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4月28日(日)鹿児島市の宝山ホールにおいて、「創立70周年記念 第11回 楠声会合唱団演奏会」が開催された。楠声会(なんせいかい)合唱団は鹿児島大学男声合唱団 フロイデ・コールのOBによって結成された合唱団で現在でも全国に500人近くの会員を擁している。 コロナ禍までは、3年ごとに開催してきた定期演奏会が今回は何と6年ぶりの開催となった。当日全国から集まった110人の団員は93歳を筆頭に80歳越えが30人くらいの正に熟々年のメンバーである。 そういう中で、5ステージ24曲とアンコール一曲の全25曲をほとんど休憩時間もなく歌い上げることができた。私が言うのもなんだがまだまだ捨てたものではない。この老人パワーはどこから来るのか。 私の友人である大石くんが撮影してYouTubeに投稿してくれた一部を紹介します。他にも撮影してくれた人がいて「楠声会合唱団演奏会」とYouTubeに入力すれば見ることができます。
2024.05.18
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私の所属する男声合唱団・楠声会合唱団(なんせいかいがっしょうだん)が4月28日に6年ぶりに演奏会を開催する。コロナ禍前までは3年に一回のペースで開催してきたが、実に6年ぶりということで、私たち老人の多い合唱団にとっては貴重な6年を失った年月でもあった。 称して「創立70周年記念 第11回 楠声会合唱団演奏会」である。 私たちの楠声会合唱団は鹿児島大学男声合唱団・フロイデ・コールOBで結成されて以来70年という記念すべき年を迎えた。フロイデ・コールの創設者で指揮者となり、楠声会結成後は永年に渡り会長を務められた根本千春(故人)先輩の著書「青春のフロイデ」によると、「フロイデ・コールの第一回卒業生は昭和28年に卒業している。その次の年の昭和29年(1954)に西部合唱コンクールが地元鹿児島で開催されるにあたり、卒業生や上級生を中心に一般同好の方にも加わっていただいて鹿児島グリークラブが結成されコンクールに出場し3位に入賞した。これが楠声会の母体なので、この年を創立とすればフロイデに遅れること5年ということになる」とある。つまりはその1954年から昨年が70年になったので、今回の演奏会を70周年記念と銘打ったわけである。 全国に500人を超す卒業生がいるが、今回はそのうち年間を通して毎週日曜日に練習をする鹿児島の60人くらいを中心に全国各地でCDなど使って練習したり、これまで2回土・日を使って地元鹿児島であった強化練習に参加したりした鹿児島以外の会員も集まり100人を超す九州では珍しい男声合唱を披露する。
2024.04.09
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7月26日のブログで紹介した「諏訪昌一 歌とお話のひととき」が8月19日(土)南さつま市の丁子屋の石蔵で開催された。車の免許証を返上して4年目に入る私は、楠声会の練習が鹿児島市以外である時に乗せてもらう仲間にお願いし、乗せてもらって小1時間のドライブで南さつま市に到着した。当日の会場は歴史のある醤油屋さんの石蔵。彼は当日のお客さんは30人くらいか、50人にみえればいい方と思っていたらしいが、なんと80人超の人に来ていただいて驚いたと後に語っていたが、演奏の始まる前に私たちも2回椅子を前に進めて、後を空けて椅子を並べるような状態だった。立ち見の人もいたそうだ。 上の写真は歌う前に挨拶をする諏訪くん。デジカメを操作するとフラッシュが炊かれたので演奏の時は遠慮して、この写真しか写さなかった。 諏訪くんは南さつま市の市議会議員という要職にありながら、楠声会の毎週日曜日の練習には往復2時間かけて鹿児島市の練習会場に駆けつけて指揮をしてくれる。 当日のプログラム1,小さな木の実2,ラ・ゴロンドリーナ3,叱られて4,帰れソレントへ5,フニクリ フニクラ 休憩6,銀河鉄道の夜 ~星めぐりの歌~7,白銀の糸8,初恋9,トスティのセレナータ アンコールに応えて2曲 日本の歌、外国の歌を組み合わせて、一曲づつの合間にはおしゃべりを入れての1時間50分があっと言う間に過ぎてしまった。一番目に彼が歌った「小さな木の実」は妻が生前所属していた「めぐみコーラス」に葬儀など一段落した後に私と娘が挨拶に行った時、団員の方々が妻が生前好きだった歌だったということで私と娘のために思い出の曲として歌っていただいた曲でもある。歌を聴きながら妻が好きだった理由がわかるような気もする歌である。最近はYouTubeでもよく聞いているが・・・。 諏訪くんの奥様もいろいろな合唱団でソプラノとして歌っておられるので、当日は夫婦での見事なデュエットが披露された。一曲だけだったがもう少し聞きたかった。フニクリ フニクラは一部聴衆も一緒に歌う部分もあり大いに盛り上がった。アンコールの2曲目の最後の歌として披露されたのはあの福島の「群青」だった。ソロでは初めて聞いた気がするが、いつものように目から汗が噴き出した。
2023.08.29
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私達の男声合唱団・楠声会(なんせいかい)(鹿児島大学男声合唱団OBで結成)の指揮者・諏訪昌一くんが8月19日(土)に「歌とお話のひととき」と題して独唱会を開催するという。ピアノ伴奏はおなじみ楠声会合唱団のピアニストの福重真紀さん。場所は出身地で現在も住む南さつま市にある「丁子屋 石藏」だという。 彼は鹿児島大学工学部電気工学科卒業。鹿大在学中の昭和49年、50年の二年間にわたって男声合唱団・フロイデコールの指揮者を務めた。現在パソコンを駆使した活動は多岐にわたり、練習用の音源を作ったり、合唱編曲も楽しんでいる。また地域においては20歳代から加世田市議6期を経て、現在南さつま市議5期目。音楽、落語、読書をこよなく愛し、地域活動や楠声会を始め3つの合唱団を指導するなど文化活動にも奔走している。 また彼は楠声会のいろいろな演奏会で指揮者としてはもちろん、ソリストとして大活躍している。そのテノールの声は素晴らしく、ロシア民謡の「カリンカ」などは多くの聴衆を引き付けている。先日の阿久根中学校のスクールコンサートでも指揮者としての出演の他、トップテノールの団員としても歌ったが久々にソロをした「最上川舟唄」は出色の出来であった。今回その彼が地元・南さつま市で歌うという。駆けつけて聞きたいと思う。 会場となる丁子屋は老舗醤油醸造屋であり、創業は亨保12年(1735)。演奏会場となる石藏は大正時代に造られて築100年を数えるという。そして国の登録有形文化財に指定されているという。日頃からブックカフェやコンサートに有効活用されているとのことだ。場所は南さつま市役所から国道226号線を笠沙方面に向かって車で約5分ほど進むと「丁子屋」さんと駐車場が見えてくる。ただ当日の駐車は丁子屋店舗奥か顕証寺報恩会館駐車場をご利用ください、とのことである。
2023.07.26
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妻が亡くなって2ヶ月以上経つが、まだ落ち着かない日々を過ごしている。気がつくと、先日のブログ更新からちょうど2週間経ってしまっていた。 その2月12日のブログの最後に「次はいよいよ志布志の史跡めぐりの話題に入ります」と書いたのだが、デジカメの写真を映し出してみると、幾つかの写真の遠景に妻が写っている。私は史跡巡りのときはいつもそうだが同行者との記念写真などはそっちのけで、史跡を写すためにほとんど走り回っている。娘のところの孫たちが小さな頃、佐賀の名護屋城を訪ねた時、私自身は意識していなかったのだが、孫から「ジージは戦場カメラマンみたいに走り回っているね」と言われたことで、人から見ると私の史跡巡りはそのように見えるのだと思って苦笑した思い出がある。そのため、今回も妻を意識して写した写真は1枚もない。ところが今回はバスツアーということもあり、皆さんと一緒にガイドさんのを聞いたり、ついて回ったりする場面で何枚も妻も写り込んでいた。そういう写真を見るに忍びずなかなかブログを書くことができないでいる。 四十九日までは毎週子供家族も含めて行ける人間だけでもということで、毎週日曜日にお寺さんにお経をあげてもらいに行っていた。その日曜日が「おじさんコーラス」の練習日のため、お寺さんのお参りの後に一緒に食事をしたり、我が家に一緒に帰ってきていろいろな話し合いをしたりで1月8日の練習始めの日ではあったが、葬儀への参列者へのお礼を兼ねて出席したきり、ずっと休んでいた。 ということで久しぶりの練習に行くのには少し敷居を高く感じたが、勇気を出して行った。そこには、いつものメンバーたちがいつもと変わらぬ姿でいて、温かい言葉をかけてくれた。「ああ、ここは私の心休まる場所の一つなのだ」と改めて思いすぐに昔同様溶け込むことができた。高校の同期生たちもそうだし、まだ他にもそういう人たちがいる自分は幸せだと思った。 今日の練習は前半が「最上川舟唄」と「Shenandoah」、後半は高田三郎の男声合唱組曲「水のいのち」から2,水たまり、と5,海よ の全4曲をいずれも S指揮者で歌った。これらは来年開催予定の第11会定期演奏会の曲の一部だが、私はどの曲も以前歌った曲だ。しかしメロディー部分を歌うことの多いトップ・テノールの私でも忘れている部分が多く、歌うのに必死だった。それでも久しぶりに歌って心が晴れた。仲間と歌に感謝!
