お帰りなさい

酔鳳さんの山代温泉紅柿荘思い出石物語「もうこの辺でヨカ」
今回も素敵な物語になりました。
3階の客室に通された二人にお茶を出して客室係の君子さんが、
「お手が空(す)かれましたらコレにご記入をお願いします」
と、出した宿泊カードに大井健さんがスラスラと記入する。
『ABCレコード 美山 かおり 赤坂芸能プロダクション 開発部長 村井 健」
「アラッ、あ客様、レコード歌手なんですか。すごいわ、あとでサインいただいてよろしいでしょうか」
「いいけど、私みたいなウレナイ歌手のサインなんかなんにもならないわよ」
「夕方6時からの加賀市公会堂でのステージが終わって8時ごろ帰って来ますから、それからの食事でお願いします」
「ハイ、かしこまりました。お疲れ様でございます」
午後10時、食事を終えた美山かおりさんと村井健さんが『レッド』に降りてきた。
「ああ、久しぶりに美味しいご飯だったわ」
「そうですか、お気に召していただいて、有難うございます」
ニッコリ笑って女将啓子さんがかおりさんと健さんのグラスにビールをそそぐ。
「ねえ、ケンちゃん。。。私、言ったことがあったっけ?」
「なんですか」
「私の生まれ、九州の鹿児島なの」
「へえ、鹿児島・・・そうなんだ。。。なんて、マネージャーがそんなこっちゃだめですね」
「ふふ、いいのよ。年齢・出身地なんかゼ~ンブ嘘八百の世界なんだから。でね、その鹿児島出身の偉い人といえば西郷さんなんだけど、その西郷さんが戦争に負けて鹿児島の城山でサ、家来の別府晋介ってヒトにネ、『晋どん、この辺りでもうヨカ』といって死んだの。私も『この辺でもうヨカ』になっちゃった。ゴメン、ケンちゃん、私、もう勘弁して。もう、あんなステージなんか立ちたくない。もう、ドサ回りもやりたくない」
村井健さんが出した4つ折りのハンカチを受け取るとかおりさんは、それでも声を押し殺して背中をふるわせている。
「そうですよね。演歌の大スターだった美山かおりさんが立つようなステージじゃありませんよ、あんなとこ。もう、やめましょう。きれいサッパリと。将来(さき)のことは私がなんとか考えます」
「有難う、ケンちゃん。なんだか、肩の荷が下りちゃったみたい」
かおりさんはスッキリしたような顔でビールを傾けると、
「ねえ、ケンちゃん、幾つになったの」
「55かな・・・」
「ここ10年以上も私とドサやってたから付き合っているヒトいないわよねえ」
「私は大ファンだった美山カオリさんとズッと一緒に居られたので幸せでした。他の女性とつきあおうだなんて思ってもいませんでした」
「あなた、大ファンだった美山かおりを抱きたいと思ったことないの」
「とんでもありません・・・そんなこと」
「私ね・・・・こんな世界に30年近く生きてきたけど・・・オトコのヒト、知らないの、ホントよ。私の最初の男のヒトはケンちゃんだと決めていたの」
「かおりさん・・・」
「さん・・・はやめて」
静かな時間が流れる。
「アノ、そろそろココ閉めるから、あとはお部屋の方でゆっくり話をなさったら。お飲み物はお部屋にお届するわ。このボトル・・・私からお二人へお祝いのプレゼントよ」
「女将さん・・・」
紅柿荘の玄関に夏の残照が降り注ぎ、風が涼やかにそよぐ。
『ここで今までの歩みを止めて ここから新しい一歩を始めます。今までの二人で 今からも二人で かおり』
美山かおりのCDに添えられて想い出石が紅柿荘のカウンターの上に微笑(ほほえ)んでいる。
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