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今朝も5時少し前に目が覚めた。昨夜、寝たのはいつもより30分早い9時だった。雑草園を見たら彼岸花が一輪咲いていた。 同居する二男が久しぶりに夜釣りに出かけた。昨日の午後4時30分に家を出て、6時ごろ出港の遊魚船に乗って、今日の午前10時ごろ帰ってくるという。そういうことで、日曜日の今日は息子を職場に送り出す必要もない。もっとも出勤の日も私が特別に面倒をみることもない。私は、勝手に早起きして、仏壇に線香を立ててお参りし一日が始まる。 昨夜洗っておいた食器の収納や、身の周りのことを済ませて、一人でさっさとコーヒーを沸かすなど朝ごパンの準備をし、自分だけの食事を済ますのだ。いつも7時前には朝ごパンは終わっている。息子は7時ごろ起き出してきて、これもまた勝手に自分なりの食事の真似事をして、7時40分頃には職場に向かう。 昨日は土曜休みで、息子の洗濯物も少なく、いつもの6時起きで洗濯機を回す必要もないのに習慣は怖いものでいつもの目覚め、いつもの6時起床である。いつもと変わらない朝だが、息子がいないというだけで、何となく静かな朝である。 昨日は11月3日に開かれる鹿児島の「世代と仲間をつなぐコンサート」の出番の一つ「シニア混声合唱」の全体練習のため鹿児島中央駅前にあるイオンの8階・よかセンターに午前中出かけた。先週の日曜日も同じ場所で練習があったのだが、私は義兄の四十九日の法要と重なったので、昨日が初めての練習だった。もっとも自分の合唱団で少しは練習していたが、女声も含めた100人? くらいの練習は初めてだったので新鮮味があった。妻の所属していた合唱団の指揮者や皆さんが私を見かけて挨拶に見えたので恐縮した。同級生でお母さんコーラスの団長をしている友人や私の妹とも会って言葉を交わした有意義な一日だった。練習した曲は2曲「切手のない おくりもの」と「マイ・ウェイ」。どちらもいい曲だ。この全体練習は10月に2回あるので、何とかなるのではと思っている。 一方の男声合唱は「秋のピエロ」「梅雨の晴れ間」「群青」「少年時代」の4曲である。これまで1回全体練習があったが、あと3回9月24日、10月22日、29日の練習が残されている。こちらは私たちの練習日に合わせてあるので、特別な日に出かける必要はないし、これまでに歌い込んだ曲ばかりなので心配はないと思う。それが終わると、いよいよ私たちの楠声会の創立70周年記念の演奏会が開かれる来年4月28日(日)に向けての本格的な練習が始まる。来年になると全国から集まるメンバーも含めて2回の強化練習も計画されている。楽しみの中にも緊張感もある。演奏会成功に向けて先ずは体調の維持が最優先である。
2023.09.17
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このところ朝6時に起きた時に窓を開け放して身を乗り出し「朝顔」の咲き具合を見るのが日課となっている。それからやおらデジカメを持って雑草園に出る。 毎朝よく見ると「これぞ朝顔!」という顔を持った美人出会うことは少ない。ご覧いただくとわかるが、どこかいびつなのだ。「まっ いいか!」とつぶやき次の朝を待つことにする。 今日は土曜日。同居する息子が久しぶりに腕を振るった晩御飯ができた。スパゲッティカルボナーラがメインである。あとはスープと野菜サラダ。 さて先日から6月に仲間たちと行った東京の旅のブログも書き足りない部分もありながらも一応終わった。次は3月に行った一人旅・長崎、大分の旅の事が中断していたので、書くことにしようと思う。
2023.08.05
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昨日1月10日(火)は亡き妻の役所等への届け出書類を作るための戸籍謄本などを取得するため10時発のバスで市街地に向かった。とはいってもこの日は市役所で謄本など取得するだけで、別の役所や銀行などに提出する書類を作成提出するのはまだ後のことになる。法務局でいただいた書類を基に必要な謄本などを取得するのだが、こういうことは初めてのことで戸惑ったが、腕章を付けた役所の女性にお聞きして、親切に対応していただき要領を得た。また呼ばれていった窓口の女性も適確な対応で必要な書類を30分くらいで取得できた。 その後、天文館で一つ所用を済ませたが、この日は娘とも話すことがあり、ランチを一緒にしようと言うことになっていた。書類取得が連休明けにしては以外にスムーズに進んだため待ち合わせの時間まで45分くらいの余裕があった。 そこで天文館から歩いて10分もかからない中央公園に向かった。このところの春のような陽気もあり、中央公園も温かい日差しのもとにあった。ベンチに座って周りを見渡すと、妻の四十九日まで毎週日曜日に家族でお参りする西本願寺鹿児島別院が右にある。初七日は葬儀の日に火葬場から帰って葬儀場付属の会館で遠くからきた親戚もいるうちに済ませた。二七日は正月とぶつかったので、三七日と合わせて1月7日に西本願寺に行ってお経をあげていただいた。今後は毎週日曜日に家族で行くようにしている。 しばし、休憩の後、公園から西郷さんの銅像が見える場所まで行って、陸軍大将姿の「西郷どん」と今年はじめての対面をした。 西郷さんの銅像から右方向にカメラを向けると左側に「中央公民館」(詳細は以前当ブログに書いた)。右側に「宝山ホール」(鹿児島県文化センター)がある。左の中央公民館は学生時代に演奏会などで歌った懐かしい場所である。私が昭和37年に他県に行った後に右の「宝山ホール」は作られたようだ。このところの演奏会はほとんどここで歌っている。 ウオーキングを始めて今日で4日目。明日はいつものメンバーではないが、今年初めてのグラウンドゴルフに誘われている。少しづつ復活します。
2023.01.11
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私たちの老人会のグラウンドゴルフ部は少人数ながら10数年前からこの公園で水曜日と土曜日にグラウンドゴルフを楽しんでいる。最盛期には15人位いた同好の士も次々と病に倒れたり、家庭に事情があったりで、段々少なくなって最近は新しく入ったお二人を含めても最大7人しか集まらないとう状況になっている。 そういう中で数年前からこの公園を月3回以上草取りや落ち葉の掃除などする「公園愛護作業」をすることを市役所と約束をして、人数の少なくなった現在も続けている。春から夏にかけては「草取り」、秋の終わりから冬にかけては「落ち葉掃除」が大変だが、公園を使う人の中にマナーの悪い人もいて、煙草の吸殻、お菓子の袋、たまには弁当のプラ容器、飲み物の瓶・缶・ペットボトルなど散乱していることも多い。そういうものを黙々と片付けた後、ラジオ体操をしてゲーム開始となる。 先々週の土曜日、公園に行ってみると、いつもの公園にないような枯れ枝や木の葉が落ちていた。皆でそこに集中してそこだけで大きなゴミ袋5つ分になったゴミをいつものゴミと一緒に集荷所に運んだ。そして先週水曜日、今度は土まで公園に落とされている。土曜日も変化なし。さすがにここまでの量は私たちの手には負えない。今朝も変化なし。業者の方にも都合があって、まだ収集に来れないのかなと思いながら次の土曜日まで様子を見ることにして歩を先に進めた。 下の写真は先週写した公園の上の土地。どうやらここの清掃で出たゴミではないかと思うことだった。 気分の悪さを吹き飛ばそうとウオーキングを進めた。 週2回のグラウンゴルフでは一回で5000歩前後歩くのだが、その他では冬の間家に閉じこもることが多く身体を動かしたくなる。そこで天気の比較的いい日には努めて団地内を歩くようにしている。そうすると、わが家からは見えない桜島を見ることが出来る。現在の私のお気に入りのコースは70分くらい歩くコースだが、天気によって様々だが、その途中に3回桜島が見える場所がある。上の写真はズームして写したが、南岳に噴煙を見ることげできる。
2022.02.17
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パソコン歴30年以上ある私だが、メカに弱いことが露見した事件? がこのところ二つ相次いで起こった。 一つは、デジカメで写したSDカードのデータ消失事件である。いつものように、SDカードから写真を取り出して、ブログに転写する作業を進める途中の出来事である。それ以前の私のやり方が間違っていたのだろうか、いつもとちょっと違う場面が目の前に広がった。そこで以前の画面に戻そうと手探りで試行錯誤していたある瞬間に目の前にあったSDカード画面が凄い速さで消える方に動き出した。正に瞬足という感じでアレヨアレヨという間に消え去って、それをストップする暇もなかった。今、考えても私がどこをどう触ったのがいけなかったのか、思い出せない。慌ててSDカードに残っていないか再生しょうとしたが、何百枚もあった画面はすべて消失していた。すぐに復元出来ないものかとネットで調べたが、私の手には負えるもののではなくて、諦めた。落ち着いて調べてみると2021年4月6日以降から2022年1月6日までに撮りためた映像が全て失われるという結果となった。その間の画像は手帳で振り返ってみると、県内数か所の「史跡」の写真と一番の痛手は「甑島2泊3日の旅」の写真が失われた。ただ数は少ないがブログに取り上げた主要な写真は保存できているので良しとしよう。 この際と考えてネットでSDカードのことを調べてみると、これまで知らなかったことがわかってきた。それは「SDカードなどのフラッシュメモリーは寿命が短い。2,3年後にはデータが消失してしまうか、SDカード自体を認識しない」「SDカードのメーカーは、カードの寿命を通常5年から10年程度といっているが、実際は2年から3年程度を目安にした方がよい」などで、これまでの私の保存方法は間違っていたことがわかった。今後はパソコンに保存するなり考えよう。 二つ目はブロ友さんのブログにコメントを書いてクリックしてもこれまでにように書き込みができず「楽天ブログへユーザー登録していただかないとコメントには記入出来ません」という赤い文字がでる。私としては、ブログは書き込めて表示も出来るのに今更何が「楽天ブログへユーザー登録して・・・」かという思いだった。この件もネットで調べてみたが要領を得ない。それが5日くらい前のことだ。尽くす手もなくしばらく静観していて昨日、コメント欄に書き込むと何にもしていないのにすんなりこれまで通りと同じに書き込みができた。同じく私のブログにコメントをいただいたブロ友さんに私のブログでコメントを書き込もうとしても、「クマタツ1847」の私の名前が表示されないていないということで、これも返事が書けなかったが、上の空白欄に「クマタツ1847」を書き込むことで、こちらは曲がりなりにも書き込むことができた。しかし、昨日からはこちらも問題なくこれまで通りの操作で済むようになった。 一番目のSDカードの中身消失は私の人為的なミスということは明らかだが、二番目の問題は依然として私の気持ちの上でモヤモヤが残っている。
2022.01.28
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6月18日17時30分、2回目の接種を終えた後、19日になってそれを忘れてグラウンドゴルフなどに興じたせいか倦怠感に襲われたことは前回の当ブログに書いた通りだ。 そして昨日、接種2日後は自宅で安静にしておくべきだったが、コーラスの総会に出席のため隣の市・日置市伊集院町の公民館まで行った。コロナ禍のため、鹿児島市内の通常の練習会場は使わせてもらえず、市内の練習会場を転々としていたが、ついに市内に練習場が見つからず20日の日曜日から8月までは隣の市・伊集院で練習ということになった次第だ。ただし、昨日は年に一回の総会が1時間あり、そのあと1時間の練習となっていた。 私は、体調によっては休んだ方が皆に迷惑をかけなくていいかとも思ったが、総会で会計監査報告をやらなければならない仕事があったので、事前にJRの時間も調べて用意万端整えていた。ところが私たちの団の友人(副会長)から電話があり、「今日はご苦労さまです。伊集院に行く足はありますか。よければ私はクマタツさんの近くを通っていくので便乗しませんか」という有り難い申し出である。私は喜んでお願いすることにして、我が家から5分くらいのスーパーの駐車場で落ち合うことにした。 落ち合った後、車に乗せてもらった私は、堰を切ったように義弟が亡くなって葬儀の日の夕方が2回目の接種であったことや、その後の体調のことなど一方的に話をした。今考えるとさぞかし彼も戸惑ったことだろうと思う。総会も練習も予定の時間に終わり、帰りも彼に乗せてもらって帰ってきた。帰った後は、少し疲れた感じがしたが早めに休むことで今朝はまずまずの寝覚めであった。 今日は月一回の歯のクリーニングの日だったので、予約時間の9時にはクリニックに到着し、施術してもらった。これには毎回約1時間を要するので緊張で正直終わった後はいつも疲れを感じる。しかし、今日も無事に乗り越えることができた。もう大丈夫かなと思う。