2023.02.26
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この日は朝9時30分にJR鹿児島中央駅西口に集合し、貸切バスで出発。11時30分 有明町の「レストラン蓬(よもぎ)の郷」着で、ここで昼食。そこから15分くらいで目的地・中沖小学校に到着す。校門で教頭先生の出迎えを受けて校内に入った。会場の体育館に入り声出しとリハーサルをする。13時30分開演~15時終了。再びバスに乗車し道の駅「虹ノ松原」に寄り、鹿児島市に帰り着いたのは17時過ぎだった。 子どもたちも熱心に聞いてくれて、おじさんたちも大感激だった。それでは、後半部分をお聞きください。
2022.11.20
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私達の男声合唱団・楠声会はコロナ禍の中でも毎週日曜日の練習は続けていたが、このところほとんど演奏の機会はなかった。 そういう中で、この度、鹿児島県の大隅半島の大崎町にある「中沖小学校」で演奏の機会を得て、11月10日8日(木)行ってきた。いつもは50人以上集まるメンバーも今回はちょうど40人。コロナ禍の中であり、大多数はサンデー毎日のおじさん、おじいさん達だが現役の団員もいたりしてこの人数になった。 当日のスクールコンサートの様子が地元の南日本新聞に取り上げられたので添付します。 何はともあれ、久しぶりの演奏を2回に分けてお届けしたい。マスクを着用しての演奏であり、聞きにくい点もあるのでご容赦ください。(下手な言い訳? )
2022.11.19
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6月5日(日)宝山ホール(鹿児島県文化センター)において第73回鹿児島県合唱祭が開催された。この日は、当地は午後から大雨の予報が出されていたが、案の定 私がバスに乗って出かける13時30分頃にはかなりの雨が降っていたし、帰るときは大雨になっていた。 一昨年はコロナ禍のために中止となった合唱祭だったが、今年は昨年同様4つのブロックに分けて、できるだけ密を避ける方法での開催である。1ブロックが終わる度に空気の入れ替えなどして10分間の休憩を挟むというやり方だ。今年はマスクの着用はそれぞれの団体に着脱は任された。 私達の合唱団は第4ブロックの最後から2番目、出演時間は16時40分から16時45分までのの5分間である。今年の参加は51団体でコロナ禍以前よりも10団体以上少ない。コロナ禍で練習もままならず、今回の参加をやめた団体や、参加したがステージに上る人数が全体的に少なくなっていたのはやむを得ないことかと思った。 私たちの楠声会もいつもは50人くらいでステージに立つのだが、今回はステージに立ったのは40人、指揮者とピアニストを入れて42人という顔ぶれだった。それでも参加団体中1,2を争う数だったことは間違いない。 当日のステージの動画をアップしたかったのだが、大会事務局からはCDと講評しかもらえないので、最後の練習日の最後に練習会場の日置市公民館の一階にあるホールで歌ったものを披露したい。この日は練習会場でも最後に初めてマスクを外して歌い、公民館のご厚意で更にホールを借りて最後の練習ができたのだった。 幸か不幸かクマタツおじさんは、画面向こう側のトップテノールの一番後ろで歌っているので据置のカメラでは頭が少しだけ動くのが見えたりするくらいである。できるだけボリュームを上げてイヤーホンで聴いていただければいいと思う。
2022.06.08
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今からもう17年前とは思えないほど、今でも鮮やかに思い出す演奏会だった。私たち楠声会は以前も書いたようにK大学男声合唱団・フロイデ コールのOBで結成した合唱団である。そのフロイデ コールは昭和32年(1957)3月、奄美大島が日本に復帰して3年目に奄美大島に演奏旅行に行っている。私が入学する1年前のことだ。しかし、当時のことで船賃など多額の費用のかかる奄美への演奏旅行には困難があった。そのため当時の団員たちが考えたのが水産学部の練習船「鹿児島丸」に乗せてもらえないかということだった。そこで難物であった当時の水産学部長の前で40人くらいの男どもが数曲を歌ってやっと許可が出て片道の旅費が助かったそうだ。当時現役で行った現在の楠声会員もたくさんいる中で、2005年の奄美大島演奏が実現したのだった。その時作成された上の写真が表紙の記念誌に私も拙稿を寄せているので、それを転写することにした。 「やっとたどり着いた名瀬公演」 37年卒 T! クマタツ 名瀬公演は、奄美大島の本土復帰50周年と楠声会結成50周年をからめて2003年に行きたいなあ! ということから事が動き出したように記憶している。2003年であれば、私事ながら長女夫婦と孫二人が奄美大島の龍郷町に住んでおり、会うのにに良い機会でもあり、又チケット販売にもいくらかは手助けもしてくれるかなと思ってもいた。ところが、諸々の事情により今年の5月22日に決定、娘一家は3月末で任期を終えて帰鹿してしまっていた。 それはさておき、公演決定までも気を揉む期間が長かったが、当日の奄美空港にたどり着くまでのハプニングでの気の揉みようも一方ではなかった。2時間30分かけて鹿児島空港~奄美空港の空を徘徊し悪天候で空港に着陸できず、再び鹿児島空港に引き返すとの機内放送があったときは「ああ 今回も奄美での演奏は叶わななかったのか」と正直なところ諦めた。頭の中では先発隊の20人ほどのメンバーで今夜ミニ演奏会でもやるのだろうかと、そのようなことが頭の中を駆け巡った。あとで聞くと先発隊のメンバーの中にも同じようなことを考えた団員もいたそうだ。 しかし、幸いにも午後の便に全員が搭乗できて、午前中とは打って変わった奄美空港に着陸できて60人が揃った時に演奏会の成功を確信した。3時頃から会場の「奄美文化センター」でリハーサル。賛助出演いただいた地元の女声合唱団・ラ メールにも助けられて演奏会は無事終了した。演奏会終了後、パーティー会場へのバスを待っている間、会場から出てきた聴衆の皆さん方から口々に「よかった」「よかった」と言っていただいた。中でも教会のシスター数名の中に「自分はたまたま大阪から来てこの演奏会にめぐりあって大変感激した」と言われる方がいて私も嬉しく思った。 その夜のパーティー会場では同じテーブルのラ メールの女性お二人と大いに盛り上がった。その中のお一人は翌日空港まで見送りにまできていただいた。ありがとうございました。翌日の小宿中学校の心のこもった歓待ぶりや、熱心に演奏を聴いてくれた子どもたちのことは、強く印象に残った。又、誰かが言っておられた”大島の鶴丸” 「大島高校」での演奏は最後の生徒たちとの合同合唱で生徒たち全員が立ち上がって歌うという大合唱になった。私たちにとってもこれまでに経験したことのないことで演奏する側と聴く側の相乗効果で大いに盛り上がった。 前記の娘の義父は私より一歳年上だが大島高校の卒業生であり、私も日頃から尊敬している教育一筋に生きてこられた「お父さん」のルーツの一端を見たようで大島高校の佇まいにも感激したことだった。その「お父さん」に私たちの歌った「大島高校校歌」のCDを聞いていただく約束をしながらまだ果たしていない。 以上 これを寄稿してから17年が経過した今、当時小学校1年生だった孫は、昨年の春、就職のため上京し今年の正月コロナ禍の中を初めて帰鹿した。幼稚園児だった下の子は、今年の4月に大学3年生になる。ああ、クマタツじいちゃんも歳をとるはずだ。
2022.02.20
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先日のブログ「私の『希望の島』(のぞみのしま)は馬毛島」を書くに当たり曖昧な記憶を確かめようと男声合唱団・フロイデ コールとそのOB会でつくる楠声会の記録誌や記念誌を取り出した。余談だが、フロイデ コールでは、これまで周年などの度に記録誌や記念誌を発行してきたが、それに続くOBで組織する楠声会でも記念すべき演奏会や遠征した東京のイイノホールでの「歌声は日比谷の空に」東京公演記録誌、島原市での「普賢岳災害復興祈念チャリティーコンサート」記録誌、奄美での「うるわしき南の島に歌声響く」演奏会でも記念誌を発行してきた。 下の写真は昭和60年(1985)1月13日発行の「創立三十五周年記録誌」の10ページ目。私が昭和56年に約20年の県外での生活を終えて帰ってきてから4年を経ていて、仕事にも目鼻がついてOBの楠声会にも参加し始めた頃である。このときの記念誌に過去の「演奏旅行の記録」を残そうということで第一回目と思われる昭和25年7月の伊作高校、花田小学校から記載が始まっている。記録誌によると昭和30年7月と9月までの演奏旅行のことは演奏した学校などが全て記録された一冊のノートが発見されたことで記録誌に転載できたと書かれている。 しかし、その後のことは何らかの記録に残されていたものと、そうでない年月のところには「残念ながら不明」と書かれている。そして、下の昭和32年から昭和34年の記録も「残念ながら不明」が幾つもある。このページの最後にある昭和34年9月も不明とある。私は33年入学の37年卒業なので、当時は2年生で詳細は覚えていないが、この演奏旅行には参加していた。 それから10年後、今後は転勤もない生活でそれまで転勤や転居の度に断捨離もできていたのが終の棲家に落ち着いた今後はもうそういう機会もないということで思い切って不要なものを捨てようということになった。当然その中には鹿児島を出てから鹿児島に帰るまで転居の度にずっと一緒だった「フロイデ時代の宝箱」(楽譜やプログラムなど)や北九州混声合唱団時代のものも段ボール一個に収まっている。 そしてある日、不要な楽譜などは捨てようと選別を始めた。鹿児島を出て鹿児島に帰り、この箱を開けるまで実に33年が経過してことになる。もちろん、北九州時代に所属した男声カルテット・フォーガイズのためにフロイデ時代の楽譜を取り出して歌ったりしたので玉手箱みたいに全然開けなかったわけではない。一枚一枚丁寧に引き剥がすようにして見ていったが、当時の楽譜はガリ版印刷で紙質も悪かったこともあり、変色したり折り目から切れかかっていたり、やっと楽譜も読めるようなものもあった。 めくるうちに遂にお宝の一枚を発見! (ちょっと興奮し過ぎてオーバーかな)記録誌に「残念ながら不明」と書かれていた「昭和34年9月(大隅・都城、宮崎)」の演奏旅行日程表と「旅行メモ」の用紙が出てきたのだ。喜んだ私は次の練習日に当時のN会長に届けた。そして平成7年7月15日付けで会員に35周年記念誌の空白を一つ埋める形で配布されたのだった。 これを見ると、9月1日から8日まで16ヶ所で演奏をし、途中、宮崎女子高(現在もコンクールで上位入賞の常連校)と合同練習をやったり青島にピクニックに行く予定になっていたが、ピクニックはやめて、女子高生とソフトボールをやったような気がする。しかし、60年前のことではっきりは覚えていない。 笑えるのは次の「旅行メモ」である。自己負担金 300円。 (演奏先の謝礼金でまかないきれなかったのか) 当時の私の市電の月額定期券代が310円だった。米 3升。 (私の計算では昼の弁当も含めて22食分ということになっているので 若者一人あたり一食1,36合くらいで妥当な量か) 当時は「米穀通帳」がなければ米が買えない時代だった。 その他、マネージャーから事細かい指示が出されていてあの時代を思い出して今見ると面白い。これを見て演奏旅行の度毎に同じようなことをしてきたのだろうと思いしばし感慨にふけることだった。演奏旅行のみならず、記念誌などを見ると、面白いエピソードが満載なのでまた機会があれば紹介したい。
2022.02.14
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昭和35年(1960)7月9日、私たちK大学男声合唱団・フロイデ コールは種子島の西之表港に降り立った。時に私は3年生、21歳だった。大学の夏休みが小中高校より10日早く始まり、後期授業も10日遅く始まるので7月11日~20日、9月1日~10日を基本に毎年2回各地を回って学校や地域のホールなどで演奏会を開いていて、この年の前半の演奏旅行が種子島だった。私にとっては初めての船旅で鹿児島湾(錦江湾)内では船酔をすることもなく、楽しく過ごしていたが外海に出た途端に船が揺れはじめ、暑い甲板に伏せてたままで昼の弁当も食べずやっとたどり着いたという感じだったのを覚えている。 船を降りてしばらくすると気分も良くなり、西之表市の高台にある榕城小学校へ向かった。ここの講堂に19日まで寝泊まりをして小学校、中学校、高校を巡回しながら演奏し、何回かは夜の公会堂などでの演奏会も開いた。エッセン長(材料を調達し、当番の食事係を指揮し調理する責任者)のもと11日間の食事も全て自分たちでつくる過酷? な日々が始まるのだ。 種子島に落ち着いてまわりを眺めると、遥か西方海上(東シナ海)に下の写真のような風景を見た。後で調べると西之表市から12km先の海上にある「馬毛島」だという。私はこの風景を見て、すぐに「希望の島」(のぞみのしま)だ! と思った。 (上の写真は西日本新聞から) 当時も私たちフロイデコールが歌っていた「希望の島」の歌詞の通りの島だと空想したのだ。この歌は、フロイデ・コール創立50周年記念 「輝ける青春の記録」・・・定演50年のすべて・・・を紐解いてみると、私が小学4年生だった昭和24年11月2日 鹿児島市中央公民館打開催された第一回演奏会の第一ステージの第一曲目に歌われている歴史的な歌でもある。そのあと第四回、第八回定期演奏会でも先輩方が歌っている。私は昭和33年入学だが、卒業するまで定演で歌った記録は残っていない。ただ、この歌は当時もフロイデコールの愛唱歌として先輩から後輩へ歌い継がれてきた歌の一曲であり、私の現役時代も演奏旅行やその他いろいろな演奏会で歌ったし、演奏会のあとのストームや打ち上げで歌って気分が盛り上がったものだ。 その思い入れの強い私の「希望の島」”馬毛島”が現在大変なことになっている。種子島は鹿児島市南方115Km。その西方海上の馬毛島の面積は8,2K平方メートル。西之表市馬毛島への米軍空母艦載機陸上離着陸訓練(FCLP)移転と自衛隊基地整備計画がもちあがり、丁寧な地元への説明がなされないまま設備の入札などが一方的に行われ、基地反対を唱えて再選された八板市長は外堀を徐々に埋められて苦しい立場に立たされている。そういう中で米軍再編交付金の交付や自衛隊員の居住について「特段の配慮」を求める要望書を岸信夫防衛相に提出した。外交や軍事に関する事項は政府の専権事項たされる中ではやむを得ないことなのか。いずれにしても、「希望の島」”馬毛島”が平和の島であるように祈念しながら見守るしかないのが現状である。(残念ながら私たちの歌った「希望の島」はYoutubeにない。「川西メンネルコール」のもを拝借した)
