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私は松本清張のファンであり、これまでにたくさんの清張作品を読んできた。これまで松本清張関連のことは、当ブログに2019年7月25日「松本清張を見る」、2020年9月30日松本清張の「傑作短編集」6冊を読む、2020年10月13日松本清張の 或る「小倉日記伝」など書いてきた。 今回「今回地図で読む松本清張」を読むという機会があり、手に取ってみた。ページを繰ると出てきたのが「清張作品の日本地図」。北は北海道の小樽から南は鹿児島の指宿まで、この本の「作品別特集に登場する地名111ヶ所」、「それ以外の作品に登場する地名121ヶ所」が地名と作品で紹介されている。その分布を見ると関西、関東が比較的に多いが、中国地方と九州地方もそうそう負けてはいない。文字は小さいので読めないと思うが、取り上げられた地方は日本全国ほぼまんべんなく行き渡っているようで松本清張の守備範囲の広さを伺わせる。 松本清張は、作家生活40年簡に約980編の作品を発表し、著作は750冊と言われている。そのジャンルは推理、純文学、時代、評論、評伝、ノンフィクション・・・など質と量の充実度、大衆からら大きな支持を集めたという点において、巨匠というにふさわしい作家であった。没後30年、「週刊女性」がアンケートをとった「松本清張作品で好きなドラマ・映画ランキング」があるのをネット上で見つけた。以下そのベストテンである。1,砂の器 2802,点と線 2293,黒革の手帖 2264,ゼロの焦点 625,けものみち 376,わるいやつら 197,鬼畜 178,疑惑 169,天城越え 1110,霧の旗 811,眼の壁 8 以上であるが、私もベストテンは小説かドラマですべて見ている。 話は「地図で読む松本清張」に戻る。この本で取り上げられている「作品別特集」は次のとおりである。「ゼロの焦点」「砂の器」「点と線」「火と汐」「時間の習俗」「或る『小倉日記』伝」「波の塔」「球形の荒野」「Dの複合」「眼の壁」「天城越え」 この中で今回私は「点と線」を取り上げてみた。それは下の「点と線」の写真の説明にあるように香椎海岸(福岡市)で「男女の死体が発見された」という「香椎」部分にこだわったからだ。そのこと事態はとんでもないことだが、私が個人的に香椎に縁があったからという単純な動機からである。この小説は社会派ミステリー第一作として昭和32年(1957)2月号から翌年1月号まで雑誌「旅」に連載されたという。もっともこの小説を私が読んだのは、文庫本として出版された後のことで、何時だったかは記憶にないが、就職して北九州の小倉に行ったあとのことには違いない。興味のある方は「あらすじ」を読んでください。小説が高峰三枝子、山形勲、南広で映画化されたり、ビートたけしでテレビドラマになったりしているが、私はだいぶ後になって二つともテレビで見た。 私が銀行に入社して初任地が小倉支店だったことは、これまで再三書いてきたが、小倉支店に初めて出社する前日の夜、泊まったのが二番目の姉夫婦の住む香椎の公団住宅だった。当時姉たちは新婚で薬品会社に勤務する義兄が福岡支店に勤務していた。 初めて読んだとき、東京駅15番ホームを使った時間差トリックの斬新さにこれまで読んだことのないミステリーだと清張の凄さに驚いたのを覚えている。 当時はホテルに泊まるというようなことにも慣れていなくて、小倉支店にできるだけ朝早く出勤するためには香椎の姉宅に泊まったほうがベストだと思ったからだろう。香椎駅で印象に残っているのは、朝の7時頃だったと思うが、昭和37年の香椎駅の上りのホームはほとんど人はいなくてまるで田舎のホーム思わせるものだった。その後も、休みの日に遊びに行って、香椎花園なども訪れた。しかし、最近になって、たまに北九州にJRで行くときの香椎駅のホームや車中から見える景色も様変わりして昔の様子を偲ぶこともできない。 いずれにしても、読んでよし、見てよしの作品である。
2022.07.09
