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2013年9月4日 18:34NEWSポストセブン|偏差値教育批判の大前研一氏 一日500本ネットニュース読むあるかもな。「偏差値がもたらす大きな問題は二つある。一つは上からレベルを規定されてしまうことによって、自分の分際、分限、身のほどを自分で決めてしまい、蛮勇に近いアンビションや気概がなくなってしまうこと。つまり、何事も予定調和でやろうとするから、大胆なチャレンジをしなくなるのだ。」偏差値って、子どものころ「すごい大事」って思ってたけど、今思えば「教科書暗記力」じゃん。それだってすごい能力だし、努力なんだけどね。でも、それ(ひとつの能力)だけでは決まらんわな……。「偏差値が高かった人は「疲弊・燃え尽き」タイプになりやすい。彼らは実務では往々にしてワーカホリックで、リストラ対象にもならずに生き残ったものの、仕事が2倍、3倍に増えただけで出世もしないし給料も増えないという状況の中で、疲れ果てて燃え尽きる。」がんばり屋さんなんだよな。ただ、「働かないアリにも価値がある」といったことを書いた本を読んで、「しまった」と思った。その通りだ。
2013年09月04日
2013年8月17日 20:54 「第三文明」9月号を読んでいる。寺脇研さんと今井紀明さんの対談が見ごたえがあるな。今井紀明さんは、18歳のときイラクに行って武装勢力に捕まり、解放後は日本中からバッシングを受けて社会的に抹殺されたという経験をもつ。「寺脇 イラクで拘束・解放されて帰国後に、いわゆる「自己責任論」による大規模なバッシングを受けることになった。今井 ええ。イラクで武装勢力に拘束された経験よりも、帰国後のバッシングのほうがつらかったですね。寺脇 あのバッシングはまったくひどいものでした。当時の異様な空気はよく覚えていますよ。今井 街で突然罵声を浴びせられたこともよくありましたし、知らない人からいきなり殴り付けられたこともあります。そんなふうだから、どうしても引きこもりぎみになるわけです。日本にいたくないので海外に行ったりしたんですが、海外でも現地の日本人から罵倒されたりして、行き場がなくてつらかったですね。 」「知らない人からいきなり殴り付けられた」議論ですらねぇっ!!赤信号、みんなで渡れば怖くない(なお、最後は、みんなで轢かれる模様)。今は、いじめなどで社会に居場所のなくなった子供たちを、教育を通して支援するNPOを運営されているという。すばらしいな。行きたいぐらいだ。「寺脇 最近は「スクールカースト」なんて言葉もあるけど、学校が単一の価値観しかない世界だからこそ、カーストが生じてしまうわけだ。その対策のためには、学校以外に別の価値観を許容する場所をつくればいい。「学校五日制」には、本来そういう狙いがあったんです。五日制にすれば、土日は学校とは別の価値観を持った場所に身を置くことができる。」「今井 学校の先生方に、よく言うんです。「学校には学力の向上をお願いします。それ以外の力については、うちがなんとかします」と。学校は子どもに学力をつけさせる場ですが、今は学力さえつければ社会でうまくやっていける時代ではありません。それ以外の力がいろいろと求められます。にもかかわらず、学校はいまだに「学力の向上が善である」という単一価値観の世界なんですよね。」「今井 「ゆとり教育」は、今の時代にこそ必要なものだったと僕は思います。」「現代のビジネス環境は答えのない問いに直面しつづける世界ですから、学力だけではやっていけません。広い意味での「生きる力」が求められるんです。「ゆとり教育」はそういう時代に先んじていた。ただ惜しむらくは、「ゆとり教育」導入のタイミングが少し早すぎた、あるいは学校側にそれを受け入れる余裕がなかった、ということだと思っています。」なんか、右派のやろうとすることって、ことごとくタイミングが外れるよな……。「中国包囲網」しかり。20年前だったらなぁ。
2013年08月17日
2012年2月26日 20:32:30 「月刊公明」(2月号)より、尾木直樹さんと公明党の池坊保子さんの対談から。中国の教育、すげぇというお話。 「中国政府は教育のためには、お金に糸目を付けません」(上海教育委員会の幹部)尾木 例えば、中国の上海を視察して驚いたのは、科挙以来の激しい試験文化が根付く中国が、日本で言うところの「総合的な学習」の切り口をとても大事にしていたことです。また、教員はとにかく叱らない。子どもたちを徹底的に褒める。ある学校では校長先生以下、教員たちが“クラス30人は皆、兄弟”という位置付けで臨んでいました。一人っ子として育った子どもたちが互いに協力し支え合う光景も見られました。授業は朝7時半から午後3時半ごろまであり、授業が分からなかった子どもたちのための補習が夜10時ごろまで行われていました。 中国はまず、上海モデルとして教育スタイルを確立させ、これがPISAなどの国際指標から見ても効果的ならば、その後、中国全土に一気に広めるという、20年までの10年計画を進めています。実際、上海は――国ではなく地域としてですが――09年のPISA調査で各科目のトップを占めています。彼らは明確な国家戦略のもと、共産主義体制にもかかわらず、教育についてはものすごく柔軟な対応を取っていました。 「絶対に叱らない」ってのがすごいな。 良いか悪いかは別に、やろうとしていることを徹底している。 「橋下市長、小中学生の留年検討を要請?」(TBS News) 「留年」が良いか悪いか、わからないが、将来「留学するなら中国」という時代がくるかもしれんよ。