2021.06.21
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一昨日は、月に一回、歯科に通って定期健診とクリーニングをしてもらう日だった。いつものように歯科の椅子に座りクリーニングを受けながら「由無し事」(よしなしごと)が頭の中を駆け巡っていた。フッと「そうだ!今日は5月20日だ」。5月20日は私が会社人生から完全リタイヤした日だったということに想いが至った。何年前の事だったか頭を巡らせるとちょうど12年前になる。 完全リタイヤが5月20日というのは、世間的には中途半端な時期だと思われるかもしれないが、私が7年8ヵ月勤めた銀行をやめて転職した〇安全会社の決算日が5月20日だったことがその由縁である。その会社で将来経理で身を立てるべく九州支店(北九州市八幡東区)に入社したのだが、営業職に転身し、長崎、徳山(現在の山口県周南市)と転勤した。その徳山時代に全国的に販売ネットを張ろうとする会社の方針を知り私は鹿児島に帰るべく手を挙げた。地元法人として立ち上げた会社も親会社の力も借りて、順調に? 推移し後進に道を譲った。ときに64歳だった。退職後もしばらく自分で開設した国分営業所に週4日ほど加勢に行っていたのだが、ある日 親会社から電話があり、親会社に復帰する形で「監査」の仕事をやらないかとの誘いがあった。監査は受ける方の立場でしかそれまで経験がなく、いい印象はなかったが、まだ元気だった私はそれに応じた。上京して親会社と打ち合わせして概要が決まった。仕事の内容は博多にある九州支社と福岡支店、福岡にある本社の事業部をはじめ九州内にある系列販売会社9社、その販社の営業所が8ヶ所など全てを一年に一回づつ監査のために臨店訪問すること。一ヶ所には3日~4日の臨店監査、事務所は鹿児島の事務所の2階の一室とし、週3日の勤務で九州各地にある販社には自家用車での出張OK。それまでの監査は本社の監査室からくる社員ばかりだったので公共交通機関を使うのが原則だったが、鹿児島駐在のまま大好きな車で動けるということになり、私にとっては願ったり叶ったりという好条件であった。仕事はそれなりに大変ではあったが、それよりも毎月異なる県に車で行き、新しいものを見る、食べるなどちょっと不純ではあるが、好奇心の強い私にはぴったりの仕事だった。事前調査は鹿児島の監査分室のパソコンから当該店の売掛金などが見ることが出来るシステムになっており、ネット時代の特性をフルに活用できた。それが最短での臨店監査にも結び付いた。出張から帰ると「監査報告書」を作成し報告し、年に2,3回本社での監査報告会議に臨むという段取りだった。監査の仕事は3年くらいということで始めたのだが、6ヶ月、1年伸ばしで終わってみればちょうど5年間が経っていた。そして年齢的には69歳と5ヵ月というところで予想以上の年齢に達していた。 そのような事はブログを始める以前の事なども当ブログのカテゴリ・エッセイ欄にもあるように機会あるごとに書いてきた。もちろん当ブログも退職後の12年間の自由な時間になってからの事が中心ではある。退職して12年は干支でも丁度一巡したわけだが、振り返っても大変貴重な長いような短い月日でもあった。 自分でも暗中模索の12年間ではあったが先ず健康に恵まれてここまでこれたことが一番大きい。退職後の12年を振り返ってみると、現役時代も時間を割いて歌っていた男声合唱も全ての行事に参加できるようになり、ボランティアで70歳まで6年間本部会計を担当した後、現在は会計監査を続けている。また好奇心から鹿児島の歴史にも首を突っ込んでしまった。元々高校の同期生たちとの交流は盛んだったが歴史の同好の士が集うことでなお一層絆が強まった。この他、グラウンドゴルフも継続し、地域ボランティアも町内会の体育部長、会長、老人会の会長、青パト隊員として子供たちの見守り活動、小学生と昔の遊びや給食を一緒に楽しむ交流会、また友人が役員を務める日中友好協会の中国人留学生との交流キャンプ参加などたくさんのことを楽しみながらやってきた。そうそう、男クッキングなる料理教室にも通ったし、昨年は国勢調査員も経験することができた。こうして12年間を振り返ると、実りある時であったと思う。さあ、これからどう残された人生を生きていくか、退職記念日はそれを考える大きな節目になる日にもなった。
2021.05.22
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5月10日(月) 朝起きて新聞を取りに外に出ると久しぶりの霧が周りに立ち込めている。道路の100mくらい先がやっと見えるくらいだが、近所の宅地開発が進むまでは霧の発生も頻繁で近くも見えにくくなる状態だった。しかし、久しぶりの霧に何とも言えず嬉しい感じである。慌てて、家に入りデジカメを持って外に出て家の周辺を写した。こうしてみると、ここはやはり田舎なのかとも思う。因みに我が家は左側の一番手前であるが、東南の角地にあるので幸い日当たりもよく冬場も助かる。 その朝のモヤモヤがその日の昼間にも再現された。いやいや、それは当地ではなく、東京は永田町で再現されたのだ。そうそう、あの総理大臣殿のコロナ禍におけるオリパラ開催に関する「答弁」である。これ以上、書くつもりもないが、質問にはまともに答えず、官僚が書いたであろう文書をひたすら読み返すのをテレビで見ていてモヤモヤ以上の腹立たしさを覚えたのはクマタツだけだったらいいのだが。 最後に気分を入れ替えて、再生しつつある我が家な雑草園の写真を一枚。
2021.05.12
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(イラストは高校八期生・Kくんのお兄さんの11月初旬の作品・前列左から2番目がジージ) 今日はもう11月30日。今朝は一日早くカレンダーをめくり12月にした。別段早く歳をとりたい訳でもないが、毎月の習慣に習った。 昨日、釣りに行った息子が久々に真鯛を釣ってきた。45cmとまあまあの大きさだったが、昨夜はハタと一緒にちり鍋にして食べた。寒い日は鍋が一番だ。残ったタイと他のいとよりと黄紋ハタ? は、とりあえず冷蔵庫へ。 今朝は6時半に起きて、新聞を取りに外に出ると、きれいな朝焼けに出会った。 リタイヤして10年、現在の日々の暮らしを振り返ってみた。家庭生活は妻と次男との3人暮らし。長女の家族4人、長男の家族4人は、いずれも市内在住で何事かあればすぐ集まることができる。幸いなのは、いいことでしか集まったことがないことだ。孫はそれぞれ男の子が2人づつで4人。全くの男ばかりの色気のない家族である。 日常生活は、可もなし、不可もなしとでも言おうか、先ず先ず平穏な暮らしが続く。私も妻も生活の大きな柱であるそれぞれのコーラス活動も、このコロナ騒ぎでままならず、今年は練習も演奏の機会も奪われてしまって、ほとんど休止状態が続いた。秋になって、それぞれのグループとも練習再開はなったものの、恒例の週一の練習は出来ず、月2回の練習で再開するという有様だ。ただ月2回でも仲間と会えて、マスクをつけたままの練習でも嬉しい。 週2回のグラウンドゴルフは緊急事態宣言が出されたときは2ヶ月くらい休止したが、現在は完全復活している。これは無理せず身体を動かすので、知らず知らずのうちに体力維持に役立っているのではないかと思う。ただ老人会恒例の行事である大会への出場、日帰りバス旅行、花見、忘年会などの行事は全て今年は中止となった。 ウオーキングは体調に合わせて日にちも距離も自在にやるようにしている。しかし、決してサボっていないつもりだ。動かないと身体がそれを要求するので、グラウンドゴルフの合間にいい間隔、距離で歩く。 高校時代の八期仲間との交流も欠かせない。ブログに何回も書いているように、今や歴史や旅など八期仲間なくしてはありえないほどの付き合いである。鹿児島を離れた20年間があったものの、それがなかったごとき付き合いができるのが嬉しい。 まだ今年も1ヶ月を残す中での近況である。
2020.11.30
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もう10月も22日だという。今年はあと2ヶ月少し残っているが、このような閉塞した気持ちのままで終わってしまうのだろうか。 コロナに明けたとは言わないまでも2月に入るとダイヤモンドプリンセス号での新型コロナウイルス疾患が判明、その頃はまだいくらか遠いところの出来事というような感じていた。ところが福岡で患者発生、それからは当地でも次々にクラスター発生など慌ただしい世の中になっていった。その間、私たちのおじさん合唱団の合唱活動も停滞し2月7日の日置市の「石谷小学校」でのスクールコンサートを最後に10月14日の薩摩川内市「東郷学園義務教育学校」でのマスク着用のコンサートが開かれるまで対外的な活動はストップしてしまった。加えて今後予定されていたこれからの2つの行事も休みとなった。毎週日曜日の練習も3月から7月まで休みとなったが、東郷学園の演奏会に備えて8月から大ホールを借りて練習再開。これも終わってとりあえず10月は休みである。11月以降は未定だが、大きな口を開けて声を出す合唱が文化活動の中でも一番問題があるとされているので完全解放の見通しが立たない。 グラウンドゴルは、学校が休校になったこともあり、自粛しようと4月末から5月末まで約1ヶ月間休止した。 旅行らしきものは、コロナ禍の最中の3月27、28日、孫の高校卒業と大学入学を祝って娘一家4人とジジ・ババの6人で島原・長崎・阿蘇の一泊したことくらいか。少し良心が痛んだが年来の約束だったからと自分にいい解釈で乗り切るしかなかった。阿蘇の宿で鹿児島での患者発生第1号を知って深雑な心境だった。もう一つは高校同期の歴史愛好仲間4人での日帰り「えびの市への旅」だった。主に島津義弘に関する史跡を訪ねるのが目的だったが、その他の史跡もたくさん見学することができた。 久々の緊張の日々をおくったのは国勢調査員をしたおかげである。8月18日の打ち合わせ会議に始まり実務は9月9日くらいから始まった。その間、適当に気を抜きながらの作業だったが前にも書いたように久しぶりにテストを受けるような気持ちを持った。紆余曲折しながら今日やっと最終報告書を書き上げた。しかし、これも最終的に指導員さんが合格をだしてくれるかどうか。来週の期末テストを待っているところだ。 明日は合唱団の会計引継ぎである。会計は10年前に卒業したが、その後は監査である。会計が変わるのでその立会ということで出かけなければならない。 明後日24日から1泊で宮崎への歴史旅である。またいつもの4人組の珍道中になるだろう。
2020.10.22
