ぶっぽう)の実践活動である創価学会の活動をやっていくことによって、自身の宿命が転換(てんかん)され、悩みや困難(こんなん)を乗り越(こ)え、夢や希望をかなえて、幸せを勝ち取っていくことが、できるようになっていく。それは、美しい花のように・・・。『南無妙法蓮華経は蘇生(そせい)の義(ぎ)なり』というけれど、南無妙法蓮華経をとなえると、自分の生命が蘇生(そせい)していく。真剣に南無妙法蓮華経をとなえることによって、自分の中から生命力が湧(わ)き上がり、勇気が出てきて、元気と希望がでできて、その人の生命は、文字通り、蘇生(そせい)していく。その生命の力は、自分の人生と未来を、花のように、真っ直ぐに生きていくエネルギーとなって、その人を動かす。やがて、種(たね)から花が咲くように、その人の人生に、勝利と幸せの花が咲いていく。人は、花のように、生きるべきだ・・!そして、それを可能にする、希望と勇気とどんな困難(こんなん)も打ち破る無限(むげん)の力が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、いうことです。
2014.06.15
人類が直面(ちょくめん)する地球規模(きぼ)の問題群(もんだいぐん)を研究し、危機回避(ききかいひ)への提言(ていげん)を発(はっ)する国際的な有識者組織「ローマクラブ」の創設者である、アウレリオ・ペッチェイ博士が、言っています。『人類は、これまでに産業革命、科学革命、テクノロジー革命と「3つの革命(かくめい)」を経験してきました。これらは、どれも「人間の外側の革命」でした。・・・技術(ぎじゅつ)は進歩しても、文化的には化石(かせき)のように進歩が止まっている。そのギャップを埋(う)めるために、必要なのは「人間精神のルネッサンス」です。「人間自身の革命」です。』1975年、アウレリオ・ペッチェイ博士と池田SGI会長(創価学会インターナショナル会長)が会見(かいけん)した時、ペッチェィ博士は、言っています。『私は、今まで、「人間性の革命」を唱(とな)え、行動してきました。しかし、それをさらに深く追求(ついきゅう)していくならば、究極(きゅうきょく)は「人間革命」に帰着(きちゃく)すると考えるようになりました。』そして、ペッチェイ博士は、池田SGI会長に聞いている。『人間性革命と人間革命の関係について、お聞かせください。』池田SGI会長は、答えている。『「人間性革命」の大前提(だいぜんてい)になるのが、人間性を形成(けいせい)する生命の変革であると思います。その生命の根源的(こんげんてき)な変革を、私たちは「人間革命」と呼んでおります。』ペッチェイ博士は笑(え)みを浮かべて言った。『私も今日から「人間革命」でいきます。』創価学会の偉大(いだい)さは、ここにあると思う。『人間革命』・・!人間性の革命をさらに越えた『人間革命』・・・!!それを、ペッチェイ博士のような優秀な人物でなくても、あらゆる、名もない民衆の中で、現実に可能(かのう)にしてきたのが、創価学会(そうかがっかい)だと思う。昔は、創価学会は、貧乏人(びんぼうにん)と病人の集まりだと言われた。ペッチェイ博士のような有識者とは、ほど遠い、あまり教養もないような無名の庶民たちだった。その人たちが、人間革命して、貧乏人は裕福(ゆうふく)になり、病人は健康になっていった。そして、それぞれが、幸せを勝ち取っていった。それは、確かに、人間性の革命などというもので、片付(かたづ)けられるような問題ではない・・!貧乏の悩み、病気の悩み、あるいは家庭不和(かていふわ)などの家族や環境(かんきょう)の問題・・。それらは確かに、人間性の改革などということで解決する問題ではなかった。もっと根(ね)が深く、根源的(こんげんてき)な問題だった。また、それは、今までも人類史の中で、だれも手の付けようもない問題だとも言える。そのだれも手の付けようもない悩みや問題に踏(ふ)み込(こ)み、立ち向かい、解決してきたのが、創価学会です。だから、世界は、創価学会に注目(ちゅうもく)するんです。人間の幸せを突(つ)き詰(つ)めれば、突き詰めるほど、この『人間革命』に突き当(あ)たるということです。それが、『人間革命』の意義(いぎ)です。これほど重要(じゅうよう)なことはない。これほど素晴らしいこともない。これほどスゴイこともない。それが、人間革命です。その人間革命は、一人に留(とど)まることなく、一人が幸せに変わっていくことによって、やがてそれは、家族や地域、そして世界に広がり、世界を変え、世界を幸せに、平和にすることにつながっていく・・!それを可能にしていく究極の原理(げんり)が人間革命だと言えます。そして、それを可能にする法則であり、力でありエネルギーが、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。これしかない!と言えます。ほんとうに人間革命していける方法は、これしかない!!!この南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法の信仰しかない。だから、創価学会の人たちは、幸せになっていける。悩みを解決していける。夢や希望を、つかんでいくことができる。そして、勝利していける。それが、ペッチェイ博士が望み求めた、人間革命を可能にする、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰です・・・!
2014.05.25
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。『人生は宿命(しゅくめい)との戦いといえます。宿命に泣き、宿命に流されて、あきらめてしまう人も多い。しかし、信心(創価学会の信心)ある限(かぎ)り、打開(だかい)できない宿命はありません。自動車は、エンジンを始動させなければ動かない。しかし、エンジンを回転させれば、右にも、左にも走っていける。同様(どうよう)に、信心のエンジンを回転させていけば、困難(こんなん)の坂(さか)を超(こ)え、過去世(かこせ[過去に生きていた時代])からの罪業(ざいごう)、宿命も転換(てんかん)し、自分が欲(ほっ)する人生の軌道(きどう)を、意気揚々(いきようよう)と進んでいけるんです。』人は、だれでも、楽しく生きたいと思っている。おもしろおかしく生きたいと思っている。これが人間の本心(ほんしん)だと思う。だれも辛(つら)い人生、苦しい人生を生きたいとは思わない。「楽しく生きたい!おもしろおかしく生きたい!」そう思っているのに、そうもいかないことも多い・・・。それは、人それぞれ、『宿命(しゅくめい)』を持っているからです。この『宿命』を避(さ)けることが、できない!!!どんなに、おもしろおかしく生きたいと思っていても、人それぞれ、さまざまな宿命が降(ふ)り掛(か)かってくる・・・。ゆえに、楽しく生きたいと思っているのに、それができない現実が、のしかかってくる・・。楽しく生きたいと思っているのに、それができない。時として宿命は、過酷(かこく)なまでに、その人を打ちのめす場合もある。その現実のとのギャップのせいで、命を捨ててしまう人さえいる・・・。ここに大きな問題がある。それは、『宿命を乗り越えられない!』ということです。だから、この『宿命』を乗り越える真実の方法を見いださないかぎりは、本当の幸せはない!!と言える。その「宿命」を真(しん)に乗り越え、転換(てんかん)していける、唯一(ゆいいつ)の方法が、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。この創価学会(そうかがっかい)の南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰は、池田先生が言うように、自動車にエンジンをかけ、始動(しどう)させるように、どんな困難の坂(さか)も超え、宿命を転換(てんかん)して、自分の欲(ほっ)する人生の軌道(きどう)を進んでいけるんです。すなわち、自分が欲する幸せ、夢や希望をつかんでいけるんです。もちろん、たいへんなこともあるでしょう。苦しいこともあるでしょう。けれど、創価学会の南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の仏法を実践していった場合、同じ苦しみ、困難であったとしても、生き方、考え方がまったく違(ちが)ってくる。すなわち、この創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰によって、必ず乗り越えられるから、『希望』がある!「よし!必ず乗り越えてみせる!!」と前向きに勇気を持って挑戦していける。そして、実際に乗り越えていくこてができる!その生きることに対する充実感(じゅうじつかん)、歓喜(かんき)、希望が、創価学会の仏法の信仰を知らないのとでは、天国と地獄(じごく)くらい違ってくる。そして、自身の宿命を乗り越え、転換(てんかん)して、幸せを勝ち取っていける。それが、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。素晴らしい車を手に入れると、快適(かいてき)な気持ちよいドライブができる。それと同じように、創価学会の仏法の信仰を手に入れるということは、どんな宿命も乗り越え、人生を楽しく、おもしろく生きていけることになっていく。そして、最も大切な幸せをつかんでいける・・!だれでも、楽しく生きたい・・。だれでも、おもしろおかしく生きたい・・。けれど、だれでも、それを阻(はば)もうとする宿命がある。そして、それを乗り越えられない。その宿命を乗り越える方法を知らなければ、本当の幸せは、ありえない・・。そして、その宿命を、本当に乗り越えられる、宿命を転換して、より良い幸せをつかんでいける、唯一(ゆいいつ)にして真実の方法が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰だということです・・・!!
2014.04.06
最近は、あまり使わないかもしれないけれど、『哲学(てつがく)』という言葉がある。『哲学(てつがく)』とは、辞書(じしょ)で調べると、世界・人生などの根本原理(こんぽんげんり)を追求(ついきゅう)する学問とあり、もう少し現実的に言うと、各人の経験に基(もと)づく人生観(じんせいかん)や世界観を言い、物事を統一的(とういつてき)に把握(はあく)する理念(りねん)だそうです。たとえば、「仕事に対して哲学をもつ」とか、「人生の哲学」などのように使うことが多い。わかりやすく言えば、たとえば、「おれは男だから、男らしく生きるんだ!」というのも哲学だと思う。「私は、女性だから、女性らしい生き方をしたい。」というのも哲学だと思う。ひとつの世界観や人生観から、ものごとを考え、行動して生きる・・・。それが、哲学だと思う。だから、根本的(こんぽんてき)には、意識(いしき)する、しないは別として、自分の信じる哲学に基(もと)づいて行動し、生きていると言えると思う。逆(ぎゃく)に、その哲学がないと、人の生き方は、フラフラした、行き当(あ)たりばったりの人生になってしまうと言えます。また、その自分の哲学が、浅(あさ)はかだと、自分の人生は、思うようにならない、すなわち、なかなか幸せにはなれない人生、生き方になってしまうと言えます。また、もっと怖(こわ)いことに、自分がもっている哲学が、間違(まちが)っていたとしたら、その人は、間違った生き方、人生を歩(あゆ)むことになり、幸せとは正反対の人生、すなわち、不幸なる人生を歩(あゆ)むことになる。だから、意識する、しないは別(べつ)として、人間にとって、人生にとって、『哲学(てつがく)』とは、重要(じゅうよう)な意味と結果を、ともなってしまうと、いうことです。『哲学』とは、本当は、ものすごく重要なんです!その哲学いかんによって、自分の生き方が決まり、人生が決まっていくと言えます。もし、自分の人生は、うまくいっていない・・。自分の人生は不幸だと思っているのだったら、それは、自分の持っている『哲学(てつがく)』が間違(まちが)っていると、考えるべきでしょう。そして、ほんとうに正しい哲学、ほんとうに幸せになっていける哲学を、求めるべきでしょう。その、ほんとうに正しい哲学、ほんとうに幸せになっていける哲学。悩みや問題を解決していけ、夢や希望を実現(じつげん)していける哲学が、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰だと言えます。この創価学会(そうかがっかい)が実践する『南無妙法蓮華経の仏法』ほど優(すぐ)れた、素晴らしい哲学は、この世界に存在(そんざい)しません。それが、創価学会の、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法です。この、創価学会の仏法(ぶっぽう)の哲学は、どんな角度から見たとしても、非(ひ)の打(う)ち所(どころ)のない、完璧(かんぺき)な哲学です。たとえば、宇宙的な規模(きぼ)で考えたとしても、あるいは、生命という次元(じげん)から考えたとしても、あるいは、幸福という観点(かんてん)から考えたとしても、正しい人生、最高の人生ということから考えたとしても、環境(かんきょう)や自然、平和という観点から考えたとしても、あるいは、悩みや問題の解決ということから考えたとしても、また、夢や希望の実現ということから考えたとしても、人生の充実感(じゅうじつかん)、喜び、人生にもたらす歓喜(かんき)から考えたとしても、すべてにおいて、完璧(かんぺき)で、無駄(むだ)が なく、あらゆるすべての現象(げんしょう)において、最高の結果、最高の満足をもたらすものが、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法の哲学です。ゆえに、当然(とうぜん)、勝っていける!幸せになっていける!悩みを解決していける!夢や希望をかなえていける!それが、創価学会の仏法の哲学です。さきほど、話したように、人生において、生きることにおいて、『哲学(てつがく)』は重要です。人生を左右します。そして、その哲学の中で、必ず勝っていける、必ず、幸せになっていける、絶対にして、唯一(ゆいいつ)の法則(ほうそく)と言える哲学が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです・・・。
2014.03.30
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。『私たちが信心(創価学会の信心)に励(はげ)むのは、人生のあらゆる試練(しれん)や苦難(くなん)に打ち勝って、幸せになるためです。それには、何ものにも負けない強さが必要です。では、強さとは何か・・・・。よく、「人生の確かな目的をもった人は強い。信念(しんねん)のある人は強い。まことの友人をもった人は強い」と言われますが、その三つの条件は、すべて私たちに、創価学会のなかにそなわっています。』池田先生が言っています。「強さ」をもたらす三つの条件を、創価学会は、すべて、そなえている・・!まず、「人生の確かな目的をもった人は強い」ですが、人々は、幸せになるために、一生懸命(いっしょうけんめい)、生きているとは思う。けれど、 人生の確かな目的をもっているか?と聞かれたならば、それを明確に答えられる人は少ないと思う。「自分は何のために生きているのか」「自分の存在価値(そんざいかち)とは、何なのか」その確固(かっこ)たる心棒(しんぼう)がないかぎり、人の生き方は、フワフワした根無し草(ねなしぐさ)のようになってしまう。世間のさまざまな流れや風潮(ふうちょう)に右往左往(うおうさおう)して、どこにいくかわからないような人生になってしまう。そして、その答えを見つけられないまま、ほとんどの人が人生を終えてしまうというのが、現実だと思う。ところが創価学会の人たちは、違(ちが)う!創価学会の人たちは、明確(めいかく)に自分の存在価値を知っている。自分に生きる大いなる使命(しめい)があることを知っている。それは、単(たん)なる理屈(りくつ)ではなくて、創価学会の、南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を、現実に実践(じっせん)することによって、自分が幸せに変わり、そのことによって家族や職場、地域や世界を現実に、より良く変えていく。結果として、それは、世界を、平和に、幸福に、変革(へんかく)していくことになる。自分には、自分も幸せになり、まわりの人々、ひいては世界の人々も幸福にしていく使命があり、それを自分のいる場所から、現実に可能(かのう)にしていくのが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰です。その価値と歓喜(かんき)と可能性は、計(はか)り知れない。何よりも、自分の存在に、太陽のような大きな価値(かち)と歓喜と幸せを味わっていける。また、それが、そのまま、自分の悩みを解決したり、夢や希望をかなえることにつながり、人生を勝利していける。次に、「信念(しんねん)のある人は強い。」ですが、確かに、信念は、その人を強くする。絶対に勝つ!絶対に幸せになる!絶対に何かを成し遂(と)げる!その信念の中で、最も優(すぐ)れた信念、最も力ある信念、あらゆる困難(こんなん)を乗り越え、幸せを勝ち取っていける、また夢や希望をかなえていける、究極(きゅうきょく)の無敵(むてき)の信念が、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。この信念を持った人は、強い!!絶対に負けない!!必ず勝っていける!だれでも、それぞれ、信念はあると思う。けれど、それでも人生の勝敗は、分かれる。信念はあったとしても、本当に最後までその信念を貫(つらぬ)けるのか?また、どんな困難があったとしても最後まで貫けるような強い信念であるかは、疑問(ぎもん)が残る。そして、結局(けっきょく)、最も強い信念、最も強靭(きょうじん)な信念を持った人が勝つ。そして、その最も強靭(きょうじん)な信念、絶対に負けない、必ず勝っていける信念が、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法の信仰です。もう、なにものにも変えられない限(かぎ)りない力(ちから)と可能性と励ましを受けていけるのが、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰です。そして、最後の「まことの友人をもった人は強い」ですが、友人にも、いろいろあると思う。学校の友人、仕事の友人、趣味の友人、地域の友人、それらも素晴らしいと思うけれど、創価学会の友人は、『永遠の友人』だと思う。創価学会の実践(じっせん)する仏法では、永遠の生命を説きます。一度かぎりの人生でなく、永遠の生命をつらぬく、絶対に崩(くず)れざる幸福を築(きず)くためにあるのが、南無妙法蓮華経の仏法です。その仏法における、共に絶対に崩れざる幸せを目指(めざ)す友人は、どこにいても、どんな時でも、最高の友人であり同志(どうし)となります。共に、同じ、最高の幸せをめざす友人。理屈(りつく)はともかく、どこにいても、どんな環境(かんきょう)でも、どんな苦難(くなん)の中にあったとしても、創価学会員の友がいるということほど、心強いことはないし、確かに、計り知れない温かさと、強さと、勇気と、希望と、大きな大きな励ましを、創価学会の友は、与(あた)えてくれる。それは、確かに、まことの友人であり、真(しん)の友人と言える。世の中には、いろいろなことを言う人がいる。いろいろな書物もあり、さまざまな観点(かんてん)からアドバイスしてくれる人も、いるかもしれない。けれど、現実を見据(みす)えた時、自分の人生という現実の現象(げんしょう)をとらえていった時、結局(けっきょく)のところ、創価学会しかない!創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰しかない!と、いうことができます。何を言ったとしても、世間で何を言っているとしても、あるいは、小手先(こてさき)で、いろいろとやっていったとしても、どうしても、創価学会の仏法(ぶっぽう)の信仰に、たどりつく。ほんとうに、宿命(しゅくめい)を変え、悩みを解決し、夢や希望をつかんでいく道は、この創価学会の道しかない・・・!それが、結論(けつろん)であり、逆(ぎゃく)に、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法の信仰を根本(こんぽん)に、人生に挑戦していった時、あらゆるものが生かされていく。さまざまなアドバイスを有効(ゆうこう)に生かしていくことができ、さまざまな情報から、自分が本当に幸せになっていけるヒントを見つけ、つかんでいけるようになっていく。また、創価学会の信心を根本としていった時、自分にかかわる、さまざなな人々が、なぜだか、自分を守り、助ける存在(そんざい)となっていく。すべての人を生かし、輝(かがや)かせ、幸せに向かわせていく!!それが、人生の目的と信念、ほんとうの友人という、人生に勝つ三つの条件を兼(か)ね備(そな)えた、創価学会という存在(そんざい)であり、その幸せをもたらす究極(きゅうきょく)の力でありエネルギーであり法則(ほうそく)が、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。
2014.02.24