2022.02.09
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(輝津館の写真はホームページから拝借しました。)南さつま市坊津にある「坊津歴史センター輝津館」でのロビーコンサートをYouTubeでお聞きください。演奏は2011年8月7日。初めの曲は第七高等学校造士館の寮歌です。大正4年第14回記念祭であり、今に歌い継がれている七高寮歌の中でも、最も歌われている曲で私達楠声会合唱団も毎年、鹿児島大学の入学式に呼ばれて歌っています。又2007年には「北辰斜にさすところ」という題名の映画となり三國連太郎や緒形直人などが出演しました。その中で楠声会合唱団も「北辰斜に」を歌っています。
2021.10.13
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東郷学園義務教育学校での演奏もいよいよ最後のステージとなった。このステージは「組曲 空飛ぶうさぎ」から3曲。 この組曲は身体障がい児童の作詞によるもので、私たちは平成15年(2003)第5回定期演奏会で初めて歌って以来、学校での演奏会ではよく歌ってきた歌である。この日はその中から「お母さん」「手紙」「空飛ぶうさぎ」の3曲を歌った。
2021.06.12
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東郷学園義務教育学校での第2回目の演奏です。今回は短編です。第1回目は「男声合唱の仕組み」の解説や実演などありましたが、よくおわかりいただけたでしょうか。聴いていただいた方が30名近くおられたようです。たくさんのコメントもいただきました。感謝です。
2021.06.10
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昨年・2020年10月14日 「薩摩川内市立東郷学園義務教育学校」でスクールコンサートを開いた。そのことについては、当ブログに同日アップしたのだが、当日団員のKMくんが録音・録画をしてyoutubeにアップしていたので遅ればせながら3回にわたって紹介したいと思う。当日はコロナのさ中であったため、演奏会が実現するのか気をもんでいたが、幸い開催ということで私たちおじさん合唱団(楠声会合唱団)も張り切って臨んだのだった。私たちも初めての経験だったが、マスク着用での演奏だった。 よろしければお聞きください。
2021.06.08
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昨日、6月5日鹿児島県のコロナ患者発生は久しぶり47人という多さだった。が、6月6日の今日、鹿児島県合唱祭は予定通りに開催された。それなりに盛大に? 緊張の中、粛々と。いつもの年なら県下一円から60団体くらいの参加がある(昨年は中止)のだが、参加締め切りまでにエントリーしたのは45団体、その後の辞退団体が6団体、そして今日更に3団体が辞退し、結局36団体の参加で開催された。その36団体を6つのブロックに分けて、一つのブロックだけを直接ホールの座席そこからステージに上がり歌うというリハーサルもなしのぶっつけ本番とする演奏となった。もちろんマスク着用での演奏である。入場も退場もブロックのなかの一団体づつという厳格なもので、次のブロックと入れ替わって演奏するまでの時間は20分とってあった。ブロックが終わりホールから退出すると原則再入場して他のブロックの演奏は聞くことが出来ないようにし(従来は付与されたリボンを胸に付けていれば一日中何回でも出入りが出来た)再入場にはチケットを買わなくてはならない方法がとられた。 それは兎も角、私たちの合唱団は10時に集合し、人の群れから離れた場所で軽く声出しをして、会場の「宝山ホール」(県文化センター)横の「西郷どん」の銅像をバックににこやかに記念撮影をした。(写真撮影のためマスクは外した)これまでは演奏が終わった団体ごとにプロの写真屋さんが記念撮影をしていたが、今回はそれも無し。(この写真はKMさんのものを拝借した)いつもは50人くらいは参加する我が団のおじさんたちも諸事情により30名ちょっという少し寂しいものとなった。 歌ったのは長渕剛の「乾杯」! 男声四部合唱の歌声は聞いただいた皆さんが評価することなので、どうだったのか。 最後にコロナ禍の困難の中、合唱祭のために尽力いただいたスタッフの皆さん、ありがとうございました。
2021.06.06
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昨日、5月16日(日)は、おじさん合唱団の練習日だった。当地も先々週くらいから増え始めていたコロナ感染者が先週には過去最高の61人を記録し、その後も50人前後の発生が続いた。県でも重症患者数が増えたことなどでステージ4だとかで再び情勢が混とんとしてきた。そういう中での練習に行くのは、公共交通を使って行く身として、かなりの心配もある。しかも、合唱活動ではこれまでも全国的にもクラスターが発生したり、文化活動の中でも、特に用心をする活動として注目もされてきた。 そういう中で、昨年は中止だった県の合唱祭が今年は6月6日(日)に開催されるという。昨日渡された開催要項によると、今年は出演団体をいくつかのグループに分けて、グループごとに総入れ替えにするようだ。私たちのグーループは、7団体で構成され全体から見ると2番目のグループになる。第一グループが終わり、グループ入れ替えに20分の時間がとってあり、その間に指定された観客席に着席し、自分たちの歌う順番が来たら客席からそのまま舞台横に行って待機することになる。蜜を避けるために今年はリハーサル室での練習も無し、いきなりぶっつけ本番となるそうだ。一団体の演奏時間は例年とおりの6分以内。自分たちのグーループ以外の演奏は聞こうと思えば聞けるようにもなってはいる。こういう合唱祭はもう今年限りにして欲しいものだと思う。 今年の合唱祭で歌うのは、我が鹿児島出身の長渕剛 作詞・作曲の「乾杯」。私の所属する男声合唱団では,男声合唱団の定番ともいえるような歌ばかりを歌っていたが、そればかりでは聴衆の皆さんが退屈するというような声もあり、プログラムを振り返ってみると、平成21年(2009)の第七回定期演奏会(「楠声会」のホームページでご覧になれます)から初めてポップス的なものを歌い始めている。その時は中島みゆきの「ヘッドライト・テールライト」と小椋佳の「愛燦燦」だった。その後の演奏会では「少年時代」「あの素晴らしい愛をもう一度」「秋桜」「川の流れのように」「我が人生に悔いなし」などなど枚挙にいとまがない。今年の「乾杯」は我が合唱団にとっては、もちろん初めての曲である。男声四部合唱で歌ってみると、これまで聞き覚えで歌っていたほど簡単ではない。トップテノールで比較的メロディーを歌う部分の多い私たちのパートでもリズムの切れがおじさん(お爺さん)たちには難しいのだ。それでも何回も練習を繰り返す中で昨日などはだいぶそれらしくなってきた。そういう中で歌って聞いてする中で歌に酔ってしまい、ウルウルすることが多くなってきた。歌う自分がそういうことではダメだと分っているのだが、いい歌詞とメロディーとハーモニーに出合うと自分の来し方など様々なことが頭の中を去来してそうなってしまう。これも年齢からくるものだろうか。当日はそういうことのないように、しっかり歌うつもりではある。 乾 杯 かたい絆に 想いをよせて 語り尽くせぬ 青春の日々 時には傷つき 時には喜び 肩をたたきあった あの日 あれから どれくらい たったのだろう 沈む夕日を いくつ数えたろう 故郷の友は 今でも君の 心の中にいますか 乾杯! 今君は人生の 大きな大きな舞台に立ち 遥か長い道のりを 歩き始めた 君に幸せあれ! キャンドルライトの中の二人を 今こうして 目を細めてる 大きな喜びと 少しのさみしさを 涙の言葉で歌いたい 明日の光を 身体にあびて ふりかえらずに そのまま行けばよい 風に吹かれても 雨に打たれても 信じた愛に 背を向けるな 乾杯! 今君は人生の大きな大きな舞台に立ち 遥か長い道のりを 歩き始めた 君に幸せあれ! 乾杯! 今君は人生の大きな大きな舞台に立ち 遥か長い道のりを 歩き始めた 君に幸せあれ!
2021.05.17
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テーマ部門入選作 「三人で飲もう」 瀬戸口保定作 第49回鹿児島陶芸展は昨日で終わった。私の合唱団で同じトップテノールの一級先輩・瀬戸口保定さん(愛称・ほていさん)は陶芸展入賞の常連である。私も昨日、合唱団の練習の前に見学することが出来た。会場で偶然にも、ほていさんと遭遇し作品の説明も受けることが出来て幸いだった。 下の作品は創作部門入選作 「猫を抱えた二人(紺屋のおろく)」より 瀬戸口保定作「紺屋のおろく」は北原白秋の詩であるが、この詩は男声合唱組曲「柳川風俗詩」の中の一曲としても有名である。ほていさんはこの作品にその想いを込めたと言われる。この歌を学生時代から何百回となく歌ってきた男声合唱団員なればこその発想だと思う。 男声合唱組曲 「柳川風俗詩」 作詞:北原 白秋 作曲:多田 武彦 Ⅰ,柳川 Ⅱ,紺屋のおろく Ⅲ、かきつばた Ⅳ、梅雨の晴れ間 紺屋のおろく(こんやのおろく) にくいあん畜生は紺屋のおろく 猫を擁(かか)へて夕日の浜を 知らぬ顔してしゃなしゃなと。 にくいあん畜生は筑前しぼり 華奢な指さき濃青(こあお)に染めて、 金の指輪もちらちらと。 にくいあん畜生は薄情な眼つき。 くろい前掛毛繻子か、セルか、 博多帯しめ、からころと。 にくいあん畜生と、擁へた猫と、 赤い入日にふとつまされて、 潟に陥って(がたにはまって)死ねばよい。ホン二、ホン二・・・・・・ この日の練習の最後の曲は「紺屋のおろく」だった。 下は第49回鹿児島陶芸展が開かれた県民交流センター。この6階が展示会場だった。 最後に紹介するは最高賞の「鹿児島県知事賞受賞の 石神いづみさん作の「珊瑚の彩り」 私の写真撮影技術が未熟なこととデジカメが悪いのか、上手に写すことが出来なかった。見た感じはもっと明るい色だったことを申し添えたい。
2021.04.12
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ちょうど一年前の2月7日、鹿児島市石谷小学校芸術鑑賞授業までは、合唱活動もまあまあ順調だった。その時もコロナ騒ぎは始まっていたが、何とかマスクもつけず演奏できた。しかし、毎週日曜日の週一回の練習が3月1日(日)から全面休止となった。もちろん予定されていた演奏活動は東郷学園義務教育学校を除いて全て中止となった。 不満足ながら再開できたのは実に7月の末になっていた。26日(日)、8月2日(日)会場もホール借り上げで練習時間をこれまでの2時間を4時間、次は8月8日(土)4時間、8月22日(土)4時間、8月30日(日)4時間、9月12日(日)4時間、9月20日(日)4時間、・・・・。そして練習会場も市外の日置市伊集院の伊集院公民館に求めて放浪の旅は続いた。10月14日(木)令和2年度2度目の演奏会を東郷学園義務教育学校で開催できた。ただしマスクをつけて、体育館の窓は開け放しての前代未聞の演奏会となった。歌う前はどういう演奏会になるのかと心配したが、何とかなるもの、案ずるより生むは安しとはよく言ったものだ。 その後は役員の努力で一定の広い場所がで確保できて、月二回、一回2時間の練習が定着してきた。練習する曲はこのところ、ポピュラーな歌が多い。先ずは「Shenandoah」 この曲は平成21年5月24日開催の第7回定期演奏会で「シーシャンティ」(広く海の仕事で歌われる歌」の中の一曲として歌ったことがある。しかし、12年前のことであり忘れてしまっていることや、その後参加してきたメンバーもいるため、新しい気持ちで取り組んでいる。♪ オー 、シェナンドー で始まる誰でも知っているメロディーである。♫ ♪ ♬男声合唱曲の定番の一つと言ってもいい曲である。 次は、「乾杯」言わずと知れた鹿児島が生んだ 長渕剛の名曲である。結婚式でよく歌われるが、楽譜を見ながら歌うと実に難しい曲である。少なくとも、もともと、リズム感のない私は大苦戦中である。 「時代」は中島みゆきの名曲の一つ。他に「糸」や「地上の星/ヘッドライト・テールライト」など。1975年発表。作詞・作曲も中島みゆき。日本の歌百選に選ばれている。ヤマハ主催の「第10回ポピュラーソングコンテストつま恋本選会」「第6回世界歌謡祭」でグランプリを獲得した。「時代」は平成28年に日置市で開催された「歌う仲間のコンサート」で歌ったのを始め何回も歌った。なお、「地上の星」も第7回演奏会で演奏した。 月2回の練習が定着してきたが、文科省も合唱活動を厳しく見ているようで、いろいろな活動の中で全てが解放される日はいつのことになるのか、見通しが立たない。これまでのように毎週日曜日の練習をこれまでの練習会場でマスクも外して歌える日をじっと待つことにしよう。