2012年02月26日
2012年2月3日 22:32:07「同じじゃないと、いじめられる」 木村 ある人は「同じ年代の子ども同士で『服は、これじゃなきゃだめ』という決まりがある」。また「みんなと違う意見を言うと、『ふつうは……』と言われて、白い目で見られる」と語っていました。 名誉会長 これは根が深い問題です。日本人は、昔から、画一性を重んじてきました。よきにつけ、悪しきにつけ。西洋との大きな違いです。個性観が全然、違う。個性を埋没させる国民性が、時代の進歩を妨げたことも大いにあるでしょう。 いわゆる集団的なファッショで、囚人のように行動を縛るのは、個性をなくしていこうというものであり、人権無視の一番不幸なことです。 本当は、人の個性を尊重し、自分の個性を伸ばしていくところに、自他ともに価値ある進歩ができる。人を見かけで判断するようなことは、人間に対する侮辱です。個性を大事にする心とは正反対だ。 木村 イギリスに小さいころからいた人は、「向こうにいたときにように振る舞うと、日本の学校では浮いてしまいます」と。「個性を大事にした教育」と口では言っても、日本では、みんな同じに見えるというのです。 名誉会長 教育は、個性を埋没させるのではなく、伸ばしていくものでなくてはならない。政治も科学も文化も、基本中の基本は、個性の尊重のなかにある。それを「人権」という。個性の尊重といい、人権といっても、名前が変わっているだけです。 しかし、現実には画一的な「管理教育」もあり、点数だけで人間全部を決めるけるような「序列主義」もある。ある人は「自分はいやだ。逃げたい」と叫ぶ。ある人は何も考えないことにして、「きょう」を気持ちよく過ごすことだけに集中する。日本の深刻な問題です。独創性や創造性の芽をつんでしまう場合が、悲劇的なまでに多い。 個性がない、創造性がないというのでは、人類社会から遅れてしまう。それは人格がないということでもある。人間は皆、同じものではない。人権無視の従属は、個性を抹殺する不正義です。その究極は、圧制であり、ファシズムとなる。 木村 そういうなかで、多くの人が「自信」を失い、卑屈になったり、虚無的になったり、暴力的になったりする現実があります。 名誉会長 人間は、だれでも、自分らしい自分の開花を求めている。それが妨げられると、人間は「うつろな心」になるか、「破壊的な行動」に走ってしまう。それが「いじめ」や「ファシズム」の土壌にもなっていく。 しかし、だからこそ諸君は環境に負けてはいけない。自分自身を信じる心をなくしてはいけない。絶対に、君には君にしかできない、この世の使命がある。あなたには、あなたでしか咲かせられない人生がある。何を疑ったとしても、このことだけは疑ってはならない。 たとえ、だれが君を、だめ人間のように見たとしても、君だけは、そう見てはいけない。だれが、あなたを「取り柄がない」とののしったとしても、あなただけは、そんな悪魔の声にうなずいてはならない。歯を食いしばって、自分を信じて、題目を唱え、自分の課題に本気になって立ち向かっていくことだ。人のおもわくなんか気にしないことです。 『「個性を大事にした教育」と口では言っても、日本では、みんな同じに見えるというのです。』 そもそも「個性」を知らない教育者がやっていることだしw 『個性がない、創造性がないというのでは、人類社会から遅れてしまう。それは人格がないということでもある。人間は皆、同じものではない。人権無視の従属は、個性を抹殺する不正義です。その究極は、圧制であり、ファシズムとなる。』 人類社会から遅れる。うむ。 そして、論理もなく「人を同じにしよう」ということは、“信念を、思想をもつな”ということ。それは“人格をもつな”ということだ。これは恐ろしいw もちろん「甘え」と「個性」は違う。これはもっと根源的な問題だ。
2012年02月03日
2011年8月10日 17:57:47 「侵攻→「現地は歓迎」 特攻→「自ら志願」 侵略美化授業の勧め 自由社・扶桑社の教師指導書」(しんぶん赤旗) プロパガンダwww 確かに公教育のスポンサーは国ですが。 「四権分立=教育権の分立」が求められるわけだ。 何がしたいのかw
2011年08月10日
2010年3月11日 23:10:58 これひどいw でも、理念のない「組合活動」なんて、こんなものかもな。うがい・AED…「何でも反対」北教組中央委 (読売新聞) 北海道教職員組合(北教組)が運動方針などについて話し合う「中央委員会」の議案内容が10日、明らかになった。 全国学力テストや体力テスト、卒業式での国旗掲揚などについて反対の姿勢を示しているほか、虫歯予防のためのうがい、AED(自動体外式除細動器)の設置にまで反発するなど、「何でも反対」の内容。現場の組合員からも批判の声が出ている。 この議案は「第113回中央委員会」用で、1月29日に機関誌「北教」の号外資料編として発行、組合員に配られた。北教組によると、中央委員会は活動の方針などについて話し合う会議の一つで、各支部の代表が参加する。 2月25日に開く予定だったが、北教組から民主党の小林千代美衆院議員陣営に違法な選挙資金が流れたとされる政治資金規正法違反事件が発覚後、開催が延期されている。 