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9月30日、ちょい旅に出たkくんと私は鳥栖で息子の車に乗せてもらって、午前中に佐賀県の祐徳稲荷神社と肥前浜宿、午後は吉野ヶ里遺跡公園を見学した。その後その日のうちに大分県の日田市に入るべく息子に久留米駅まで送ってもらって、久大本線に乗車した。乗って見てびっくり! 久留米発~日田止まりのローカル列車で途中から高校生なども乗り込んできて立錐の余地もないほどの込みようだった。日田駅からはタクシーでその日の宿・「日田天領水の宿」に向かった。上の写真はホテルの入口にあった「小鹿田焼」(おんたやき)。比較的ここに近い「小石原焼」と共に九州では陶器の産地として有名であるが、クマタツにとっては小鹿田焼」の産地は未踏の地である。小石原には数回行ったことがある。 日田の豆田町は「上町通り」(うわまちとおり)と「御幸通り」(みゆきとおり)の二つの通りが有名である。先に訪ねたのは「上町通り」。昔を偲ばせる建物が続く。 今回、Kくんが事前予約までしてくれて訪ねたのが「日本丸館」。国登録有形文化財である。木造四層三階建ての資料館に万能薬「日本丸」。昔の家や家財道具等を展示。三階の天望楼からは市内が見渡せた。 三階からの眺望 他にも見たいもの、見どころはたくさんあり、予定では城跡などピックアップして訪れる予定を暑さによる疲労のため端折った。今となると残念! この老舗の羊羹屋さん始め甘党の私を引き付けるお店やさんも全てスルーした。ただ、暑さしのぎに喫茶店に入りコーヒーをので小休止したり、もう一軒の喫茶店では生まれて初めての「タピオカミルクティー」の抹茶入りを飲んだりした。いつも写す写真も撮り忘れる有様だった。この後は大分市に入ります。
2024.11.06
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吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼市神埼郡吉野ヶ里町にまたがる丘陵地帯にあり、他にも北の背振山地沿いには多くの遺跡が存在しているという。私は、ここを40年くらい前に職場の旅行で訪れたことがあったが、この歴史センター入口(東口)に到着した時に、近代的なデザインに先ず驚いた。何という変貌ぶりだろう。 入場する時に手にした「吉野ヶ里歴史公園」というパンフレットには次のよう書いてある。「弥生時代は約700年間も続く長い時代です。吉野ケ里遺跡は、この長い弥生時代の全ての時期の遺構・遺物が発見された学術的価値の高い遺跡です。集落が最盛期を迎える、弥生時代後期後半(紀元前3世紀頃)を復元整備対象時期として、これまでの発掘調査結果をもとに復元整備を行っています」とのことで時代もわかりやすい。 弥生時代前期(紀元前5~前2世紀)吉野ヶ里丘陵一帯に分散的に「ムラ」が誕生する。やがて南側の一画には環壕を持った集落が出現し、出現し「ムラ」から「クニ」の中心集落へと発展する兆しがみえる。 弥生時代中期(紀元前2~紀元1世紀)丘陵の南側を一周する大きな外環壕が掘られる。首長を葬る「墳丘墓」や、たくさんの「甕棺墓列」もみられる。集落の発展とともに、その防御も厳重になってきていることから争いが激しくなってきたことがうかがわれる。 弥生時代後期(期限~3世紀)国内最大級の環壕集落へと発展し、大規模なV字形の外環壕によって囲まれ、さらに特別な空間である2つの内郭(北内郭・南内郭)をもつようになる。これらの内郭には、祭殿や物見櫓などの大型の建物が登場し、吉野ヶ里の最盛期にあたる。ここ吉野ケ里遺跡はまさにこの時代を再現している。 大きな甕棺が並ぶ 物見櫓 下の2枚の写真は物見櫓からの眺望 物見櫓の上にはガイドさんが待機しており、説明をしていただいた。
2024.10.19
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祐徳稲荷神社を出た私たちの乗った車は、ナビに従って肥前浜宿に向かう。同じ鹿島市内にあって15分くらいで駐車場に到着した。車から降りて浜宿に向かうと、国登録有形文化財というだけあって、昔にタイムスリップしてしまう光景が目の前に現れた。 浜宿通りに入ってすぐの左側に、継場(つぎば)という案内板のある旧家を見つけた。 観光案内所も兼ねたような家で、私たちと同年配くらいの女性のご老人が出て見えて、「家に上がって、家の中もどうぞご覧ください」との嬉しい言葉をかけていただいた。私たちも大喜びで家の中を見学させていただいた。 この部屋の天井は「船底天井」というそうだ。 この部屋の天井は「吊り天井」 「酒蔵通り」とも呼ばれるだけあって現在も操業中の酒蔵が多い。 郵便局跡 以上、ここに書いた肥前浜宿・酒蔵通りは江戸時代から昭和時代にかけて酒や醤油などの醸造業を中心に発展した地域だという。現在は「富久千代酒造」・「光武酒造場」、「峰松酒造場」(肥前屋)という3つの酒蔵(2酒造会社)が製造をを続けている。お酒の無料試飲や購入、酒蔵スイーツ、酒蔵見学などが人気で国内外から観光客が訪れている。また写真で見るように昔からの白壁の建物が美しく、写真撮影のスポットとしても知られている。春には「酒蔵ツーリズム」(肥前浜宿花と酒まつり)というイベントが開催され全国から8万人以上の来場者が訪れる。肥前浜宿の酒蔵通りは、すぐ近くの「肥前浜宿・茅葺の町並み」と共に歴史的に価値のある地域として国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。 この項の参考資料ー佐賀県鹿島市公式観光サイトから 上記の説明にあった「肥前浜宿・茅葺の町並み」は今回勉強不足で事前に知ることができていない。そこでネットから下の写真を拝借した。ここには旧乗田家住宅(江戸時代後期の武家屋敷)など茅葺の町並みが見れるそうだ。次回、機会があれば又、酒蔵通りとは違う雰囲気を味わうために訪ねたいものだ。
2024.10.12
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9月28日(土) Kくんと鹿児島中央駅で待ち合わせて7時42発の新幹線「さくら544」に乗り佐賀県新鳥栖駅に9時8分に着いた。わずか1時間26分で鳥栖まで行ってしまう新幹線は有難い。そこに現在鳥栖に単身赴任中の息子に来てもらっていた。この日「祐徳稲荷神社」と「肥前浜宿」(ひぜんはましゅく)、「吉野ヶ里遺跡」に車で連れていってもらうようにしていたからだ。 祐徳稲荷神社への参詣は2018年以来、6年ぶり2度目である。一回目のことは、当ブログの2018年5月3日に「福岡の結婚式を終わって佐賀県へ 祐徳稲荷の巻」に書いている。下の写真はその時の一枚である。 祐徳稲荷神社は佐賀県鹿島市にあり、伏見稲荷、笠間稲荷と並ぶ日本三大稲荷の一つである。商売繫盛、家運繁栄、交通安全、縁結びなどのご利益ありと信仰されており、年間300万人の参拝者がある。 創建は貞享4(1687)年。鹿島藩主鍋島直朝(なおとも)の夫人・花山院萬子姫が京都から輿入れする際、京都御所内の花山院邸に鎮座する稲荷大神から分霊されたものである。 木々の緑に映える建物の緑鮮やかな朱色が印象的で、神殿、拝殿、楼門など主要な建物は総漆塗りであり、「鎮西日光」とも呼ばれている。 「楼門」前では赤ちゃんの「お宮参り」のめでたいシーンを見ることもできた。 2018年に行ったときにはなかったガラスの光る建物が建てられていた。何かと思ったら有料のエレベーターだった。ここをエレベーターで昇っても奥の院までは、まだ相当の距離がある。こういうのも老大国の一つの光景か? 楼門を真正面から見る 緑に映える朱色の建物は、九州ではここが一番だろうと感じさせる光景である。
2024.10.04
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この日のバスツアーは阪急交通社と長島町の共同企画だったが、チャーターされたバスは霧島観光交通のものだった。添乗員さんも運転手さんも親切で心ら旅を楽しむことができた。感謝! 行人岳に行く前に「道の駅 長島ポテトハウス」から東シナ海を眺めて、それぞれ土産物など買った。その後、「エグチペジフル」に寄ってこの日の目玉の一つであった「長島赤土じゃがいも」を3kgいただく。綺麗に化粧箱に入れて準備してあった。持ち帰ったジャガイモは2個だけ家に残して娘に渡したが、娘が大量のポテトサラダをつくって届けてくれた。ご飯のおかずにしたり、朝ごパンに乗せてオープンサンドとして食べて美味しかった。 他にもう一つのお土産をいただくために、長島研醸に寄り長島町限定でしか売られていない「焼酎 島娘」900ml 一本をいただいた。これは同居する二男へのお土産の一つとなった。 そしていよいよ最後の楽しみの早めの晩御飯をいただくために「焼肉一貫」へ。謳い文句は、長島生まれ! 長島育ち! 「黒毛和牛 焼きすきセット」焼きすきとは? スライス肉(タレ付)を網で焼き溶いた卵につけてすき焼き風にして召し上がっていただきます。とあった。焼肉屋ですき焼き風と思って食べたが食べてみて納得の味と美味しさだった。 ここから帰路についたが、鹿児島中央駅に19時30分頃到着して、楽しかった一日は終わった。
2024.03.21
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ここは山岳信仰の地・行人岳(ぎょうにんだけ)。標高は394mあるという。最初に行った針尾公園とはまた違う風景が広がっている。 山岳信仰・修験道の聖地だけあって周囲は灯篭や石造物が多い。その昔、ここに登ってきた山伏たちが一心不乱に修行に励んだ場所として今に残る。 自分としても久しぶりの歴史ある石造物に興奮して、いつの間にか仲間たちとは離れてシャッターを押すのに夢中になっていた。ここに取り上げたものはその一部に過ぎない。 「行人岳の山岳信仰」については、下の案内板を一覧ください。 本尊の「蔵王権現」を綺麗に写すことは、残念ながら叶わなかった。 蔵王権現像の説明文 不動明王像 鐘撞堂 漁業の町だけあって七福神の一人、恵比寿さんの像もある。 行人岳を後にする頃には少し日も傾きかけていた。
2024.03.17
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3月1日(金)いつもの高校の同期仲間6人で長島のバスツアーに行った。今回のツアーはいつものバスツアーとは少し異なるお得なものだった。 先ず、旅行代金14000円の内、7000円を長島町からの助成金適用で各自の負担は7000円と格安だ。日帰りだが、昼食と夕食の2食付き、更に長島赤土栽培のジャガイモ約3kgと島内限定でしか売られていない焼酎「島娘」900m1本のお土産付きである。これは行かない手はないぞと仲間内で衆議一決しての参加であった。 鹿児島市を出発した朝早くは曇り空だったが、まだ未完成ではあるが、一部開通の西九州自動車道を北上、国道3号線に降りて阿久根市街地を通過し右折、しばらく走って九州でも有数の黒潮の流れがある上に架かる黒之瀬戸大橋を渡り長島町に入る。その頃にはお天道様も機嫌よくなり大歓迎してくれた。 先ず案内されたのが長島は八景の一つ「針尾公園」。下の2枚の写真はその展望台からの眺めである。ここは東町北部、八代海に臨む崖上にあり、大永年間、今から400数十年前、もと天草一帯を支配していた豪族・宮地氏が実権を握り砦があった場所だという。展望台から北を望めば雲仙天草国立公園が視界いっぱいに広がり、眼下に広がる「薩摩松島」の景観は時を忘れる素晴らしさだ。養殖生け簀もよく見える。 下に見える橋は平成8年に完成した伊唐大橋。この橋を眺めるのにも最適な場所である。 昼食を摂るために、少し早めの11時過ぎに「長島大陸市場食堂」に案内された。食べるのに夢中で写真を写し損なったが、脂がのって絶品の「鰤王定食」。大量の刺身とあらの煮つけを中心にした美味しい食事だった。 養殖ブリの生産量日本一!! を誇る長島東町漁業協同組合の魚市場。
2024.03.11
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旅の二日目も天候に恵まれて、博多の今宿にある「生の松原元寇防塁」に向かった。道路沿いにあり見つけ易く、駐車場も完備しているので訪ねやすい所だった。 案内板に従って行くと綺麗な海に到着。 「福岡市の文化財」のネット情報によると次のように書いてある。文永11年(1274)蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府は建治2年(1276)に博多湾の海岸線に石築地(いしついじ)を築いて再度の来襲に備えることにした。これを元寇防塁と呼ぶ。長垂海岸から小戸海岸にかけて約2,5kmの間、白砂と松原の境を元寇防塁が縫うように走る。ここを生の松原地区元寇防塁と呼ぶ。昭和43年発掘調査が行われ海への傾斜面に幅1~1,5m 、高さ1,8mに石を積み上げ、その後を粘土で補強していることが判明した。また積みあげられた石の種類が、西側は長垂海岸に見られるペグマタイト(花崗岩)、東側は小戸岬一帯の砂岩ときれいに分かれていた。史料によればこの付近の防塁構築は姪浜の備前国、生の松原が肥後国とあり、この石材の違いは両国の分担地区を示す可能性がある。「蒙古襲来絵詞」に肥後の御家人竹崎季長が防塁の前を馬で進む場面は、この生の松原の情景である。さらに防塁の前面に玄武岩で作られた一列の石積みがあり、修理のあとと考えられている。 下の写真の現地案内文と読み合わせて理解が深まると思う。 「蒙古襲来絵詞」の現地説明文 「蒙古襲来絵詞」 写真撮影の場所から透明なガラスを透して現地のリアルな姿をを見ることができる。
2023.12.02