2021.02.15
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マスク着用で勢揃い(上の写真は団員のKくんから提供を受けた) (上の2枚の写真はリハーサルに向けて準備中のもので当然ながらマスク着用である) 久しぶりの演奏会だった。しかも、私に大いに縁のある薩摩川内市東郷町の学校である。私にとって70年ぶりの母校? である。 昭和19年我が家は父の出征によりいわゆる女・子供だけの家庭となり、母の郷里・薩摩郡上東郷村にある母の姉(私にとって伯母)を頼って、その隠居所に疎開した。そして昭和20年8月15日そこで終戦をむかえる。そのあとも満州から先の行方も安否もわからない父の帰還をそこで待っていた。そういう中で私は昭和21年4月1日を迎えて「東郷小学校」に入学した。同級生には叔母の子供である男の子もいた。その頃の艱難辛苦は今更だが、そういう中でも田舎にも馴染み貧乏な中にも楽しい思い出もたくさん作ることができた。それは私の生涯の財産になっている。あの時期の伯母や従兄弟達とのつながりは今も生きている。しかし、ある日遂に父が思いもしなかったフィリッピンで戦死したとの公報が入る。疎開先では生活の成り立たない我が家は3年生の2学期途中に鹿児島市に帰ることになる。その後、母も勤めに出る、姉たちも次々に勤めに出ることでどうにか生きてのびることができたのだった。 下の写真は休憩時間中の生徒さんたち 私たち演奏者とは10mの間を空けて、マスクを付けて鑑賞 その東郷小学校が2019年4月1日、東郷中学校が統合されて開校したのが9年制の「薩摩川内市立東郷学園義務教育学校」である。今回縁があって、そこでスクールコンサートを開催すると決まったのは昨年のことである。その日から私はワクワクドキドキしながらその日を待っていた。しかし、思いもしなかったこのコロナ禍である。果たしてスクールコンサートは開催されるのだろうか。学校側にもいろいろなお考えがあるだろうしどうなるのだろう。2月から8月までは落ち着かない日々が続いた。9月になって学校から今後よほどのことがない限り予定通り開催しますとの連絡があって、こちらも最終準備に入った。 そして、今日を迎えたのだが、私たちはいつもの練習時に検温の上で練習場に入りマスクをつけての練習をしているが、今日はバスに乗る前に検温し、マスクを付けて車上の人となる。約1時間で学校に到着。他時間の発声練習とリハーサル。演奏開始 今日の曲目は 団歌「輝く黎明」 ビリーブ 花は咲く 箱根八里 ウエルナーの「野ばら」を歌っての「男声四部合唱」のハーモニーの解説 夕焼け小焼け 待ちぼうけ 休憩 ピアニストによるピアノ演奏 モーツアルトとベートーベンの「トルコ行進曲」 「組曲 空飛ぶうさぎ」から3曲 「お母さん」 「手紙」 「空飛ぶうさぎ」 ふるさと(会場と一緒に) 東郷学園義務教育学校校歌(会場と一緒に) 以上の演奏中の生徒さんたちの鑑賞態度は素晴らしかった。最後の校歌は1年生から2年生と低学年がハチキレンばかりの歌声で一番元気がよく生徒さんたちが楽しんでくれたことがわかった。しかし、一番楽しんだのは、久しぶりの演奏会に燃えた私たちおじさん軍団だったかもしれない。私にとっては生涯忘れることのできない演奏会になるだろうと思う。最後になりましたが、校長先生はじめ先生方、生徒の皆さんほんとうにありがとうございました。 (下は貸切バス その左側が学校) 下の3枚の写真は、今は廃校になった、私が入学し、3年生の途中まで通った東郷小学校建物は建代わり昔の面影はないが、周りの苔むした石垣などはそのままである。(バスの中から写した) 今も学校の前は田んぼが広がっていた。のどかな田園風景いつまでもと願いながら東郷町をあとにした。
2020.10.14
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毎週日曜日の練習を2月23日を最後に、コロナ休日を続けていた男声合唱団のおじさんたちが昨日、5ヶ月ぶりに練習を再開した。8月再開にあたり、約50人から60人集まる団員を2班に分けて隔週で練習する案などいろいろ役員で知恵をしぼり練習再開の予定で2班に分ける人の割り振りまで決まっていた。ところがそのいつもの練習会場が当地でもコロナ感染者が増えてきたため、8月再開を先に延ばすということで、使えなくなってしまったのだ。そこで更に知恵をしぼった結果、日頃は公演などに使用するホールを借り切っての練習再開となった。600人収容のホールなのでソーシャルディスタンス守ればを全員での練習も可能である。 久ぶりの練習再開と仲間との再会にロビーはマスク着用のままあちらこちらで喜び合う姿が見られて和気藹々とした雰囲気に包まれた。歌う仲間は先輩・同輩・後輩を超えていいものだ。いざ、ホールへの入場となったが、そこでは個人名や住所を書いたものを提出し、団員の医者が体温を測定、高ければ帰ってもらうという厳しい体制とした。幸い当日の参加者でそういう団員は一人もいなかった。しかし、いつもの練習人員は集まらず私のおおよその感じでは40人くらいのでの練習再開だった。 歌い手はマスク着用、指揮者はフエースシールド着用という形での練習再開だったので、これまでの練習と違い大きく感じが違った。マスク着用で大きな声を出すとマスクが鼻からずれて、そのまま放置すると口まで露出するので歌いながらマスクの位置を鼻の上まで何回も戻さなければならないのには大いに当惑した。しかし、良かったこともある。いつもは自分の声はなかなか聞こえづらいものだが、マスク着用で自分の声がよく聞こえることだ。しかし男声合唱で感じる重厚なハーモニーを味わうには程遠いものだった。歌のためにも一日も早くコロナ禍から抜け出して日常を取り戻したいと思った。
2020.08.03
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昨夜、南薩摩に住む私の合唱団の指揮者の一人・SWくんからメールが入った。「クマタツさんに依頼されていた演奏会のDVD化したものを今日郵便で送りました。明日には着くのではないでしょうか」という願ってもいない知らせだった。 これには経緯があって、現在まで鹿児島大学男声合唱団フロイデコールOBでつくる楠声会合唱団は平成4年11月28日(1992)の第一回演奏会以来、一昨年の平成30年8月4日(2018)の第十回演奏会までほぼ3年に一回の演奏会を開催してきた。その中で第五回演奏会までは、時代がビデオテープの時代であったため、私が持っていた1回から5回までの5巻のビデオテープは時代の流れで機器も無くなって見ることは叶わなくなってしまった。 指揮者のSWくんは大学時代はフロイデコール第19代指揮者であった。その後、南薩摩の某市の市議会議員を30代の初めから30年以上務める一方で、我が合唱団を最初から支えてきてくれた逸材である。工学部電気学科卒業でメカに強く、合唱団で使う音取りのCDなどはいつも彼が作成してくれている。 その彼の多忙さを知る私は、彼が市議会議員を引退したら、演奏会のビデオテープをDVDにしてもらおうと密かに思っていた。以前一回だけ必要に迫られてそのことをお願いしたことがあったからでもある。 ところが、今回のこのコロナ禍で彼もいくらか時間ができたのか合唱団のメーリングリストに「希望の方があれば、テープのDVD化などやってあげますよ」という願ってもない文章が流されてきた。 私はすぐにメールを入れて第一回から第5回までのDVD化をお願いした。それ以降、彼の方では他のメンバーからのいろいろな依頼分も早くに作成済みだったようだが、3月から7月に入った今日まで練習は休みになってしまった。そして鹿児島でのクラスター発生などにより練習再開の目処は立たない。ということで、今日届いたのが写真の通りである。 私もこれまで第一回から第十回まで全部ステージに立ってきたのだが、定期演奏会の全てのDVDが揃ったことになる。明日から若かりし頃? のステージを見ることができると思いワクワクしている。そして来年予定の第十一回の演奏会のステージに立てるように願っているところだ。
2020.07.10
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久々のスクールコンサートのため、2月7日(金)鹿児島市松元町の石谷(いしだに)小学校に招かれて歌った。いつもの おじさんが合唱団 正式名称は「楠声会合唱団」である。 石谷小学校は旧日置郡松元町にあったが、平成の大合併で鹿児島市に合併された。ここ10数年の間に鹿児島市街地を離れた住宅団地としての発展が凄まじく、人口も急増しているという。 私も初めて石谷小学校を訪れたのだが、学校のイメージとしては、森の中にあるような小さな学校かと思っていた。ところが実際は周辺も学校も賑やかなところだった。生徒数は439人だそうで、市街地にある私の知る小学校よりもはるかに多い人数である。 当日は、南国鹿児島でも遅れてやってきた冬らしい天気で、冷え込んで、時々雨も降るような天気だった。私たち合唱団員は鹿児島中央駅に集合し、貸切バスで約30分の石谷小学校に向かったのだが、皆いつになく防寒服に身を固めての出で立ちである。小学校の体育館も冷え冷えとしていたが、歌う私たちはそれなりに身体は熱くなるのだが、聴衆の生徒たちや先生方はさぞかし寒い思いをされたことだろう。 演奏は1、楠声会団歌2、Believe3、我は海の子(小学生と斉唱)4、箱根八里5、夕焼け小焼け(曲を使って男声合唱の仕組みの説明)6、待ちぼうけ7、「空飛ぶうさぎ」から お母さん、空飛ぶうさぎ8、冬景色9、石谷小学校校歌(小学生と斉唱) これらを、司会を交えながら45分間で演奏した。演奏の前後には校長先生など話をいただき、充実した時間を過ごした。 こういう形での演奏会は久しぶりだったこともあり、私自身も大いに楽しむことができて、聞いてくれた聴衆の子供たちより楽しんだかもしれない。 3月には、更に2つの学校の演奏会が予定されているので、練習にも力が入るというものだ。
2020.02.11
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先週の日曜日(22日)は「おじさん合唱団」の今年の歌い納めと忘年会だった。練習はいつもの通りだが、来年2月に小学校への演奏が控えているので、それに向けての新曲と復習に2時間を使った。 練習を終えてデパート・山形屋の食堂でいつもの通りのおじさんだけの大宴会が始まった。鹿児島といえば、乾杯のビールのあとは「焼酎」。団員からの差し入れの人気焼酎「一どん」もあり、大いに盛り上がっていた。もっとも、下戸の私はもっぱらウーロン茶をチョビチョビ。なんとも情けない話ではあるが、昔からそうなので、団員同士の話に酔う。飲み放題だが安上がりである。 2時間30分を過ぎると、いつもの定例の儀式が始まる。当日出席の指揮者二人(当合唱団の指揮者は現在4人だが、二人は多忙な仕事を持ち、この日は欠席)がそれぞれ指揮をする。今回は、ウエルナーの「野ばら」と、七高寮歌「楠の葉末」「森の梢」ドイツ合唱曲「Freie Kunst」(私も人に酔っていたので定かではない)。それが終わって全員が輪になって肩を組み「熱い涙」を熱唱する。曲が終わると同時にいつもの決まった団員が「フレーフレー楠声会」(なんせいかい)と呼びかけると全員でそれに唱和する。最後にこれもいつもの団員が「一本〆」を呼びかけて全員で締める。これでお開きとなる。 全て終わって、エレベターの前に行くと、同じパートのIKくんが「クマタツさん カラオケに一緒に行きましょうよ」と誘ってきた。まあ たまには行ってみようかと思い、メンバーも行き先も分からずについていった。途中で同期のKJくんも誘うと一緒に行くという。着いた先は、先日今年のイルミネーションが綺麗だと全国ニュースでも紹介された鹿児島随一の繁華街の先にある「天文館公園」。噂にたがわず綺麗だった。(デジカメを持ち合わせず残念) 着いたカラオケ専門のスナックには団員の中でも選りすぐりのメンバー? 8人。三々五々行ったので、初めて顔を合わす。パートはバラバラでも、何十年も一緒に歌い続けてきたメンバーなので、遠慮はない。すぐのカラオケ大会が始まった。日頃は、それなりの歌を歌っているので、こういう機会はめったにない。それぞれに哀愁のこもる歌や元気な歌など、いつもは見たり聴いたりすることのない歌を歌っている。しかし、大半は演歌だ。私も演歌、ど演歌を遠慮なく熱唱した。 久しぶりのカラオケに熱中していると、もうとっくに終バスもなくなった時間である。次のお客さん5人組みが見えたところを潮時とこの日のカラオケ大会は終わった。私にとっては、今年3回目のカラオケだったが、ほんとに楽しいひと時を過ごすことができた。皆んなありがとう。