議案は、全国学力テストと体力テストについて「子どもを差別・選別し、管理強化をはかるもの」などと指摘している。学力テストでは、抽出方式に移行し、抽出に漏れた学校がテスト問題を活用できる「希望調査」の制度が設けられた。これに伴い、道教育委員会が参加を呼びかけた、抽出に漏れた学校の8割が参加を決めていた。こういった制度などについても「 悉皆 ( しっかい ) (全校調査)をもくろむ極めて 恣意 ( しい ) 的な通知」として、調査の中止を求める運動を行う方針を示した。 指導力不足の教員に対し、道教委が行う研修についても「教職員の差別分断・管理統制の強化」と反発。「校長に対し(指導力不足教員の)申請を(教育委員会に)上げさせない取り組みを強化する」とした。指導力不足の教員は、担任をさせることができず、他の教員の負担増となるケースが多い。関係者も「研修をしなければ、他の組合員にしわ寄せが行くだけなのに」と首をかしげる。 さらに、子どもの安全や健康に関する施策にも反対している。学校へのAEDの設置や、道教委が虫歯予防のために進めるフッ化物を使ったうがいについても一方的な導入に反対としており、ベテランの組合員も「単に仕事をしたくないだけではないか」と批判している。[ 2010年3月11日10時12分 ]
2010年03月11日
2009年11月30日 18:13:37 事業仕分けで、英語教育のための教材「英語ノート」が廃止の判断。 ここでも蓮舫氏は「デジタル化し使いたいところが使えばいい」。ネットにデータを置き、必要な学校がダウンロードして印字すればいいという考えだ。(「朝日新聞」) 著作権違反じゃないの? でも、「庶民目線」は大事だろうね。 ただ、これが「政治主導」だと言われると、だまされた気がするなw (道徳教材「心のノート」について、民間仕分け人の一人は)「正義を振りかざすのがどれほど危険か」「教条的な決めつけが多く、『あるべき心の見本市』ですごく気持ち悪い」 なるほど。 確かに気をつけなるべきだ。 「マニフェスト至上主義」には。 そもそも、教育を仕分けようという発想は、どこから出てきたんだw小学英語、仕分けで「教材廃止」「学校で印刷を」…現場憤慨 小学校英語の必修化を前に文部科学省が無償配布している補助教材「英語ノート」=写真=の予算が、政府の「事業仕分け」で廃止になり、全国から困惑の声が殺到している。 教科書がない小学校英語では貴重な教材だけに、校長代表らが同省に「継続」を直訴、350件の廃止反対意見なども寄せられている。 「ノート」は、ほとんどの公立小で英語教育の先行実施が始まった今春、約250万冊を配布した。多くの教師が英語導入に不安があり、指導法も確立していないため、不安の解消と教える内容の地域格差を小さくする狙いがあった。 要求額は総額8億5000万円だが、事業仕分けでは、「なぜ小学校で英語を教えなければならないのか」と「そもそも論」が仕分け人から噴出。「デジタル化して学校ごとに印刷すればいい」との意見も出て、30分程度で「廃止」とされた。 この結果に、文科省には当日11日から問い合わせが殺到。意見メールや電話350件のうち300件が「廃止反対」だった。「デジタル化でネット配信にすれば多額の著作権料が必要」という指摘もある。 「ノート」の存続を求め文科省に意見書を提出した松川礼子・岐阜県教育長は、「小学校英語は深く議論して決まったこと。なぜ必要性から蒸し返すのか」と憤慨。全国連合小学校長会の向山行雄会長も、「英語を教えたことがない教員にはほとんど必須の教材。特に地方での活用度は高い」と廃止しないよう求める。 こうした意見に、最終判断を行う立場の川端文科相は「今後の予算編成で政治判断したい」と述べている。 小学校英語 2011年度から必修となる「外国語活動」の一環で、5、6年生対象。教科扱いではないが、言語や文化の理解を深め、会話力の素地を養う。(2009年11月30日 読売新聞)
2009年11月30日
2009年1月23日 20:58:53 学ぶことだらけだ。 こんなブログ読んでないで、池田先生の本を読めば、イヤでも賢くなるぞ(はい、すいませんでした)。『聖教新聞』2009年1月23日付小説「新・人間革命」新世紀53 切り開いた道は、通い合うほどに、広く、堅固になっていく――。 松下幸之助と山本伸一は、『人生問答』の出版について語り合った後も、交流を重ね、絆は、ますます強く、固くなっていった。 松下は、一九七五年(昭和五十年)十一月の、広島での本部総会にも出席した。 東京・八王子の創価大学、大阪・交野の創価女子学園(現在は関西創価中学・高校)にも足を運び、その教育に大きな期待を寄せ、讃辞を惜しまなかった。 また、伸一が関西から中国訪問に向かう時には、空港まで見送りに来るのである。 さらに、松下は、しばしば、こう語って伸一を励ました。 「この乱れた日本を救い、世界の平和と繁栄を築いていく人は、先生しかいません」 「本当に、日本のため、国民のためを思って、毎日戦っておられる」 「先生は、日本にとっても、世界にとっても、掛け替えのないお方ですから、くれぐれも十分なご養生のうえ、お体を大切にしていただきたい」 伸一は、いたく恐縮しながら、人生の先輩からの、身に余る期待と真心の激励として、それらの言葉を受けとめた。 また、よく松下は、「先生にお目にかかっていると、何かしら元気がわいてくる。