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世の中と私の心をこれまでないほど騒がせた台風10号は少し心を騒がせて音をを立てながら去っていった。2,3日前からのテレビ等での前触れが「台風の特別警報発表」がされるかもしれないということや「瞬間最大風速85m」などと伝えられ、心が騒ぎ構えざるを得なかった。 前日から、我が家の今や雑草園と化した狭い庭を妻と片付けて、風で飛ぶようなモノの場所を移したり昨日は朝から雨戸を閉め切るなどいつになく準備をして台風を待った。 鹿児島に最接近するといわれた午後11時頃に近づくとそれまで920hpaあったものが少しづつ上がってきて945hpaまでなってきた。進路も心なしか更に西の方にいったようなふうにみえた。 9時30分くらいに一回目の停電があり、2,3分で回復、そういうことを2,3回繰り返していたが11時頃の停電を最後に今朝の8時30分まで回復しなかった。昔は台風銀座といわれた鹿児島だがここまで長い時間の停電は記憶がない。 11時頃の停電でちょうどその頃が風もピークだったが、雨戸のガタガタする音を聞きながらいつの間にか寝入ってしまった。午前2時半頃目が覚めるともう風はほとんど治まっていた。思った程のこともなくホッとして朝6時過ぎまでまた寝てしまったが、起きだしたときは雨戸のない台所の窓からさす光で明るくなっているのがわかった。 外に出て家の周辺を見ると我が家の前にある「ゴミステーション」が上のような有様である。これを復元しようとゴソゴソやっているところに、若者がごみ捨てに来合わせて加勢してくれた。ここは、私たち3班と隣の4班の「ゴミステーション」だが、このステーションは近所の人と私たちが組み立てたものだったので、このまま放っていく気にもなれず、なんとかしようと思っていたところに好青年の登場で助かった。 我が家は雑草園に置いていた鉢植えの「ブーゲンビリア」が倒れていた。トゲがあるのでバッサリ切り刻まなくてはと思っている。玄関先にもどこからか木の枝が飛んできていた。これくらいのことで済んでほんとによかった。
2020.09.07
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いつまでも届かいないと思っていたコロナの贈り物が5月末になって相次ぎ届いた。 5月30日(土)、夕方 郵便受けに「特別定額給付金のご案内」の封書が入っていた。当地では6月になるとのことだったので、その心づもりだったが、5月中に届いたのでちょっと以外ではあった。すぐ開封して、どのようなものかザッと目を通して「10万円の申し込み」であることを確認した。夜、落ち着いたところで『特別給付金』給付申請手続きのご案内 を見て記入した。 5月31日(日)、午前11時頃、この日 開催の合唱団の会計監査に出かけるために家を出て郵便受けを見ると、テレビで見ていた「アベノマスク」(今や国民からの愛称になった?)らしいものが入っている。手に取ると間違いなく「アベノマスク」である。我が家では、この騒ぎの前からいくらかの使い捨てマスクのストックもあったし、コロナ騒動が勃発してからは妻が布製マスクを手作りして家族で使っている。今となっては、我が家で使うこともないだろうし、さて、捨てるわけにもいかないし、どこかに寄付でもしようかと思っている。ただ先日テレビで「北野たけし」が「アベノマスクを見たとき、眼帯かと思った」とギャグを飛ばしていたくらいだから役にはたつまい。 先ほど、ヤフー・ニュースを見ていたらマスクの予算は、当初の466億円から260億円に収まりそうだということだ。ただ、配達は5月末までには1億3000枚予定が4800万枚しか出来ておらず、残りは6月中旬までかかるそうだ。全く呆れたものである。やれやれ!
2020.06.01
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鹿児島市の吉野公園にこの日はバラを見に行ったのだが、その他にもいろいろなものを見ることができた。何よりも良かったのは、ここからの桜島の眺望である。私もこれまで数え切れないほどここを訪れているが、展望台から眺めるこの日の桜島は最高だった。鹿児島市の市街地からはほぼ正面に見える桜島もここからではちょっと左からの眺めになる。 下の写真は、鹿児島湾(錦江湾)の出口に向かう方角でありここを出て行くと南の種子島、屋久島、奄美大島諸島、沖縄へと繋がる。 この写真はちょっと絞って写したものだが、真ん中より左に見える山が「薩摩富士」と呼ばれている「開聞岳」である。この山も近くで見てもほんとに富士山にそっくりで美しい。 左を見ると湾の奥の方、霧島市などが望める。この写真もちょっと絞って写したが、霧島連山を望むことができた。 吉野公園の正面に広がる花壇 その日見かけたバラ以外の花々
2020.05.14
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昨日の新聞に先日、高校同期の友人たちとコロナに負けじとこっそり? 桜を見に行った鹿児島市の吉野公園のバラの記事と写真が掲載された。 「バラ見頃 甘い香り 吉野公園」という記事である。それを見た連れ合いが「明日吉野公園に行きましょうか」とのたまう。まだコロナ騒ぎは続いているが「天気も良さそうだし、これくらいは許されるだろう」と勝手に決めて初夏の吉野公園に向かった。 我が家から歩いて2分くらいのバスの終点から吉野公園行きの直行バスがある。午前10時発のバスに揺られて55分、終点の吉野公園に到着。先日の花見の時より人出は少し多い感じがした。それでも広い公園なので、3蜜とは程遠い感じである。 バラ園みたいに大きなスケールではないが、写真にあるように美しいバラが咲いていた。(個々のバラの名前は見てこなかったのでゴメンなさい)桜島もいつもにも増してくっきり見えた。
2020.05.13
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先日、久ぶりに歯科クリニックの診察券を取り出して出して、近所の病院に行った。ここは、若い先生だが、私の高校の同期生の息子さんで、評判のクリニックである。2015年2月4日、初診とある。そのときは、かなりの痛み具合で様々な治療に数ヶ月を要し、治療が終わってからも定期的な歯石取りなど手入れを勧められて一ヶ月1回の通院をしばらく続けた。しかし、2016年9月27日を最後に10月に風邪をひいたのでそれをきっかけに、いつもの不精が出て、それっきり通院を止めてしまった。 その後、2017年の4月から町内会長をやることになり、忙しさを口実に通院復活もせず、今日に至っていた。ところが、2年くらい前から右上の奥歯が少しづつ動き出して、最近は右奥で食べ物を噛むことができないくらいになってきた。最近に至ってはもうグラグラという状況で、たまには奥で噛むと大きな痛さを感ずるようになっていた。それでも自然に抜けるのをしばらく待っていたが、食事をしてもよく噛むことができなくなり、ついに意を決して、3月19日の予約を入れて門を叩いたのだった。 麻酔注射をして抜歯はあっけなく終了。こういうことならもっと早く抜いてもらえばよかったと思うのはいつものこと。(まこてたまっの入らんもんじゃ) その後は一週間に1回の通院で右上半分、次に左上半分、今日は右下半分、来週は左下半分の歯石を取ってもらって、次の治療に入るそうだ。つまりは、ほとんどの人が罹るという歯周病のようだ。治療が終わっても、今度こそは月一回の通院で歯の健康を守っていきたい。 イラストはネットから拝借した。ただ私の頭はここまでは後退していないので念のため(爆)
2020.04.20
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昨日と打って変わって今日は快晴である。朝起きた時の室内温度は14,5度 湿度60%。 この一週間ではもっとも冷え込んだ。体調も万全なので満を持して、8時5分にウオーキングに出た。今年は1月~3月中旬までは、特別病気でもないが、少し歩くとこれまでより少しだけだが息が上がったりしていたので、週2回のグラウンドゴルフ以外は歩いたりすることが少なかった。それでも1月2日~3月の3ヶ月間に26日は歩いている。週2回のグラウンドゴルフと合わせるとそう気にするほどの運動不足でもないなと自分を納得させる。一回のウオーキング量も歩き過ぎると足を痛めるという話もあって、30分~50分くらいに留めてきた。 今朝は歩き始めると思ったように快調である。私は元々せっかちなこともあり、歩くのも速い。歩数が記録されるスマホや万歩計など一切持っていなので、一分間の歩数を測ったことがあるが、120歩前後歩くことがわかっている。 今朝も近所の公園の桜の前や、グラウンドゴルフをする人々を足早に歩きながら見たりして、歩を進めた。コースは概略は同じだが、時間や気分で突然変えたりする全く気ままなものである。途中から汗ばみ始めて、家に帰りつくとシャツは汗でびっしょりである。結局今日は65分歩いていた。久しぶりに1時間を超えたが、明日からはまた元に戻そうと思っている。 朝風呂に飛び込んで、♪ いい湯だな♦♫♦・*:..。♦♫♦*゚¨゚゚・*:..。♦
2020.04.14
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連日の「新型コロナウイルス」騒動には恐怖を感じている。九州でも福岡に続き、熊本でも患者発生!もう隣の県まできてしまった。新幹線ではアッという時間で行き来が出来る距離になってしまった今、鹿児島でもいつ発生してもおかしくないような状況ではある。 サンデー毎日の私には取り急ぎ街に出る用事もないのだが、毎週日曜日のコーラスの練習だけは鹿児島市の中心街に出かけることになる。街のど真ん中に練習会場があるからだ。昨日もそうだった。妻にマスク着用を命じられて素直に従って、マスク着用でバスに乗って出かけた。日頃着けならないマスクをしたせいか、いつもより息が上がるような、息苦しいような気分であった。バスが中心街・天文館に到着。降りて5分くらい歩くのだが、日頃は気にもしないマスク着用者に目が向く。ちょっと見たところでは着用率は5分の1くらいか。鹿児島ではまだまだ切迫感を感じていない人が多いのか。老若男女のカップルを見ても一人は着用、もう一人は着用せずという組も多い。 日頃は、気にもしなかったことを考えたり、見たりしたせいか、息苦しさはますます募ってきた。そして、練習会場着。ここでもマスク着用者は数えるほどである。マスクを外して練習開始。ところがその辺から少し寒気もし始めた。練習の前半が終わる頃には、少し震えも来るような感じになってきた。その頃から、練習の前半が終わるハーフタイムの休憩時間には家に帰ろうと思い始める。やっと前半終了。いつものように会長からの伝達事項が終わって5分くらいの休憩時間になって、同じパートの責任者や周辺のメンバーに「ちょっと用事があるから早退します」と皆に心配をかけないようにして練習会場を抜け出した。 そこから商店街を抜けてバス停へ歩いたのだが、寒気が一気に押し寄せ、バス停でも待っている10分くらいの間、小刻みに震えていた。足を動かしたりして誤魔化したり、マスクもしていたので周りの人にも不思議がられずに済んだと思う。家に帰ると旦那のいつもより1時間くらい早いご帰館に妻もびっくりして「どうしたの?」とのたまう。私「カクカクシカジカ」。ということで、午後6時前にはベッドに入った。震えはすぐに収まったが、少し熱が出てきた。この時、頭の中は、毎日刷り込まれた「新型コロナウイルス」のことでいっぱいである。体調の悪い時はロクなことは考えないもので「新型だったらどうしよう」という思いが去来する。しかし、いつしか眠りに落ちたようで2時間くらいして目覚めたが、汗ビッショリ! 全てを着替えてしばらく休み、30分くらいして居間に降りた。この時はだいぶ気分も良くなっていたので食事を摂る。無理していつもの3分の2くらい食べる。熱を計るが、体温計が古いのか、何回計っても37度1分くらいしか測定されない。妻の触診では「38度くらいはあるよねぇ」という。 それから、一夜、その後、発熱もなく、今朝は先ず先ずの状態で目覚めた。今、思うと昔やった「熱中症」と同じような経過をたどったようだ。ホッ!かくして、私の「新型コロナウイルス」騒動は終幕を迎えた。でも、これからも気をつけよう。
2020.02.24
