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私がここ伊作城を初めて訪れたのは2012年2月12日、そのことは同じ12月16日の当ブログに書いた。その後、先日千葉県から来たFくんが前回来た時、Fくん、Kくん、Mくんの3人にここを案内したことあったので今回で3回目の訪問だと思う。 島津家中興の祖と言われる島津忠良(日新公)やその子・貴久 更には孫のいわゆる島津四兄弟の義久義弘、歳久、家久など島津家の歴史上大きな役目を果たした武人たちがここ伊作城(亀丸城)で誕生していて誕生石が残されている。 亀丸城(県史跡)は、上の案内版にあるように伊作城の本丸であり、伊作川下流の右岸にあり、標高73めお最高地とする山城である。この城については、下の案内板にも詳しく書かれているが、城の最盛期の規模は南北750m・東西1050m,楕円形の城域全体の面積は約50万平方メートルあった。成立は南北朝時代にさかのぼるといわれているが、伊作荘地頭伊作島津氏代々の居城で、中山城とよばれていた山城が前身である。伊作島津氏は後に島津本宗家を継ぐことになったことから、当城は近世島津家発祥の地と考えられている。また島津義弘は毎年伊作城へお見舞いをあい、近世初頭まで鹿児島城下士が伊作城へ日夜御番をつとめた。 下は土居(どい)大きな土手のような土居は敵の侵入を防ぐために土を盛り上げて造ったものである。 空堀 大きな溝を造って城を守った。 この日、この伊作城の前に訪ねた「多宝寺跡」墓地に島津忠良の三女・「お西さん」の墓標があったが、ここにはその誕生石があった。以前訪れたときは何も思わなかったが、こうしてつながると歴史の面白さを感じる。 伊作城趾之碑 義久・義弘・歳久・家久の誕生石 島津忠良(日新公)の誕生地の碑 土塁(どるい)この亀丸城跡に見られるように山の頂上を、人の手によって造らた平たいところを曲輪(くるわ)という。その曲輪を守るために造られたものが土塁という施設である。周囲の見張りや戦いの際に身を隠すために使われた。 「亀丸城之碑」や伊作島地家一族の誕生石などが整然と並べられて綺麗に清掃もされている。まさに聖地である。
2023.05.04
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物好きな私は、この10年くらいたくさんの墓地巡りをしてきたが、これほどの様々な墓石に巡り合ったのは初めてだ。訪ねる前に調べたところたくさんの石塔があることは知ったが、これほどまでの種類があるとは知らなかった。 ここは島津家中興の祖と言われる島津四兄弟の祖父・島津忠良(日新公)が学問を学んだお寺として知られる。先日書いた仁王像のある南方神社の勇壮な仁王像の右側を歩いていくと、右側に上の写真の「島津日新公学問所跡」の案内板がある。中に入っていくと「海藏院之跡」碑がある。 見たときは石仏かた思ったが、42歳で没した僧侶の墓標か。 墓石群の案内図 祠型の墓石 珍しい「月輪型」 梵字が書いてある。 これも珍しい型である。 これは自然石か。ただ表面に梵字が彫られているようだ。 五輪塔の墓石。同じ吹上町永吉の「永吉島津家」の墓石は全て五輪塔だった。 もう一つの「月輪塔」。これも梵字がある。 これも変わっている。五輪塔の平面型か。 これぞ僧侶の墓としてよく見かける「無縫塔」。 墓地の一角に「十三仏供養塔」があった。これで思い出したのは霧島市の城山公園にあった「十三仏」である。当ブログの2015年7月8日に「十三仏」として書いているが、城山公園にある「国分郷土館」近くにある仏が一塔づつ十三並べられていて案内板もあったのでその写真も掲載している。その案内板には「十三仏」の謂れや他に鹿児島県内に十三仏がある場所として薩摩川内市、さつま町、湧水町、出水市、霧島市隼人町などに見られるとしてある。 勉強不足でどういうものか知らないが「八万四千本読誦碑」というのもあった。 整然と並んだ墓石群。きれいに手入れがされているようだ。 逆修塔は死後の冥福を祈って生前に予め仏事供養をして塔を建てたものである。 「宝篋印塔」もあった。「宝篋印塔」は鹿児島市の福昌寺跡墓地にある島津本宗家の歴代藩主や奥方の墓石として山川石を使った黄色の墓石が有名である。
2023.05.01
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久しぶりに勇壮で、しかもほぼ完全な形で残されている仁王像に出会うことができた。ここは日置市吹上町湯之浦にある南方神社(諏訪神社)の入口である。鳥居には「明治十年(1877)と刻印されている。 下の写真は阿像。向かって右側に立つ。 下の写真は吽像。向かって左側に立つ。 仁王像の立つ鳥居から数百メートル先にもう一つ南方神社の鳥居がある。一の鳥居から二の鳥居まで行く途中の右側に海藏院跡がある。ここには珍しい墓標がたくさんあるので後で書くことにした。 現在ここの鳥居は一つしかないが、幕末の地誌「三国名勝図会」(さんごくめいしょうずえ)によると並立鳥居だったそうだ。鹿児島県の諏訪神社には並立鳥居が現在もいくつか残されている。当ブログにも私がこれまでに唯一並立鳥居を見た記事を書いた2015年12月3日「並立鳥居の諏訪神社を訪ねる」を残している。場所は同じ日置市東市来町湯田1896の諏訪神社である。 ここにはまた左側に稲荷神社もある。塗り替えられたばかりなのか鳥が美しい朱色に輝いていた。
2023.04.28
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前々回の記事に書いたが、ここ多宝寺跡墓地は伊作島津家の墓所である。島津家中興の祖と呼ばれる島津忠良(日新公)は伊作島津家10代だが、墓所は南さつま市加世田の常潤院(竹田神社)にある。このことは当ブログ2012年2月23日に書いている。ここ多宝寺跡墓地には日新公の祖父、生母、三女の墓標がある。 日新公の祖父・8代久逸の墓標 日新公の生母・梅窓妙法大姉の墓標 日新公の3女・椿窓妙英大姉の墓標 私の目を惹いたのが「樺山久高夫妻墓」である。ここで「樺山久高」の名前を見るとは夢にも思っていなかったからだ。そして何故ここにあるのだと思った。その名前は両親が鹿児島県出身と言われる直木賞作家・川越宗一氏の「天地に燦たり」の書き出しの二行目に「大野七郎久高」(元は樺山家の生まれで大野家に婿養子として入るが後に義父の不始末により離婚して樺山姓に戻っている)の名前で登場していた記憶があったからだ。しかし何故この多宝寺跡に墓標があるのかわからずwikipediaで調べたところ寛永5年(1628)ここ多宝寺のあった伊作の地頭に任ぜられていたことを知った。その後、出家し失意の晩年をおくるが最後は伊作の地で没している。 なお、樺山久高は島津氏の家臣として重用されたくさんの戦いでもその力を遺憾なく発揮している。当ブログでは2020年8月23日、川越宗一著「天地に燦たり」を読む。と 2021年4月4日「鹿児島入来峠旧道発見」そこにあった歴史とは。の2篇でそのことも書いているので興味のある方はご一読ください。
2023.04.25
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昼ごはんは古民家の「多宝庵」で食べた。予約をしていかないと食べられない人気店である。店に入って食べて納得。この日も御婦人のグループなどで空席はない。食い助の私は目の前に出された料理に夢中でついつい写真を写しそこねてしまったので、下の料理の写真はネットから拝借した。この日も全く似たような料理でデザートと飲み物もつく。しかも料金もリーズナブルで言ううことなし。 ランチに満足して同じ中原地区にある「多宝寺跡」に向かった。 上は石亀神社の鳥居。島津四兄弟(義久・義弘・歳久・家久)の父・貴久を祀る神社である。尚、貴久の父は伊作島津家の忠良(日新公)である。 「丁丑之役記念碑」がある。丁丑之役とは西南戦争のことを言うが、当地では歴史的なこのような神社などではよく見かける石碑である。ここでは記念碑とあるが、慰霊碑も数多く見かける。 少し登ったところに「伊作島津家累代墓所」がある。 伊作島津家は薩摩の歴史に大きな足跡を残したことはこれまでも再三にわたってこれまでも書いてきた。本宗家第14代勝久のとき、勝久の妻の弟薩州家の当主であった島津実久が薩摩の実権を握りはじめて勝久と争いになった。そこで勝久は伊作島津家の忠良と結んで対抗することになった。そして忠良の子・貴久を跡継ぎに迎える。そのころ忠良は、母常盤が再婚した相州家の島津運久(ゆきひさ)の家督を継承しており、島津家中でもかなりの発言権を持っていた。 忠良は貴久が本宗家の勝久の後継者になることが決まったあと、自らは出家し日新斎(じっしんさい)を名乗る。この後、日新斎・貴久父子は家督を争っていた実久を排除することに成功し、さらに復権を図ろうとした勝久を天文4年(1535)に追放し、同じ14年(1545)貴久は薩摩・大隅・日向3カ国の守護となり居城を伊集院から鹿児島に移し、戦国大名としても基礎を築いている。そいうことから忠良は「島津家中興の祖」と呼ばれている。
2023.04.14
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日置市吹上町の永吉にある天昌寺跡墓地を後に、同じく吹上町の中原方面に向かった。訪ねたのは大穴牟遅神社(おおなむちじんじゃ)とその奥にある「千本楠」である。大汝牟遅神社という珍しい名前の神社は祭神・大己貴命(おおなむちのみこと)などである。鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したとする説や、大和明神(奈良県桜井市、大神神社)を勧請したとする説がある。島津家の尊崇が篤く、古くは文安元年(1444)を始めとする3枚の棟札があるという。 今は川も流れていない境内に古い石橋が残されている。 鳥居を後に道路に出ると左側に下の写真の景色が広がる。大きな木は楠である。 二十数株の楠の大木が森をなしている。一見の価値あり。この千本楠は以前、永吉方面を訪れた時、帰りに本◯どんが見て帰ってほしいものがあるということで、私達一行を案内していただいたことがあった。私は二見目である。(笑) 樹齢は800年以上と推定されている。 大汝牟遅神社の流鏑馬はしたの説明板の通り、歴史も古く、県無形文化財にもなっている。 流鏑馬を継承してきた宮下・宮内両家のうち宮内家の屋敷に建つ流鏑馬の慰霊の碑。下の写真は千本楠の方向から写したものである。 この写真は宮内家の居宅の方向から写した。
2023.04.12
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鹿児島県のホームページによると「第2回あなたが選ぶ鹿児島景観大賞」 優秀賞 永吉南郷会(日置市吹上町)とある。その表彰式は先日、県庁の知事室で行われて地元の南日本新聞でも写真入りで掲載された。大賞一ヶ所 優秀賞二ヶ所だったが、その優秀賞に日頃私と親交のある「本◯どん」が長年にわたって会長を務められ現在も語部として活躍中である「永吉南郷会」が輝いたのだ。 県のホームページの紹介は続く。永吉地区には、薩摩藩独自の社会教育制度として発展した「郷中教育」(ごじゅうきょういく)を行う「精研舎」が存在していたため、その流れを汲む民間団体として永吉南郷会が昭和29年に創設された。永吉南郷会は長年、島津家の歴代墓所等の清掃・管理を行い環境保全に取り組んできた。 その永吉の永吉島津家の墓地である「天昌寺跡墓地」を私が初めて訪ねたのは2015年11月のことで13日と17日に訪問記事を当ブログに書いている。その時、永吉南郷会の当時の会長であった「本◯どん」のファイルが現地にあって「電話をいただければいつでもガイドします」とことが書いてあった。当時私は携帯電話は持っていなかったので、帰ってから電話をして2016年の正月早々現地でお会いすることができた。話してみると出身高校は違うが同じ年齢で、私と共通の友人がいたりして、初対面にして意気投合し天昌寺だけでなく永吉の史跡を次々と案内されて、自宅にまでお連れいただいて恐縮した。 それ以来、永吉は私の歴史のふるさとみたいな気持ちで数回訪れて八期歴史仲間も今では本◯どんと親しくなり、いつの間にか私達の八期歴史歩き会の特別会員である。ほんとに不思議な縁である。その本◯どんは表彰式に永吉南郷会を代表して出席された。県のホームページにも掲載されている。 その歴史のふるさと永吉を今回2年ぶりくらいに訪ねて永吉島津家初代当主・家久の眠る「梅天寺跡墓地」を始めとして数カ所を巡ってきた。以下、私が訪れる度に新しい発見を含めてブログに書いてきたので、詳細な説明は今回は省きます。説明板の写真を添付しました。 島津忠良(日新公)との戦いに敗れるまで地元の桑波田一族が統治していた南郷城址。 南郷城跡の方向板に見るように永吉南郷会は黄色い案内板に文字が書いてあるので遠くからでも見やすい。永吉地区の史跡にはこのような案内版があるので訪ねやすい。 次に訪れたのは、永吉島津家歴代当主が眠る天昌寺跡墓地。五輪塔の大きな当主の墓標が並ぶこのような墓地は鹿児島でもめったに見ることはない。 天昌寺跡墓地には永吉島津家2代当主・豊久が眠る。 篤姫の兄、第13代当主・久敬(長与市島津家に婿養子として入る)未だ続きます。
2023.04.08
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鹿児島市の鴨池動物園は私達の子供の頃、いつ行っても楽しい場所だった。終戦後の復興の中で小学校時代を過ごした私と同年輩の人々にとっても恐らく同じ気持ちであっただろう。当時は「鴨池」という名前の由来も知らず、この歳になって初めて知る始末であったが、改めて今回訪れてあまりの変わりように驚くしかなかった。 下の案内板にあるように、江戸時代、現在のこの鴨池児童公園(鴨池2丁目)の辺りに黒木屋敷という薩摩藩の家老の別荘があり邸内に大きな池があったそうだ。そこに鴨が集まりたくさんの人が鴨狩りを楽しみ、鉄板で焼いて美味しく食べて賑わった。後に島津藩第29代藩主・島津忠義が譲り受けたという。忠義は昔からの池の近くに更に大きな池を掘って禁猟区にしたので、たくさんの鴨が繁殖したという。そのようなことから人々がここを「鴨池」と呼ぶようになったという。 駒池動物園は大正5年(1916)鹿児島電気軌道によって開設された日本で4番目の歴史の古い動物園である。昭和3年(1928)鹿児島電気軌道を鹿児島市に買収され動物園も市営となった。鴨池という地域には、この動物園の他にも鹿児島市営野球場や海水浴場もあり、当時の子供達にとっては一つのオアシスでもあった。私の記憶では毎年春のお別れ遠足は市内の小学校の全てが動物園に行っていたと思う。私は昭和37年の春に鹿児島を離れたが、鴨池動物園は昭和47年(1972)鹿児島市の平川町に移転し現在は「平川動物公園」となったという。 公園内にある「鴨池」の石碑。石垣も当時のものだという。 下の写真はネットから当時の絵葉書という動物公園の写真を拝借した。私の記憶ではここは入口から比較的近い場所であり、写真でも見えるように公園の中を高架で電車が通り過ぎていた。 公園の一角に残された動物園入口の本門