お会いできるだけで嬉しい」と語っていた。それは“常に、人に元気を与える人たれ”との指導であったのであろう。 ある時、予定の時刻より一時間も前に、松下が会見の会場に到着したことがあった。 「少しでも早くお会いしたかったものですから……」と、屈託のない笑いを浮かべた。 伸一と松下の会談は、四時間、五時間がかりとなることも珍しくなかった。二人とも、話は尽きないのだ。 “日本の未来のために、少しでも語っておきたい! 聞いておきたい!” 松下の物腰は柔らかであったが、彼の言葉には、そんな気迫があふれていた。『聖教新聞』2009年1月22日付小説「新・人間革命」新世紀52 松下幸之助と山本伸一が、互いの質問に対する回答を、ほぼ終えたころ、『週刊朝日』の編集者から、これを公開してはどうかとの話があった。松下も、伸一も、もともと公表を意図して始めたものではなかった。 しかし、編集者の熱心な勧めに従い、二人は了承した。 編集者は、三百の問いと答えのなかから、時局にふさわしいテーマを選び、一九七四年(昭和四十九年)十月十一日号から連載を開始した。そして、往復書簡は、七五年(同五十年)の六月二十七日号まで計三十五回、八カ月半にわたって連載された。それでも、掲載された分は、交わした書簡の三分の一ほどであった。 六月の下旬、連載の終了にあたって、松下と伸一は会談した。その折、『週刊朝日』には掲載されなかった、人生や人間などについて論じ合ったものなど、すべてを収めて本として残してはどうかということになった。 そして、この年の十月に、『人生問答』のタイトルで、上下二巻の単行本として、潮出版社から発刊されたのである。各質問と回答は、「人間について」「豊かな人生」「宇宙と生命と死」「繁栄への道」「宗教・思想・道徳」「政治に望むこと」「社会を見る目」「何のための教育か」「現代文明への反省」「日本の進路」「世界平和のために」の十一章に分類された。いかに多岐にわたる書簡が交わされたかが、よくわかろう。 『人生問答』は、伸一にとって、財界人との初の往復書簡集となった。これを読んだ学会員は、松下の意見が、仏法の考え方に極めて近く、多くの点で、伸一の主張と見事に共鳴し合っていることに感嘆した。 天台大師は「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」と述べている。治生産業とは、社会生活や生産活動など、世間における人びとのさまざまな営みである。それは、仏法と決して別のものではないというのだ。 ゆえに、社会の一流の人物の生き方、考え方は、仏法と響き合うのである。
2009年01月23日
2008年8月6日 16:33:40 自分の命を惜しむ者に、どうして命がけの戦闘ができるのか。 そして、“自分の命を惜しまない”とは、結局、最後は“自分の家族の命さえ惜しまない”ということ通じる。 自分や家族の命をかけてまでする戦闘が、そう多くあるとは思えない。 命をかけて戦闘することができない以上、戦争には反対する以外にない。 「歴史の荒波を自力で泳ぎ抜こうとすれば、価値観の溺死が待っている」 だから「法」が必要なのか。 創価学会の牧口常三朗初代会長と、戸田城聖第2代会長の師弟は「法」のために牢獄まで行って、初代会長はそのままなくなられた。 「法」を破った当時の宗門なんか、法主が罰を受けて焼け死んだけどな。『公明新聞』2008年8月5日北斗七星 「原爆忌」と「終戦の日」を迎える8月は「平和」という言葉がマスコミを賑わせる。昨年発行の『弱き者の生き方』(毎日新聞社)を読み直した。 考古学者大塚初重さんと作家の五木寛之さんの対談。「時代は移ろい続けていく。戦争と戦後を肉声で語る声もかそけくなった」(五木)中で、両氏が語る戦時中の体験には身震いがした。 「脚にしがみついてくる戦友を、私は両脚で燃え盛る船底に蹴り落としたんです。船底からは、海軍の下士官がもっているピーピーという笛の音が聞こえてくる。助けてくれという笛の音が」(大塚)。 「ソ連兵に『女を出せ』と言われると、嫌がろうがなんであろうが、トラックからだれか女を押し出すようにして出すしかない。その女性を人身御供にして、われわれは三十八度線を越えたのです」(五木)。 「歴史の荒波を自力で泳ぎ抜こうとすれば、価値観の溺死が待っている」(『満州国演戯4』船戸与一著、新潮社)。哲学者の多木浩二さんは「戦争とは暴力で日常生活を破壊するもの」と指摘する(東京新聞)。 2011年度から完全実施される小学校社会科の新学習指導要領の解説書に「沖縄戦」や「広島・長崎への原爆投下」といった事例が初めて明記されることになった。平和教育の充実を願う。
2008年08月06日