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今朝の新聞を見て驚いた。鹿児島県の人口が遂に160万人を割ってしまっというのだ。今年の1月1日時点の県内推計人口は159万9779人だという。 更に驚いたのは、記事によると、私が生まれた1940年の国勢調査(158万9467人)以来だという。ちょうど私が生まれた年と同じ人口に戻ってしまったことになる。 私は1981年に20年間の県外生活に区切りをつけて、鹿児島に帰ってきた。そして仕事をやる上の必要性から県の人口や産業構成などいろいろなことを調べたが、その当時は180万人近い人口だった記憶がある。 記事によると、県人口のピークは1995年の204万人だったという。ピーク時との比較では44万人も減ったことになる。寂しい限りである。 今後の見通しはどうか。国立社会保障・人口問題研究所が2018年3月に公表した「日本の地域別将来推計人口」によると、県人口は2025年に151万1千人、2030年には143万7千人に減るとみられているという。 孫たちの世代が次々に社会人になって、世の中に出ていく頃の鹿児島は、日本はどういう世の中になっているのだろうと思うことしきりである。
2020.02.01
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それまではやったり、やらなかったり気の向くままにやっていたウオーキングを、きっちり始めたのは昨年の11月のことだった。グラウンドゴルフで動く水曜日と土曜日はとりたててウオーキングはやらないことにしてのことだ。ところが、ちょっと気負いすぎて、気が向くままに歩きすぎて、1時間くらいをほとんど競歩みたいな感じで歩いていたら夜ベッドに入ってから右足が少し痺れるような現象が起こってきた。家人いわく「お父さん、歩き過ぎよ! 歳のことを考えたら」というお叱りのような、助言のようなことをのたまう。歩き過ぎはいけないという。 それからは歩くピッチを落とし、時間も40分~50分くらいに抑えて今年の歩くことを心がけて7月中旬まで続けてきた。さすがに8月、9月、10月は全くのマイペースにし、熱中症にならないようにできるだけ歩かないようにしてきた。ただ10数年続けている近所の仲間たちとのグラウンドゴルフは暑いも寒いもなく、一年中天気さえ良ければやってきた。 そういう中で、やっと日中の暑さも和らぎ始めた11月になって、歩き始めた。歩く時間はこれまでと同じ40分~50分。今日は1時間歩いた。コースはだいたい決めているが、その日の気分でいろいろ模索しながら歩くこともある。もともと歩くのは大好きなので、歩き始めると今日みたいに調子に乗ると歩きすぎてしまうことになる。用心、用事 もういい歳なんだから! といい聞かせながら歩こう。
2019.11.15
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表題の言葉は鹿児島弁です。簡単な「かごっま弁」ですから、大意は皆さんおわかりでしよう。そうです。「今日はスーパーでリポビタンDを買ってきたぞ」です。実際に朝から往復45分、ウオーキングを兼ねて買ってきました。日頃、レシートすらもらわないこともある私がレシートを見ると消費税もしっかり10%になっています。いえいえ今日はそいうことを語るはずではありませんでした。 今日は簡単な「かごっま弁」講座です。今日の45分くらいの歩きは疲れませんが、数時間もあちらこちら買い物や見物で動き回ったあとは、次のような言葉を発します。「きゅは、いっぺこっぺさるたもんじゃっですったいだれた」(今日はあちらこちらと歩き回ったので、すっかり疲れた)台風が来たときは、「きのん晩な、わっぜえかうかぜでやぞろしかっせえ、ねがないもはんごわした」(昨夜は凄く大きな台風で、騒がしく、眠ることができませんでした)年寄の挨拶「よか天気ごあんどなあ、どこい行っきゃっとごわしか、気をつけっいたっきやんたもんせ」(いい天気ですね、どこにおでかけですか、気をつけて行ってらっしゃい) しかし、鹿児島でも最近の若い人は、ほとんど上記のような言葉は使いません。私たち80代前後の年代でも、ガチガチのかごっま弁は使わなくなりました。半分くらいは使います。私たちの祖母や母の年代では丁寧な薩摩言葉も使われていましたが、もうそういう言葉を使える人がほとんどいなくなってしまい、テレビやラジオで純粋のかごっま弁を使って次世代に残そうとする動きがあります。私たちが小学生の頃はかごっま弁を学校で使うと友達同士で「言葉使い」と注意され、その回数を下校前に届けなくてはならいようなこともありました。まさに昔日の感があります。ただ、現在の子供たちも、イントネーションはかごっま弁のままで、使うのは国語の読み方通りというようなことでしょうか。若い女性は職場では特に来客などに対しては標準語で語りかけることが多くなっています。そういう意味では、かごっま弁も過去のものとなりつつあります。かごっま弁もネタはたくさんありますので、また機会を見つけて書きたいと思います。
2019.11.03
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いい時代になったものだ。今更ながらと思うが、50年以上前の映画を茶の間で見ることができる時代になった。先日、CSの番組表を見ていたら、片岡千恵蔵「任侠清水港」と市川右太衛門「旗本退屈男」という文字が目に飛び込んできた。 ん! これはひょっとして懐かしい往年の東映のオールスター出演の正月映画ではないか?調べてみると、どうもそのようだ。早速2本とも録画予約。数日置いて見ることができた。 下の画像は清水次郎長一家28人衆が勢ぞろいして富士山を右に東海道を歩くシーン。(こういうシーンにその頃のジージは痺れたものだった。(笑)) wikipediaによると「任侠清水港」は昭和32年(1957)1月3日公開とある。私が高校二年の正月のことだったのだ。(ジージにもそのような時代は確かにありましたぞ!)当時は今考えると日本映画隆盛の入口だったのかな?その後に、石原裕次郎など日活映画の全盛時代へと続いていったような気がする。 当時の東映は、正月になると、このようなオールスター出演の大型時代劇を公開していた。この「任侠清水港」の配収は3億5319万円で1956年度の邦画配収ランキングの第一位だったそうだ。下の画像は中村錦之助扮する「森の石松」と主役の片岡千恵蔵扮する「清水次郎長」(昔を思い出して今でもしびれますぞ! )当時は東映映画が大好きで、良い役をする俳優と悪役の俳優もほとんど覚えていた。片岡千恵蔵が息を吸い込む音を立てながら啖呵を切る場面など最高だったなあ。(因みに片岡千恵蔵の3男は前日本航空の社長で現会長の植木義晴氏である) 映画について書き始めたらいろいろな思い出が交錯してきた。またいずれ書く事もあるだろう。
2019.10.29
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鹿児島の梅雨明けは、7月24日だった。 私はこの時期、朝の起き抜けの時間 6時から6時15分くらいの間の室内温度と湿度を見ている。 7月19日 温度28度c 湿度88% 台風と梅雨明けまえで鬱陶しい 7月20日 温度28度c 湿度82% 7月21日 温度28度c 湿度89% 午前中は大雨 7月22日 温度27度c 湿度90% 午後1時温度31度c 今シーズン初のエアコン入力 7月23日 温度27度c 湿度81% 7月24日 温度27度c 湿度80% 梅雨明け 7月25日 温度28度c 湿度79% 7月26日 温度28どc 湿度80% 7月27日 温度28どc 湿度81% 7月28日 温度27度c 湿度82% 7月29日 温度29度c 湿度81% 今日は最悪 体が朝からきつい 梅雨明け前後の温度と湿度を11日間書き出してみた。温湿度と自分の体調を比べてみると、高温もさることながら、湿度が大きく左右している。今日は朝起きた時からいつもよりキツく感じたが、朝の温度が今シーズ最高の29度だった。湿度も81%で高いがこの時期なら11日間の流れからごく普通である。そういうこともあって、今日は正午にはエアコン ゴー少々温度は高くても湿度が70%くらいになると、体が楽になってくる。因みに午後6時の室内温度は28度c、湿度は60%である。もう快調! 快調!である。熱中症の経験のある私は、自分の感じで「あ これは熱中症になるかも」ということが大体わかるようになっているが、そうなる以前の感じもなんとなくわかるようになっている。だから、グラウンドゴルフやウオーキング、その他の外出時もその予兆を知る前の段階で無理しないようになった。まさに神業である。(爆) まあこの調子で、80歳目前の夏を乗り切りたいものだ。
2019.07.29
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上の写真は宝山ホール入口 下な写真は7月17日の南日本新聞一面記事から拝借した。 鹿児島県出身の落語家で「平成の爆笑王三遊亭歌之介」と呼ばれた男が、この度 鹿児島から初めて大名跡を継ぎ、四代目「三遊亭圓歌」を襲名した。その地元・鹿児島での披露公演が7月15日、宝山ホール(鹿児島県文化センター)で昼夜2回にわたり開催された。 私たち夫婦は次男がプレゼントしてくれたチケットを持って、夜の部に行ってきた。全指定席だったが、22列目のちょうど真ん中辺りの席で絶好の位置で見る(聴く)ことができて初めて本格的な落語を見る機会となった。もっともその昔、出張の合間を縫って東京の末広亭で、半日 落語や漫才など見たことや、まだ城山観光ホテル時代の現在のホテル城山鹿児島の納涼の夕べで三遊亭歌之介時代の落語を聴くなど数少ない経験はあったが。 当日は先ず襲名披露ということで圓歌師匠を中心に左から 林家たい平、春風亭昇太、桂竹丸、三遊亭円楽の5人が緋色の演台上からの挨拶から始まった。その挨拶が面白く、客席から拍手や笑いが続いた。特にこのところの結婚問題で注目を集めた昇太師匠には大きな拍手が送られていた。 続いて一人ひとりの演題に移り、4人が演じ終わったところで、動物モノマネの江戸家子猫が登場し、鶯の絶妙な鳴き声などで会場を沸かせた。 最後はいよいよ三遊亭圓歌師匠の登場。「龍馬伝」を演じたが、鹿児島弁を交えた熱演に会場は爆笑の連続だった。
2019.07.17
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昨夜も300mmくらいの予報が出ていた降雨予想も外れて事なきを得た。しかし、少し納得のいかないこともあった。それは夜の9時台、10時台でのニュースでも盛んに鹿児島や熊本が映し出され、夜更けから明日(4日)にかけて300mmの雨が降ると予想しながら、一方で映し出される雲の動き(雨域)は午前0時頃には南九州から去って、翌日には四国や中国、関西方面に雨域は移ってしまう画面だった。それでも、300mm予想は最後まで続いた。 これからも大雨が降るという予想は、決してしばらくは気を抜くな! 雨が止んでも地盤の緩みでしばらくは山や崖の崩落の恐れがありますよ! とのことだったのだろうと思いありがたく受け止めることにしよう。 その画面を見て、私は素人予想で「峠は越したな」と一安心しながら眠りについた。そして、夜中も雨音で目覚めることもなく、ゆっくり眠って朝を迎えた。テレビでは昨夜は見なかった私の住む団地の下の地域で崖崩れがあった(住人は避難していて無事)ことなど映し出されていた。 レベル4の避難指示が鹿児島市全域に出され約60万の住人が1993年の「8、6水害」の恐怖を思い出しながら、それぞれの想いで一晩を過ごしたのだが、一部で災害は起こったものの、「8,6水害」ほどの被害もなく終わってホッとしている。ワイドショウでは60万人の市民の中で避難した人は3427人、住民の0,6%だったと伝えていた。この数字が多いのか少ないのか、同じ市民としても判断しかねる。このあたりに、予報や行政に対する信頼度の問題点があるように思う。 何はともあれ、先週から昨日まで3回のグラウンドゴルフの機会をフイにし、ウオーキングもほとんどできなかった私が、久しぶりに遠回りで買い物に出かけて、40分位歩けたことが何よりの収穫だった。因みに今日は朝から一滴も降らず、午後からはお天道様も拝むことができて、一部青空も望めるいい日和になっている。
2019.07.04