2022.10.26
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私が愛用する「鹿児島市史跡めぐりガイドブック」にある「製煉所址」を先日の「一之宮神社」訪問の後に訪ねることにして地図を見ながら歩き始めた。場所は鹿児島市の鴨池一丁目とある。この辺だろうとやっと探し当てた場所は静かな住宅地で、どこだろうとそのあたりを無意識に行ったり来たりすると住宅の一角にそれらしきモノを発見。おっ ここはこれまで何十回も訪れたことのあるN先輩宅ではないか! あまりのことに、私の思考は一瞬止まってしまった。車を運転して訪れていた頃は、鹿児島大学の本部や農学部前の道路を通りその先から左折し、何番目かの筋を右折して進むとN先輩のお宅に難なく着いていた。ところが今回は初めて訪ねた一之宮神社をあとにして、郡元の電停方向から入ってきたので、探し回ることになってしまったのだ。 N先輩は私が属するく男声合唱団・楠声会の前身である大学の男声合唱団・フロイデコールの創設者である。N先輩は終戦後のまだ鹿児島大学が第七高等学校であったときに入学し、合唱団をつくり、卒業後にそのOBを結集して楠声会を結成し、それが現在に至っている。N先輩の存在がなければ楠声会の存在もなく、私を含むOBのおじさんたちが、今日こうして生涯学習にも連なる男声合唱を楽しむことはできなかっただろう。また奥様は鹿児島の「お母さんコーラス」の草分けである「めぐみコーラス」の創設者の一人であり、当時お子さんが通っておられた「めぐみ幼稚園」のお母さんたちで結成されたもので、卒園後も歌い続けて広く一般のおかあさんたちも参加するようになり今日に至っていると聞く。 私は、家族で鹿児島に帰った1981年(昭和56年)から2年くらい経過し仕事も目処がついた頃、OBで組織する楠声会の存在を知り当時新聞社に勤めていたフロイデコール時代の同期生を訪ね、楠声会に参加するようになった。妻もコーラスを続けることを願っていたが、福岡生まれのため鹿児島は未知の世界であった。しかし、上記のような縁もあって、当時めぐみコーラスの団長であったN先輩の奥様の勧めもあって「めぐみコーラス」に入団することになったのだった。また、奥様は草月流の師範であったので、私の娘も独身時代数年間、N先輩宅で毎週一回その教えを乞うことになり、終わる頃に私が車で迎えに行っていた。 そのご夫妻も数年前に先にご主人が亡くなり、追いかけるように同じ年に奥様もお亡くなりになった。お二人とも自分たちの所属の合唱団だけでなく、県の合唱界にも大きな貢献をされた生涯であった。私が探していた「製煉所址」が偶然にもN先輩宅であったことに驚いた私も一瞬のあとに自分を取り戻し改めて周りを見渡した。そして玄関に立ってしばらく黙祷した。門の入口には今もご夫妻の表札が残されていたが、玄関には長崎に住むお孫さんが鹿児島に就職されておじいちゃん、おばあちゃんの家に住まれているとのことでその表札があった。奥様生存中、いつだったか下の写真「社」のお話をされたことがあり、玄関横の社はN家は代々「神主」の家系だったとのことでその名残だとの話だった。。もっともN先輩は元銀行マンであり、ご兄弟も現在は神主とは関係のない仕事についておられると聞いている。しかし「社」の話だけで、その右側にある「製煉所址」の石碑は私も完全に見落としていた。 「製煉所址」について「史跡めぐりガイドブック」には次のように書いてある。島津家28代当主斉彬は嘉永4年(1851)、紅烏工場の近くに製煉所を建てた。ここで研究実験したことについて、製煉所址の碑には「島津斉彬公は此の地に製煉所を創設し、理化学を応用した研究をなさしめた。これは日本における工業試験場のさきがけである。その研究の主なものは、綿火薬、蒸気機関、反射炉、硫酸、硝酸、綿布漂白、洋酒、氷砂糖、パン等である。などの内容が書かれている。 これを知るだけでも、斉彬公がいかに先進的な人であったがわかる。
2022.10.18
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一之宮神社の奥に「弥生式住居跡」がある。説明板には次のように書いてある。 ー登呂遺跡に並ぶ弥生時代の遺跡発見ー 昭和25年鹿児島一之宮遺跡発掘のニュースが市民の話題をさらった。南九州で初めての竪穴式住居発見という学術的な関心もさることながら、2000年も前の自分達の先祖が地表下わずか1mのところに、その文化の痕跡を残していたという新鮮な驚きが大きかった。(中略)発見された住居跡は全部で4基、集会所とみられる円形住居跡は直径6m,遺構や建物の保存状態も上々で中心部に舟形の炉、その周辺に土器、矢じり、包丁など石器も見つかった。当時は床面の中央または隅に炉を掘り、炊事をしたり冬の暖房をとったりしていたと思われる。遺跡はこの住居跡を中心に現在の鹿児島大学付属小、中学校に及ぶ範囲に広がっている。(鹿児島県文化財) 更に「鹿児島県の歴史散歩」(鹿児島県高等学校歴史部会編)によると、上記説明版にもあった鹿児島大学附属中学校校庭や鹿児島大学キャンパスからも縄文~平安時代の遺跡が多数みつかっており、弥生時代の堰(せき)など水利施設が検出されているとのことである。また中郡小学校(一之宮遺跡)からは平安時代とされる厨(くりや)の墨書土器も出土しており、この付近が古代の鹿児島の中心地であった可能性があるとのこと。 下の写真は「弥生式住居跡」の一部。囲いをして保存されている。 また一之宮神社の中にはたくさんの正体不明のものを含む石造物が残されている。下は石像の祠(ほこら)。 これは仁王像の残欠か。 これは石造の鬼瓦か。私は過去に似たようなものを宮之城の宗功寺跡墓地(宮之城島津家墓地)と姶良市の蒲生八幡神社で見たことがあり、いずれも当ブログにもアップしている。いずれにしても珍しいものである。 「今上陛下 奉祝」の記念樹も植樹されている。
2022.10.09
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10月4日(火)にいつもの高校の同期生で久しぶりに集まろうというメールがKくんからきた。当日、日置市の「本○どん」が鹿児島市の病院に定期検診に来るので、それが終わった後の午後2時に鴨池のロイヤルホストに集合しようかとのこと。鹿児島もコロナ第7派が猛威を振るったので、実に1月16日以来の集まりとなる。私は余裕を持って午前11時のバスに乗り、集合時間まで久しぶりに2,3史跡を訪ねようと出かけた。 ここはその第一目標の鹿児島市郡元丁目4番27号、一之宮神社である。私が中郡電停で降りて中郡小学校裏の神社を目指した先に見えたのは、上の写真に見るこんもりした木々だった。その先を左に曲がって歩いて行くと神社の鳥居にたどり着く事ができた。ああ、ここが以前から訪ねたいと思っていた一之宮神社だ。やっと来れたという想いで感慨も一入。 下の写真「一之宮神社御由緒」に詳細はあるが概要次のようである。ご祭神は「天照皇大神」第38代天智天皇の御代(約1350年前)天智天皇の一之姫宮が現在の指宿市開聞町に鎮座する枚聞神社(薩摩一之宮)の分霊を供奉し初め鹿児島市谷山の涙橋畔に奉祀されたが、その後現在地に移設されたと伝わる。鹿児島市内最古の神社である。 当初より一之宮大明神と称え神領は七十二町歩(郡元、鴨池、武、田上、宇宿一帯)におよび隣接の延命院(明治以前焼失、現在の中郡小学校)と共に島津藩はもとより近郷の崇敬殊の外厚く隆盛を極めた。島津初代忠久公以来、毎年元旦に当主自ら先ず一之宮、次に二之宮(現在の鹿児島市草牟田にある鹿児島神社。拙ブログ2014年6月21日に訪問記あり)次に三之宮(現在の鹿児島市川上町川上天満宮)を巡拝するを例とし、18代家久公までその例が続いた。 元禄の御代神社名を一條宮と改称、下って明治初年の地租改正の折、更に郡元神社と改称したが、昭和30年当初の一之宮神社に復した。 境内には明治・大正から昭和の初期にかけて、近郷の若者たちが力試しをしたという「力石」も残されている。 県下に一つだけの珍しい「大永の名号板碑」県指定有形文化財(考古資料)で地上高90cm,幅25cm,厚さ15cm. 残念ながら文字は風化のため読み取ることはできなかった。
2022.10.06
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先日の鹿児島の地元新聞・南日本新聞に上の記事「国見金山跡知って」記事が掲載された。これまでに当ブログでも鹿児島の金山については、いくつかの金山・金山跡を取り上げてきたが、「国見金山跡」というのは初めて知る金山である。この国見金山は、現在の鹿児島県湧水町幸田にあり昭和初期までの約300年間、金鉱石の採掘がなされていたという。それを知ったくりの図書館の司書が「立派な史跡をもっと町内外の人に知ってほしい」とパネルを作成し展示したという記事である。(詳細は記事を参照ください) 私は、鹿児島県内の金山については現役時代大きなお得意さんであった住友金属鉱山の「菱刈鉱山」やブログに書いた「山ヶ野金山」「永野金山」、それにこれも取引先だった「串木野鉱山」「春日鉱山」などは現地のも行ってよく知っていた。菱刈鉱山のある大口方面は昔ら近辺に牛尾鉱山などもあり注目の場所であった。そういう中で昭和56年(1981)住友金属鉱山が菱刈に金鉱脈を発見し、昭和60年(1985)出鉱を開始する。このことについては、いずれ「Tくんの物語」で取り上げる予定である。菱刈鉱山は現在日本最大の金山といわれており、江戸時代あの佐渡金山が390年かけて80トンの金が採れたといわれているが、菱刈鉱山は20年間で既に140トンの金を掘り出している。一般の金山ではトンあたりの金産出量は3~5gというが、菱刈では平均でも20gあるという。 新聞記事に戻って、鹿児島には私の知らない金山がどれくらいあったのかと思い、ネットで調べてみた。下の「日本の金銀鉱床分布図」は山口大学工学部学術資料展示館」の資料である。この資料によると67ヶ所あって、うち8ヶ所が鹿児島である。これだけ見ても、日本の鉱床の1割以上が鹿児島にある。 下の地図資料は鹿児島大学の「かだいおうち」からの引用である。「薩摩の金脈」という地図があり、1ヶ所づつの名称は省くが、菱刈鉱山(金山)、串木野金山、山ヶ野金山、永野金山など入れて何と46ヶ所が書かれている。その中には新聞記事にある「国見金山」の名はないが「幸田(大昭)」があるのでこれがそうであろう。地元で「国見金山」という名前で呼ばれているのだろう。
2022.07.18
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先日探したがどうしても見つけることができなかった「諏訪小路」(すわんしゅっ)、帰って地図で確認したら反対側をうろうろして探していたことがわかった。今回街に出る用事があって用済後行ってすぐに発見することができた。下の通りが「諏訪小路」で真っ直ぐ進むと鹿児島中央駅方面に向かう。少し行った先に清滝公園があるが、当時、この公園付近に「諏訪神社」があったことから、このように呼ばれるようになった。 諏訪小路から市役所方面に5分くらい歩くと照国神社に向かう照国通りに出る。照国通りの左側の先に見える信号は「御着屋」。この御着屋の信号機から右に入ると10mくらい先の右側に「僧俊寛の碑」がある。 俊寛(1143~1179)は、平安時代後期の真言宗の僧である。僧位の「僧都」を冠して俊寛僧都(しゅんかんそうず)と呼ばれることも多いという。村上源氏の出身。後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にあったが、下の説明板にあるように平氏打倒の陰謀に加わり密議を行った。そのことが露見し平清盛により鬼界島(現在の三島村硫黄島)に流された。そのときここにあった俊寛堀といわれていた堀から船出したという。 鬼界島に流された後の俊寛ら3人は望郷の日々を過ごしていたが、俊寛以外の2人は赦されるが、俊寛は謀議の張本人という理由から赦されず、島に1人とり残される。俊寛は絶望して悲嘆に暮れる。1179年、俊寛の侍童だった有王が鬼界島を訪れ、変わり果てた姿の俊寛と再会した。有王から娘の手紙を受け取った俊寛は死を決意して、食を断ち自害した。有王は鬼界島より俊寛の灰骨を京へ持ち帰ったという。ここには詳細は書かないが流刑地にも諸説があるようだ。(この項wikipedeia) 僧俊寛のことを私が初めて知ったのは、近松門左衛門作の「平家女護島」が歌舞伎「平家女護島 俊寛」として平成23年3月に中村勘三郎によって硫黄島の海岸で公演されたというニュースを知ったときだった。 更にデパート山形屋の1号館と2号館の間にある道路を市役所方面に向かうと右側に「木屋町通」(きゃんまっどおい)がある。かってこの辺りに材木屋が多かったことからこの名前がついたという。 右側の石灯籠のあるところは、鹿児島の老舗菓子舗・かるかん元祖・明石屋。軽羹(かるかん)で有名。 鹿児島市にはこれまでも折に触れて紹介し、今日も紹介した「諏訪小路」「木屋町通」など町の通り名を書いた石碑が数十カ所あり、いずれにも鹿児島弁のひらがな読みが書かれている。
2022.05.28