2008年3月8日 20:45:14 「新・人間革命」より。 池田大作先生と佐藤栄作元総理との会談。 師匠の念願を成し遂げてこそ弟子である。師が願って、成就できなかったことは、すべて弟子が果たし抜くのだ。それが師弟の道なのである。 これは素晴らしい。 「欧米には宗教的モラルがあるが、日本人には自らを律するものがないのが心配です」(佐藤栄作) 直訳すると「創価学会に入れ」ということです。『聖教新聞』2008年3月6日小説「新・人間革命」人間外交4 佐藤栄作の鎌倉の別邸で、山本伸一は彼と二人だけで、三時間半ほど語り合った。日本の将来のことから、教育、宗教、国際問題……。 佐藤の総理就任から一年二カ月がたっていた。佐藤は六十四歳、伸一は三十八歳。年の開きは親子ほどあった。しかし、世代を超えて、肝胆相照らす対話となった。 伸一の小説『人間革命』第一巻が発刊されて間もないころであった。 「『人間革命』読みましたよ。厳しい言葉がありますね。総理よりも一庶民が偉いと書いてある」 語らいは『人間革命』から始まったのである。 この巻には、初代会長の牧口常三郎が「わたしが嘆くのは、一宗が滅びることではない。一国が眼前でみすみす亡び去ることだ」と叫んだことも記されている。軍部政府に屈し、宗教者としての信念までも捨て去った、宗門への憤りである。 佐藤は、しみじみとした口調で言った。 「創価学会は純粋ですね。気持ちがきれいだ。純粋に国のためを思っていることがよくわかる」 伸一は、最初、応接間に通され、三、四十分ほど語り合ったあと、食堂で寛子夫人の運ぶ料理に舌鼓を打ちながら語らいを続けた。 当時、学会と公明党とは、まだ組織的に分離をする前である。総理である佐藤には、公明党になんらかの協力を求めようとの意図があったのかもしれない。 しかし、そういう話は全く出なかった。佐藤は日本の将来を見すえ、日本人の生き方や心のありようについて、時には慨嘆しながら考えを述べていった。 「若い世代が、国の将来を思う心をなくしてしまった。本当に残念なことです」 伸一も同感であった。 「国はもとより、人類、世界の将来のために立とうという青年がいないのが残念です。私は、そこに、青年を育む創価学会の使命があると思っております」 また、佐藤は、敗戦以来、日本にモラルがなくなってしまったことを、深く憂慮していた。 「欧米には宗教的モラルがあるが、日本人には自らを律するものがないのが心配です」 宗教の大きな役割の一つは、人びとの胸中にモラルを確立させることにある。『聖教新聞』2008年3月7日小説「新・人間革命」人間外交5 「モラルの模範を示すべき政治家が、決して模範にはなっていない。残念なことです」 佐藤栄作は、そう言って嘆いた。人間の精神をどう変革するかを彼もテーマとしていたようだ。 食事が終わると、伸一は佐藤の部屋に案内された。一緒に階段を上っていくと、途中に一枚の写真が飾られていた。 戦後日本の立て直しを図った宰相として知られる吉田茂と佐藤が並んで写った写真である。 「私の師匠です!」 佐藤は胸を張って、誇らかに言った。 一国の総理が自分の師匠を尊敬し、誇りをもって紹介する姿に、伸一は“心から信頼できる”と思った。 「求道の人」「向上の人」は、必ず師匠を求める。そして、心に師をいだいている人には、厳たる風格がある。 ローマの哲人セネカは恩を受けた師について、こう語っている。 「もしも私が、最も感謝すべき親愛の情の下において彼を尊重しないならば、私は恩知らずと言うべきである」(注) 佐藤は吉田学校の優等生といわれた。真面目に、厳父に接するように吉田に仕えたという。 一九五五年(昭和三十年)の保守合同の時にも吉田と行動を共にした。大勢となった新党・自由民主党への入党を拒否し、孤立無援の無所属として一時期を過ごした。 彼は、師匠への信義を貫いたのである。 佐藤は伸一に言った。 「あなたの師匠は戸田さんでしたね」 「はい。戸田城聖先生が、私の恩師です。 戸田先生は偉大な数学者であり、教育者であり、また、実業家でもありました。 私は戸田先生から、個人教授で、万般の学問を教わりました。最高の人間教育を授けていただいたと思っております」 伸一もまた、誇らかに答えた。佐藤は目を細めながら頷いた。 洋館の一番上にある彼の部屋で、話を続けた。 「戸田さんは立派な方ですね。学会の力、その組織の力はすごいですね。われわれも見習わなければいけない」 師匠が讃えられることほど、弟子として嬉しいことはない。 そのために、力を尽くし抜くのが、弟子たる自分の使命であると、伸一は心に決めていた。引用文献 注 『セネカ 道徳論集(全)』茂手木元蔵訳、東海大学出版会『聖教新聞』2008年3月8日小説「新・人間革命」人間外交6 佐藤栄作が、師の吉田茂が亡くなったことを聞いたのは、フィリピンであった。一九六七年(昭和四十二年)十月のことである。 呆然とした。涙に暮れた。だが、直ちに日本と連絡を取り、国葬の手はずを整えた。 戦後、国葬は前例がない。反対の声もあった。しかし、最高の栄誉で師への報恩を尽くしたいとの思いで、懸命に推進したのである。 海外歴訪から戻った佐藤は、羽田の空港から、永眠した師の待つ神奈川・大磯の吉田の自宅に直行した。 冷たくなった師の顔をさする弟子の背は、小刻みに震えていた。 弟子は師に、何を誓ったのであろうか。 この翌月に、佐藤は訪米。小笠原と沖縄の返還への流れを開いた。特に小笠原については、一年以内の返還の見通しがついたのである。それは吉田の悲願でもあった。 吉田は対日講和条約に際して、奄美、沖縄、小笠原は、日本に「潜在主権」があることを認めさせている。「潜在主権」とは、外国の統治下にあっても、潜在的に存在する主権のことである。 つまり、奄美、沖縄、小笠原は、アメリカの統治下に置かれていても、最終処分権は日本にあると認めさせたのだ。 吉田は、これによって、将来の返還の可能性を残したのだ。 そして、奄美は既に返還され、残るは沖縄と小笠原であったのである。この佐藤の訪米で、吉田の念願実現へ、もう一歩のところまできたのだ。 彼は、弟子として胸を張って、師の吉田に、心で語りかけ、報告したにちがいない。 師匠の念願を成し遂げてこそ弟子である。師が願って、成就できなかったことは、すべて弟子が果たし抜くのだ。それが師弟の道なのである。 佐藤の七年八カ月という連続しての総理在職は史上最長である。 その間に沖縄返還をはじめ、ILO(国際労働機関)条約の承認や日韓基本条約の調印などの功績を彼は残したのだ。 鎌倉での佐藤との語らいから、既に九年の歳月が流れていた。 その空白を埋めるかのように、佐藤元総理は、屈託のない笑いを浮かべて、日本と世界の未来図を語った。