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。『希望がなければ、希望をつくればよい。光がなければ、自分が太陽になればよい。一人の人間が、わが生命に「希望の太陽」を輝(かがや)かせていくならば、その光彩(こうさい)は、わが家族、わが地域、わが国土(こくど)を照(て)らしながら、必ずや大いなる変革(へんかく)を可能にするのであります。』世の中は、さまざまだ。人間も、さまざまだ。問題も、いろいろ、あると思う。環境(かんきょう)が悪い。世の中が悪い。あの人が悪い。この人が悪い。数えていたら、きりがないほど、さまざまな問題があり、その分、悩みもあるかもしれない。すべてがうまくいく職場、あるいは人生は、ないかもしれない。その中で、どうしていくか。その中で、どうして、幸せを勝ち取っていくか・・。現代という時代は、確かに、希望の見えづらい、光が届(とど)きづらい世の中と言えるかもしれない。でも、だから、あきらめるのか?だから、世の中に文句(もんく)を言って、なげやりに過(す)ごすのか?違(ちが)う!希望は、自分でつくるしかない!!希望がないのなら、つくればいい!光がないのなら、自分が太陽になればいい!自分が、希望になり、太陽になっていったならば、その自(みずか)らの生命の輝きによって、まわりも輝いてきて明るくなっていく。幸せになっていく。当然、その輝きの中心に自分がいるんだから、 自分も明るく輝いき、幸せになっていく。そこに、幸せをつかむ、ひとつの布石(ふせき)がある。けれど、これは、理屈(りくつ)では、わかる。だけれども、具体的(ぐたいてき)な方法がわからない。自分が太陽となり輝くといったって、どうしたらいいか、わからないし、現実味(げんじつみ)がない。みずからを太陽と輝かせるもの・・。みずからの生命から光を放(はな)ち、周囲(しゅうい)と世界を照らし出していけるもの・・!その決定的な何か!が必要となってくる。そして、その、現実的で、決定的な方法が、創価学会(そうかがっかい)が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。生命の輝き、生命から放(はな)たれる幸せの力・・。その生命を輝かせるもの、生命から放たれる幸せの力(ちから)そのものが、創価学会の人たちが、日々、となえている、『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』だと言えます。発電所(はつでんしょ)が、電気を作り出すように、南無妙法蓮華経は、人間の生命の中から、生命力を作り出してていく。わき上がらせていく。だから、南無妙法蓮華経をとなえることは、生命の中から、幸せの輝きを、発電所のように作り出し、その人を太陽のように輝かせる。幸せの光、希望の光、勇気の光、蘇生(そせい)の光を作り出し、その人を太陽のように輝かすのが、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。その光は、やがて、悩みを解決する力(ちから)となり、夢や希望をかなえていく力となる。また、病気などを克服(こくふく)する大きな力ともなっていく。自分の生命そのものが、蘇生(そせい)し、輝いていったならば、それは、あらゆる面で、その人を幸せにしていく。そしてそれは、家族や地域、職場を照らす光となり、地域を、社会を、そして世界を幸せに輝かせていく結果にもなっていく。太陽が一つだけれど、世界を照らし出すことができるように、ひとりの人間であっても、自分が希望となり、自分が太陽となっていくことによって、家族も、地域も、世界も、幸せに変えていくこてが、できる。それを、現実の上で、だれでも、可能にしたのが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰だと言えます。だから、自分が、希望になればいい。自分で希望をつくればいい。光がなかったら、自分が太陽になればいい。それが、人生の上で、確実に、本当に実現できるのが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、いうことです。
2014.02.02
以前、日本の宗教研究の権威(けんい)であるという方が、ラジオで、日本の一般的な宗教について、語られていたのを聞いたことがありますが、その内容(ないよう)の、あまりものくだらなさに、呆(あき)れ返(かえ)ったことがありました。けれど、それは、その宗教研究家が悪いのではなくて、日本の一般的な宗教が、あまりにもくだらないので、どんなにがんばっても、どうしても、くだらない話ししかできない!ということです。だから、他のだれが話したとしても、くだらない話ししか、できなかったでしょう。それに、ただ、くだらないだけならいいのですが、そのような、くだらない、でたらめ、まやかしの宗教というものは、根本(こんぽん)からして、まやかしの間違(まちが)った宗教ですから、真剣に祈れば祈るほど、逆(ぎゃく)に、間違ったデタラメの結果として、 その人にさまざまな不幸をもたらす結果になってしまいます。間違ったデタラメの宗教に祈るということは、その間違ったデタラメの宗教に、自分の生命を人生を、ゆだね、ささげていくことになります。間違ったデタラメの宗教に、自分の生命と人生をゆだねていけば、当然(とうぜん)の結果として、自分の生命と人生は、デタラメの間違ったものになっていきます。自分の生命と人生が、間違ったデタラメのものになっていったら、その結果として、さまざまな不幸が、もたらされてしまいます。それが、間違った宗教というものです。そして、その間違った宗教が、日本の葬式仏教(そうしきぶっきょう)や神社信仰、観光宗教などです。そして、もう一つ言えることは、たとえ宗教研究家であっても、現実に幸せという結果がでる宗教、悩みや困難(こんなん)を解決していける、『本物(ほんもの)の宗教』をやったことがなかったら、真実と確信のある話しは、できない!!ということです。たとえば、どんなにリンゴの成分(せいぶん)を語り、細かく分析(ぶんせき)したとしても、リンゴのおいしさは、わからない!ということです。リンゴの成分について、長々と語るよりも、リンゴをひとつ取って、「ガブリ」と食べてみなかったら、そのおいしさは、わからないと、いうことです。現実的な人間にとっては、研究も大切かもしれませんが、食べてみて、おいしいか?まずいか?という現実の結果が大切であり、その、実際に味(あじ)わうことのできる現実がなかったら、なんの意味もなさないということです。現実においしいのか、どうか?、その結果が、現実の人間にとっては、とても大切だということです。そして、その、現実に結果のでる、悩みや問題を解決していけ、夢や希望をかなえて幸せをつかんでいける、真実の宗教と言えるのが、創価学会(そうかがっかい)の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。そして、その現実に幸せという結果を出していける、真実の仏法(ぶっぽう)の信仰を実践(じっせん)していった時、あらゆるものが見えてくる。あらゆる事象(じしょう)がわかってくる・・と言えると思います。根本(ほんぽん)になるものが、わかっているから、そこから、すべてを説明でき、理解していけるということです。それは、人生という道にも通(つう)じ、自分は、どうしたらいいのか、どうしたら幸せになるのか、どうしたら、自分の希望をかなえていけるか、その道が、明確にわかってくる。迷(まよ)わない! だから、勝利していける。視野(しや)が開けていく!希望が見えてくる!そして、勇気が湧(わ)いてくる!!幸せをもたらす、大元(おおもと)の法則(ほうそく)がわかっているから、希望がある!怖(おそ)れない!負けない!それが、現実に結果の出る、悩みや問題を解決していける、夢や希望をなかえる大きな力(ちから)となっていける、法則であり、本物の宗教と言える、創価学会の、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法の信仰なんです・・・!
2014.01.19
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。『苦悩(くのう)の渦巻(うずま)く悪世(あくせ)の社会である。しかし、この現実の場所を離(はな)れて、仏(ほとけ)の国土はどこにもない。ゆえに、日々どこまでも題目(だいもく/南無妙法蓮華経のこと)を唱(とな)え抜(ぬ)きながら、自(みずか)らの生命の仏界(ぶっかい)を涌現(ゆげん)し、勇気凛々(ゆうきりんりん)と眼前(がんぜん)の環境(かんきょう)を切り開いていくのだ。希望の方へ、成長の方へ、団結(だんけつ)の方へ、さらに勝利の方へ、変えていくのだ。そして、人間の一念(いちねん)の偉大(いだい)さを、「今ここ」で、断固(だんこ)と証明していくのである。』人間の一念(いちねん)の偉大さを、証明していく・・。人間の一念には、それこそ、ものすごい力(ちから)がある!ということだと思う。そして、人間の一念の力を、無限(むげん)に開いていく力が、『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』にはある!ということだと思う。だから、『南無妙法蓮華経を、となえていく』んだと思う。人生には、苦難(くなん)は、尽(つ)きない。時として、負けそうになってしまうこともある・・。それは、自分の一念が、負けていると、いうことです。そんな時でも、南無妙法蓮華経をとなえていくことによって、人間の一念の力を、無限に開花させていくことが、できる。だから、負けない。だから、勝っていける。だから、無限の知恵と創造力(そうぞうりょく)を、湧(わ)き上がらせながら、人生に挑戦(ちょうせん)していける。それが、『南無妙法蓮華経を、となえる』ということだと思う。どんな時でも、どんな場所でも、どんな環境でも、南無妙法蓮華経をとなえることによって、自分の生命を、自分の心を、パッと変え、より良く変革して、前に進んでいける。それが、南無妙法蓮華経をとなえることの、スゴみだと思う。自分の一念(いちねん)を変えていくことは、小さいことのようだけれど、あらゆるものを変えていく。自分の一念を変えていくことによって、まず、自分の生き方が変わる。自分の生き方が変わるということは、自分の未来が変わるということであり、自分の人生が変わるということです。そして、自分が変わることによって、家族や周りの人々、職場や環境(かんきょう)が変わっていく。職場や環境が変わっていくということは、世の中を、世界を変えていくことになっていく。そして、それは、結局(けっきょく)のところ、自分を最高に幸せにすることになり、また、世界を幸福に、平和にすることになっていく・・・!それが、『一念(いちねん)を変える』ということなんです。だから、一念を変えるということ、一念を変えられるということが、どれだけスゴイことかが、わかると思います。ただし、一念を変えるといっても、そう簡単(かんたん)にできるものでは、ありません。簡単に変えられたら、人生はたやすいけれど、変えられないから、大変だ。だから、『南無妙法蓮華経』が必要なんです。『南無妙法蓮華経を、となえる!』ことが、必要なんです。南無妙法蓮華経を、となえることは、一念を変える、唯一(ゆいいつ)にして、究極(きゅうきょく)の方法なんです。これしかない!!と言ってもいいでしょう・・。だから、創価学会の人たちは、幸せになっていけるんです。現実に、さまざまな、あらゆる悩みを解決し、また、さまざまな夢や希望をかなえて、幸せになっていけるんです。それも、これも、一念を変革(へんかく)していけるからです。その一念を変える、唯一(ゆいいつ)にして、決定的で、現実的な方法が、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、いうことです・・・!