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テレビを見ると鹿児島の洪水の映像ばかり・・・。鹿児島がテレビで取り上げられるのは、桜島の噴火と、台風と豪雨災害の時でしょうか。それにしても、いつになったら雨が止むのでしょう。それまでは、降ったり止んだり(細かい雨は続いたままですが)だった雨が11時頃からは強い雨になってきました。これまでに数百ミリ降った上にこれからの雨が重なると、1993年8月6日のいわゆる「8,6水害」の再来があるのではと心配です。 鹿児島市内の小中高校120校は今日明日臨時休校になっています。ジジ・ババも家に篭もりっきりで雨の止むのを待つことにします。
2019.07.03
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3月22日を最後に、肩や首の痛みのため一ヶ月以上ブログを休んでしまった。右肩の痛みのため、夜眠る時に体の位置が定まらずバタバタしていたら、今度は左肩にも痛みがきて、首も曲げられないような誠に情けない状態がしばらく続いた。その間、皆さんから「病院で診察を受けてしっかり治療したほうがいいですよ」とたくさんの助言をいただいた。本当にありがとうございました。それでも不精な私は、もう少し様子をみようと、横着に構えていた。すると、いつからだったか自然に痛みも去り、どうにか今日に至った。重篤なものではなくて、単なる筋違いかだったのかもしれない。 その間も上と下の写真の近所の公園でグラウンドゴルフもウオーキングも休むことなく続けることができた。この公園の桜は5本しかないが、私が厚かましくも「指定木」とする下の写真の桜に5輪の花が咲いたのは3月26日であった。私の「開花宣言」である。(笑)そしてこの公園でどんぐりの会(老人会)の花見会が、3月31日(日)に開かれたのだった。 4月7日(日)娘と婿殿から電話があり、花見ドライブへ行かないかとのこと。娘一家も、二人の男の子が大きくなって、休日もそれぞれの用事で出かけたらしく私たちを誘ってくれたようだ。二つ返事でOKを出す。早速迎えに来てくれて、我が家のすぐ上の道に出て「薩摩街道 出水筋」の標識の立つ道路を日置市伊集院町の方向に向かう。 この道は、以前何回もブログにも登場させた島津義弘の関ヶ原の戦いの今でも語り継がれる「島津退き口」の勇敢な戦いを偲び開催される「妙円寺詣り」の通り道である。妙円寺詣りの出発点・鹿児島市の照国神社(島津斉彬公を祀る)から日置市伊集院の妙円寺と徳重神社までは約20kmだがこの距離を歩いて参拝する。私も2回だけ歩いて行ったが、今年は「島津義弘没後400年」の記念すべき年なので、今年の秋の妙円寺詣りには体調を整えて参加したいと思っている。 伊集院近くの「茶らら」(さらら)でランチをとった。桜は満開、ツツジも咲き始めていた。 この日は、妙円寺と徳重神社のある伊集院の街や伊集院駅までは行かなかったが、駅前には島津義弘公の勇壮な銅像がある。
2019.04.23
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一週間ほど前から体を動かすと、首周りに違和感があり痛いような感じがしていた。二日ほどすると、首の痛みはなくなったが、今度は昔2度体験した「五十肩」のような症状が右肩に出てきた。この歳にして五十肩とは、「まだ自分も若いのか」(笑) とも思ったが、眠るときも右肩を下にしては痛くて眠れなくなってしまった。そればかりか、パソコンに文字を打ち込んだり、カーソルを動かすだけでも、痛いようなムズ痒いというか違和感を感ずる。 できるだけ早く回復すべくストレッチやウオーキングは続けているが、ブログはしばらく休みます。
2019.03.22
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最近は男・78歳が良いこと、悪いことで話題になることが多い。私も同じ78歳! これらのニュースを見て、その人たちとの比較でも考えることが多い。昭和14年(1939)のいわゆる遅生まれと15年(1940)の早生まれが今年、来年の誕生日までが78歳である。 俳優・津川雅彦(1940年1月2日~2018年8月4日)が亡くなり、78歳とニュースが伝えていた。妻・朝丘雪路(1935年7月23日~2018年4月27日)を送って約3ヶ月というなんとも言いようのない早い死であった。 その津川雅彦のニュースと前後してテレビを賑わしたのが、男・山根 明である。泰山鳴動してネズミ一匹も現れないかと思うほどの勢いだったが、結局は「日本ボクシング連盟会長」を始め大阪や奈良の地方の役職も全て辞めるとのニュースがこの2,3日流れている。このキャラクターには私も完全にお手上げだ。今後どうなっていくのか見守りたい。 その男・山根 明のニュースが下火になったころ突然登場したのが、私がこれぞ男と思ったあの人の登場である。そう 山口県周防大島町で行方不明だった2歳の男の子を発見した男・尾畠 春夫さんその人である。もう皆さんご存知のようにボランティア活動の経歴も凄い。 私は、最初に子供発見のニュースを見たとき、年齢はお幾つだろうと、そして78歳と知ったときはもう完全に負けたと思った。と言うのは、いつも災害の度にボランティアのことが報道されるのを見て、もう私の歳になって行くような人はいないだろうと思っていたからだ。特に病気でもないし、そこそこの元気はあるつもりだが、災害現場に行って人助けをするほどの体力はもうないと思っていて、実際行ったとしてもかえって迷惑をかけてしまうような自分だろうとの自覚があるからだ。ところがどうだろう。この尾畠さんの元気は! 世の中には元気な人もいるものである。脱帽。 この際、有名人の78歳を調べてみたら、俳優の竜雷太・野球の張本勲、板東英二など枚挙に暇がないほどだが、中にはあの人もか、と思うような人もいるのでもう書かないことにする。(笑) 78歳は若いのか、もう年寄りなのか(年齢的には完全な年寄りだが)尾畠さんみたいなひともいることだし私ももう少し頑張ってみたい。
2018.08.18
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集落の長から解放された熊助おじいさんは、徒然なる日を送っていたかと思いきや、不精者でありながら好奇心だけは強いので、一日置きくらいには熊のようにごちゃごちゃと動き回っていました。暑さにも負けず、水曜日と土曜日は相変わらずのグラウンドゴルフを4ゲームづつやって、5000歩くらいは歩いていることになると自己満足に陥っていました。これだけでは一週間にわずか10000歩しか歩いていなことになるのだが、まあそこは年の功? で適当に気持ちを誤魔化しながら生きていました。 おじいさんは他にも、自分を満足させる楽しみごとを持っていました。その一つは毎週、休みの日(と言ってもおじいさんは毎日が休みでしたが)に籠に乗って出かける「おじいさんたちの歌合せ」の集まりでした。8月4日には大きな会場で「おじいさんたちの10回目を記念する歌あわせ会」があるので、それに向けて出ない声を振り絞り、稽古に必死に取り組んでいました。日本国中から同じ釜の飯を食べた歌好きの108人のおじいさんたちが集まってくるので、薩摩の地元のおじいさんたちの準備も大変でした。それに加えて、歌合せ10回目にして、初めて書物を見ないで歌合せをしようということが決まり、記憶力の無くなった熊助おじいさんは必死になって覚えようとしましたが、今見た書物の文章もすぐ忘れてしまうありさまで、心配は尽きません。さあ当日はどうなってしまったのでしょう。 そういうおじいさんでしたが、たまには家の雑草園の草刈もしなくてはということで、お日さまの出ないうちにと思い、ある日、早起きをして、雑草園に出ました。ところが、おばあさんから「雑草園はまたの日でいいから、家の周りの草から刈ってください」とのご下命が出されました。それには逆らえないおじいさんは、雑草園は大きな目に付く草だけを刈り取って、家の外に出ました。おじいさんの家の前は、集落のゴミと桜島の降灰袋を集める場所になっていました。人通りに面して人通りも多く、ゴミ出しにも皆さんが集まってくるので草などが生えていれば見苦しいのでした。その日は、一時間位かけて外回りを済ませたのです。その日からお盆までの何日間か、グラウンドゴルフなどない朝におじいさんは黙々と草刈を続けることになりました。 草刈のことを書くのに夢中でもう一つの楽しみだったことを書き忘れるところでした。 それは、歴史のあるところをこれも熊のようにうろうろ歩き回ることでした。特に、石像など石で造ったものが大好きでしたが、よく古い墓もめぐるので、人からは変人と思われていたかもわかりません。そいうことは気にしない熊助じいさんは、歴史的なものの説法などでも、いい話を聞けると思えば何処にでも出かけていました。また、寺小屋で一緒だった仲間たちとも歴史的なことの話題があれば、早飛脚よりも早い手段で文書や意見のやり取りをして楽しんでいました。 そういう熊助じいさんは、暑い暑いと言われた夏もなんとか乗り切って生きながらえたそうです。
2018.07.27
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昔々、あるところにおじいさんと、おばあさんが住んでいました。おじいさんは毎週日曜日に「おじさんコーラス」におばあさんは木曜日に「おかあさんコーラス」に行っていました。おじいさんとおばあさんは近所の仲良しグループと土曜日には棒の先に塊のついたもので玉を打って転がす今で言う「グラウンドゴルフ」にも行っていました。おばあさんは、家事や洗濯もありそれなりに体を動かしましたが、おじいさんはその他に体を動かすこともないので、水曜日にも同じようなおじいさんたちと6人で性懲りもなくその球転がしに行っていました。 おじいさんは80歳が近く、おばあさんもその次の年には今で言う「後期高齢者」になっていましたが、一見元気そうにしていました。しかし実際には、それぞれ膝が痛いの、やれ坐骨神経痛なのか足が痛いのとブツブツ言っていました。 そういう折も折その年の前年には、おじいさんが集落の長(おさ)をすることになりました。集落では毎年の長など世話役を班ごとに公平になるように交代するような形をとっていましたが、その前年はおじいさん、おばあさんのいる班に長と副長が回って来る年でした。その長を決める日、おじいさんは人生初めてのはやり風邪にかかり、家にいましたが、班会に行ったおばあさんが息せき切って帰ってきて「おじいさんが、長に選ばれたよ」、それを聞いたおじいさんは「人生最悪の日だな」と元気のない声で呟いて、その日は気分が悪いまま寝てしまいました。 幸い、はやり風邪は大した熱が出ることもなく、3日目くらいにはおじいさんは元気になっていましたが、お医者さんから5日間は必ず薬を飲んで静かにしておきなさいということを言われていたので家の一部屋にこもっていました。 風もすっかり良くなったおじいさんにはそれからの一年間、嵐のような日々が待っていました。長を務めること3回目のおじいさんにとってもその年は戸惑うほどの忙しさでした。それは、おじいさんの集落の近くに10年くらい前に新しい集落が出来てそこも飲み込んで一つの集落になったのですが、おじいさんにとってはその大きな集落になってからは、初めての長経験だったからです。それともう一つおじいさんが長になったその年に集落をまとめた大きな集まりが、名前を変えて新しい団体として発足したことで、そちらの仕事も大きく増えるという幸運? にも恵まれて拍車がかかったからでした。 仕事はどんなに忙しくても頑張って時間が経てば終わってしまうので、それほど苦労とは思わなかったおじいさんにも一つだけ頭を痛めて、ともすればくじけそうになることがあったそうです。それは集落の集まりから脱けだす人たちのことでした。長をやっていない時もその話は聞いていましたが、実際おじいさんが長になってからも脱ける人が多く、その度に力が抜けたと言います。その理由は表面上は人さまざまですが、根底には長や世話役をしたくないという想いがあるとおじいさんは考えているそうです。長を降りたおじいさんが考えても仕方がないことかなと思いながらもおじいさんはその後も何かいい方法はないかと考え続けていたそうです。 ともあれ、おじいさんは、青息吐息ながら78歳になっていたその年、4月7日、集落の総会で選ばれた若い長に引き継ぎをしてその任を降りたそうです。めでたし! めでたし!