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福岡県の志賀島で奴国王金印の地である「金印公園」を訪ねた後、車で5分くらいの「蒙古塚」に向かった。下の案内板にあるように、また私たちが学校で習ったように元寇は日本の鎌倉時代中期の1274年と1281年の2回にわたりモンゴル帝国(元朝)および属国の高麗により対日本侵攻を行った。1度目を文永の役、2度目を弘安の役とよんでいる。特に2番目の弘安の役において日本に派遣去れた艦隊は当時世界最大規模のものであったと言われている。チンギスカンの血を引き継ぐモンゴル帝国第5代皇帝フビライの命によって1268年高麗から派遣された使者は大宰府において口頭と書面によって「蒙古」の存在を伝達したことで日本側にも知られるようになった。この戦いで最後は神風によって勝利たということが伝わっているが、近来の研究においてはそれも疑問視されているという話もある。 昭和2年建立された蒙古塚(蒙古軍供養塔) 張作霖書による「蒙古軍供養塔賛」 話題は飛んでもない方向に発展するが、蒙古軍来襲で日本に大きな騒ぎをもたらした元(モンゴル)が今、日本の大相撲に大きな影響をもたらしているのはどういうことなのだろうと考える。いや大きな影響どころか、今やモンゴルの相撲取り失くしては、日本の大相撲が成り立たないほどになっているのは日本人としては悔しいけれども現実である。特に安定した力を求められる横綱にはこのところなかなか昇進することがむつかしくなってきている。68代 朝青龍、 69代 白鵬、 70代 日馬富士、 71代 鶴竜、 72代 稀勢の里(日本人)73代 照ノ富士。 そして次を狙う大関も霧島、豊昇龍のモンゴル勢2人と日本人・貴景勝の1人である。関脇で好調の琴の若にがんばってもらいたいものだ。日本の国技たる大相撲が「庇を貸して母屋を取られる」という状況にモンゴルとの歴史が関係しているとは思わないが、不思議なことではある。しかし、大相撲にモンゴル勢だけでなく広く外国人が参加していることはいいことだとも思う。 遅い昼食のために「旬彩処 大岳」に入る。 この後、ホテルに向かった。
2023.11.24
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志賀海神社を見学した後、「金印公園」に向かう。「漢委奴国王金印発光處」(かんのなのわのこくおう)の石碑があり、その上に公園が広がっていた。 下の石造物は金印には何ら関係ないと思われるが、石造物好きの私がパチリとやってしまった。 金印公園は紀元57年に後漢の光武帝が奴国(なこく)の王に与えたされる「漢委奴国王」と記された金印が天明4年(1784)にこの付近で発見されたことを祈念してつくられた。 金印って何でしょう?下の説明版を熟読ください。 実際にどんな風に使われていたの? これも説明文を熟読してください。使い道には現在も同じように使われていることもありますね。例えば銀行の札束の封印とかに。 展望広場にある金印のモニュメント。博多湾と福岡の街を背景に古代大陸との交流の様子を想像するとロマンがありますね。 金印の本物は「福岡市博物館」に展示されているとのことだが、今回は訪問しなかった。
2023.10.26
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9月7日から一泊二日のドライブ旅行に出た。いや、正確に言うと私にとってはドライブ旅行だが運転した人間にとっては重要な主目的がある運転である。 九州自動車道をひた走り、私が先ず降ろされたのは博多の街中。博多にはほとんど土地勘のない私が一人でうろついていると博多座の前にいたという次第である。歌舞伎の旗も賑々しく「十三代目 市川團十郎白猿襲名披露 八代目 市川新之助初舞台 九州博多座大歌舞伎」そのものの公演の場所だった。歌舞伎には疎い私でも名前は聞いたことのある役者の公演のある現場に偶然立って写真を写す幸運に恵まれたというわけだ。 博多座を後にして、また歩いているとこれも名前は聞いたことのある「上川端通」に行きあたった。初めての通りに物珍しさもあってブラついてみた。知らない街を歩くのは楽しいものだ。その後、ドン・キホーテを見て回り連れとの約束の時間が近づいてきたので、先ほど降りた駐車場まで戻った。ちょうど時間も合ってそこで再び合流できた。 車はこの日の私の目的地である志賀島へ向かう。海の中道を通って快適なドライブコースを進む。志賀島はもう20数年以上前までに数回訪ねたことがあるが、今回はその時も訪ねていない「金印公園」と「蒙古塚」が主目的地である。 その二つの目的地を訪れる前にも一つ気になっていたのが島に入ってすぐ右側にある「志賀海神社」である。下の写真の案内板にもあるように万葉集の時代からある歴史ある神社である。 鳥居の先は階段になっている。 階段を登って行くと左側にいきなり宝篋印塔(ほうきょういんとう)が立っている。この宝篋印塔は鹿児島の島津家菩提寺福昌寺跡にある島津家歴代の当主とその奥方の墓標としても造られているので私の目にすぐ飛び込んできた。 ここの説明版に以下のように書かれていて、私も宝篋印塔について詳しく知ることができた。宝篋印塔はもともと過去・現在・未来の幸福を願った仏典(宝篋印陀羅尼経)を納めた塔で、わが国では石塔婆(いしとうば)の名称となっている。 志賀海神社のこの石造宝篋印塔は花崗岩を用い高さ334,5cm、上部に反花座(かえりばなざ)のある基礎、立法体の塔身、二弧式馬耳形の隅飾りを持つ笠、その上の相輪の四石からなり、塔身の四方には文殊、宝生、阿弥陀、不空成就の四仏の梵字をまた基礎には二面にわたり造立者と貞和3年(1347)の造立年を刻んである。 現存する宝篋印塔としては県内最古であり、その清楚な姿からしても福岡県を代表する石造物の一つである。 神社の前に狛犬が睥睨するかのように参拝者を見つめる。 拝殿前の山門も立派で歴史を感じる。 本殿
2023.10.16
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去る4月某日、商談のために熊本と北九州に行く用事が出来た身内の者から「自分が商談を済ますまで時間があるのでその間、近くの田原坂方面の見物でもするのだったら一緒に乗せていくよ」という話があった。私にとってはまさに渡りに船の嬉しい誘いである。田原坂にはもう20年くらい前に近くを通りがかった時に訪ねて、その時はあまり時間もなく、慌ただしく見学しただけでもう一回訪ねたいなと思っていた場所の一つであった。 早朝、車で出発、九州自動車道を熊本に向かった。 西瓜の産地として有名な植木町に到着。同じ植木町にある「田原坂公園」に向かう。 田原坂公園に到着。私だけ降りて、連れは仕事に向かう。 まさにこの説明版にあるように「日本最大・日本最後の内乱の地」がここ田原坂である。 弾痕の跡が生々しく残された土蔵。この隣には私が最初に訪ねたころにはなかった資料館が出来ていた。 田原坂からの眺め。次回へ続きます。
2023.10.10
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長崎のバスターミナを午前9時20分に出発した高速バスは大分別府鉄輪口(かんなわぐち)に12時54分到着した。鉄輪は別府八湯と呼ばれる温泉の中でも「地獄」が多いことでも知られている。別府には「海地獄」「鬼石坊主地獄」「かまど地獄」「鬼山地獄」「白池地獄」「血の池地獄」「龍巻地獄」7つの有名な温泉噴出口がある。もちろんこの他にもたくさんの噴出口はある。私はこれまでに「海地獄」「鬼山地獄」「血の池地獄」「龍巻地獄」の4ヶ所には訪れてこともあった。特に「海地獄」には数回訪れた記憶がある。 今回の別府行きの大きな目的はこれまで行ったことのない「鬼石坊主地獄」「かまど地獄」「白池地獄」を踏破したいということであった。先ずはバス停から歩いて3分の「白池地獄」に到着。 入園料450円也を支払って入園。有名地獄めぐり7ヶ所共通の入園料もあり2200円である。亀井バスのバスツアーもあるそうだ。 入園してみると私の大好きな石造物が次々に目の前に展開して、地獄を見るより石造物に熱中した。 やっと地獄にたどり着いた。
2023.10.03
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一日中歩き回った私は今回の長崎の旅の終わりに西日が差し始めた長崎港を望む大波止と「長崎水辺の森公園」に向かった。 ここは、展望デッキやレストランなどが建ち並ぶ複合商業施設の「出島ワーフ」。海鮮料理や中華料理、イタリアン、カフェなどが揃いオープンデッキで海を眺めながら味わうことができる。 緑豊かな市民憩いのスポット「長崎水辺の森公園」水辺のプロムナードやビードロの道など変化に富んだ散歩コースが揃っている。この日も親子連れなどで賑わっていた。 遠くにはグラーバー園から見えた外国のクルーズ客船を見ることが出来た。 帰り道には長崎の街を眺めながら歩いた。長崎の街はどこから見ても絵になる。又来る日までと長崎の風景をしっかり焼き付けてホテルに向かった。 この夜、もう一泊して翌朝早く高速バスで別府に向かった。
2023.10.01
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再び三度3月の長崎へ戻る。 いよいよ長崎の旅も残り少なくなってきた。あと一回書いたら終わり別府に向かう。「唐人屋敷跡」を後にして、歩いて長崎市の中心街・浜の町方向に向かう。お馴染みの中島川に架かる石橋を見たいと思ったからだ。何度見ても飽きない風景の一つである。春の光を浴びて散策する楽しそうな人々が行きかっている袋橋。私の大好きな前川清が歌う「重い切り橋」のメロディーが頭の中で浮かんでくる。 男が一人 女が一人 たった二人の 愛なのに ささいなことで別れてしまう 難しすぎます 大人の恋は あ・・・ あ・・・夜が泣かせる ここは長崎 思い切り橋 誤解のないように言うが そのような経験はないのにだ! (爆) 中島川の橋を渡って山側に行くと寺町に行きあたる。それぞれの石橋を渡り、その先に続く商店街を抜けていくと「寺町通」に出る。ここの通り沿いにはたくさんのお寺があるが、有名な興福寺や崇福寺もこの中にある。さらにそこから山の方に坂道を登ると「亀山社中記念館」や坂本龍馬像のある「風頭山」に行くことができる。この辺りは何回も訪れて過去ブログにも何回も書いているので今回は時間の都合もあり訪問しなかった。 眼鏡橋を渡り口から写した。 眼鏡橋を写そうと思って河原の石畳まで降りて写したが、夕方が近く、逆光でもあったので橋の姿すらくっきり写っていない。まして光を反映しての眼鏡の形などとは縁遠い写真になった。 汽笛一斉新橋を♬ ♩ ♪ が日本で一番最初にSLが走った場所かと思っていたが、長崎でトーマス・グラバーが最初に走らせたという案内板があった。SL発祥の地は長崎だった。 眼鏡橋を後に、この日の最終目的地の出島の海岸方面に向かう途中「出島和蘭商館跡」(国指定史跡)の前を通過。ここも寺町などと同じく何回も訪れたことがあるので眺めるだけだった。 これまでも何回もたずねているのに気づかなかったが、橋の流れるようなデザインに見入ってしまった。
2023.09.29
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私は現役時代に柳川下りを2回経験した。社内旅行と本社の人間を案内しての2回である。その2回とも好天気で楽々と川下りを楽しんだ記憶がある。ところが今回は昼食を済ませて外の出たころから小雨が降りだして船着場に到着した時にはかなりの雨になっていた。橋の下を通過するので傘は持ち込めないということで簡易カッパを渡されて、全員上のような格好で乗船した。 船は柳川下りの名所と言われる柳の横を通過。私たちの船頭さんはおじいちゃんだったが、その案内の声や歌を聞くとまるで少年かと錯覚するくらいの声音を出していた。外国人のお客さんにはどのような対応をするのかと乗客の中から質問した人がいたが、何か国語がの簡単な言葉を勉強されているようで ひったまがった。(鹿児島弁で驚いた)先日、長崎に行った時のブログで「さるく」という言葉は鹿児島弁かと思っていたら長崎でも使われており、帰って調べたところ「さるく」はほぼ九州一円で使われている言葉と書いたが、今回船頭さんが船が曲がることを「まぎる」と連発していた。この「まぎる」も鹿児島弁かと思っていたので驚きの一つだった。まだ調べていないがいずれ調べてみよう。 柳川と言えば表題にも書いた「北原白秋」。白秋は1885年、現在の熊本県南関町で誕生したが、育ったのは現在の福岡県柳川市だという。詩人、童謡作家、歌人と言われる。有名な歌としては「雨降り」「砂山」「からたちの花」「この道」「ペチカ」「待ちぼうけ」「城ヶ島の雨」などなど、たくさんの歌の作詞をしている。 私たち男声合唱を経験したものにとっては、欠くことのできない組曲「柳川風俗詩」がある。作曲は多田武彦。混声合唱にも編曲されているそうだが、混声では歌ったことも聞いたこともない。「柳河」「紺屋のおろく」「かきつばた」「梅雨の晴れ間」の4曲で構成された無伴奏曲である。私も大学時代から、現在のそのOB会の楠声会までいろいろな演奏会で歌ってきたし、男声合唱団が合同で演奏するような機会にも歌う有名な曲である。来年4月28日(日)の創立70周年記念演奏会でも歌うことになっている。 このような橋の下を通過したり、まぎったりしながらの40分の柳川下りも雨が降っていたにも関わらずあっという間に終わった気がした。 柳川を下船後向かったのは「高橋総本舗」。野菜のジャガイモと玉ねぎの詰め放題と「博多豆せんべい」詰め放題への挑戦である。写真を写したつもりだったが、そこの写真は一枚もなかった。詰め放題に夢中になって忘れたか? とにかく証拠は持ち帰った商品のみ。たくさん詰める方法など袋を使って実演もあったが、少し離れていたのでよく見えず、結局自己流でやって大きな成果はなかった。これも愛嬌である。それでもここで2000円のクーポンで買い物もして、持って行ったリュックサックでは入らず、買物袋にまで入れて持ち帰った。帰りは、新船小屋駅から16時1分発で7時21分には鹿児島中央駅に帰り着いた。
2023.09.27
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「かえる寺」を後にして、向かった先はこの日の楽しみの一つ「梨狩り体験」のフルトリエ。果樹園の人の案内で梨畑に向かう。1kgは無償とのことで大体3個が相当するとのこと。品種は「甘太」(かんた)という比較的新しい品種だという。先に配布されている2000円のクーポン券も使えるということで、同行のkくん、Mくんは5個と4個買って差額をクーポン券で支払っていた。更に出口で柿2個とイチジク6個入りの袋をいただきニンマリ。持って行ったリュックサックが2/3くらい埋まってしまう。 そこから出て、今度は「久留米絣」の下川織物に向かう。久留米絣は、寛政の末(1800年)頃、井上伝という女性によって考案されたという。日本の風土と暮らしの知恵から生まれ磨かれ、昔ながらの素朴さと美しい表情にモダンな感覚と粋を織り込んである。昭和32年には国の重要文化財に、昭和51年には伝統工芸品の指定を受けた。 工場に案内されて実際に織り込んでいるところを見学することができた。この工場の織物機械は100年前のものをメンテナンスしながら大事に使っているとのことだった。 商品は昔の着物、上っ張りを代表するものから、最近は着物ばかりでなく、、絣の風合い、特徴を生かしてワンピース、日傘、帽子、作務衣、、カッターシャツ、サロンエプロン、袋物、その他モダンなインテリアに用途を広げているそうだ。 この日の西鉄貸切バス。 次に向かったのは、「八女伝統工芸館」バスが駐車場に着くと、目の前にいきなり大きな「石灯籠」が待っていた。県指定特産民工芸品「八女石灯ろう」として有名だそうだ。熱さや寒さに強く、石苔がつきやすく柔らかくて趣のある石質が特徴だという。 ここからは八女の伝統工芸品の数々の紹介である。 「八女福島仏壇」「八女提灯」などなど。 「八女手漉き和紙」「八女竹細工」「八女和こま」「八女矢」「八女すだれ」「久留米絣」「桶」「刃物」「水車場のお線香」「木工品」「焼物」「節句人形」「釣り竿」など展示されている。これほどのものをまとめて見せる場所は、これまで見たことがなかった。 さあ いよいよお楽しみの昼食会場へ。うなぎの大きな看板が目立つ「福泉操」。 私たち3人組には三人のグループにはグループ毎のテーブルが用意してあり、知らない人に気遣いすることなく昼食を楽しむことが出来た。内容は柳川名物・「うなぎのせいろ蒸し」のミニセイロ蒸しを中心に過不足のないものだった。ミニセイロ蒸しもそれなりのボリュウムがあって、美味しくいただいた。 昼食場所の「福泉操」の右側には、「西鉄 柳川駅」があった。私鉄ながら、流石に福岡県を代表する企業だけあってJRの駅にも負けないスケールである。この後、すぐ近くの「柳川下り」の乗り場に向かった。
