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安部龍太郎著の「姫神」を読んだ。この本は目が悪くなる前に読んでいたので、今となっては残念ながら感想的なものが多くは書けなくなってしまったので、主にその背景について書くことにした。 (写真は限界方面地図) 地図が小さくて位置が見えにくいが左下の赤印が「宗像大社」(総社)で「辺津宮」。 左上の大きな島が「筑前大島」で「宗像大社中津宮」、地図には写っていないが筑前大島か ら更に49km先に「沖ノ島」があり、そこに「宗像大社沖津宮」がある。 3つの宮は一直線上にあるという。 宗像大社の左上の海辺の赤印が「神湊」である。 宗像大社は日本書紀に由緒が記された日本最古の神社の一つであり、古くから海上・交通安全の神として信仰を集めている。沖ノ島は島全体が御神体で女人禁制、男性も上陸前に禊を行うのだが、その様子はNHKテレビの特集で見たことがある。 沖ノ島の神は田心姫神(筑前大島の中津宮は湍津姫神、総社の辺津宮は市杵島姫神)が祀られており、女性が上陸すると嫉妬され、たたりがあると言われているが定かではない。沖ノ島では昭和29年以来十数年にわたり発掘が行われ古代祭祀遺構や神宝など8万点が出土した。そのようなことから「海の正倉院」ち呼ばれており、有史以前の古代人から海人族の信仰の対象となっていたのだろう。(この項はwikipediaを参考にした) ところで、このところ古代史にすっかりハマってしまった私は、本を読む時は天皇家の系図を片側に置いている。そして、主要なことはその都度書き込むようにしているが、スペースが少ないため、それでも少し書き込むとすぐ満杯になってしまうので、いい方法はないかと思案中である。ただそれは、島津家の歴史を調べるときも系図を片側に置いてやってきて、まあまあうまくいったので同じ手法をとったのだが。その上、小説によっては天皇家以外も登場人物は多岐にわたり、読み進むうちに人物が交錯して私 自身もまた前に戻ったりして読み返したりする。これは物忘れ、あるいは認知症など歳相応によるものと諦めることにする。ここまで書いてきて、はたと思ったの小説によっては独立した系図をつくるのがいいのかなと思う。そして必要に応じてそれらを見て全体像をつかむようにしよう。 さて本題の「姫神」である。著者は直木賞作家の安部龍太郎。読み始めてすぐに興味を抱いたのは、5行目にいきなり「宗像君疾風」(むなかたのきみはやて)は神湊(こうのみなと)に戻った・・・ ということが書いてあったからだ。宗像も(宗像大社も)神湊もその昔、何回も行った思い出の場所だった。というのも1962年(昭和37年)~昭和49年(1974)の北九州在住中に家族で、あるいは訪ねてきた親戚などと一緒に宗像大社を訪ねまだ素朴な漁村の風情が残る神湊で海の景色を眺め、美味しい魚料理を食べた思い出が一気に蘇ってきた。しかし、神湊に古代のロマンあふれるる物語があったのか知るすべもなかったからだ。余談だが、その後鹿児島に帰ってきてから北九州に行ったとき、友人夫妻と神湊を訪ねたが、立派なホテルや料理屋が立ち並び、すっかり様相が変わっていた。料理は魚という魚が全部出てきた昔のほうがずっと良かったような気がした。 おっと、又話が横道にそれてしまった。もとに戻そう。これまで書いてきた「迷宮の月」「平城京」が遣唐使の時代であったが、「姫神」はその前の時代・中国の隋の時代の物語であり、遣隋使にまつわる話である。「姫神」は玄界灘に浮かぶ孤島・世界遺産「沖ノ島」が重要な舞台である。厩戸皇子(聖徳太子)が小野妹子を遣隋使として派遣するに当たり必要なものは、船と船乗りである。そこで船頭として登場するのが、宗像一族の若頭領・疾風である。それに絡む女性が、宗像一族の女性と新羅の男性の間に生まれた巫女・伽耶(姫神)という悲劇のヒロインである。当時、朝鮮では高句麗、新羅、百済の三国が対立しそこに大和朝廷が絡む複雑な政治情勢であり、それを若い二人の目を通してダイナミックに描いている。 宗像大社(ネットより借用) 沖ノ島(ネットより借用) 沖津宮本殿(おきつみや)(ネットより借用)
2022.10.11