2008年03月08日
2007年5月23日 16:41:56 今日の『新・人間革命』は、山本伸一会長(池田名誉会長)の「中国の小学校」訪問。30年ほど前(?)の、中国の「教育事情」について。 とても興味深いですな。 創価学会初代会長の牧口常三郎先生は、「半日学校制度(半日学んで半日働く)」を提唱された。 それを知ってから、日本の学校は、「社会・労働」と「学校・勉学」を“分離”し過ぎではないかと思うように。 「一般的な社会人」をつくるのが教育の「最低限の目標」なのに、社会に出さずに「社会人」を育てようというのはどうか(人のこと、あまり言えませんが!)。 畑に出さずに、「プロの農家」を育てようとするのと同じでは。『聖教新聞』2007年5月22日付小説「新・人間革命」友誼の道18 教員は語った。 「私たちは、児童に、将来、何になりたいかという理想を描かせ、目標をもてるように指導しています。また、人民に奉仕することの大切さを自覚させることに力を注いでいます」 さらに、教育を生産労働に結びつくものにするために、努力を払っていると説明し、力を込めて訴えた。 「モノサシや秤を使えなくては、生活はできません。 土地を測れない算数に、なんの意味があるでしょうか。トウモロコシとコーリャンの違いもわからない教育では、役に立ちません」 伸一は何度も頷いた。 「おっしゃる通りだと思います。皆さんのお話は、大変に参考になります。それが日本の教育にとっても必要なんです」 伸一は、教育に情熱を燃やす教員たちの姿に触れて、中国の未来に大いなる希望を感じた。 「未来は教師の手にある」(注)とは文豪ユゴーの小説の一文である。 それから伸一たちは、いくつかの教室を回り、授業を参観した。 「ニーハオ!」 伸一が、気さくに児童に語りかけると、「ニンハオ!」という元気な声がはね返ってくる。 「全世界の人びとのために、しっかり勉強し、明るく、すくすくと育ってください」 子どもたちは、はにかむような表情で、伸一の言葉に頷いていた。 また、学校に、小さな象棋(中国将棋)の工場が併設されていた。 ここでの労働を通し、子どもたちは労働の大切さを学び、学習した知識を労働生産に生かすのだという。その指導には、定年退職した技術者があたっていた。 労働によって学習時間が不足し、学力の低下を招いてはならないが、大事な視点であろう。 伸一は、喜々として生産作業に励む子どもたちを見て、顔をほころばせながら、つぶやいた。 「牧口先生がいらっしゃったら、喜ばれるだろうな……」 初代会長の牧口常三郎は、明治後期から、「半日学校制度」を提唱してきた。 それは、半日は学校で学び、残りの時間は社会の生産活動に従事することによって、健全な心身の発達を図ろうという構想であった。引用文献 注 「レ・ミゼラブル」(『ヴィクトル・ユゴー文学館3』所収)辻昶訳、潮出版社
2007年05月23日
2007年5月6日 9:22:28 (27日午前の記者会見で、公明党の太田昭宏代表は)学習指導要領の教科、道徳、特別活動のうち、道徳を国語や算数などの教科に格上げする案について、「党として論議しなければならないが、個人として反対だ」と表明した上で、「教育の大事な要素は人の心を鍛え、豊かにし、育んでいくことだ。全く人の心に影響を与えない教育はあり得ないと思うが、一つの価値観を押し付けることは排除しなくてはならない。道徳を(数値で評価したり、教科書を使う)教科として扱うことは慎重でなくてはならない」との認識を示した。 山崎正和氏も(どこかで)言われていたが、「道徳」を(国語や算数と同じ)「教科」にまでするのは疑問だ。「順法精神」など基本的なことで充分では。 そもそも「道徳」って、だれが教えるのかと。点数もつけられんし。「宗教」をやってる人なら、「だれから、どこから学ぶ」とはハッキリしているが。 哲学も宗教もなさそうな政治家・官僚から、「道徳」を学ぶとすればイヤなイメージだ……。戦前の「国家主義」を思い起こさせる。 「国家主義」って要するに、「(政府の)ご都合主義」だしなw 国に(キリスト教やイスラム教のように広まっている)「宗教」がないからって、「国家神道」までやって「大失敗」した日本の“前科”は、永遠に消えん。慎重に見てきたい。 つい最近まで、「靖国」云々と、もめていたくらいだしw 「宗教問題」を引きずる国だなw しかし、「国家神道」って、考えるほどに“変なモノ”だ。 この場合の「神道」とは、「民族宗教(民族主義的原始宗教)」といえるだろうが、そんな大して国民にも浸透していない「民族宗教」を「国教」にしてまで、国をまとめ上げようなんて、他にやった国はあるのか? 檀家制度のため「生きた宗教」が長らくなかったとはいえ、あんまりな「宗教オンチ」と思えるが。