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上の写真は「古地図に見る かごしまの町」より武・荒田の水田地帯(『薩摩沿革地図』 中文政前後鹿児島絵図写) 鹿児島中央駅の西口側にある武岡が私の終の棲家であるが、子供の時も疎開先から鹿児島に帰ってきたあとそれまでの我が家(当時は武町と呼ばれていたが現在は中央町と呼ばれ駅近くの繁華街になっている)は戦火で焼けていたので、5年間武岡麓の借家に住んだのでこの周辺一帯は切っても切れない縁のある土地である。上の文政前後の地図の辺りには幕末の頃はお寺がいくつかあり、建部神社があり、神社下から田上方面に向けて農家が散在する農村だったそうだ。 下の写真は上の地図の右側に位置する場所で太平洋戦争前・昭和10年頃の地図だが、私達が住んだ昭和23年頃から私達がここを去って区画整理が行われるまでは、大体このままの状態ではなかっただろうか。 下の地図は県立図書館にあった「鹿児島市全圖」から武・武岡周辺を抜粋した部分だが、この地図も私の知る時代のもとほとんど変わらない。 下の地図は「県別マップル 鹿児島県道路地図」から鹿児島中央駅周辺を写したもの。赤く表示された鹿児島中央駅の右側が「桜島側出口」(東口)で左側にレールと共に「九州新幹線」と書かれた方向から新幹線は入って来る。左側が私達の住む武岡方面で西口がある。ただ、鹿児島本線とはT字型に入ってくるので駅舎は同じである。区画整理と新幹線とトンネルによって武岡以外は全く昔の面影は失われてしまった。 地図の左側から一般道の武岡トンネルを写した写真が下。 武岡トンネルから左に20mくらいの場所には新幹線トンネルがある。数え切れないほどある九州新幹線のトンネルこれで終わり、これを通過すれば鹿児島中央駅に滑り込む。私の記憶ではこのトンネルの辺りから左側に「島津どんの墓」があり、遊ぶ場所でもあった。新幹線立ち入り禁止の柵の前に「武小學」発祥之地の記念碑がある。この記念碑の説明文には「鹿児島市立西田小学校は明治8年12月8日、西郷南洲翁の揮毫による『武小學』の門札を掲げ、ここ武岡の麓、笑岳寺跡に創立された。西田小学校創立130周年に当り記念事業の一つとして『発祥之地』なる記念碑を建立した。平成17年12月7日 建立」とある。後に私の母校・武小学校も開校したのだが、この記念碑は「武小學」として発祥しながらも、あくまでも「西田小学校」の発祥之地だということを主張している。 このすぐ下が西郷屋敷跡の「西郷公園」であるが、二階堂家の屋敷もあった。 私は40年前に鹿児島に帰ってきて、仕事も落ち着いた頃、区画整理された昔の借家跡や友人宅を探し回ったことがあったのだが、2,3の表札でそれらしい家を見つけただけで何もわからなかった。そこで、今回は最後と思って念入りにまわってみた。結果は同じで知人の家や昔の名残を見つけることはできなかった。70年の月日は過去を捨て去っていた。
2022.01.12
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上の写真は昨年7月撮影の宮崎県えびの市を流れる川内川 昨年の7月21日、高校同期生4人で宮崎県えびの市の史跡などを訪ねる日帰りの旅に出た。その時の様子は7月から8月にかけて数回にわたり拙ブログにアップしたが、8月5日の記事「えびの市のA氏宅を訪問する」のAさん宅で「秋丸機関」というものの存在を初めて知ったのが今回の記事を書くきっかけとなっている。しかし、当時のブログでは、「秋丸機関」については一切触れなかったのだが、今年8月14日のNHKBS1スペシャル「ヒトラーに傾倒した男・A級戦犯・大島 浩の告白」が放送されることになり、その中で「秋丸機関」が取り上げられるとの連絡がMくんからあった。そこで私もこれを機会に当ブログでその一端を取り上げてみようと思ったのだが、ちょっと取り付きにくくて今日まで躊躇していた。ところが今回はどうしても書かなくてはならないと思うニュースが飛び込んできた。12月8日のNHK「おはよう日本」で今回は「太平洋開戦真珠湾攻撃から80年」の中で「秋丸機関」を取り上げるということを知る。しかもそれにAさんが出演されてお話をされるという。 実を言うと、訪ねたAさんの名前は「秋丸機関」を率いた秋丸次朗中佐のご子息・秋丸信夫さんだった。そして私達をそこに誘ってくれたMくんは秋丸信夫さんと従兄弟だったのだ。つまり、Mくんにとっては、秋丸次朗中佐はおじさんである。