2023.09.24
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鹿児島市の福祉バスを利用しても老人会の旅の疲れもとれない中、昨日22日(金)今度は阪急交通社の「梨狩り体験といちじく・柿のお持ち帰り付き水郷柳川をめぐる納涼日帰りの旅」に応募して行ってきた。いつもの高校同期生3人組で応募したものだ。 添乗員さんの指示に従い、鹿児島中央駅発 朝7時9分発の新幹線に乗車。総員30名くらいのツアー。各駅停車で8時47分には新鳥栖駅に到着。待機していた西鉄の貸切バスに乗車した。先ず向かったのは如意輪寺。天平年間(729年)に行基が開寺したものだという。福岡県小郡市では最も古い歴史と由緒のあるお寺だという。境内にはあらゆる場所にかえるが置かれているが、なんと5000体にものぼるというから驚きだ。 入口の階段を登ってすぐ左側にあるのが下の看板。人の一生をかるで表現したというので、塀に沿って歩いてみた。 先ずはたんじょうの感謝を両親へ。 人生修行中。 遊びも大いにやりましょう。このように、節目節目の場面が続く。 最後は人生を讃えて終わっている。 お寺なので仏像もある。 何故か、ウサギも登場する。 そんな如意輪寺の夏の風物詩が毎年6月から9月頃まで開催される「風鈴まつり」だそうで、暑い夏を乗り越えようと風鈴の短冊に願いを書いて奉納するそうだ。ちょうど期間中だったのでたくさんの風鈴が吊り下げられているのを見ることが出来てラッキーだった。この写真の場所だけではなく、階段の両側にも賑々しく飾られていた。 様々の形、色のかえるがいて楽しめるお寺だった。
2023.09.23
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9月も終わりに近づいた今頃、3月の長崎の旅を書いている呑気なジージである。それも途中であちこちに飛び火するばかりか、書き込む間も途方もなく緩慢で忘れたころにやっと神輿が上がるという有様である。その昔、一年間、間を置いたこともあるジージにすれば、これももう習い性になってしまったのかと、自分で思う。実に情けない話である。 さて、今日のタイトルの「長崎新地中華街をさるく」の「さるく」の意味をブロ友の皆さんはご存じだろうか。以前、長崎の話題を書いたときに同じ「さるく」という言葉を解釈も入れずに使った記憶がある。「さるく」とは長崎でも使われていることは、その昔、長崎に3年間住んだ私には「ここは鹿児島か」と戸惑った記憶もある。鹿児島弁でも同じ意味で使っているからだ。そこで今回「さるく」という言葉をネットで調べてみた。すると、「長崎、佐賀、福岡南部、宮崎、熊本、鹿児島で使われていて、九州の共通語に近い」と書いてあるのを発見した。私は長崎で鹿児島を感じたのだが、思っていたよりも九州各地で使われていることを初めて知ることだった。肝心な「さるく」の意味はもう皆さんお気づきと思うが「うろつきまわる」「ぶらぶら歩く」「歩いて回る」「歩く」などである。因みに鹿児島ではそれが訛ると「きゅはいっぺこっぺさるっもしたやすったいだれもした」(今日はあちらこちら歩き回ったのですっかり疲れてしまいました)というような使い方をするが、もう鹿児島でも若い人には通じない。 この日は3月28日。これまで飛び飛びで書いてきたように朝早くから「一本足鳥居の山王神社」「原爆落下中心地の松山公園」「平和公園」「浦上天主堂」「如己堂」「オランダ坂と東山手」「孔子廟」「グラバー園」「唐人屋敷」とさるき回って、やっと中華街にたどり着いた。長崎に来た観光客は日本人、外国人を問わずほとんどの人が訪れる場所である。 「長崎新地中華街」は文字通り新地町に形成された中華街であるが、横浜中華街、南京町中華街(神戸)とともに日本三大中華街と称される。南北250mの十字路には、長崎の姉妹都市である福建省福州市の協力により石畳が敷かれ中華料理店や中国雑貨店など約40軒が軒を連ねる。四つの門があり、四神及び五行に基づく色は次の四つである。東門 「青龍」 (青)西門 「白虎」 (白)南門 「朱雀」 (赤)北門 「玄武」 (黒) 下の門は「北門」 ちゃんぽんを食べた後だったので、「角煮まん」と「ごま団子」を買って中華街に隣接する「湊公園」で食べた。この湊公園は毎年旧暦の正月に当たる春節に開催されるランタンフェスティバルのメイン会場となる。ランタンフェスティバルにはまだ行ったことがないが、一回は行ってみたいと思っている。
2023.09.19
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この日は3月28日。サンQパスを使っての旅の2日目である。前日は博多で私の勘違いでバスの乗り継ぎがうまくいかず、長崎に到着した後「二十六聖人」しか回れなかったので、この日は7時30分頃の電車に乗って、「一本足鳥居」、「原爆落下中心地・松山公園」「平和公園」「浦上天主堂」「如己堂」など巡り、電車に乗って「オランダ坂」一帯、「孔子廟」「大浦天主堂」「グラバー園」を巡り、グラバー園を出たのは13時を過ぎていた。空腹を抱えて歩いていると「みらく苑」という「ちゃんぽん・皿うどん」の店があった。入って早速今回長崎で初めて食べるちゃんぽんを注文する。これまで余り食べたことのないようなちゃんぽんが出てきたが、美味しかった。流石長崎ちゃんぽんの街である。どの店で食べても美味しい。 そこからしばらく歩いて、「唐人屋敷」の到着。今回で2回目の訪問である。一回目の訪問の時も当ブログに書いているが、今回はまた印象が変わった。 「 唐人屋敷」について長崎市のホームページに次のようにある。寛永12年(1635)から中国貿易は、長崎一港に制限されており、来航した唐人たちは、長崎市中に散宿していたが、貿易の制限に伴い密貿易の増加が問題となってきた。幕府はこの密貿易の対策として元禄元年(1688)十善寺郷幕府御薬園の土地で唐人屋敷の建設に着手し、翌年に完成した。広さは約9400坪、現在の館内町のほぼ全域に及び周囲を練塀で囲み、その外側には一定の空き地を確保し、竹垣が囲った。入口には門が二つあり、外側の大門の脇には番所が設けられ無用の出入りを改めた。この門は役人であってもみだりに入ることは許されず、大門と二の門の間に乙名部屋、大小通事部屋などが置かれた。内部には長屋数十棟が建ち並んでいたといわれ、一度に2000人前後の収容能力を持ち、それまで市中に雑居していた唐人たちをここに集め居住させた。長崎奉行所の支配下に置かれ、管理は町年寄以下の地役人によって行われていた。輸入貨物は日本側で預かり、唐人たちは厳重なチェックを受けた後、ほんの手回り品のみで入館させられ帰港の日までここで生活した。天明4年(1784)の大火により関帝堂を残して全焼し、構造もかなり変わったが、この大火以後、唐人自前建築を許可されるようになった。重要文化財旧唐人屋敷門(現・興福寺境内所在)はこの大火の後建てられた住宅門と思われる。鎖国期における唯一の海外貿易港であった長崎において出島と共に海外交通の窓口として大きな役割を果たした唐人屋敷は、安政6年(1859)の開国後廃屋化し、明治3年(1870)に焼失した。 土神堂(どじんどう) 天后堂(てんこうどう) 観音堂(かんのんどう)
2023.09.09
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先日のブログに書いたように、今回はこれまで入ったことのないグラバー園の一番上にある入口から入って順路に従って下りながら見学するというコースをとった。 順路を行くと「高島流和砲」というものに出合った。私は高島秋帆がつくったという大砲(和砲)を見て、テレビの「お宝鑑定団」で見ていた砲術家の澤田某鑑定士を思い出した。いつだったか高島流の砲術のお宝が出品されたとき、鑑定をしながら、得意満面で話をされていたのをこのグラバー園で思い出した。 「旧ウォーカー住宅」荷揚げ業を営んでいたようだ。詳細は案内板にあります。 桜の時期を狙って行ったのだが、ドンピシャリ。グラバー園の桜も満開だった。 日本西洋料理の開拓者・草野丈吉は天保11年(1840)に市内の農家に生まれた。21歳で出島のオランダ領事館で修行し文久3年(1863)24歳の時、自宅で小さな西洋料理店を開いた。長崎奉行が外国人接待の為に使ったりしたが、岩崎弥太郎やジョン万次郎も客としてきたそうだ。そのあと、山内容堂や五代友厚にも取り立てられ、京都博覧会に際して、外国人向けホテルを経営した。読みにくいが、詳細は下の案内板にあります。 蝶々夫人を歌う三浦環像三浦環は世界に認められた最初の日本人オペラ歌手である。「マダムバタフライ」と称されて世界各地で主役として2000回以上の舞台で歌った。「夫ピーカートンは必ず帰ってくる・・・」という「或る晴れた日に」は有名。 「旧リンガー住宅」 国指定重要文化財 「旧スティール・アカデミー」旧ステイイル記念学校 「旧グラバー住宅」国指定重要文化財/世界遺産 トーマス・ブレイク・グラバー像 グラバー園の見学も終わりに近く下に来ると、この日も外国の大型客船が停泊していた。 見学を終わり、外に出て先ほど通った坂道を下って次の目的地である「唐人屋敷」向かってに急いだ。
2023.08.16
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グラバー通りを登っていく途中にある「長崎全日空ホテル」の敷地内に「南山手居留地跡」「国際電信発祥の地跡」「長崎電信創業の地跡」の三つの記念碑が立っている。長崎は先に国際電信が接続され、その後になって東京とつながったそうだ。1871年に長崎と上海、ウラジオストックが海底通信線でつながり、即時通話ができるようになった際の通信窓口がここにあった。 長崎に行った人は必ずといっていいほどこの緩やかな坂になっている「グラバー通り」を歩いて大浦天主堂やグラバー園に向かう。20軒以上のショップが並ぶ。 大浦天主堂開国初期の元治元年(1864)に在留外国人のため建てられた現存する日本最古の木造教会。慶長2年(1597)に殉教した日本26聖人に捧げられた教会であるため正式名称を「日本26聖殉教者天主堂」という。元治2年(1865)3月17日、浦上エリアから農民数名がここを訪れ、プティジャン神父に「私の胸、あなたと同じ」と囁きキリスト教徒だと打ち明けた。それは、キリスト教禁教令から250年後のこと。長崎でひそかに信仰が伝承されていたことが明らかになった。まさに奇跡の瞬間だった。建物と宗教的価値から昭和8年(1933)に国宝に指定されたが、昭和20年(1945)8月9日の原爆投下で主祭壇が大破し、5年の歳月をかけて昭和27年(1952)に修復されたという歴史を持つ。 大浦天主堂の左側の案内板に従って進む。 グラバー園の入口に到着。私もこれまではここを訪れるたびにこの入口から入っていた。しかし、今回はyoutubeで見た別な入口から入ろうと心に決めていた。いつもの好奇心が頭をもたげたのである。この道を歩いていけば上に別な入口があるという。 いつもの入口を左に見ながら進むと「南山手風致地区」の石柱があった。更に進む。 いくらか歩いただろうか。左側に小さな建物があり守衛さんが立っている。ああ、ここか! 近いなあ、と思いながら入場券を買おうと思って建物に近づくと守衛さんが慌てて飛んできた。この怪しい爺さんが出口からお金も払わず入場すのではと、思ったような勢いだった。(爆)これだから爺さんは疑われて困るのだよなあ! まだボケてはいないつもりだけど、自分では。(笑)ここは出口専用で入口はまだ先の方だという。 そこから再び苦笑いしながら歩き始めたのだが、歩く人は一人もいない。時々車が通るだけだ。 少し上り坂になっているが、景色もどんどん移り変わる絶好の散歩道という風情である。 それでも、だいぶ歩いたところで、本当にこの先に入口があるのだろうかと少し不安になった。ちょうどこの左側の崖の上で木の手入れをする人がいたので、聞いてみたが、間違いないという。 しばらく進むと右側に私にとっては、」お馴染みの三菱重工長崎造船所が見える場所に行きついた。もう少し先に歩いて気付いたのだが、写真に見る下の広場が私が目指していた入口から入場する人の駐車場だった。 駐車場から左折して更に進むと、きつい上り坂が待っていた。空腹と暑さに耐えながら、登っていく。 おお! やっと目指す入口に到着。600円也の入場券を買って入る。 グラバー園のいつもの入場口にもあったのだろうが、改めてこの入口でグラバー園の図面を見る。いつもの入口は左上、ただで入場しようとする爺さんに間違われたのが左下の「出口」。私が入った「入口」は右上で図面があったのが「現在地」。グラバー園の一番高い所にある。 「地番境と居留地境」の案内板 居留地跡碑 三菱重工長崎造船所の錨 旧三菱造船所第2ドックハウスの案内板 三菱重工長崎造船所のドックハウスの2階テラスからはぐるっと回ると長崎市を全部見ることが出来る。左から右へぐるりと回って写してみた。 オッと! 肝心な「女神大橋」を写していなかったので、最後に左に戻ってパチリ。
2023.08.10