2019.12.24
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今年も「かごしまの子どもたちが創った音楽」の季節がやってきた。第35回 鹿児島県児童生徒作曲コンクール授賞式と受賞作品演奏会/作曲ワークショップ である。今年は11月30日(土)鹿児島市勤労者交流センター 多目的ホール(よかセンター)での開催。 県内の小・中・高校の児童生徒にそれぞれに「声楽作品」「第一楽器作品」「第二楽器作品」の作曲を呼びかけて応募作品を審査されている。この日の演奏はその各部門の「優秀賞受賞作品」と「最優秀受賞作品」楽器作品の優秀賞受賞作品・最優秀受賞作品は、ほとんど作曲者自身の演奏で披露される。声楽部門の歌詞は毎年、協会が詩を選定しその「詩」に児童生徒が作曲をして応募、優秀受賞作品以上の曲を独唱と合唱で発表するものだ。曲は協会の先生方がそれぞれ編曲されて、私たちは男声合唱に編曲された2曲を毎年演奏している。 私たちの男声合唱団が演奏した曲は、「中学校 声楽作品の部 最優秀賞受賞作品」と「高等学校 声楽作品の部 最優秀賞受賞作品」 曲名は2曲とも「空なぜ青く 海なぜ碧い」作曲も編曲も大変素晴らしく、短い練習期間だったが、私たちも楽しく、声高らかに歌うことができた。プログラムによると、私たちの合唱団は平成20年の第24回から毎年出演と紹介があるので、私も毎年出演しているのでもう12回歌ったことになる。いつまで元気で歌えるのか。がんばってみる。
2019.12.06
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私たちの男声合唱団・楠声会は昨日9月21日(土)鶴の里として有名な出水市の「出水市民大学」に呼ばれて1時間30分の演奏会を開いた。 鹿児島中央駅西口に9時15分に集合、途中一回、道の駅・阿久根で休憩し、約2時間で現地に到着した。自家用車で直接駆けつけたメンバーも含めて総員55名の演奏会になった。おじさん55名の演奏は聴衆の皆さんにどのように聞こえたのか。入場者にアンケート用紙も配られていたので、いずれその答えが出てくるだろう。 演奏時の写真は自分では写せないので、リハーサル前の好き好きに集まっているところを写した。 この日の演奏曲目。第一ステージ 母さんの歌 箱根八里 ~会場の皆さんと一緒に~ 夕焼け小焼け 碧瑠璃の空に 鴎第二ステージ ピアニストによるソロ演奏 リスト作曲 「愛の夢 第三番」第三ステージ 男声合唱組曲 「柳川風俗詞」 北原白秋 作詞 多田武彦 作曲第四ステージ 宵待草 ゴンドラの唄 見上げてごらん 夜の星を 川の流れのようにアンコール 我が人生に悔いなし 出水平野に広がる風景 行きも帰りも休憩をとった「道の駅 阿久根」 道の駅の裏側に回ると東シナ海が広がる ほぼ一日かかる演奏会だったが、久しぶりに演奏会らしい演奏会で充実した一日であった。帰り着いた鹿児島中央駅西口の飲み屋に20人くらいが入っていった。鹿児島で言う「だれやめ」(疲れをとる)である。
2019.09.22
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昨日は肝心な「坊がつる讃歌」を添付していなかった。出来れば男声合唱でいいものがあればアップしたかったのだが、ここはやはり芹洋子の歌うものにしました。 1、人みな花に 酔うときも 残雪恋し 山に入り 涙を流す山男 雪解(ゆきげ)の水に 春を知る 2、ミヤマキリシマ 咲き誇り 山くれないに 大船(たいせん)の 峰を仰ぎて 山男 花の情(なさけ)を 知る者ぞ 3、四面(しめん)山なる 坊がつる 夏はキャンプの 火を囲み 夜空を仰ぐ 山男 無我を悟るは この時ぞ 4、出湯(いでゆ)の窓に 夜霧来て せせらぎに寝る 山宿(やまやど)に 一夜を憩う 山男 星を仰ぎて 明日を待つ お聴きになった皆さん いかがでしたか。私にとっては懐かしい青春の歌です。 なお、この歌は9番までありますが割愛しました。
2019.03.08
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毎週日曜日のおじさん合唱団の練習日に珍しく15分遅れてしまった。練習は年間を通じてほとんど休まないし、遅れることもない私が、ちょっとした勘違いで遅れてしまったのだ。 しかし、嬉しいことがあった。練習会場に近づくと何十年ぶりに聞く「坊がつる讃歌」が聞こえてきたのだ。しかも重厚な男声合唱で。遅れたことを恥じながらいつもの席に着いて、私も楽譜を開いた。そう、楽譜は既に早くから手許にあった。 実は今年、9月1日(土)に東京の銀座プロッサムホールで開催予定の「東京楠声会」(私たち鹿児島大学男声合唱団フロイデコールでのOBでつくる「楠声会合唱団」の東京支部の合唱団である)の演奏曲目の中の一曲である。東京楠声会は団員が少ないので鹿児島本部はじめ全国の会員に東京演奏会への有志の参加を呼びかけている。私は今回も参加しないが楽譜は鹿児島でも全員に配られ、最近の練習では行く人も、行かない人も一緒にそれらの曲に取り組んでいる。 「坊がつる讃歌」をいつごろ、どこで初めて聞いたかは記憶にないが、あの青春の哀愁を帯びたメロディーは私の引き出しの中のどこかに収められていたのだろう。それを聞いた瞬間に胸が熱くなった。「人みな 花に 酔うときも 残雪恋し 山に入り 涙を流す山男 雪解げの水に 春を知る」そして、歌は何でも好きな私だが、この歌は特によく歌った記憶がある。というのも20代に毎年のように九重登山に行っていたことも私をそうさせたのだろう。 (この九重連山の地図はネットから拝借した) 私が登山の真似事を始めた最初は高校時代に生物部に入っていて、夏休みに毎年霧島連山に植物や昆虫の採集に行ったことからだ。現在なら高校生がキャンプを兼ねて採集や登山をするには大変な手続きが必要なのだろうが、顧問の二人の先生が男女10人くらいの部員を引率して何の問題もなく行われていた。 その後、大学を卒業し、地元銀行に入行したが、初任地が思ってもいなかった小倉支店(現在の北九州市小倉北区にあった)だった。そこの寮生活の中で、登山の好きな先輩がいて意気投合し、他の同僚も誘って毎年夏の土、日を使っての「九重登山」が始まった。 当時は土曜休みもない頃で、どういうふうに時間繰りをして1拍2日の登山キャンプをしていたのか定かな記憶はない。しかし牧の戸から入り千里ヶ浜、すがもり越えで坊がつるに入ったのは間違いない。ここでテントを張り、夜は他のキャンパーに誘われてキャンプファイヤーを囲んだものだった。そのときに「坊がつる讃歌」を初めて聞いたのかも記憶にはないが、今でもメロディーも一番の歌詞も歌えるのである。そのキャンプは結婚や転職によって3、4年で終わったが、転職後、少し落ち着いた頃、再び九重登山が始まった。 それは次のようなことから始まった。私の転職先に同じ銀行の後輩が転職したいので世話してくれないかと、自宅に押しかけてくるようになった。その後輩というのが、私とは浅からぬ縁で結ばれている男だった。私が大学3年の時、その子は中学3年生、高校受験を控えて、人を介して私に家庭教師の依頼があった。直線では300mくらいの近所だったので、私も1年間どうにか受験勉強につきあった。そして志望校に合格。その後は、私は初任地の小倉にいたため彼の消息はわからなかったが、大学を卒業して同じ銀行に入社したとのことがわかった。そしてなんと彼も初任地として小倉支店への配属となってしまったのだ。100近い店舗がある中でなんという偶然。そしてしばらくして私は転職した。それを追いかけてきた彼も無事転職してきたが、九州内の支店に空きがなく、尼崎市店への配属となってしまった。 それからだ。彼が夏休みにも鹿児島の実家に帰らず、北九州の我が家に愛車を駆って帰ってくるようになったのは。そして私は家族を差し置いて、彼と二人で九重登山に行くのが夏の恒例行事となった。しかしそれも、5年後に私が長崎へ転勤になったことで止めざるを得なくなり、九重登山も終わってしまった。その後の彼は、定年前に私の鹿児島の会社に呼んだが、彼も定年になり、現在は他の企業で働いているようだ。 話は横にそれてしまったが、この歌は1978年、私が38歳になった頃にNHK「みんなのうた」で取り上げられ芹洋子の歌で一気に全国区の歌になった。知っておられる方も多いと思うが「坊がつる讃歌」は1952年(昭和27年)坊がつるの山小屋で九州大学の学生3人によって、広島高等師範学校の山岳部の「山男の歌」(作詞は1937年、作曲は1940年)をベースにつくられたと言われている。因みに坊ガツルは大分県竹田市にある標高1200mの高さに広がる盆地であり、湿原である。法華院温泉があり、九重連山の主峰・久住山と大船山等に囲まれた桃源郷である。
2019.03.07
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最近よく聞く言葉に「キョウヨウ」と「キョウイク」がある。私みたいな高齢の人間の老後の過ごし方の指針ともなるような言葉だと知ったのはつい最近のことである。わざわざカタカナで書かれた文字を最初に見たときは「教養」と「教育」かと思っていたが、「今日、用がある」と「今日、行くところがある」かというのが最近の流行りだそうだ。なるほど、言いえて妙である。更に「貯筋」(筋トレ)が加われば万全だという。納得である。 そこで自分の身を振り返ってみると、土、日は何かと行事が出来てきて「キョウヨウ」と「キョウイク」は大体満たしている現状かと思う。私が以前から「土、日おじさんは忙しい」と言っている所以である。 言い訳めくが、先週の土、日も土、日おじさんは忙しくて、ブログの更新はおろか、ブロ友のみなさんのブログ訪問もできなかった。 11月24日、今年も、このところ毎年私たちのおじさん合唱団も歌う「鹿児島県児童生徒作曲コンクール授賞式と受賞作品演奏会/作曲ワークショップ」がやってきた。 このコンクールも今年で34回を数えるのだが、私たちの合唱団も平成20年の24回から11年連続の出場になる。声楽部門の演奏は私たちともう一つは「鹿児島市立少年合唱隊」、それに声楽家の独唱もある。 コンクールは声楽作品と器楽作品の部があり、それぞれ小学校、中学校、高校の部ごとに審査され、最優秀賞、優秀賞、優良賞、入選が決まり、そのほか団体として学校賞、奨励賞がある。 その中から、声楽部門の最優秀受賞作品と優秀賞受賞作品の一部を私たちの合唱団が受け持って演奏するという形である。 今年の声楽部門の歌詞は明治維新150年を記念して西郷さんの愛犬ツンも出てくる「ツンと雪のうた」と力強い「ねつとちから」が提供され、それに作曲をするというものだった。鹿児島弁も交えた面白い歌で、受賞作品はいずれも力強いものが多かったように思う。 下の写真は、「鹿児島市立少年合唱隊」のリハーサル風景。 翌日の25日は午前中校区の文化祭を見学。演物や作品展を楽しんだ。午後は定例のコーラスの練習。ゴルフの勝みなみちゃんの成績や、貴景勝の優勝の行方、サッカーの鹿児島ユナイテッドFCのJ2昇格のかかった試合など後ろ髪を引かれる思い出出かけた。結果は全て良し。
2018.11.26
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一曲目 「富士山第肆」(ふじさんだいし) 作詞 草野 心平 作曲 多田 武彦 男声合唱曲として有名な曲であるが、混声合唱としの希望も多く混声版としても編曲されてい る。組曲「富士山」の中の一曲。二曲目 「秋のピエロ」 作詞 堀口 大學 作曲 清水 脩 この曲も男声合唱曲として不朽の名作。 昭和23年の第一回全国合唱コンクールの課題曲。組曲「月光とピエロ」の中の一曲。
2018.09.08
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楠声会合唱団第10回記念演奏会から「Standchen」(小夜曲)、ロシア民謡「バイカル湖畔の歌」黒人霊歌「Soon ah will be done」(もうすぐ終わる)の3曲をお聞きください。男声合唱の力強さが出ている曲もあります。
2018.08.27
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8月4日(土)鹿児島市の宝山ホール(県文化センター)開催された演奏会での一曲です。平均年齢70云歳のおじいさんたちが、気持ちだけは若者に負けない気持ちで歌っています。
2018.08.25