2018.05.11
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最近、町内会会長の仕事やその他いろいろなことが交錯し、混乱しています。しばらく当ブログを休みます。健康面は大丈夫です。元気だけが取り柄の男ですから。 皆さんがのブログへの訪問もままならないかもしれません。ご了承ください。
2017.05.30
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先日、友人たちと昼食会をした時にkくんから「いい映画あったら見に行こうか」という誘いがあり、私はテレビで予告編を見ていた「沈黙」に心惹かれていたので「俺は沈黙を見たいなあ」と答えた。 その後、北九州に行ったり、インフルエンザに罹ったりで映画見に行くチャンスがなかったが、先日私のインフルの回復をみたタイミングでkくんから誘いの電話があり天文館のシネマパラダイスに出かけた。 見た感想を一言でいえば、大変重たい映画だった。でも見てよかった。 私は熱心ではないが仏教徒であり、キリスト教徒ではない。でも現代に生きていればキリスト教と無縁ではない。キリスト教の冠婚葬祭に出ることもあり、賛美歌も歌う。その他いろいろな場面でその影響は受けており無関係ではない。そいうことからも今回「沈黙」の予告編を見たときに是非見たいと興味が湧いたのだった。 室町時代の1549年鹿児島にフランシスコ・ザビエルが上陸し日本に初めてキリスト教を伝えたが、子供の頃からそのことを知り、ザビエル教会をはじめ多くの史跡も残されている。また昔、長崎に住んだことも私にキリスト教を身近に感じさせるひとつのきっかけになった。そういうこともあって、それらについては、当ブログにでも多くのことを書いてきた。 映画は、そのチラシによると「17世紀江戸初期、激しいキリシタン弾圧の中で棄教したとされる師の真実を確かめるためポルトガルから長崎にたどり着いた宣教師ロドリゴ。彼の目に映ったのは想像を絶する現実だった。信仰を貫くか、棄教し信者たちの命を救うかー究極の選択を迫られる。遠藤周作の代表作にして戦後日本文学の金字塔である原作と出会ってから28年。 アカデミー賞受賞の巨匠マーティン・スコセッシ監督が『人間にとって本当に大切なものとは何か』を描き出す渾身の超大作」とある。人間の強さ、弱さ、信じること、生きることの意味など大いに考えさせられた。 またこれもチラシによると、今回この映画ではエリア1として、かくれキリシタンの村のモデルとして長崎市外海(そとみ)地区エリア、エリア2として、雲仙市雲仙地獄エリア、エリア3として長崎市内エリアがそれぞれモデルにされたという。この中で特に外海地区にはまだ行ったことはないが、たくさんの史跡や遠藤周作文学館、外海歴史資料館、教会などがあるとのことなので、いずれ訪ねてみたい。 あらすじをここで云々するのは愚の骨頂だと思うので書かないが、役人たちが踏み絵に応じない隠れキリシタンの信者たちを拷問にかけたりする場面など目を覆いたくなるような冷酷さである。また最後は予想を覆すような場面があり大いに考えさせられる映画であった。「百聞は一見に如かず」という言葉しかない映画である。
2017.02.20
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1月31日、北九州は戸畑(1月29日開催)での演奏会賛助出演のために行った3泊4日の旅を終えて帰ってきた。 2月1日は定例のグラウンドゴルフを6人の仲間と楽しんで、さあこれからという午後になって、倦怠感が襲ってきた。昨夜は10時に就寝。普通の風邪だったら一日で抜けるのだが、今回は様子が違う。朝起きたとき風邪の症状の喉、くしゃみ、熱などは若干あるが、腰が痛かったり、倦怠感もあり、気力がでない。滅多に行かない病院だが、何かの時に駆け込む信頼する爺じゃん先生を朝一に訪ねた。 病院の2階に娘さんが診察される耳鼻咽喉科があるので、検査のためそこに回される。待つこと15分くらい、「インフルです」との宣告がある。 そういうことで、しばらく当ブログ休みます。
2017.02.02
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今日は暮れの28日、我が家の恒例の餅つきの日である。もっとも、餅つきと言っても杵、臼で本格的につくものではない。そうそう、あの便利な餅つき機であなた任せの餅つきである。とは言っても、熱くくっつきやすいつきたての餅はなれない私には手に余り、加勢もできない。今年は子供たちに手のかからなくなった娘も加勢と称して朝から押し寄せてきた。そしてこの餅つき機が我が家にやってきたのはいつ頃のことだったろうという話になった。山口県の徳山の中学校に入った年に買ったと妻が言う。娘の中学校の入学祝いに餅をついたり、桜餅をつくったりして、親戚や親しい人に配ったとのこと。もう40年くらい前の話だ。仕事だけに目が向いていた私にはそのような記憶のかけらもない。 その後、鹿児島に落ち着いてからも家の片隅で我が家を見守ってきた餅つき機である。とは言うものの40年毎年連続で使い続けてきたわけでもない。鹿児島に帰ってきて35年経つが、その間、妻も私の会社が軌道に乗る前に手助けをして、会社が落ち着いて、母の終末期介護をするまでの何年かは、街の饅頭屋さんに餅つきをお願いしていた。しかし全てが落ち着いてからは毎年この餅つき機にお世話になっている。 餅つき機一つをとっても家の歴史と深い関わりが有り、モノを大事にしなくてはと思った今日だったが、自分の歴史もぼつぼつ振り返らなくてはならない歳になってきた。 夏頃だったか友人のKくんから自分史的なものをまとめているという話を聞いた。中国を愛して、中国への旅は数知れず、ついには中国の日本語学校の教師にまでなったKくんは、帰国後も日中友好に並々ならぬ力を注いでいる。そのKくんが交流のあった中国の友人たちのこと、中国旅行各地を巡った旅のことなど凄い数の旅行記やエッセイを残している。それらに書き加えたり、推敲をして取り敢えずプリントアウトして残すという。 そのKくんに触発された私もこれまで書いてきた6、70本のエッセイもどきの延長上にさらに書き加えればそれなりの自分史になるのでは思いながら、ほとんど手つかずで今年も暮れようとしている。来年のことを言うと鬼に笑われるかもしれないが、少しでも気力の残る今のうちに一行でも書ける来年にしたいと思う。 それともう一つはこの3年くらい興味を持って訪ねたり、調べたり、読んだりしてきた薩摩の歴的な資産のことも来年のテーマにしたい。 昼は妻と娘の3人で恒例でつきたての餅をおろし大根と柚子の酢じょうゆに浸して食べた。あっさりしていて、いくらでも食べられる。4、5回ついて今年の餅つきは終了。娘も餡餅など持って帰って行った。明後日にはおせちをつくりにまた娘が来る。これは毎年のことだ。
2016.12.28
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11月5日、鹿児島中央駅に集合したバス組の私たち40名は「〇〇八期喜寿の集い2016」が開かれる指宿シーサイドホテルに向けて出発した。途中大手のスーパーに寄り今日と明日の飲み物やつまみとお菓子など買う。会計係の私は買い物組と一緒にバスを降りて早速数万円の支払いをする。指宿シーサイドホテルで自家用車やJRで来た19人とも合流し、総勢59名の同窓会である。2008年卒後50周年記念同窓会を城山観光ホテルで開催したときは100人を超える人数だったが、年月の経過は厳しく今回は約半数の集まりとなってしまった。それでも北は北海道から、関東、関西、九州各地など県外からの参加者が27名となった。幹事役の私たちとしては県外組を含むどう「おもてなし」できるかに責任を感じた次第である。 しかし、このところ芳しくなかった空も5日はもちろん6日も快晴の模様で、何よりのプレゼントになった。5日の同窓会のセレモニー的な部分は約15分くらいで終わり、乾杯のあと懇親会に移った。その一次会のあとは別な大広間を貸し切ってさらなる懇親を深めて、カラオケなどもやりながひと夜は更けていった。(上の写真は記念写真撮影のため全員集合の途中) 記念撮影のあとは、一応解散の形をとり、それぞれ帰途についたり、大隅半島バスツアーにと別れた。大隅半島バスツアーの参加者は当日まで動きがあり、結局33名の参加となり、昨日からからの貸切バスで9時出発して山川港へ。ここでも会計の私はチケット購入など動き回った。 10時、山川港出発~根占港へ。途中快晴に恵まれたために、「薩摩富士」と呼ばれる開聞岳を眺望することができた。 根占港着は11時。今日一番目の訪問の社会福祉法人・白鳩会のSさんの出迎えを受けてバスの中で白鳩会の説明を受けながら「花の木農場」へ。 この白鳩会の理事長は私たちの同期生である。一代で大きなこの東京ドーム5、6個分の広さがある「花の木農場」を中心とする社会福祉法人を育ててきた同期生としても誇れる人物である。 ちょうど、この6日はバザーが開催されていて賑わっていた。ステージでは地元の高校生のダンスや歌などもあり、地域の人々も毎年楽しみにしている行事である。 広い農園の一角では理事長の奥様が趣味で永年続けておられるお茶の「野点」の席が設けられており、私達33名全員がそのお茶の接待を受けた。ひさしぶりのお茶であり、自己流で嗜むことだった。そのあと、お願いしていたカレーの昼食を全員でとった。 以前にも当ブログで紹介したザビエル教会の最初の建物の一部が移設されいるので、皆で見学して、思い思いで写真を写した。理事長の想いがあってこの大隅の地に蘇った石造の建物の一部が青空に映えていた。 花の木農場をあとに、本土最南端の佐多岬に向かった。私は20年くらい前に行ったことがあるが、それ以来の訪問であった。ただ、その時行った最南端の展望台は現在工事中であり、この6月に出来たという、新しい展望所までしか行くことはできなかった。しかし、佐多岬を展望するにはここで十分だと思った。 そのあと、最後の予定地・「神川大滝公園」に向かったが、ここは台風の被害が尾を引いていて入口でシャットアウト。引き返すしかなかった。幹事で話し合って「桜島の有村展望所」に行くことにした。県外組には申し訳ないことをしたと思う。 こうして約一年かけて準備してきた喜寿同窓会は終わった。反省点もいくつかあるが、まあ 良しとしよう。(自己満足)
2016.11.15
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明日は一泊で指宿に出かけます。 高校の「〇〇八期喜寿の集い2016」が指宿シーサイドホテルで開かれます。この一年以上前に計画し半年以上前からいろいろな準備をして、やっと明日を迎えます。幹事長? のKくんを中心に私も幹事の端くれとして何かと関わってきたが、会計と司会という大役が回ってきて戸惑いながらも、全国から集まる仲間たちを迎えたいと思う。 翌日は指宿の先の山川港から大隅半島に渡るバスツアーも計画しており、こちらも楽しいものになりそうだ。それらについては、終わったあとにブログに書く予定。
