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上の写真は2022年5月2日の南日本新聞に掲載された歴史作家・桐野作人氏の「かごしま街道見聞記」高岡筋㉓ 霧島市 「国分様」亀寿の決断 である。よほど目に自信がある人でないと読めないような小さな文字であるが、最近目がチョボチョボする私でも画面に近づくと何とか読めるので、興味のある方は読んでほしい。 記事の内容は次のようなものだ。戦国、織豊時代に生きた島津亀寿(かめじゅ)という女性がいたが、太守・島津義久の三女であった。従兄弟の島津久保(ひさやす)(義弘の嫡男)と結婚して「御上様」と呼ばれ、父・義久の死後、国分舞鶴城に移ってからは「国分様」とか「国分之御上様」と呼ばれた。義久には男子がなく3人の娘しかいなかった。そのため家督問題が混乱した。長女御平、二女新城が分家に嫁ぐと三女亀寿の婿が次期家督の候補になった。そういう経緯での久保との縁組であったが、久保は朝鮮の役で出征中に病死してしまう。次には豊臣秀吉の命で久保の弟・家久(当時、忠恒)と縁組する。しかし不仲で二人の間に子供はできなかった。家久が家督を確実なものにするためには亀寿との間に男子をもうけることだった。父義久は家久への不信を強め、一時期、垂水家に嫁いだ二女新城の息子・忠仍(ただなお)(のち信久)を新たな家督候補にしたこともあった。慶長16年(1611)1月、義久が国分舞鶴城で逝去すると、看病にかけつけていた亀寿はそのまま国分に居残り、夫・家久と別居する。そして夫妻は決裂同然となる。一方の家久は義久の権威や束縛から解き放たれる道を探り、大御所・徳川家康を頼った。家久は妻・亀寿が40歳になり、もはや子をなせないので、家康に将軍秀忠の二男・国松(のち忠長)を養子に迎えたいと申し出た。家康はそれを断り、側室を迎えればよいと助言した。家久は亀寿の実子を期待する義久の手前、側室を持たずにいたが、家康のお墨付きを得て、一挙に3人の側室を迎えた。それぞれ島津忠清(薩州家)、鎌田政重、相良閑栖の娘である。その一人、忠清の娘は亀寿の上の姉・御平の孫で、かつ義久の曾孫(ひまご)にあたる。慶長17年(1612)大叔母の亀寿はこの娘を国分の呼んで、その人となりを観察した。気に入った彼女(のち慶安夫人)を家久の側室にする決断をする。その後、彼女は元和2年(1616)虎寿丸を生む。後の19代当主で2代藩主・光久である。亀寿は虎寿丸を養子とし、自分の知行一万石と義久から預かっていた家宝を与えた。義久の血筋が島津家当主に受け継がれたことで、実子ではなかったが亀寿は満足したのではなかろうか。 記事の内容概略は以上である。 上の記事を読んで思うことは、次のようなことである。 島津家の子女で、第25代当主で第8代藩主の重豪の三女・広大院(茂姫)は、一橋徳川家の次期藩主・徳川家斉と婚約し、徳川家一門と縁組をすることで、徳川家と関係を深めた。その家斉は天明元年(1781)に第10代将軍・徳川家治の世継ぎに迎えられ、天明7年(1787)には第11代将軍に就任した。そういうことから広大院は、図らずも将軍の御台所となる。NHK大河ドラマ「篤姫」で世間に知られるようになった天璋院篤姫もそうである。第13代将軍・徳川家定の御台所となり波乱の中にもその任を全うした。しかし、私が知る島津家の子女の中で最も波乱にとんだ人生をおくったのは、「亀寿」ではなかったかと思う。記事にあるように義久の三女として生まれ、姉二人が先に嫁いだため家督相続のために縁組した従兄弟の久保に死なれ、その弟・家久(当時・忠恒)と再婚する。しかし、それもうまくいかず、別居。それでも父・義久の血筋を本家として残すために頭をめぐらし、それを成功させる。 次に島津家の側室問題である。そもそも島津家は「側室はNG!」だったという。家久以前、亀寿の曽祖父の日新公(じっしんこう)だけは例外で、薩州家重久の娘・御東を正室に迎え2男3女をなしたが、一人の側室・上本貞時の娘(大仁、桑御前? )が1男1女を生んでいる。義久、義弘も再婚はしているが、側室の影はないという。家久(忠恒)は徳川家康からお墨付きをもらって以来、堰を切った様に7人とも8人ともいわれる側室を持ち継室となった慶安夫人と側室の間に33人の子供をなしている。また後の重豪も妻妾との間に男13人、女13人、合計26人の子供をなして89歳まで生きて元気であった。 下の写真は鹿児島市立美術館の庭園にある亀寿の石像である。市民から「持明院様」(じめさあ)と呼ばれ親しまれているが、昭和4年(1929)当時市役所の敷地であったこの場所で発見されたという。この「かごしま街道見聞記」の作者、桐野作人氏は、現在の清水中学校のある稲荷町にあった大乗院跡にあった「白地蔵」ではないかと言っている。その白に因んで現在も年一回、市役所の女子職員によって写真のように化粧が施されている。 (写真は2022年3月撮影) 参考資料 南日本新聞 歴史人 「薩摩島津家 最強の真実」 「島津一族 無敵を誇った南九州の雄」 川口 素生著 他
2022.05.04
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鹿児島市の繁華街・天文館の一角にある島津重豪(しまづしげひで)像である。島津重豪は下の説明板にあるように第25代島津家当主にして第8代薩摩藩主である。延享2年(1745)~天保4年(1833)89歳と長命であった。先代は幕府から木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の治水工事を命じられた島津重年。難工事のため多くの犠牲を強いられ心労もあったのか27歳で亡くなったので島津重年の嫡子の重豪が跡を継いだ。その時、重豪は11歳であり、当初、3代前の藩主で内祖父(系図上は曽祖父)の島津継豊の後見を受けたが、その継豊も宝暦10年(1760)に病没するなどして、若いときから苦労が多かった。しかし、正室に一橋徳川家当主・徳川宗尹の娘・慈照院を迎え、安永5年(1776)には自身の三女・広大院(茂姫)が一橋徳川家の世子(時期藩主)・徳川家斉と婚約するなど徳川一門との縁組が続いた。その家斉は天明元年(1781)に第10代将軍・徳川家治の世継ぎに迎えられ、天明7年(1787)には第11代将軍に就任した。 めぐり合わせで思いもかけず将軍の岳父となった重豪は、間もなく家督を嫡子島津斉宣に譲ったが、藩の実権を保持し、斉宣ら2代の藩主の後見を行った。将軍の岳父となった重豪のもとを訪ねる人は引きも切らず、権勢は将軍を思わせるほどだった。住んでいた場所から「高輪下馬将軍」の異名を得るほどだったという。 藩政面では儒学や武道、天文学、医学に力を注いだ。 同じ天文館にある「天文館の碑」。「明時館」は天文館とも呼ばれて、天文観測など行っていた。現在のここ天文館の名はこれに由来してる。安永2年(1773)藩校・造士館と武芸鍛錬場・演武館を現在の中央公園に設置した。 安永3年(1774)に医療機関・医学館(医学院)を設置した。 このように時代の先端をいく施策で薩摩藩をリードしていったので重豪は「蘭癖」(らんぺき)とよばれた。「蘭癖」とは、江戸時代、蘭学に傾倒したり、オランダ式(或いは西洋式)習俗を憧憬、模倣するような人を呼ぶ名である。このような人々を明治時代になってから「西洋かぶれ」とも呼ぶようになった。島津重豪の曽孫・斉彬も「蘭癖」と呼ばれた。「蘭癖」とよばれ藩主や大名は他にも多い。 重豪が藩主就任時に約88万両あった藩の借財は、その後も膨張するばかりであった。極端な開化政策、度の過ぎた本草学や蘭学への傾注、将軍の岳父としての交際範囲の広がりなどによって、冗費は増加し、重豪は隠居後に調所広郷(笑左衛門)の登用し、藩政改革に当たらせた。のちに調所は悲運の死を遂げることになる。 参考資料 現地説明板 wikipedia 島津重豪 「島津一族」 河口素生 他
2022.04.25
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この大鳥居は鹿児島市の繁華街から城山の方向に歩いて数分の照国神社である。鹿児島県で一番「初詣客」の多い神社である。毎年30万人を超す初詣客があるのだが、昨年、今年とコロナ禍のため初詣客も激減した。それでも今年は昨年を上回り26万の初詣客があったそうだ。わが家も正月は一族揃って照国神社で初詣を済ませて我が家で「しょがっで」をするのが例年の習わしである。因みに「しょがっで」とは「正月例」が訛った言葉で、正月に親族が揃って挨拶を交わす会のことを言う。 「照国神社の御由緒」は下の案内板の通りだが読みにくいので概要をまとめた。 御祭神 照国大明神(島津家28代当主・11代藩主 島津斉彬公) 御祭神の斉彬公は文化6年(1809)薩摩藩主島津斉興公の嫡男として江戸で誕生した。幼少の頃曽祖父島津重豪(しげひで)公や母賢章院の薫陶を受け、学問を好み、広く世界に眼を向けた開明的な考え方と科学的知識を身につけた。斉彬公は嘉永4年(1851)43歳で藩主に就任し、幕末の内外多事多難な状況に対応して国事に奔走、欧米諸国のアジア進出の情勢を踏まえて、日本を強く豊かな国にするため、積極的に西洋の科学技術の導入に努めた。更に、その核となった日本初の西洋式工場群「集成館」を鹿児島に設置し「富国強兵」「殖産興業」という理念のもとに近代日本の礎を築いた。また斉彬公の発案による日章旗(日の丸)な制定は日本が国際社会にその第一歩をしるした象徴である。 斉彬公は安政5年(1858)50歳で亡くなる。藩主在位わずか7年であったが、この間、明治維新で活躍した多くの人材を育成した。文久3年(1863)には生前の事蹟を称えて、勅命により照国大明神の御神号が授けられた。そして、一社を南泉院の郭内に創建し、翌元治元年照国神社と称した。当社は明治6年県社、同15年別格官弊社に列格されて、今日鹿児島県の総守護神・氏神様とそて尊崇されている。 以上 「日の丸」発祥の歴史が書いてある。
2022.04.05
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島津氏は薩摩・大隅・日向の守護として初代忠久から四代忠宗までは主として鎌倉に住まい幕府に仕えていた。五代貞久になって初めて薩摩に入って、各地の豪族たちと戦いながら勢力を広げ、守護大名から実質的に薩摩・大隅・日向三国を支配する戦国大名へと変わっていったのである。 そして、最終的に鹿児島を制圧した戦いが繰りひろげられたのが、東福寺城のある多賀山である。ここ多賀山では、平安時代以降、大隅半島を地盤としていた豪族・肝付兼重と長谷場秀純が暦応3年(1340)8月がここにあった東福寺城に入り、島津軍と8ヶ月にもわたり奮戦した。 最終的に島津氏が勝利し、興国2年(1341)には中村氏(矢上一族)が守る東福寺城を攻略して、子の6代氏久に与えた。鹿児島が戦国大名島津氏の拠点となるのはこの時からである。文治元年(1185)初代島津忠久が島津荘の惣下司職に任命されてから、鹿児島を拠点にするまで実に150年以上の年月がかかっている。5代貞久と、その子6代氏久はおよそ40年間にわたってここを根城として大隅地方にまで勢力を伸ばした。更に力をつけた島津氏は嘉慶元年(1387)7代島津元久のときに清水城に自前の城を建立し移った。 鹿児島が拠点となり得た理由はいろいろのことが考えられるが、薩摩国(北薩・川内から薩摩半島にかけての一帯)と大隅国(曽於、大隅半島から国分・姶良にかけての一帯)の両国に接する重要な地点であり、どちらにも片寄った土地でなく、事ある時にどちらへも素早い行動が可能であったこと、海に近く海上交通に便利であり、しかも鹿児島湾の中ほどにあって外海にある程度の距離があったこと、山に囲まれ、守りやすかったこと、桜島を正面に風景に恵まれていたことなどが要因ではないか。 上記のように「東福寺城」は島津氏の自前の城ではない。どのような歴史があるのか。天喜4年(1053)藤原純友から4代目にあたる長谷場永純によって築城されている。3州(薩摩、大隅、日向)としては初めての城とされている。南北朝時代(1336~92)にはこの城を巡って激しい戦いが行われた。鹿児島を本拠としていた長谷場、矢上、中村、上山、谷山の各氏は南朝軍に加わり、出水の山門院から鹿児島に入りした島津氏は北朝軍に属した。 今も残る石垣は歴史を感じさせる 参考資料 島津一族 川口素生 著 かんまち本 その一 古地図に見る かごしまの町 豊増哲雄 著 鹿児島上町の歴史と文化 鹿児島玉龍高校 他
2022.02.11
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JR指宿枕崎線の薩摩今和泉駅の北東300mにある今和泉小学校と指宿商業高校一帯は、今和泉島津家の屋敷跡で、宝暦4年(1754)に初代島津忠郷(たださと)が初代当主となる。跡地には石垣と手水鉢や井戸が残っているというがこの度は訪問していない。本宅は現在の鹿児島市大竜小学校の西隣にあり、4,600坪の敷地があったと伝わる。ただ、これは新生今和泉家と呼んだほうがいいもので、本当は南北朝時代から和泉家は存在した。このことについては後述する。初めの和泉家が絶えて327年経った延享元年(1744)新生今和泉家はとして3562石で再興した。家格は家臣団最高の四家(重富家、加治木家、垂水家、今和泉家)である御一門の一つで島津家第2代当主・継豊が弟・忠郷(たださと)に今和泉家を再興させ今和泉島津家としたものである。 所領地は、今和泉郷の他、佐多、伊佐、飯野、串良などの飛び地を含めて、やがて1万3000石以上の石高となった。 今和泉家墓地は初代忠郷から6代忠冬までの宝篋印塔や五輪塔、家祠型をした13基の墓石が123基の灯籠に囲まれ、江戸中期以来、この地を120年余りにわたり所領していた「殿様」の威厳を今日に伝えている。 今和泉家といえば「篤姫」。NHK大河ドラマ「篤姫」が放映されて一気に有名になった。篤姫の幼名は「於一」。5代(和泉家10代)忠剛の長女として生まれる。後に、江戸幕府13代将軍徳川家定の正室天璋院篤姫となる。そのため島津斉彬の養女として大奥に入る。数奇な運命をたどったと言えよう。 篤姫の父・5代忠剛の墓標。 墓所には「篤姫の墓」の案内板がある。 先に触れたように、もともと和泉家は鎌倉時代に島津家第4代当主・島津忠宗の次弟である忠氏(ただうじ)が出水を治めていた時に姓を出水(和泉)に改めたことに始まる。しかし、応永年間の戦いで和泉家5代当主・直久が戦死し、和泉家が断絶する。その後、320年を経て延亭元年(1744)和泉家は今和泉家として再興される。将軍家の血統が途絶えたときに跡継ぎを迎えるために「御三家」がつくられたように島津家も「御一門」が設けられて今和泉家も藩の家柄の中で最上の「御一門」四家の中の一つとなった。 余談だが、島津家では一旦途絶えた「家」を再興することは今和泉家だけではなく、「前期越前家」から「後期越前家」(重富家)へ、「前期佐土原家」から「後期佐土原家」へなどがある。 参考資料 今和泉家墓所案内板 「鹿児島県の歴史散歩」 鹿児島県高等学校歴史部会編 「島津一族」無敵を誇った南九州の雄 川口素生著 「鹿児島古寺巡礼」 川田達也著
2021.12.22
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姶良市加治木木田にある伊集院忠真の墓地の手前、100mくらいのところに「亀趺墓」がもう一つある。姶良市指定文化財の「江夏友賢」(こうかゆうけん)の亀趺墓(きふはか)である。「江夏」は「えなつ」とも「こうか」とも読むが、私達の同級生も「こうか」と言っていた。友賢は1538年、明国福建省江夏郡に生まれた。出身地から「江夏」を名乗りまたは漢民族の先祖である「黄帝」の子孫として「黄友賢」とも称した。代々、易学の家系であり、幼い頃より朱子学や易学を学び、23歳で日本に渡来した。はじめ京都で易を行っていたが、やがて戦乱を避けて薩摩に移り住み入来院に居住したという。薩摩では薩南学派の高僧一翁和尚・文之和尚と親交を重ねた。 天正10年(1582)、島津義弘から八代城に呼び出され、易を行ったことから家来となり、朝鮮の役にも従軍した。友賢は、この戦いで認められて、島津義弘に従い上京した時、豊臣秀吉から家来にしたいとの申し出があったが「臣、二君に仕うるは深く恥じる所となす」と言って断ったという。友賢は、島津義弘(17代当主)や家久(18代当主にして薩摩藩初代藩主)に信頼され、加治木屋形や鹿児島城(鶴丸城)を築く際の占いや縄張り(城や城下町の設計)なども行った。慶長15年(1610)73歳で亡くなり、ここ実窓寺に葬られた。 この独特の墓石は「亀趺」(きふ)と呼ばれ、先日の当ブログの伊集院忠真の墓もそうだったが、姶良市加治木にはそのほかに同じ亀趺墓が4基あり、全部で6基あるという。亀趺とは古代中国の考え方で、墓地に建立する習慣は朝鮮半島を経由して江戸時代の初めに伝わった。儒学の教えを具体化し形といわれ中国では貴族身分に許されていたが日本では各地の大名家墓所等に多く見られる。その形状から一般的に「かめばか」と呼んでいるが、それ自体が墓石になっている例は全国的にも少なく、多くは墓前や参道に建てられて、寺社や個人の顕彰碑となっている場合が多い。「趺」とは石碑の台の意味だ。 参考資料 wikipedia 現場案内板 など