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南日本新聞に隔週月曜日連載の「かごしま街道見聞記」(歴史作家・桐野作人氏)の5月16日分に「坂本龍馬と遊んだ少年」ということで歌人・吉井勇のことも紹介されている。 歌人・吉井勇の祖父は吉井幸輔 文政11年(1828)~明治4年(1891)後に友実(ともざね)を名乗る。加冶屋町に生まれ、西郷や大久保らとは幼少期からの親友であり、藩主・島津斉彬の藩政改革の下、安政3年(1856)大阪薩摩藩留守居役などを務める若き改革派であった。斉彬死後、大久保利通や税所篤ら同志40名と脱藩を企てたものの、藩主忠義(久光の嫡男)の慰留を受け文久元年(1861)大目付役に就任、藩政をリードし尊皇倒幕倒幕運動を推進した。 維新後は参与や元老院議官、工部大輔、日本鉄道社長などの要職を歴任したほか、明治天皇に仕え宮内次官まで昇った。明治17年(1884)維新の功により伯爵に叙せられる。新聞記事にもあるように坂本龍馬と親しく、寺田屋騒動によって負傷した龍馬が京都の薩摩藩邸に移動する際、護衛にあたった。また龍馬の新婚旅行に自邸を宿舎として提供した。 勇の父は幸輔の嫡男・一袈裟(いちげさ)後に幸蔵を名乗る。 1856~1927年この新聞記事には、前記坂本龍馬とお龍の薩摩への新婚旅行の際に吉井幸輔が自邸を提供し、慶応2年(1866)3月、龍馬とお龍は、幸輔・一袈裟父子と連れ立って霧島にに出かけたことなどが書かれている。記事は字が小さくて読みにくいが、興味のある方は読んでほしい。 一連の写真は鹿児島市の市街地にある「吉井友実」関連の像と説明板」を今年3月に撮影したものである。 この記事では一切触れてないが、私がこれを取り上げたのには理由がある。それは歌人・吉井勇が有名な曲の作詞者であるからだ。そう、あの「ゴンドラの唄」である。作曲はこれまた有名な中山晋平である。 いのち短し 恋せよ乙女 あかき唇 あせぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを 「ゴンドラの唄」は私達の男声合唱団の愛唱歌でもあり、定期演奏会や公演でもよく歌う。この曲を歌う私達の「ゴンドラの唄」YouTubeにはなかったので、「広島メンネルコール」さんの歌う曲をアップした。
2022.05.17
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私のブロ友で「鹿児島古寺巡礼」(南方新社)の著書のある川田達也さんが、この度、窪 壮一朗さんとのプロジェクトで「鹿児島の磨崖仏」を作成されて昨日の地元南日本新聞に紹介された。私が鹿児島の史跡についてネット・サーフィンをする中で川田さんが「rinzo」のペンネームで書かれるブログ「薩摩旧跡巡礼」を知り、コメントをお互いにやり取りするようになった。同じコメント仲間に「薩摩兵児」さんも加わっていたのだが、その薩摩兵児さんから2015年7月24日に鹿児島市皷川町にある「地蔵菩薩」の日頃は開帳されない「秘仏」が、六月燈のその日のみ開帳されるのでrinzoさんと3人で見に行きませんかとのお誘いがあり、当日、現地でお会いしたのが初対面であった。このときのことは、2015年8月16日の当ブログに詳細を書いている。 その後、川田さんは、これも私のブロ友である「本○どん」などの後押しもあって島津家一族の墓地を巡り「鹿児島古寺巡礼」を上梓された。若手だが前途有望な歴史家である。 2020年12月5日、今回の「鹿児島の磨崖仏」プロジェクト主催の「鹿児島磨崖仏巡礼 Vol.2」の講座に参加した。講師は、もちろん川田達也さんと窪壮一朗さん。この日の内容は先ずは霧島市隼人町神宮にある「沢家墓碑群」の話だった。磨崖仏とは直接関係はないが、以前私も訪ねてブログにも書いた史跡なので興味深く聞いた。次は南九州市川辺にある「清水磨崖仏」。 ここには私も数回訪れて日本でも有数の磨崖仏群に圧倒されて詳細の見て回り、写真も何十枚も写してブログにも書いているので楽しみながら講座を聞くことだった。最後はさつま町にある「下丁場磨崖仏」。ここは鹿児島史談会の史跡めぐりに一般応募して参加したときに訪れた一ヶ所である。ブログも書いた。梵字主体の磨崖仏が並び壮観だった。梵字は勉強不足で詳しいことは分からないが、ここも興味深かった。梵字の勉強も少しはしないといけない。 この「鹿児島の磨崖仏」は新聞掲載の前に川田さんからのご厚意で人伝にいただくことができたので、全ページを小さいながらも全部写真に写してブログに書くことができた。というのは、私が毎月一回、歯科クリニックで歯のクリーニング? をお願いしている同じクリニックに川田さんも毎月クリーニングに来ていて一回そこで会ったことがあった。そのクリニックの院長は私の高校の同期生の息子さんである。院長も川田さんの「鹿児島古寺巡礼」を読んでおられるそうで、私が行くといつも歴史の話、川田さんの話で盛り上がるのだ。今回その院長に私の分も預けてあって、私が行ったときにいただいて帰ったのだ。 今回、記載された磨崖仏は61ヶ所だが、これからも追加があるそうだ。61ヶ所のうち、私がこれまで見学したのは、○印をつけた14ヶ所のみである。これからの楽しみという点では前途有望だが、さてこれから何ヶ所行けることやら、というのが今の気持ちである。
2022.04.29
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鹿児島市の山形屋デパートの向かい側、電車通りを挟んだ歩道に在るバス停に「丹下梅子誕生地」の石碑がある。丹下梅子については地元鹿児島でも知らない人が多いと思うが、栄養学者、化学者として赫々たる実績を上げた女性である。 丹下梅子(1873年3月17日~1955年1月29日)は日本女性として 辻村みちよ に次いで日本女性として二人目の農学博士である。鹿児島県鹿児島市金生町ほか14町の商家、戸高丹下伊左衛門とエダの3女として生まれた。幼いときにままごとの竹箸を持って走り、転倒し右目に刺さって、失明する。鹿児島女子師範学校(現在の鹿児島大学教育学部の前身)を卒業後、教師になるが、28歳で日本女子大学校家政科一回生に入学、卒業後は大学に残り、長井長義の助手として勤務した。そして女性初の文部省中等化学教員検定試験に合格する。大正2年(1913)に40歳で宮城県仙台市の東北帝国大学化学科へ入学し、同時に入学した 黒田チカ 牧田らく と共に女性初の帝大生となる。ここまでを見ても何とも向学心の強い女性だったのだなあと思うがその後がまだ続く。 東北帝大では有機化学を学び、卒業後、大学院に進み、応用化学教室助手を経て、48歳で渡米しスタンフォード大学、コロンビア大学で栄養化学を修め、54歳のときジョンズ・ホプキンス大学にてステロール研究で博士号を取得した。帰国後は母校・日本女子大学の教壇に立つ傍ら、理化学研究所の嘱託として鈴木梅太郎のもとでビタミンの研究を行った。67歳の昭和15年(1940)にビタミンB2複合体の研究で東京帝国大学から農学博士の学位を受けた。生涯独身を通し、女性化学者の先駆者として学究一筋の生涯であったという。 下の写真は山形屋デパートの正面玄関に向かって左側にある胸像 野菜町通と書いて鹿児島弁では「やせまっどい」と言う。現在の「中町ベルグ」の通りを、古くは野菜町通りと言い、吉野や伊敷、郡元などから集まる野菜が積まれて野菜の露天が並ぶ賑やかな通りだったという。 納屋馬場と書いて「なやんばあ」という。現在の「納屋通り」を古くは納屋馬場と言い、江戸時代は藩指定の魚市場として「納屋組」(魚商組合48人)に市場を開くことが許され、大変賑わったという。通り名は、この納屋組にちなんでつけられたという。 天文館通りから入る「グルメ通り」を見守り続けている「地神様」(じがんさあ)である。江戸時代に「じがんさあ」を境に火災の延焼を免れたことから、災いを止める円満な神様として、人生の無事や阿井の成就を祈るようになったそうだ。 参考資料 wiki pedia 丹下梅子 天文館史跡めぐりマップ 1
2022.04.19
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桐野利秋誕生地 2019年3月撮影 積読の一冊だった”「薩摩の密偵・桐野利秋」(「人斬り半次郎」の真実)”を2月に読んでその中でわかったことから「西郷隆盛の遣韓論・征韓論を見直す」を2月27日に更に「続 西郷隆盛の遣韓論・征韓論について」を3月13日に当ブログに書いた。しかし、肝心な桐野利秋が薩摩の密偵だったかについては一つも触れないままだった。そこに最新刊の”「旧説VS .新説」幕末維新43人 龍馬も西郷も松蔭も実は主役ではない。” という長いタイトルの本を読んだ。その中でにも桐野が諜報活動を行ったということが書いてある。そこで初めて桐野が密偵だったという説に触れてみたいと思う。先ず、桐野利秋とはそもそもどういう人物なのか。簡単に説明すると天保9年12月2日(1839,1,6)生まれで、没年は明治10年9月24日(1877)、38歳の生涯を閉じる。桐野は鹿児島城下北郊の吉野郷実方(さねかた)でに生まれた。家格は御小姓組(与)といえる階級で城下士であり、幕末、戊辰戦争、明治維新、西南戦争で活躍した薩摩藩士である。西郷隆盛を介錯した別府晋助とは母方の従兄弟である。 私は2019年3月に鹿児島市吉野町にある「桐野利秋誕生之地」を訪問し、同月12日に「桐野利秋(中村半次郎)の誕生地を訪ねる」というタイトルでブログを書いている。現地にある下の説明板にその人となりと功績が書かれている。ただ「人斬り 半次郎」として有名になったのは、今から半世紀以上前に書かれた池波正太郎の小説「人斬り 半次郎」がそうした見方を広めたのではないかと言われている。 薩摩藩は島津斉彬が国政関与に乗り出して以来、王政復古政変から戊辰戦争まで幾つもの危機を乗り越えてきており、政治的にも軍事的にも一度も敗北したことがないという稀な藩であった。長州藩の浮沈と比較しても対照的である。その政治力の源泉の一つは広範で正確な情報力だったと思われる。その有力な人材として活躍したのが、中村半次郎、のちの桐野利秋である。 しかしながら、桐野利秋の名前は剣客としての方が、つとに高く「人斬り」としての異称の方が勝っている。そうはいうものの史料の上で桐野が人をむやみに斬ったという事例を見出すことはできない。桐野が人を斬ったのは、「公務」か、襲撃されての自己防衛か、戦争の場合だけと思われる。示現流の使い手である桐野の刀の錆となったのは、上田藩士で公武合体派の軍学者・赤松小三郎であり、慶応3年(1867)幕府(会津藩)の密偵として白昼暗殺したのだが、これ一人しかいない。 では諜報家としての桐野をみてみよう。桐野が情報活動を始めたのは文久3年(1863)からではないかと言われる。桐野は前年、島津久光の率兵上京に随行し、そのまま滞京した。文久2年(1862)から元治元年(1864)までの3年間、薩摩藩の政敵は長州藩だった。そして西郷吉之助(隆盛)が2度目の遠島から帰還した元治元年から情報活動の指揮をとるようになり、桐野はその配下で働くことになった。 長州藩は前年8月18日の政変で京都を追われていたが、河原町三条の長州藩邸には留守居と称して、まだ100余人の藩士たちが残っていた。そこには土佐藩の脱藩浪士も入り込んでいた。桐野は友人の肝付十郎とともに同藩邸に潜入している。もちろん長州や土佐の攘夷派に親近感を示しながらのことである。攘夷派が自分たちを正義の志士であるとしていることから、桐野と肝付も自分たちと同じ思想を持ち信用できると判断したのであろう。この一件から2ヶ月ほど経った6月14日、西郷が鹿児島にいる大久保一蔵(利通)に書簡を送り、その中で長州藩邸に潜入させた「密偵」について報告している。「中村半次郎と申す者がおいおい暴客(長州の攘夷派)の中に入り込み、長州屋敷内にも心置きなく入れたので、彼方の事情は委しくわかりました。ほかにもいろいろ(密偵を入れて)試みましたが、それほど(長州の事情)がわかりませんでした」この書簡一つをみても、桐野は言葉巧みに探索対象の懐に飛び込んで貴重な情報を得てくる有能な密偵だったことがわかる。しかし、西郷は危惧も抱いていた。それは桐野が長州攘夷派に同化してしまい、帰ってこないかもしれないという心配だった。ところが、西郷はそれも致し方ないとも考えていたともいう。おそらく桐野は長州攘夷派に近い心情や考えの持ち主だったのだろう、という。桐野の密偵としての有能さは、捜索対象に同化してしまうかもしれないほど、紙一重のところで活動していることにあった。 最後に桐野利秋は下の説明板にあるように「西郷を神のように敬い、父のように慕い、運命を共にした」ことに間違いはないが、次のようなことも言われている。それは、島津斉彬亡きあと、その遺志を継ぐ目的で結成された政治結社・精忠組に加盟することがなかったことや、西郷が遣韓論・征韓論政変で政府に辞表を提出し帰郷して設立された「私学校」に関与はしたものの、その後はむしろ距離を置いた節があるという。桐野は私学校の生徒たちの態度に批判的だったことと、一方で桐野自身が派手好みであったことなどによるのものではなかったのか。西郷は桐野を信任していたにもかかわらず、常に行動するときは彼ではなく、篠原国幹や村田新八を同行していたのは、おそらく西郷がそのような桐野の性癖と好悪を別にしていたためなのだろう。桐野と異色の友人といわれる、中井弘(大政奉還建白書に手をいれた桜洲の人)は「桐野は西郷の乾分でもなければ、西郷は桐野の親分でもない。只一個の棟梁株である」と言っている。桐野が大西郷を信仰する気持ちが非常に厚かったにもかかわらず、そのために同化させられるのを免れて、よく自己の性情を全うし、ただ国家の経営、死生の大事においてのみ、西郷と行動をともにし、これに殉じたのであろう。 参考資料 「薩摩の密偵 桐野利秋」 桐野作人著 「旧説VS.新説」幕末維新43人 安田清人執筆 wikipedia 「桐野利秋」
2022.04.13