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6月末の東京の旅のことを書き終えたので、途中までだった3月の長崎の旅に戻ることにした。 長崎孔子廟は、1893年(明治26年)に清朝政府と在日華僑が協力して建てたもので、日本で唯一の本格的な中国様式の孔子廟である。中国山東省の曲阜にある総本山並に、伝統美溢れた儀門や大成殿はじめ廟宇の随所に中国の歴史と文化、伝統芸術の粋がちりばめられている。そのような歴史も知らずに50年前にここを訪れた私が今回は孔子廟を知りつくそうと、張り切って訪ねたのだ。そのために役立ったのが入場口でいただいた「長崎孔子廟・中国歴代博物館見どころご案内」だった。以下それらを参考にして回ることができた。 孔子とはそもそもどういう人物なのか、復習しよう。 「論語」で知られる孔子は、中国春秋時代の思想家である。今からおよそ2500年ほど前、紀元前552年魯の国の曲阜郊外(現在東省曲阜市)に生まれた。孔子の時代は周王朝が崩れ、諸侯が対立抗争した動乱期だった。 孔子は魯の定公に召されて要職にも就いたが、その後諸国を歴遊し14年後に祖国の魯に帰り、弟子の教育と研究に専念した。紀元479年没。孔子の死後、門弟たちはかれの言行や子弟との問答などを集めた「論語」を編纂した。 入場門を入って右側に歩くとすぐ目に入るのが碧水橋(へきすいきょう)。 覺門(がくもん) 福建石獅(恵安県産の石獅子・ライオン) 両側に鎮座している。迫力に圧倒される。創建90周年を記念し中国福建省から贈られた。 躍動的な彫刻がいろいろ飾られている。 龍蝠(りゅうふく)儀門両側にある一対の石碑は、左のこれに唐代の呉道子が詠んだ孔子賛美の詩文が書かれている。右側にあるものに宗代の米帯の孔子賛美の詩文が書いてある。碑を背負っているのは龍王の長男で特に重いものを好んで背負おう”龍蝠”という。 儀門を内側から見る 儀門から中に入ると左右に「72賢人石像」並んでいる。それぞれに表情があり見事である。 72賢人は孔子の弟子で「六芸」に通じた賢者であるという。石像は等身大で重量1,8トン。それぞれ史実に基づいて北京美術工場で彫刻したものだ。台座には前面に賢人の名、後面に彫刻した製作者の名が記されている。「六芸」とは徳、知、体に秀でた六つの才能の事である。 徳・・・・・礼(礼儀)・楽(音楽) 知‥・・・・書(書道)・数(数学) 体/・・・・射(弓の技術)・御(馬車の運転) 72賢人石像の奥にある大成殿の一部 探海(たんかい)大成殿を囲む四隅に鎮座する石像は龍王の六男で、水を好む”探海”という。本来は排水口の役目をするものだという。 欄干頭の龍大成殿を囲む欄干頭の龍は殿中に祀られている孔子の方向を向いているという。 大成殿 明治26年(1893)建立以来百余年の風雪と原爆の衝撃に耐え、古式を今に伝える貴重な文化財である。軒下の左右に書かれた「有教無類」は「教えありて類なし」と読み、「身分を問わず、学ぶものは誰でも入門できる。教育によって、どういう人にでもなり得る」ということを簡潔に述べているのだという。 木造の神殿奥に見えるのは「孔子座像」孔子は学問の神様として崇められ、今日では受験生たちの参拝も絶えない。また釈迦、ソクラテス、キリストと共に世界の四大聖人として讃えられているが、、最も早く生まれたのが孔子である。孔子の時代は「諸子百家」と呼ばれる多くの学者や論客が輩出され古代思想が花開いた時代だが、皇子はその先駆者として活躍し、今日まで影響を及ぼしている。大成殿に祀られた孔子座像は曲阜で御霊入されたもので、高さ2m、座像として国内最大の大きさである。 麒麟(きりん)聖人が世に出ると現れるといわれる中国古来よりの想像上の瑞獣で、草木を踏みつけたり生のものを食したりしないといわれる仁の心の厚い動物。姿は鹿に似て大きく、尾は牛、ひずめは馬、背毛は五彩で毛は黄色。左右に一対ある。 華表(かひょう)宮殿や陵墓などの前に建てられる装飾用の一対の石柱である。皇帝を象徴する龍が、一つの国の政治を、もう一つは市民の暮らしを監視監察していることを表している。 左は「角端」(かくたん) 右は翁仲像(おうちゅうぞう)角端は吉祥を表す想像上の動物、いわゆる一角獣である。孔子にお供して話の善悪を聞き分ける獣だといわれる。重量2,5トン。 石人・翁仲 は孔子の弟子。一対あるが左右いずれも同一人物で、笏(しゃく)を持つ文人像と、剣を持つ武人像の姿をしており、文武両道兼ね備えた人であることを表している。重量2.5トン。 儀門を内側から写した。まだまだ孔子廟には紹介したいものがたくさんあったが、今回はこれくらいにしたい。久しぶりに長いブログを書いたので、いささか疲れた。 見学を終えて、改めて外側から写してみた。
2023.08.07
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皇居東御苑の散策を済ませた私達はタクシーに分乗して日比谷公園に向かった。日比谷公園を訪ねるのは私は初めてのことである。大きな目的は公園内にある松本楼でランチを取ることにあった。これも、もちろんNくんの設定である。 日比谷公園に到着すると、ここは明治36年(1903)の開園とある。今からちょうど120年前に出来た公園である。もっともその時代だったからこそこういう広い場所が確保出来たのだろう。そう思いながら公園を歩いていると「仙台藩祖 伊達政宗終焉の地」という場所に遭遇した。案内板によると「藩祖伊達政宗から三代綱宗時代、仙台藩の外桜田上屋敷があったところ。慶長6年(1601)正宗は徳川家康から江戸屋敷を与えられ外桜田の屋敷は寛永元年(1661)まで上屋敷として使用された。その敷地は、東西は心字池西岸から庭球場東端まで、南北は日比谷堀沿いの道路から小音楽堂付近まで広がっていたものと推定される」と書いてある。なるほど家康が武将たちに与えた場所だったのだ。 公園内の濃い緑の中に私達が目指す松本楼はあった。松本楼は明治36年の日比谷公園の誕生と同時に建設されたそうだ。当時流行であったマンサード屋根の3階建てはお洒落な店として評判になり、ハイカラ好きなモボやモガの間で「松本楼でカレーを食べてコーヒーを飲む」ことが大流行したそうだ。また特に中国との歴史的な会談の場としてよく使われたようである。 私達は9人だったので、広い個室に案内された。出された料理。 パンプキンスープ。この写真は少し手をつけた後に写したので、最初の形状が残っていないが、卵の黄身が載せてあった。これまでで最高のパンプキンスープだった。 ステーキ デザート お馴染みの「日比谷公会堂」 帝国劇場 日比谷公園を出て有楽町へ向かった。すると進行方向の右側に「かごしま 遊樂館」が見えてきた。鹿児島県の東京での物産館である。もちろんここもNくんの粋なはからいである。 おかげで東京で鹿児島の名産品など見るという貴重な体験をすることが出来た。鹿児島の名産物がある意味で地元鹿児島よりも一か所に集められているので東京在住の県人や、鹿児島ファンの皆さんにとっては有難い場所だろう。 Nくんの当初の計画では、この後、浜離宮に行くようになっていたのだが、皇居東御苑の散策に時間を取られて松本楼での予約時間にも1時間ほど遅れるほどだったので、早い段階で桂離宮に行くことは今回は中止するとの話が午前中にあった。(この後、行く予定の場所は間違って桂離宮と書きましたが「桂離宮」ではなくて「浜離宮」の間違いでした。従って本文を訂正しました)そして、ここを出たところで解散となり、鹿児島に帰る私とN嬢はMくん夫妻と待ち合わせていた羽田空港に向かった。2泊3日の東京の旅はこうして余韻を残して終わった。
2023.08.02
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6月28日、東京滞在3日目である。2泊3日の高校同期生との旅も終わりである。鹿児島組5人中、一人東京に宿泊したKくんを除く4人は宿泊先のホテルのある千葉県海浜幕張から京葉線で東京駅まで来て、東京に住む娘さん夫婦と会うMくん夫妻と別れ私とN嬢は丸の内中央改札口から外に出た。そこでタクシーを拾ってNくんから指定された待合場所であるパレスホテル東京一階のロビーに向かった。Nくんを始め数人が到着していた。27日のメンバーでこの日は来ない人、今日初めて来る人、この日のメンバー9人が揃って挨拶を交わす。 パレスホテル東京の一階ロビー 9人でいざ皇居の東御苑に向かう。 皇居にはその昔、二重橋の前に行って写真を写したことがあったり、東京出張のとき空いた時間に皇居を一周した思い出がある。外国人も含めて走る人や歩く人など様々な人と行き交った。 お堀も広くて大きい。 大手門に到着。言わずとしれた正門である。この後、要所要所でNくんの名解説があった。 同心番所とは警備詰所のことである。 同心番所。今もその建物が残る。 大きな石垣 百人番所も警備詰所の一つである。 百人番所の建物が残っている。 あの有名な浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた刃傷事件があった「松の大廊下跡」 石碑も立っている。 多聞とは長屋造りの防御施設のことだという。 石室。火災などの非常時に大奥用の調度などを避難させた場所ではないかと言われている。 途中に見事な竹林があった。 天守台。ここには天守は建てられなかった。 東京のど真ん中にある皇居は周りの近代的な街並みともよく調和している。
2023.07.31
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上野公園一帯の散策を終えた私達・高校の同期生「八期会」一行の12人は、JR線御徒町駅から池上線に乗り換えて「洗足池学園」駅で下車しすぐ左手前方の「洗足池公園」に向かった。途中の乗換駅でNくんに教えてもらいながら乗車券「Suica」なるものの購入を初体験した。少し都心を離れた洗足池公園は静かな佇まいの中にあった。 洗足には洗足学園音楽大学があり、そこの指導者のお一人である辻志朗先生が、今は亡き妻が長い間歌っていた「シャンテ・メール」の指揮者として鹿児島に指導に見えていたことから「洗足池」という名前は知っていた。 洗足池は「城南の名勝」とも称される景勝地である。 洗足池の西のほとり(東京都大田区南千束)に鎮座する千束八幡神社(洗足池八幡宮)旧社格は村社で千束郷(洗足池一帯)の総鎮守である。 上の「池月発祥伝説の由来」にある名馬・池月之像。ただ調べてみると、この名馬・池月の産地は徳島県美馬市という説や、もっとも身近なところでは鹿児島県の池田湖(九州一の大きな湖)が産地であるという説もある。 今回の私達鹿児島からの同級生と東京在住の皆を集めて全面的に面倒を見てくれたNくんが一行を洗足池に案内してくれたのは西郷隆盛と勝海舟の繋がりがこの場所にあったからだろうと推測する。私は上京前にNくんが東京でのスケジュールと訪問地の謂れなど数10ページに渡る文書をメールで送ってくれるまで、全くそのことを知らなかった。おかげで私は印刷をして事前勉強をすることが出来てそのことを知ったのだった。(尚、鹿児島に帰って数日後にはその改訂版と当日の写真などを入れた分厚い封書が届いた。当日の参加者全員に送ってくれたようだ)感謝しかない。 Nくんが創ってくれたその案内書の冒頭に次のように書いてある。東京大田区の洗足池公園には、西郷隆盛が沖永良部島に流され、尊皇の志を果たすために、本土の土を踏むことは2度とないとの思いでつくった漢詩「獄中有感」が刻された「留魂碑」がある。「留魂碑」の建立者は、西郷隆盛の無二の理解者と自負する勝海舟である。勝海舟夫妻の墓も洗足池公園にある。 西郷隆盛の「留魂碑」 隣には「勝海舟夫妻の墓」がある。 池を左側から一周りして降りてくると図書館があり、その2階には「勝海舟記念館」があった。時間の都合もあり、見学は出来なかった。 その後、これもNくんの発案で銀座に出てビヤホール「ライオン」で一息入れた。 これまで経験したことない雰囲気でビヤホールとはこういうものかと実感した。夜にならないうちに解散し、私達鹿児島組は明日の皇居東御苑や日比谷公園散策を約束して千葉の海浜幕張のホテルに帰った。
2023.07.24
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上野公園の散策は続く。いよいよ「上野東照宮」へ。ここからは今回の東京八期会の世話役をかってくれた東京在住のNくんが事前に東京に集まるメンバーに自分で書いた資料を送ってくれたので、そこからの引用となる。 元和2年(1616)、藤堂高虎と天海僧正は危篤の家康に呼ばれ末永く鎮魂まるところを作って欲しいと遺言され、寛永4年(1627)藤堂家の屋敷地に東照宮を造営した。 家光は慶安4年(1651)に社殿を金色殿に造営替えして江戸の象徴とした。手前から拝殿・幣殿・本殿からなり、その様式を権現造りという平泉の中尊寺光堂と並んで日本に二つしかない金色殿である。明治40年に国宝に指定された。祭神は徳川家康・吉宗・慶喜。 日本に一つしかない金箔の唐門(唐破風造りの四脚門)。扉には亀甲の透し彫り、門柱には左甚五郎作の昇り龍・降り龍。高彫門の側面左右上部にある松竹梅に錦鶏鳥の透し彫りは精巧を極めたものである。明治40年、国宝指定。 旧寛永寺五重塔五重塔は、上野東照宮の一部として寛永8年(1631)土井利勝によって再建されたが、寛永16(1639)に焼失、同年、幕府の作業方の棟梁だった甲良宗広らによって再建されたのが現在の塔である。(重要文化財)明治の神仏分離令に伴う廃仏毀釈の運動により、上野東照宮の五重塔も取り壊される運命にあったが、当時の五重塔が寛永寺管理であることを国に申し出たことにより取り壊しを免れた。(この項はネット「鎌倉手帳」寺社散策より) この日のランチは、Nくんが設定してくれた上野公園内の「韻松亭」。12人の貸し切りの部屋での食事となった。 籠に盛られた料理に「豆ごはん」や茶碗蒸し、デザートまでついた美味しい食事を団らんしながら楽しんだ。特に「豆ごはん」は美味しかった。 ランチのあとは「不忍池」の散策。ここから再びNくん資料。 かって上野大地と本郷台地の間が忍ヶ丘(しのぶがおか)と呼ばれていた事から「不忍池」と呼ばれるようになった。縄文時代の頃は、東京湾の入江で、その後海岸線の後退によって、紀元数世紀頃、池になったと考えられる。15世紀頃には既に「不忍池」という名で呼ばれていた。1625年、江戸幕府によって西の比叡山延暦寺に対応させこの地に寛永寺が建立された。開祖の慈眼大師・天海は不忍池を琵琶湖に見立て竹生島になぞらえて弁天島(中之島)を築かせ弁天堂を造った。元々、舟で渡る島であったが1672年に石橋が架けられ徒歩で渡れるようになった。明治時代の初期までは池の形も現在と大きく異なり、池の北側は今よりも広く藍染川(谷田川)に注いでいた。1884年、共同競馬会社による競馬場建設によって、埋め立てられほぼ現在の形になった。(中略)不忍池では渡り鳥、留鳥あわせて数十種類の鳥類が見られ多いときには1万羽を超えることもある。中でも多いのは、キンクロハジロ、ホシハジロ、オナガガモである。魚類では、鯉が多いが、カムルチー、タウナギ、ティラピアなど外来魚も多い。 私が以前訪ねたときとは不忍池も大きく姿を変えた印象を受けた。今回は訪ねた時期も良かったのか、池一面を蓮の緑が覆い、近代的なビルともマッチして素晴らしい景観を見せてくれた。案内してくれたNくんに感謝!