2021.09.30
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今回の姶良・霧島方面の史跡を訪ねる日帰り旅は、先日も書いたように病に倒れたNSくんをのお見舞いに行こうということがはじめにあって、それならせっかくだから史跡も巡ってこようということから始まったことだった。史跡巡りの案をつくってくれとKくんから頼まれた私は、最近出版された「不屈の両殿」(新名一仁著)をKくんも私も読み始めたところだったので、この本でいう「両殿」すなわち「島津義久と義弘」に関する史跡とKくんが勉強中の「古代史」に関連する史跡を中心に案をつくった。 しかし、予定は未定であって、最初の予定地の前に私の思いつきで「平松神社」に寄るなど、その後もハプニングで寄れなかった場所が多くなった。もっとも「平松神社」は「両殿」の弟の歳久公が祀られているので全然外れてはいない。 次に訪ねたのは姶良市加治木木田にある伊集院忠真(ただざね)の墓地。上の写真が亀の上に墓標が乗る亀趺形の伊集院忠真の墓碑。太陽光線の加減でわかりにく映像になった。下は墓地全体の写真。 伊集院忠真の父・忠棟(幸侃)は都城庄内8万石の領主で豊臣秀吉の家臣・石田三成と親しく、薩摩藩内で勢力を拡大する傾向を見せた。このことに不安を感じた島津忠恒(後の島津本宗家18代当主にして薩摩藩初代藩主)は慶長4年(1599)京都伏見で忠棟を殺害した。 この事件が原因で伊集院忠真らは、島津氏に対して乱を起こし約9ヶ月の激戦の後、徳川家康の仲介でやっと鎮静した。世にいう「庄内の乱」である。降伏した忠真は、頴娃1万石を封ぜられたのち、帖佐2万石に移ったが、なお島津忠恒(家久)に対して反抗的であったため、慶長7年(1602)忠恒上洛に随行の途中、日向国野尻で殺害された。なお、「庄内の乱」に至る背景については当ブログ2020年6月28日「島津義弘に連なる人脈 伊集院忠棟」に詳述した。 忠真の夫人は、義弘の末の娘・御下(おした)で忠恒(家久)の妹である。親子兄弟のしがらみを捨てて殺害するというこの一事を見ても、戦国の世が家を守るためにはいかに非常なものであったかがわかる。忠真の遺骸は、帖佐の天福寺に葬る予定で加治木まで運んできたが、現在のここの周辺にあった実窓寺に埋葬されたという。なおこの亀趺墓は、元禄8年(1695)になり木田杉森門の名頭・新右衛門が建立したものである。天福寺と御下のことは、当ブログ2020年11月18日「鹿児島県姶良市帖佐の史跡を訪ねる 天福寺磨崖仏」に詳述してある。 「亀趺墓」については次回「江夏友賢の墓地を訪ねる」で詳述する予定である。 参考資料 当地の案内板など
2021.09.28
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Mくん運転の車で出発。島津氏別邸のある仙巌園の前を通過して北上。この日の訪問場所などコースを任されていた私は事前にコース案を作成し、事前にメンバーに知らせていた。ところが10号線を走る中で予定に入れていなかった「平松神社」のことが頭をかすめた。急遽メンバーにも提案し寄ることになった。というのも10号線沿いにあるものの訪ねたいと思いながら車でないと寄れないような場所だからだ。やっと念願が叶っての訪問に心が弾む。Mくん他皆に感謝。 場所は国道10号線を鹿児島市街地方面から霧島市方向に向かい左側、道沿いに2台ほど止められる駐車スペースがある。降りて日豊本線の信号なしの踏切線路を渡った先にあるので注意が必要。 廃仏毀釈で壊されたのか、風化したのか仁王像が鳥居の手前左側に吽像のみ一体だけある。貫禄十分。 平松神社の表示岩も時代を物語る。 少し進むと右へ曲がる本堂への階段の道がある。歴史を感じる風情のある道だ。 本堂 中心に見える真っ白いところは滝状に流れる清水。 手洗鉢には龍の彫り物。これまでも数ヶ所の神社で見たがここの龍は今にも飛びかかって来そうな迫力がある。 鹿児島ではあまり見ることがない彩色の仏像があった。心が和む可愛さだ。 島津歳久公の辞世歌。 そうそう、ここは島津家15代当主貴久の息子たち島津四兄弟の三男・歳久公を祀る神社である。 晴簔(せいさ)めが玉のあかりを人問わば いざ 白雲の上を答えよ 「金五さあ」と愛称で呼ばれた歳久だったが最後はここ平松で非業の死を遂げた。歳久は天文6年(1537)貴久の三男として誕生、兄は義久、義弘、弟は家久(後の永吉島津家始祖となる。初代薩摩藩主・家久とは別人)といういずれも戦国武将である。歳久についてはこれまで2015年10月26日「大乗寺跡墓地を訪ねる」2019年12月16日「島津一族 島津義弘に連なる人脈 島津歳久」など当ブログで何回も取り上げいるので興味ある方はご覧ください。 島津家が九州統一目前までいった戦いで、それを許さじと出てきた豊臣秀吉の大友氏との停戦命令を拒否した中で秀吉の優れた手腕を評価し、四兄弟の中で唯一秀吉との和平を説いたのが歳久だった。しかし、島津氏は秀吉の出自をあざ笑い関白就任を認めない態度をとった。しかし、抵抗もむなしく最終的に秀吉の軍門に降った。長兄義久は出家し龍伯と称し秀吉に許しを乞うた。ところが歳久が唯一人、和睦には時勢がある説き、今はその時ではないと主張し秀吉に弓を射掛けたりした。文禄元年(1592)朝鮮の役(文禄の役)が勃発したが、歳久は中風(脳卒中の後遺症)のため出陣できなかった。ここで追討ちをかけるように歳久に不幸が訪れた。同じ年、島津氏の家臣・梅北国兼が一揆を起こしたのだ。国兼は朝鮮出兵の不満から肥後・佐敷城を占拠し、周囲に一揆を呼びかけた。国兼には歳久の配下の者が多数味方したといわれ、秀吉は歳久に嫌疑をかけた。秀吉の不興をかった歳久に兄の義久は追討をかけた。攻撃を受けた歳久は自害しようとしたが、中風のためそれもできなかったという。結局、歳久は配下の原田甚次によって首をとられた。その後27名もの家臣が殉死したと伝わっている。 島津歳久墓標 400年記念祭記念碑 境内から錦江湾(鹿児島湾)と桜島を望む下の道路は国道10号線 同じ境内から霧島方面を望む天気にも恵まれて最高のドライブ日和でもあった。
2021.09.25
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入来峠は鹿児島市から3号線を北上し小山田町から入来温泉方面に向けて右折した先にある。この道は仕事でもプライベートでも10年くらい前までは大いに利用した道である。鹿児島県でも有数の急坂であり、また曲がりくねった峠であったが、整備されて走りやすくなっている。いつも走り抜ける入来峠の旧道にうかつにも思いを馳せたことはなかった。この新聞記事を見た時、「あっ、そうだ旧道もあったのだよなあ」という想いであった。そして歴史愛好家の一人としては嬉しい知らせであった。 記事によって私がこれまでも書いてきた島津忠恒(家久)の指図で狙撃され殺された島津義久の家老・平田増宗が狙撃されたのがこの入来峠だったことを知って改めて興味を持った。殺された原因は島津家の本宗家継承問題があったとされるが、狙撃と樺山、平田の二人の間にそのことでの因縁はないが、平田狙撃については後で詳述したい。 この記事には「江戸初頭の島津氏の琉球侵攻で総大将を務めた、藺牟田ゆかりの樺山久高について調べる過程で、副将だった平田が入来峠で狙撃され絶命した事件に興味を持った」とある。大将だった樺山久高のことは、2020年8月23日拙ブログの引用記事にあり、川越宗一著の「天地に燦たり」の冒頭に出てくる武将であることからその存在を知っていた。今回この南日本新聞の記事を見たKくんから下にある陳舜臣著「琉球の風」に樺山と平田のことが書かれた部分がメールに添付されてきた。樺山と平田の間を取りなすように新納忠元(にいろただもと)がモノを言う場面である。そこで、平田増宗狙撃事件の前に、樺山と平田の事にも興味を持ったので、二人のことを少し調べてみた。 樺山久高(大野七郎忠高→樺山権左衛門久高)永禄3年(1560)~寛永11年(1634)島津家4代当主忠宗の5男・資久に始まる島津氏支族である。久高は樺山忠助の子として誕生した樺山家13代の当主であった。当初島津氏重臣・大野忠宗の婿養子となり、大野七郎忠高と称した。天正14年(1576)の高原城攻め、天正12年(1584)の沖田畷の戦いに従軍、天正13年(1585)の堅志田城攻めで敵2人を討ち取り、天正14年(1586)の勝尾城攻めでは敵と組討し、手負いとなりながらも討ち取っている。また同年の岩屋城攻めでは一番首の功名をなしている。 (天正14年の勝尾城攻めと岩尾城攻めについては、前記「天地に燦たり」の冒頭に詳しく書かれている) その後、豊臣秀吉の九州征伐の際、肥後国の豪族が離反して坂無城へ攻めようとすると、新納忠元・伊集院久春と共に敵陣を破り、敵100名を討ち取って無事に薩摩国への帰国を果たす。島津氏が秀吉に降伏した後は、小田原征伐に向かう義弘の次男・島津久保の供をした。 天正19年(1591)4月27日、義父の大野忠宗が島津義久の命により誅殺される(理由は不明)と、これに伴い忠高も加世田に蟄居した(後に蟄居先は谷山に移る)。しかし、義弘より文禄の役へ参戦する次男久保の供をするよう命ぜられため、離婚して樺山姓に戻し樺山権左衛門久高と改名し、200石を加増され家老に任ぜられた。 文禄2年(1593)、久保が朝鮮で病死すると一時帰国するが、再び朝鮮へ赴き戦い、甥の樺山忠正と共に功をなした。帰国後の慶長4年(1599)6月、甥の忠正が嗣子なく伏見で病死すると、久高が樺山氏を継ぎ、島津忠恒(家久)の代にも家老として重用された。慶長12年(1607)出水の地頭に任ぜられる。慶長14年(1609)の琉球侵攻では大将として軍を率いて(上記「琉球の風」)首里城を落とすなどした。慶長19年(1614)薩摩藺牟田郷(鹿児島県薩摩川内市)の領主となる。晩年の寛永5年(1628)薩摩伊作郷(鹿児島県日置市)の地頭となり、そこで寛永11年(1634)病没した。享年75歳。墓所は鹿児島県日置市の多宝寺。 新聞記事に登場のもう一人の主役「平田増宗」永禄9年(1566)~慶長15年(1610)薩摩平田氏の嫡流歳宗の子としてた誕生する。祖父・父と同様に島津義久の家老、後には老中となった。また日向国穆佐(宮崎市高岡町)の地頭を務め、慶長4年(1599)頃よりは入来院清敷郷(薩摩川内市入来)の地頭に任じられた。合戦では天正13年(1585)の肥後堅志田城攻めや慶長4年(1599)の庄内の乱などに参陣した。慶長3年(1598)から大坂詰をするが、その最中に関ケ原の戦いが勃発する。増宗は実窓院(義弘夫人)と亀寿(義久の末娘で島津忠恒夫人)を逃すことに成功する。慶長14年(1609)には琉球侵攻において副将を務める。 1年後の慶長15年(1610)、平田増宗は、家久(忠恒)が川内の久見崎港より船で上京するのを見送った後、入来清敷郷へ立ち寄り本貫地である郡山(鹿児島市郡山町)へ向かおうとして土瀬戸越(現・入来峠)で、桐野九郎左衛門尉に道案内された押川公近(強兵衛)(義弘の家来)に狙撃され殺された。これは家久より増宗を上意討ち(主君の命を受けて、罪人を討つこと)を命じられてのものであった。 上意討ちの理由はいろいろ言われているが、山本博文著「島津義弘の賭け」には概要次のようにある。「山田四郎左衛門聞書」を引用し「龍伯様(義久)、維新様(義弘)、中納言様(家久)の間柄が疎遠になられ、召し仕う侍なども三方にわかれるようにない、世上にはいろいろ気遣いな風聞もあって如何かと存じていたところ・・・」ある日、義弘と家久が義久の住む国分新城に向かいそこで義久との関係修復を図る。その後に前記の増宗射撃事件が起こる。「山田四郎左衛門聞書」にはその理由として、三殿の仲が悪くなったのが増宗のしわざだったからだと書いている。三人の会見は、義久の家老で和解の目障りと目された平田増宗の粛清を行うことで、意思一致をみたのだった」とある。 上の三殿の関係ともつながることではあるが、他にもその理由があるのではないかと言われる。増宗が「庄内の乱」を引き起こした伊集院忠真(いじゅういんただざね)に加担したのではという噂や、島津本宗家の家督を家久ではなくて島津久信(義久の次女の子)に継がせる(下の相関図参照)べく増宗が画策していたなどである。当ブログ 2020年4月22日 島津義弘に連なる人脈(7)島津忠恒(家久) 2020年6月28日 島津義弘に連なる人脈(14)伊集院忠棟 参照ください。 下図の「家久(忠恒)が謀殺した家中ライバル」に見るように自分の本宗家としての地位を守るために家久は異常なほどの要人深さで義久に連なる人脈を謀殺していった。そういう家久だが、島津家18代当主・薩摩藩初代藩主として、鹿児島城(鶴丸城)を築き、その後の島津家が明治維新まで続く基礎をつくったという意味では毀誉褒貶はあるものの大した人物だったのだろうと思わざるを得ない。人物研究に興味は尽きない気がする。 参考資料 ウイキペディア 樺山久高 ウイキペディア 平田増宗 川口素生著 島津一族 無敵を誇った南九州の雄 歴史人 薩摩島津家 最強の真実 山本博文著 島津義弘の賭け
2021.04.04
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梅天寺跡墓地のことは前回も書いたように永吉島津家初代当主・島津家久(中務大輔)が眠る。詳細は2016年4月4日の当ブログに書いているので、興味のある方は参照願いたい。私にとっては、ここも4回目の訪問である。 島津家久(中務大輔)と豊久親子については、永吉南郷会前会長で現在語り部を務めておられる「本〇どん」が2019年と2020年の2回にわたって鹿児島市の「伊敷歴史研究会」で講演をされている。2019年は「島津四兄弟の末弟 島津家久の実像に迫る!!」、2020年は「戦国武将」島津豊久の生涯について、というそれぞれのテーマであった。私が特に興味深かったのは、この梅天寺跡墓地に眠る家久が豊臣秀吉の九州征伐のとき、最後の根白坂の戦いに敗退し、幾多の戦いから解放されて、佐土原に帰り久しぶりに安息の時を迎えていたときの出来事である。豊臣側からの指示・説得により、これまでの領地・民の安堵、自身の上洛、それなりの扶持を受けること、さらに今後は豊臣の指示による扱い(豊臣大名)を承認することなどの条件を自分自身の判断で行い、「恭順」を示したことで佐土原に来ていた秀吉の弟・秀長もこれを了とし、秀吉の了解を受けての夕食会が開かれた。家久が恭順を示したことで、秀長について上洛することは、豊臣方からみれば、家久を歓迎する意味での夕食会であった。ところがその目出度い宴会が終わったあと、家久は激しい腹痛を覚え、その夜以降、嘔吐と腹痛が続き、遂にその翌日天正15年(1587)6月5日家久は急死してしまった。その急死の謎については当ブログ2019年10月25日に「本〇どん」の講演を中心に「島津家久 急死の謎」ということで書いている。 中和田の光専寺の「大魯和尚の墓」に参る。ここは一番最初に永吉を訪問した時、案内板に従って訪ねて行ったが、結局たどり着かなかった場所である。今回「本〇どん」の車の後をMくん運転の車で付いて行ったが、途中で何回も車の離合が出来なくて大変だった。あの時、と探し出せなかったのも納得した。 大魯和尚は大阪・堺の慈光寺の住職で本願寺智洞派の四天王の一人とうたわれた高徳の僧であったが、江戸時代三業惑乱で追放され、あと世を逃れ肥後・天草を経て鹿児島に入り真宗を広めた。当時真宗の教えは厳しく禁じられていたので、細布講(ほそぶこう)、煙草講(たばここう)の名で深夜洞穴などで教えを広めた。まわること30年、多くの人に慕われた。天保7年(1836)年、永吉の,上草田で没した。中園氏屋敷に葬ったが、明治22年ここ光専寺に改葬した。(案内板と「永吉地区史跡マップ」による)
2021.03.24