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鹿児島市の繁華街天文館・東千石町8にあるが、繁華街の中でアーケードもあるので見逃しやすい場所である。しかし、私が訪れたときも、スッと鳥居の前に立ち止まって拝礼をする方もおられた。「天神おつきやぴらもーる」の西側入口近くにある社である。 島津氏の藩政時代からこの通りにあって、天神馬場通りの由来ともなっている神社でもある。菅原道真を祀るこの神社は、通りの守り神として、また学業の神様として広く市民の崇敬を受けている。 詳細な説明が下記案内板にある。 かってこの辺りに「伊勢殿屋敷」があったという。鹿児島では「西郷どん」でもお馴染みのように「殿」を「どん」と言う。一番下の写真の説明文にもあるように伊勢屋敷は5000坪あったというから、現在の東京ドーム14,217坪の1/3強の屋敷であったということだ。島津藩の幹部クラスがいかに強大な力をもっていたかが、この一事を見ても解る。一所持ち格の伊勢家は、参勤交代での「諸侯妻子の在府制」の建言等の功績が認められ、城下の中心地に屋敷が与えられたという。 それが、明治維新の風が吹いたことで世の中が和服から洋服へと変わり洋服仕立ての「大和屋」が富を築き買収し、やがて文明開化の波で過半数が花柳界のものとなった。その流れから鹿児島随一の繁華街・天文館へと変わっていったのだろう。このことからも鹿児島の歴史の一端を見ることができる。
2022.03.31
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薩摩藩独特の剣法として知られる「示現流」の流祖・東郷重位が島津家から拝領した屋敷跡である。鹿児島一の繁華街・天文館と高見馬場の中間の二官橋通りを城山に向かって歩いて行くと屋敷がある。(詳細は下の案内板の写真のとおりである)「人斬り半次郎」とよばれた桐野利秋も使った剣法と言えばわかりやすいのではないかと思う。とにかく先手必勝で「二の太刀要らず」という剣法である。。但し、一般のイメージとは異なり初太刀からの連続技も伝えられており、初太刀を外された場合に対する技法も伝えられている。鹿児島では現在もアチラコチラで修行しているが、一種独特の「キェー」という気合を発して斬っている。 余談になるが、先日、再放送されたNHK総合テレビの「ファミリーヒストリー・薬丸裕英」で取り上げていた薬丸裕英さんはこの案内板の中に書いてある「薬丸自顕流」の薬丸兼陳列の子孫だそうだ。 東郷重位屋敷跡から城山方面に向かって少し歩くと「示現流兵法所資料館」がある。私は入館したことはないが、示現流について、」東郷家古文書を中心に一般公開がされているそうだ。 上記「東郷家拝領屋敷跡」と「示現流兵法所」のある二官橋通りから高見馬場方面に向かうと次の通りが「三官橋通」である。中国から逃れてきた医者「沈一貫」は、島津家に仕えた。一貫は、名医として有名になり、住んでいた近くの清滝川に架かる橋に「一貫橋」「二貫橋」「三貫橋」の名前がつけられ、やがて「貫」が「官」になり、通りの名前になったという。鹿児島弁に鈍ると「さんかんばしどおい」となるので、そのままひらがなで書いてある。以前も他の場所の「○○通」をたくさん紹介したことがあるが、これからもたくさん紹介したと思っている。 下二枚の写真は「三官橋通」の現在。 山の上に見えるのは「城山ホテル 鹿児島」
2022.03.19
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先日鹿児島市照国町にある「ザビエル記念聖堂」と「ザビエル公園」を訪ねた。ここは鹿児島市一の繁華街・天文館通りを西に城山の方に向かって歩くと、変則五差路がある。交差して南北にのびる道が藩政時代の千石馬場である。当時は花岡島津家・伊勢家など、家禄1000石級の家老の屋敷があったあったことからこの名が生まれた。そして参勤交代の街道でもあった。 千石馬場を南に2分ほど歩くと、右側にザビエル教会(ザビエル記念聖堂)がある。(上の写真)ザビエルは天文18年(1549)鹿児島に上陸した。上陸地点は稲荷川の河口付近と考えられ埋立地の祇園之洲町にザビエル上陸記念碑がある。鹿児島出身で日本人初のキリスト教徒といわれるヤジローとジョアン・アントニオらが案内したと言われる。ときに戦国大名・島津貴久(15代当主)は、伊集院(国分説もある)の一宇治城にいたが、キリスト教布教の許可を与えた。日本における布教の第一歩である。ヤジローの親戚などたちまち数百人が信者になったという。 旧ザビエル教会・旧聖堂は明治44年(1911)建設されるが、昭和20年(1945)世界大戦の空襲で外壁だけを残して焼失した。昭和24年(1949)ザビエル上陸400年を記念してローマの寄付をもとにしてザビエル聖堂を再建した。木造建築で赤い屋根の聖堂だったが老朽化のため解体し、渡来450年を記念して平成11年(1999)新しいモダンな聖堂が竣工した。その後、平成13年(2001)5月12日「パイプオルガン開設記念コンサート」が開かれて私たちの男声合唱団・楠声会も演奏した。クリスチャンでもない私がザビエル教会に初めて行った日になった。その後、妻も所属する女声合唱団・シャンテ・メールもここで2回演奏会を開催したが私も聴衆の一人となった。 ザビエル記念聖堂の道路を挟んでザビエル公園がある。そこには「ザビエル渡麑記念碑」(ザビエルとげいきねんひ)がある。広い公園になっていて、昼休みなどここで弁当をたべる人など市民の憩いの公園になっている。私が訪ねた日は修学旅行の学生さん女2人、男2人の4人のグループが熱心に見学していたが、最近流行りのグループでの見学だろう。その中の女子学生から「ザビエル記念聖堂」はどこですかと聞かれて道路向かいの教会を教えることだった。 フランシスコ・ザビエル像 参考資料 「鹿児島県の歴史散歩」 鹿児島県高等学校歴史部会編 「鹿児島市 史蹟めぐりガイドブック」 鹿児島市教育委員会 「天文館 史蹟めぐりマップ」
2022.03.16
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鹿児島の桜開花予想日が3月26日、満開が4月4日と発表された昨日3月10日、いつものようにデジカメ片手に一人で鹿児島市内の史蹟や石造物を探しに出かけた。この日も100枚近い写真を写したが、この日は最後にコンビニでパンなどを買って、海を眺めながら食べようと最後に立ち寄った「マリンポートかごしま」跡からの桜島が見える鹿児島港のことなどを紹介したい思う。 この日は、中国大陸からの黄砂なのか、春霞なのか桜島の色ももう一ついつもの冴えがない。広い芝生には子どもたちの遠足なのか何百人かの子どもたちで賑わっていた。しっかりマスク着用はしていたが、コロナを吹き飛ばすように走り回っていた。現在、この広場の一角に鹿児島県体育館の建設の話が進んでおり、桜島の景観との関係で物議を醸している。なんとかいい着点を見出してほしいものだ。 右に見える建物は「NHK鹿児島放送局」である。 ここは「一丁台場」とよばれる場所。易居町にある。沖の岩岐ともよばれ、明治5年(1872)に生産町埋立てと同時に建造されたといわれている。一丁台場は波除のための築造と思われる。 「一丁台場歩道橋」平成時代の架橋だと書いてある。 新波止「波戸場」。 小川町にある。一丁台場の西側に位置し、右側には水族館がある。小川町埋立の行われた弘化・嘉永年間(1844~53)に波除としてあったものを島津斉興・斉彬の時代に台場として改造したと考えられる。薩英戦争当時は大小17門の大砲が備えられた。 明治5年(1872)に明治天皇が行幸された。
2022.03.11
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鹿児島市内にも、これまでも目にはしていたがどういう史蹟か詳細を知らないものが数多く残されていることに気づき、先ず灯台も見直して見ることにした。先日の古い建物に続く第2弾である。今後も、少しづつ訪ねてみたいと思う。 いづろ通りの一角、北側に建っている石燈籠は、南林寺(現在の松原神社)の参道に建っていたものといわれているが、屋久島へ通う岸岐(がんぎ)・堤防にあった航路標識であったという説もある。「いづろ」の名はこの石燈籠に由来するといわれている。同じような石燈籠が向こう側に見えるのは、昭和59年に復元されとものだ。 下の写真は金生町にある「大国主神社」(おおくにぬしじんじゃ)。石燈籠の反対側にある。昔から繁華街・天文館の発展を支えてきた神社である。縁結びで有名の神様が祀られている。 安政の大獄で幕府の追求を逃れた幕末の京都清水寺成就院勤皇僧・月照が西郷を頼って薩摩にやってきた。時に安政5年(1858)11月8日のことである。しかし、密告され藩庁により旅館俵屋に移された。そのとき泊まった俵屋の跡である。11月16日、西郷と相抱いて錦江湾に身を投じ生涯を閉じた。 西郷隆盛と僧月照が安政5年(1858)11月16日、錦江湾(鹿児島湾)に身を投じた二人をこの砂浜において焚き火をして温め、付近の坂下長右衛門宅に収容し、手厚く介抱した場所である。月照は亡くなったが西郷は助かった。しかしこの後、西郷は遠島になる。 (写真は2014年1月撮影) 鹿児島市の南洲寺の境内に僧月照の墓がある。 (写真は2014年1月撮影) 参考資料 天文館史蹟めぐりマップ 現地説明板 鹿児島市 史跡めぐりガイドブック 鹿児島市教育委員会 他syouwa
2022.03.05
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今日は県のコロナまん延防止が3月6日に解除されるというニュースもあり、何よりも春らしい陽光に誘われて、2年越しになっている市役所へのある手続きを思い立って久しぶりにバスに乗って街に出かけた。前回までの手続きは書類をもらって帰り様々な家族内(兄弟間)の調整を図った上で提出するという段取りを踏んできたのだが、前回までがスムーズに進んだこともあり、今回はその必要もなく、女子吏員さんに丁寧な応接をしていただき15分くらいで手続きが終了した。 すっかり気分良く解放された私は、久しぶりに市内の歴史的なモノを見て回ろうとデジカメ片手に2時間以上歩き回ってきた。そこで今日は鹿児島市内に残る4つの建物を紹介したい。 上の写真は今日行った「鹿児島市庁舎本館」建築当時は、全国の市庁舎でも数少ない構造と規模であったという。建築様式は近世式で、中央の塔(3階)前面の垂直リブが垂直線を強調し、頭部の四角い垂直方向の連続窓がモダンな印象を与えている。昭和12年(1937)に完成した。平成10年(1998)、国の有形文化財(建造物)に登録された。 下の倉庫の写真は住吉町に現存する「石倉倉庫群」の一部である。弁天町、汐見町(現在の泉町)、築町(名山町の一部)、住吉町の一帯は安永年間、文政年間に埋め立てられ、明治末期に倉庫業が盛んになった。 大津倉庫竣工は大正14年(1925)とされる。味噌醤油などの醸造業に使用する樽を保管していたといわれている。この倉庫は元々2階建てで柱には床梁を差した痕跡が認められるという。 南日本銀行本店昭和12年、鹿児島無尽株式会社鹿児島支店(金融期間)として建設。鉄筋コンクリート造り6階建。その後、旭相互銀行から南日本銀行となる。巨大な列柱(コリシャン・オーダー)が目を引く。建物の様式は、ルネッサンス様式と分離派様式との混合様式であり、近代から現代への過度期の作品である。礎盤・柱心・柱頭を有する部分と、この柱が支えるの軒部分を含んだオーダーと呼ばれる列柱部分はコリント式であり、3階まで突き通っている巨大な列柱(コリシャン・オーダー)は豪壮な様相を呈し、建築学上貴重な存在である。なお、上層3層部では、分離派様式が用いられている。設計は元鹿児島県技師の三上昇氏。造詣の模範になっているとして、平性10年月11日に登録有形文化財に指定されている。 デパート「山形屋1号館」創業者・岩元源衛門は山形県出身で山形特産であった「紅花仲買」を始め主に大阪、京都を中心に「呉服太物行商」を行っていたが、薩摩藩主・島津重豪(しげひで)の商人誘致策を機に家族を引き連れて薩摩入りした。安永元年(1772)城下の木屋町(現在の金生町)に移住し山形屋が誕生する。その後、大正5年(1916)、ルネッサンス式鉄骨鉄筋コンクリート(地下1階、地上4階)の新店舗が誕生する。戦禍により被災するも増築や2号館の完成などを経て平成10年(1998)再びルネッサンス調のデザインに一新された。 参考資料 「天文館史蹟めぐりマップ」 「鹿児島市 史跡めぐりガイドブック」 鹿児島市教育委員会 「ゆめみなと鹿児島 鹿児島港の歴史遺構」 他
2022.03.03
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鹿児島市の加治屋町と言えば、西郷隆盛や大久保利通など明治維新の原動力になった下級武士のたくさん生まれ育った場所として知られている。ここで紹介するのは、その加治屋町が生んだ大山巌である。天保13年(1842)西郷隆盛の従兄弟として、加治屋町で生まれた。西郷隆盛は文政10年(1827)に誕生しているから15歳違いである。寺田屋事件 文久2年4月23日(1862、5,21)に起こった薩摩藩士粛清事件であるがこれに参加し、帰藩謹慎を命じられる。 薩英戦争 文久3年7月2日~4日(1863、8,15~17)ではスイカ売り決死隊に加わり、英旗艦ユーリアスに乗り込んだ。 戊辰戦争 慶応4年/明治元年(1868)日本最大の内戦といわれた戦に参加。西南戦争 明治10年(1877)では政府軍として、城山攻撃に加わった。 その後、砲術を学び、陸軍身を置いた大山はにフランスで近代兵学を学んだ。帰国後、陸軍の近代化に努め初代陸軍大臣に就任した。日清戦争の司令官、日露戦争の満州軍総司令官として活躍した。日露戦争の戦いでは「ナポレオン以来の戦略家」「ブルドックの如き猛将」など奉天大会戦に勝利した大山巌元帥の名声は世界を駆け抜けたという。東洋の豪傑のイメージとは逆にハイカラを好み、豪壮なシュロス(西洋城)に住み、大正5年(1916)に永眠、国葬によって栃木県・那須に葬られた。 参考資料 鹿児島市 史跡めぐりガイドブック 鹿児島市教育委員会編 現地案内板 など
2022.01.30