当日、秋丸信夫さんとは初対面だったが大歓迎をしていただき、資料を見せていただきお話も聞くことができた。私は日頃から太平洋戦争で戦死した父を持つ家族として戦争に関して大きな関心を持っているので大変興味深くお話を聞いたのだった。「秋丸機関」は、ノモンハン事件の1939年9月に総力戦で経済面から研究するために日本の陸軍省経理局内に設立された研究組織であり、正式名称は「陸軍省主計課別班」。(wikipedia) なお、ご子息で元新聞記者の秋丸信夫さんはホームページ「えびの便り ふるさと宅配便」を主宰されておられ、その中に「秋丸機関」のことを「大東亜戦争秘話 陸軍経済謀略戦の全貌」として書かれている。ウエブ検索ですぐ見ることができる。詳述されているので是非読んでいただきたい。そこには秋丸次朗著「秋丸機関の顛末」を始め、秋丸機関のことが詳細に述べられていて私の初めて知ることばかり太平洋戦争の秘話を知ることができた。 詳細は今回NHKで取り上げられた「秋丸機関」の放送に沿って書くことにしたい。放送はハワイ・オアフ島で開催された「真珠湾攻撃80年追悼式典」から始まる。その真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争の前に日本の陸軍省が経済学者と共に日本とイギリスやアメリカとの間には圧倒的な経済的戦力格差ありと報告したが、指導者たちは正しく受け止めず、無謀とも言える戦争を選択した。その調査を率いたのが秋丸次朗主計中佐であり、そのチームは通称「秋丸機関」と呼ばれてた。その手記や最新の研究から背景がわかってきた。秋丸中佐は亡くなる4年前に手記を書いて残しているが、そこには対英米戦の場合、経済戦力の比は20対1と判断した報告を書いてある。秋丸中佐は東大教授で経済学者の有沢広巳を中心に日本を代表する経済学者を結集した。これまでは戦争経済という概念はなかったが、戦争を経済的な面から学術的に考察する必要があるという観点でも見ようということである。報告書「英米合作経済抗戦力調査」には石油や鉄鉱石などの資源や工業生産力など詳細に調査した結果、英米は大規模な戦争を十分に賄える経済力があるとした。 開戦を判断する上でカギを握る日独伊三国同盟のあったドイツについても調査していた。そのドイツは1941年にはソ連と戦争を始めていた。日本ではドイツが簡単にソ連に勝利するだろうという見方が広がっていたが、ドイツの抗戦力はこの年がピークで1942年からは次第に低下せざるを得ない。独ソ戦が短期間で終わるのか、長期戦になるかによって開戦の運命も決定される。秋丸機関の分析通りドイツの勢いは変わり、泥沼の長期戦となった。 秋丸機関の報告書を発見した慶応大学教授・牧野邦昭教授は「本音は明らかにアメリカと戦うことは論外であるが、ドイツはもう既に限界で依存しても全く意味がないと考えていた」のではないかと言っている。しかし、秋丸機関の思いとは逆に報告書が開戦を判断する材料として利用された可能性もあるという。それはどういうことなのか。 今年9月に発見された資料によると、英米の弱点が記されていた。英米の弱点はアメリカからイギリスへの物資の輸送に当たり大西洋で輸送船を撃沈できるのはドイツの潜水艦・Uボートであるが、撃沈数が多くなるとイギリスで物資不足が生ずるというものである。これはドイツの力を過大評価した想定で秋丸中佐の本音とは程遠いものであった。 秋丸機関も軍の中の機関なので全く危険性がなとは書きづらく、条件が重なれば勝利の見込みがあるかもしれないくらいには書かざるを得なかったのだろう。そういうことからこういう表現になった。指導部としてはそういう希望的な観測のみに注目して利用したのかもしれない。秋丸中佐はこの後も指導者たちに慎重な考慮を促したものの聞き入れられることはなかったという。手記に次のように書き残してあるという。「既に開戦不可避と考えている軍部にとっては、都合の悪い結論であり消極的平和論には耳を貸す様子もなくて大勢は無謀な戦争へと傾斜した」 これが当時の軍部の姿であったろうことは今となって私にも容易に想像できる。 その上で、NHKの記者は当時の日本の置かれた立場にも言及していたが「当時日本は石油の禁輸で追い詰められていた。戦わずにジリ貧になるよりも高いリスクだが開戦でそれを打開しようとしたのではないか」と言っていた。これについては聞いた人がそれぞれまた考える余地があろう。こういう番組から日本国民が何を反省し学び、現状や将来について考える一つのキッカケになればいいと私は思う。