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吹上町永吉の香港ダイニング「聚福園」で美味しいランチを食べて、しばし「本〇どん」持参のヘラブナの写真など見て団らん。午後一番の訪問先は永吉島津家墓地・天昌寺跡。4回目の訪問となるともう我が家の庭みたいな感じ! というのは言い過ぎかな。もうすっかり馴染んでしまって懐かしい感じさえする。これだけ訪れるのも「本〇どん」との親交があってのこと。今回は初めての訪問者も二人同行して本〇どんを紹介した。ここに私が最初に行ったのは、ブログを見ると2015年11月13日になっているので、約5年半前のことになる。この時、墓地に「本〇どん」(当時、永吉南郷会会長)のメモ書きがファイルに入れて置いてあり「お電話いただけば、ガイドして差し上げます」とあった。私は携帯電話は持っていないので、帰ってから電話して2016年正月早々、打ち合わせた後、訪問してお会いしたのが初対面であった。当日は、お互い歴史好き同士で意気投合。初対面なのにご自宅に招待され、奥様にも手厚くもてなしていただいた。 天昌寺跡墓地についは、以前にも書いているが、島津貴久の四男で前期佐土原家(宮崎県)の当主であった島津家久(中務大舗)を初代とする永吉島津家の菩提寺跡墓地である。家久は兄・義弘を助けて多くの軍功を挙げた。家久は元亀元年(1570)に薩摩串木野に薩摩串木野城、次いで天正7年(1579)に佐土原城主となる。また天正12年(1584)に義弘とともに沖田畷(おきたなわて)の戦いに参戦し、敵将・竜造寺隆信を討ち死にに追い込める大殊勲をあげた。その後、天正15年(1587)に豊臣秀吉の九州征伐が本格化し、家久は日向方面の防御を担当するも秀吉の弟・秀長の軍勢に押され、降伏した。同年6月5日急死する。墓地は佐土原と、ここ永吉の梅天寺跡墓地にある。 ここ天昌寺跡墓地には永吉島津家2代目・島津豊久(上の写真)以降の墓碑がある。「二代目日向佐土原城主島津豊久公墓」「永吉島津家第二代領主島津豊久公の墓」と書いてある。豊久は家久の嫡子。前期佐土原家第2代当主。領地は佐土原など979町(2万8600石)であった。豊久は伯父・義弘に従い、小田原征伐や朝鮮出兵などに参加する。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでも西軍・豊臣方についた義弘とともに戦った。そして決戦の最終盤、影武者となって義弘の戦場離脱を助けたが、烏頭坂(岐阜県大垣市)で徳川に討たれた。31歳という若さであった。墓地は佐土原にもある。このことにより前期佐土原島津家は2代で断絶した。 この天昌寺跡墓地は私の知る限りでは、2014年2月19日に書いた宮之城島津家の宗功寺墓地や2015年10月23日に書いた日置島津家の大乗寺跡墓地などと並ぶ立派なものだと思う。あるいはそれ以上かもしれない。 清心院殿の五輪塔式墓碑 武功院殿の五輪塔式墓碑 興雲院殿墓碑の祠型 上の墓碑のように五輪塔型や祠型が所狭しと並んでいる。 六地蔵塔。 戦没した敵味方の霊を慰めるためにつくられた。
2021.03.21
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菊まつりを一通り見て園内のレストランで昼食をとり、再び庭園へ。ここ仙巌園はもう何回かブログで紹介しているが、いつ来ても、いい風情を味わえるので散策をする。この日、修学旅行生も訪れていた。聞くと薩摩川内市の小学生だという。県外へ出かけることを止めて県内の修学旅行に変わったと新聞等で見ていたが、まさにその通りだった。しかし、出会った見学者の中には、中国語を話す一団がいたり、コロナ禍の中にしては大いなる賑わいであった。 庭園にはツワブキの花が咲いていた。 塀の向こう側に見えるのは、殿様の居住地域である磯御殿である。これまで数え切れないくらいここを訪れた私も御殿には一回も足を踏み入れたことはなかったが、この日は有料で公開されていたので、初めて見学することができた。 仙巌園の御殿は万治元年(1658)、島津家第19代当主・光久によって建てられ、数百年の歴史の中で、建て直しや増改築が行われた。島津家歴代がこよなく愛し、幕末以降は国内外の賓客をもてなす施設としても使用された。 第29代忠義は、仙巌園を本邸と定め、御座の間などを改築した。30代忠重が跡を継ぐと、住まいを東京に移したため、邸宅は縮小されたが、鹿児島に帰ってきたときの邸宅として維持・管理された。和の趣にたたずむ風水を取り入れた作庭や西洋風の調度品を通して、公爵島津家の暮らしぶりを今に伝えている。(仙巌園 御殿パンフレット) 御殿に上がると目に付いたのが大きな薩摩焼。ニコライ2世がロシア皇帝に即位した際、島津家が贈ったものの複製品だという。 中庭 謁見の間賓客と面会するために用いた部屋、丸十紋が施されたシャンデリアに灯されたこの部屋は明治17年(1884)に改築された。 現在の公園入口からは数百mくらい歩いた右側にあるが、ここが正面の入口だったと思われる。国道10号線に面しており、現在はここからの出入りはない。
2020.11.28
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秋晴れの11月12日(木)近場で楽しもうと、桜島を築山に錦江湾(鹿児島湾)を池に見立てた鹿児島市磯にある島津家別邸・仙巌園で開催中の「菊まつり」に妻と出かけた。 万治元年(1658)第19代当主・島津光久によって造園され、その後も歴代当主により改築がなされた。敷地面積5ha(約15,125坪)あり、素晴らしい景色と広大な庭園が特徴である。昭和33年(1958)国の名勝に指定されている。 県内各地の愛好家が手塩にかけた菊を出品されている。菊の仕立て方には大菊、古典菊、小菊、その他の仕立て方・飾り方という分類があるようで、奥が深い。もっとも、これだけ立派な菊を見ると、もう芸術そのものだと思う。それで思い出すことがあるが、北九州で営業職に従事していたとき、あるお得意さんの担当者が菊を作っておられた。その方の話では、「職場で働いているとき、雨でも降り出そうものなら、庭にある菊が心配で仕事をほっぽりだして家に帰って菊の手入れをしたい気持ちになる」とおっしゃっていたが、今頃になってその気持ちが分かる。それくらいの手間暇をかけないと仕立てることができないということだろう。
2020.11.22
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総禅寺跡墓地を後にして「天福寺磨崖仏」に向かう。しかし、地図の道を見間違えて1時間近くの迷走ならぬ迷歩? を繰り返すことになった。一つの目処は川向こうの高速道路近くまで行ったらすぐ近くにあると読み違えて近くまでいったが、それらしきものが見当たらず、道路を歩いていると、高速道路から次第に離れていく。おかしいと思って人に聞くと、川向こうだと言われる。自分が出発してきた近くだったのだ。なんとまたドジを踏んでしまったのだった。 やっとそれらしきところに来た。上の写真がその遠景である。ここは、事前から資料で見て是非来たかったところである。私の大好きな磨崖仏が間近に迫ってきた。 現地案内板には概要次のような記述がある。天福寺磨崖仏は明治初年の廃仏毀釈で破却された天福寺の西側岸壁に彫られた23体の仏像群である。文献史料等がないため、磨崖仏の奉納者や彫られた年代などは明らかではない。磨崖仏は凝灰岩のもろい岩肌に彫られており、長年の風化による損傷が激しく、原型を留めていない。なお、仏像の顔や腕などが削り取られているのは、廃仏毀釈の影響と考えられる。 天福寺は、鎌倉時代の天福年間(1233~1234)に創建されたとする説がある。当時ここ鍋倉村は加治木氏11代為平の弟用平が領主となり、「鍋倉殿」と呼ばれていた。 また、加治木郷木田村を治めていた加治木氏の一族・木田三郎信経は加治木郷の岩屋寺や肥喜山寺の別当職(住職)を務め、仏教を厚く信仰していたという。地理的にも加治木郷岩屋寺と天福寺は低い山を一つ隔てた隣接地であることから、天福寺は加治木氏により創建された可能性がある。 一方、江戸時代の『三国名勝図会』には「当寺(天福寺)は勢州(現在の三重県)桑名城主松平定行夫人の創建なり」と書かれている。松平定行夫人とは、島津義弘の末娘・御下(おした)と伊集院源次郎忠真の娘千鶴なので、慶長7年(1602)に島津忠恒(後の家久)に討たれた亡父忠真の菩提を弔うため、当時衰微していた天福寺を「創建」だはなく「再興」したと考えられる。 間近まで近寄ることもできないくらい周囲は荒れ果てていた。登り口もわからないので、ズームして写真を写したが、ほとんど風化してしまっていた。このままでは全く見えなくなるのも時間の問題かと思われる。なんとか補修・保護はできないものか。 上記案内板に島津義弘の末娘・御下と伊集院忠真が縁組をし、その娘・千鶴(松平定行夫人)が父伊集院忠真の菩提を弔うため天福寺を再興したと考えられるとあったが、そのことからこれまで何回か当ブログに書いてきた伊集院忠真が起こした「庄内の乱」のことが頭に浮かんだ。「庄内の乱」についてはここでは触れないが、天福寺磨崖仏のある同じ姶良市の加治木に伊集院忠真の墓があるので、近々訪ねてみたいと思う。
2020.11.18
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平山城跡のある山を下り、三度 島津義弘居館跡へ戻る。石に腰掛けて次に行く「総禅寺跡墓地」の場所を確認すると、そこから更に町の方に行く道を引き返して途中から左に行けばいいことが判明。その通り進むと一般の墓地もある目的地に到着。 入口の右側に「西南戦争記念碑」があったが、写真を写し損ねた。(反省)ここの訪問目的の「御屋地様の墓」(おやじさまのはか)他2つの墓標がわかりにくい。しばらく周囲を巡っていると、入口から左奥にあることがわかった。 下の写真は島津豊後守朝久の墓豊州家第6代当主。島津忠親の嫡子で島津義弘の長女(御屋地)の婿。文禄元年(1592)から島津義弘に従って第一次腸腺出兵文禄の役に参加したが朝鮮半島沖の唐島(巨済島)で文禄2年に戦病死を遂げた。 御屋地様の墓御屋地様は島津義弘の長女として生まれた。上記島津朝久と結婚し長男久賀をもうける。夫の死後、義弘が宇都(義弘居館)から平松・加治木へと移ると義弘居館をもらい受け、人々から御屋地さまと尊称された。後に平松の居館に移り寛永13年(1636)に亡くなった。 島津豊後守季久の墓季久は豊州家初代当主で島津本宗家8代当主・久豊の三男。享徳3年(1454)、吾平帖佐の平山城を攻め、近郊に大隅瓜生野城を築城する。この地に総禅寺を創建した。文明9年(1477)に65歳で病没する。後に菩提寺のここ総禅寺に葬られた。 その他にも歴代の当主などの墓標があるが、写真で見るとおり、ほとんど手入れがなされていないようだ。当日は秋とはいえ暑い日だったこともあり、蚊がブンブンして刺されたり、何やら虫にも刺されてホウホウのていで脱出した。
2020.11.17
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膝跪駻(ひざつきくりげ)から島津義弘居館に戻り、案内板に従って今度は居館の右側を「帖佐八幡神社・平山城跡・桜公園」のある山側へ向かった。後で考えると、居館跡まで引き返すまでもなく途中から左の道に入れば、もっと短距離で行けたのかもわからないが後の祭りである。 途中までは、田畑の間に民家もあり、麓を思わせる石垣も続く道をしばらく歩く。途中から道は左右に分かれるが、ここも案内板に従って山の中の道に向かう。舗装はあるが、曲がりくねった道を数百メートル進んだところで左側にある「高尾城跡」の標柱に出会う。思いもしなかった場所に城跡があったのだ。 後で調べたところ、下の写真の道を進むと約30m進んだところに四方の曲輪があるらしいが、私は先に進むことはしなかった。惜しいものを見逃してしまった。こういうことは下調べをしていかないとよくあることだ。反省しきりである。 高尾城跡はここから東にある戦国時代の平山城の支城である。大永6年(1526)には辺川忠直と島津忠良との間で戦いがあった。慶長3年(1598)山頂に稲荷神社が建てられた。(標柱の説明文) 高尾城跡を左に見ながら更に坂道を数百メートル進むとやっと目的地の八幡神社・平山城跡の到着。このような人っ子一人とも出会わない場所に来たのは何年ぶりだろう。 歴史を伝える大銀杏。 八幡神社の鳥居。 ここは標高125mの山頂に築かれた平山城跡である。南北に城があったと思われるが、一番下の写真にあるように南域には桜が植えられ公園になっている。鎌倉時代の弘安5年(1282)京都の石清水八幡宮の了清は正八幡宮の神官として帖佐郷の領家職を得て帖佐郷に入り、この地に平山城を築いたと言われ別名平安城、帖佐本城ともいう。室町時代には島津忠康、戦国時代には辺川忠直、祁答院重武が在城した。この城は大小30の曲輪から構成され、東西南北に空堀が走っている。 神社正殿。 下りは何の問題もなく一気に山を降った。 帖佐の史跡巡りはまだ続きます。
2020.11.15
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秋晴れの一日、日豊本線で姶良市帖佐に向かった。朝8時9分、鹿児島中央駅発で帖佐駅着8時35分。駅から最初の目的地である「島津義弘居館跡」まで先ず2,4kmを歩く。これを皮切りにこの日は約4時間ほぼ歩き続けたので、12,3kmは歩いた。上の写真は別府川を跨ぐ帖佐橋からの眺めである。橋を真っ直ぐ進むと目的地に到着するはずだ。 橋を渡って右に進むと現在、帖佐小学校になっている「帖佐地頭御仮屋跡」に到着。「ここは江戸時代は地頭仮屋という役場がありました。薩摩藩では江戸時代に市町村の代わりに郷という行政区画が置かれ各郷には藩から地頭(今の市長・町長)が任命されました」(標柱) 標注の左側に見える「帖佐地区の歴史」には次のような記述がある。帖佐という地名は、鎌倉時代の建久8年(1197)の「大隅国図田帳」に「帖佐郡」として初めて現れます。その範囲は大字平松や木津志を除く旧姶良町域が想定されます。 鎌倉時代の弘安5年(1282)に京都石清水八幡宮の神官平山了清が下向し、その後平山城を居城に約170年間平山氏が支配しました。 室町時代の享徳年間(1452~1454)には、豊州家島津氏初代の季久(すえひさ)が平山氏を攻め下し、瓜生野城(後の建昌城)を築いて帖佐を領有しました。その後、島津氏・加治木氏・祁答院氏などによる領地争いが続きましたが、天文23年(1554)~弘治3年(1557)の大隅合戦により島津氏の支配が確立しました。文禄3年~4年(1594~1595)に行われた太閤検地の後、帖佐村の石高7864石は島津義弘に与えられました。これを受け、義弘は文禄4年に居城を栗野(湧水町)から帖佐へ移します。この時点で既に帖佐は街道に沿って町が作られ、賑わっていたと考えられます。なお、この時義弘は豊臣秀吉から鹿児島へ移ることを勧められましたが、当主である兄の義久に遠慮し、代わりに息子の忠恒を鹿児島に入れました。この時期に山田郷が別れ、その後江戸時代には鹿児島藩の外城(麓)の一つになりましたが、元文2年(1737)には重富郷が分置されました。 寛永13年(1636)当時の人口は3011人で、寛文4年(1661)当時の帖佐郷に所属する村は、餅田・三拾町・鍋倉・豊留・中津野・深見・深水・益田(増田)・寺師・住吉・長瀬(永瀬)・山田・大山・船津・甑・春花・千本・平松・脇本(脇元)・辺川の19ヶ村です。 ここ帖佐小学校の地は、帖佐郷の地頭仮屋(現在の市役所)が置かれ、政治・行政の中心地でした。一方別府川沿いの納屋町は藩の御用蔵が置かれ物流拠点として発展し、特産品の帖佐升は納屋町船で県内に広く販売されました。船の出入りでにぎわう納屋町の様子は「帖佐名所は米山薬師、前は白帆の走り船」とうたわれました。 今も残る麓の佇まい帖佐麓(郷)に見られるように薩摩には90ヶ所(100以上との説もある)の麓があった。1615年の「一国一城」制が敷かれると薩摩では外城(とじょう)とよぶ「麓」を置き「御仮屋」とか「地頭仮屋」を置いた。帖佐麓もその一つである。 次回はこの先の「島津義弘居館跡」を紹介します。
2020.11.09
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写真は鹿児島県伊佐市にある新納忠元の墓 右の墓標が忠元 左は妻 (ネットとより借用)新納忠元 大永6年(1526)~慶長15年(1610) 薩摩大口、肥後御船地頭 永禄3年(1560)島津本宗家第15代当主・島津貴久(四兄弟の父)の使者となって幕府から復命する。永禄11年(1568)の馬越城攻略戦では貴久の父・忠良から島津家4人衆のひとりに挙げられるほど活躍した。義久・義弘の重臣を務める。 天正12年(1580)沖田畷(おきたなわて)の戦いで奮戦。天正14年(1586)長宗我部元親軍を戸次川(へつぎがわ)で破った。この合戦で戦死した元親の嫡男・信親の遺骸を受け取りに来た使者に対し、落涙して「信親殿と知っておれば討ちはしなかったものを」と言って遺骸を送り届けたという。天正15年(1587)、本格的に島津征伐に乗り出した豊臣秀吉への抵抗を叫び、大隅曽木に布陣した秀吉に対し大口地頭として最後まで防戦準備を進めたが、義久・義弘から止められ、更に義弘が豊臣家に降伏したためやむなく自らも秀吉の軍門に降った。慶長15年(1610)義久・義弘らに惜しまれながら、地頭を務めていた大口で死去。 なお、伊佐市大口市には忠元公園という日本の「さくら名所100選」に選ばれた桜の名所がある。明治41年、忠元公300年記念事業として整備された忠元神社から諏訪馬場に通じる桜の道路公園が始まりといわれる。今年こそコロナ禍で中止されたが、毎年盛大な桜まつりが開かれている。私も義兄が当地の銀行支店に勤務中に2回訪れたが人出の多さに驚いた記憶がある。