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8月4日(土)楠声会合唱団の当日の恥を曝します。(笑)あくまでも私・クマタツ個人のことです。 当日は10時からのゲネプロ開始のことだったので、9時30分くらいには会場の宝山ホール(鹿児島県文化センター)に到着しようと、自宅近くのバス停から8時50分発のバスに乗った。 当日のステージ衣装はいつものように、Yシャツに楠声会カラーの緑色のネクタイ、黒色のスーツ、黒靴となっていた。当日の集合は午前10時でも、その後ゲネプロ、記念写真の撮影など演奏開始の午後4時まで鹿児島地方の最高気温35°Cの中を動き回らなければならない。そのため、軽い服装で家を出て、午後1時30分の記念撮影まではそのままの服装の心づもりである。 ステージ衣装は前日からスーツやネクタイなどは下の写真のスーツバッグに自分で入れて準備しておいた。ただYシャツは私が用意したものを妻がアイロンかけをしてハンガーにかけていたようだ。そこまでは良かったのだが、演奏会後に開かれるパーティーでの服装は自由にということだったので、日頃はステージ衣装のままそういう場所にも出かける私が、暑さで汗びっしょりのYシャツでは気持ちが悪かろうと思い、半袖のカラーシャツを一枚持ち出してきた。妻がそれにもアイロンをかけると言う。もうすっかり任せっきりの気分の私は、他のことに気は向いてしまい、妻の最終的な準備までは見届けず、バスの時間が近づいたので、スーツバッグを持って家を出たのだった。 そして宝山ホール。午前中の第1、第2ステージのゲネプロが終了、パート毎の控え室で弁当を食べる。その後、この日は客演指揮の下野竜也氏を迎えての第3ステージのゲネプロの前に、ステージ衣装に着替えて記念撮影をすることになっていた。和気藹々で弁当を食べると、皆着替えが始まった。私も、いつものようにスーツバッグを開くと、一番上にパーテーィ用に準備して妻がアイロンがけをしたカラーシャツが載せてある。私は先ずYシャツを着ようと思いYシャツを探す。 ない! ない!そんなことはなかろうと、スーツバッグのポケットを慌てて何回も探す。それでも ない! ない!諦めの悪い私はそれでもシツコク何回も探す。 ない! ない! ない! 本当にないのだ! 記念写真の撮影のための集合時間はもうそこに迫っている。どうしよう! 焦りまくるクマタツ。暑いのに冷や汗が出てきた。いつまでも、ポロシャツのままの私の姿に気づいた、2、3人の人が「はよ、着替えんや、間にあわんど」と声をかけてくる。さすがにここまでくると、もう諦めざるを得ない。私が記念写真撮影現場にいないことで私を探すなど全体の進行に迷惑が掛かってはいけないと思った私はパートリーダーにそのことを伝えた。リーダーからも周りの数人からも「そいに上着を着ればよかが」とかいろいろ助言をもらったが、私としてはもうすっかり記念撮影参加は諦めていた。問題は本番である。近くのデパートにでも行って買えばすむことだ。本番まではまだ2時間くらいある。その時、考えついたのが、もうこの時間には演奏会の裏方を務めるためにロビー辺りにいるはずの妻のことだった。そこでロビーに行ってみると、楠声会の責任者と打ち合わせ中である。責任者も写真撮影へ。私「Yシャツが入ってなかったど」 妻「あなたが入れたのではなかったの?」そこで一瞬のにらみ合い(爆) ああ、ここで間違ったのだ! 最後まで自分で確認しなかった私が悪いのか、はたまた途中からカラーシャツにアイロンがけをしてくれてハンガーにかけていたYシャツのことまで気が回らなかった妻が悪いのか。でもそれを言い争って決着をつける時間はない。妻もデパートに走るか、家まで帰って持ってくるか考えていたようだが、家に帰る方に決めたようで飛び出して行った。しかし、完全な職場放棄である。(結果的にはちょうど裏方の仕事も終わって、お客さんが入るまでの空白の時間だったようで、迷惑はかけなかったと妻本人は言っております)楽屋で待つ私のもとへYシャツが届いたのは45分くらいたった頃だった。タクシーで自宅まで帰り、そのまま待たせて置いたタクシーに飛び乗ってきたとのこと。 記念撮影には参加出来なかったが、本番には十分間に合って事なきを得たのは幸いだった。もう一つ言えることは、今回は途中で記念撮影という私にとっては途中でチェックする機会があったことが幸いした。それが無ければ、開演30分くらい前の3時30分くらいに、いざYシャツを着用しようとなった時に気づいていたら、もう完全にアウトだったのだ。教訓としては、旅や演奏旅行などに出かけるときはこれまで通り、自分で全部準備すること。 私たち夫婦にとっては「泰山鳴動ネズミ一匹も出ず」ということに終わったのは幸いだった。何故なら、未だ離婚の話も出ず、今日も暮らしています。
2018.08.09
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やっとかっと演奏会がおわいもした。(やっと演奏会が終わりました)もう すったいだれもした。(もう すっかり疲れてしまいました)いやいやこういうことを最初から言ったらいけません。でも実感です。昨日、8月4日(土)合唱団にとっても私にとっても今年最大のイベントと位置づけていた「楠声会合唱団 第10回記念演奏会」が開催された。 第1ステージは南 弘明作曲のフランスの詩による男声合唱曲集「月下の一群」(!)全5曲 最2ステージは「男声合唱名曲アラカルト 我が青春の歌声」 鹿児島大学の前身・第七高等学校寮歌2曲、日本の合唱曲より4曲、外国の歌より 「Stand Chen」「バイカル湖畔の歌」「Soon Ah Will be Done」 日本の民謡・歌曲より「知覧節」「斉太郎節」「ゴンドラの唄」「箱根八里」 第3ステージ 打楽器とピアノと男声のための合唱曲「火の島」(桜島) 指揮 下野竜也 今回これまでとは違い全ステージ暗譜でということが打ち出されて、平均年齢70歳超え、80歳代も10名以上いるという合唱団にとって大きな試練となった。もちろん50歳代、60歳代も多いのだが。私自身も四捨五入すれば立派な80歳である。いや四捨五入しなくても、もうすぐだ。暗譜云々の結果はどうだったのか。結局ステージによっては、暗譜に自信のない人は、見ていいということになり、何人かの人は楽譜を持ってステージに上がっていた。「結果よければ全て良し」となったようだ。大岡裁き? がなされたということだ。 本番前の2日、3日、そして4日の最後の練習とゲネプロがきつかったが、これも終わってみればもういい思い出に変わりつつある。人間の曖昧さがそういう想いにさせるのであれば、曖昧さ、いいか加減さも捨てたものではない。 幕があくとステージから見た客席は満員である。暑い中、よくもまあ来ていただいたものだ。感謝!第1ステージは団歌「輝く黎明」や司会者の言葉やらで終わったら30分かかっていた。5分休憩。第2ステージは全14曲。これを3人の指揮者が交代で演奏した。その間に司会者の歌の紹介など入るのだが、司会者の時間はステージは暗転して、ひな壇に座り込んでもいいことになっていたのが、暗転する様子がなく、おじさんたちは1時間くらいの立ちっ放しとなった。あとで聞くと、照明が不調に陥ったらしい。止むなし。休憩でステージを降りるときは皆足が硬直しておかしな歩きになっていた。15分休憩。 いよいよ最後の第3ステージ、客演指揮者の下野竜也氏を迎える。演奏に先立ち、司会者による下野氏へのインタビューが始まった。幕の後ろに待機する私たちには、内容はほとんど聞こえないが、会場からは下野氏の発言に対して大きな笑い声が数回に渡って起きていたので楽しいインタビューだったのだろう。私たちにはDVDが出来上がってからの楽しみである。「火の島」(桜島)は「夜明け」という桜島が夜明けを迎える前の「大きな 塊の黒い桜島 黒く青黒く無限に重く 黒潮の海は さらに濃く深い 朝もやの縞は 麓に迫り 音もなく流れ去る 夜明け前の静寂・・・♦♫♦・*:..。♦♫♦*゚¨゚゚・*:..。♦」というところから始まるのだが、この夜明け前の情景を歌う歌いかたなど教わったのだが、果たしてそのように歌えたのかこれもDVDを待たねばならない。曲は「大爆発」「島の子守歌」「溶岩原」「夕映え」と進み、」アンコールやカーテンコールで無事?終了! ステージの後片付けなど全員ですませて、演奏会祝賀パーティーのホテル・パレスイン鹿児島に向かう。午後7時30分パーティー開始。来賓の下野竜也氏、作曲家の伊地地元子氏や団員の家族を含めて130名を越す賑やかなパーティーになった。私は演奏会の裏方を務めてくれた妻共々参加した。 昨夜は家に帰り着いたのは、10時30分。演奏会に来てくれた友人たちのメールを見ただけで、返事は今朝になってすることだった。その他にも、親戚や近所の人など聞きに来てくださった皆さんに電話でお礼を言ったりで、午前中はアッという間に過ぎてしまった。定例の練習は日曜日だが、昨日の今日で今日は休み。次の12日はお盆休み、練習開始は19日かになっている。しばらく だれ(疲れ)休みとしよう。 写真は同じステージに立ったA先輩の知人が写されたものを、A先輩の好意で借用したものです。
2018.08.05
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猛暑の中、一週間後に開催される「楠声会合唱団第10回記念演奏会」の紹介記事が南日本新聞に掲載された。今回の演奏会は、第3ステージに下野竜也を客演指揮に迎えて、100人を越すおじさんたちが歌う「火の島ー桜島ー」である。定例の練習は今日29日が最終日。週末の特別練習やリハーサルを経て本番を迎える。あとは、健康に留意して進むのみ。
2018.07.29
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8月4日の「楠声会合唱団第10回記念演奏会」まで3週間を切ってしまった。おおよそ3年に一回開かれてきたのだが、私は幸いにも30年前の第1回から9回までの演奏会に全てステージに立ってきた。そういう意味でも私にとって10回めの今回は大きな目標にしてきたので、節目の演奏会である。 8月4日(土) 開場/午後3時30分 開演/午後4時 会場は、宝山ホール(鹿児島県文化センター) 演奏曲目 第1ステージ フランスの詩による男声合唱曲集「月下の一群」(1) 堀口大學 訳詩 南 弘明 作曲 第2ステージ 七高寮歌より「北辰斜めに」「森の梢」 日本の合唱曲より「富士山第肆」「秋のピエロ」 ドイツ民謡より「Standchen」 ロシア民謡より「バイカル湖畔の歌」 黒人霊歌より「Soon Ah Will Be Done」 日本の民謡、歌曲より「ゴンドラの歌」「箱根八里」「知覧節」「斉太郎節」 第3ステージ 打楽器とピアノと男声のための合唱曲「火の島」(桜島) 郡山 脩 作曲 客演指揮 下野竜也 我が合唱団は毎週日曜日に2時間の練習をしているが、定期演奏会を前に今回はその定期練習の他に各パートが2回づつ、強化練習を5月の連休を利用して2日間 一日4時間 合計8時間の練習、7月の15日、16日も一日4時間 合計8時間の練習を積んできた。大学の男声合唱団のOBで組織した合唱団なので、強化練習には東京はじめ、九州各地から15日、16日の強化練習には70名が参加した。このあと22日、29日の定期練習の他、8月2日、3日の練習のあと4日の本番を迎えることになっている。 これだけの練習と自宅で練習CDを聴いたりもしているが、覚えが悪い。それでも、記念演奏会に向けて頑張るざるを得ない。それと心配なのは、この暑さにバテないようにして当日を迎えられるかいうことだ。テレビでは連日 熱中症のニュースが流されているので、細心の注意をしながら生活しなくてはいけない。そうは言いながら、もともといい加減な私のことだから、今までのような生活を繰り返しながら日々過ごしていくことになるだろう。
2018.07.17
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6月10日(日)毎年恒例の鹿児島県合唱祭が開催された。数えて69回目だという。終戦後まだ世の中が落ち着いたかどうかわからない時代に形はどうであれスタートしていたのだ。 私の記憶の中で過去にこの伊集院町(当時は平成の大合併の前でまだ日置郡伊集院町だった)で合唱祭が何回か開催された記憶はある。しかし、このところ毎年、鹿児島市の宝山ホール(鹿児島県文化センター)で開催されてきた。おそらく離島を含む県下一円から集まる団体の交通の便などを考えてのことではなかったろうか。ところが、今年はその宝山ホールが改装中ということで、久しぶりの伊集院文化センターでの開催となった。 参加団体は離島の種子島からの参加もあり、59団体。一日での開催としては限界だろう。何故なら朝9時30分開演で閉会が17時43分。一団体当たりの演奏時間は6分である。好きなことだから苦にならないが、1ステージ6分のために集まるのである。 会場の日置市伊集院町にある伊集院駅に降り立つと「島津義弘公」の勇姿が迎えてくれる。あの関ヶ原の戦いで敵中突破(退き口)で有名な島津義弘の菩提寺である妙円寺(現在は徳重神社になっているが、すぐ近くに妙円寺も再建されている)があるからだ。毎年秋には、鹿児島の三大行事の一つである妙円寺詣りが行われ義弘 公の威徳を偲んで鹿児島市内からも多くの人が歩いて参拝する。(妙円寺詣り、徳重神社につては2011、10,23と2013,3,22の拙ブログに詳しく書いた) 義弘公の勇姿 本番前の声だし風景歳はとっても気は若い! この日のステージは日本民謡から2曲、「最太郎節」と「知覧節2012」知覧節は現在の鹿児島県南九州市知覧町で歌い継がれてきた民謡で合唱曲としては間宮芳生の曲がいろいろな合唱団で歌われてきている。「知覧節2012」は私たちの2012年の第8回定期演奏会に際して「五つの鹿児島民謡」として作曲家伊地知元子氏にお願いした委嘱作品の中の一曲である。曲の持つこの地方の風流さと素朴さがよく表現されている。知覧は特攻基地として有名だが、武家屋敷群も国の重要伝統的建造物群保存地区である。8月4日(土)開催の第10回記念演奏会でも演奏する。 上の2枚の写真は先輩のAさんのご好意により転写させていただいた。感謝!