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山川に史跡がいくつかあるということは聞いていたが、今回やっと訪ねることができた。山川港は天然の良港と言われている。港は中世から利用され、江戸時代は薩摩藩の外港だった。奄美や琉球への貿易港として指宿の豪商・浜崎太平次も利用していたという。浜崎太平次は幕末期の薩摩国の商人であり、紀州の紀伊国屋文左衛門、加賀の銭屋五兵衛と合わせて江戸時代の「実業界の三傑」とも呼ばれる。 また慶長4年(1609)、島津家久は樺山久高を派遣軍総大将として、軍船1000余艘、3000余人の兵力で琉球出兵を行ったが、これも山川港からの出陣であった。 港から東へ400m,旧山川町近くの旧山川小学校の跡地が、山川薬草園跡(県史跡)である。下の写真の案内板に詳細が書いてある。 次に訪ねたのは臨済宗の「正龍寺跡」(下の写真)、のつもりだった。ところが、ナビの案内に従ってたどり着いたのは「浄土真宗本願寺派・正龍寺」だった。「正龍寺跡」に残された歴史としては、慶長元年(1596)に近世儒学の祖とされる藤原惺窩(せいか)がこの寺を訪れ薩南学派の祖である桂庵玄樹などが研究した和訓に関する書物を写したりしたということが伝わる。帰って調べてわかったことだが、「正龍寺跡」は墓地だけが残されている別の場所だったようだ。そのため、上の「正龍寺跡」墓地の写真は「元気な山川まちづくりの会」のホームページから拝借した。しかし、ここでも嬉しい収穫があった。それは、歴史を刻んだ仁王像に会えたことだ。この仁王像は旧正龍寺のものと思われるが、明治2年(1869)の廃仏毀釈で廃寺になったのを乗り越えて新たに創立された「正龍寺」に移され現在に至っているものと思われる。 参考資料 「鹿児島県の歴史散歩」 鹿児島県高等学校歴史部会編 「元気な山川まちづくりの会」ホームページ など 阿像吽像
2021.12.06
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次に訪ねたのはオジイさん4人にはふさわしくない遊覧車のある国分の「城山公園」である。コロナ禍の最中にもかかわらず駐車場も満杯で、親子連れで溢れていた。私が2015年7月8日と7月11日にブログに書いた、ここ城山公園の「十三仏」や「見事な薬研彫りの供養塔」を訪ねたときはそれらの史跡に夢中で、公園のこのような賑わいは全然目に入っていなかった。それだけに国分の人々の憩いの地だったことを知り驚いた。 公園はきれいに整備され、緑の芝生がきれいだった。鹿児島湾(錦江湾)の遥か彼方には桜島が見える。鹿児島市内(右方向)からいつも眺める桜島とはまた一味違う。 順路から言えば逆になったが、城山公園の登り口に島津義久の墓がある。先日のブログに書いた義久の居城・舞鶴城跡から数百メートル南の方に位置する。この地は舞鶴城を鎮護した金剛寺跡(真言宗)である。この墓所については、2015年6月27日、7月1日、7月4日に当ブログに書いた。 下の写真は島津義久(島津家第16代当主にして島津四兄弟の長兄)の墓標 戊辰戦争の碑 日露戦争の慰霊碑 日清戦争の慰霊碑 西南戦争の慰霊碑 亀趺の上に龍の像
2021.10.18
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高校同期生の旅好き、歴史好きの4人旅は続く。次に訪ねたのは、古代史を研究中のKくんも興味があると思い霧島市隼人町にある「隼人塚」(国史跡)。ここは娘が結婚後に住んでいた場所が隼人駅に近く、其の近くに隼人塚があったので、私は数回訪れたことがあり、2015年3月29日のブログには詳細に訪問記を書いている。 ここには3基の石造五重塔と石造の四天王像がある。現在は広く公園化され、隼人塚資料館もある。建立された年代については諸説があるが、平成8年(1996)~(1997)の発掘調査で、隼人塚から出土した石像の台座部分に、正国寺にある石仏に共通する要素があったり、正国寺跡の石仏3体(県文化財)のうち、2体の光背部分に「康治元年(1142)」の銘があることなどから、現在では平安時代後期創建説が有力視されている。 予定では、その後、同じ隼人にある島津義久に因む富隈城跡を訪問する予定だったが、時間の関係もありパスして国分のこれも義久の居城・舞鶴城跡に急いだ。ここも私は以前、訪ねたことがあり2015年5月23日のブログに詳細は書いている。 舞鶴城跡(国分新城、国分御屋形)には、現在、国分小学校、国分高校がある。慶長9年(1604)ごろ、島津家久に家督を譲った義久が、隼人の富隈城からここに移り住んだ。移城の理由に義久の隠居説があるが、関ヶ原の戦い後の徳川方の侵攻に備えるためだったという説もある。義久の死後は3女。亀寿が住み、さらにその後は地頭の館となった。江戸時代を通じて鹿児島城から舞鶴城に藩主が移る構想もたびたびあり、幕末には島津斉彬の命により国分の測量も行われたが、斉彬の死により頓挫した経緯もある。世が世なら今頃、鹿児島県の県庁所在地は国分だったかもしれない。 朱門 朱門や石垣、石橋も今に残る。 参考資料 「鹿児島県の歴史散歩」 鹿児島県高等学校歴史部会編 他
2021.10.15
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9月19日(日)は久しぶりに高校の八期会歴史仲間4人で姶良市、霧島市の史跡を訪ねようということになった。この日は、これまで私達を姶良方面の史跡に案内してくれていた同じ同期生のNSくんが病に倒れたのでそのお見舞いにも行こうということで計画された。集合場所はいつものMくん宅で、そこからMくんの車に乗せてもらっていざ出発という段取りである。我が家の近くにある始発バス停から8時20分に乗ったのだが日曜日ということもあり降車場所の市役所バス停に30分もかからに到着。Mくん宅出発予定の9時30分まではまだ時間の余裕がある。機会あるごとに訪れている近辺の史跡をゆっくり巡りながらMくん宅に行くことにする。それぞれの史跡は、これまでに折に触れて写真や記事を書いてきたものばかりである。上の地図を貼ってみたが、見えにくのでご勘弁を。Mくん宅は地図写真で一番上に「横山安武・森有礼育成の地」と横に長く赤線で囲んでいる部分にある。そこが現在、森くん宅である。降りた場所は⑩とある国道10号線の左下にある市役所入口。そこから歩いて鹿児島城(鶴丸城)に向かって歩く。再建された「御楼門」の前を歩いて裏門から入る。城跡の中から見る御楼門も逆光でほぼシルエットに近い。左前面に見える桜島も雲に囲まれて一部しか見えない。 ちょっと左寄りに移動すると「御楼門」もきれいに写すことができる。この「御楼門」は2020年3月に1873年に消失して以来、7年ぶりに再建された。 ここは鹿児島所の本丸の跡であるが、現在は「鹿児島県歴史資料センター 黎明館」となっている。明治100年を記念して建てられたもので歴史・考古・民俗・美術・工芸に関する18万点を超える貴重な資料を所蔵し、常設展示では約3000点を展示している。 鹿児島城跡のある「天璋院篤姫像」 ご存知のように2008年1月からNHK大河ドラマ「篤姫」として放映されて一躍全国区で有名になった。篤姫は第13代将軍徳川家定の御台所(正室)となり、幕末動乱の中、江戸城の大奥を取り仕切った。放送開始に当たり原作者の宮尾登美子氏がみえていろいろなエピソードを含めて篤姫のことを語られたことを昨日のことのように思い出した。篤姫についてはこれまでたくさんは書いていないので概要を書くことにしよう。1835(天保6年)~1883(明治16年)今和泉島津家の忠剛の娘一子として鹿児島城下(大竜町)に生まれる。1850(嘉永3年)ごろ徳川家定の婦人にという打診が徳川家から島津家にあり島津本家は1853(嘉永6年)に一子を島津斉彬の実子として鶴丸城に迎え入れて名を「篤姫」と改めた。そして同年江戸に入った。しかし、その後政情不安や天災などの影響もあり1856(安政3年)ようやく家定の御台所(正室)となった。その後、養父斉彬、夫家定が死去し篤姫は落飾し「天璋院」と号する。世情は大きく倒幕の流れとなり、討幕軍の先頭煮立ったのが実家の薩摩藩であった。天璋院は苦しい立場の中、最後まで江戸城に留まり徳川家の存続を願う嘆願書を討幕軍の隊長に出すなど、江戸城無血開城に大きな役割を果たした。その後は徳川家達の養育に専念し1883(明治16年)に亡くなった。 鶴丸城跡をでてすぐに行き当たるのが「薩摩義士碑」この日は近くを工事中で写真が写させなかったので、春に写したもので代替えした。桜満開。1753(宝暦3年)幕府は宝暦治水(岐阜県木曽川の治水工事)を薩摩藩に命じた。島津家第24代当主・島津重年は家老・平田靱負を総奉行に約1000人が赴いた。工事は困難を極め死者や自決者も続失した。1755(宝暦5年)に工事は完成したが、平田靱負以下80余名の犠牲者と莫大な借金が残った。この碑は1920(大正9年)に宝暦治水の薩摩義士を顕彰するために建てられた。 この薩摩義士については杉本苑子著の「孤愁の岸」を読んで2011年12月16日と12月19日に当ブログに私が感想文もどきを書いているので興味のある方は一読ください。 1877(明治10年)9月1日、西郷隆盛が西南戦争で熊本、大分、宮崎延岡から山中を通り、鹿児島に帰ってきた後、最後の6日間城山にこもる。一時混乱した官軍も城山を十重二十重に城山を包囲した。9月24日未明、官軍の総攻撃が始まると、西郷は桐野利秋、村田新八などの諸将とともに城山から岩崎谷を下っていき、谷の入口付近で銃弾を受け歩けなくなる。「普どん、普どん。もうここでよか」と別府晋介に介錯を頼み、自決した。 Mくんたくの近くに行くと児童文学作家の「椋鳩十」の旧宅と初代大阪商工会議所会頭・五代友厚の誕生地案内板がある。いずれも訪ねたことがある。 そしてたどり着いたのがMくん宅。ここはその昔「横山安武・森有礼成育之地」であった。森有礼と兄・横山安武は春日町の春日神社の近くで生まれた。ここは二人が育ったところである。森有礼は初代文部大臣。横山安武は1870(明治3年)時弊10か条を挙げた書を集議院門前に掲げ自決した。ここでMくん、Kくん、Nくん、私の4人が合流し「いざ 出発!」と勇躍 姶良・霧島方面へ出発した。
2021.09.22
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鹿児島市の中心部にある東千石町の西本願寺鹿児島別院の塀の近くに「鹿児島県里程元標」が立っている。ここは何事かあるといつも通る道なので、その存在は知っていたが、江戸時代くらいに建てられたものと思っていた。先日もコーラスの練習に出かけた時、ここを通ったのだがデジカメを持ち合わせていたので、よく見ながら撮影してみた。 正面に「鹿児島県里程元標 鹿児島県」とあった。帰って「かごしま市 史跡めぐりガイドブック」を見ると「明治20年代(1887~1896)に第1期、2期道路開鑿(かいさく)計画に着手し、道路網が整備された。明治35年(1902)10月に建てられたもので、ここを起点にして県内各地へ至る距離が記されている」とあった。私の想像と違って江戸時代の遺物ではなかった。道路整備などが始まったのは、西南戦争(明治10年)が終わって10年経過した後の事で、鹿児島県庁が計画実施したものと思われる。 それを写した後、もう一つ似たようなものを似たものを思い出して、そこから5分もかからないのでその足で行ってみた。そこは、昔 鹿児島城(鶴丸城)の二の丸があった場所で現在は鹿児島市立美術館のある一角である。 これは明治40年9月に建てられたものだった。今回、このようなことに遭遇し気付いたことは、まだまだ身近にはたくさんの歴史を知る材料がころがっているということだ。少しづつ歩いてみようと思う。
2021.06.04
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中国人留学生と一緒に「本〇どん」宅を訪ねた後、「本〇どん」の案内で国道270号線を南へ走り物産館の「かめまる館」の手前の道を右折し吹上浜に向かった。すると真正面に白い鳥居の神社が見えた。近づいて見ると「仁王像」が鎮座している。実は3月に同じ場所を通ったときに気が付いていたのだが、その日は心に残しながら素通りしてしまった。今回は何としても写真を写したいと思い、ここを左折して吹上浜に着いた後、ドライバーのMくんに帰りに拾ってくれるようにお願いして、一人で500mくらいの道を引き返して神社に着いた。 ここは「久多島神社」(くたじまじんじゃ)。詳細は案内板にある通りだが、私の大きな興味は仁王像である。 右に阿像。左腕が少しかけているようだ。 左に吽像。こちらは右腕がほとんど欠落している。これらも廃仏毀釈で痛めつけられたのか。 案内板にあるように、この久多島神社には永吉地区の各所にあった神社すべてを合祀したというが、その各神社の名前が記されている。 上からの眺めも素晴らしい。
2021.06.02
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私が「本〇どん」と縁が出来たのがここ天昌寺跡墓地・永吉島津家の菩提寺跡だった。初めてここを訪れたのは2016年で当時「本〇どん」は永吉の史跡などを守る「永吉南郷会」の会長で墓地の一角にファイルが置かれ「見学の皆さん、下記携帯電話まで電話をいただければ、いつでも案内いたします」とあった。パソコンはいくらか使っても携帯電話は持っていない私は、その日は連絡も出来ず、帰ってから電話をして2017年の正月早々に会う約束が出来たのだった。それ以来の付き合いで、現在では私の友人たちとも巻き込んでの交流をするようになった。 この日は、中国人留学生も一緒だったので、日本の大きな墓碑を見学してもらおうという「本〇どん」のアイデアでここを訪れた。友人のNくんも初めての参加だった。写真は墓地入口で「本〇どん」の説明を聞く留学生4人。下の写真は様々な墓碑群。 腰を痛めておられる「本〇どん」に代わって私が簡単な説明をした。手前にあるのが「宝篋印塔」。その向こう側に並ぶのが卵型をしたお坊さんの墓で「無縫塔」「卵塔」と呼び、俗に「坊主墓」ともいう。 その「坊主墓」の右から2番目にあるのが「天昌寺開山石屋真梁和尚の墓」である。石屋真梁(せきおくしんりょう)は島津忠久の後裔、伊集院忠国の第11子である。鹿児島市にある福昌寺(現在は福昌寺跡墓地)の開山などたくさんの寺を開山している。 五輪塔式墓碑も林立している。見事だ。 墓地の一番奥にあるのが、関ケ原の戦いで島津義弘の身代わりになって倒れた島津豊久公の墓碑。豊久公は曾祖父・日新公、祖父・貴久公、父・家久公(島津四兄弟の末弟で永吉島津家初代)とする永吉島津家2代目当主である。なお永吉島津家初代・家久公の墓地は同じ永吉の梅天寺跡にあることを説明した。念のため書き添えると島津家には二人の「家久」公がいるが、もう一人は義弘公の子・忠恒、後に島津本宗家第18代当主にして初代鹿児島藩主となった家久公である。 墓碑には夫婦別々のものや、下の写真の第3代領主・忠栄夫妻の墓碑のように一緒に埋葬されているものもある。 13代領主久陽夫人の墓碑。夫婦別々に墓碑はある。なお、中国人留学生からほとんどの墓碑にある「院」の文字は何を意味するかとの質問があった。私は少ない知識の中から「院号と言い、戒名のランクを表すものでこの時代は身分の高い人にしか使われないものだった。現在も院号は使われているが、現在戒名に院号を使うには身分もある程度あって、お金をたくさん払う必要がある」「地獄の沙汰も金次第」と冗談交じりに話をした。当たっていますかね? 12代領主・久陽公の墓碑