2020.10.06
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写真は伊集院忠棟が一時居城とした「都之城」 (ネットから拝借)島津義弘没後400年に寄せて 伊集院忠棟(幸侃) 生年不詳~慶長4年(1599) 織豊時代の伊集院氏分家の当主で伊集院忠倉(ただあお)の子。若くして義久に仕え、永禄9年(1566)義久が第16代当主になると同時に老中に抜擢される。天正10年(1582)からは肥後や筑前の平定作戦に従事し。天正11年(1583)から天正12年には、肥後の阿蘇氏の討伐にも参加し実績をあげた。各地の地頭を務めたあと、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州侵攻の際には徐々に悪化する状況を見て降伏を主張した。 この年、島津軍が日向根白坂(宮崎県木城町)の戦いで豊臣秀長(秀吉の弟)に敗れると、これを契機に降伏やむなしとなったため、自ら人質となって高野山の木食上人(もくじきしょうにん)の預かり人となって京に運動して降伏に尽力する。義久とともに出家し幸侃と名乗るようになる。 これらの行動が秀吉に認められ、有力大名の力を削ぐ秀吉の方針により、多大な力を持つと、文禄4年(1595)には庄内に8万石を与えられて義久や義弘と同じくらいの大領主となった。しかし、秀吉の死後の慶長4年(1599)かねてからこれらの忠棟の行為を快く思っていなかった島津忠恒(家久)(義弘の息子であり、義久の娘婿でもあった)に茶の湯と称して伏見の屋敷に呼び出され、忠恒によって手打ちにされた。忠棟は懇意の石田三成と共謀して島津家に代わり薩摩・大隅・日向3ヵ国の守護の地位を得ようと企んだのではとも伝わっている。 父・忠棟の殺害を受けて、息子・伊集院忠真(ただざね)が庄内の乱を引き起こすのである。 参考資料 「島津一族」 川口素生著 新紀元社 「島津家 最強の真実」 KKベストセラーズ 「島津義弘の賭け」 山本博文著 中公文庫
2020.06.28
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新納旅庵の墓 鹿児島県姶良市 願成寺墓地(がんじょうじぼち) 島津義弘の足跡をたどるに掲載 島津義弘没後400年に寄せて新納旅庵 天文22年(1553)~慶長7年(1602) 名は長住、号は休閑齋。肥後八代荘厳寺の住職であったが、島津義久の命で兄が還俗するように説得するが、断り続ける。やっと説得に応じ還俗し、義久から義弘の家老として付けられて、その後、帖佐館造営の現場監督を任されている。 朝鮮での「文禄の役」や「関ヶ原合戦」で功績を上げ高原・栗野・市来の地頭職を務めた。「関ヶ原合戦」では手勢を引き連れて義弘のもとに駆けつけた。戦利あらず退却したが、途中で義弘一行とはぐれ鞍馬山に隠れているところを捕らえられ東軍の捕虜となった。この時の捕り方が旧知の山口直友であったため不思議なめぐり合わせだということで降伏したという。この山口直友は、徳川家康の旗本であり、慶長4年(1599)の庄内の乱で忠恒と伊集院忠真との関係修復に奔走した人物であり、その関係で旅庵もよく見知っていたのだ。大阪に連行され旅庵の赦免を、義弘はやむなく家康に敵対したのだと家康に嘆願してくれた。 翌年には家康の使者とともに薩摩へ赴き、以後上方との間を何度も往復して島津家の保全のために尽力した。慶長7年(1602)大阪にて50歳で死去。忠恒が上洛し、島津家が本領を安堵されたのを見届けた直後の死であった。 参考資料 「戦国武将 島津義弘 史跡ガイドブック」 姶良市教育委員会編 「島津義弘の足跡をたどる」 姶良市歴史民俗資料館編 「薩摩島津家 最強の真実」 KKベストセラーズ
2020.06.25
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長寿院盛淳墓標 岐阜県大垣市上石津町 琳光寺 (写真はネットより借用)島津義弘没後400年に寄せて 長寿院盛淳 天文17年(1548)~慶長5年9月15日(1600年10月21日) 畠山頼国の子として誕生。父・頼国が薩摩半島坊津に移り住みできた子だという。盛淳は当初大乗院で仏門に入り、大乗院盛久法印の弟子となった。その後、根来寺で8年間、高野山で3年間修行したが安養院住持になって鹿児島に戻ると、還俗し奏者に抜擢される。蒲生地頭。島津氏の九州統一で活躍をみせたが、天正14年(1586)義久の命により秀吉への使者を務めた。その後、秀吉の九州の征伐で島津氏の旗色が悪くなると和睦を主張した。天正16年(1588)頃には義久の家老となり、石田三成と連絡をとりながら豊臣政権下の大名・島津家を安定させるべく手を尽くした。 盛淳は筆頭老中であった伊集院忠棟(幸侃)とともに太閤検地に立ち会い、三成と相談しつつ家臣団の知行配分に携わった。こんため減知や所替えを命じられた多くの家臣たちの激しい敵意の矢面に立ち国人層からは怨嗟の対象となった。盛淳は穏健派で忠棟は急進派であったため、二人の関係は悪化し義久も心配するほどだった。 後に義弘の家老となるが、文禄2年(1593)には朝鮮出役の義弘から留守中の仕置について細かく指示を受けている。 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、義弘の兄・義久が中央の動きにできるだけ関与するまいという意向を示していて、義弘の元に駆けつける軍勢は少なかった。義弘の子・忠恒(家久)は岳父義久の意向に逆らうことはできず、上洛することはできなかった。そういう中でも、義弘の要請に応じて薩摩勢が三々五々到着した。9月7日の忠恒宛義弘書状によれば、前々日に薩摩から駆けつけた人数は、富隈方(義久)が45人、鹿児島方(忠恒)が22人、帖佐方を合わせて都合287人であった。義弘の家老で蒲生地頭の長寿院盛淳が蒲生衆・帖佐衆70人を率いて到着したのは、義弘が大垣にいる9月30日のことであった。 長寿院の到着を知った義弘は、陣の外まで出てきて、「長寿か、一番目に到着するのは其の方と思っていた。予想通りだ」と盛淳の手をとり、大喜びであった。(井上主膳覚書)石田三成も喜んで盛淳に軍配と団扇を贈った。(新納忠元勲功記)その厚誼に感激した盛淳は合戦当日義弘の身代わりとなって「島津兵庫頭(義弘) 死に狂いなり!」と群がる敵勢に大音声で名乗りをあげ、義弘の身代わりとなって戦死を遂げたのである。 参考資料 「島津義弘の賭け」 山本 博文著 中公文庫 「wikipedia」 「薩摩島津家 最強の真実」 KKベストセラーズ
2020.06.23
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上は島津忠長の眠るさつま町宮之城の宗功寺跡墓地(2014年2月撮影)島津義弘没後400年に寄せて 島津忠長 天文20年(1551)~慶長15年(1610) 祖父は島津忠良(日新公)で父は宮之城島津家初代・尚久。島津家15代当主・貴久は日新公の長男なので忠長の叔父にあたる。有名な義久、義弘、歳久、家久の四兄弟とは従兄弟同志。 忠長は、天正元年(1573)大隅国のでの肝属兼亮(かねあき)との戦いでは、南薩摩の兵を率いて攻めてくる敵を側面から迎撃してこれを破った。翌年の大隅牛根城攻めでも落城させた。天正11年(1583)10月、島津の分家としてはただひとり義久、義弘を補佐する老中に任じられ天正15年(1587)まで務めている。 天正14年(1586)には筑前の進出した豊後の戦国大名・大友宗麟が守る太宰府の岩屋城を陥れ、宗麟の有力武将の高橋紹運を討ち取った。しかし、このあと、大友宗麟の援軍要請に応じて九州制覇を目指した豊臣秀吉に屈した島津義久は剃髪し川内泰平寺で秀吉と和睦する。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後の慶長7年(1602)島津家の使者として徳川家康に拝謁し、関ヶ原の戦いにおいては、やむを得ず豊臣方に加担したことを強調する。忠長の言葉が効果的だったのか、家康は島津家の領地を安堵した。 参考資料 「薩摩島津家 最強の真実」 KKベストセラーズ 「島津一族 無敵を誇った南九州の雄」 川口素生 新紀元社 ほか
2020.06.19
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島津義弘没後400年に寄せて 永禄9年(1566)~文禄2年(1593) 島津本宗家に反抗し続けた薩州家最後の将・島津忠辰(ただとき)は戦国時代~安土桃山時代にかけての武将で薩州家7代(最後)当主。母は義久の長女。すなわち貴久の孫である。 父・義虎のあと薩州家の家督を継いで薩摩出水亀ヶ城を居城とし約32000石の領主となる。天正15年(1587)4月19日豊臣秀吉は肥後八代まで兵を進めていた。島津忠辰は肥後国の高田(こうだ・現在の肥後高田駅周辺)の守備を任せられたが、肥前国島原の有馬晴信の裏切りにより、27日には抵抗も見せず本領の出水に引き揚げた。5月3日豊臣秀吉は泰平寺に入り、ここで剃髪した龍伯(義久)が秀吉に拝謁し、正式に軍門に下ったのだった。ここに島津氏の九州制覇の夢は終わったのである。文禄2年(1593)朝鮮出兵の文禄の役にも従ったが、義弘の配下としての出陣に難色を示したが、やむを得ず朝鮮半島に渡った。しかし、仮病を言い立てて上陸しなかった。この行動が秀吉の怒りをかい、同年5月1日、肥後宇土城主の小西行長に身柄を預けられ幽閉された上で改易(お取り潰し)を申し渡された。忠辰の領地は豊臣直轄領とされ細川幽斎と石田三成が代官となった。その後、小西行長の陣所に預けられ朝鮮の加徳島で病死したという。 享年28歳 弟の島津忠隣(たたちか)、忠清、入来院重高(頴娃久秀)らが他家を継いだため、島津用久(もちひさ)に始まる薩州家は断絶してしまう。 系図の写真は南日本新聞から借用した 参考資料 「薩摩島津家 最強の真実」 KKベストセラーズ wikipedia 「島津忠辰」 「島津一族」 川口素生 「南日本新聞」
2020.06.11
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島津義弘没後400年に寄せて亀寿 元亀2年(1571)~寛永7年(1630) 島津義久の三女で島津久保(島津義弘の二男)の正室だったが久保が第一次朝鮮戦役(文禄の役)の途中病没したため、その弟の忠恒(家久)(義弘の三男)(島津家第18代当主で薩摩藩初代藩主)の正室となる。いずれも従弟妹同志の結婚であった。久保と亀寿、忠恒と亀寿の縁組は、義久と義弘の兄弟間での家督争いに終止符を打つためのものであったろう。久保とは仲睦まじい夫婦であったという。しかし、忠恒(家久)とは仲が悪く、二人の間に実子は生まれなかった。 のちに亀寿は天下を獲った豊臣秀吉の人質として大阪城下の島津邸に住んでいたが、関ヶ原の合戦後、義弘の大阪からの撤退に呼応し大阪から逃げ出すことができた。 なお亀寿には美貌に恵まれていなかったという説もあり、真偽不明の話が残されている。現在、鹿児島市立美術館の前庭に持明院(じみょういん)様とよばれる柔和な顔立ちの石像がある。(一番上の写真) 「じめさあ」は年に一回、亀寿の命日である10月5日に化粧直しが行われている。 下の写真は福昌寺跡墓地にある亀寿の墓標。「持明彭想庵主」とある。 参考資料 wikipedia 亀寿 「島津一族」 川口素生著 「薩摩島津家 最強の真実」 KKベストセラーズ
2020.05.22
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ブロ友・本〇どんは鹿児島県日置市の吹上町永吉地区にある「永吉南郷会」の会長を歴任されて、現在も「永吉島津家」の墓地・天昌寺などを守りながら「語り部」としてご活躍中である。(これらのことは、当ブログにも過去書いたとおりである) その永吉島津家は永吉郷(現在の日置市吹上町永吉)を領した分家で初代家久(島津四兄弟の末弟で中務大舗)、二代豊久と繋いできた。 天正7年(1579)家久は耳川の戦いで戦功があり長兄の義久から日向国守護代として佐土原城を任される。その後、家久は「釣り野伏せ」と呼ばれる高等な戦術で天正12年(1584)沖田畷の合戦で肥前の戦国大名龍造寺隆信を、その2年後の天正14年には戸次川の合戦で土佐の長宗我部信親、讃岐の十河存保を討ち取った。二代豊久も優れた武将で初陣の沖田畷の合戦以来数々の合戦に参戦した。父家久の死後は豊臣秀吉により佐渡原三万石を与えられ、その後の小田原征伐や朝鮮出兵、さらに庄内の乱にも参加した。合戦に次ぐ合戦であった豊久の最後は関ヶ原の合戦であった。「島津の退き口」と呼ばれる退却戦で叔父・義弘の身代わりとなって討ち死にしたのである。結果守られた義弘は薩摩へ帰還できた。 豊久亡き後の居城・佐渡原城は徳川幕府に没収され遺臣となった佐渡原城下士は、藩の落ち着き先として薩摩の永吉に入り、後に3代忠栄(ただひで)以降永吉島津家として認めらるのである。永吉に入る途中、宮崎県小林市の温水地区などに住み着く家臣、家族があった。この温水地区には約120家族が「永吉島津家飛び地」として400年近く居住し、後に佐土原にもあった「提村」と称して「提共志会」が組織され小学校なども設立され、幾多の人材も輩出した。 下の石碑は明治32年に関ヶ原合戦300年を記念して地元の提村の方々によって建立されたものだ。 今回、昨年の島津義弘没後400年であったこともあり、上記 永吉南郷会の本〇どんが中心となり、「小林提地区との所縁(ゆかり)」を永く地区民の方々の記憶に留めていただくため、小林市と交渉、小林市もこれを快く受け入れられて、案内板の設置に至ったとのことである。歴史ファンとして大変嬉しいことである。小林市と永吉南郷会の永遠の絆を願う。 参考資料 「鹿児島古寺巡礼」 川田達也著 上記案内版など 3枚の写真は本〇どんよりいただいたものです。
2020.05.19
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島津義久没後400年に寄せて 猛将・義弘と苦楽をともにした妻・宰相殿(さいしょうどの) 生年不詳~慶長12年(1607)実窓婦人とも呼ばれる。園田清左衛門の娘で、広瀬助宗の養女、島津義弘の正室。島津久保、島津忠恒(家久)(薩摩守)らの生母。但し、最初の妻は北郷忠孝の娘、その後、人吉(球磨)の相良氏の娘が継室・亀徳となる。 宰相殿と呼ばれたのは、夫の義弘が参議などの官職に補任されて、参議の唐名(中国名)を宰相ということから周囲に宰相殿と呼ばれたのではないかと言われている。永禄7年(1564)、北原氏を滅ぼし日向真幸(宮崎市えびの市)の領主となった義弘は、飯野城や加久藤城(二つともえびの市)などの築城、修復を行った。そして宰相殿を加久藤城に住まわせた。天文元年(1573)にここで二男・久保(文禄の役に出征し韓国唐島で病死)天正4年(1576)三男・忠恒(18代当主、のち家久で初代藩主)などが誕生した。 加久藤城が元亀3年(1572)に島津氏の宿敵・伊東方からの攻撃を受ける。当時飯野城を守る義弘にはわずか300人の手勢しかなく、加久藤城も50人余り。眼前の伊東氏の軍勢3000人が迫り苦しい戦いとなった。勢力を広げていた伊東し当主・義佑はこの機を逃さず相良氏とも結び、真幸領内の3000人が押し寄せた。木崎原合戦の始まりだった。この戦いで島津軍の奮闘で伊東軍は川内川と池島川に挟まれた近くの木崎原(えびの市池島)まで退いた。この戦いで戦上手の義弘は敵将・伊東新次郎を討ち取るなど、相手は総崩れとなった。宰相殿は天正18年(1590)まで加久藤城に住んで、久保や忠恒(家久)などを育てた。 宰相殿は義弘との夫婦仲がよく、二人の間では義弘朝鮮への出征時にも手紙が交わされていて、お互いの愛情の深さを窺うことができる。 関ヶ原の戦いで諸々のいきさつがあって豊臣側についた義弘軍だったが、時に利あらず敗走することになった義弘に大きな課題が残されていた。息子である忠恒(家久)の妻で兄・義久の娘である亀寿が大阪城に人質として残されていたので、それを救出し薩摩に連れ帰ることが、忠恒に家督を継がせる絶対条件と考えていたのだ。人質は亀寿だけではなかった。義弘夫人・宰相殿、義弘の甥・豊久の姉らもそうだった。幸いにして知恵を絞った末に幾多の苦難を乗り越えて薩摩に帰りつくことができた。 そんな宰相殿は、慶長12年(1607)義弘より先に病没したというが、義弘は芳真軒という寺院を建てて菩提を弔った。遺骸は妙円寺(鹿児島県日置市伊集院)に埋葬されたが、明治維新後に島津家の菩提寺 福昌寺跡に埋葬された。 参考資料 「島津義弘公の概要」 加治木郷土館編集 「戦国武将 島津義弘 史跡ガイドブック」 姶良市教育委員会 「島津義弘 没後400年」 南日本新聞連載記事から 「島津一族 無敵を誇った南九州の雄」 川口 素生 著