2018.06.12
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私の所属する男声合唱団「楠声会合唱団」の第10回記念演奏会が2ヶ月後の8月4日(土)開催される。これまで3年に一回、定期演奏会として開催してきた。 私は昭和37年に鹿児島を後にして北九州、長崎、徳山(現在の山口県周南市)の各地を最初は銀行員、転職後は安全産業の商社の社員として約20年間勤務した。昭和56年、地元鹿児島に帰り、直系販社として独立することになる。 2,3年を経過しどうにか仕事の目処も立ち、昔歌った合唱団の同期生を訪ねた。そこで知ったのは「楠声会」というOB会をつくって1年に一回だが県の合唱祭に出演したり、総会や忘年会を開催しているというニュースだった。練習は合唱祭の2,3ヶ月前から、昔歌った歌を中心に練習し、歌うという形だという。 私も参加をし始めて、5,6年が経った頃、主だった先輩方が定年を迎える年齢になり、毎週一回の定期練習をやろうという気運になり、40名前後での練習が始まった。それからは、当時は鹿児島唯一の男声合唱団として地域のいろいろな行事や、学校、文化祭などに呼んでもらえるようになっていった。 そこで老いてますます盛んな意気を持ったおじさんたちが、演奏会をやろうということになり、遂に1992年11月28日(土)鹿児島市民文化ホールにおいて第1回楠声会合唱団演奏会の開催にこぎつけるのである。当日全国から集まったOBは120人。満員の聴衆の前で歌った感激を忘れられず、その後もほぼ3年に一回の演奏会を開催して今年がちょうど10回の記念の演奏会となる。 その記念演奏会の曲はこれまでに歌ってきた曲が多いのだが、中でも客演指揮に下野竜也氏を迎えて歌う ピアノと打楽器と男声のための合唱曲「火の島」ー桜島ー が一番の目玉である。この曲は、男声合唱団 鹿児島大学フロイデ・コールの創立20周年を記念してフロイデ・コールの先輩・郡山 脩氏が作曲した曲で昭和44年12月13日、「創立20周年記念演奏会」で現役の諸君によって初演された。 OBの楠声会は東京イイノホールで開催した「楠声会東京演奏会」を始め、鹿児島での定期演奏会でも組曲として演奏してきた。今回、下野竜也氏を迎えて新たな息を吹き込むことができるように強化練習など団員一同がんばっているところだ。8月4日の演奏会には地元はもちろん、東京や九州一円などから約100名 がステージに立つことになっている。 私は幸いにも時の運と健康に恵まれて第1回からずっとステージに立つことが出来ている。今回の節目の10回を一つの目標にしてきたが、何とかステージには立てそうである。ただ声の衰えはどうしようもなく、トップテノールの私は高い音には難渋している。
2018.06.04
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4月30日(日)「 第12回シニアコーラスフェスティバルinかごしま」が「宝山ホール」(鹿児島県文化センター)で開催された。九州各県から28団体、地元鹿児島県から22団体の50団体が出演し、ホール中に一日歌声を響かせた。過去11回の開催地をプログラムで見ると、沖縄を含めて各県で開催されているが、鹿児島県では12回目にして始めてということになっている。 私は鹿児島には数少ない男声合唱団の一つで歌っているが、他所の男声合唱を聴く機会が少ない。今回は開催の前に出場団体を知ることが出来た。それによると私の属する「楠声会合唱団」の他に大分の「豊声会」宮崎の「フルトン男声合唱団」「宮崎メンネルコール」「ひむかグリークラブ」地元鹿児島の「男声合唱団ひびき」の5団体、」合計6団体の出場である。その数少ない男声合唱を聴く機会を逃すまいと思い、プロググラム8番の「豊声会」から聞くために10時過ぎにはバスに乗った。街では「ハンヤ祭り」も最終日で賑わっており、バスが延着し宝山ホールに駆け込んでどうにか間に合ってホッとした。数少ない男声合唱団もどこも熱演で、聴き応えがあり、久しぶりに楽しむことができた。 私たちの出番はオオトリで、その前の49番めが妻の属する「めぐみコーラス」であった。いずれも鹿児島ではそれなりに歴史を重ねてきたので、こういう出番になったのだろうか。 一日合唱を聴いて幸せ感の反面、足腰の痛さなどもあり、二回目の休憩時にはホールの外に出て、先輩お二人と近辺の歴史的な町並みを散策して気分転換を図り、リハーサルに備えた。その甲斐もあってか、本番では7分間、2曲を久し振りの暗譜(楽譜を觀ずに)にもかかわらず歌いきることができた。いや、暗譜だったから指揮者に集中しいい演奏ができたのだろう。 今後も当面のスケジュールとして6月4日の鹿児島県合唱祭、7月7日の南さつま市の学校、2校の演奏が計画されている。歌ずきのおじさん合唱団はどこにでも出かけます。
2017.05.01
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長崎の旅も書き終わらないうちにいろいろなこともあったので、長崎のことは2,3回後に繰り延べることにします。 インフルエンザ発症から一週間。今日の午前中は定例のグラウンドゴルフにも参加、ホールインワンも2個。まあ復調したと思う。 インフルは思った程の症状は発症しなかったが、そこはやはりインフル、なめてはいけないと思い、医者の言いつけを守る子供(老人は子供に返る?)よろしく大人しくしていた。タミフルも5日間、一日2錠づつしっかり服用し、睡眠も十分にとる毎日だった。 それより前、1月28日(土)午前中の高速バスで妻一緒に福岡に向かった。翌29日の戸畑での演奏会出演のためであるが小倉が里の妻の里帰りも兼ねてである。 高速バスを天神で降りて、私だけが前日練習会場である警固公民館に向かう。先日の戸畑での練習以来だが、この日はほぼ全員が揃う。4時30分から6時30分までみっちり練習を繰り返して、なんとかそれらしくなってきた。食事に行く皆と別れて私は再び天神の高速バス乗り場へ向かい、妻と落ち合って中谷号で小倉南区の妻の妹宅へ。年に1,2回北九州に行く時の私たちの定宿である。いつも温かく迎えてくれて感謝! 今回も冬の寒いさなか3泊4日お世話になった。 今回の「クローバーコンサート」は地元の中津川 洋司先生率いる3つの合唱団に私たち楠声会合唱団(男声合唱団)が賛助出演したもので、四つの合唱団ということでクローバーコンサートと名づけられたと聞いた。 出演は「女声コーラス おおたに」「女声合唱団 飯塚マミーコール」「混声合唱団 田川合唱団」「男声合唱団 楠声会合唱団」であった。それぞれ長い歴史をもつ合唱団であるが、特に田川合唱団は今年創立70周年で記念の演奏会を計画されておられるとのことで、昭和28年結成のわが楠声会も真っ青である。 今回は第2ステージで黒人霊歌を4曲披露した。福岡のメンバー中心に鹿児島の10数名、全国からの応援を入れてちょうど30名の演奏になった。 曲目は 1、Soon Ah Will Be Done 2, Steal Away 3, Swing Low Sweet Chariot 4, Ride The Chariot 追い込みの練習の成果か、聴衆の皆さんには一曲ごとに拍手をいただく演奏になった。特筆すべきは、第3ステージの飯塚マミーコールの皆さんの「炭坑節」に合わせてわがおじさんコーラスの一団が炭坑節を踊ったことである。(一番上の写真はその練習風景)リハーサルの間の10分位の練習だったが、先頭に立って踊っていただいだ先生のご指導のもとまずまずの出来ではなかったか? と思う。 最後の四団体合同演奏は「ふるさとの四季」 合唱をする人間ならよく歌う曲なのだが、混声合唱であり、ついていくのが精一杯だった。 翌日は北九州時代の歌仲間夫婦3組で1年ぶりの昼食会をし、そのあとその中にひと組 ガイさん宅を訪問、とんでもない驚きの芸術作品を目にすることになる。次回お楽しみに!
2017.02.08
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1月29日に北九州市戸畑区の「ウエルとばた」で「クローバ・コンサート」が開かれる。そのチラシによると 4つの合唱団が奏でるハーモニー 出演団体 ☆女声コーラス「おおたに」 ☆女声合唱団「飯塚マミーコール」 ☆混声合唱団「田川合唱団」 ☆男声合唱団「楠声会」(賛助出演) となっている。福岡楠声会は福岡のメンバー中心に編成されているが、元は同じ大学で男声合唱を歌った仲間が鹿児島に本部を置きそれぞれの地域で歌っているということだ。3年に一回の鹿児島開催の演奏会には東京を初め全国からOBが集まり、100人を越す男声合唱を披露してきた。もちろん福岡のメンバーも然りである。今回急遽上記演奏会に賛助出演させていただくことになり、30人くらいの演奏をしたいということで、鹿児島にもオファーがきた。 昔々その昔、北九州に12年住んだことのある私は戸畑で歌いたいと思い恥ずかしげもなくそれに応じたのだった。若い頃北九州で一緒に歌った仲間にもそのことを年賀状に書いて知らせたが、果たして当日来てくれるのかどうかは定かでない。 そういうことで、1月9日、鹿児島中央駅を新幹線に乗って出発した。そのチケットが面白い。女性50歳以上、男性60歳以上に入会資格のある「ハロー! 自由時間クラブ」の会員になれば、全九州エリア版ではJR九州全線に連続する3日間乗り放題で16,000円である。(その他の規定を知りたい方はウェブ検索でどうぞ) さくら548号で鹿児島中央駅出発から1時間30分の11時5分には博多駅着、戸畑集合の13時30分までは十分な余裕である。 現役時代、最低でも毎月一回は福岡の九州支社詣でがあったが、当時は新幹線は無く、会議の時間の関係で航空機を使っていた。ただその後の懇親会と称する飲み会やホテルに泊まることも多く、博多駅周辺は馴染みの場所でもあった。2009年の5月に引退する頃は博多駅は大改装中で現在の姿を見るのは初めてだった。 筑紫口 因幡うどんも懐かしいうどん屋さん。 ごぼ天うどん480円、かしわ飯のおにぎり220円 安上がりでも懐かしく腹いっぱいになり満足。博多口 特急 ソニック23号にて13時ちょうど戸畑駅着。同じ列車から仲間がたくさん降りてきて合流し、駅を出てすぐ左側にあるウエルとばたに行く。 ロビーには、2016年ユネスコ無形文化遺産登録の「山、鉾、屋台行事」戸畑祇園大山笠行事」として見事な提灯山笠などが展示されていた。 この日の練習は私たちに与えられた時間14時~15時。 合同の混声合唱曲の練習 15時~16時の2時間で終了。その後おじさん合唱団の有志? たち懇親会と称するものに行ったが、私は明日からの熊本、長崎一人旅に備えて鹿児島に帰った。戸畑から特急きらめき13号、博多から新幹線・さくら63号に乗り継ぎ、鹿児島中央駅に19時49分帰着した。
2017.01.12
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元旦以来の初の日曜日。今日はおじさんコーラスの歌い初めだった。練習曲は今年初めてのステージになる1月22日の「曽於市合唱フェスタ2017」で歌う5曲である。 練習1時間後の休憩時間には1月の誕生日の団員の挨拶があり、その後全員で「♪。.:*・゜ハッピバスデーツーユー♦♫♦・*:..。♦♫♦*゚¨゚゚・*:..。♦」を合唱した。これは毎月、月初めの練習日の恒例行事である。 明日から3日間ちょっと出かけます。久しぶりの自分へのご褒美かな?皆さんのブログへの訪問は帰ってきてからということにさせてください。
2017.01.08
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めぐみコーラス演奏会の紹介第2弾 めぐみコーラスの演奏会への賛助出演はおじさん合唱団にとって実に20年ぶりのことだった。20年前は高田三郎作曲の「水のいのち」の混声合唱でめぐみコーラスが女声部をおじさん合唱団が男声部を受け持って歌った。おじさん合唱団もそのステージだけで単独ステージはなかった。 今回はシューベルとウェルナーの「野ばら」が絶妙に編曲された曲と「二度とない人生だから」の2曲を演奏した。
2016.12.19