2021.05.26
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ほぼ南九州にしかない南方神社である。元々、明治以前は諏訪神社として鹿児島や宮崎の各所にある。その理由は島津家初代の島津忠久公が奥州藤原氏の征伐の際に信州諏訪神社に祈願し。その後、信濃の一部を治めたことがきっかけと言われる。(鹿児島よかもん再発見) 南方神社の歴史〇文明5年(1473) 蒲生城を追われた蒲生宣が諏訪大明神として建立〇永禄8年(1565) 喜入季久により再建〇明治5年(1872) 南方神社に改名〇大正7年(1918) 木造社殿建築〇昭和40年(1965)コンクリート社殿新築〇平成13年(2001)社殿改装、駐車場整備〇平成14年(2002)神璽がつくられる 神木がこのような形で残されている。 神社に似つかわしくない「夫婦石」。いや 神社だからあるのか? 映画「ゆずの葉ゆれて」のロケ地としても使われたようだ。 「かごしま自然百選」にも選ばれただけあって周囲は大きな木々を中心に森になっている。自然に囲まれて緑の中でゆったりした気分をしばし満喫した。
2021.05.10
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肝付家歴代墓地は江戸時代270年に渡ってここ喜入を治めた領主たちが眠る場所である。喜入領主肝付氏は島津氏と数百年に渡り争い続けた大隅の戦国大名肝付氏の庶流(分家)である。肝付氏の始祖は伴兼行が薩摩に下向したのが安和2年(969)とされ、その曾孫の兼俊が肝付氏を名乗った。喜入肝付氏の初代兼光は肝付氏12代兼忠の三男だが、父兼忠と長兄国兼が仲が悪く不仲だったので。これをいいことに次兄国連は国兼を領外へ追放する。兼光はこの間に立って国兼の復帰を願い出たが、とりあってもらえない。それで兼光は本家と別れ島津氏に帰順し大崎に居住する。それ以降溝辺、加治木と拠点を移し、一時は島津貴久と敵対するが、加治木の黒川崎において敗北してかrさは島津氏に仕えた。そして文禄4年(1595)豊臣秀吉により喜入に移封されて喜入肝付氏となった。同じ時期に肝付氏本家は戦国大名としての地位を失った。 移封以降は、九代久兼、十代兼柄が藩の家老職に就いた。十五代兼善の四男兼戈(尚五郎)は、安政3年(1856)に吉利小松氏の養子となり、後に「小松帯刀清廉」と名を変え、日本を大きく動かしていく。特に藩政改革と幕末政局(薩長同盟、大政奉還など)に大きな役割を果たした。残念ながら明治維新直後の明治3年(1870)に死去したため、明治政府での活躍は叶わなかった。 歴代の墓碑も宝篋印塔などもあり変化に富んでいる。 五輪塔式墓碑 小松帯刀の墓地については、当ブログ2021年3月29日の「日置市日吉吉利の園林寺跡 小松帯刀の墓地を訪ねる」に詳細はある。 参考資料 「鹿児島古寺巡礼」 川田達也著 南方新社 wikipedia 「肝付氏」 鹿児島市観光農園 グリーンファーム ホームページ
2021.05.08
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「ふれあい広場」は旧麓の道に続く。(一番下の写真)歩いてすぐの右側に「牧瀬家武家門」がある。 「牧瀬家武家門」はこの地域で唯一残っている武家門であり、その存在感から良好な景観形成に重要なものと認められるとして、平成22年(2010)に鹿児島市の景観重要建造物に指定された。 「かごしま自然百選」に選ばれた旧麓水路の清流は透明で心が洗われる心地がする。この日は見ることはなかったが、案内板にあるようにここに住む人々が野菜を洗ったり、冷やしたりする姿が見られるというのがよくわかる清流である。 ここの石垣は、野面積み、割石積み、切石積みと3種類の積み方が見られ、ゆるやかなカーブを描きながらほぼ垂直に高く積まれている。(下4枚の写真参照)この近くに石切り場もあり、江戸時代から築かれたと考えられ、往時を偲ばせる貴重なものである。 下の写真に見る山は「給黎城跡」のあった山の一部である。給黎城(きいれじょう)は三つの半島状台地を利用したものであった。南側にある八幡川に向けて突き出た標高60mほどの3つの尾根があり、北から北之城、本城、南ヶ城と並んでいる。その昔、伊作平次郎良道の次男・有道がここに居城し、姓を給黎と名乗ったと伝えられるが詳細は不明である。その後、応永18年(1411)伊集院頼久の所領となった。しかし同21年(1414)島津家8代当主・島津久豊が肥後球磨の城主・相良氏の援軍を得て駒を返し頼久を攻め、戦勝を祝して)「喜入」に改めた。付近には何万ヶ宇都、駒返り、太刀討ヶ迫、陣之尾、弓指などの字名が残り、当城をめぐる激しい戦闘を物語っている。また当城の北方には出城として上籠城と内城が置かれていた。文禄4年(1595)より代々肝付氏の居城となった。承応2年(1653)4代領主兼屋のとき、現在の麓(喜入小学校)に居館を移すまでの間、ここが麓として政治の中心的役割を果たしてきた。 喜入旧麓フットパスマップ。(鹿児島市観光農園 グリーンファーム ホームページから)
2021.05.05
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5月3日(憲法記念日)の今日、娘の運転する車で喜入の旧麓一帯を訪ねた。最初に訪ねた「ふれあい広場」の入口近くに「田の神」があった。鹿児島では「たのかんさあ」と呼ばれ親しまれている石造物である。 案内文によると、この「たのかんさあ」は元文元年(1736)天神近くにあったと伝えられたものが、この地に移設されたという。昔は苗代をするときと収穫の時には祭が行われた。しかし現在は、鹿児島の寺社で7月に各神社ごとに開かれる「六月灯」に合わせて行われる。この田の神は、像の高さ約57cm、右手に杓子、左手にスリコギ、頭にはコシキのミキをかぶっている。形は神職型。なんともユーモアあふれる「たのかんさあ」だ。 田の神は薩摩・大隅・日向の一部(都城周辺)にあり、日本の農耕民の間で稲作の豊凶を見守り、また稲作の豊穣をもたらすと信じられてきた神である。 杓子:飯、汁などをすくう皿型の部分に柄がつけてある道具。 スリコギ:すり鉢でモノをつぶす木の棒。 コシキのミキ:日本酒の原料米を蒸すための大型の蒸し器。 田の神の型式:1,仏像型→僧型→旅僧型 2,神像型→神職型→田の神型(または神舞神職型) 「ふれあい広場」には駐車場もあり、ここに止めて旧麓を散策できる。水車が回り、きれいな水が流れている。 「ふれあい広場」を望む すぐ近くには「旧麓研修センター」がある。 ここには毎年の干支の動物の造形物が飾られるとのことで、大きな立派な牛が飾られていた。
2021.05.03
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(正面の写真) 旧鹿児島刑務所は現在ではほぼ市街地の中心地に近い場所にある。鹿児島市永吉1丁目で現在は「鹿児島アリーナ」になっている。ここは平成27年(2015)、鹿児島県の有形文化財(建造物)に指定された。ここでは様々な文化行事やスポーツ行事が開催されているが私も「大相撲鹿児島場所」を見に行ったことがある。しかし、一番の思い出は2015年10月31日から鹿児島で開催された「第30回国民文化祭」のオープニングフェスティバルに合唱で参加したことだ。(2015年11月1日ブログ)現在の天皇・皇后両陛下が皇太子・皇太子妃として開会式にご臨席され言葉を述べられた。その時のブログにこの刑務所門のことも少し触れているが、改めて調べてみた。 (内側からの写真) 旧鹿児島刑務所正門は、明治41年(1908)(奇しくも私の母親の生まれた年)に、欧米の監獄を視察した司法省営繕課の山下啓次郎(ジャズピアニスト・山下洋輔の祖父)が設計して建築されたという。建築様式は、ネオゴシック様式のルスティカ積の石造建築物である。 旧正門は2階建て、左右の端に八角形の相塔を備え、中央部には大きなアーチのの出入り口がある。その上部にはバラ窓風の開口部がある。塔頂部にはバトルメント(狭間胸壁のある門)がつけられており、バットレスト(控壁のことで外壁面と直角に外方に突出し壁体を支持する)とともに西洋中世の城門風のデザインとなっている。 西洋中世の城門風の意匠は、日本の建築では非常に珍しいものでいかにも刑務所の正門の性格にふさわしい。その点からも明治建築の中でも際立った貴重な遺産である。 鹿児島刑務所は、昭和60年(1985)に湧水町(旧吉松町)に移転され、現在は旧正門だけがここに残されている。余談だが移転当時は高速道路・九州自動車道を走るとすぐ近くに新刑務所を見ることが出来たが、その後、擁壁が作られて今は見ることが出来ない。私は、現役時代その刑務所に呼ばれて商談が成立したことがある。詳細は書けないが、悪いことをしていない私も入口から緊張したことを覚えている。 参考資料 「鹿児島市 史跡めぐりガイドブック」 鹿児島市教育委員会発行 ネット事典 「ことばさあち」「コトバンク」
2021.04.29
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凡人の私は、「つれづれなるままに、日暮らし、硯に・・・」向かわず鹿児島県教育委員会発行(昭和41年5月26日)の「歴史の道 ガイドブック 出水筋」を久しぶりに取り出して読んでいた。 そこに書かれていたのは、1828年から1838年の間に6回、鹿児島・大阪を往復したという大阪の紙商人、高木善助の書いたという「薩陽往返記事」の画帳として付いている絵図である。当時の「出水筋」も描かれている。上の絵図は薩摩藩が江戸への参勤交代の道として使った「出水筋」の内、鹿児島城下を出発し伊集院に至る道筋を描いたものである。当時の人がよくもこういう俯瞰的な絵図を描けたものだと驚く。絵図の左側、鹿児島湾(錦江湾)の向こうに見えるのが櫻島。鹿児島湾の手前、左側にある山の切れ目が「水上坂」(みっかんざか)という急坂で、現在も使われている道である。この水上坂を登ってくる道は私たちが住む団地への一つの道でもある。下の写真は鹿児島市街地から水上坂に至るすぐ手前の辺りで古い石橋が残されている。道路はアスファルト張りで整備されてはいるものの場所によっては車の離合でお互いに停車して譲り合わなくてはならない。団地に上ってくるにはこの道が最短距離なのだが車の青葉マークの人や女性はこの道を避けて別のルートから登って来る人が多いという。 更に進むと「阿弥陀井戸」があり、参勤交代の藩主の小休止のお茶たてや、旅人の送迎のお茶用に使われた。すぐ近くには中級武士の江田屋敷跡や藩主が装束を改めた「御装束の門」屋敷跡の石垣が残っている。この「阿弥陀井戸」も現在は蛇口がついて水道として使われている。 ここを過ぎる辺りから水上坂が始まる。坂は2,3回大きくうねりながら登って来るようになっているがここまでくるともう車の離合に不都合はなくスムースに行き来できる。坂を登りきると真っすぐな大きな道が真ん中を貫いているが、右の少し狭い道が「出水筋」である。絵図では緑色で道には木々が描かれ蛇行して描かれている。この「出水筋」では毎年、鹿児島市の照国神社(島津斉彬を祀る)を出発して伊集院の徳重神社まで約20kmを市民が歩く大きな行事がある。鹿児島三大行事の一つ「妙円寺詣り」である。「妙円寺詣り」はあの「関ヶ原の退き口」で有名な島津義弘が関ケ原の戦いで艱難辛苦の末に敵中突破を果たし鹿児島に僅かな部下と共に帰り着いたことを偲び、その剛勇を慕って始まったと言われる。現在も毎年10月第4土曜・日曜日の二日間、夜も昼も三々五々歩く人の絶えない行事である。私は2回しか歩いていないが、道中は地元の人々の接待があちらこちらであり、徳重神社(旧妙円寺)では武道大会などが開かれ、屋台も出て大賑わいとなる。 坂を登って来ると昔は芋畑などだった山地は住宅団地開発で様変わりしていて、現在では小学校が2校、中学校が1校、高校が県立1校、私立1校、養護学校1校など大団地になっている。我が家はこの「薩摩街道 出水筋」の表示板の手前側200mくらいの場所に位置している。 上の絵図「薩摩街道 出水筋」を描いた高木善助(1785~1854)はどういう人物だったのか。大阪の紙商人で鹿児島への旅の記録「薩陽往返記事」を著し、画帳に出水筋の絵図を残した。大阪天満に生まれ、十人両替平野屋五兵衛の分家で、平野屋彦兵衛を名乗ったが、通称は善助。薩摩藩の藩政改革に参画し、藩主島津重豪(しげひで)・斉興から信認を受けた調所広郷(ずしょひろさと)によって資金調達のために登用された新組銀主の中心人物となり、出雲屋孫兵衛らと活躍した。 参考資料 鹿児島県教育委員会発行 「歴史の道 ガイドブック 出水筋」 朝日日本人物事典 高木善助
2021.04.23
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鹿児島県霧島市国分中央1丁目にある「大隅国分寺跡」で発掘調査が行われ石塔の直下から、木造塔の心柱を支える礎石である塔心礎が発掘されたという記事が南日本新聞に掲載された。私は2015年5月に訪れて、2015年6月22日に「大隅国分寺跡を訪ねる」という文章を書いている。そのブログの最後に「今後の詳細な発掘調査が待たれる」と書いたが、それが今回行われ新しい発見があったという記事である。 記事によると木造塔があった場所に石塔を再建したことを示すと考えられ「まだ明らかになっていない寺の建物配置を探るヒントになる」(市教育委員会)と関心を集めている、とある。 (下の写真3枚は2015年5月撮影) 記事によると、「礎石は、2月末に完了した石塔の修復作業で見つかった。楕円形で最長部の直径約1,5m。中心に、柱を入れたとみられる直径27cm、深さ7cmの穴が開いている。 国分寺の由来は下の案内板にもあるように奈良時代に聖武天皇の勅願によって国ごとに設置された寺院で僧寺と尼寺があった。大隅国分寺は奈良末期から平安初期の完成とされ、現在残る石塔には平安末期の1142年(康治元年)の銘がある。軸とかさを重ねた6層で、高さは約5mある。またもう一つ発見があって、石塔を解体した際、2層目の中心部に縦30cm、横17cm深さ7cmのくぼみが見つかった。石塔と同じ平安末期建立とされる隼人塚(霧島市隼人)でも確認され経典を納めた場所ではないかとみられる。 まだまだ解明されないことも多いが、一歩づつ新しいことがわかってくるのだろう。