2013.12.12
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)の御書(ごしょ)に、こう、あります。『一度(ひとたび)、妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)と唱(とな)うれば一切(いっさい)の仏(ほとけ)・一切の菩薩(ぼさつ)・一切の声聞(しょうもん)・一切の梵王(ぼんのう)・帝釈(たいしゃく)・閻魔(えんま)・法王(ほうおう)・日月・衆星(しゅうせい)・天神(てんじん)・地神(ちじん)・乃至(ないし)地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人天(にんてん)・一切衆生(いっさいしゅじょう)の心中(しんちゅう)の仏性(ぶっしょう)を唯(ただ)一音(いちおん)に喚(よ)び顕(あらわ)し奉(たてまつ)る功徳(くどく)・無量無辺(むりょうむへん)なり。』ちなみに、御書(ごしょ)とは、日蓮大聖人が書かれた論文や手紙を、すべて集めたものをいいます。池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。『妙法(みょうほう/南無妙法蓮華経のこと)は、ありとあらゆる人びとから、そして、ありとあらゆる環境(かんきょう)から、仏性(ぶっしょう)を呼び起こし、一切を蘇生(そせい)せしめていく音律(おんりつ)である。』上にあげた日蓮大聖人のご文の中の、菩薩(ぼさつ)、声聞(しょうもん)・梵王(ぼんのう)・帝釈(たいしゃく)・閻魔(えんま)・法王(ほうおう)・・・や地獄・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人天(にんてん)などは、生命と宇宙の働(はたら)きと力(ちから)、さまざまな可能性や影響力(えいきょうりょく)、また、生命に内在(ないざい)する特性(とくせい)や性質、人それぞれの境涯(きょうがい)や心の変化を、言葉で表現したものですが、それらを動かし、無限の幸せをもたらしていける『仏性(ぶっしょう)』という仏(ほとけ)の生命を、一言(ひとこと)で呼び覚(さ)まし、動かしていけるのが、『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』だということです。仏(ほとけ)の生命を呼び起こすといっても、よくわからないと思いますが、自分の中にある、あるいは生命や宇宙の中にある、幸せをもたらす力(ちから)、希望の力、さまざまな悩みを解決し、夢をかなえていける無限のエネルギーを引き出し、呼び起こしていくと、いうことです。その、あらゆる幸せの力を呼び覚(さ)ましていける力が、たった一言の『南無妙法蓮華経』にはある!!ということです。『仏(ほとけ)の生命』の力とは、そのように無限の幸せと希望をもたらす生命の力だということです。その、宇宙や世界、人間や生命の中から、無限の幸せと希望をもたらす、『キーワード』となる音律(おんりつ)が、『南無妙法蓮華経』だということです。たとえば、公園に、山田さんが100人、いたとします。そうすると、その公園で、「山田さーーん!」と呼ぶと、100人の山田さんが、「はーい!」と答える。それと同じように、南無妙法蓮華経を、となえる時、南無妙法蓮華経とは、「仏の生命の名前」「仏性(ぶっしょう)の名前」なので、呼ばれて、全宇宙の仏性(ぶっしょう)が「はーい」と返事をする。また、自分の中の仏性も、呼ばれて、返事をする。あらゆる環境(かんきょう)、あらゆる世界、また自分の中にある仏性も、呼ばれて、「はーい!」と返事をして、引き出されていく。そうすると、南無妙法蓮華経とは、仏性(ぶっしょう)とは、幸せをもたらす無限の力なので、自分の中から、幸せになるための力が引き出され、また、環境や世界からも、幸せをもたらす力が引き出されていく。その結果、さまざまなことが好転(こうてん)し、幸せをもたらし、また、自分自身の中から引き出された仏性によって、自分も幸せに変わっていく。それが、『南無妙法蓮華経』だということです。だから、ぼくたちが、南無妙法蓮華経をとなえる時、全宇宙の、あるいは世界や環境から、幸せをもたらす無限の力である『仏性(ぶっしょう)』が呼ばれて、引き出される。また、自分で南無妙法蓮華経をとなえることによって、その自分自身の中から、仏性、すなわち、幸せをもたらす無限の力が、呼ばれて引き出されていく。その幸せをもたらす、無限の相乗効果(そうじょうこうか)が、創価学会の人たちが、日々、となえるている、『南無妙法蓮華経』だということです。だから、創価学会の人たちが、幸せにならないはずがないんです・・!!また、だから、創価学会は世界192カ国に広がり、人々を現実に幸せにしている!!だから、どんな困難(こんなん)があったとしても、南無妙法蓮華経を真剣にとなえていくことによって、困難を乗り越(こ)え、幸せになっていける。どんな悩みがあったとしても、真剣に南無妙法蓮華経をとなえることによって、自身の生命から幸せの力を引き出し、変革(へんかく)し、悩みを解決していける。また、日々、真剣に南無妙法蓮華経をとなえて、仏法(ぶっぽう)の実践(じっせん)活動である、創価学会の活動をやっていくことによって、自身の境涯(きょうがい)を変え、人間革命していくことができる。やがてそれは、夢や希望をかなえ、幸せと勝利につながっていく!あらゆるものを動かし、あらゆるものを変革(へんかく)していく。あらゆる幸せを引きつけ、勝利させていく。また、自分自身が、本源的(ほんげんてき)に、幸せに変わっていく!!それができる、決定的で、唯一(ゆいいつ)の法則(ほうそく)であり、力であり、エネルギーが、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです・・・!!
2013.12.08
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。『苦悩(くのう)し、呻吟(しんぎん/苦しんでうめくこと)する庶民(しょみん)の心に、誰が希望の光を注(そそ)ぐのか。誰が勇気の火をともすのか ・・・その使命(しめい)を担(にな)ってきたのが創価学会(そうかがっかい)である。』創価学会は、昔、貧乏人(びんぼうにん)と病人の集まりだと、言われた。けれど、逆に言えば、それは、だれも見向(みむ)きもしない貧乏人や病人に手を差しのべ、救(すく)ってきたということです。その人たちが、裕福(ゆうふく)になり、健康になり、幸せになっていったから、創価学会は世界192カ国にまで広がり、隆々(りゅうりゅう)たる大発展をしている。だれも手をつけようがなかった、苦しみや悩み。それは、ほとんどが個人的な問題だけに、外からどうのこうのと言うことはできないし、どうしようもない悩みだとも言える。その、個々人(ここじん)の宿命的(しゅくめいてき)ともいえる悩み、また、人間そのものがもっている悩みとも言えると思いますが、その宿命的な悩みに挑(いど)み、解決してきたのが、創価学会です。だから、世界は、創価学会を賞賛(しょうさん)し、希望をたくすんです。それだけの、ものすごいムーブメントがあるんです。だから、世界を真摯(しんし)に考え、平和と幸福を考える人たちは、優秀であればあるほど、創価学会に注目し、期待をたくしている。それが、創価学会の真実だと思う。ひとりの人間がいる。そこに、逃(のが)れることのできない悩みがある。そして、切実(せつじつ)な幸せへの欲求(よっきゅう)がある。そのひとりひとり、ことごとく違(ちが)う、あらゆる悩みを解決でき、個々人の中にある無限の可能性に目覚(めざ)めさせ、開花させていく。しかも、それは、もともと優秀で、だれが見ても、この人は幸せになると思うように人ではない。だれも見向きもしないような、人から見捨てられたような、名もない貧乏人や病人たちである。そういう人たちを、ことごとく蘇生(そせい)させ、人間革命(にんげんかくめい)させ、幸せにしてきたのが、創価学会です。いったい、こんなスゴイことを、他のだれが、やったというのだろうか・・・?それをやったのは、創価学会だけです。ほんとうに民衆を、庶民を、名もなき人々を、立ち上がらせ、幸せにしていったのは、『創価学会』です。ここに、創価学会の、かけがいのない存在価値(そんざいかち)と、使命がある。それが現実にできるのは、今までも、これからも、『創価学会だけ』だと言えるでしょう。それだけの力(ちから)とエネルギーと幸福という真実の結果をだせるのが、創価学会という場所であり、どんな悩みも解決して、夢や希望をかなえていける真実の力が、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、いうことです・・!