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おじさん合唱団の最近の活動から1ステージを紹介したい。去る11月29日(火) 平日だったが鹿児島県県民交流センターで「めぐみコーラス第十八回演奏会」が開催された。めぐみコーラスは54年の歴史を持ち鹿児島のおかあさんコーラスの草分けである。 我がおじさん合唱団も60有余年の歴史を持つ鹿児島では数少ない男声合唱団である。おじさん合唱団の創立者で初代指揮者がめぐみコーラスの指揮者であったことなどもともと関係は深い。そういうこともあって、今回の賛助出演となったのである。 当日は50名近いおじさんたちが第3ステージで、フランスの詩による男声合唱曲集「月下の一群」①(堀口大学=訳詩/南 弘明=作曲)から「Ⅲ、人の言うことを信じるな」「Ⅳ、海よ」「Ⅴ、秋の歌」の3曲を歌った。さて「私は誰でしょう」じゃなくて「クマタツおじさんはどれでしょう?」男声合唱はステージに向かって左から、トップテノール、セカンドテノール、バリトン、バスの順番に並んでいるが、クマタツおじさんはトッポテノールである。 その他のめぐみコーラスの単独ステージやめぐみコーラスとおじさん合唱団との混声合唱のステージなどがあるので、機会をつくってアップしたい。
2016.12.16
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昨日、7月3日 「第17回 北薩合唱祭」に招待されて鹿児島県の北・出水市に行った。主催は北薩合唱連盟。ここの理事長を私たちのメンバーの一人・Kさんが務めている。北薩合唱祭には5年前にも招待され同じ会場でうたった。出水ではその他にも何回か歌っている。 開演前に出場団体勢揃いで記念撮影。11ステージを埋める歌い手は200名に達するという。小学生からおじいちゃん、おばあちゃんまで団体ごとに衣装もカラフル。 我がおじさん合唱団は、次の6曲を歌った。 1、碧瑠璃の空に この曲は、鹿児島市にあった第七高等学校が戦火を避けてこの出水の地に疎開をし、その中で終戦を迎え て伝統の寮祭を開催した時の記念歌である。作詞は当時の七高生で元NHK会長の川口幹夫氏である。 この曲については詳細をいつの日かここに書くことがかもしれない。 2、みかんの花咲く丘 3、砂山 4、浜千鳥 5、サライ 6、時代 アンコールでは地元の男性と一緒に「あつい涙」 鹿児島中央駅を貸切バスで午前9時出発、同じ場所に帰着したのは午後6時30分。総勢薬50名のおじさんたちの楽しい日帰り演奏旅行の一日だった。いろいろお世話いただいた地元の皆さんほんとうにありがとうございました。
2016.07.04
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第8回目となる「歌う仲間のコンサートinこけけ」が日置市東市来文化交流センターで開催されて我がおじさん合唱団もゲストステージに招待されて今年も歌った。 なんと第4回目から連続5回招待されている。連続5年間、建国記念日がおじさんたちの楽しみになってしまった。ありがたいことである。 出演と曲目は下の写真のプログラムの通りだが、どの団体もそれぞれ個性のある演奏で聞き惚れることだった。(プログラムは拡大して読むことができます。) 今日の演奏のために、朝、鹿児島中央駅に集合し貸切バスで10時出発。東市来文化交流センターに自家用車で到着する団員も合わせて本日のメンバー45名にピアニスト。総勢46名である。 11時40分から、二人の指揮者のもとで、リハーサル。12時過ぎて心尽くしの弁当をいただき昼食となった。 昼食の途中、我が団、唯一の女性・ピアニストのMさんからのバレンタインプレゼントの手づくりチョコレートを一人一人に手渡しでいただく。彼女が我が団のピアニストになって10年くらいになると思うが、このプレゼントはその時から始まり、結婚してRちゃんという娘さんができた今もそれは続いている。おじさんたちはもちろん大喜びですぐに食べる輩もいる。 今日の演奏会にもMさんのご主人とRちゃんが見えて一番前の席から盛んに拍手をおくってくれていた。家族ぐるみの応援にもいつも頭がさがる。 家に帰ってプレゼント開けると、なんと3種類のチョコレートが入っていた。ゆっくり噛み締めていただくことにしたい。
2016.02.11
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第31回鹿児島県児童生徒作曲コンクール 授賞式と受賞作品演奏会/作曲セミナ-が鹿児島市勤労者交流センタ-多目的ホール(よかセンタ-)で開かれた。主催はNPO法人鹿児島作曲協会、後援は県教育委員会、鹿児島県、市教育委員会、県音楽教育連盟、南日本新聞社、MBC南日本放送、NHK鹿児島放送局である。 今年の私たちおじさん合唱団の出番は優秀賞受賞作品のうち、「小学校 声楽作品の部 優秀賞」・ふたりのぼく/佐師 愛弓(加治木小学校一年)作曲と「高等学校 声楽作品の部 優秀賞」・絵本のひつじ/奥平 真梨子(伊集院高校二年)の2曲を男声合唱に編曲されたものを歌うことだ。 編曲は作曲協会の先生方が担当され、毎年演奏会の2ヶ月くらい前に依頼がくる。私たちが依頼されて歌うようになったのは、平成20年の第24回から毎年歌っているので、今年で8年目である。 今年の歌は軽快で比較的歌いやすかった。でもそれだけに歌い方や表情を付けるのに難しい歌でもあった。毎年、私たちは授賞式に来た子供たちや付き添ってこられたご両親などの前でが歌うのだが、自分たちが歌う歌を作曲した児童生徒はどの子だろうと大変興味がある。 今年は私たちが「絵本のひつじ」を歌い終わると、一人の高校生が立ち上がって私たちに深々と頭をさげて、礼を尽くしてくださった。その上、全部の演奏が終わると、お母様と一緒に私たちの前に来て挨拶をされた。私たちも大変嬉しくその礼を受けることだった。こういう瞬間に歌ってよかったとおじさんたちは感激するのである。
2015.11.28
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私の所属する男声合唱団は国民文化祭の開会式の3日前の10月28日、鹿屋市にある国立療養所 星塚敬愛園 創立80周年 記念式典によばれて、記念演奏をおこなった。園長が私たちの合唱団の団員であるということや昭和20年代、30年代に当時大学の男声合唱団として慰問演奏に行ったことがあるなどの縁からである。 当日いただいた「ハンセン病と星塚敬愛園」には概要次のようなことが書かれている。 ハンセン病は、結核菌に似た細菌である「らい菌」の感染によっておこる病気である。発症すると、手足や顔の末梢神経が麻痺したり、皮膚や眼などにも病的な変化がおこる。「有効な治療法があり、完治できる」かっては「らい(癩)病」と呼ばれたが、現在は「らい菌」の発見者の名前をとって「ハンセン病」と呼ばれている。 「らい菌」は感染力が弱く、非常にうつりにくい病気である。発病には個人の免疫力や衛生状態、栄養事情などが関係するが、たとえ感染しても発病することはまれである。現在の日本の衛生状態や医療状況、生活環境を考えると、「らい菌」に感染しても、ハンセン病になることはほとんどない。 治療法は次のようである。昭和18年(1943)、米国で「プロミン」がハンセン病によく効くことが報告された。わが国では、、昭和21年(1946)から試用され始め、昭和24年から広く使用されるようになった。その後、さまざまな薬が開発され、現在はWHO(世界保健機関)が推奨する3種類を組み合わせて服用する治療が行われている。 日本のハンセン病の歴史は次のようなことである。19世紀後半、ハンセン病はコレラやペストなどと同じような恐ろしい伝染病であると考えられていた。明治時代になり、家を出て各地を放浪する患者が施設に収容されたが、やがて自宅で療養する患者も収容されるよになった。ハンセン病と診断されると、市町村や療養所の職員、医師らが警察官を伴ってたびたび患者のもとを訪れたという。そのうち近所に知られるようになり、家族も偏見や差別の対象にされることがあったため、患者は自ら療養所に行くより仕方な状況に追い込まれていった。 このような状況のもとで、昭和6年(1931)に全ての患者の隔離を目指した「癩予防法」が成立し、各地に療養所が建設された。 星塚敬愛園について 国立のハンセン病療養所としてハンセン病後遺症を持つ高齢の方々がついのすみかして暮らし、医療・介護を提供する場所である。平成27年10月1日現在、入所者159名、平均年齢85,1歳。 昭和10年10月28日 星塚敬愛園開園式(300床) 昭和11年11月2日 鹿児島県、福岡県、宮崎県より患者23名が初めて入園 その後、沖縄県、県下大島各島などより入園、収容 昭和18年度 年度末患者数1347名(最大) その後、選挙権・被選挙権が認められたり、患者自治会発足したり学校の分校ができたりする。 平成8年4月1日 「らい予防法の廃止に関する法律」施行 式典は上の写真にある「星塚公会堂」で開催されたが、入所者をはじめ地元選出の国会議員や県知事、地元鹿屋市長など来賓も多く参加されていた。 私たち男声合唱団は「敬愛園歌」作詞 久木田兼光(昭和12年当時の入所者) 作曲 山田耕筰 「浜辺の歌」作詞 林古渓 作曲 成田為三 「鴎」 作詞 三好達治 作曲 木下牧子 以上三曲、園長の選曲によるもので、ハンセン病に苦しんでこられた入所者の心に訴えるものがある曲だった。 星塚敬愛園は37万平方キロメートルの広さがあり、ヤフードームの2,2倍の広さがあるという。その広い敷地の中は写真のとおりきれいに整備されており、不自由者棟、一般舎、外来治療棟、宿泊施設、ゲートボール場、盲人会館、ふれあい会館、交流会館、公会堂、宗教会館、社会交流会館(星塚の歴史)などが整然と建てられている。社会交流会館で星塚の歴史をボランティアの方の説明を聞きながら見学したが、子供のころからおぼろげには聞いていたことが目の前に展開するので、涙を禁じえなかった。 納骨堂 ハンセン病患者の場合、長期の療養生活で、身寄りがあってもないのと同じといった入所者が多く、引き取り手のない遺骨が多かった。納骨1304柱、全骨帰郷488柱、分骨277柱、自宅葬14柱、合計2083柱だという。 慰霊碑 この石碑は、らい予防法と優生保護法が強いた大きな人権問題により、医学的な根拠のないまま、入所者の無数の子供たちが、「光を見ることなく産声をあげることなく」闇に葬られた事にたいし、慰霊の平安を祈念し建立された。
2015.11.02
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皇太子殿下と雅子妃ご臨席のもと「本物。鹿児島県~文化維新は黒潮に乗って~」をテーマに「第30回国民文化祭・かごしま2015」の開会式・オープニングフェスティバルが31日鹿児島アリーナで開催された。11月15日までの16日間に南北600kmに及ぶ鹿児島県の全ての市町村で音楽・美術・郷土芸能など多分野にわたるイベントが開かれる。 私たちの合唱団からも40人の参加をした記念合唱団170人、記念オーケストラなど鹿児島会場には50団体750人が出演した。それには、国文祭初の試みとして鹿児島市と種子島、奄美大島の3会場を生中継で結び開催。また同時にその模様は教育テレビで生中継された。私も録画をしていたので帰ってから自分たちの歌う場所からは見えなかった全体像を見ることができて感激した。 鹿児島アリーナは1992年に竣工しているが、それまでは鹿児島刑務所があった場所である。そのため、明治4年(1908)に建築された当時の正門だけが記念として残された。門はヨーロッパの中世の城門のような石造の門である。鹿児島刑務所のもとの建物は山下啓次郎という明治・大正期の建築家の設計、鹿児島出身でジャズピアニストとして有名な山下洋輔の祖父である。 開会式当日は撮影禁止だったので、前日のリハーサルの模様を少しだけ写した。合唱団席からなので、これが精一杯。 テレビで生中継された映像はいずれ全国放送されることがあるかもわかりませんが、そのときはお知らせします。
2015.11.01
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第30回国民文化祭・かごしま2015が明日10月31日から11月15日までの16日間鹿児島県の各地で開催されることになった。 開会式とオープニングフェスティバルは31日14時30分から鹿児島アリーナで行われるが、皇太子殿下と雅子妃がご臨席される。皇太子ご夫妻そろっての鹿児島訪問は、2000年5月に屋久島で開かれた世界自然遺産会議に臨席されて以来15年ぶり2回目だという。 その開会式とオープニングフェスティバルのためにたくさんの文化団体や個人が出演するのだが、170人の記念合唱団に私たちの団から約40人が男声として参加している。詳細は書かないが、昨夜も今日も遅くまで練習があり、皆力が入っている。残された明日の練習と本番に全力で取り組みたいと思っている。 そのこともあり、せっかく拙ブログを訪問いただいても、明日までは返事ができないかもわかりません。悪しからず了承ください。
2015.10.30
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