公明新聞:2007年4月28日ドクターヘリ 法制化で配備拡大欠陥住宅購入 救済も公明が主導道徳の教科化価値観押し付け排除を記者会見で太田代表 公明党の太田昭宏代表は27日午前、国会内で記者会見し、安倍晋三首相の集団的自衛権の研究に関する私的諮問機関設置や、政府の教育再生会議が検討している道徳の正式教科化などについて見解を述べた。 この中で、太田代表は、同日、参院を通過した、医師と看護師が搭乗し迅速に初期治療に当たるドクターヘリの全国配備をめざす特別措置法案(参院先議)に関して、「公明党は2004年に党内にプロジェクトチームを設置。党マニフェスト(政策綱領)にも明記し法制化をリードしてきた」と強調した上で、「(法整備によって)運航のための財源が確保される。自治体の負担が軽くなり、配備が推進しやすくなる」と指摘。ドクターヘリについて、「過疎地域だけでなく、都市部においても救急医療の重要な働きを果たすと期待している」と述べた。 また、同日、参院を通過した特定住宅瑕疵担保責任履行確保等法案(参院先議)に言及。「耐震強度偽装事件を教訓にして、欠陥住宅(新築)の売り主が経営破綻しても購入者を救済するため、建て替え資金の確保(保険加入か法務局への保証金供託)を義務付ける、新しい仕組みをつくった。建築基準法と建築士法の改正に続く、公明党が主張した極めて重要な法案だ」と力説した。 さらに太田代表は、集団的自衛権の行使に関する有識者会議設置の目的に関して、「あくまで現行憲法の枠内(の研究)であることは、今までの安倍首相の発言から明らかだ」と指摘。「(政府の憲法解釈で禁じている)集団的自衛権の行使に道を開いていく、あるいは、なし崩し的に政府解釈を見直していくものであってはならない」との考えを改めて示した。 その上で、太田代表は「(有識者会議での研究は)そういう(なし崩し的な)ものではない、と安倍首相自身から、私も聞いている。(首相からは)集団的自衛権の行使を認めないという憲法解釈や国会における論議(の積み重ね)を尊重する立場は明確にした上で、有識者会議をスタートさせていただく、随時、(公明党と)連携を取り(議論の)内容について報告する、との話があった」と明らかにした。 一方、学習指導要領の教科、道徳、特別活動のうち、道徳を国語や算数などの教科に格上げする案について、「党として論議しなければならないが、個人として反対だ」と表明した上で、「教育の大事な要素は人の心を鍛え、豊かにし、育んでいくことだ。全く人の心に影響を与えない教育はあり得ないと思うが、一つの価値観を押し付けることは排除しなくてはならない。道徳を(数値で評価したり、教科書を使う)教科として扱うことは慎重でなくてはならない」との認識を示した。
2007年05月02日
2007年4月25日 19:44:29 「生活ワイド」より、フィンランドの教育の特徴について、都留文科大学・福田誠治教授に聞く。 「16歳まで一度もテストをしない」 フィンランドすげぇえぇっっ!!!!『聖教新聞』2007年4月25日付注目されるフィンランドの教育に学ぶ(一部抜粋) ――日本とフィンランドの教育はどこが違うのでしょうか。 たくさんの日本人が現地の教育事情を視察しに行きました。 学力を伸ばすために、何か特別な学校や特別クラスをつくって、テスト対策に励んでいるのではないかと多くが予想していたのですが、実際に目にする授業風景は違いました。 教師の話を聞いている子どもはわずかで、ソファーで遊んでいたり、積み木を一生懸命やっていたり、友達と黒板で書き物をしていたりする、なんとものんびりした授業だったのです。子どもたちの自ら学ぶペースが優先されていました。 一斉授業は少なく、個別指導、グループ学習が重視されているのです。教師も子どもが、ほかのことに熱中していても気にしません。何かに熱中することが大切であるという考えなのです。 「聖教新聞」の方に、本文は、まだアップされてない模様(4月25日)。
2007年04月25日
2006年11月23日 23:57:35 「TVタックル」でハマコーさんが、「教育基本法」に関連して、持論を述べていた。 いわく、「国家に忠誠を誓い、地域の繁栄を考え、親孝行に励み、男子は質実剛健、女子は清く優しく」。 まったく、それができれば「理想的」であるのに、どうして、それに“違和感”を感じてしまうのか?w 考えてみた。 そもそも、ハマコーさんは「質実剛健」なのか? といった疑問もあるがw つまり、この“違和感”は、個々人の「哲学・信条」から生じる「規範」というものを、国の「法律」や「権力」によって“規定”、または“強制”されるかも、という「危惧」か。 本来、このような「規範」は、強力な「権力」を持つ「国」によって教えてもらうものではない、ともいえるw 国が人々の“生き方”まで規定すれば、それが国による「国民の手段化」につながることは、“最悪のケース”として、誰でも予想する。実際、日本でも、過去に、それがあった。 では、その「規範」は、誰が教えるのか。 生き方――「哲学・信条」「規範」とは、個々人を内から支える「背骨」や「筋肉」のようなものであって、「コルセット」のように外から補強するものではないとも。 たとえば、上の「男子は質実剛健…」といった「規範」を定めた「基本法」だって、最後の条項に「ただし、この規範を実現するのに公権力は用いず、代わりに、対話を用いた合意・納得の上での実現を目指す」とあれば、より多くの人が「納得」できるだろう。 このような「規範」は、「権力」ではなく「教育」、なかんずく「広い意味での教育」である「宗教」の説くべきものか。 