2020.05.10
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島津忠恒(のち家久)第18代島津家当主にして初代薩摩藩藩主・薩摩守 天正4年(1576)~寛永15年(1638) 忠恒は島津義弘の三男として誕生する。長男は夭折し、次男・久保が豊臣秀吉の九州征討後に後継者に決定していた。しか、その久保が文禄元年(1592)の朝鮮での「文禄の役」に出陣し、21歳の若さで朝鮮で病没する。そこで次期後継者に躍り出たのが三男・忠恒である。ところがその忠恒はそれまでの忠恒は酒食と蹴鞠に溺れ、放蕩三昧の生活をおくっていたといわれる。そのことで父・義弘からも厳しく叱責されていたような状態だった。そのようなことで、久保の死後の島津本宗家の後継者をめぐる地位は微妙であった。 久保の義父で島津本宗家第16代・義久には男子はなく三女があり、長女の婿は薩州家島津義虎(忠辰の父)、次女の婿は島津彰久(垂水島津家以久の長男)、三女亀寿(持明院様)の婿が久保だった。亀寿と久保は仲睦まじい夫婦だっという。そういう中での久保の死は義久にとっても大きな痛手となったが、久保の弟で義久の同じく甥に当たる忠恒(家久)を世子に迎えた。亀寿は輿入れしたものの夫婦仲は悪く忠恒との間に子供は生まれなかった。舅の義久は自分の血統を持つ孫を設けられない忠恒に不満であった。義久には娘の於平(御平)の息子・忠辰(ただとき)(弟は忠清)がおり、新城には島津忠仍(ただなお)などの外孫がいた。義久はこれら外孫を自身、又は亀寿、忠棟夫妻の養子に迎えて、家督を譲ることも考えていたという。迷った挙句、鹿児島神宮で籤を引いて、やっと忠棟に家督を譲ったという。 家督を譲られた忠恒はそのような事情で子供は無く、次の家督相続人をどうしようかと考えた。というのも、島津一族は他の大名たちと違って側室を持って子女をもうけるようなことがなかった。わずかに日新斎忠良(じっしんさいただよし)(義弘の祖父)だけが例外で薩州家重久の娘(御東)を正室に迎え、2男3女を得たほか一人の側室上木貞時の娘(大仁、桑御前?)が1男1女を生んでいる。側室は一人だったと思われる。もちろん側室を亡くし後室を迎えた例は多い。 忠恒はこのままでは亀寿との間に子供をもうけることは出来ず、かと言って義久の娘を差し置いて島津家の慣習となっている一夫一婦制に縛られて側室を置くこともできない。そこで後継家督を誰に継がせるか忠恒は考えた。解決策とし考えたのは外部の権威をもって島津家の不文律を突破することだった。 慶長15年(1610)忠恒改め家久は駿府で大御所徳川家康と対面した。そこで意外な申し出をする。将軍秀忠の二男国松(のち駿河大納言忠長)を養子にもらい受けたいというのである。家康は国松が将軍家の跡取りの一人だからと、当然のことながら拒否したが、「家久はまだ若いのだから、側室を置けばよいではないか」と諭したという。家久はその言葉を待っていたのである。つまり、家康のお墨付きにより義久ー亀寿親子の壁を突破することを狙ったのであった。もし、家久が大義名分もなく側室を置き、その間に男子が誕生すれば、義久や亀寿は怒るだろうが、徳川将軍家がそれを認めていれば問題なかろうと考えてのことだった。家久の涙ぐましい苦労が伺える。 家康のお墨付きにより、家久が選んだ側室が亀寿の長姉於平の孫にあたる娘(慶安夫人)だった。亀寿も慶安夫人と対面して、その美貌に大層喜び話は順調に進んだ。亀寿は彼女が家久との間に男子を生めば、自分の養子として家督に立てると大きな譲歩をした。というのも、慶安夫人は女系ではあるが、義久の曽孫にあたる。彼女が生んだ男子が次の家督になれば、義久の血統が続くことになるからだった。ほどなく彼女が生んだ虎寿丸が後の第二代薩摩藩主・光久である。このようにして、家久の家督継承問題は決着がつけられたのである。 参考資料 「島津義弘の賭け」 山本 博文 著 「島津一族」 川口 素生 著 「薩摩島津家 最強の真実」 桐野 作人 他
2020.04.27
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島津義弘没後400年 島津義弘に連なる人脈 その7島津忠恒(のちの家久)天正4年(1576)~寛永15年(1638) 島津家第18代当主 薩摩藩初代藩主 薩摩守 島津義弘の三男 先代義久の甥で娘婿 島津義弘には3人の男の子がいた。天正15年の豊臣秀吉の九州征討の戦いに破れた島津氏だったが、薩摩を安堵された島津家は、秀吉により後継に次男の久保が決められた。久保は義弘率いる第一次朝鮮出兵(文禄の役)に文禄元年(1592)出陣するが、翌年、唐島(巨済島)において21歳で病没する。ここから三男の忠恒が後継候補として躍り出る。そして忠恒が世子と定められ亀寿(義久の三女で兄・久保の未亡人)を正室として迎える。しかし、亀寿は5歳年上の姉さん女房で最初から夫婦仲は折り合いが悪く、子供ができなかった。そこで、忠恒が考えついた奇策によって舅の義久と夫人の亀寿にも納得のいく家督継承者を得ることになるが、このことについて作家桐野作人氏が書かれた一文があるので、日を改めて書く事にしたい。 忠恒は第二次朝鮮出兵の慶長の役に父義弘と出陣し、大きな軍功を挙げて島津家の後継者にふさわしい人物に成長していく。この当時、義久の家老・伊集院忠棟(幸侃)が秀吉より5万9千石の加増があり8万石の知行を保持することで自立を企てる運動を重ねていた。これを日頃よりよく思っていなかった忠恒は慶長4年(1599)伏見の島津邸において忠棟を殺害する。 この忠恒の仕打ちに反発した国元の忠棟の子息・忠真が島津氏に対して挙兵した。世にいう「庄内の乱」である。忠恒は本国に帰り、抵抗激しい伊集院忠真の征伐に乗り出した。翌年3月、忠真は徳川家康の仲介を受け入れ島津氏に降伏し落着する。 慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の戦いでは、義弘がいろいろないきさつがあり、西軍に参加するが結果は敗北に終わった。原因は義弘の再三の要請にも関わらず国元の義久も忠恒も援軍を出すことはなかったからである。 天下を獲った徳川家康は、徳川方の諸将を薩摩へ差し向けようとしたが、忠恒や重臣の交渉が実を結び、出兵は回避された。そいう中、慶長7年(1602)8月義久の反対を押し切り忠恒が上洛し、12月に家康に拝謁する。その結果、忠恒は薩摩、大隅の両国と日向の一部を安堵され薩摩藩初代藩主となり、慶長11年から家久を名乗る。 慶長14年(1609)には、江戸幕府の内諾を得て琉球王国に出兵し、貿易を行った。一方で鹿児島城(鶴丸城)を造り城下町の整備などに力を注いだ。その後、鹿児島城は明治維新まで島津氏の居城となった。 鹿児島市の福昌寺跡墓地にある第18代当主・島津家久の墓標 参考資料 「歴史人 薩摩島津家最強の真実」 「島津義弘の賭け」 他
2020.04.22
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島津義弘没後400年 島津義弘に連なる人脈 その6島津豊久 元亀元年(1570)~慶長5年(1600)島津四兄弟の末弟・家久の子として誕生。母は樺山善久の娘。天正12年(1584)島津氏が佐賀の猛将・龍造寺隆信氏軍と交戦したが、この時、豊久は初陣を飾る。ときに14歳だった。この戦いは「沖田畷の戦い」とよばれているが、島津家久軍は6千人の少数兵力にも拘らず「釣り野伏せ戦法」を駆使して勝利した。その後も大分の「戸次川の戦い」、太宰府北の「岩屋城の戦い」などでは義弘、義久などが勝利し、島津家の九州制覇が近いところまで到達した。 しかし、好事魔多しというか、島津軍征伐のため、25万人ともいわれる豊臣秀吉指揮する豊臣連合軍が九州に入ってきて、ゆいに当主・島津義久がその軍門に下る。しかし、不幸は続くもので天正15年(1587)豊久の父・家久が謎の急死を遂げる。そこで豊久が家督を継承し、日向・佐土原城の城主となる。 その後、秀吉に従って叔父・義弘とともに文禄・慶長の役にも出陣し、文禄の役では春川城(チュンチョン)を守り、わずか500人の兵力で敵の大軍を撃退したりの大活躍をみせた。 慶長4年(1599)豊久の従兄弟にあたる忠恒(義弘の子で後の初代薩摩藩主・家久)が伏見の島津邸において、重臣の伊集院忠棟を殺害するという事件が勃発する。それに怒った忠棟の嫡男・忠真(ただざね)は父の敵を討つべく島津本宗家に反旗を翻す。このとき豊久は出陣し、伊集院方の山田城を攻め落とすなど活躍した。一連の戦いにおいて忠真は降伏に追い込まれる。いずれ詳細は書く事にするが、最後は忠真も非業の死を遂げる。 翌年の「関ヶ原合戦」では島津本宗家の援軍の少ない中、叔父・義弘とともに出陣し、最終的に西軍につき、徳川家康率いる東軍と戦う。しかし、戦局利あらず、世に「島津の退き口」と言われる戦いで叔父・義弘を薩摩に帰すために、敵と戦って、自分は討たれてしまうのである。 佐土原城主・島津豊久の死去に伴い、徳川幕府は移封措置として日向・佐土原から薩摩の永吉に撮されて子孫は現在の日置市吹上町永吉に永吉島津家を創設する。初代・家久、2代・豊久に続き3代・忠栄となり、家系は連綿と現在の19代まで続いている。現在東京在住と聞く。 歴代の墓地は日向・佐土原の天昌寺跡と日置市の永吉の天昌寺跡墓地の2ヶ所にある。永吉の天昌寺跡墓地は近くの梅天寺跡墓地などと共に地元の「永吉南郷会」が守っておられる。いつ行っても、きれいに手入れされており、頭の下がる思いである。 永吉南郷会の前会長で現在、顧問の本田哲郎さんによれば、人気漫画「ドリフターズ」などの影響もあってか戦国ブームに乗り、この数年全国から歴女を中心に永吉の天昌寺跡墓地を訪れる人が多いそうだ。なんとも嬉しい話である。 参考資料 「歴史人 薩摩島津家 最強の真実」 伊敷歴史研究会講座 「戦国武将・島津豊久の生涯について」資料 講師 本田哲郎氏 下は永吉の天昌寺跡墓地にある島津豊久公の墓碑の写真
2020.02.13
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島津義弘没後400年 島津義弘に連なる人脈 その5 ここに取り上げる家久は永吉島津氏の始祖であり、当ブログにも永吉の天昌寺跡墓地訪問記事など数度にわたり取り上げてきた。上の写真はその永吉の梅天寺跡墓地にある島津家久の墓標である。 天文16年(1547)~天正15年(1587)家久(中務大舗)は島津貴久の4男として誕生した。第18代島津氏当主も忠恒の後、徳川家康から「家」の一字ををもらって「家久」を名乗るが、ここで取り上げる「家久」は義久、義弘、歳久の末弟であり、この家久の叔父になる。 この島津四兄弟とよばれている上から義久、義弘、歳久の母親は入来院重聡(しげさと)娘・雪窓であるが、末弟・家久は本田親康の娘である。元亀元年(1570)島津氏の入来院氏の攻略の成功により、家久は入来院氏の隈城を与えられる。同時に串木野にも入部している。 天正3年(1575)家久28歳の時、伊勢参宮のため上洛している。目的は薩摩、大隅、日向の平定を祈願するものだった。その道中日記が「中務大舗家久公御上京日記」として残されている。村井祐樹の現代文風をネットで読むことができる。日記を読むと天正3年2月7日、串木野を出発し、同年7月20日、串木野に帰着している。私が読む中で驚いたのは織田信長と遭遇する場面である。 「紹巴(里村)へ立入り候、やかて心前(里村)の亭をかされ宿と定候、さて織田の上聡(信長)殿、おさか(大阪)の陣をひかせられ候を心前同心二て見物、・・・」とある。家久は織田信長と同じ時代に生きたのだということを知ることができて、感無量である。この他にも、旅の途中の様子が書かれていていろいろな人々との交流が面白い。ご馳走の差し入れも多く、酒も嗜んでいる。旅行記としても当時のことを知ることができて大変面白い。 その後、家久は兄の義久に従い、日向の伊東氏、豊後の大友氏、肥前の龍造寺氏と戦う。天正6年(1578)耳川の戦いで、大友氏を打ち破ると恩賞として佐土原を与えられる。続く天正12年(1584)の沖田畷の戦いで家久は龍造寺隆信を討ち取るのにも貢献した。 しかし、九州統一を目ざした島津氏に勢いがあったのもここまで。天正15年、豊臣秀吉の九州征伐が行われると、たちまちのうちに敗北する。家久は豊臣の秀吉の弟・秀長といち早く和睦して事なきを得る。ただ、秀長の陣所での宴の後、家久は激しい腹痛を訴え、その夜以降、嘔吐と腹痛が続き、遂に翌6月5日急死する。原因は未だに謎に包まれたままだが、「食中毒による死亡説」「病死説」「豊臣による毒殺説」「島津側からの毒殺説」「不明説」などいろいろある。 参考資料 「薩摩島津家 最強の真実」 「島津四兄弟の末弟 島津家久の実像に迫る!!」 鹿児島市「伊敷歴史研究会」主催の講座 講師 本田哲郎氏(永吉南郷会顧問) 2020年2月には、家久の嫡男・島津豊久に関する講座が同じ本田哲郎氏で開催予定である。
2019.12.27
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「島津義弘没後400年」に因む島津義弘の人脈(4) 島津歳久天文6年(1537)歳久は島津本宗家第15代当主・貴久の三男として伊作で誕生した。母は義久・義弘と同じ雪窓夫人。仮名は又六郎、後年左衛門督を名乗り、唐名「金吾」と呼ばれる。その生涯は波乱にとんだもので、最後は豊臣秀吉に狙われて無念の死を遂げる悲劇の人だったと言える。 天文23年(1554) 貴久が岩剣城を攻めるが、兄たちと共にこのとき歳久も初陣を飾る。(18歳)その後、弘治3年(1557)の蒲生城落城までの大隅合戦では、兄義弘とともに猛将ぶりを発揮する。永禄9年(1566) 島津氏は渋谷一族の本拠地である祁答院地方を平定するが、後にこの祁答院を歳久が治めることになる。天正8年(1580)には祁答院地方に1万8千石が加増されて、宮之城の虎居城を本拠に定める。 その後、九州制覇を目指した島津氏だったが、豊後の大友宗麟が豊臣秀吉に頼ったことから、秀吉は停船命令を出す。しかし、島津氏は秀吉の出自を嘲笑う気持ちもあって、それを拒否する。ただ、天下の情勢は秀吉に大きく傾き、島津氏はその軍門に降る。義久は出家し、龍伯と号し秀吉と薩摩川内で面会し、許しを乞うた。しかし、歳久はその軍門に降るという時期にあらずといい、徹底抗戦を訴えた。あまつさえ秀吉が川内から大口に陣を移す途中、祁答院の西端、山崎を宿所にしたとき、秀吉の駕籠に弓矢を射かけたという。 文禄元年(1592)に文禄の役が勃発すると、歳久は中風(脳卒中の後遺症)により出陣できなかった。一説では歳久は酒好きで、それが中風の原因であったとも言われている。ここで、もう一つ歳久に不幸なことが起こった。同じ年、島津氏の家臣・梅北国兼が一揆を起こしたのだ(梅北一揆)。国兼は朝鮮出兵への不満から肥後・佐敷を突如占拠し、一揆を呼びかけたのだ。国兼には、歳久の配下が多数味方したと言われており、秀吉は歳久に嫌疑をかけたのだ。秀吉の不興をかった歳久は兄の義久から追討されることになった。攻撃を受けた受けた自害しようとするが、中風により、それも叶わず、結局、平松まで追われたのち、自刃。ときに56歳であった。現在そこには歳久を祀る「平松神社」になっている。 島津歳久は「金吾さあ~」(金吾様)と呼ばれ、薩摩宮之城主であった。現在は、さつま町となっているが、ここさつま町中津川にある大石神社に祀られている。ここには「金吾様踊り」も伝わっている。 歳久の法名は「心岳良空大禅伯」 墓所は心岳寺(平松神社)など数カ所にあると言われるが、下の写真は鹿児島市の福昌寺跡墓地にある墓標。心岳という文字を見ることができる。義久や義弘などの墓標の一角にある。 歳久は日置島津家の始祖であり、日置市日吉日置に「大乗寺跡墓地」にも墓標がある。 参考資料 山本博文著 「島津義弘の賭け」 新名一仁 「島津四兄弟の九州統一戦」 KKベストセラー 「薩摩島津家 最強の真実」 wikipedia
2019.12.16