2023.07.09
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今回の旅の宿は千葉県の海浜幕張にある「アパホテル&リゾート東京ベイ幕張」に2泊した。私が泊まった部屋は11階。窓からの風景も素晴らしい。左前方に見える丸い形状の建物は「zozo千葉ロッテマリーンズ球場」。ここであの佐々木朗希がバッタバッタと打者を討ち取るのか。見てみたい。 夜はホテル内のビュッフェの店で食事。2泊分の4000円のクーポンが一気に消えてしまった。まあ仕方ないか。それにしても写真の写りが悪い。 夜、鹿児島の娘にlineをすると「どんな部屋なの」というので、パチリ写して送った。一人だが、ツインの部屋が与えられたのでゆっくり出来た。 ホテルの名前に「リゾート」とあるからこれくらいは当然か。 今回のツアーは26日(月)はバスでの築地場外市場や浅草など観光がついていたが、27日(火)、28(水)は帰りの羽田空港に集まるまでフリーである。 そこで、同じ高校八期で東京在住のNくんが2日間のプランを建ててくれて、その上、東京在住で日頃親しい仲間にも呼びかけて一緒に行動するようにしてくれた。先ずは27日。集合場所は上野恩賜公園の「西郷隆盛像」前である。時間は11時。鹿児島組の4人は(kくんは東京に残り、そこから東北方面に行くので同じツアーには入れずホテルも別)は千葉の海浜幕張駅から東京駅経由で上の駅に向かった。するとそこには懐かしい顔が・・・。関西から来てくれたKBくん、東京組がNくんを筆頭に6人、それに鹿児島からのKくんも含めた総勢12人が集まった。聞くと他にも参加希望者はいたそうだが、食事場所の予約の問題もあって断ったりもしたそうだ。それに参加したくてもドクターストップがかかった友人もいたそうだ。実際鹿児島からも、もう一人参加予定だったのだが、彼にもドクターストップがかかって行けなくなった。本人は残念そうだったが、身体第一のため断念した。80歳を超えるとこういう話が多くなって悔しい。 薩摩をルーツとする私達高校の同期生が12人揃って、西郷さんの銅像前で何枚も記念撮影をしたことは言うまでもない。そして歴史に詳しいNくんからいろいろな話を聞くことだった。私もここ上野公園の西郷さんの銅像を訪ねるのは20数年ぶりであったので再び瞼に焼き付けた。 上野恩賜公園は明治6年の太政官布達によって、芝、浅草、深川、飛鳥山と共に日本で初めて公園に指定された。ここは江戸時代、東叡山寛永寺の境内地で明治維新後官有地となり、大正13年宮内省を経て東京市に下賜され「恩賜」の名前がついたという。開園140余年、日本の都市公園を代表する都市として、東京都は東京の顔となる文化・観光の拠点としてより魅力ある公園を再生させるため整備を進めているという。 上野公園には他にも見学する場所が多い。東叡山寛永寺の清水観音堂もその一つである。 寛永寺は、天台宗の別格大本山のお寺であり、寛永2年(1625)に徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の大地に慈眼大師天海大僧正によって建立された。後には、第四代将軍・徳川家綱の霊廟が造営され将軍家の菩提寺も兼ねるようになった。しかし、幕末の上野戦争により敷地の大部分が上野公園になった。 「月の松」松の木を曲げて造ってある。 何故か「野口英世」の像もある。 初めて見た「上野動物園」の入り口。入って見学する時間はなかった。
2023.07.03
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kくんから5月末頃に持ち上がった話で、「ぶらり東京3日間」(6月26日~28日)という手頃なツアー旅行があるので高校の「八期歴史旅歩き会」で行こうということになった。スマホに新しく「「八期の東京歴史ツアー仲間」というLINEを立ち上げて仲間を募ったが、コロナ前は70代でこういう旅の誘いにも鹿児島から10名以上が名乗りをあげていたものが、コロナと80歳遥かにを越したというからなのか、5人で行くことになった。もっとも大々的には呼びかけていないので、今回はこのメンバーで行くことに何も不足はなかった。Kくん、Mくん夫妻、N嬢、クマタツの5人である。5人の中でKくんは東京に一人残って東北方面に一週間ほどの一人旅をするということで、同じツアーの飛行機には乗ることが出来ず、初日は別行動になった。というのが私達のツアーの初日は「東京の名所観光」という謳い文句で羽田空港から観光バスに乗って「築地場外市場」~「浅草」~東京スカイツリーなどを巡るコースがついていたからだ。Kくんも遅れること30分くらいで羽田に到着し、中学時代からの友人たちと銀座でランチをとる予定になっていた。翌日からは私達もフリーで過ごすツアーなので、27日、28日は合流して東京在住の八期の仲間たちと一緒に過ごす事になっていた。 先ずバスで案内されたのは、築地場外市場。youtubeで見て最近は外国人も多く、有名店には大行列ができると知ってはいたが、実際は思っていた以上の混雑ぶりで、与えれた2時間のうちに1時間くらいはすぐに経ってしまった。いよいよ昼ごはんをと思ったが、海鮮料理などの店は行列で、いつ食べられるかわからないし、そうでないところは不当に高いかでそこまでの価値があるかとも思う程の値段である。(結局何を食べたかは今のところ秘密)(爆) 築地本願寺(浄土真宗)昼食を終えて、集合場所に行ったが集合時間まで20分くらいの余裕があった。私は自動販売機を見つけて「水」を買おうと思い、一人で集合場所を離れて動きまわった。(あとで聞くとすぐ近くにあったそうだが、私は無駄に動き回ったことになる) 歩いているうちに「築地本願寺」への方向案内版を見つけた。距離も大したことはない。せっかくだから見ていこうとそちらに夢中で向かった。到着してバタバタと動き回り写真を10枚くらい写した。時計を見ると10分位ある。これなら集合時間まで余裕だ。そう思って来た方向と自分で思った方に急いで向かった。歩いても目印だったガンセンターの建物が見えてこない。そこから私の迷走が始まった。 歩きまわるうちに銀座近くにあるという「歌舞伎座」らしき建物が道路向かいに見えた。もう時間はないというのにしっかり一枚だけ写真を写した。(あとで調べると思った通り歌舞伎座だった)それからは、道行く人に「築地場外市場はどちらでしょか」と聞いてその方向に向かった。しかしなかなか見た風景に戻れない。その後も二人に聞いてやっとたどり着いた。約束の時間を10分経過していた。私はバスに乗り込むなり「皆さん すみませんでした。10数年ぶりの東京で迷いました」と平身低頭した。なかには「よか よか」と慰めの言葉をかけてくれる人もいた。このツアーは熊本、宮崎、鹿児島で募集して羽田で合流して同じバスに乗るツアーだったことを後で知った。 次に向かったのは「浅草」仲見世通りも大賑わいだ。外国人がここも多いが、中には浴衣姿の女性外国人もいる。和服姿は京都だけかと思っていたが、この調子だと日本国中の有名観光地は、今やこのような姿を見ることができるのだろうか。 私も浅草は数回訪れているが、この前に訪ねたのは平成9年(1997)11月22日、日比谷のイイノホールにおいて私達の男声合唱団「楠声会」が東京公演をやったのだが、その翌日、北九州時代の合唱仲間のTくん夫妻と私達夫婦4人で忠臣蔵の泉岳寺から浅草にまわった日以来であった。そのとき「どぜう」に行って美味しい鰌の料理をごちそうになったのは忘れられない思い出である。 御本尊 聖観世菩薩を奉安することから観音堂とも呼ばれる。 浅草寺の五重塔
2023.06.30
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永井隆博士の如己堂を後に、電車の一日乗車券を使って大橋電停から電車に乗り、長崎駅前で乗り換えて大波止電停で降りてオランダ坂に向かう。長崎に3年間住んだこともあり、その後も数え切れないほど長崎を訪ねるがオランダ坂に行ったのは50年くらい前のことだっと思う。そういうこともあって今回は訪問地の大きな目標の一つであった。上の写真の場所に立つとここでも昔のことなど思い出して、感無量だ。何気なく坂の下を振り返ると何やらオランダ風? の洋装の美人が坂を登ってくるところだった。京都あたりで着物に着替えて散策する姿はテレビなどでお馴染みだが、ここ長崎でもこういう着替えての散策などが流行しているのか、この日は他でも2組くらい出会った。長崎のこのような場所にマッチしていいものだ。 居留地時代に建設された多くの私学に関する歴史的資料を展示している国指定重要文化財だという。ラッセル記念館とも言うが、名門・活水学院創始者エリザベス・ラッセル女史が創始した女学校で、現在は中学、高校、短大、大学がある。1868年に建設されたもので東山手地区では現存する最古の遺構であり、外国人居留地を代表する洋風建築である。1941年に学校法人活水学院に譲渡され教室として使われていたが、1976年長崎市に寄贈され、2005年に「旧居留地私学歴史資料館」としてオープンした。 明治中期に建てられたブルーの洋館。昭和初期から中期にかけてフランス代理領事アンドレ・ブクリ氏が住んでいた外国人居留地の代表的な建物である。木造2階建て寄せ棟造りで2007年には国登録有形文化財にしていされて、CMのロケ地としても知られる。朝から浦上地区をさるき続けて、疲れていた私はここで一息入れようとここの喫茶店に入った。親切なおばさんがいて、いりおいろ話しかけてきたので、その昔、私も長崎に住んでいたことな話すことだった。カステラセットを注文し、カステラに冷たいクリームを挟んだ珍しいものとコーヒーで一息ついた。 世にも名高い「活水女子大学」。 東山手洋風住宅群の下に孔子廟がある。 洋風建築群の一角 海星学園は中・高の私立一貫校であり、フランス系カトリックのマリア会が運営する。ミッションスクールであり、2022年に創立130周年を迎えた歴史のある学園である。海星高校のことで私が一番記憶に残っているのは私が長崎在住の1976年の代58回夏の高校野球甲子園大会での活躍である。ピッチャー酒井圭一を擁する海星高校が甲子園で大活躍してベスト4になったが、準決勝戦でPL学園に惜しくも2対3で破れた。当時酒井投手はネッシーになぞらえて「サッシー」と呼ばれて大ブームを引き起こした。私が営業でお得意先をまわってもサッシーの話で持ちきりだった。長崎の街中がその話題で沸騰し、テレビ観戦のため有給休暇をとったお客さんもいた。その年のドラフト会議で酒井投手は鳴り物入りでヤクルトに入団したが、残念ながらプロ野球での活躍は華々しくはなくて、むしろチームメイトで阪神タイガースに入団したセカンドの平田勝男の方が大活躍したようだ。平田は現在は阪神の2軍監督をつとめている。
2023.06.11
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松山公園を後にして平和公園に向かう。まだ朝の8時半頃だったが、平和祈念像に向かって歩く人々の姿が見える。この平和祈念像は長崎出身の彫刻家・北村西望氏の作になるもので高さ9,7m,重さ30t,材質は青銅である。この像は神の愛と仏の慈悲を象徴し、天を指した右手は「原爆の脅威」を、水平に伸びる左手は「平和」を、軽く閉じた瞼は「原爆犠牲者の冥福を祈る」という想いが込められいるという。 この平和公園は私の長崎時代の勤務場所の後ろ側の小高い山の上に作られており、住んでいた場所も歩いて20分くらいの場所だったので、休日には家族5人でよく遊びに来た場所でもあり、今回訪ねても色々な想いが去来した。 この平和公園は「長崎刑務所浦上支所跡」である。下の案内板にあるように原爆落下当時は収容者81人がいて、職員等も含め134人全員が亡くなった悲劇の場所でもある。 刑務所跡地 平和公園には様々な平和を祈念する像が置かれている。 「平和の泉」 直径18mあるという。水を求めて亡くなった人々の霊に水を捧げて冥福を祈り、世界恒久平和と核兵器廃絶の願いを込めて浄財を募り建設された。昭和44年(1969)完成。 碑に書かれた被爆した少女の手記が喉の乾きを訴える。 平和公園の坂を下り、次に向かったのは浦上天主堂である。 天主堂への坂の途中から振り返ると桜が満開で、左側にはキリスト教関連の施設が見えた。 以前書いたブログにもあるが、被爆した石造が天主堂の左手前に当時の姿のまま保存されている。 なんと以前は気づかなかった狛犬をここでも発見して驚いた。 浦上天主堂を後にして「長崎市永井隆記念館」に向かう。ここにも数回訪れたことがあったが、数年前に高校の同期会の旅で訪れて観光バスに乗った時、ガイドさんが永井博士の「この子を残して」の書き出しの部分を朗読してくれたことがあり、その時私は大きく心を揺すぶられた。今回はネットでその青空文庫の永井隆博士の「この子を残して」を読んで改めてここを訪れたいという想いに駆られて今回の旅のコースに組み入れていた。 「この子を残して」の舞台になった当時の長い博士の自宅が「如己堂」という形で残されている。永井博士の家族は奥さんと息子の誠一さん、娘の茅野さんの4人家族だったが、奥さんは原爆で亡くなってしまう。子供二人は他所に行っていて助かった。永井隆博士は勤務先の病院で被爆した。 私がバスガイドの朗読を聞いて「この子を残して」を読もうと思った書き出しの部分は次のように書いてある。 うとうとしていたら、いつの間に遊びから帰ってきたのかカヤノが冷たいほほを私のほほにくっつけ、しばらくしてから「ああ、・・・・・お父さんのにおい・・・・」と言った。この子を残してーーこの世をやがて私は去らねばならぬのか! 母のにおいを忘れたゆえせめて父のにおいなりとも、と恋しがり私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさな心のいじらしさ。戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばまらぬ運命をこの子は知っているのであろうか。 続く 続きを読みたい方は「この子を残して」でウエブ検索すれば出てきます。是非読んでください。戦争がいかに悲惨なものであるか、また現今の核兵器の脅威をどのようにしてでも阻止しなくてはならないかを思い知らせる一文です。