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まさに、台風一過今日は朝からお日様に恵まれて良い日和になった鹿児島である。昨日はともかく、今日もエアコン不要の一日である。当地でも停電が続いたり、サトウキビの倒伏や果樹落下の被害などもでているようだ。また鹿屋市(かのやし)でパチンコ屋のガラス窓が割れて大きな被害をもたらした。しかし、幸いにも死者が出るようなこともなく、なんとかやり過ごした感じである。 ただお隣の宮崎県では都城市と三股町で男性二人が死亡した他、大きな被害があったようだ。都城市では、上記新聞記事によると国文化財の「都城島津邸」の御門が倒壊したとのことで、歴史ファンにとっては大変ショックなニュースが飛び込んできた。 下の写真は2018年5月1日の拙ブログにある都城島津邸の御門の写真である。門松があるのは、初めてここを訪れたのが同じ1月であったからだ。その後、2020年には高校の歴史会の仲間4人で再びここを訪れて、その時の様子もブログにアップしている。 記事にあるように明日21日に専門家が入って診断を受けるそうだが、一日も早い再建を願っている。
2022.09.20
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同じ姉龍太郎著「迷宮の月」を読んだことは先日ブログに書いたが、古代史に造詣の深いKくんがその頃私達の同期生でやっているメール交換の中で「『平城京』を読了したが、『迷宮の月』の続編みたいだった」と書いてきた。それを見た私は「迷宮の月」が面白かったこともあり、すぐ「平城京」も入手して、4,5日で読み終わった。 「迷宮の月」はいうまでもなく遣唐使の話だったので舞台が中国大陸が主であったが、「平城京」は文字通り日本の新都・平城京をつくる話なので大和・奈良が舞台である。時代は「迷宮の月」の第八次遣唐使 大宝2年(702)~慶雲元年(704) 執節使・粟田真人(あわたのまひと)に対し「平城京」は慶雲4年(707)~和銅3年(710)の物語であり、主に平城京造営に関することが中心である。 このように時代も第八次遣唐使帰還ごわずか3年後のことから始まっており、登場人物も主要な部分で重なっている。執節使であった粟田真人は藤原不比等などと並び朝廷の実力者になっている。しかし、この「平城京」の小説の主人公は本の帯封に「国家の命運は、一人の青年に委ねられた」とあるように遣唐使の4号船の船長であった「安倍船人」(あべのふなひと)その人である。 (以下3枚の写真は2014年クマタツ撮影で当ブログ2015年3月4日の記事から転写した) 朱雀門 それまでの藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中の慶雲4年(707)に審議が始まり、その亡き後、天明天皇により勅が発せられた。そしてわずか3年後には平城京遷都がなるのである。その新都造営の責任者に任ぜられたのが阿倍船人の兄・安倍宿奈麻呂(あべのすくなまろ)であった。当時、船人はある事件の責任をとらされて謹慎中であったが、そこに兄・宿奈麻呂が訪れて長安に倣って新都を奈良山の麓につくるようになったので手伝ってほしいというのだった。安倍家の父・比羅夫は元はと言えば孝元天皇の皇子・大彦命を祖先とする名門阿部家の生まれであった。しかし、白村江(はくすきのえ)の戦いで唐と新羅に大敗したのは水軍の大将だった阿倍比羅夫が戦法をあやまったためとの意見が根強くあった。そういう阿部家にとってはこの造営の責任者に取り立てられたことは名誉挽回のチャンスであった。そのような背景もあったので、船人も兄に協力して現場の指揮を執ることになる。 平城京は唐の都・長安に倣って造営する都市そのものであり、東西約4、3キロ(外京を含むと約5、9キロ)南北に約5,9キロという広大な都市にしなければならない。短期間での造営は突貫工事であり、川の付替え工事や道路建設、整地作業、大極殿の移築などに一日約1万人の役夫が必要とされた。そればかりか彼らの宿泊施設などの問題もあった。そして何よりも厄介だったのが、造営予定地に住む人民の立ち退き問題であった。それらを一つ一つ解決しながら、また造営中にも遷都を良しとしない一派との戦いなど立ちはだかる困難を克服していく。 現在のゼネコンの日進月歩の技術などをいくらかでも知る私は、1300年前の何もない時代にどのような方法で都一つをつくっていくかという過程は大変興味深いものがあり、ミステリー風な物語の展開にぐんぐん惹かれていって読了することができた。 全景? 「平城京」を読んだ後、kくんが歴史的には「迷宮の月」「平城京」の前にくるのが同じ安部龍太郎の「姫神」だろうと書いていたが、それも読了することができた。このことも気が向けばいずれ書くことにしようと思う。 大極殿
2022.08.04