2016.11.04
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69歳まで働いた職場は全国に展開する会社だった。北九州を振り出しに長崎、徳山(現在は周南市)と転勤で動くなかで郷里の鹿児島での地元法人で動きがあり自ら手を上げて鹿児島に帰ったのは41歳のとき。 それからも当然のことながら親会社との関係は続き、鹿児島に移ってからも最低でも毎月一回開催される福岡での支社会議や東京本社での諸会議に参加してきた。そういう場面で縁ができた九州支社管内の卒業者の間で同窓会をという声が起こり、一昨年から一泊の懇親の旅行が始まった。 秋は演奏会やその他の行事が集中して多忙な私は熊本であった懇親会を2年とも欠席していた。そこでしびれを切らした? 同窓生たちが鹿児島で開催すればクマタツも出てくるだろうと思ったのか、ついに昨年の段階で今年の鹿児島開催が決定したようだ。 大分在住の幹事からメールがあり、私もこれまでの罪滅ぼしで妻同伴で参加することにしたのだった。当日は三十人くらいの会員の中から東京二人、関西一人、福岡一人、佐賀一人、熊本三人、大分二人、宮崎一人、それに私たち二人の十三人が集まった。 鹿児島中央駅に午後3時集合で車3台に分乗し先ず桜島フェリーで桜島に向かう。宿泊先のレインボー桜島に入る前に「湯の平展望台」に向かう。その荒々しい自然が創り出した風景に皆さん感激した様子で案内したこちらもホッとした。 宿泊先のレインボー桜島から眺めた錦江湾ここでは、「豚しゃぶ」などに舌鼓を打ち、夜は遅くまで歓談とカラオケで賑わった。 翌朝はバイキングの朝食の後、8時30分のフェリーで市内へ島津別邸のある仙巌園へ。桜島と錦江湾を借景とした庭園はいつ見ても見事である。 その後、「薩摩切子」の売店と工場を見学 下は「旧鹿児島紡績所技師館」(異人館)、見学しボランティアの方の説明を聞く 城山の下の西郷隆盛像の前で記念撮影をした 見学コースの最後に「維新ふるさと館」に寄る。駐車場から甲突川にかかる橋を渡って行くが、橋の上からも桜島を見ることができる。 昼食は豚しゃぶなどで有名な「いちにいさん」の本店に予約済みだったので、待つこともなく食事を楽しむことができた。ここも大変好評だった。 直近でも7年前に会ったきりで、それ以上会っていなかったメンバーも多かったが学校の同窓会と同じですぐに昔にかえって話ができたこと、皆が思ったより昔と変わらなかったことなど驚きと嬉しさでいっぱいの会だった。 鹿児島中央駅近くで来年の再会を約束して解散。私も今年鹿児島にきてもらったからには、来年は這ってでも行かねばならない。
2016.10.18
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台風16号接近中。 もうすぐ20日。森進一の「港町ブルース」にも歌われた枕崎近辺に大接近中。予想進路からすれば、私の住む鹿児島市も完全に圏内にある。 昨年8月24日の台風15号により我が家のウッド・デッキが大破したのが久しぶりの襲来であった。それまでの間、相当年数台風が鹿児島を敬遠してくれていたので、大助かりだったのが、2年連続での来襲になりそうだ。今回は雨戸も閉めて一応の態勢は整えたつもりであるが、被害がないように願うばかりである。 台風がだいぶ近づいてきたようで、雨風とも強くなってきた。
2016.09.19
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皆さんどこの国の言葉かわかりますか。れっきとした日本の言葉です。日本の南国・鹿児島の・・・。 今日も朝からグラウンドゴルフをしながら仲間の Iさんの言葉から私が続けて口に出した言葉である。「こんぬっけ(この暑い中で)ゆ(良く)あっけ(日射病、暑さ当り)も いらんもん(にもならないもの)じゃんどなあ(ですね)」「この暑さの中で良く日射病にもならないものですね」翻訳すれば大体こういうことだろうか。 このところ日本の夏の最高気温は関東方面の熊谷などが話題になることが多く、日本の本土最南端を自負する私たちはお株を奪われていささか寂しい想いをしていた。(大袈裟?)ところが今年の夏はどうだ!お盆前から連日35度~36度~37度超など関東の各地には及ばないものの、やっと南国鹿児島の面目を取り戻したような日々が続いている。いやいや、でも誤解しないでほしい。決してそれを喜んでいるわけではない。本音で言えば迷惑なのだ。この暑さの中で連日朝から温度はうなぎ登りで室内温度も気がつけば31度、32度になっている。慌ててエアコンのスイッチオン! そして、水曜日と土曜日は近所のジジ・ババ集ってグラウンドゴルフである。水曜日が5~6人、土曜日は10人前後でそれぞれ4ゲームである。2ゲームやって休憩、個人持参の飲み物と共同購入のお茶菓子で一服する。時間は大体2時間くらいを要する。疲労度は気候のいい時の2,3倍はあるような気がするが、私は体力のバロメーターと言い聞かせながら、がんばっている。 さて、前記 鹿児島弁の話を少しだけ。 鹿児島弁については、当ブログに「茶わん蒸しの歌」などで何回か書いたことがあるが、知らない人が聞けば、全くの外国語に聞こえるらしい。ある意味 東北弁より分かりにくい? 上記の一言だけでも鹿児島弁が難解であることは、お分かりと思うが、今日は一つの特徴を伝えたい。それは鹿児島弁には「促音」がたくさん使われているということだ。促音とは一言でいえば「つまる音」例えば「がっこう(学校)」「持って」「こっか(国家)」「いっさつ(一冊)」など小さな「っ」や「ッ」として使われる。 これが鹿児島弁では上記「ぬっけ(暑いのに)」「あっけ(日射病)」などの他に「がっつい(ちょうど)」「いたっきもんで(行ってきます)」「いっぺこっぺ(あっちこっち)」「ごったまし(たくましい)」「ずばっ(たくさん)」とにかく日常生活でよく使う。こうしてみると、鹿児島弁は物事を早く言うために促音を多用するようになったのかと思うほどである。 しかし、こういう鹿児島弁を使う年齢層はもう私たちの年代くらいまでで、子供世代では標準語や「からいも(さつま芋)普通語」と呼ばれる教科書の言葉をイントネーションは鹿児島弁の音調でという使い方が普通になってきている。まだまだ書く事は多いが今日はこの辺までとします。 下の写真はグラウンドゴルフの様子。今日は写真を写さなかったので、昨年の忘年グラウンドゴルフ大会のものを使用した。場所は日置市伊集院町の温泉「花水木」のグラウンドゴルフ場。紅葉も見える。
2016.08.24
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しばらく更新をしていない間の8月1日に書式変更がなされて、いろいろ試行錯誤を繰り返しています。その為、皆さんへの訪問もままならず二日無為に過ごしてしまいました。今日現在、概略は理解しましたが、「写真の横のものを縦にする方法」がわかりません。そこが分かれば大体いけそうです。もうしばらくお待ちください。
2016.08.03
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今朝、私がぐっすり眠りについた頃の午前0時2分 桜島が爆発的噴火をしたそうだ。 私も今朝起きてテレビで知って慌てて外に出て車の灰を見た。車の上の灰を見ると我が家の方面にどれくらいの降灰があり、その日の窓の開け閉めや洗濯物を干す場所など、どうするか判断がつくからだ。 桜島の降灰に慣れっこの私たち県民は大まかな判断として冬は西からの風で大隅半島へ、夏は東からの風で鹿児島市のある薩摩半島へと流れて来ることを知っている。もっとも鹿児島のテレビでは、NHKを初め四つの民放も天気予報の後に、必ず桜島の爆発があった場合の降灰が流れる方向の予測方向が画面に写されるので、心構えをすることができる。今年はこの時期に噴火が少なかったのか、この梅雨明けの猛暑襲来時に鹿児島市民の私が降灰に見舞われることがなかった。私たちにとっては「猛暑に灰」は「泣きっ面に蜂」と同じである。しかし今回は我が家の方向にはたくさんの降灰は無く、ちょっと安心した。 南日本新聞を広げて見ると、噴煙が火口からおよそ5000mの高さまで達したそうで、これは2013年8月以来のことだという。昭和火口の爆発であり、大きな噴石は5合目まで飛んだ。爆発的噴火は今年は47回目である。(それにしては、私たちは幸い大きな洗礼は受けていないように思う) その後のテレビ報道では気象台発表として、上空の風が弱かったことから、噴煙が高くまで上がったのだが、今後の見通しも桜島に大きな変化は見られないとのことで先ずは一安心である。
2016.07.26
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高校卒業から50周年を迎えた2008年に母校に記念植樹した桜も今年で8年目を迎えた。記念行事の桜を植樹するために、学校との交渉役だった私は桜の開花の時期を迎えると毎年落ち着かない。そういう中で先日、Mくんが桜を見に行って「満開はもうちょっと先じゃないか」とメールをくれた。私は頃合を見計らって4月5日、ワクワクしながら母校を訪ねたのだった。 この桜のことは、当時一緒に世話役をした仲間は特に気になるようで、それぞれが毎年見に行っているようだ。そういう中で、Kくんは「あの桜は栄養不足じゃないかな?」と言ってきた。私もこのところ毎年行って見た感じでは、そういう気もしないではなかったのだが、今回幹周りを測ってみると51cmあった。高さは目分量ではあるが、私の身長の3倍くらいあるので、確実に5m超にはなっている。 それでも順調に生育している「同期の桜」を見るにつけても残念なこがある。それは、この桜の選定から穴掘りまで一切を取り仕切ってくれたAくんが天に召されてしまったことだ。彼は熱心なクリスチャンだった。高校の先生を退職後、園芸の学校に通って資格を取得し、趣味で植木などをしていたので、「同期の桜」も自分から申し出てその役を引き受けてくれたのだった。彼が生きていれば、なにか手を打ってくれるかもしれないと思うことだった。 校庭に咲く桜は満開であった。実は、私も記念植樹の交渉のときに、この一角に植えたくて学校と交渉をしたのだったが、もう満杯ということで、現在の場所に植樹したのだった。 下の桜並木の道は、右が学校、左が水道局の貯水池となっている場所である。この道を進むと薩摩島津氏の福昌寺跡墓地に行き着く。
2016.04.08