2023.06.01
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一本柱鳥居の山王神社後に次の訪問地の松山公園に向かう途中「長崎大学」の入り口を通る。下の写真は大学への道。 しばらく歩くと右側に長崎原爆資料館がある。資料館の道路を隔てて中華料理の「寶来軒」がある。ここのちゃんぽんや皿うどんも美味しいがまだ朝も早く開店していない。 今日からは50日くらい以前の3月28日の写真なので、季節外れのブログ更新になってしまった。ここは78年前、長崎市の原爆落下の中心地がある場所で周囲は広い公園となって、今では長崎で平和を願う一番の地域となっている。 私が今からおよそ50年前に3年間勤務した職場はここから5分もかからない場所にある。職場の住所も「平和町」である。当時は営業職で忙しく昼休みなどにここらを歩くような余裕もなかったが、一線を退いた後、九州管内の監査の仕事をするようになり長崎には5年間毎年この桜の満開の時季に訪れて昼休みはこの周辺をぶらついたものだった。その時の記憶が今回も私を長崎に誘ったのだった。 桜を見ながらいよいよ原爆落下中心地へ。 御影石の「原子爆落下中心地碑」に到着。ここは祈りのゾーンの中心地地区である。この上空500mで炸裂した原爆は一瞬にして多くの尊い人命を奪った。現在は被爆の史実を伝え、被爆により亡くなられた方々のご冥福を祈る空間として整備されている。 ここから歩いて10分もかからない浦上天主堂のい遺壁がここに移設さている。大正3年(1914)に天主堂、大正15年(1925)のその双塔を完成させた浦上天主堂は東洋一の壮大さを誇った。しかし、原爆によりその浦上天主堂はわずかな堂壁を残して崩れ落ちた。この遺壁は聖堂の南側の一部を移設したものだという。 移設された遺壁の下に面白いモノを見つけた。狛犬ではないか?西洋的なモノと東洋的なモノの共存に驚いて写真を写した。 すごい迫力の狛犬である。
2023.05.19
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長崎の朝、二日目も快晴だ。ホテルの窓から工事中の駅周辺の様子と海が展望できた。前日、博多で長崎行きのバスに乗り継ぐのに自分の勘違いで1時間のロスを生じたので、前日行く予定の浦上方面の訪問もこの日に持ち越してしまった。この日はハードなスケジュールをこなさなければならないので、朝8時にはホテルで「電車一日乗車券」@600円也を購入して出発した。普通の路線バスもsanQパスを使えばお金をそれ以上支払うことは無く乗れるのだが、長崎市内を巡るには、一日乗車券が効率がいいからだ。春休みで観光客が多く、電車に乗り合わせた人々は、殆どが一日乗車券を手にしている。 長崎駅前電停から乗車し浦上駅前電停で降車し、10分くらい? 歩いて一本柱鳥居の山王神社に向かう。長崎に3年間住んだことがあり、その後も数え切れないほど長崎を訪ねた私だが、山王神社には行ったことがなかった。一本柱鳥居の山王神社を訪ねることは今回の旅の大きな目標の一つでもあった。 目の前に現れた一本柱鳥居を見たときはその異様さに驚き、被爆以来78年もの間この姿で世界に平和を訴え続けてきたのだと思うと胸が熱くなった。 被爆して壊れた左半分は、このような形で保存されている。 日本二十六聖人殉教地へと続く浦上街道沿いにある山王神社は、爆心地から南東約800mの高台にあり、昭和20年(1945)8月の原爆投下により被害を受けた。社殿は跡形もなく崩れたが、昭和25年(1950)に再建されて現在に至っている。山王神社の参道は元々鳥居は四つあったと言うが被爆により、その二つが強烈な爆風により倒壊した。残った鳥居のうち一つは戦後、交通事故により撤去されたため現在も当時のままの姿で立っているのは右半分のみ残した一本柱鳥居のみとなってしまったのだ。 これを読むと坂本町がほぼ全滅した状態だったことがわかる。しかし、このような被害を長崎市内ではたくさんの地域で被ったのではと思うことだった。 被爆した楠が残されている。 本殿
2023.05.15
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長崎市に「本蓮寺」というお寺があることを知ったのはブロ友「ローズコーン」さんのブログに屋根の葺替えの記事が断続的に書かれたからである。ローズコーンさんのご自宅の下に位置する本蓮寺の葺替えの進捗具合が写真入りで紹介されたので大きなお寺だということもわかった。そして葺替工事が終了したことが2022年11月21日のブログで紹介された。私も大きな興味が湧いて今度長崎を訪ねたら見学しょうと思っていた。日本二十六聖人記念像の見学を終えて西坂公園を降ろうとした時、地元の方らしい散歩に見えていた男性に「この辺りで、最近お寺の屋根の葺替えをされたところをご存知ないですか」と尋ねてみた。すると、その男性は公園の上から少し下の左側の方向を指さしながら「あそこのお寺さんですよ」と親切に教えてくださった。お礼を言って私はその方向に向かった。歩いて5分も経たずに着いたのが上に写真の場所。左側の門柱に「本蓮寺」と書いてある。 そしてお寺の階段を上がる前に左側に「勝海舟寓居の地」という石碑があった。 以前、ここにあった大乗院に宿泊していたとのことだ。 その隣にもう一つ石碑があった。「サン・ラザロ病院」「サン・ジョアン教会」のそれぞれの跡地だと書いてある。 階段を登ってお寺の敷地内へ進むと沢山の歴史を語る石碑に出会う。 下の写真の「本蓮寺二天門」の案内板によると本蓮寺は元和6年(1620)の開創というから歴史がある。 先程の石碑群の前を進むと更に右方向に階段があり、その上に本堂が見えた。いよいよ本堂とご対面である。 階段を登りきったところに鐘楼があった。風格がある。 本堂。ここで手を合わせた後、本堂の左側にある墓地に行った。 もう午後6時位になっていただろうか。夕方の気配が漂いはじめていた。ここにしばし佇んで、ローズコーンさんのお導きで由緒ある本蓮寺を見学することができたことを感謝して、本蓮寺にサヨナラをした。が先の旅
2023.05.13
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上のなんとも奇っ怪に見える写真は何だと思いますか。本当は見事な芸術作品なのだが写した私の腕が悪いせいで何が何だかわからないものになってしまっている。 テレビで、あるいは現地で見られた方もおられると思うが「日本二十六聖人記念館」の建物の壁に描かれた壁画だ。私が今回、長崎への旅に出発する4日前の3月23日(木)午後8時15分から8時40分までNHKテレビで「たびプラ! 長崎 モザイク壁画に寄り道旅」という番組が放映された。私は長崎に行く直前でもあり、大きな関心を持って番組を見た。 番組は俳優・野間口徹とモザイク愛好家で案内人の森上千穂が長崎市内に点在するモザイク壁画を訪ね歩くというものだった。数ヶ所訪ねた後、最後にたどり着いたのが西坂公園にある「日本二十六聖人記念館」。番組を見た私が勇躍写した意味不明に見える上の写真のモザイク壁画である。 下の写真から以下は当日の番組を私がテレビを見ながら写したものである。私の奇っ怪な写真の正体はミドリ色になっている部分を右斜め下の門扉の外から写したものである。私が行ったときは鉄の門扉に鍵が架けられており真下に入ることはできなかった。 この写真は上の写真の記念館の右側に見えるフィリッポ教会の二つの塔のモザイクだが、見事なものである。 テレビでは真下から写したと思われる映像があった。これならわかりやすい。素晴らしい芸術作品である。このモザイク壁画は今井兼次氏の設計になるもので1962年に完成したという。今井氏は26人の聖人が歩いた京都から長崎までの道をたどり、途中の窯元で焼き物をもらい受けたが、それでは足りず、長崎のこの近所の人とか料亭・花月からも貰い受けて完成に至った。 下のモザイク壁画は「信徳の壁」という。 これは敷地外の外の建物の2階か3階、あるいは屋上から写したモザイク壁画の上半部のものと思われる。 一部分を写したもので皿か花瓶の一部分かと思われる。 長崎らしい十字架もところどころにあった。これらも全て焼き物のかけらを使ったものだろう。 私もこれまでに何回も西坂公園は訪ねているが、3月23日のテレビ番組を見なければ今回このように見ることもなかっただろう。日本二十六聖人像と記念館は訪ねてもこれを知る人は少ないと思う。今回たまたまテレビを見ていたことで是非とも見ようと思った願いが一つ叶った嬉しい出来事だった。 反対側の壁面にある「望徳の壁」。ここには全く割れていない沢山の皿が使われているという。 今井氏の亡き奥様の愛用の皿だという。番組では記念館の方も案内されていたが、「先ず長崎に人々にこういうものがあるということ知って見ていただきたい」と言っておられた。私は長崎を訪れる人は一見の価値ありと思うので沢山の人々に見てもらいたいと思う。
2023.05.11
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3月27日(月)快晴に恵まれた朝7時40分発の高速バスで福岡に向かう。出発点は上の写真に見る鹿児島中央駅前の南国交通バスターミナル。上の写真の大きな建物・南国センタービルの一階にある。下の写真は南国センタービルの対面に位置する鹿児島中央駅のビル群。 福岡に到着したのはいいが、博多バスターミナルと天神高速バスターミナルを勘違いしていたこともあって乗り継いで長崎に向かうつもりだった高速バスは既に出発していた。それでも1時間後の13時16分発が座席に余裕があったので乗車することができた。旅の始まりからハプニング発生である。長崎駅前の終点に着いたのは15時49分。この1時間は大きかった。 長崎駅に西九州新幹線が来るようになって初めての訪問だ。2023年秋の駅ビル一帯の完成に向けて当然のことながら新しい駅周辺は様変わりし、現在も写真の様に工事中である。完成した暁にはまた訪ねたいものだ。 一方で駅前のビル群は昔とほぼ変わらずホッとする。ここでsunQパスはどんなものかと簡単に紹介すると、今回私が購入したパスは九州一円と下関のバスと一部フェリーが4日間ほぼ全部乗り放題で@14,000円。但し高速バスは座席予約が必要となる。 朝、バスに乗る前に南国センタービル内のコンビニでパンや野菜ジュースなど一式買い込んでバスに乗り、朝食を済ませたのだが、昼を食べる予定の博多でハプニングのためバス乗車券の変更などに走り回ったため、昼は抜いた状態で長崎に着いてしまった。そのためJR九州ホテル長崎にチェックインし、新しい駅ビル内にできた「かもめ横丁」で中途半端な食事を摂ることにして、事前にチェックしていた「五島うどん」の店に入った。長崎の諫早市に住む高校の同期の友人が数年前に五島うどんを贈ってくれて、それが大変おいしかった記憶があったからだ。見かけの通りおおきなごぼ天や肉も入った期待に違わぬもので空腹もあり一気に食べ尽くした。 お腹も満ちて一息入れたところで、駅から10分くらいの場所にある「日本二十六聖人殉教地」(西坂公園)に向かう。これまでも何回も行った場所だが、これまで気づかなかった日本二十六聖人殉教地の100m手前で「北瀬崎米蔵跡」の案内板が目についた。 案内板から100mくらい坂道を登ると、もうそこは西坂公園である。 「日本二十六聖人殉教地」については2017年1月17日の当ブログに「熊本から長崎へ」という表題で書いているのでここでは省略する。 ここは何時来ても敬虔な気持ちになる。
2023.05.08
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宝満寺跡を後にして私達バスツアーの一行は武家屋敷地区に案内された。私の目に最初に飛び込んできたのは、小さな神社・若宮神社である。そこで見たものは阿像と吽像が向き合った仁王像である。上の写真が小さくて見えにくいが注意して見ていただければわかるように2つの仁王像が向き合っている。私も数多くの仁王像を見てきたが、このように対面している仁王像は初めて見ることだった。 下の写真は吽像 廃仏毀釈の影響を受けていないのかきれいに原型を留めている。 こちらは阿像 これもほぼ原型を留めている。 下の案内版の説明にあるように志布志麓でもっとも上位役職にあった福山氏の屋敷の門。 老朽化のために数年かけての改築改修の途中だったが説明を聞きながら見学することができて幸運だった。 瓦などもきれいに整理されて、次の出番を待っていた。 庭園は筑山枯山水様式で宝満寺と背後の山並みを借景として取り入れている。筑山前の広い庭が武芸の鍛錬場だったのではとのことである。 バスツアーも最終コースへ。ここ志布志市のある大隅半島は日本一の養殖ウナギの産地である。バスが寄り道したのは道の駅ならぬ「うなぎの駅」。 このバスツアーについていたクーポン券を持っていたので「うなぎの蒲焼」を買って帰った。