2021.04.16
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春の陽気に誘われて山の上にある我が家から坂を下ること25分の小野町4丁目20-1にある「日枝神社」を訪ねた。仁王像があるということを知ったからだ。以前にも小野町の史跡巡りをやって数回にわたって当ブログに書いているが、今回、日枝神社の存在は知らなかったので初めての訪問となった。神社は九州自動車道の終りに近い場所にあり、高架道が右側の上に写っている。 ところが行ってみて驚いた。右側にある石造物仁王像なのか? 千手観音(せんじゅかんのん)にも見えるが神社にあるものなのか? 手も合掌スタイルでもない。もう一つ考えらるのは後ろの石造物と前のに仁王像らしきものが別物ということ。私もそこの確認を怠っていた。再度訪れて大きさなども調べたい。追記 このブログをお読みいただいたブロ友のkopandaさんから下のコメント欄に書き込みがあった。これは「荒神」ではなかろうかというご教示である。仏像等には知識のない私には大きな助け舟である。そこで、ネットサーフィンしながら「荒神」「三方荒神」「地荒神」「三面六臂」「八面六臂」などを知る。調べたところでは、「三方荒神」の「三面六臂」(顔が3つ、腕が6本」)か「八面六臂」(顔が8つ、腕が6本)のどちらかではないかで間違いないのではないかと考える。もう少し、調べてみたい。 2022,10,8更に追記 ネット情報で「青面金剛」だと確認できた。 もう一つ不思議なことがあった。それは右側にあった石造物が仁王像であれば、廃仏毀釈などで破壊されていなければ仁王像が対であるはずだ。しかし下の写真に見る通り左側は何も置かれていない。 ところが、その石垣の後ろに写真の通りのこれは明らかに仁王像と思われる像が手水鉢に寄りかかるようにして置かれていた。右側の仁王像らしきものとは、ほとんど別物と思われるようなものだ。これは仁王像に違いないと思う。ますます謎は深まったが、社務所もなく聞くすべもなくその場を去った。 日枝神社の祭神は「猿田彦神」(サルタヒコノカミ)、「稲荷大明神」(イナリダイミョウジン)由緒は不詳だという。(神社庁)他にも「日露戦役記念碑」など数体の石碑が並んでいる。
2021.04.08
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3月14日(日)日置市吹上町永吉の史跡を中心に訪ねた旅もいよいよ最終章となった。実は行く前からロマンチストのKくんから日本三大砂丘の吹上浜を訪ねようかという話があっていた。他の3人も異議があるわけがない。(歳はとっても昔は若かった私たちである) この日、最後まで「本〇どん」にお世話になり、案内されたのは永吉川の河口に広がる東シナ海に面した夕日を眺める絶好ポイント。 一番上の写真撮影時間は17時48分。 お爺さんたちの影も夕日にも負けず、サマになっている。と思いませんか。 う~ん いいねぇ! 我ながらよく撮れている。(自画自賛) 永吉川の河口。 先の方が東シナ海。 永吉川の河口。 この辺りはその昔、貿易港として栄えたという。 時間を追って撮影してきたが、いよいよ夕日が海面に沈む時が近づいてきたようだ。 あっ! 肝心なときになって雲が!! ああ あ! 二つの点しか見えなくなってしまった。これを最後に夕日とお別れとなってしまった。「本〇どん」の話では、「夕日が海面に消えるまで見ることが出来るのは年間数日しかないですよ」とのこと。納得する。 しかし滅多に見ることのない東シナ海に沈む太陽を見ることが出来ていい旅の締めくくりになった。「本〇どん」ありがとうございました。 最後の写真撮影時間は18時18分。撮影を始めてちょうど30分経過していた。 それより前、「本〇どん」宅にお茶に呼ばれて鹿児島銘菓「かからん団子」や「いこ餅」などをいただいた。また帰りには「わたの花」をお土産にいただくなど、奥様にも大変お世話になった。 奥の孟宗竹の山も「本〇どん」宅のもので、もうすぐ筍狩りも出来るそうだ。 「本〇どん」はブログ「中期高齢者である田舎人のタワゴト」を書いておられる。ウエブ検索すれば読むことが出来る。
2021.03.31
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上の写真は園林寺跡墓地(おんりんじぼちあと)にある廃仏毀釈により破壊された仁王像。阿形像か吽形像かもわからず、対であるものが一体しかない。腕の形から見て吽形像か。? ここは2回目の訪問。2012年12月13日に「小松帯刀ゆかりの吉利麓を歩く」で紹介している。 小松帯刀は、幕末に活躍した島津家家老・小松帯刀清廉(こまつたてわきかどきよ)として有名。帯刀は、1835年喜入領主・肝付兼善の三男・尚五郎として生まれ、のち吉利領主であった小松家の養子となり、小松帯刀清廉と改名する。その小松家はもともと禰寝(ねじめ)姓を名乗っていた。文禄4年(1595)豊臣秀吉の命によって大隅禰寝院から吉利へ移封されていた。 吉利領主となった帯刀は吉利の治績に尽くし「小松家の名君」と呼ばれる。島津斉彬の死後は側役に昇進した大久保利通などの下級武士を重用するなど島津久光・忠義を補佐した。文久2年(1862)島津家家老に昇進、倒幕に向けての薩長同盟や大政奉還を将軍・徳川慶喜に進言するなど明治維新の礎を築いた。明治維新後の活躍を期待されていたが、36歳の若さで亡くなり、その早すぎる死は維新後の活躍が果たせなかったことを惜しみ「幻の宰相」と呼ばれている。 夫人・お近の墓碑。 きれいに並ぶ墓碑群。 第二婦人 お琴の墓碑。 珍しい「弥陀三尊像」 園林寺 歴代僧侶の墓。 横綱 陣幕久五郎 寄進の灯篭。 珍しい石造物の宝庫でもある。四地蔵塔?
2021.03.29
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上の「大辻石塔群」は島津忠義(日新公)に敗れるまで、日置南郷(へきなんごう)を支配した桑波田一族の墓所と言われる。大きな木の下に整然と並べられて地域の人に守られている様子がよくわかる。鎌倉時代の前までは、現在の竹下田圃や永吉市街地などは、海であったそうで、桑波田一族などが住んでいた頃は丘陵地であった。そのため、ここ草田原地区に、当時の集落は集中していた。その一角には「愛宝寺跡」という古寺跡も存在する。 ここに綺麗に復元されているが、復元されるまでは、この近辺の畑に散乱したまま埋められていたという。それを本〇どんなど永吉南郷会の方々が掘り起こして整備復元されたという。 この樹木の奥は桑波田一族の居城であった南郷城の曲輪(ここでは堀)である。 現在、曲輪の手前には温室などがあって、作業する人の出入りはあるものの、一般の人が訪れるような場所ではない。柵もないので、知らずに踏み込んだら奈落の底に落ち込むのではないかと思うほどの深い堀になっている。 南郷城の築城年代は定かではないが、桑波田氏によって築かれたと言われる。桑波田氏は紀氏姓で伊集院桑羽田覚弁が平安時代末期に南郷を領したことに始まる。南郷城は永吉小学校の北に聳える標高94mの山に築かれている。切り立った断崖のあるシラス台地に築かれた群格式の山城で、東西に延びた尾根に曲輪を連ねている。曲輪は西から野頸城、根子城、高城、東の城などの曲輪があり、このうち高城が本丸に相当する。 島津日新公は、桑波田一族との戦いに勝利したあと、敵味方を共に供養しようということで「六地蔵塔」を建立した。永吉のこの六地蔵塔が最初に造られたものだといわれ、南さつま市加世田など全国13ヶ所に造られているという。
2021.03.27
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鹿児島県日置市吹上町永吉は歴史探索を始めた私にとって「本〇どん」という永吉在住の歴史研究家と友人になって、かけがえのない所になっている。そのきっかけというのは私が島津家の歴史を調べる中で「島津四兄弟」に大きな興味を持ったことに始まる。四兄弟の祖父である島津忠良(日新公)やその子・貴久、さらの貴久の子供たち・いわゆる島津四兄弟の生まれた伊作城(亀丸城)がが吹上町伊作にあり、また四兄弟の末弟・家久(中務大輔)を初代とする永吉島津家墓地が吹上町永吉に天昌寺、梅天寺としてある。それらの史跡を訪ねる中で当時 永吉南郷会の会長だった「本〇どん」のブログを知り、連絡をとって案内をしていただいたり資料をいただいたりするようになった。 その後、私の高校の同期生でつくる「歴史同好会」の仲間たちにも「本〇どん」を紹介し、更に交流は広がっている。今回新しい仲間二人とKくんと私の4人でまた永吉に行くことになり、昨日14日、七呂三叉路で待ち合わせての史跡訪問が始まった。 先ず向かったのは坊野地区にある「黒川洞穴」。 ここは私も初めて訪ねる先である。 上の写真の黒川神社の赤い鳥居を出発すると途中、永吉川の源流(二俣川)架かる鉄橋を渡る。 手入れのされた杉林の中を進む。 黒川洞穴の入口10mくらい手前に仁王像があった。日置市坊野地区公民館発行の「黒川洞穴のしおり」によると、この仁王像は享保9年(1724)に建てられている。仁王像は伽藍守護の神で、両脇に鎮座し一対の半裸形の金剛力士で、神社御殿の守りをするものである。 右側に口を開けた阿像。 左側に口を閉じた吽像。いずれも廃仏毀釈により欠けた部分がある。 このような洞穴の発見が昭和27年という比較的新しい時代であったということに先ず驚いた。「黒川洞穴」は7千年前の縄文時代前期から2千年前の弥生時代後期まで数千年の間、人が住んでいた。洞穴の位置は薩摩半島のほぼ中央に位置し、標高84mのところにあり、細長い谷の南を向いた斜面にある。日本3大砂丘の一つ、吹上浜から東約5kmの地点にあり、狭い山あいに沿って川を渡りその山腹にある。その土質はやや凝結した火山灰(シラス)である。これが縄文時代から現代まで続き、全国に90ほどの洞穴があるが、九州では「黒川洞穴」と「溝の口岩穴」(鹿児島県曽於市財部町)の二つが確認されている。洞窟の中は現在立ち入り禁止となっていて入ることはできない。 発掘調査の経過は次のとおりである。発掘を始める発端は、昭和27年(1952)頃、坊野小学校の辻正徳教諭が学校に保管されていた土器の破片、貝殻、獣骨等を鹿児島県文化財委員の河口貞徳氏に見てもらったところ縄文土器の破片等であることがわかったことだった。先に書いた公民館誌によると案内板の4回とは違い、これまでに3回(昭和27年~40年)の発掘調査が行われた。昭和39年(1946)の調査では、3千年ほど前の25歳~30歳と推定される女性の人骨が出土し、当時の埋葬方法を裏付ける人骨でもある。また自然遺物の中に、二ホンオオカミ、ツキノワグマの骨も確認され絶滅した二ホンオオカミが縄文時代には鹿児島にも生存し、坊野付近にいたことが判明した。黒川洞穴は平成16年(2004)4月に鹿児島県の文化財に指定された。同行したMくんは前記・河口貞徳氏が私たちの高校の先生であり、「考古学部」の顧問だったことからクラブ活動で「考古学部」に入っていた。先生は長年 県の考古学会の会長をされていて、先年100歳近い人生を全うされた。因みに私の高校2年生時の担任でもあった。 下の写真は西側の洞窟。入口の幅が約13,3m、高さ約6m、奥行きは、岩塊崩落により確認することは困難だが、相当深く入口は南向きで東北を向いている。 東側の洞穴は、入口の幅、約11m、高さ約4,35m、奥行き8,4mである。穴は東西を向いて、内部は土塊の崩落がなく平坦である。
2021.03.15
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鹿児島城(鶴丸城)から本丸の表門である「唐御門」の礎石が発見されたという記事が先日の南日本新聞に掲載された。このニュースの少し前には、島津斉彬を祀る照国神社の横から城山に向かう遊歩道の斜面に「大手門」の跡が発見されたというニュースも報道された。新聞による概要は次のようである。 昨年復元された「御楼門」と」「大手門」、それに今回の「唐御門」で江戸から令和までの鹿児島城の歴史を物語る三つの「門」がそろい踏みした。唐御門については県立埋蔵文化財センターが昨年末から調査していた。礎石は凝灰岩製で縦横約60センチ、厚さ50センチ。上面に柱が立ったとみられる30センチ四方のくぼみがあり、その中央に縦横13センチ、深さ6センチほどの穴が開けられていた。穴には明治初めに焼け落ちた際のものとみられる炭が残っていた。鹿児島城の唐御門は、大きさや構造など詳細は不明。今回出土した礎石も主柱のものか、脇柱のものかは判断がつかないという。1月に出土し現在は埋め戻されているという。 唐門は屋根にアーチ状の唐破風(からはふ)で装飾された門で、二条城(京都市)や日光東照宮(栃木県)のものが知られる。鹿児島城の門は江戸時代の絵図などから正面に唐破風が付いていたとされる。 御楼門が復元される前の入口の橋 橋の先に復元された御楼門 突き当りを右折してその先の階段を上った所に「唐御門」があったようだ。 私がこれまで写した中に、そのものズバリの写真が見つからなかったが、石垣の左際に見えるの2本の柱の辺りに唐御門あったそうである。この門柱は左右に長短2本づつある。この門柱は旧制第七高等学校のものである。七高は明治34年に創設している。今回その校門そばから礎石は出土した。なお、この中にあった本丸跡には鹿児島県歴史資料センター・黎明館がある。
2021.03.05