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「島津義弘没後400年」に因む島津義弘に連なる人脈のその3 島津義久 島津義久は第16代島津家当主 祖父は島津忠良(日新齊)父は第15代当主・貴久言わずもがなの島津四兄弟の長兄。義弘、歳久、家久(中務大輔)の弟がいる。天文2年(1533)義久は貴久の嫡男として薩摩国伊作(日置市吹上町)に誕生した。永禄9年(1566)父・貴久から家督を譲られて、守護職を継承した。 しかし、薩摩を取り巻く情勢には厳しいものがあった。引き続き父・貴久に従い薩摩や大隅の敵対勢力の討伐のために戦う。元亀2年(1571)父・貴久が亡くなると弟の義弘、歳久、家久の協力を受けて三州統一に向かう。永禄末年頃から薩摩北部の菱刈氏が肥後の相良氏と結んだためこれと戦って撃ち破り薩摩国を掌握する。天正2年(1574)には、大隅の伊地知氏、肝付氏を破り、薩摩・大隅を完全に支配下に収める。天正5年になると、日向の伊東氏を下し父・貴久の悲願だった三州(薩摩、大隅、日向)の統一を果たす。 しかし、そこからまた苦難が始まった。翌天正6年豊後の大友宗麟が大軍を率いて日向国に攻め込んできたのだ。義久は高城川を挟んで「釣り野伏」という敵を挟み込む作戦で大友軍を撃破する。世に「耳川の戦い」と呼ばれるこの戦いで大友氏の力は衰えるが、今度は肥前の龍造寺氏が台頭してくる。これを天正12年の沖田畷(おきたなわて)の戦いで龍造寺隆信を討ち取り勝利する。すると、肥後や筑前などの大名たちが島津になびき始めた。 苦境にあった豊後の大友宗麟が豊臣秀吉に救援を求めることで島津氏を追い込もうとしたが、秀吉は両者に、戦いを禁止する。しかし、島津義久はこれに従おうとしなかったため、秀吉が島津氏の討伐に乗り出すことになり、九州に兵を進める。天正14年(1586)12月12日「戸次川の戦い」(へつぎがわのたたかい)が始まった。そこには土佐から長宗我部元親・信親親子、讃岐から仙石秀久、十河存保ら四国連合軍6000人が到着。大友義統の軍約1万人と合流し、戸次川で激突した。しかしながら、この戦いは四国軍の士気がなく、島津軍の圧勝に終わる。そして大友氏の命脈は尽きたと思われたが、天正15年1月、秀吉は九州征伐の大動員を発し、弟・秀長の軍勢が、先発していた宇喜多秀家らと合流し10万の軍勢を作り上げる。ここにきて肥前の龍造寺政家と鍋島直茂も天下の情勢を見たのか秀吉側につく。ついに同年4月17日の「根白坂の戦い」で島津氏は敗勢に追い込まれる。そして重臣の伊集院忠棟を人質として差し出し、屈服する。5月6日、義久は剃髪し、劉伯と号して5月8日、薩摩川内の泰平寺で秀吉に会い降参する。 これ以降、義久は秀吉に従い、男の子がいなかったので、義弘の嫡男・久保を後継者にするように命じられる。文禄元年(1592)に朝鮮の役・文禄の役が勃発するも、義久は病気を理由に出陣せず、弟・義弘が出陣する。同年には部下が引き起こした梅北一揆が起こり、鎮圧にも苦労する。そして弟の歳久が秀吉に反抗的だったことなどが尾を引き、いろいろな理由をつけられ、ついには歳久が殺害されるなど苦境に陥った。四兄弟の長兄として島津氏を守る立場であったが故にか、何故か義弘の朝鮮の役参陣に際しても、またこのあとの天下分け目の「関ヶ原の戦い」に際しても、義弘からの人的、物的援助要請にもほとんど無視する態度を貫いた。藩がそれまでの戦いや藩内の争乱などで財政的にも疲弊していたからだという説もある。その関ヶ原の戦いのあと、幸いにも徳川家康から本領を安堵されて明治維新まで命脈を保つのである。 晩年の義久は隼人の富隈城に移り、茶道に打ち込んだという。慶長16年没。 前記、義久の後継者として義弘の嫡男・久保が指名されたと書いたが、その久保は、朝鮮の役の最中、現地で病没する。そこでその弟・忠恒(のちの薩摩の守・家久)が跡を継ぐことになり、妻として久保の妻(義久の娘・亀寿)を娶る。つまり義久は後の守護・第18代当主・島津家久の姑となるのである。(こうして書いてみても、ほんの部分部分しか書けていないが、今回はこのあたりで・・・) 福昌寺跡墓地の島津義久の墓標 参考文献 川口素生著 「島津一族」 新名一仁編 「島津四兄弟の九州統一戦」 歴史人 「薩摩島津家 最強の真実」 他
2019.11.26
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最高の秋晴れに恵まれた11月16日、鹿児島市から車で50分の姶良市まで高校の同期生4人で出かけた。出迎えてくれたのも同期のNくん。Nくんは昨年の春、同じメンバーを白銀坂など姶良周辺の史跡を一日中案内してくれた仲。(当ブログに数回にわたり取り上げた)今回も昨年同様落ち合った場所でNくんの車に全員乗り換えてまず腹ごしらえのため、食事どころを訪ねるが、ちょうど昼時で大変な混雑。場所を変えてやっと焼肉屋へ。全員「石釜ビビンバ」を腹におさめて講演会会場へ。 さて、本題は写真に見るように「姶良市歴史民俗資料館特別展記念講演会」”関ヶ原合戦と島津義弘”講師は、東京大学史料編纂所教授・山本博文先生。その著書「島津義弘の賭け」は私も読んでいる。 講演はスライドを使いながら文字通り関ヶ原合戦のきっかけから、義弘が妻らを連れ、鹿児島に向かうまでを質問時間を入れてたっぷり2時間の話であった。この詳細は、当ブログで「島津義弘」について書く予定なので、その時に講演内容も織り込む心づもりである。 講演のあと、講演会場に隣接する本日の講演主催者の「姶良市歴史民俗資料館」に向かう。ここでは「島津義弘公没後四百年記念特別展」 ~乱世を駆け抜けた英雄~ が開催されている。誕生・初陣 岩剣城の戦いと平松城・九州の桶狭間 木崎原合戦・豊臣秀吉の九州平定・文禄、慶長の役での活躍・関ヶ原合戦と島津の退き口・茶人 義弘公・加治木と義弘公・姶良市と義弘公 というカテゴリで展示物がある。 虎の頭骨 朝鮮での虎刈りに於ける軍功により賜ったとされる。個人蔵 義弘公の馬印(うまじるし) 複製品
2019.11.17
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「島津義弘没後400年」に因む義弘に連なる人脈の第2回目「島津貴久」 島津家第15代当主。島津四兄弟(義久・義弘、歳久・家久)の父親。 永生11年(1514)忠良(のちの日新公)の子として誕生。大永6年(1526)第14代当主・島津勝久の要請により(他の説もある)養子となる。そして翌年、貴久は正式に家督を継承する。しかし、勝久の妻の弟・薩州家の実久がこれを認めず、争いとなる。実久との戦いで忠良・貴久は苦戦し、実久軍の侵攻を阻止できず、清水城(鹿児島市)を脱出する。その結果、大永7年5月、勝久は貴久との養子縁組と守護職を解消する。ところが、家臣らは実久を当主にする動きを見せ、天文4年(1535)にクーデターを決行する。勝久は追放され、実久が新たな当主につく。(島津家政党系図などにはその記載はない) 窮地に陥った、勝久は再び忠良・貴久親子に接近し、協力して実久を討とうと結託する。ここから、忠良・貴久親子の反撃が始まる。天文5年(1556)忠良・貴久親子は伊作城から出て一宇治城(日置市伊集院町)を攻め落とすと、翌年には鹿児島へ入った。 続いて天文7年から翌年にかけて、薩州家島津実久の拠点である別府城(加世田城)を攻め落とす。そして、両者は紫原で戦って忠良・貴久親子が勝利を得るのである。その結果、実久は凋落し、勝久は守護復帰ならず母方の実家の大友氏を頼り豊後国へ逃れた。これにより忠良・貴久親子はいわばクーデターの形で有力な一族を排し、権力基盤を確立した。しかし、家臣や国人衆の中には貴久を支持しない勢力もあった。 天文14年、朝廷からの使者でようやく貴久の守護の地位が認められた。その2年後、本拠地を伊集院から鹿児島の内城に移して名実ともに第15代当主となる。この時点でも領土権の及ばなかった大隅には天文23年になって侵攻し、岩剣城の戦いで抵抗勢力を屈服させることに成功する。なお、貴久は南蛮貿易に積極的に取り組んだ。天文18年にフランシスコ・ザビエルが上陸し、貴久と一宇治城で会見している。貴久は一定の理解は示すものの、布教は許さなかった。永禄9年(1566)家督を嫡子・義久に譲るが以後も弟の島津忠将や子の義久らを動員し、弘治3年(1557)から元亀元年(1570)にかけて、大隅の蒲生氏、薩摩の菱刈氏や入来院などを屈服させた。戦国大名として島津家の基礎を築いたのは、まさにこの貴久だったといってもいいのでないか。 鹿児島市の福昌寺跡の島津家墓地の島津貴久の墓標。黄味がかった山川石でつくられている。 参考文献 「歴史人 薩摩島津家 最強の真実」 桐野作人 「島津義久」 川口素生 「島津一族 無敵を誇った南九州の雄」 その他
2019.11.08
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当ブログでも数回取り上げてきたように今年は「島津義弘没後400年」ということで、鹿児島では地元新聞がそれを取り上げ一年を通じて連載記事として紙面を賑わせている。そればかりでなく、鹿児島市をはじめ、義弘ゆかりの地で講演会や史跡を訪ねるウオーキングなどさまざまな催しが行われている。そこで、島津義弘につながる人脈を何回かにわたって取り上げてみたい。連続しては取り上げないが、他の記事も織り交ぜながら書いてみたい。 第一回は「島津忠良(日新齊)」 その息子・貴久とともに島津家中興の祖と呼ばれる。義弘は、忠良の孫である。関連部分の家系図は下のとおりである。 島津忠良は明応元年(1492)伊作家の喜久の子として誕生した。伊作家の祖を遡れば島津家3代当主・久経の子・久長である。伊作と言うのは地名で鹿児島県日置市にある。明応3年に父・喜久が下男によって殺害されると、一時的には母の常磐が家督を守った。忠良が元服し家督を継いだのは、永正3年(1506)である。それより前、文亀元年(1501)母が相州家の島津運久(ゆきひさ)と再婚する。相州家は島津家第9代当主・忠国の子・友久を祖とする島津一族である。そのとき、母・常磐は相州家の家督を忠良に譲ることを条件にした。永正9年、運久は引退し、忠良は相模守を名乗る。これにより忠良は本領の伊作を中心に田布施、高橋、阿多など薩摩半島中心部に拠点を築く。こうして着々と地保を築き、当時 力を持っていた薩州家・島津実久に対抗する力を持ち始める。この頃、領国は第14代島津勝久が担っていたが、勝久の妻の弟であった実久が家督を譲るよう求めるなど、苦しい立場にあった。そういう中、相州家と比べると薩州家が優勢であったが、御一家筆頭の地位にあった島津相州家運久・忠良親子は大永6年(1526)島津本宗家第14代当主である奥州家島津勝久に、忠良の嫡男・貴久を養嗣子とすることを認めさせ、翌大永7年に家督継承を実現する。これを「事実上のクーデターであった」と新名一仁氏は言っている。貴久が養嗣子になった段階で忠良は出家して日新齊(じっしんさい)と号している。 それでも実久は貴久はを養嗣子とすることを認めず、二人は家督をめぐって争うことになった。忠良は子息の貴久を支援し、長きに渡って戦い続ける。一旦は忠良・貴久親子に不利なこともあったが、天文8年(1539)の紫原の戦いで実久を破り薩摩郊外に追放した。これにより薩摩・大隅・日向に磐石な体制を築き上げるのである。その間、25年の歳月が流れていた。 下の写真は日置市吹上町中原にある伊作亀丸城趾 島津忠良(日新公)の誕生石 日新公(島津忠良)が祭神の南さつま市にあり「竹田神社」 島津忠良は文化にも造詣が深く、神儒仏の合一、四書五経と朱子学を推奨し、自らが作った「いろは歌」は薩摩藩士にとって必須の教養とされた。これが、のちの薩摩藩士の郷中教育(ごちゅうきょういく)につながったとされる。 竹田神社の境内奥深く「いろは歌」の碑が一首づつ建てられている。その数47首。 島津日新公の墓標 永禄11年(1568)77歳で没す 「いろは歌」碑の更に奥にある。 参考資料 「歴史人 薩摩島津家 最強の真実」 日本史料研究会監修 新名一仁編 「中世島津氏研究の最前線」 他
2019.11.05
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今、鹿児島は昨年の「西郷どん」程はないとしても、「島津義弘没後400年」のさまざまな催し物でいっぱいである。 その一つ「戦国島津 島津義弘没後400年記念展」を鹿児島県歴史センター 黎明館に昨日11月1日に見に行った。実はこれで私にとっては、2回目の見学である。1回目は10月16日、高校時代の友人で歴史好きのメンバーで行ったのだ。もちろんその日もかなりな時間をかけて見たのだが、今回、妻が招待券を2枚友人からいただいたという。私とすれば、10月16日には後半疲れきってしまって、よく見ていないスペースもあったので、渡りに船でもう一回見学することにしたのだった。 第1章 戦国島津氏の系譜 第2章 三州統一と北部九州への進出 第3章 豊臣政権と島津氏 第4章 関ヶ原合戦と島津の退き口 第5章 戦国島津氏と現在の私たち 実際に見始めると、第1章から初めて見るようなことが次々の出現した。1回目に見たことの記憶が飛んでしまったのか、それとも見過ごしてしまっていたのか、今となっては忘却の彼方だが、いずれにしても収穫の多い、2日目の見学だった。その成果? は当ブログに反映するようにしたい。 なお、チラシの予告によると11月19日より来年1月9日まで次の黎明館企画展「戦国を駆けた島津四兄弟と家臣団」があるそうだ。これも楽しみに待ちたい。
2019.11.02
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10月14日(月)「島津4兄弟の末弟 島津家久の実像に迫る!!」の講演会が開催された。場所は鹿児島市伊敷公民館で主催は「伊敷歴史研究会」。 日頃から、毎月講座開催など活発に動いておられる。今回の講師は永吉島津家発祥の地・日置市吹上町永吉の「永吉南郷会」前会長で現在顧問で「語り部」としてご活躍中の 本田哲郎氏。 1、島津本宗家と永吉島津家の歴史概説 2、島津家久の生涯 3、島津家久の戦いの数々 4、関連事項のまとめ 島津家久は上の写真の系図にもあるように、祖父を忠良(日新)、父を貴久とする島津4兄弟の末弟で兄の義久、義弘、歳久がいる。その辺りのことについては、以前書いたブログ2016年4月4日「日置市吹上町永吉の梅天寺跡を訪ねる」をクリックいただければ。ご覧になれます。 本田氏の講演は上記項目を更に細かく分けて史料も13ページのものにわたる詳細なものだった。当ブログでは、今回本田氏が講演のメインと言われていた家久の謎の死についての部分を書いてみる。 山本博文著「島津義弘の賭け」に当時の情勢を次のように書いてある。島津兄弟が九州制覇を目前にしていた天正15年(1587)正月元日、大阪城の秀吉は、四国攻めに引きつづいて決定された九州遠征の部署を定め、正月25日より宇喜多秀家一万五千人以下総勢二十五万人を順次出発させていた。(引用ここまで) 迎え討つ島津軍の兵力は2万人から5万人である。両軍最後の戦いとなった天正15年(1587)4月17日の根白坂の戦いにおいては、豊臣秀吉軍15万人、島津義久軍3万5千人という戦いで、島津軍は秀吉軍の軍門に下るのである。 ここからは、本田氏の講演の概要である。島津家久は最後の根白坂の戦いに島津軍が敗退して、幾多の戦いから解放された。そして久しぶりに佐土原に帰って、安息のときを迎えていた。豊臣側からの指示・説得により、今までの領地・民の安堵、自身の上洛、それなりの扶持を受けること、さらに今後は豊臣の指示による扱い(豊臣大名)を承認することなどの条件を自分自身の判断で行い、豊臣側に恭順を示した。佐土原に来ていた秀長(秀吉の弟)もこれを良とし、秀吉の了解の上で夕食会が開かれた。家久が恭順を示したことで、秀長に付いて上洛することは、豊臣側から見れば家久を歓迎する意味での夕食会であった。 その夕食会が終わって、家久は激しい腹痛を覚え、嘔吐と腹痛が続いた揚げ句翌日の天正15年6月5日急死してしまう。これまで歴戦の士であり、強健な家久の急死に息子の豊久はじめ周囲から急死に対して疑念が沸き起こった。島津3兄弟などにもすぐに知らされたが義弘からは豊久宛の手紙が届き「今は島津の中で騒ぐ時ではない、冷静に対処して病死として扱いなさい」との叔父としての忠告が書かれていた。豊久はこれに従い領内でもそのように正式に発表した。 死因については、現在でも歴史学者、小説家、歴史愛好家などの間でさまざまな見方がある。しかし、「家久の死」についての定説はない。今回、本田氏は講演に臨むにあたって「島津家久の考えられる死因」を A、食中毒による死亡説 B, 病死説 C, 豊臣方からの毒殺説 D, 島津側からの毒殺説 E, 不明説 の5つに分類し、それぞれの学者や小説家などの説を15に分類されている。 そして、「敢えて自分が採るとする『説』は次の通りである。皆様のご批判を仰ぎたい」として、「島津側からの毒殺説」を採られた。 島津本宗家から見れば、島津家の三州統一から九州制覇に向けての戦略・戦術はもとより、島津家家中を挙げての協力とお館様(義久)の承認と理解の上に立って、その方針や生き様を模索してきた経緯がある。その「島津家の掟」とも言える「島津家としての教え」を今回は家久が義久や義弘への相談もなく独断で豊臣の軍門に下ったことことは兄たちの「怒りと狼狽」には計り知れないものがあったと思われる。つまり、兄たちの我慢の限界を超えたための行動だったと本田氏は言う。 私は本田氏が今回取り上げられた15の分類のうちの幾つしか読んでいないが、私自身もこれからの大きなテーマの一つとして取り組んでいきたい。果たして自説を披瀝できる日が来るだろうか。