2023.04.04
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公園を入って右側に架かる石橋と真ん中辺りにある「延命橋」というレンガ造りの橋。いづれも歴史を感じさせる。 「下馬」という石造物が残されていた。お寺に入る時にここで馬から降りたらしいが、宮中から賜ったものらしい。 二体とも地蔵菩薩 廃仏毀釈の後、建てられた「観音堂」。安産の寺としても知られる。ここには運慶作と言われる如意輪観音が安置されていたが、廃仏毀釈のとき行方不明になったという。 阿弥陀如来立像 鹿児島県内で私がこれまで見た石像仏の中でも数少ない「不動明王」像がここ宝満寺跡に残されていた。怒りの表情をし、背後で炎がメラメラと燃え盛っている。 宝満寺の由緒が書いてある。
2023.04.02
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好きなことになると年齢を忘れて突っ走る悪いクセが出る私だが、今回は気分転換の旅と称して九州内と山口県の下関までを4日間バスと一部船舶乗り放題というsunQパスを使って一人旅に出た。このところブログ更新も停滞して、12月に訪ねた志布志方面の史跡を巡るツアーや最近訪ねた日置市永吉や伊作方面訪ねた旅も途中だったり未だ手もつけていない状況である。 そういう中ではあるが、3月27日から30日までの4日間のバス旅の予告編みたいな気持ちで長崎と別府の代表的な写真を紹介して、本編は何時書けるかわからないので予告編としたい。 上の写真は、長崎市の東山手にある「オランダ坂」で写したものである。長崎を訪れた人なら必ずと言っていいほど訪れる場所だが、私は3年間長崎に住んだ約50年くらい前にオランダ坂を訪ねて以来、その後の長崎訪問でも訪れていなかった。今回はどこを差し置いてもオランダ坂には必ず行こうと思って出かけたのだった。念願かなって晴天のもときれいなオランダ坂を写す事ができた。 下の写真は別府鉄輪温泉地区にある白池地獄。鉄輪地区には「地獄めぐり」の観光バスが7ヶ所行く地獄の中で5ヶ所が集中しているまさに地獄のメッカである。もちろんその7ヶ所以外にも「山地獄」などみたいに入場料金を支払わないと見ることもできない地獄など多彩である。私はその地獄はこれまでも何回も見たことのある場所もあったが、初めてのところを目指して行った。しかし今回も時間や場所の都合で全てを踏破することはできなかった。次回の楽しみとしたい。 ただ、今回は12月の出来事を引きずっていたので、実際には心から楽しむばかりの旅にはならなかった。逆に長崎では私と同じような年齢のご夫婦が旅をされている姿や家族連れなど数え切れないほど遭遇したが、陰ながら「いつまでもお元気で!」と思わずにはおられなかった。 写真も数え切れないほど写してきたので、がんばってできるだけ早く本編も書きたいと思う。
2023.03.31
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大慈寺訪問を終えた私達バスツアーの一行が向かったのは「宝満寺跡」。現在は「宝満寺公園」として広い敷地のままいろいろな史跡が残されていた。 所在地は鹿児島県志布志市帖6530番地。史跡「宝満寺跡」は、廃仏毀釈によって明治2年(1869)廃寺となった律宗秘山密教院宝満寺の遺跡である。宝満寺は聖武天皇の神亀年間(724~728)の創建と伝えられ、西和5年(1316)院宣を受けた信仙上人英基和尚によって再興された勅願寺でもある。本尊の如意輪観音は元応2年(1320)本山の奈良西大寺より下向された、仏師運慶の不朽の名作といわれ、安産守護として霊験あらたかで、日向・大隅・薩摩の人々に厚く信仰されており、安産の護符も発行されていた。また花嫁を馬の背に、花婿が手綱をとるシャンシャン馬の参詣風物もこの地に始まるとされている。 足利直義(ただよし)は興国元年(1340)当寺に一国一基の塔婆を建てさせ、仏舎利二粒を奉納している。宝満寺は古来「院参(上皇に謁見できる)」の寺格を有し、御桃園天皇の時、勅許を得て「参内(上皇に謁見できる)」も許された名刹だった。 坊津一乗院と並び、「西海の華」と呼ばれた美しい伽藍の宝満寺は、廃仏毀釈により、華麗な堂宇や一切の什宝・記録等が失われたが、旧敷地跡に庭園・下馬札・隈田原兄弟仁王像・歴代住職墓地等を残し、岩窟や背後の自然林と調和して、往時の様子を偲ばせてくれる。(案内板より抜粋) 隈田原兄弟の仁王像廃仏毀釈により、このような姿になったのか仁王像の名残を留めるくらいにしか見えない。応永8年(1401)の島津家の内乱の時、犬ノ馬場(いんのばば)の戦いで戦死したと伝わる隈田原兄弟の武勇を偲んで、建立されたものだという。 この時代は島津元久(島津家第7代当主で奥州家第2代当主)の父である島津家第6代当主ともう一人の第6代当主・師久(もろひさ)(総州家)が並立した時代で、それぞれの子である元久と伊久(これひさ)がそれぞれ第7代当主となった。この6代と7代が二人づつという形は島津家700年という長い歴史の中でもこの時代だけである。しかし、並立の時代は長くは続かず元久側に統一され8代当主には元久の兄弟である久豊が就くことになる。このあたりのことはwikipedia「島津元久」の項に詳しいが、応永8年、渋谷五氏のうち鶴田氏を除く四氏が伊久に味方したため奥州家、総州家は絶縁状態となり、薩摩国内が争乱状態となるが、最後は先述の通り元久側に統一されるのである。隈田原兄弟もこの争乱での戦死だと思われる。 志布志麓について地元の歴史語り部のボランティアの説明があった。その中で私の興味を惹いたことがある。それは島津元久が鹿児島市の「清水城」(後、大乗院を経て現在私の母校である清水中学校になっている)を築城の際に、ここ志布志に似せて造ったと言う話だ。なるほど上の「志布志まちあるきマップ」を見るとわかるのだが、両方とも川を挟んで志布志城と清水城が造られている。 私は「放浪の俳人・種田山頭火」のことについては詳細は知らなかったが、この案内板を見て大きな興味をもったので、志布志を訪れた案内板と歌碑をここに紹介した。 庭園は自然林と大岩盤を背景にして、湧水で池をめぐらしたもので、一部を除き旧状のまま残されている。少し紅葉も残っていて素晴らしい景観だった。 宝満寺本堂跡の表示もある。
2023.03.21
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大慈寺の中を歩いていると墓所のある場所に行き着いた。石造物に興味を持つ私は、久しぶりの珍しい墓標群に驚いた。真ん中にある月輪(がちりん)の墓標は特に珍しく久しぶりの発見であった。(その後、今後書く予定の先日訪れた日置市伊作の海蔵院跡を訪れた時に伊作島津家墓地で奇しくも月輪塔の墓標を見た。幸運は続くものだ) 45代住職・龍雲和尚の墓。詳細は上の説明板をご覧ください。 尼さんの墓? 月輪型の墓標 大慈寺柏州和尚の墓文久2年に京都妙心寺への招請の際、島津久光らの密命を朝廷に伝える。のち廃仏毀釈で廃寺になった大慈寺を再建する。 下は楡井頼仲公の墓の説明板 楡井頼仲公の墓 苔むした墓標群
2023.03.18
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志布志市のまち歩きをしながら史跡を訪ねるのは初めてのことで私も興味津々だった。先ず志布志の歴史について志布志市総合観光案内所の「志布志まちあるきマップ」をひもといてみよう。 志布志の地名は、天智天皇遷幸の伝説の中で、天皇に布を献上した妻女の優しい心にならい、召使いの女性もまた布を献上したところ、天皇は上下その志の厚いことを喜ばれてこの地は志布志であるといわれたので、以来高浜の庄と呼ばれていたこの地方を志布志と呼ぶようになったと伝えられている。なお、志布志の地名が文献上に初めて現れるのは、鎌倉時代末期の1316年、宝満寺再興の折、志布志津の一角を宝満寺に寄進するという文書に見ることが出来る。 平安時代この地域は救仁院(松山・志布志・有明東部)と呼ばれ、前川の河口部は国内最大の荘園(島津荘)の水門(みなと)としての役割を果たしていた。 南北朝時代になると志布志城(山城)を居城としていた島津氏久(当時当主が二人いた内の一人で6代当主)が1374年に明国に使者を派遣しており、当時から中国や東南アジアと交易があったことは山城の出土品からもうかがえる。また口伝としての「志布志千軒まち」の呼称は、すでに中世に優れた海運力を持つ港町として、繁栄していた様子を物語る言葉と考えられる。 藩政期の志布志は、島津領日向国唯一の浦町として、京阪や南西諸島との廻船で潤い、幕末には密貿易も盛んに行われ多くの豪商を輩出した。 現在の志布志港は1969年(昭和44年)に国の重要港湾の指定を受け、2013年、国内屈指の畜産地帯を背後に飼料の原料となる穀物等を輸入する、国際バルク戦略港湾に選定されるなど、さらに発展していくことが期待される。(以上パンフレットから引用) このように私が思っていた以上に昔から大隅半島にあっては、重要な地位を占めていたことを知った。現在も大阪南港とフェリーが行き来し、石油基地もある大隅半島の海に開かれた玄関口になっている。 上のように案内板も設置され志布志市は観光にも力をいれていることがうかがえる。先ず向かったのは、大慈寺。門前には歴史を物語るような仁王像があり、私たち一行を出迎えてくれた。 この阿形像はほぼ完全さを保っているが、上の写真の吽形像は廃仏毀釈で傷つけられたのか右腕がない。この吽形像は下の写真の解説文にもあるように当寺のものではなく、他の寺から運んできて一対としたそうだ。 龍興山大慈寺という立派な石造の門柱が建てられている。大慈寺は室町時代創建の禅寺。かって領内に70余りの末寺を所有し、その一つの能学寺(鹿児島市)には、西郷隆盛や大久保利通らも柏州和尚の教えを受けに通ったと伝えられている。柏州和尚は藩政にも深く関わり、第12代藩主・島津茂久、国父・久光の要請に応えて朝廷との橋渡しを行い、久光上洛の道筋をつけたという。 歴史を感じる寺の建物が残されている。 手水鉢
2023.03.03
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鹿児島県大隅半島にある曽於市財部町の「清流の森 大川原峡」を散策の後、私達バスツアーの一行は続いて掲題の「悠久の森」を訪ねた。曽於市のホームページによると、緑ときらめきの感動を与えてくれる森を子孫に引き継ぎ、永久に残していく目的で「悠久の森」と名付けたという。森の恵みを一年を通じて体験することができ、春の若葉や秋の紅葉、そして四季折々のワラビ、アケビ、木の実など森の宝を見つけることができるという。 実際にその通りで、この寒い時期にもかかわらずたくさんの花と木を見ることがで来て、ここでも引き続き植物に詳しいボランティアガイドさんのユーモアあふれる説明に聞き入ることだった。 途中には目を見張る滝もある。ここでガイドさんから興味のある話があった。この滝の左側に見える階段を登っていくと「山神」の石造物があるという。しかし、この日は「山神」のところには登る予定はないという。 石造物の大好きな私は、好奇心をくすぐられて、この先に進んで引き返し点まで来たところで、人よりも早く歩いてこの階段を一気に駆け上った。 上った先にあったのがこの「山神」。思わぬ出会いににんまりして写真を撮った。帰宅してネットで「山神」の作られた経緯など調べてみたがそのような記事はヒットしなかった。ただこの滝を「山神の滝」というらしいことはわかった。 今回のバスツアーの呼び物の一つであったランチのことだが場所は「道の駅 すえよし」にある「レストラン 四季祭」。下の写真はねっとから借用したが「道の駅 すえよし」の一角にある。 呼びかけで「地元でとれた旬の食材をふんだんに使った和洋中バラエティー豊かなビュフェ形式のレストラン。九州・山口のじゃらんの道の駅満足度ランキング第一位の有名店である。」とあるが、一見田舎風の素朴な料理に見えるが、食べて納得、特に高齢者に向いた美味しい料理であった。私は、この後、お代わりもして、デザートのケーキなどもたくさん食べた。しかし、さすがに満腹でゼンザイまでは行き着くことができなかった。次はいよいよ志布志市の史跡めぐりに入ります。
2023.02.12
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(上の写真のバスを利用した) 昨年の12月2日(金)妻と日帰りバスツアーに出かけた。これが妻との最後の旅になるとは夢にも思わず、何かと慌ただしい年末を控えて楽しんできた。称して「全国遊歩100選の森認定 ”悠久の森” ウオーキングと志布志新発見散策・行列のできるランチバイキング」という盛りたくさんの内容であり、県民割引やクーポン券もついて大変お得な旅でもあった。 先ず訪ねたのは曽於市財部町(そおしたからべちょう)にある、「清流の森 大川原峡」である。まだ所々に残る紅葉がキレイだった。ここにはキャンプ場、バンガロー、テントの備えもあり、又オートキャプ場としても夏場は賑わうそうだ。 歩いていてもきれいな水の流れに癒やされた。 当日は植物に詳しい地元のボランティアガイドの男性が、ユーモアたっぷりに花の説明などしてくださって、花の知識のない私も楽しむことができた。 ここは曽於八景の一つ落差12mの桐原の滝。さらに下ると浸食作用でできた溝之口岩穴、県境を越えれば世界一のおう穴群で有名な関之尾滝につながっているそうだ。 大小の岩が約2Km余り続く美しい渓谷で夏場は涼を求めて多くの人で賑わうという。 次はこの近くにある「悠久の森」を紹介する予定です。