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井沢元彦著「日本史の反逆者 私説・壬申の乱」は(以下第一章 血風の峰 本文)は、次のような書き出しで始まっている。 真紅に染まった太陽が、山の陰から昇り始めた。山に囲まれた不破の関、後世、関ケ原と呼ばれた一帯を見おろす峰の上で、大海人(おおあま)は夜明けの空気を胸一杯に力強く吸い込んだ。壬申の年(672)7月23日のことである。(ついに、わしは帝に勝った)大海人は満足げにあたりを見回した。 大海人とは、この後に天武天皇になるその人である。壬申の乱に勝利した大海人がそこから20数年前のことを鮮やかに思い出すというこの場面から、一気にその当時に戻り、話は展開していく。物語は飛鳥時代、大化の改新の主役である中大兄皇子(後の天智天皇)が中足鎌子と出会う当たりから乙巳(いっし)の変、大化の改新、白村江(はくすきのえ)の戦い、そして壬申の乱に至るまでのことである。中大兄皇子(後の天智天皇)の異父兄弟として,実際は大海人の方が兄でありながら、中大兄皇子の弟とされ様々な確執や憎しみがあった。その兄・中大兄皇子からいいように使われて遂に20数年後に爆発したというのが壬申の乱であったと物語はいうが、作者も「私説」と書いているように実際はどうだったのかはここでは知ることはできない。しかし、そのフィクションもあるだろうこの小説を面白く読むことができて、古代史初心者として、さらにこの時代や人物に興味が深まった。「県民だより奈良」によると、今年、令和4年は西暦672年に起きた壬申の乱から1350年にあたる。天武天皇・持統天皇が「飛鳥・藤原」で国家の礎を築く出発点となった出来事としている。関ヶ原の戦いは、岐阜県不破郡関ケ原、慶長5年(1600)、徳川家康と石田三成の率いる東西両軍がこの地で戦った。その約1000年前、古代日本の命運を決める合戦が同じこの地で行われていたのだ。天智天皇亡き後の皇位を賭けて、吉野に挙兵した弟の大海人皇子は、尾張・美濃の軍隊数万を率いて、この不破の地に陣したのだ。叔父(大海人皇子)と甥(天智天皇の子・弘文天皇)の間で争われた、古代史上最大の戦闘だった。 「日本史の反逆者」を読み進む中で、当時の結婚の特異さが目についた。それは、一族を血縁で固めて、未来永劫に血族で国を統べていくという狙いがあったからだろうが、それにしても現代の考えからすれば異様と言っていい。もちろんそういうことは、中世の島津家の歴史の中でもその例にもれないことは、これまで何回も当ブログにも書いてきた。 今回「松本清張の日本史探訪」の中の「皇位を賭けた古代の大争乱 壬申の乱」を紐解いてみると、松本清張と梅原 猛(哲学者 「隠された十字架 法隆寺論」など多数の著書あり) 両氏の対談があり、その中でも皇室の女性についても概要次のような対話がある。 松本:当時の宮廷では、一人の女性がいろいろな男性と交渉をもつのは、普通のことでした。宮廷の結婚も、異母兄妹、伯(叔)父・姪が一緒になった。たとえば、天武天皇の妃には、天智天皇の娘さんが四人も嫁入っています。額田王がどれだけの才女かしれないし、また、どれだけの美人かわかりませんが、まさかその一人を争って壬申の乱が起こったとは思えませんね。 梅原:私は、額田王というのは、「万葉集」には三角関係が出てきますけれど、もう少し別の意味があるのではないかと思います。額田王というのは、初め大海人皇子、つまり後の天武天皇に愛されて、その妃となる。 ところで、大友皇子(天智天皇の子で後の弘文天皇)の妃が十市皇女(天武天皇と額田の間の娘)ですね。大友皇子と十市皇女の間には葛野王(かどのおう)が生まれる。そして葛野王が生まれてから、天智天皇はやっと大友皇子を後継者にすることを決意している。 つまり、可愛い孫の顔を見たら、もう天下を異父弟の天武天皇にわたすのが惜しくなって、子の大友皇子を天皇とする。そして、その後継者が、天武天皇の血を引く葛野王であるならば、天武天皇も了承してくれるというような思惑が、天智天皇にあったと思います。 しかし、このように大友皇子と十市皇女を結びつけたのは誰でしょうか。それはやはり額田王ではないかと思います。自分の前の恋人の間の子である十市皇女と、後の恋人の天智天皇の子の大友皇子を結びつける。そうすれば、天武天皇と天智天皇もうまくゆくであろう、そういう計算が彼女の中なあったのだと思います。ところがこの計算は狂ってしまう。彼女は持統天、あの意志の強い、誇りの高い天武の妃の存在を無視したことになります。私は壬申の乱は、その意味で、額田王の計算の狂いから生じたものと言ってよいと思います。 なるほど、自分の中で結論はでないが、梅原理論は納得のいくものだと思った。今回はこのあたりまでとします。 (ネットから借用した。系図参照ください)
2022.07.15