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またまた更新が遅れました。北九州には11日に行って4泊5日で15日には帰ってきたのだが、相変わらずの所用に追われて今日になってしまった。北九州のことはまた後日アップすることにして、今日は鹿児島高牧カントリークラブで今日から始まった「Tポイント レディス トーナメント」に行った話をしよう。 今をときめく「イ ボミ」の外国勢や「上田桃子」「大山志保」などなどのほか地元鹿児島勢の「香妻琴乃」など地元アマチュアも入れて108名参加の今年初の地元開催トーナメントである。 私や一緒に行った友人のお目当ては地元アマチュア「勝みなみ」ちゃん(2014年KKT杯バンテリンレディスオープン優勝、2015年日本女子アマチュアゴルフ選手権優勝)である。彼女にゴルフの手ほどきをしてこれまで育ててきたおじいちゃんは私の高校の同期生で友人である。これまで応援がてら見に行く機会がなかったが、今回地元開催ということで招待を受けて、十何年ぶりにゴルフの公式戦を見に行った。 天気予報では一日中「弱い雨」となっていたので、傘持参で行ったのだが、時々予想以上の大雨になったり、止んだりの大変な一日だった。一番ひどい時は30分くらい試合もできないような状態だった。 みなみちゃんはアウト9ホ-ルを5オーバーという成績だったが、インに入り13番ホールでバーディを決めるや15番から17番まで3連続バーディとし1オーバーまでこぎつけた。残念ながら18番でボギーとなり、この日は2オーバーで終わって、明日への大きな希望を残してくれた。明日の予選通過と最終成績での優勝を願って帰ってきた。 当然のことながら、ゴルフ場での選手の撮影は禁止されているので、雨の中で雰囲気だけを伝える撮影が精一杯だった。
2016.03.18
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昨夜は高校時代の同期会・新年会だった。鹿児島市の天文館にあるホテル・パレスイン鹿児島が会場である。この数年は忘年会を新年会に切り替えているが、一番寒い時期であり、幹事は参加者の把握に気を揉んでいる。今年も最初は39名の参加申し込みがあったものの、寒い寒いという天気予報が次々に出されたこともあって、前日までに7名の欠席連絡があり、32名という数になった。しかし、当日一人の参加申し込みがあり、やっと卒業年度の昭和33年と同じ33名の参加で先ずはめでたしめでたし。しかもその中には東京から一人、福岡から一人、鹿児島も遠距離からの参加者も数人ありということで嬉しいことだった。 21時前に終わって二次会の案内もあったが、山の上の住宅団地に住む私は、積雪でもあれば帰れなくなるので、二次会には参加せずに引き上げた。途中バス停に歩いていると、先の方に光のトンネルが見えてきた。 そこを抜けると、そこに広がる光景は鹿児島ではこれまで見たことのないものであった。帰ってネットで調べると、中心街地に大規模なイルミネーションで光の空間を創り出す鹿児島市の新しい冬のイベント「天文館ミリオネーション」LED電球数100万(ミリオン)球とイルミネーションを合わせた造語「ミリオネーション」として、今年が第一回の開催で1月31日までとの情報があった。 今にも雪が降り出しそうな南国には珍しい夜にもかかわらず、カップルや家族連れなど多く賑わっていた。 そして、一夜明けて予想通りの風景が広がっていた。テレビでは鹿児島市の積雪は1cmと言っているが市街地より高台にある我が家の周辺はこの有様である。 我が家の塀の上の雪は朝7時頃には4cmだったが、現在8cmくらいと倍増した。メールや電話で今日のおじさんコーラスの練習は中止という連絡が入った。
2016.01.24
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台風15号は私の住む鹿児島市を午前2時51分に最大瞬間風速45mという風を残して去っていった。 昔から台風常襲地帯と言われて、子供の頃からルース台風など大きな被害をもたらしたたくさんの台風を経験した私にとっても久しぶりの台風らしい台風だった。最近は待てど暮らせど一向に台風が来なかったので、15号も軽くみていてガラス窓の外の雨戸も閉めていなかった。 夜中の2時30分過ぎに台風の音に目覚めて、カーテン越しに外を見ると、築16年目のウッドデッキの壁が風に煽られて大きく揺れている。大きな風が吹くたびに手前の庭木に寄りかかるようになる。しかし、雨は強いし迂闊に外に出ることはできないし、また出たとしても打つ手立てもない。ひたすら風の通り過ぎるのを待つのみ。 約1時間経って風がいくらか治まってきた。ウッドデッキは少し傾いているようだが、壊れて飛んでいくこともなく、形状も保たれているようだ。お隣などに迷惑をかけることも無く台風は去ってくれたようだ。少し安心して、午前4時頃眠りにつく。 明るくなった6時に起床。一番に外からウッドデッキを眺めると少しに傾きはあるが、注意して見ないとわからないくらいで、朝から手を打たなければならないと思っていた程のことはなく、ホッとする。でもまだ台風シーズン真っ只中、天気が良くなったらすぐに何らかの補修をしなくてはならない。 台風一過・・・。 大したことにならずによかった。
2015.08.25
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先日の後川清歌う「長崎は今日も雨だった」が好評につき? 第二弾 「長崎の今日は晴れだった」をUPします。
2015.05.07
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「鹿児島は今日は曇りだった」ので、いつものお墓巡りはやめて、お遊びを少し。 私は40年ほど前、長崎に3年間住んだことがある。長崎に行く前に 内山田洋とクールファイブ歌う「長崎は今日も雨だった」は大ヒット曲となり、私は声域が合うことや前川清の歌い方が大好きだったことからよく歌っていた。その長崎に転勤で住んでみて長崎の街も人も食べ物もいよいよ大好きになっていった。長崎の諸々の歌はもちろんである。 長崎と歌については、拙ブログ 2012年10月15日「私と長崎」、同じく12月11日「私の好きな歌 長崎は今日も雨だった」などに書いている。 今日は以前から聞いていた前川清ならぬ、後川清歌う「長崎は今日も雨だった」をアップした。笑いを堪えるのに必死な歌い方である。別に「長崎の今日は晴れだった」というのもあるが、いずれ紹介したい。
2015.04.21
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「同期の桜」と言っても鶴田浩二の世界に舞い戻ったわけではない。高校卒業50周年の記念同窓会を開いた平成20年(2008)10月18日に母校に植樹した桜のことである。 私は未だ花が咲くはずはないと思いながらも毎年のように桜の時期になるとこの桜を見に行っていた。今年も世話役の Kくんからメールが入り、誰か様子を見て来てくれないかとのこと。雑用に追われて行けないうちに Mくんから見に行ってきたとのメールとともに「同期の桜」の写真が数枚添付されてきた。7年目の今年はまずまずの咲き具合である。 2,3日経って Kくんも見に行ったとのことで写真と、あと2日くらいで満開だろうとのメールが入ってきた。私は前回拙ブログにアップした母校に近い島津家の墓を訪ねることもあったので4月2日やっと見に行くことができた。もう満開は終わり、少し葉桜にもなっていたが、7年目の「同期の桜」を見ることができて感無量だった。 この桜を「同期の桜」と呼ぶようになったのは Kくんだと思うが、いつしか我々親しい間ではそれで通用するようになっている。今では Kくんのメールに乗せて同期の仲間にこの「同期の桜」の写真が便りとともに配信されるので「同期の桜」という呼び名も定着しつつあるのではと思う。 私が見に行った日は春休みだったが、校庭には部活の練習に励む後輩たちのたくさんの姿があった。校庭にある大きな桜も満開で絵になっていた。 最後に私がこの「同期の桜」に何故これほどの思い入れがあるかと言うことを少し。50周年記念同窓会を企画し実行に移す実行委員会が一年くらい前から発足し、クラス幹事をしていた私もその一員となった。記念行事の中で、母校に記念植樹をしようということなり、私は母校との折衝・連絡係を引き受けた。母校に2,3回行って同窓会係の先生とお会いして記念植樹のお願いをし、場所を打ち合わせたり、当日の段取りなどを決定した。 そして記念同窓会前日には桜の木の選定など一切の手配をしてくれた Aくんと Kくん、私の3人が母校に集まり、植木屋さんが運んできてくれた桜の木をクレーン付きのトラックからおろして仮植えまでをした。もっとも Kくんと私が母校に着いた時には、高校教諭退職後、植木の学校に通って専門家はだしになっていたAくんが穴を掘ったりしてほぼ準備は終わっていたので、私たち二人はすることはなかった。 記念同窓会当日は城山観光ホテルでの同窓会開会の前に集まれるだけの同期生50人が母校に集まり、秋晴れのもと楽しく記念植樹をすることができた。当日の記念同窓会には北は北海道から地元鹿児島まで100人を越す同期生が集まり盛大に開くことができた。 ただ残念なことに「同期の桜」の手配等一切を取り仕切ってくれた Aくんが一昨年天に召されてしまった。熱心なクリスチャンだった Aくんは、卒業55周年記念誌に遺稿となった文章をしたため冷静に自分の病状を分析している。今となっては冥福を祈るのみだ。やがて我々もその日がくるのだが「同期の桜」よ永遠に!
2015.04.04
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上の案内状が同じ市内に住む従兄弟から届いたのは3月初めだった。昨年も同じ時期に絵画展が開かて、鹿児島市立美術館に見に行ったのだが、今年は最終日の15日にやっと行くことができた。 「みんカル」とは南日本新聞開発センタ-の文化教室のことである。ジャンルは文学・教養、趣味、音楽、グラッシュアップ、エクササイズ、語学、アート・クラフトでその中に各分野の専門的な教室がたくさんあるらしい。 私が訪ねたのは最終日も15時を過ぎていたこともあって、後片付けなどもあるはずの従兄弟も会場に来ていて久しぶりに会うことができた。従兄弟直々の案内で絵を見せてもらう幸運に感謝しながら、説明を聞くとができた。一人5枚まで出展可能だそうだが、従兄弟は3枚出展していた。 家に帰って案内のハガキを見てびっくりしたのだが、なんと従兄弟の絵が案内ハガキに取り上げられていた。下の絵の一部である。
2015.03.16
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皮肉にもパソコン不調のため、休載中の今日10万突破しました。もうしばらく? お待ちください。
2015.02.15
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