2023.02.10
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ここは南岳山 東長寺 真言宗別格本山である。弘法大師が日本で最初に開山した密教寺院で日本で一番古いとのことだが、私も今回訪ねるまでは全く知らない寺院であり、由緒も知らなかった。その由緒を知って驚くばかりだった。 2階の大仏殿には木造坐像としては日本最大級の大きさを誇る福岡大仏があり、大仏の台座内には地獄・極楽めぐりが設置されており、おどろおどろしい地獄絵風のレリーフの先には通路があった。手すりを頼りに進んだが、久しぶりの暗闇の体験だった。以前似たようなことは大昔行った四国の八十八ヶ所巡りの中のあるお寺で体験したことがあった。手すりを頼りに進み、途中にある「仏の輪」に触れれば極楽に行けるとかいう話もある。 下の大仏の写真はネットから借用した。 六角堂の説明板と写真。 黒田家二代忠之公、三代光行公、八代春高公の墓所がある。 この五重塔は比較的新しいもので平成23年に完成したという。純木造ひのき造りで美しい姿を見せている。5階の瓦のすぐ上にある相輪の伏鉢に空海が持ち帰ったといわれる仏舎利(釈迦の骨)が納められている。 石像の仏様が多数安置されていた。 前後するが「櫛田神社」を出てすぐのところに「博多町家」ふるさと館があり、見学することができた。
2023.02.05
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海彦の海鮮丼でお腹を満たした後、12時30分に福間駅に向かう。この日は妻の妹の運転である妹の運転の車も安心して乗っていられる。思っていたよりも大きな駅である。福津の街も大きい。13時前に妹夫婦と別れて、JRで博多駅へ向かう。 博多駅から地下鉄に乗って「櫛田神社前駅」で降りて、櫛田神社に向かう。私は現役時代に博多には1977年、37歳の山口の徳山勤務時代から2005年、鹿児島で65歳でリタイヤするまでの28年間、毎月一回は支社会議出席のため行っていた。それだけでも336回だがその他の臨時の会合などを含めると350回はゆうに超える参勤交代をしていたことになる。ただ、当時は日程も気持ちの余裕もなく日帰りか飲み会があれば一泊するくらいで当然のことながら観光をすることなどなかった。そのため、この機会にいくらかでも博多の街を巡ってみようと思ったのだ。 特に櫛田神社は博多の祭り・山笠の総本山として有名で博多祇園山笠の模様は毎年のようにテレビ中継されている。祇園山笠はその時期になると博多駅にも飾られるので博多に行く度に見ていた。10月の「博多おくんち」も有名である。そのため祭りそのものはともかくとして櫛田神社には一回お参りしてみたいと思っていたのだ。 広い境内には樹齢約1000年の大銀杏の古木がそびえ荘厳な雰囲気を醸し出している。 櫛田神社の院内に入るには3ヶ所あるが、そのうち一番立派なのがが楼門。「稜威」(いつ)の扁額がある。見落としたが天井には「干支恵方盤」もあるという。 本殿 破風造りで立派なものである。左右に掲げられている風神雷神の木彫りは、よく見ると雷神が「一緒に博多で暴風を起こそう」と誘っているのを風神が圧巻べ~して逃げているのだそうだ。 九州朝日放送奉納の「博多祇園山笠」が常設されていた。
2023.01.22
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宗像大社の本殿における月次祭の見学の後、高宮祭場に向かって坂道を登っていると後ろから先程月次祭を執り行われていた神主御一行が登ってこられた。私たちはその御一行をやり過ごして後ろから付いていった。やがて「高宮祭場」に到着。日頃は立入禁止の祭場に神主3人が座られてここでも月次祭が始まった。 古代祭祀の姿を今に伝える、全国でも稀な社殿のない祭場で、沖ノ島と並び最も神聖な場所だという。そういう場所での祭祀に立ち会えたことに感謝しながら、しばし古代に思いを馳せることことだった。 そこから少し引き返した場所に「第二宮」「第三宮」があった。 第二宮(ていにぐう)には沖ノ島の祭神・沖津宮、第三宮(ていさんぐう9に中津宮の御分霊をお祀りしてあるそうだ。何処に行っても身の引き締まる思いのする神秘的な場所だった。 宗像大社に後ろ髪を引かれながら橋を渡り、幾つかの鳥居をくぐり抜けて外に出た。 この日のランチは海鮮料理屋の並ぶ中から一軒を選び、玄界灘で獲れた魚の海鮮丼を食べた。それが妻に摂っては妹と食べた最後の食事となってしまった。
2023.01.18
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菊花大会を見た後、本殿に向かおうとすると目の前を神主の御一行が歩いている。聞くと、毎月1日と15日の11時から行われる月次祭(つきなみさい)のため本殿に向かっているところだという。しかも私達も見学できるとのこと。なんという幸運だろうか。私達も御一行の後ろについて本殿に向かった。 笛の音に合わせて巫女さんの舞などが荘厳な中に執り行われた。 宗像大社では数多くの祭事がなされているが、中でも10月1日の「みあれ祭」は時にテレビでも全国に放映されるように大島港を出向し神湊港の寄港した後、勇壮な海上神幸、陸上神幸などの後、辺津宮に戻るという祭事である。 本殿・拝殿は弘治3年(1557)焼失した後、本殿は天正6年(1578)、拝殿は天正18年(1590)に再建したもので、いずれも国の重要文化財である。桃山時代初期の神社建築の特色がよく表されているという。 安部龍太郎著の「姫神」の背景について2022年10月11日、当ブログに書いた時に触れたと思うが宗像大社は三つの神社、すなわち辺津宮(へつぐう)、中津宮(なかつぐう)、沖津宮(おきつぐう)により構成されている。なお「姫神」は玄界灘に浮かぶ絶海の孤島「沖ノ島」(沖津宮)を重要な舞台としている。今回私が北九州への旅で宗像大社に10数年ぶりに訪れようと思ったのも、「姫神」を読んで沖ノ島には行けなくても、宗像大社・辺津宮を改めて見てみたいという願望が湧いたからだった。 辺津宮(本社)には市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)を祀り、そこから11km先の中津宮(大島)には湍津姫神(たぎつひめのかみ)、更に49km先の沖津宮(沖ノ島)には田心姫神(たごりひめのかみ)がそれぞれ祀られている。下の地図上で見るように三宮は一直線上にある。 「日本書紀」(720年)には天照大神から宗像三女神へ「歴代天皇をお助けすれば、歴代天皇は祀るでしょう」という言葉が残されている。これは宗像が日本における最初の国際港であったため、海外との外交、貿易、国防的な機能を果たせば天皇が祀るとされ、それは沖ノ島から出土した約8万点の国宝からも国家祭祀の痕跡が裏付けている。国家祭祀とは、天皇の勅使が現地に赴いて、祭りをするというものだが宗像における国家祭祀は出土した国宝の品々からかなり大規模ではなかったかと推測される。沖ノ島の出土品は四世紀から九世紀のものが多く、その間、国家祭祀がどの程度行われてかは明確ではないが古い記録などからも天皇の勅使が宗像に遣わされたことを知ることができるという。(宗像大社ホームページより一部抜粋) このようなことから2017年に”世界遺産「神宿る島」 宗像・沖ノ島と関連遺産群”として世界遺産に登録され、今年はそれから5年経過し様々なイベントが開催されているようだ。 神門前に青銅製の狛犬がいた。文政7年(1824)奉納の「神殿型」という。角を持っているが神を守護しているにふさわしい穏やかだが、威厳のある表情で立派な狛犬である。 阿形獅子 吽形獅子 神郡宗像にあった神社群をときの福岡藩主・黒田光之がまとめ寄進したもので本社の外まわりに121社ほどあるという。
2022.12.17
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旅の二日目は宮地嶽神社参拝の後は、今日の宿泊先・「ロイヤルホテル 宗像」へ。宿の宿泊予約などは苦手という妹夫婦の話で、私達が鹿児島から宿の選定から割引やクーポン券なども含めて全ての手続をしていた。コロナ禍の中で、唯一政府がとったいい施策かと思われる今回の制度をもう何回か使って旅をしたが、いずれも小旅行である。それでも合間を縫っての旅で息抜きに成る。 宿泊した部屋の窓からチャペルウエディング用の小さな式場も見える 大きなホテルだけあって、ロビーも広々として気分も休まる 平日一人3000円のクーポン券もこの日と翌日に使わなければ、無効になるので、ホテルの売店も「地域クーポンご利用いただけます」とPRに抜け目がない。ここでも買い物をしたが、クーポン券を使うと別にプレゼントももらうことができた。夕食も翌朝の食事もバイキングを選択した。下戸の私も義弟に付き合って4人でビールで乾杯! コップ半分も飲まないのにいい気分になった。 3日目はホテルを出て、「道の駅 むなかた」へ。ほぼ開店の時間に到着したが、もう駐車場は満車に近い。店に入ってわかったことだが玄海の海で獲れた魚や野菜がいっぱいで地元の人らしき人がたくさん買い物に来ていた。道の駅とはいえ、観光客のみならず地元に人にとっても大切な店なのだと実感した。ここでも「わかめ」などゲット。 「宗像観光おみやげ館」に入って近辺の観光パンフレットなどをいただいた。 3日目の目的地、「宗像大社」の総社・辺津宮(へつぐう)に到着。私も北九州在住中には子どもたちと一緒にドライブを兼ねて何回も訪れた場所だが、今回は北九州に行ってコーラスなかまの夫婦と訪れて以来、20年ぶりくらいの訪問である。懐かしい大鳥居が出迎えてくれて、一歩を踏み入れた。 入ってすぐの場所に「ボランティアガイド」の皆さんが待機しておられた。ここで、この日、後日書く大きな行事が開催される日であることを聞く。ラッキーだ。宗像大社のパンフレットもいただいた。 本殿に向かう。そこそこの人出でで賑わっている。 「西日本菊花大会」が開催されており、折しも「七・五・三」でもあったので子どもたちが喜ぶ仕掛けがしてあった。 思わぬところで鹿児島県知事に会った気がした。
2022.12.10
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行った日は妻の妹夫婦宅に泊まった北九州は小倉の旅も二日目。朝食を食べた後、少し早めの昼食に小倉南区下南方の「うどんの小町」に連れっていってもらった。ブログを振り返ってみると、2015年に訪ねて以来である。ここの「ごぼう天うどん」はごぼう天も麺もとにかく美味しい。天ぷらも見ての通り特大、うどんも太麺で半透明に見えるほどだが、それでいて歯ごたえ十分である。何やら「津田流 豊前裏打会」の所属という。 美味しいうどんを食べた後は、義弟の運転する車で高速道路小倉南インターから入り、今日の目的地・宮地嶽神社へ。ここは小倉から玄海方面に旅をすること知ったyokota115さんから勧められた神社である。名前は知っていたが、北九州在住中にも一回も足を運んだことがなく、いつかは訪ねたい場所だと思っていた名所の一つである。この機会にということで翌日の宗像大社訪問の前に訪ねることにしたのだ。 下の写真は神社の前の土産物店などが並ぶ商店街。写真の前方にも鳥居があるが、神社には背を向けた場所である。 振り返ると「宮地嶽神社」の鳥居があり、ここから階段を登っていくのがコースである。 私たちは、駐車場を求めてしばらく右往左往したが、鳥居の手前の左側の坂を登っていくと駐車場があることを教えてもらって無事到着。紅葉が綺麗でいい時に来たものだと思って、思わずシャッターを押した。 駐車場から右手に少し登って有名なスポットに到着。夕日が絶景の神社としても知られ、季節と時間が合うと海辺まで一直線に並ぶため見たことのない景色が楽しめるという場所である。来た人が必ず写真を写すとっておきのスポットだ。 石造物が大好きなわたしにとって宮地嶽神社は大変うれしい場所でもある。なんと左右一対の下の写真の様な「狛犬」が私たちたちが歩いていく先々に五対もあった。その他にも、古ぼけた「石灯籠」「六百俵之碑」「人間万事塞翁が馬」「牛」の碑など境内に置かれている。全部写してきたので、いずれ機会をみてここに再度記事として書く予定だ。 本殿前の「楼門」が立派で圧倒された。 ここ宮地嶽神社は、全国に鎮座する宮地嶽神社の総本宮であるという。約1700年の歴史があり、金成の神、開運商売繁盛でのご利益で名高い。 また、直径2,6m 長さ11m, 重さ3トンの大注連縄、直径2,2mの大太鼓、重さ450kgの大鈴の三つの日本一で知られる。 年末、新しい年を前に念願の宮地嶽神社にお詣りできたことで新しい年はきっといい年になるだろう。
2022.12.08
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