2019.10.25
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10月1日(火) 第11回 歴史作家 桐野作人講演会 島津義弘の闘い ~没後400年を迎えて~が開催された。私はKくんと一緒に当日申し込みで参加することができた。 その時の配布資料の初めの部分に下記のような紹介がある。 ー義弘の波乱に満ちたナンバー2の生涯ー 今年は島津義弘(忠平、義珎、維新、1535~1619)の没後400年にあたります。ご存知のとおり、義弘は島津日新齊の孫、守護貴久の二男であり、島津四兄弟のなかでもっとも有名な人物です。義弘とはどのような人物だったのかを表現するのは難しいですが、個人的には「島津家の前線司令官」であり、「永遠のNO.2」でありつつ、「兄義久との共同統治者(名代)」だったと考えています。(中略)義弘の武勇は広く知られていたのは間違いありません。本日は、義弘の生涯のなかでも、「島津家の前線司令官」としての面、家督問題を中心に、付論として愛妻家としての義弘についても紹介します。 というようなことで始まった。1、義弘の居城変遷と最前線の守り ここでは、義弘が最前線に配置される前線指揮官という役割だったことから、居城の変遷の説明があり、「平松城」に始まり「加治木感」に至るまでの8つの城で前線に立ったことが紹介された。2、「特別な舎弟/脇之惣領」から「名代」へ 一般に義弘は兄義久から家督を相続して、島津氏17代当主になったと言われている。しかし、研究上はかなり以前からそれは否定されており、義弘は島津氏当主にはなっていないと結論づけられている。実際には義久の三女亀寿の婿であった久保(義弘二男)に家督を譲ろうとした。しかし、久保は朝鮮で病没してしまう。そのため、亀寿が久保の弟・忠恒(のちの家久)と再婚して紆余曲折はあったものの、忠恒が義久の家督を継いだのだった。 3、島津家中の「鬮取」ー神慮伺いの主体の変遷ー「鬮取」は(相州)島津氏の家法。歴代当主が使者をしかるべき神社に派遣して鬮取を挙行。義弘も義久の「名代」となった天正14年(1586)から鬮取を行う。鬮取の目的は主に出陣や合戦の日取りや方角を神慮で決めることだったが、その後、家督相続などでも使用される。 4、朝鮮陣と関ヶ原合戦ー宰相成と島津の退き口ー義弘は島津家中では家督を得なかったが、豊臣政権からは島津氏の代表として遇せられた。それは多分に義久が降伏時に出家したことと関係がありそうである。それと同時に島津氏の分断や弱体化を狙う意図もあったかもしれない。ともあれ、豊臣政権は義弘を厚遇した。秀吉の「際限なき軍役」に付き合わされることになったのである。いわゆる文禄・慶長の役への動員である。この従軍には太守義久が病気(仮病?)のため、義弘が出陣することになったが、家中の非協力に遭い散々な首途となり「日本一の大遅陣」と嘆くほどだった。そんな中でも「泗川の戦い」では5000人足らずの兵で明・朝鮮連合軍数万を撃破する大勝利で、一躍、義弘の武名を高めることになった。関ヶ原の戦いもまた、国許からの加勢を得られない苦しい戦いとなったが、予想外の前進退却戦によって無事、戦場からの離脱に成功した。のちに「島津の退き口」として称揚されることになった。 付論 義弘の逸話など。 関ヶ原合戦での逸話 夫人園田氏 (宰相夫人、実窓夫人)との文通「今夜もそなたの夢を見て、たった今逢ったような気がします。よい便があったら、同じことでもいいから手紙を寄こしてくれれば嬉しいです。(中略)そちらは何事もなくめでたい事です。この度は私もいよいよ白髪がふえ、老いの波の立ち重なれる面影、朝、鏡を見ると、我ながらあきれはてます。さてさて対面すれば、こんなになってしまったなと、人違いかと驚くに違いないと思うばかりです。・・・」 資料にはそれぞれの重要場面の古文書とそれの現代訳があり、大変わかりやすいものになっていた。日頃、古文書までは手が届かないので、古文書へのいい入門編ともなった。
2019.10.18
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島津豊久や歴代の領主などが眠る天昌寺跡をを巡り、Fくん、Kくん、私の3人はガイドをお願いした本田哲郎さんに案内されて、島津家久(島津貴久の4男、島津豊久の実父、前期佐土原家初代当主で中務大輔、後に永吉島津家初代となる。なお、次兄・島津義弘の3男である島津家久・薩摩守とは別人)の墓所を訪ねた。(島津家久の墓碑は宮崎の佐土原にもある)家久公については、2016年4月4日の当ブログに詳細の記述はあります。 島津印の丸十の丸はなく「十」の文字だけの家紋である。 ここ永吉を島津一族以前に300年に亘って統治した桑波田一族の墓所と言われている。「日置南郷」を「へきなんごう」と読む。鹿児島には現在も日置(へき)姓はある。 この「大石石塔群」は草田原地区にある。鎌倉時代ぐらいの前までは今の竹下田圃や永吉市街地などはまだ 海だったそうで、桑波田一族などが住んでいたのは丘陵地であるこの一帯の草田原地区に当時の集落が集中していた。この一角には「愛宝寺跡」という古寺跡も存在する。 下の梵字は学者を呼んで解読をお願いしたが、解明できていないという。このような梵字がいくつも残されている。 最後に案内していただいた「南郷城の空堀」中世の時代、永吉は郡司として桑波田氏が在り、南郷城はその居城であった。天文2年(1533)桑波田孫六の時代、桑波田一族は薩州家・島津実久に与し、南郷城合戦によって島津忠義公(日新公)に敗れ、北薩へ逃れた。以後、日置南郷は伊作島津氏の治めるところとなり「永吉」と改められ、地頭時代を経て永吉島津氏の私領となって幕末まで続いた。下の写真は、当日 本田さんからいただいたものであるが、しろの裏側に深い空堀が掘られている。 その空堀に案内いただいて写したのが下の写真である。太陽光線のため、うまく写すことができなかったが、私が写真を写すために立った場所の真下は深く掘られており、足が竦んでこれ以上立ち入ることができなかった。いずれにしても、日本の城の中でも有数の空堀だそうだ。 資料として当日いただいた「永吉地区 史跡マップ」や本田さんからいただいた手作りの史料などを参考にした。
2019.10.06
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千葉に住むFくんの帰鹿を機会に、かねて彼が行きたいいと言っていた、島津豊久の眠る天昌寺跡を訪ねた。高校八期会の事務局長で「八期歴史会往来」を毎月発行してくれているKくんも一緒の3人旅である。6ヶ月ぶりの運転で少し運転に不安を抱えたクマタツがKくんの車を運転して一路 吹上町に向けて8時30分、鹿児島を出発した。予定の10時より15分くらい前に現地に到着。 ガイドをお願いしていた「永吉南郷会」の前会長で現在は顧問で「語り部」としてご活躍中の本田哲郎さんはすでに到着されて我々を待って頂いていた。本田さんは天昌寺跡を訪れる歴史愛好家の人々に永吉島津家の菩提寺・天昌寺跡を始め、梅天寺跡、六地蔵塔、南郷城址、大辻石塔群などを案内される。また、最近は県内各地の歴史講座の講師としてもご活躍中である。その他永吉島津家初代・島津家久(島津四兄弟の4男)2代目・豊久等の歴戦の地・沖田畷、戸次川、耳川などを巡ったり、時代を経てその市町村との交流などに尽力されている。 その本田さんの説明を聞いたあと、島津豊久公の墓標への案内説明をいただいた。(下の写真)なお、天昌寺跡には私は、過去2回訪れて本田さんとは旧知の仲でもあり、今回のガイドもご多忙中にもかかわらず引き受けていただいた。墓地の詳細については2015年11月13日、17日に書いているので、興味のある方はご覧ください。 この墓標は永吉島津家当主・島津久敬(ひさたか)のものである。久敬公はあの「篤姫」の次兄であり、今和泉島津家第10代当主・忠剛の次男、生まれは文政12年(1829)、天保11年(1840)元服する。嘉永6年(1853)永吉島津家の島津久陽の養子に入る。薩摩藩主9代・島津斉宣の孫に当たる。慶応4年(1868)没。 永吉島津家の墓地・天昌寺跡には4つの六地蔵塔がある。これらは、永吉島津家が建立したものであり、下の島津本宗家が建てたものとは違う。 島津本宗家が建てた「六地蔵塔」は朝鮮を始め、全部で13塔あるが、この六地蔵塔はその中でも最初に建てられたものだという。
2019.10.03
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先日、千葉県に住む高校の同期生が鹿児島に帰ってきた。かねて、メールなどを通じて彼が鹿児島に帰ってきたら島津豊久の眠る天昌寺跡などを一緒に回ろうと約束していたので、彼から連絡があった。その日を26日として、25日には彼の歓迎の意味も込めて5人が集まってランチ会をした。そのランチ会のあとの午後、私がその千葉のFくんを誘って、二人で島津家の菩提寺・福昌寺跡を訪ねた。福昌寺跡の島津家墓地は私たちの母校敷地の上にあり、昔は母校もお寺があったところである。このブログにもこれまでも何回も取り上げて書いてきたが、今年は「島津義弘没後400年」という記念すべき年でもあり、今回訪れた私も新たな感慨を持つことだった。 下の2枚の写真は島津義弘公の墓標義弘公については、現在、地元の南日本新聞に「島津義弘没後400年」と題するシリーズものが、2ヶ月に一回、10回くらいの連載ものとして掲載中である。すでに第一部「乱世に生まれ候・割拠する南九州」第二部「先陣を駆けん・悲願の三州統一」第三部「覇道に屈せず・九州統一と天下人」が終わり、現在、第四部「石曼子(シマズ)渡海録・苦難の朝鮮出兵」が連載中である。このあとの展開としては「関ヶ原の戦い」へと展開されるものと思われる。 福昌寺跡墓地は広大で、静かな佇まいの中にあるが、一回で巡るのは結構骨が折れる。私は、もう何回も行って、隅々までまわって見尽くしているはずだが、当日も新たな発見があった。それは、久保(義弘の二男で朝鮮出兵時に現地で病死)の右奥にあった「心岳良空」即ち島津歳久の墓標である。歳久は島津四兄弟、義久、義弘、歳久、家久と並ぶうちの3男である。ここでは詳しくは書かないが、九州統一の戦いのとき、豊臣秀吉に四兄弟の中で最後まで抵抗し、その後も病気を理由に秀吉のもとに伺候しなかったり、梅北の乱の黒幕とも見られたりして、遂に秀吉から追手を差し向けられ薩摩龍ヶ水で自刃する。墓碑は心岳寺(廃寺)にあったが、現在は鹿児島市の平松神社にもある。
2019.09.28
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上の写真は鹿児島県日置市の伊集院駅前にある島津義弘像島津義弘は天文4年(1535)島津貴久(島津家第15代当主)の次男として誕生した。長男・義久、次男・義弘、三男・歳久、四男・家久の島津四兄弟として有名である。兄の義久に従い九州各地を転戦し、島津家のために力を尽くした。しかし、天正15年(1587)に九州制覇の戦いで豊臣秀吉に敗れると義弘、義久の関係は微妙なものとなる。秀吉は、義弘に大隅一国などを安堵し、さらに義弘の長男・久保を島津家の家督に任ずるなど厚遇する。翌天正16年に義弘が上洛すると、秀吉は豊臣姓と羽柴氏を与えた。一方の義久には羽柴氏しか与えなかった。そういうことから、義久は反豊臣になっていった。 文禄元年(1592)に文録の役が勃発すると、義弘が病気の兄・義久に代わって朝鮮半島に出兵する。しかし、島津領国では、肥前の名護屋城の普請、出陣による軍事負担が重荷となり、「日本一の大遅陣」といわれる大失態を演じてしまう。以後も財政逼迫もあり義弘の活躍は目立たず、翌年には長男の久保が病死するという悲劇に見舞われる。 慶長2年(1597)慶長の役が勃発すると、義弘は漆川梁海戦(チルチョンリャン)で敵将を討ち取るなど、華々しい活躍を見せた。なかでも翌慶長3年の戦いで大勝利をおさめた。そのことで敵から「鬼島津」と恐れられた。 慶長5年(1600)関ヶ原合戦が起こると、義弘は軍勢を率いて西軍に与した。兄の義久は出陣に消極的であったため、軍勢は少なかった。同年9月15日、関ヶ原合戦が始まると、早々に西軍は敗勢が濃くなった。義弘は敵陣を突破し、薩摩へ帰還しようとする(島津の退き口)。途中味方の兵が犠牲となり義弘を逃そうとした。義弘は薩摩へ無事に戻るが、300名いた兵は60名になっていた。 戦後、義弘の行動は独断専行とされたが、島津家の本領は安堵、義弘に咎めはなかった。義弘は慶長12年に加治木に移り住み、元和5年(1619)に84歳で亡くなった。 下の写真は同じ伊集院にある法智山妙円寺 2019年9月16日に南日本新聞に掲載された新聞記事当ブログでも何回か取り上げてきたように今年は島津義弘没後400年である。そこで、関ヶ原の戦いが旧暦9月15日にあったのにちなみ9月15日に没後400年大遠忌法要が営まれたという。 「歴史人 薩摩島津家 最強の真実」を参考とした。
2019.09.18
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8月6日、鹿児島県教育委員会文化財課主催の「令和元年度 文化財研修講座」に一般公募に応じて参加する機会に恵まれた。 内容は次のとおりである。講演1 「城山の地形地質と鶴丸城について」 鹿児島大学総合研究博物館強力研究者・名誉教授 大木公彦先生紹介 「御楼門建設の現況について」 鹿児島県文化スポーツ局振興課 楼門等建設推進室主幹 池畑博史氏講演2 「日本遺産に認定された武家屋敷群『麓』について」 NPO法人まちづくり地域フォーラム・かごしま探検の会代表理事 東川隆太郎 開催場所は、鹿児島城(鶴丸城)の本丸跡に建つ鹿児島県歴史資料センター黎明館の講堂である。 時間は午後1時から4時半までという3時間30分の長丁場であった。 終了後、目の前で建設中の御楼門を見学通路から見学する人も多く、私もその一人となった。 国道10号線から見た現場。お濠端には蓮の花が咲いていた。 ここでは、二つの講演については、次の機会に譲ることとし、御楼門建設のことを紹介したい。鹿児島城(鶴丸城)は慶長6年(1601)頃に、後に島津家第18代当主・初代藩主となる家久(義弘の3男)が建設に着手した島津氏の居城で、背後の山城(城山)と麓の居館からなっていた。居館(現在黎明館)の正面中央には、鹿児島城のシンボルとして御楼門があったが、明治6年(1873)の火災で焼失した。それ以前にも元禄9年(1696)、鹿児島城下の大火災により本丸が焼失したが宝栄4年(1707)本丸再建工事が終了した。そして天保14年(1843)御楼門の建て直しをした。(1844年説もある) 文久3年(1863)薩英戦争で本丸や御楼門も被弾した歴史もある。 現在、県と鶴丸城御楼門復元実行委員会で構成する「鶴丸城御楼門建設協議会」において、2020年3月の完成を目標に建設が進んでいる。建設については、来年の鹿児島国体に間に合わせるために、木材の人工乾燥に取り組んでいる。基礎工事は震度7に耐えうるものとするが、げんざいの18個の基礎石が実験の結果そのまま使えるほど、しっかりしたもんだそうだ。昔の技術の優秀さの故だろう。土壁工事、木工事(建設費の6割を占める)、冠木(かぶき)屋根工事(瓦、鬼面瓦など)、瓦は12000枚使用、シャチは180cmで重さ300kgにもなという。見学コースでは大きく立ち入ることは出来なかったが、いずれ詳細を見ることのできる日を設けるとのこだった。驚いたのは、見学コースが冷房完備だったことだ。現場は写真で見るとおり全て覆われていたが、多分そこも冷房完備なのでは思うことだった。 NHK大河ドラマにもなった「天璋院篤姫像」。敷地内にある。 見学者コース入口 黎明館側から見た御楼門建設現場
2019.08.10