2013.11.15
親子の断絶(だんぜつ)や、家庭不和(かていふわ)、それは決して近年の問題ではなくて、遠い昔から、多くの人が悩んできた問題だそうです。そんな大げさなことではなくても、そのような家族のことで、少なからず、悩んだり、気にかけている人も多くいると思う。それは、親子という最も身近(みぢか)な問題だけに、なかなか解決(かいけつ)しない悩みかもしれない。その解決について、池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、こう言っています。『この人間関係の亀裂(きれつ)を埋(う)めていくものは、結論(けつろん)から言えば、信心(創価学会の信心)しかありません。信心によって、 自分の境涯(きょうがい)を開き、生命を変え、人間革命(にんげんかくめい)していく以外(いがい)にないんです。親も、夫(おっと)も、兄弟姉妹も、子どもも、自分の置(お)かれた現実であり、それは、宿縁(しゅくえん)によって結(むす)ばれているんです。その環境(かんきょう)から逃(に)げ出すわけにはいきません。では、どうすればいいのか。人間関係がうまくいかない理由を、周囲(しゅうい)のせいにするのではなく、自分が変わっていくことです。たとえば、母親が人間革命(にんげんかくめい)し、子どもさんが、「うちのお母さんは最高だ!」と、心から思うようになれば、子どもさんの母親への態度(たいど)も変わり、親孝行(おやこうこう)するようになります。ご主人だって同じです。』自分が変わっていく・・!そのことによって、家族も変わり、親子や家族の間の悩みも、解決していく・・!けれど、わかると思うけれど、自分が変わることほど、難(むずか)しいこともない。自分が変わることほど、大変なこともない。だから、人は、自分ではなく、人のせいにしてしまう。それの方が楽(らく)だから・・。けれど、そう考えている間は、家族間の問題も、他のさまざまな問題も、解決していかない・・・。『いかにして、自分が変わるか・・!』それが、もっとも身近で、もっとも難しい難問かもしれない・・。そして、この難問(なんもん)中の難問を解決する力(ちから)が、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰です。この創価学会の信仰には、自分を、根源的(こんげんてき)に変えていく力がある!!ということです。また、池田先生が言うように、自分を根源的に変えていけるのは、この創価学会の南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の仏法の信仰しかない!!と言えます。だから、この創価学会の信仰が必要になってくる。また、この創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰によって、数限りない人たちが、家族間の、のっぴきならない悩みも問題も、解決してきた!とも言えます。また、子供が、この創価学会の信仰によって変わっていく姿(すがた)に感動して、創価学会に入る親も、多く、いる。自分が変わることによって、家族や周囲の人々も変わっていく。自分が変わることによって、環境(かんきょう)が変わり、やがて、社会や世界も、幸せに変えていくことができる。これが、創価学会の、『人間革命』の法則(ほうそく)だと、思う。人は、家族間のさまざまな悩みや問題などについて、「あの人が変われば・・」「あの子が変われば・・」と思うかもしれない。けれど、なかなか「自分が変われば」とは思えない・・。なぜならば、自分が変わることが、どれだけ大変なことか、わかっているからです。また、自分には関係ないと思いたいからかもしれません。けれど、本質的(ほんしつてき)に、それでは、悩みや問題を解決してはいけない。また、実際(じっさい)、さまざまな試練(しれん)や苦難(くなん)の中、夢や希望を、かなえていくことも難しいと思います。悩みの解決にしても、夢や希望の実現にしても、それには、『自分が変わる!』しかない!!わかっているけれど、それが、なかなか、できない・・。だから、人は苦しみ、不幸に沈(しず)んでいく人もいる。その『自分が変われない不幸』を打ち破(やぶ)り、根底(こんてい)から自分を変え、夢や希望に向かって、大きく境涯(きょうがい)を開いて、幸せになっていけるのが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰だということです・・・!!
2013.11.07
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。『仏法(ぶっぽう)では、「仏(ほとけ)」という最も偉大(いだい)な存在も、人間を離(はな)れ、現実を離れて、どこか遠くにあるのではない。私たちの生命の中にある。この私たち自身(じしん)が、まさに「仏(ほとけ)」なのであると説かれております。そう言われても信じられない人に、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)は、「自分のまつげは近すぎて見えないようなものだよ。」と譬(たと)えられました。さらに、「美しい桜(さくら)の花は、ごつごつとした木の中から咲(さ)き出てくるではないか。」「同じように、凡夫(ぼんぷ)である私たちの心の中から、必ず仏の生命を開いていくことができる。」と教えられている。結論して申(もう)し上げれば、その最高の生命の花を咲かせていく、究極(きゅうきょく)の力(ちから)が、南無妙法蓮華経です。これは、絶対(ぜったい)に間違(まちが)いのない大法則(だいほうそく)であります。』悩みや苦悩(くのう)にしても、夢や希望にしても、それらを持ち、抱(いだ)いているのは、自分です。悩みや苦しみも、夢や希望も、本質的(ほんしつてき)には、『自分の中にある!』ということです。すべてが自分の中におさまっている。喜びや感動、怒(いか)りや悲しみにしても、それは自分の中からわき上がってくるものであり、どこか遠くにあるものではない。人の財産(ざいさん)を数えても、決して自分のものにはならないのと、同じ道理(どうり)です。それと同じように、強くて、あったかくて、やさしくて、どんな困難(こんなん)も乗り越えていける、絶対に負けない、あらゆる悩みも解決(かいけつ)していけ、夢や希望をかなえていける、無限の可能性(かのうせい)を持った最強・最高の生命も、自分の中にある。 どこか遠くにあるものではない・・!そのどんな困難も乗り越えていける、無限の可能性を持った最強の生命のことを「仏(ほとけ)の生命」という。そして、その仏の生命は、どこか遠くにあるのではなく、「自分の中にある!」ただ、まつげが近すぎて見えないように、なかなか、そのことがわからない。けれど、ごつごつした木の中から、美しい花が咲き誇(ほこ)るように、それは、自分の中にある。最初に言ったように、悩みや苦悩にしても、夢や希望にしても、それらを持ち、抱(いだ)いているのは、自分です。悩みも苦しみも、夢や希望も自分の中にある!ということです。それら、自分の中にあるものに対して、いくら、自分の外にあるものに、その解決策(かいけつさく)を望んでも、それは、他人の財産を数えるのと同じで、なんにもならない。本質的な解決策にはならない!ということです。自分の中にあるものなんだらか、自分の中に解決策を求めるべきです。また、そうしていった時、はじめて本質的(ほんしつてき)な解決策となっていく。悩みや苦しみにしても、夢や希望にしても、自分の中から、自分の生命の中から、解決する方法と力(ちから)を、見いだしていかなければならない。そして、その力(ちから)が、すべての人にそなわっている、『仏(ほとけ)の生命』だということです。この『仏の生命』は、すべての人の中に、もともと、そなわっていて、その『仏の生命』を開花していくことによって、悩みや苦しみの解決も、夢や希望の実現も、可能になっていく!ということです。そして、その『仏の生命』を自分の中から開花していける、唯一(ゆいいつ)の方法と言っていいのが、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。池田先生が言うように、幸せを勝ち開いていく究極の大法則なんです。南無妙法蓮華経を真剣にとなえて、仏法の実践活動である創価学会の活動をやっていくことによって、どんな悩みや苦難(くなん)も乗り越(こ)えることができ、夢や希望も実現していけるようになっていくんです。幸せを勝ち取るこれ以上の力(ちから)はないんです。そして、それは、自分の中にある!!!ごつごつした木から、美しい花が咲くように、まつげが近すぎて見えないけれど、確実にあるように、自分の中に、幸福の『仏の生命』は、ある!!そして、その『仏の生命』を無限に開き、花咲かせていけるのが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰なんです・・・!
2013.10.30
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。『時には、「どうして自分ばかりが・・・・・」とグチをこぼしたくなることもあるかもしれない。しかし、煩(わずら)わしい試練(しれん)と、祈り戦うからこそ、仏(ほとけ)の力が出せる。泥(どろ)が深ければ深いほど、やがて美事(みごと)な幸福勝利の大輪(だいりん)を咲(さ)かせていけるのが、『如蓮華在水(にょれんげざいすい)』の妙法(みょうほう/南無妙法蓮華経のこと)である。』『如蓮華在水(にょれんげざいすい)』というのが難(むずか)しいですが、蓮(はす)の花が、泥沼(どろぬま)の水の上に、美しい花を咲かせるように、苦悩・渦巻(うずま)く、どんな泥沼のような環境(かんきょう)や人生からも、美しい、勝利と幸せの花を咲かせることができる!との譬(たと)えだと思います。人の人生は、さまざまだ。けれど、美しく澄(す)んだ水の上に、優雅(ゆうが)に浮(う)かんでいられるような人など、ほとんどいないと思う。また、表面的には、優雅に見えたとしても、内面的には、どろどろの苦悩(くのう)と戦っているような場合も多いと思う。どっちにしろ、そんじょそこらのことでは、にっちもさっちもいかないのが、人生だと思う。皆、現実と人生の、さまざまな苦難や苦悩、現実と理想(りそう)のギャップに悩み、その中で戦っていると思う。その中で、泥沼に咲く蓮の花(はすのはな)のように、花を咲かせ、光り輝(かがや)いていかなければならない。それが多くの人の人生だとも言えます。池田先生が言うように、『どうして、自分ばかりが・・・』と思いたくなるようなこともあるかもしれない。グチをこぼしたくなることもあるかもしれない。けれど、それでは、花は咲かせていけない。その泥沼の上に、美しい花を咲かせなければならない。そのための絶対の力(ちから)、無限の力、どんな苦難も幸せに変えていける力が、創価学会の、南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。泥が深ければ深いほど、美しい花を咲かせていける。それが、究極(きゅうきょく)の幸せの力、『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の仏法』だと思う。世の中が悪い。環境(かんきょう)が悪い。あの人が悪い・・。確かにそうなのかもしれないけれど、そう思っても、どうにもなっていかない・・。その世の中、その厳(きび)しい環境の中でも、幸せになっていかなければならない。