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日本と中国大陸に跨る壮大で大変面白い小説だ。私も最近になく3日で読み終わった。最近私たちの高校の同期会「八期通信」のメール交換では、関東に住むNSくん、関西に住むKBくん、それに鹿児島本部の編集長である3人を中心とするちょっとした「古代史ブーム」が到来している。「薩摩の歴史」一辺倒の私とは異なり、もともとこの3人は古代史にも造詣が深いということは、これまでの交流で私も知っていた。そういうメールのやり取りの中で、先ずNSくんがKくんに「迷宮の月」を送ったのがきっかけで、私の妻も古代史や中国・朝鮮の歴史の本を読んでいると知ったNSくんから我が家にも「奥さんに送るので、その後クマタツさんも読んでみてください」ということで「迷宮の月」が届き、KBくんにも送ってくれたそうだ。我が家でも妻が読んで、その後私も読んだのだった。前記3人の間では、その「迷宮の月」の読後感など行き交う中で次の段階ではどの本を読んだらいいかなど盛んに情報がいき交っている。それによると、時代の順番でいけば、いずれも安部龍太郎の「姫神」「迷宮の月」「平城京」。その他では井上靖の「額田女王」、松本清張の「壬申の乱」「神々の乱心」上下、「琉球王国 高良倉吉」、海音寺潮五郎の「大化の改新」、津本陽の「則天武后」上下などが面白いそうだ。私もやっと「迷宮の月」や井沢元彦の「日本史の叛逆者 私説・壬申の乱」(これもNSくんが送ってれた)を読み終えて俄然面白くなってきたので、次にどれを読もうかと食指が動き始めたところである。 前書きが長くなったが、「迷宮の月」のことである。遣唐使を命じられたのは大宝元年(701)、粟田真人(あわたまひと)は、この物語の主人公であり、第八次遣唐使の最高責任者の執節使(しっせつし)である。普通は遣唐使の長は大使とよばれるのだが、669年以来33年ぶりの今回は日本と唐の国交を回復するするための重要な使節なので、大使、副使の上に執節使をおいて、対外外交の権威である真人が任じられたのである。真人は14歳の時、達観という出家として唐に滞在したことがあるが、帰国後事情があって還俗する。同行者の一人には秘書として後に万葉歌人として名を馳せる山上憶良や真人の娘の婚約者で4号船の船長である阿倍船人もいた。 今回の遣唐使の真人は朝廷一の実力者・藤原不比等から日本と唐との国交回復という密命を受けて、420人という使節を引き連れて4艘の船に分乗し荒波を超えて中国を目指したのだった。その荒波など天候に左右されて出港できたのは702年、その約40年前、日本の天智天皇は唐と新羅に滅ぼされた朝鮮半島の百済を再興させようと4万人の兵を送ったも白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗を喫していた。それ以降、日本は唐との外交関係を絶っていたのだ。遣唐使のミッションは二つあり、一つは、唐との国交回復をすること、二つは、唐の優れた制度や仏教などの教理を学ぶため留学生や留学僧を送り届けることであった。 しかも大国・唐から朝貢外交を当然とする姿勢はともかく、外見上は唐と対等な立場としての条約を締結しなければならないという難しい使命を帯びていた。中国の大周の楚州塩城権に到着したが、そこは唐の統治下にはなく、女帝・則天武后を皇帝とする武周朝となっていた。そこから則天武后のいる長安までの道のりも接待役で個性的な宦官などに騙されたりの苦労がある。しかし、悪人もいれば善良な人のいるのもこの世の習いで、真人も命にかかわるような仕打ちを受けながらもミッションを果たすべく一歩づつ進んでいく。そして雲上の麗人・太平公主との艶めいた接点もあり王宮の奥で妖しくも美しい月を見るのだった。まさに「迷宮の月」である。 全体を通じて感じたことは、対外関係なかんずくアジアにおける中国との関係は昔も今も大きくは変わらないということだ。歴史を知ることで現代を知ることができるというのが実感である。 真人は、朝一番の仕事として「遣唐日誌」を書いていた。帰国したとき、朝廷に報告する義務があるので、覚書を残す必要があったのだ。もう一つ真人の文がある。それは一人娘の真奈にあてた文を書き執節使になった自分の胸の内を包み隠さず書き記しておくことにしたからだ。それは万一遭難して命を落とすことになった場合でも、重要書類や日誌、貴重な経典などは防水性の高い櫃に入れて海を漂わせることになっていた。その二つのものが随所にまとまった形で書いてあるので、読者としても頭の整理になって、助けられた。これを機会にもうひと踏ん張りして、日本、中国、朝鮮の古代史にも挑戦しようと思う。
2022.07.01
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