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旧寿国寺跡 島津家墓所(改葬前)(島津久敬氏提供)ということで「武郷土誌」より 鹿児島市武町にある西郷屋敷跡周辺の変貌はこれまでも取り上げてきた。今回改めて「鹿児島城下絵図散歩」や武小学校PTA郷土誌刊行委員会発行(昭和49年2月20日発行)の「武郷土誌」を見る機会があり、昔の思い出が蘇ってきた。 一番下の地図等は区画整理のあった昭和48年以前のものであるが、私はこの武町に昭和23年から28年まで住んでいたので、この地図等の通りの環境であった。 上の写真は、下の「鹿児島城下絵図散歩」地図では「寿国寺」区画図では「島津どんの墓」と書いている通称「島津どんの墓」である。私たちの遊び場でもあったが、ここには島津家のご家族の4基の墓碑があった。この墓碑は区画整理等により、玉龍中高校の上にある島津家の墓地・福昌寺跡墓地に移されている。それを追った詳細記事は2013年6月25日付けの当ブログに書いている。 下の写真も同じく「武郷土誌」より 島津家墓所の一段下にあった「二階堂家の墓」二階堂家は鎌倉時代からの名家であった。たくさんの墓碑があった記憶がある。この二階堂家の墓も東京に移されたと聞いたことがある。今は亡き衆議院議員・二階堂進氏はその子孫である。 下の2枚の西郷屋敷の写真も「武郷土誌」から転写したが、先日(2021年2月11日)に「史跡独り歩き」からということで紹介した「西郷屋敷の全景」と同じ時代のものである。私もこの周辺で遊びまわっていたころの記憶が戻ってきて、門構えなどを思い出すことが出来た。 現在の「西郷屋敷跡」の表示板 西郷屋敷跡の公園から九州新幹線の高架を見ることができる。左側に新幹線最後のトンネルがあり、右側が「鹿児島中央駅」である。 鹿児島城下絵図散歩から転写した西郷屋敷周辺地図。作成年代はほぼ安政6年(1859)ごろ。地図の中央辺りに「二階堂邸 六百九十坪」とあるが、ここが「西郷屋敷跡」として公園になっている。 鹿児島城下絵図散歩から転写。上と同じ地図上に現在の状況が書き入れられており、「西郷屋敷跡」や最近の町名、「九州新幹線」などとある。しかし、昭和42年から48年までの計画で始まった区画整理事業や、九州新幹線乗り入れによる線路敷設などでこの周辺は大きな変化を遂げている。 〇印が我が家が借りていた借家
2021.03.03
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荒田八幡宮を訪ねる(その一)に続き二回目。この二回目で終わりです。案内板による「荒田八幡宮御由緒」の続きです。 御社殿鎮座された年代は不詳ですが、和銅年間櫻島噴火と同じ頃といわれ、鎮座1300年余年といわれております。まぶせ村(現在の荒田)の生士神にして、古くは鹿児島の宗社であった大隅国正八幡宮御領鹿児島郡荒田荘なりと伝えられて【大隅国正八幡(現在の鹿児島神宮)の領地にてその境の西を守護せよ】と当荒田八幡宮を創設したと伝えられております。(鹿児島神宮を中心に東西南北に八幡宮鎮座) 蝮蛇(まむし)の鎮府(おまもり) (まむし除けの御砂)荒田八幡宮は此の毒虫を太く悪坐給うとして荒田の領地は此の蝮蛇を見ることなし是故に人皆社殿の下なる砂を拝請してお守りとす、常にこれを懐中すれば他所に於いてもその害を被ることなし若し蝮蛇を見る時この砂を撒けば〇傷で動くことを得ず終に死すと云う。 本殿の右側に行く。 蛭子神社(ひるこじんじゃ) 蛭児命(ひるこのみこと) 水子、流産、育児の神様 祖霊社(それいしゃ) 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ) 産土大神(うぶすなのおおかみ) 皆様方の御先祖のお集まりになる御社です。 龍神様 金運、商売の神様 三方荒神(さんぽうこうじん) 火の神様、台所を守る神 田の神 田の神 左手にめしげを持っている。 恵比寿神(えびすのかみ) 恋愛運、縁結びの神 水神 水をつかさどる神様 水神、地神は鹿児島の神社等で数多く見ることができる。 市指定保存樹林、御神木の大楠 後奈良天皇の御代天文22年(1553)島津第15代貴久公が八幡宮再興の為に植え付けられた。 初めての「荒田八幡宮」だったが、期待にたがわず石造物が多くあり、久しぶりに楽しむことができた。
2021.02.22
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神社の案内板によると御祭神は、応神天皇、玉依姫尊、神功天皇。御神徳 応神天皇は殖産興業、文化学芸の祖神として仰ぐ。神功皇后は安産の胞衣を納め小石をお守りとして懐中に持し御安産なされ育児・安産の神様として崇め奉り、又海外との交通ありし故交通安全の神様でもあります。御由緒 和銅年間(708年)櫻島噴出と時を同じく約128余年 御創建この間幾多の戦火にも消失せず。天文21年(1552)島津第十五代貴久公現在地に再興、昭和58年4月御創建1275年奉祝御社殿流造、幣殿、拝殿、入母屋造、屋根銅板葺に改築御造営往古は鹿児島の宗社なり、大隅国正八幡宮 今の鹿児島神宮御領鹿児島荒田村なり、その領地の境西を守護せよと荒田八幡宮(別宮)を創建元亀2年(1571)4月大隅国今の肝属郡辺りより賊徒襲い来りて当宮の神宝を奪い荒田浜より船に乗りて帰る途中俄かに暴風おこりて船、神宝もろとも皆海中に沈みたると云う、毎年正祭秋祭、荒田浜に行宮を設け神輿を護りて下る。これを八幡下りと云う、又荒田領地は火災のない所と伝えしられし、(尻切れになっている) 鹿児島市のほぼ中央にあるのに生まれてこの方、一回もお詣りに行ったことなない「荒田八幡宮」に初めて行ってきた。ここには私の好きな石造物が数多くあるということもあって気になっていた神社だった。 本殿の右側に行くとたくさんの石造物が並んでいた。 下の何とも愛嬌のあるおじさん像は「田の神様」 鹿児島では「たのかんさあ」という。元々神社にあるものではないので、昔この辺りが田圃であったころこの近辺にあったものだろう。 「宇気母智神」(うけもちのかみ) 食べ物を司る 「根占家祖先」(ねじめけそせん) ぜんそく、百日せきの神様 「馬頭観音」(ばとうかんのん) 無病息災の神花楯にある馬を身体の悪い場所にたとえて触ることで良くなるといわれる。 「稲荷神社」(保食神社)(うけもちじんじゃ) 豊受大神(とようけのおおかみ) 倉稲魂大神(くらいなたまのおおかみ) 商売繁昌・家運繁栄の神様
2021.02.20
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去る日、新聞で「磨崖仏を知る、巡る、考える 鹿児島磨崖仏巡礼 vol.2」講座があることを知った。ブロ友で2年前に「鹿児島古寺巡礼」を出版した川田達也さんと、もう一人は自称百姓でブログ「南薩の田舎暮らし」の窪 壮一郎の語らいがあるという。「鹿児島の磨崖仏を全部網羅したガイドブックを作ろう」というところから始まったプロジェクト「鹿児島磨崖仏巡礼」6月に第1回の報告会を行って(私は不参加だった)御好評いただきました。第2回となる今回もこれまで巡った磨崖仏を紹介しその面白さを自由に語ってみたいと思います。という呼びかけだった。私はこれまで県内の磨崖仏を10数カ所巡っていたので興味があり、今回参加することにした。 この日は先ず「板碑」の話から始まった。板碑が磨崖仏として彫り込んであることも多いからだろう。・読み方⇒いたひ・いたび 平安末期に登場した石造物。「板碑」の名称は江戸時代から使われるようになった。・構造⇒板状に加工した石材に梵字(種字)や被供養者名、供養年月日、供養内容などが刻んである。また頭部に二条線が刻まれる。(例外あり)・五輪塔や宝筐印塔とは性格が異なり墓塔として使用されることはあまりない。また「板碑」の原型が中国などにないため、日本独自のものと考えられる。・全国に5万2千基以上あり、そのうち2万基が埼玉県にある。そのほとんどが秩父産の「緑泥片岩」という石で作られており全体的に厚みがない。埼玉県以外の板碑は自然石を使っているものが多く厚みがある。・造立目的と変遷12世紀頃:追善供養が目的14世紀頃:逆修供養が主15世紀頃から多様化するも数が激減し、16世紀に消滅。 (以上 当日の資料より)続いて「鹿児島県内摩崖仏一覧」(判明分)として、実に47ヶ所の紹介が書いてある。これは、今後の摩崖仏探訪に大変ありがたい資料である。これだけでも行った甲斐があったというものだ。 「板碑」のある代表的なものとして紹介されていたのが、「沢家墓碑群」。私も以前訪ねたことがあり、当ブログに詳細を書いているが、ここでは当日の資料に基づいて紹介したいと思う。(写真はいずれも訪問時に自分で撮影したものを使用) 沢家墓碑群は霧島市隼人町にある正八幡宮(鹿児島神宮)の四社家の一つであった沢氏の墓である。沢氏は八幡宮の領地からあがる年貢を管理する田所職(たどころしき)という役目の家だったといわれる。広さ約61㎡の墓地内に、五輪塔三基と三重石塔一基が建っており、その周囲を長方形に梵字を彫った板碑49枚ほどが取り囲んでいる。板碑にはいずれも上下に仏を表す梵字が彫られているのが大きな特徴である。(3枚目の写真)梵字の横には墨で書かれた「南無阿弥陀仏」の文字が書かれているというが、残念ながらこの写真では確認できない。しかし一つ一つの仏名は推定できるものの、全体的な構成の意味はまだ解明されていない。 下の写真は墓地南側の前面にある梵字を彫った自然石柱三本が建つ。石柱には嘉禎三年(1237)の年号がある。石塔には延応元年(1239)の年号がある。これらの年号から見て、沢家墓碑群は鎌倉時代前期に営まれたものと推定され、当時の「絵草紙」などに描かれている墓地の形をよく残しているものとして価値が高い。また沢家墓碑群は古さに加え、こうした板碑が一ヶ所に多数まとまって残っているのも大変珍しく貴重なものと評価されている。 次に取り上げてあって私も行ったことのある「清水摩崖仏十六連板碑」。 下の写真の上方部に写っているが、最上部が写っていない。私が写したときは「十六連板碑」という認識もなく、たくさんの摩崖仏に圧倒されて十六連碑という特別な意識もなかったのであるが、講座を聞いて写真を見て数えると確かに十六連なっている。 ただ現在は風化してしまっているが、1基づつに梵字が彫られていたそうだ。その特徴から、鎌倉時代の終わりごろの時期のものと考えられている。上の写真にある永仁4年(1296)の三大宝篋印塔と同じ頃のものだという。 次に紹介があったのは、私も以前、鹿児島史談会の史跡を訪ねる旅で行った「さつま町」の「下丁場摩崖仏」である。ここは近隣の住民から、お不動さん(不動明王)、と呼ばれてきた。詳細な由来や年代はわからない。構成は板碑15基、五輪塔および数体の仏像からなる。昭和36年(1961)の元大谷大学教授・斉藤彦松氏による現地調査のおける梵字解説によると、右半分が鎌倉期の第一群、左半分が室町期の第二群とされた。 市来家隆氏の推定によると興国2年(1339)長野城主渋谷千代童(重?)丸が高城石見権守一族に攻められた時の戦没者追善のためにたくられたものではないかとも言われている。 その他、「稲葉崎供養塔群」「紫尾神社の方柱石塔婆」「七人山磨崖連碑」「阿弥陀殿の岩仏」「竜ヶ城摩崖一千梵字仏蹟」の紹介もあったが、私が訪ねたこともないので、今後訪ねてから紹介したいと思う。いずれにしても県下の摩崖仏をたくさん知ることが出来て、いい一日となった。
2020.12.29
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「若き薩摩の群像」は鹿児島中央駅前広場の正面にある。1865年19人からなる薩摩の使節団が串木野(現在のいちき串木野市)の海岸から国の掟を破り英国に渡った。その中に長崎の通詞(通訳)・堀孝之と土佐藩脱藩の後薩摩藩士となった高見弥一(弥市)の二人がいた。しかし、その二人については、この群像が1982年に鹿児島市が人口50万人達成記念と建立された時に藩外出身ということで除外されて17人の像のみ建立した。なんという狭量なことをしたのだろうと思ったのは私だけではなくてく今日までくすぶっていたようだ。何はともあれ、この度、約40年近くの時を経て、二人の像が加えられて19人の全ての像が揃ったことはおめでたいことである。地元南日本新聞によると、除幕式は9月30日、制作した彫刻家・中村晋也さん(94)=文化勲章受賞者=や二人の子孫ら関係者が集まって開かれたという。そこでちょっと遅くなったが見に行ってきた。 下が完成した高見弥一(左)、堀孝之(中央)の像 薩摩英国使節団は留学などを終えて帰国後、日本の近代化に貢献している。初代文部大臣 森有礼 サッポロビール創始者 村橋久成大阪商工会議初代会頭 五代友厚 などなど日本に有意の人材を送り込んでいる。 薩摩は何故国禁を犯してまで英国に使節団を送り込んだのか。それは、文久3年(1863)7月の薩英戦争でイギリス海軍の実力を見せつけられたからだと言われている。薩摩藩は西洋の技術を学びとることが急務と考え藩士たち19名を密航させたものである。
2020.10.20
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上町五社(鹿児島五社)詣りに誕生日の1月5日に行くようになって3年になる。参詣順路一番の南方神社(お諏訪さあ)は、私が清水町に住んでいた頃から馴染みの神社である。鹿児島での夏の恒例行事・「六月灯」には毎年夜お詣りに行ったものだ。今日の写真は今年の私の誕生日の一日遅れの1月6日にお詣りに行った時に写したもものである。 お詣りしながら境内を動き回っていると境内の一角にたくさんの文字を書いた石碑を見つけた。 「旧射圃記」とある。「きゅうしゃぼき」と読むらしい。なお、「射圃」とは「弓道場」のことである。 帰って調べると鹿児島市の「史跡めぐりガイドブック」に概要次のような記述があった。応永20年(1413)島津家8代当主・島津久豊が菱刈氏を討とうとして出陣した後、伊集院頼久が清水城を攻めた。清水城が危機に瀕したとき、上町の篠原新右衛門が人々に呼びかけて防ぎ戦った。激しい戦いで数十人の死者がでた。久豊は市井の人々が困難に殉じたことを賞め、人々に土地を与え弓のけいこをさせた。その後泰平の日々が続き、弓のけいこをする者もいなくなり、射圃は顧みられなくなった。寛政8年(1796)町役人が中心となり射圃を復活することになった。これらのことが記されている。 「旧射圃記」については「平田信芳選集 石碑夜話」や「鹿児島の金石文」に詳述されている。興味のある方には一読をお勧めする。
2020.10.11
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