2021.12.10
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(2枚の写真は NHK 戦跡 ー薄れる記憶ー から拝借した) 高校の同期生たちとメールとLineを通じて日頃やりとりをし、それをまとめて毎月40余名の同期生に「八期オンライ通信」として送る労をとっているKくんという存在がいる。7月までで51号を数えた。 8月の交信の中で、原爆や戦争のことがやりとりされ、ある日仲間からこの「焼き場に立つ少年」の紹介があった。その時、私は初めて写真の存在を知ったが、それを追いかけるように8月13日深夜(14日午前0時)からNHKテレビ2チャンネル・ETV特集で「『焼き場に立つ少年』長崎原爆孤児の戦後」として放送されるとの知らせが別の仲間から入った。 私は35歳から長崎市に3年だけだが住んだことがあり、近所の人との交流や次男が通った教会の幼稚園で父母の会の副会長や会長をやったことなどから、神父さんやシスター先生との交流もありキリスト教にも少しは触れることができたと思っている。そのような平和を願う敬虔な街でもある長崎は異国文化とも相まって印象は強く今でも長崎は大好きである。周囲にはクリスチャンの方も多く、日曜日には家族揃って教会に通われる姿も数多く見てきた。また職場は長崎原爆爆心地点の松山公園、平和公園、浦上天主堂を結ぶ三角地点のちょうど真ん中くらいに位置していたため、戦争や原爆や平和のことを考える環境にあった。 本題に戻る。1945年8月9日、11時02分長崎の街は一瞬の閃光とともにガレキと化し、その年の暮までに7万人の命が奪われる大惨事となった。長崎市だけでも親を亡くして孤児となったのは2300人に及んだ。 今回の「焼き場に立つ少年」の写真を中心にした特集については、NHK長崎放送局が3年前から調査をしてきたという。この「焼き場に立つ少年」のことは、2019年8月にもNHKで「戦跡 ー薄れる記憶ー お母さんに会えたのかい 原爆の地に立つ少年」として放送されたという。今回はそれに加えてわかった新しいことを放送するものだ。写真はアメリカの従軍カメラマンであったジョー・オダネルが撮影し、その後世界中で公開された。ただジョー・オダネルが残した上の写真は「裏焼き」されて左右反転している可能性があるとの指摘がある。それは①上着の前合わせが男性用に見えない。 ②戦時中は名札を左胸に縫い付けるようにされていたが、少年の右胸についている。つまり、下の写真の左側がオダネルの残したもので、本当は右側のように焼き付けるのが正解だというのだ。 そのことは兎も角として、「焼き場に立つ少年」は亡くなった弟をおんぶして、火葬のためにこの焼き場にやってきたのだ。ボロボロの服、やせ細った身体、裸足、それでいてキリッとした表情。このとき少年はどのような想いを抱いていたのだろうか。写真を写したオダネルは次のように書き残している。「少年は焼き場のふちまで進むと、そこで立ち止まる。係員は背中の幼児を下ろし足元の燃え盛る火の上に乗せた。炎は勢いよく燃え上がり立ちつくす少年の顔を赤く染めた。私は彼から目を離すことができなかった。少年は気を付けの姿勢でじっと前を見つづけた。急に彼は回れ右をすると背筋をピンと張りまっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま」オダネルはこの少年のことを死ぬまで気にしていたそうだが、彼も行末を知ることはなくこの世を去ってしまった。今回の特集でも写真に残された痕跡の石標や通信用のケーブルらしきものなどを手がかりにNHKが調べた記録が放映されたが、現段階では少年の行末を知ることはできなかったようだ。放送の中である人が「戦争の悲惨さを伝えるこれほどものはない」と言っていたが、私もそう思った。再放送があれば、皆さんにも是非見ていただきたい番組である。
2021.08.22
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