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久しぶりに歴史問題のシンポジウムに出かけた。事前募集で350人の応募者で満席という盛況ぶりだった。私は高校の同期生二人と一緒に出かけた。 「島津義弘没後 400年シンポジウム 戦国島津最前線」である。第一部 「戦国島津はどのように研究されたのか」 講師3人 新名一仁氏(鹿児島大学・志学館大学非常勤講師) 著書に「島津貴久」「中世島津氏研究の最前線」など。 専門は中世後期の南九州政治史。中世島津氏の虚像と実像の解明の研究。 松尾千歳氏(尚古集成館館長) 著書に「島津斉彬」「西郷隆盛と薩摩」 専門は島津家を中心とする薩摩藩史。 岩川拓夫(仙巌園学芸員) 著書に「中世島津氏研究の最前線」「新薩摩学8 中世薩摩の雄、渋谷氏」 専門は戦国から近代にかけての鹿児島の歴史 討論は岩川氏の司会で進められ 「戦後から現在までの島津研究史」について 1、相州家による島津本宗家家督「継承」について 2、島津四兄弟の「実像」 3、義弘は「当主」だったのか 4、朝鮮役における島津軍 5、関ヶ原における島津軍 について討論されたが、内容については、私の知らないことも多く、 勉強になった。第二部 「戦国島津はどのように発信されるのか」 講師4人 新名一仁氏 宮下英樹氏(漫画家) ヤングマガジンでデビュー2004年より「センゴク」連載。 戦国武将・仙石秀久の一代記を綿密な取材・考証に基づいて描き代人気作品と なった。 川越宗一(作家) 2018年に朝鮮出兵と琉球出兵を舞台にした歴史小説「天地に燦たり」で 第25回松本清張賞を受賞しデビュー。 小栗さくら(歴史タレント) 歴史をテーマにした楽曲を手がけるユニット「さくらゆき」に所属。 学芸員資格を持つ本格派の歴史タレントとして、テレビや講演会のほか、 NHK公式イベントや全国の歴史イベントに多数出演。 討論は小栗さくら氏の司会で進められた。 漫画を読んだ読者が武将の墓参りなどすることなど聞いてはいたが、そういう裏側を知る ことができた。特に歴女と言われる人の出現もこういう発信から興味を持つのだろうかと 思う。 配布資料も興味深いものが多く、今後の史跡探索に大いに役立つ。 島津義弘は島津家第17代当主(正式には当主にはならなかったとの異論あり、現在はそれが有力) 天文4年(1535)15代貴久の次男として伊作城(日置市)で誕生。 長男・義久 次男・義弘 三男・歳久 四男・家久の島津四兄弟として有名 天文23年(1554)義久、義弘ら岩剣城(姶良市)での戦いで初陣 元亀3年(1572)木崎原(えびの市)の戦いで伊東軍に勝利 天正5年(1577)日向の伊東氏を破る 天正6年(1578)耳川(宮崎県日向市)の戦いで大友軍に勝利 天正9年(1581)水俣城の戦いで相良氏が降伏する 天正12年(1584)龍造寺氏を破る。沖田畷の戦い。 天正15年(1587)豊臣秀吉の軍勢、九州入り。島津義久が降伏する。 天正20年(1592)朝鮮出兵。義久が秀吉の命令で弟・歳久を討つ 慶長2年(1597)再び朝鮮出兵 慶長3年(1598)朝鮮半島から帰国。陶工を連れ帰る 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍として参加。敵中突破で帰国するも桜島に蟄居 元和5年(1619)加治木(姶良市)にて死去(享年85歳)
2019.07.23
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2018年の鹿児島は「明治維新150年」と「西郷どん」で一年中大騒ぎだった。その余韻も冷めやらぬままで、私も西郷隆盛関連で書くべきブログネタも幾つか残っている。その中で明けて2019年は、あの「関ヶ原の退き口」で有名な島津家第17代当主・島津義弘の没後400年だという。 島津家の菩提寺・福昌寺(鹿児島市池ノ上町)にある義弘の墓標。 1月1日の南日本新聞に掲載された「島津義弘 没後四百年」の記事。義弘のことについては、これまでにも拙ブログで何回か取り上げてきたが、本紙記事によると、これから1年を通して連載でたどるとある。この機会に私もこの1年改めて義弘のことも調べてみたい。 本文には「島津の退き口」(しまづののきぐち)、関ヶ原の敵中突破を決断した場面を紹介する、とあり次のような記述がある。「もし薩洲勢が5千人いたならば、この合戦は勝つものを」慶長5年(1600)9月15日、美濃国・関ヶ原。西軍の島津義弘は、味方の劣勢を悟り、思わず3度つぶやいた。幾多の戦場をくぐり抜けてきた”老将゛義弘の本音だった。数え66歳。旗下の兵力はわずか1500人。太守・義久の意向もあり本隊は来ず、配下の有志らが日々国元から駆けつけるありさまだった。60万石を超す島津家としては、あまりに不相応だった。 当初,義弘は家康の要請で伏見城に入る予定だったが、城将の鳥居忠元に拒絶され断念、やむなく西軍に加勢した。決戦は東軍の井伊直政勢が西軍の宇喜多秀家勢に発泡し戦端が開かれた。当初は西軍が優勢だったが、正午過ぎから石田三成、宇喜多秀家、小西行長ら西軍主力が突き崩されていった。そういう中で豊臣家一門であり1万5千の大軍を率いてきた小早川秀秋が寝返り、大勢は決定的となった。 出撃の機会をうかがっていた島津勢は、戦機を完全に逸した。混乱の中、島津の陣には逃げる宇喜多勢がなだれ込んだ。眼前に数万の敵兵が入り乱れ、背後には険しい伊吹山がそびえ、武功にはやる東軍が、逃げる敗残兵をなぶるように山裾へと追い込んでいた。もはや命は助かるまいー。百戦錬磨の老将・義弘の冷静な分析だった。それを甥の豊久が必死にいさめた。幸い、敵兵は島津の両脇にある石田や宇喜多の陣をめがけて殺到していた。「では、その猛勢の中へかかり入れよ(かかれ)」と下知を発した。生きて薩摩へ帰る、考え得る最良の手だった。前代未聞の敵中突破が始まった。(ここまで南日本新聞) これからの南日本新聞でどのような構成でまたどれくらいのボリュウムで「島津義弘」のことを取り上げて連載記事としていくのか想像もつかないが、私はこれまでの持ち合わせの資料などから分かる範囲で書けたらいいなと思っている。
2019.01.05
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鹿児島城の御楼門復元については当ブログにおいて2015年3月24日、2017年5月5日など数回にわたり書いているが、今から一年6ヶ月前の2018年12月3日に現地説明会が開催された。その日、所用があって説明会に行けなくて残念な思いをしていたが、御楼門部分への立入禁止が解禁されたのを知り行ってきた。 鹿児島城(鶴丸城)は島津家にとって東福寺城、清水城、内城、に続く四つ目の城であり、島津家18代当主で初代薩摩藩主・島津家久(義弘の3男)が、関ヶ原の戦い直後の慶長6年(1601)に築城を始め、慶長末(1615)ごろほぼ完成させたと言われる。この城の特徴は天守閣はない。その後、8代藩主・島津重豪により二の丸の整備拡大が図られたが、明治4年の廃藩置県で12代藩主・島津忠義がここを去るまでの270年余り、島津家の居城として使われた。本丸は明治6年(1873)の火災で、二の丸は明治10年(1877)の西南戦争で焼失した。 蓮の花がチラホラと咲き始めたところだった。 今に残る西南戦争の銃弾や砲弾の痕跡写真にあるように、御楼門部周辺の石垣には無数のくぼみが見られる。このくぼみから銃弾や砲弾が食い込んでいることが分かる。周辺の発掘調査により、これらの多くは明治10年(1877)の西南戦争によるものということがわかったという。熊本、宮崎での戦いに敗れた西郷軍は故郷・鹿児島の地に戻り、城山を中心に布陣し、最後の決戦に挑む。しかし、これに対する政府軍は約5万人とも言われ、西郷軍に無数の銃、砲弾を浴びせ圧倒した。これらの弾痕跡が日本で最後の内戦と言われた西南戦争の凄まじさを今に伝えている。 橋を渡った先の左右には昔の御楼門跡の礎石が掘り出されている。 御楼門跡の礎石には、門の柱に巻いた鉄板のサビ跡が残る。 今回の復元のこととは関係ないが、鹿児島医療センター側の石垣の隅は、角を切り取った形になっている。これは、城の北東に当たる「鬼門」とみなし、その災厄を除こうと考えられ、このような形にしたもので、「隅欠」と呼ばれる。
2018.06.15
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去る冬の寒い日、宮崎県にある都城島津家を訪ねた。この日は妻と二人、JR日豊線に乗り隼人に行って、鹿児島神宮(拙ブログ2015年4月9日)や隼人塚(2015年3月29日)を久しぶりに訪ねようということで、鹿児島中央駅を出発した。しかし途中で気が変わり、都城まで足を延ばすことにして、チケットも都城駅で追加精算。(我が家のドライブや旅はいつもこういう行き当たりバッタリが多い)駅の案内所でパンフレットをもらい、昼食を済ませてバスで「都城島津邸」へ。 都城島津家といえば、島津家発祥の地を鹿児島県出水市と宮崎県都城市が我が方こそ発祥の地との論争があることを記さなければならない。 と言うのも、出水市には「感応寺」があり、初代・忠久、二代・忠時、三代・久経、四代・忠宗、五代・貞久の墓がある。 一方、都城市には祝吉御所舊址」と呼ぶ「島津家発祥之地」とされる場所があって、大きな石碑が建てられている。それでは、どちらが発祥の地か。詳述すればキリがないので簡単に言うと次のようなことになると思われる。源頼朝は1185年、御家人「惟宗忠久」を薩摩、大隅、日向にまたがる荘園「島津荘」の下司職に任命した。(島津荘は都城市、高城一帯を指す広大な地域)そこで「惟宗忠久」は「島津忠久」を名乗ったというのだ。都城説はその辺を根拠としているが、都城にも出水にも忠久の下向はなく、島津家の当主で南九州在住が確実に分かるのは五代・貞久以降とされる。ただ、三代・久経が異国警護で九州入りしたとされる建治元年(1275)には旧薩摩郡内に守護所はあったとされる。「島津姓」が「島津荘」に由来することはまず間違いない。しかし、出水市も都城市も発祥地としては伝承に過ぎず島津家が史実として薩摩を薩摩を本貫地として確定(発祥の地)とするには至っていないという。(「南日本新聞」に鹿児島国際大学、短期大学名誉教授が投稿された文章) 未だ、結論に至らずという他ない。 都城島津家の誕生はどうだったのか。南北朝時代初期、1352年、島津本家4代忠宗の6男資忠(すけただ)が都城に入る。合戦の恩賞として足利尊氏より都城内の北郷という地を授かった資忠は「北郷資忠」を名乗る。北郷家は、その後江戸時代に入ってから本家の命により「島津」に改め「都城島津家」となる。約4万石という大名並みの国力を持つ都城島津家は、幕末まで都城領内を統治し、多くの功績、史料を今に伝えている。 武家門を入って左側。喫茶店などもある。 本宅 国登録有形文化財 明治12年(1879)建設の旧邸を、昭和10年(1935)11月の陸軍大演習にあわせ改築したものである。昭和47年(1972)にも大改装を行い、その翌年に全国植樹祭に来県された天皇皇后両陛下がご宿泊になった。 本宅の前の庭園 旧領主館庭前の池畔にあったものを移設したものという。 土蔵 明治5年(1872)建築された土蔵であるがそれを明治15年(1882)4月、120円で購入し現在の場所にこの場所に移設したものである。 土蔵の中に都城市に寄贈した古文書、甲冑などが収蔵されている。 都城島津伝承館 ここには都城島津家の歴史的資料が約1万点収蔵、展示されている。企画展も開催される。昨年10月には「西郷隆盛と都城島津家」展が開催された。 (ネット情報、「島津氏発祥の地」、「都城島津邸」パンフレットを参照した。)
2018.05.01
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「花園寺跡公園」について、広報あいら”Airaview"には次のようにある。「江戸前期の枯山水の面影が残る文化人・義弘公が過ごしたゆかりの地」続けて次のようにある。花園寺は、もともと義弘のお経を読む建物(看経所)があった地とされている。 江戸初期に義弘の子・藩主忠恒が、山伏(修験者)だった五男・忠広のためこの寺を建立。しかし、2代藩主・光久から忠広志へ還俗(武士に戻る)命令がくだされると、忠広は修験者の米良家へ寺を与えた。その後、同家が代々住職を務めることになった。 花園寺跡地は米良家が歴史遺産として市(当時・姶良町)へ平成22年に寄付。3年前に発掘調査が行われ、建物の柱跡や江戸前期にさかのぼる可能性もある珍しい枯山水の庭園遺構も発見された。 公園内の見どころは、枯山水の遺構のほか、当時の古材を使用した米良家の門や義弘屋形に残る石垣上に復元(想定)した板塀などである。 先に紹介した精矛神社にあった「経典読誦記念碑」がここにもある。 公園の内側から武家門などを見る 今回、Nくんの案内で巡ることができた姶良市の三つの坂を中心にその他の史跡、名所も含めて8回にわたって書いてきた。この他にも島津義弘が在番した平松城跡(現在の重富小学校)なども訪ねたが、過去に拙ブログに取り上げたこともあるので、今回は割愛した。町内会長から解放されてから初めて行った姶良市の素晴らしさを再満喫した一日であった。
2018.04.26
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素晴らしいニュースが飛び込んできた。中世の南九州にあった近衛家領荘園で薩摩島津氏の起源とも関連のある島津荘(しまづのしょう)の政所(荘園の現地での支配の実務を扱った所)があった場と思われる遺構が発見されたというニュースが地元の南日本新聞に掲載されたのは10日くらい前のことである。 島津荘は日向国(現在の宮崎県)中南部および大隅国・薩摩国(現在の鹿児島県)の3カ国にまたがる日本最大の荘園で、最盛期には8000町を超える規模があった。(ウィキペディアによる) 9月17日にあった現地説明会の様子を伝える記事が9月20日の同じ南日本新聞に掲載されたのが上の写真である。私も説明会に行くべく準備していたが、台風騒ぎなどで見送った。記事によると「場所は宮崎県都城市郡元町、西原(さいばる)遺跡。ほぼ直角に曲がった深さ1,5m、幅3,5mの溝が見つかった。島津荘成立の11,12世紀ごろのものとみられる。周辺の地中調査から政所を囲む塀の西南角と推測される」という。 この島津荘があったと言われる都城市が「島津氏」発祥の地なのか、それとも島津氏初代・忠久から5代までの墓ある「感應時」がある鹿児島県出水市が発祥の地なのかについては両方ともその他の遺跡もあるためいわゆる本家争いが過去にもある。 私なりにこれまでも諸説を調べてみたところでは、詳細は省略するが、 島津姓が「島津荘」に由来することは間違いないと思われるが、発祥の地としては「出水市」も「都城市」も伝承に過ぎないのではと思う。従ってこれまでの諸説からして今回の島津荘の政所跡の発見が、即都城市を発祥の地とすることにはならないだろう。
2016.09.21
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現在は島津本宗家の墓地となっている福昌寺跡墓地を久しぶりに訪ねた。福昌寺は、応永元年(1394)島津家第七代当主・島津元久が一族出身の僧・石屋真梁を開山として招いて建立した僧侶1500人を要する曹洞宗の大寺であった。しかし、明治初年(1868)の廃仏毀釈によって1869年には廃寺となる。その跡地は現在、鹿児島市立玉龍中・高校となっていて、山際が墓地となっている。 ここには過去にも数回訪れて、拙ブログで何回も取り上げてきたが、今回は先日少しだけ書いたここにある二つ目の亀趺石碑のことについて少し詳しく書く。 正面文字「奉唱満愛染明王兒一百萬遍成就所」 亀を正面から大写し 亀を横から大写し 裏面 次のように書いてある。 太守継豊公御実母御武運長久御子孫繁栄国家安全萬民豊楽柚丹誠萬畢故造一石屠一基以伸供養者也 享保萬年第十〇巳八月吉祥日 沙門師一謹忠 「愛染明王」(あいぜんみょうおう)は仏教の信仰対象であり、密教特有の憤怒相を主とする明王の一つである。 「島津継豊」(しまづつぐとよ)(1701~1760)島津家第二十二代当主・第五代薩摩藩主 徳川綱吉の養女・竹姫を娶り江戸将軍家と親戚関係になる。亀趺石碑にある「太守継豊御実母」は 継豊の実母のことであり、父・島津吉貴(二十一代当主)の側室・月桂院(須磨 名越恒渡の妹)の ことであろう。 もう一つの亀趺についてもこれまで拙ブログに書いたとおり、上の亀趺より遥かに大きい。「島津重豪公神道碑銘」であり、大きな亀の上に大きな石碑があり、四面に文字が書いてある。鹿児島の金石文に詳細が書いてあるが読解が難しい。 今回の更新まで実に半月を要した。言うことなしである。反省!
2016.07.19
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