勝っていかなければならない。まさに、泥沼(どろぬま)のような環境や状況(じょうきょう)であっても、それでも、花を咲かせなければならない。それは確かに、至難の技(しなんのわざ)であり、どうにも手がつけられない難問でもあると思う。いったい、どうしたらいいのか?理屈(りくつ)で、ああだ、こうだ言うことはできる。けれど、はたして、それができるのか?蜘蛛(くも)の網(あみ)のように絡(から)まった人間模様(にんげんもよう)やさまざまな状況・・・。それを、プラスの方向、幸せの方向、勝利の方向にもっていくことが、どれだけ困難であり、奇跡(きせき)といっていいくらい難(むずか)しいことであることはわかっている。あらゆるものが、微妙(びみょう)に絡(から)み合い、複雑極(ふくざつきわ)まりない状況を作っている。その中で、「あみだくじ」のように道をたどり、幸せをつかんでいかなければならない・・・。確かに、困難な道だといえる。けれど、その困難な道を実現できる方法がある・・・!蜘蛛(くも)のからまった糸のような複雑な人間関係と状況、環境、人生・・。その、蜘蛛の糸のように複雑な編み目(あみめ)の中でも、そこを完璧(かんぺき)にくぐり抜け、誤(あやま)りなく、勝利と幸せをつかんでいける秘宝(ひほう)・・!それが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと言える。この創価学会の、南無妙法蓮華経の仏法が、どけだけスゴイか・・・!あらゆるものを幸せに結びつけ、あらゆるものを、あらゆる人々を幸せに向かわせ、たどり着かせる。確かに、普通、考えたら、不可思議(ふかしぎ)としか思えない幸せの奇跡(きせき)を、もたらしていけるのが、この南無妙法蓮華経の仏法です。にっちもさっちもいかないような人間関係、またその環境や状況、それを完璧に調和(ちょうわ)させ幸せに導(みちび)いていってしまう力(ちから)が、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法にはある・・!まさに、それは不思議(ふしぎ)であり、宇宙の力、生命の力、宇宙の本源的な法則(ほうそく)に導(みちび)かれているとしか表現できないけれど、そういう、とてもできない芸当(げいとう)をやってのけてしまう力が、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰には、あるということです。ゆえに、蓮が、泥沼の中から美しい花を咲かせるように、人生を勝利していける。幸せになっていける。もろもろの悩みも困難(こんなん)も、さまざまな人間関係や状況も、すべて乗り越え、勝利していける。そういう生き方が、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、いうことです・・。
2013.10.06
ぼくは、創価学会員だから、普通に聖教(せいきょう)新聞を、読んでいる。創価学会員がみんな、必ず聖教新聞を読んでいるわけではないけれど、一般的に、真面目に創価学会の信心をやっている人は、聖教新聞を読んでいる。なぜ、聖教新聞を読むのかと、自分に問いかけてみると、それは、自分が「幸せを求めている」からだと思う。もし、ぼくが、幸せを求めていなかったら、聖教新聞は、読まないでしょう・・・。そう考えてみると、聖教新聞は、「幸せ」にポイントと重点を置いた新聞であることが、わかる。普通、新聞というと、その時々にあった事件や出来事や話題などが、のっている。また、それだけではなく、その新聞独特(どくとく)の解釈(かいしゃく)というか、それぞれの新聞に思想性(しそうせい)があり、傾向性(けいこうせい)がある。この新聞はあっちよりの傾向があり、あの新聞はそっちよりの傾向があったりする。よく言うように、思想的に、右よりだとか、左よりだとかと表現することもできる。こっちの新聞は反対だと言い、あっちの新聞は賛成だという場合もある。同じ物事にも、さまざまな考え方があり、それはそれで当然(とうぜん)だと思う。細かい部分から言えば、新聞には思想の対決のような部分もあるかもしれない。 一方は反対、もう一方は賛成。それは当然、それが良いと判断(はんだん)して書いてあるのだけれど、その賛成と反対の狭間(はざま)で、時として、置(お)き去(ざ)りにされてしまうものがある。それが、「人間の幸せ」だと思う。特に、庶民(しょみん)の幸せ。決して、新聞にはのることのないような、名もない民衆たちの幸せ・・。この名もない民衆たちの幸せが、置き去りにされてしまう場合がある。逆に言えば、どうしようもないからだと言うこともできる。世の中に埋(う)もれているような、庶民たちを幸せにできる方法や手段(しゅだん)が見当(みあ)たらないし、またそれらの人々の悩みや苦しみを解決する確実で具体的な方法もない。だから、それらの名もない民衆たちの幸せが、新聞にのることは、あまりない・・・。また、有名人や著名人(ちょめいじん)の死や、それにかかわる病気について、新聞にのることはあっても、その大変な病気や障害(しょうがい)を乗り越(こ)え、蘇生(そせい)していった話しも、あまり新聞に乗る事がない。それは、当然であり、どんなに有名であろうと、財力(ざいりょく)があろうと、困難な病気を乗り越え、勝利した話しなど、ほとんど無いからです。 だから、そういう蘇生(そせい)のドラマが新聞にのることも、あまりない。ところが、聖教新聞には、いま、上げたような、普通、新聞にのることのない物語、ストーリー、ドラマが、ことごとく、のっている。それは、大変な病気を乗り越え、勝利していった物語であり、経済的にも大変な苦境(くきょう)を勝ち越え、幸せを勝ち取った物語であり、また障害(しょうがい)を乗り越え、蘇生(そせい)していった物語でもある。また、他の新聞では決して、のることのないような、名もない庶民たちの勝利と幸せの凱歌(がいか)が高らかに歌われているのが、聖教新聞だと言える。それは、まぎれなもない現実の結果であり、元(もと)を正せば、歴史の上でも、だれも、どうしようもなかった、民衆の幸せ、名もない庶民を、現実に幸せにしていける法則(ほうそく)と哲学(てつがく)が、創価学会の、南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰にはある!!ということです。ゆえに、現実の科学的な証拠(しょうこ)として、数えきれない多くの民衆の幸せを、新聞にのせることができる。また、それだけの希望を生み出す力(ちから)が、聖教新聞にはある!ということもできます。普通だったら、決して新聞にのるようなことはなかった、名もない民衆の勝利と幸せ・・!その民衆の壮大(そうだい)な叙事詩(じょじし)。その民衆の勝利の歌が、聖教新聞なのかもしれない。だから、聖教新聞は、『幸せを求める人』が読む新聞だと思う。そして、『幸せになる答え』が必ずある!のが、聖教新聞だと思う。また、これほど、人間に、ひとりの人間に、民衆に、希望を贈(おく)ることのできる新聞もない!と思う。だれも、表立(おもてだ)って言ったりしないかもしれないけれど、探し求めている『幸せの本質(ほんしつ)』そして、幸せという現実の結果・・!その『幸せの本質』と『幸せという結果』に、真(しん)に、具体的に、現実的 に、直結(ちょっけつ)している新聞が、聖教新聞だと思う・・・!
2013.09.16
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。『信念と努力が報(むく)われるには、正しい人生の軌道(きどう)を知らねばならない。幸福を欲(ほっ)して、ひたすら努力しながら、不幸に泣(な)く人のいかに多いことか。生命の法理(ほうり)に即(そく)してこそ、信念は輝(かがや)き、努力は実を結(むす)ぶのである。』努力と信念は、報われる・・。そう信じるのは、大切かもしれない。また、努力しなかったら何かに成功したり報(むく)われることはない。けれど、 池田先生も言っていますが、幸福を欲(ほっ)して努力しながら、不幸に泣く人がいかに多いことか・・。そう考えると、努力が必ず報われるとはかぎらない・・と言えます。なぜ、努力が報われないのか・・?それは、その人の人生が、その人の生命が、『生命の法則(ほうそく)』に即(そく)していない。生命の法則からずれているからだと言えます。宇宙には法則があり、リズムがあり、幸せをもたらす法則がある。その幸せをもたらす法則に乗って生きていった時、努力は報われ、夢や希望をかなえて幸せになってける。また、逆(ぎゃく)に言えば、宇宙の法則、生命の法則の軌道(きどう)にのって、生きていった時、自然と幸せになるための努力、行動ができるようになっていく。幸せになるための努力と行動ができていけば、当然、幸せになっていける。そう言えると思う。また、宇宙の法則、生命の法則に即(そく)した人生、生き方をしていると、同じ努力をするにしても、最高の努力、最高の行動ができるようになっていく。皆、努力しているのは同じだから、そうなると、最高の努力、最高に価値(かち)のある行動をできた人が、幸せとなり、勝利者となっていく。そうなると、やはり、宇宙の法則、生命の法則にかなった生き方をした人が、結局(けっきょく)、幸福になり、勝利していく・・!それが、『人生のあや』だと、言える。だから、人生の正しき軌道(きどう)、生命の法則を知らなければならない。知ると言っても、ただ知識として知ってもなんの意味もない。自分でその正しき生命の法則の中に生き、生命の法則にのっとって、生きなければ意味がない。けれど、そんなことは、至難の技(しなんのわざ)であることは、わかりきっている。その、普通、考えて至難の技であるはずの、生命の法則の中で生きること。幸福になる生命の軌道に即(そく)して、幸福と勝利の流れをつかみ、その幸せの軌道の中で生きていける、唯一(ゆいいつ)にして決定的な方法が、創価学会の、南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。 だから、創価学会の人たちは、世界中で勝利し、最大限、夢や希望をかなえて、幸せを勝ち取っている。それができるのが、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。また、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法は、ただ、努力が報われるということではない。もっと、強力な、もっと画期的(かっきてき)な、幸せをつかむ力(ちから)がある・・!それは、宿命転換(しゅくめいてんかん)ができる!ということです。どんな悩みや苦しみ、どんな不運をもっていたとしても、その不運や悩み、苦しみを転換(てんかん)して、乗り越(こ)え、その上の幸せをつかんでいける!!ということです。これができるのは、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)の信仰だけです!これしかありません!!!だから、強い!幸せになっていける。だからこそ、努力が報われ、悩みや困難(こんなん)を乗り越え、勝利していける。宿命転換(しゅくめいてんかん)ができるから、夢や希望をなかえていける!!それが、努力が報(むくわ)われる生き方。自身の生命と人生を、幸せに変革していける生き方。また、宇宙の法則であり、生命の法則であり、幸せになる人生の法則である、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰だということです・・・!
2013.08.26
ある人は、言う。「宗教なんかには、とらわれたくない・・!」確かに、そうかもしれない。日本には、何万という宗教があり、99.9%、それらは常識(じょうしき)から考えれば、くだらないものであり、また、お金をせびり、人びとを不幸にしていった例は、数えきれないからです。また、それらの宗教が、人びとをだまし、単(たん)なる金儲(かねもう)けに利用されてきたのも事実だと思う。だから、宗教なんかには、かかわりたくない!、とらわれたくない!と考えるのが普通だろう。けれど、創価学会(そうかがっかい)のことを、とりあげて、「宗教なんかには、とらわれたくない。」と言っているとしたら、話しは違(ちが)ってくる。もし、創価学会に向かって、「宗教なんかには、とらわれたくない。」と言っているとしたら、まず、その人に言ってあげたいと思う。「それでは、あなたは、自分に突(つ)き付けられた、さまざまな宿命(しゅくめい)に対して、それらを乗り越(こ)える手段(しゅだん)と手だてを持っているのだろうか?」人は、皆、全力で生きていると思う。人それぞれ、夢や希望があり、また幸せになるためにベストを尽(つく)くしているとは思う。けれど、人生は、やはり、山あり谷ありです。それぞれの人に、さまざまな難問(なんもん)があり、大きな悩みに突(つ)き当たることもある。大変な宿命(しゅくめい)の嵐に見舞(みま)われることもある。それらの悩みや自分の宿命にたいして、人は、当然、なんとかしようと思い、また努力もしていくと思う。けれど、ほんとうにそれらを解決できるか?、それらの宿命を乗り越(こ)え、幸せを勝ち取っていけるのか?と言えば、当然、なんとかなればいいと、がんばって生きるとは思うけれど、正直なところ、その場その場を、なんとか凌(しの)ぎ、人生をなんとなく、やり過ごしてしまうというのが、 本当のところではないだうか?根本的な解決策(かいけつさく)がない・・・!どうしようもないから、なんとか、その日その日、生きるしかない。簡単に言えば、なるようになるしかない・・。そんな生き方をするしかないのではないだろうか?それが、根本的(こんぽんてき)な解決策を持たない人の生き方だと思う・・。そうではなく、自分の力で、宿命を転換(てんかん)していける!宿命や悩みを現実に打ち破(やぶ)り、大きな幸せと勝利をもたらしていける!自身の境涯(きょうがい)をより良く変革(へんかく)していくことによって、自分も、家族も、職場や地域など、自分の周(まわ)りの人びとまで幸せにしていってしまう。その生き方と力(ちから)が、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。根本的(こんぽんてき)な解決策を持たない生き方とは、全然(ぜんぜん)違うんです!!どこまでも宿命を変え、どこまでも幸せになっていける!それが、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。だから、どんな苦難(くなん)の中でも、希望を持っていける!負けない!!また、もう一つ言いたいのは、「宗教なんかには、とらわれたくない・・!」と言うけれど、もし、その人が、さまざまな悩みや苦しみ、自身の宿命に苦しんでいるとしたら、その悩みや苦しみ、宿命がどこから来るかと言えば、根本的には、それは、自分が今までたずさわってきた間違(まちが)った宗教が原因(げんいん)になって起っていると言えます。また過去世(かこせ/自分が過去に生きていた時代)に、間違った宗教にたずさわってしまったことが原因で、さまざまな悩みや苦しみ、宿命をもって生まれてしまったと言うこともできます。不幸の根源(こんげん)には、間違った宗教がある!ということです。自分がたずさわった間違った宗教が、さまざまな宿命や悩みとなって、自分を苦しめている。そう、言い切ることができます。だから、「宗教なんかには、とらわれたくない・・!」と言っていても、その人が、宿命や、さまざまな悩みに苦しめられているとしたら、不幸の根源には間違った宗教があるのだから、その間違った宗教のせいで、さまざまな宿命や悩みに苦しんでいると、言うことができます。だとしたら、「宗教なんかには、とらわれたくない・・!」と言っていながら、その人は、すでに、『間違った宗教の害毒(がいどく)に、とらわれている!!』と言うことができます。不幸や悪(あ)しき宿命、悩みの根源(こんげん)には、間違った宗教がある!だから、「宗教なんかには、とらわれたくない・・!」じゃなくて、すでに、悪しき宗教の害毒(がいどく)にとらわれているのだから、その悪しき宗教の害毒から、自分を、解(と)き放(はな)たなければいけない!ということです。そして、その悪しき宗教の害毒から、自分を解き放つ唯一(ゆいいつ)の方法が、真実の正しい宗教につく!ということです。その、真実に正しい宗教というのが、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。だから、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を実践するのは、自分のさまざまな宿命や悩み、苦しみから、解き放つためであり、自己の生命を、どこまでも開花させ、夢や希望に向かって、大いなる幸せをつかんでいくためです。だから、よく言う「宗教などには、とらわれたくない」というのとは、逆(ぎゃく)の意味合いになるのが、創価学会の信仰です。どういうことかというと、自分のさまざまな宿命や悩み、苦しみを打ち破り、大きく解放し、飛翔(ひしょう)して、幸せをつかんでいく行為(こうい)が、創価学会の信仰だということです。宗教にとらわれるのではなく、逆に、自分をどこまでも解放していくこと。悩みや問題を解決して、夢や希望につかむために、どこまでも自分を変えていくこと。それが、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっほう)の信仰なんです。また、それが現実にでき、世界中の人々の悩みや不幸を打ち破り、人々の夢や希望をかなえて幸せにしてきたのが、創価学会です。ゆえに、宗教にとらわれるのではなく、逆に、苦しみや悩み、不幸や宿命から、解き放ち、どこまでも幸せを開花していけるのが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰だということです・・・。
2013.08.21
カナダに住む、リプトンさんという創価学会員の女性が、います。彼女は、病(やまい)のために自信が持てず、人と話すことが苦手だったけれど、創価学会の信心に励(はげ)んで病気を克服(こくふく)。その姿に触(ふ)れ、母親も創価学会に入会したそうです。そのリプトンさんが、言っています。「不安に押(お)しつぶされそうな日々を、希望と感謝(かんしゃ)に満(み)ちあふれた人生に変革(へんかく)することができました。」世の中には、いろいろな人がいる。未来が開け、揚々(ようよう)たる気持ちの人たちもいるかもしれない。けれど、この暗澹(あんたん)とした現代の世の中の中で、リプトンさんのように、不安に押しつぶされそうな人も、数多くいるのではないかと、思う・・・。それが、多くの人々の率直(そっちょく)な思いではないかと、言ってもいいのではないかと思う。そして、リプトンさんが言うように、不安に押しつぶされそうな日々を、希望と感謝に満ちあふれた人生に変えていけるのが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰です。ある創価学会員の芸能人が言っていたけれど、創価学会の信心をする前は、不安でいっぱいで、「これから、どうなるんだろう・・。」と暗く、マイナスの思いで考えていたけれど、創価学会に入り、学会の信心に励(はげ)む中で、暗く、マイナスの気持ちではなく、逆に、希望と向上(こうじょう)のプラスの気持ちで、「これから、どうなっていくんだろう!(もっと、もっと良くなっていくんだ!)」と考えられるようになった!と言っていたけれど、この違(ちが)いは、スゴイと思う。このように、創価学会の仏法(ぶっぽう)の信仰が、自分の生命と心、人生と未来に及(およ)ぼす影響力(えいきょうりょく)は、大きく、計(はか)り知れないものがあり、現実に数えきれないほどの人々の人生を幸せに変えてきた。多くの人々の悩みを解決し、そしてその人たちを、夢や希望に 向かって飛翔(ひしょう)させていった。それが、創価学会だと思う・・!池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。『先行(さきい)きの見えぬ社会であり、人びとの不安は広がり、何が起こるかわからない時代の様相(ようそう)を呈(てい)しています。しかし、強盛(ごうじょう)な祈り(創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる祈り)があれば、何があっても、必ず変毒為薬(へんどくいやく)していくことができる。信仰とは(創価学会の仏法の信仰とは)無限の力です。無限の希望です。仏法(ぶっぽう)に行き詰(づ)まりはないことを確信して、新しい船出(ふなで)を開始しましょう。』ちなみに「変毒為薬(へんどくいやく)」とは、毒を変じて薬と為(な)すと、読みくだすことができ、自分にとって、困難(こんなん)なマイナスの出来事であっても、それを逆に薬(くすり)にして、自分の人生を幸せにしていくことができる!ということです。また、それができるのが、創価学会の信心です。心にもたらされる確信、希望、そしてそのことによって起ってくる人生の変革(へんかく)、幸運、幸せ・・・。口で言うのは、たやすいけれど、それを現実にもたらすことは、本当に至難の技(しなんのわざ)です。そしてその、心にもたらされる確信と希望によって、現実に幸運と幸せ、勝利をもたらすことのできる力(ちから)が、創価学会の南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰です。はっきり言えば、本当に人生を変革していく力、本当に悩みや困難を克服(こくふく)し、幸せを勝ち取っていく力は、この創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰しかない!!と断言(だんげん)できます。だから、この不安定で先行きが見えないような世の中だからこそ、この創価学会の南無妙法蓮華経の仏法が必要になっていきます。また、状況(じょうきょう)が困難であればあるほど、この創価学会の仏法(ぶっぽう)の信仰は輝(かがや)き、威力(いりょく)を発揮(はっき)し、人びとを幸せにしていくことができる!と言えます。それは、今日、紹介したリプトンさんのように、世界中の人たちが体験していることであり、そのことによって、さまざまな、あらゆる悩みを解決し、夢や希望をかなえる大きな大きな力となって、人びとを輝かせ、勝利をもたらしている。その困難や苦境(くきょう)を打ち破(やぶ)る、秘宝(ひほう)と言えるのが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰なんです・・・!
2013.07.26
このブログは、しばらく、お休みします。再開は、7月の後半になると思います。いままで、読んでくださった皆さま、どうも、ありがとうございます。
2013.06.14
創価学会のインターナショナル会長である、池田大作先生は、文字通り、創価学会の指導者(しどうしゃ)であり師匠(ししょう)です。また、創価学会員でなくても、池田先生を師匠とあおぐ人たちは、世界には多くいる。また、世界中の有識者たちが、こぞって池田先生に注目し、賞賛(しょうさん)を贈(おく)っている。世界の大学が、池田先生に贈った名誉称号(めいよしょうごう/名誉博士とか名誉教授など)は、300をはるかに越(こ)えていますし、世界の都市から贈られた名誉市民の称号も、700を越えている。それは、池田先生と創価学会に、世界の平和と幸福に関する、卓越(たくえつ)した価値(かち)と行動があるからだと思いますが、日本では島国根性(こんじょう)と未熟(みじゅく)な精神性からか、デタラメなデマ記事は多くても、その真実は、あまり知られていないと言えるかもしれない。アルメニア芸術家同盟(どうめい)のアガミャン総裁(そうさい)という方が、以前、池田先生に対して、とてもわかりやすい話しをしていますので、紹介いたします。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人生には、何となく過(す)ぎ去っていく時もあれば、鮮烈(せんれつ)な出来事に出あう時もある。鮮烈な出来事でも、そのうち忘れてしまうものもあれば、思い出の一つとして残(のこ)るものもある。さらには、消えることのない足跡(そくせき)を残し、価値観(かちかん)を変え、新たな思想を形成(けいせい)する出来事に出あう時もある。私の人生にとって、そのような胸揺(むねゆ)さぶられる出来事が、池田会長(池田先生)との出会いでした。人類史上、池田会長ほど充実(じゅうじつ)した豊かな人生を歩(あゆ)み、あらゆる分野で、これほど活躍(かつやく)できる人は、希有(けう)であることは確かです。大いなる志(こころざし)と努力、精神性と忍耐(にんたい)がなければ、そのような高みに達(たっ)することはできません。ゆえに私は、会長を尊敬してやまないのです。同時代を生きる偉大(いだい)な人と出会えた2010年という年は、人生観を見直す大きな契機(けいき)となっていることに気付(きづ)きます。自身の世界観や信念(しんねん)に対する確信を深めることができ、その一方で、もっと高い頂上(ちょうじょう)を目指(めざ)すべきではないか、との考えにも駆(か)られました。その新たな目標を、池田会長という卓越(たくえつ)した人格が示(しめ)してくれたのです。そのような模範(もはん)があればこそ、現状(げんじょう)に甘(あま)んじてはいけない、人間の可能性に限界(げんかい)はない、他者への愛情は無限(むげん)であると理解することができる。その意味で、会長のような偉人(いじん)は、大きな触発(しょくはつ)を与(あた)えているのです。周囲(しゅうい)と、目の前の一人に対する愛情。平和を愛する心。人間主義。こうした精神こそ、池田会長が示(しめ)しておられる世界観です。私は、2010年4月、池田会長との出会いを刻(きざ)むことができました。日本滞在中(たいざいちゅう)、会長の活動が現実にいかに素晴らしい実(みの)りをもたらしているかを目(ま)の当たりにしました。なかでも関西創価学園で受けた歓迎(かんげい)は、生涯(しょうがい)忘れることができません。そして、創価大学で池田会長とお会いし、握手(あくしゅ)した瞬間(しゅんかん)、感動は頂点(ちょうてん)に達したのです。池田会長との出会いから2年。思い出は、いまだに語っても語っても尽(つ)くせません。偉大な哲学者(てつがくしゃ)、作家、詩人、教育者、写真家である池田会長に、これから何度でも頭(こうべ)を垂(た)れる機会(きかい)が持てることを、願わずにはいられません。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・このような心情(しんじょう)と感動を抱(いだ)くのは、なにも今日、紹介したアガミャン総裁だけでなく、池田先生に会った、あらゆる人が感じ、抱(いだ)くことです。だから、世界は、池田先生を賞賛し、創価学会に大きな期待をいだいている。そして、その池田先生に会った、庶民であろうと、国家の指導者(しどうしゃ)であろうと、芸術家であろうと、科学者であろうと、その人たちに、どれだけの勇気と希望、蘇生(そせい)のエネルギーをもたらしていったか、計(はか)り知れないと思う。また、そのことによって、もたらされた、平和と幸せも、計り知れないと思う・・・。
2013.06.10
創価学会員は、世界中にいますから、どこでも、皆、喜々(きき)として、がんばっています。以前、聖教(せいきょう)新聞で、ハリウッドで、がんばっている創価学会員の紹介をしていました。(ハリウッドでがんばっているとは、映画俳優ということではなく、ハリウッドの地域に住んでいるということです。)ウエスト・ハリウッド支部で副支部長を務める、グレゴリー・リンゴさんが語っています。「支部の多くのメンバーが、エンターテイメント産業で働いてます。7割(わり)以上はそうじゃないでしょうか。生活リズムがバラバラで、皆、苦労しています。でも、みんな、忙(いそが)しい中で、学会活動(創価学会の活動)にも頑張っていますよ。」リンゴさんは、レコーディングアーティストであり、ジャズピアニスト。彼が入会したのは結婚する前。妻の紹介だった。「ある日、一緒に出かけようと彼女の家に迎(むか)えに行ったら、『夜の勤行(ごんぎょう)をしていない』って言うんです。※ちなみに、勤行とは、釈尊(しゃくそん/しゃか/ブッダ)の法華経(ほけきょう)の一部分を音読(おんどく)します。だいたい、3分から5分くらいかかりますが、そのあと、好きなだけ、南無妙法蓮華経を、繰り返(くりかえ)し繰り返し、となえます。それを、まとめて、『勤行(ごんぎょう)』といいます。それで、リンゴさんは、ソファに座(すわ)って待つことにしたそうです。彼女の南無妙法蓮華経をとなえる声を聞いていたら、なぜだかすごく感動して、『僕も一緒(いっしょ)に、となえていい?』と尋(たず)ねたそうです。「今、思えば、彼女は勇気を奮(ふる)い起こして、私に信心(創価学会の信心)のことを教えようとしてくれたんですね。人生で一番忘れられない『デート』の日になりました。」と、リンゴさん・・。リンゴさんは、その後、大病(たいびょう)を患(わずら)い、仕事を失(うしな)った時期もありましたが、創価学会の信心のおかげで、「どうして、こんなことに」と受(う)け身に考えていた自分から、『今こそ宿命(しゅくめい)を変える時だ!』と思える自分に変わることができたそうです。「それが一番の功徳(くどく)です。」と語っています。そして、創価学会の同志(どうし)の支(ささ)えの中、病気を乗り越(こ)え、新たな仕事も勝ち取ることができた。また、ウエスト・ハリウッド本部で、創価学会の男子部本部長を務(つと)めるベン・ジャコブさんは、言っています。「芸術家の世界では、「こうすればうまくいく」といった方程式(ほうていしき)はありません。だからこそ、信心(創価学会の信心)という人生の指針(ししん)、福運(ふくうん)の土台が必要だと思うんです。皆、最初の入会動機(どうき)は、仕事での実証(じっしょう/実際に現れる証拠[しょうこ])ですが、創価学会の活動を通して、人のために尽(つ)くす喜びを感じ、仕事に対する使命感そのものが変わるんです。」ジャコブさんは、ダンスのレッスンに通(かよ)いながら、ダンスショーなどに出演し、夜はバーテンダーとして働いていた。6年前に創価学会に入会してから、学校のダンス講師(こうし)など、仕事が大幅(おおはば)に増えたそうです。彼は、語っています。「この信心(創価学会の信心)を勧(すす)めることが、大切な友人に対する、最高のプレゼントだと思っています。信心を勧める仏法(ぶっぽう)対話は、『今生人界(こんじょうにんかい)の思い出』です。最も偉大(いだい)な、歓喜(かんき)の中の大歓喜です。仏法対話をしている時は、『アイ・アム・アライブ(私は生きている!)』っていう感じなんですよ!」4年前に入会した、ジョニン・バリスさんは、言っています。「ニューヨークのブロードウェーで出演していましたが、映画に挑戦するためにハリウッドに来ました。仕事が見つからずにいた時、友人から創価学会の信心の話を聞いたのです。入会後、仕事も増え、経済的に安定するようになりました。最近では「ラブ・アゲイン」という映画にも出演しましたよ。今は、プロデュースの仕事もしています。私の大叔父(おおおじ)がマリリン・モンローを撮影(さつえい)していた写真家なので、彼についてのドキュメンタリーを制作しています。女優の仲間に、仏法対話(ぶっぽうたいわ)をすると、すごく共感(きょうかん)してくれるんです。一番大きな功徳(くどく/悩みが解決したり希望がかなったりする現実に現れる幸運)だと感じるのは、女性として生きるための、『生命の根(ね)っこ』を得(え)られたことです。自分の内面に、何ものにも壊(こわ)されない価値(かち)がある、幸福になる力があると学べたことです。特に、ハリウッドの女性は周囲(しゅうい)の評価(ひょうか)に左右される世界にいるので、どうしても、精神的に不安定になりやすい。表面的なことに幸福を求めてしまうのです。私は、創価学会の信心を通して、『人のため』『社会のため』という芸術家としての真の使命を知ることができたと思っています。」確かに、人は、表面的なことを気にする。表面的なことや、世間の評判(ひょうばん)、それらも確かに大切だけれど、それに振(ふ)り回されてしまうと、自分が見えなくなっていく。本当の幸せが見えなくなっていく。けれど、本当の幸せは違(ちが)う!幸せは、どこにあるのでもなく、自分の中にある!そして、自分の中にある幸せを確立(かくりつ)していった時、はじめて本当の幸せが見えてくる。その自分の中にある幸せを確立し、本当の幸せをつかんでいけるのが、創価学会であり、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰だと、いえます。また、自分の中の確固(かっこ)たる幸せが確立していったとき、おのずから、表面的な幸運や幸せ、ラッキーが、磁石(じしゃく)のように、ついてくる!とも言えます。ジョニン・バリスさんが言うように、自分の内面に、何ものにも壊(こわ)されない価値(かち)がある!その『生命の根っこ』にある幸せをつかみ、どこまでも開花していけるのが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰なんです・・・!!
2013.05.30
全351件 (351件中 1-50件目)
![]()