「宗教」には、「国」と違って、実は、そんなに「権力」はないw むしろ、「権威・権力」に頼るような「宗教」なら、本当に「民衆」に影響力のある「宗教」とはいえない。 あくまでも「宗教」は、本人の「合意・納得」の上で「信仰」されるもの。見方によっては、究極的な「民主主義」とも。ぶっちゃけ、イヤなら、ヤメればいいんだしw その「教育」「宗教」という「背骨」がない(宗教・哲学的な合意がない)のに、「法律」「権力」という「コルセット」を着せることに“違和感”があるのか。 しかし、そういう「法律」を抵抗もなくもつ国もあるだろう。それは、やはり、その国には、民衆に浸透した「宗教」があるからではないか。 「宗教」で説かれる「哲学・信条」「規範」を、(公権力を用いるまでもなく)「合意・納得」しているからこそ、それが(公権力を用いる)「法律」に反映されても、受け入れられるのか。 残念ながら日本には、民衆の生活に、深く浸透するような「宗教」はなかった。江戸時代以降からの「宗教」は、国に代わって「戸籍管理」を仕事とする「檀家制度宗教」。現代では、その“仕事”さえない。あっても「葬式宗教」、または「イベント宗教」w 「宗教」の代わりだったのが、「地域共同体」だといわれる。「地域共同体」が(少々の)「権力」や、(多くの)「合意・納得」によって、人々に「規範」を示すなどしていた。 しかし、急激な「西洋化」で「共同体」は崩壊し、さらに、元々の「宗教」といえるものもない。よって、国による「規範」の設定となると。 しかし、国には「宗教」や「共同体」と違って、強すぎる「権力」がある。それは「薬」のようなもので、使い過ぎれば「毒」にもなる。それが“違和感”の正体か。 深く広く支持される「宗教」には、当然、個々人のあり方、「規範」が説かれている。「恩を知ること、恩を報じること、ウソをつかないこと、人々のために働くこと」。 もちろん「宗教」がなくとも、自分の中に「哲学・信条」を深くもっている人はいる。しかし、それは、自然に「合意」できるのか? 「あたりまえである」という「合意・納得」がなければ、「法律」にまで定められる「規範」としては、“違和感”を感じるのか。「法律」による「規範」には、「言われるまでもない」「あたりまえである」という意識が前提に要るか。それには、やはり、深く浸透する「宗教」が要るとも。 しかし、当然、「あたりまえ」だからといって、「道理」に合わないことをして良いわけがない。 結局、その国の未来は「教育」、なかんずく「宗教」の“いかん”によって決まるということか。
2006年11月21日
2006年11月18日 12:29:38 国旗・国歌にも、そこまで「抵抗」はなかったが、これを読む限り、かえって「不安」が強まる。まぁ、右派の「自滅」w まだ「地裁判決」やけどね。月刊誌『潮』2006年12月号新聞クリッパー「日の丸・君が代」判決は「思想・良心の自由」を守るもの 日の丸・君が代への起立・斉唱の義務はない――東京都教育委員会の通達を違憲・違法とした東京地裁判決をめぐる各紙社説(9月22日、23日)は、「朝日」「毎日」が「今回の判決は高く評価できる」「『心の自由』を侵害するな」と評価すれば、「読売」「産経」は「認識論理もおかしな地裁判決」「公教育が成り立たぬ判決」とこれを批判。地方紙は「『押しつけ』への戒めだ」(中日)「『強制は違憲』明確に断」(中国)などとこぞって判決を支持した。 これをどう見るかだが、「国歌斉唱などに反対する世界観や主張を持つ人の思想・良心の自由は憲法上、保護に値する権利」であり、「国旗、国歌は国民に強制するのではなく、自然のうちに国民の間に定着させるというのが国旗国歌法の制度趣旨である」という判決の指摘は当然の理。同法制定時の小渕首相も「内心にまで立ち至って強制するものではない」と明言している。 それともう一つ、そもそも国旗国歌法というのは「国旗は日章旗とする」ことと「国歌は君が代とする」ことを定めたにすぎない。にもかかわらず、それを根拠に懲戒処分までして強制する。この問題は、法律というのは――とくにイデオロギーが絡む場合――いったん制定されると、恣意的な運用によっていかようにも拡大解釈される恐れがあるという教訓である。
2006年11月18日
2006年11月17日 21:24:48 「新・人間革命」より。 「大白蓮華」とか「月刊公明」とか、読むものが、溜まる一方だ! ヤバイ!w 時間は「人並み以上」にあるはずだが。『聖教新聞』2006年11月17日付新・人間革命(3445)凱歌 十四 何のために学ぶのか――多くの学生がその答えを見いだせないでいるのが、日本の大学教育の現状といえようか。 また、立身出世のためだけに、勉学に励むという学生も少なくない。 実は、そうした事態こそ、教育の根本的な荒廃の表れにほかならない。 山本伸一は、それゆえに、学問、そして人生の根本目的を教える創価教育の使命の重大さを、痛感するのであった。 彼は、パナマ大学の学生たちの答えを聞くと、微笑みながら言った。 「感動しました。すがすがしい答えです。 一生懸命に勉強し、パナマの民衆に、最も貧しい人びとに、幸福をもたらす指導者に育ってください。 大学に行けなかった人びとのためにこそ大学があるというのが、私の信念なんです。 皆さんの栄光を祈ります。また、いつかお会いできることを楽しみにしております」 学生との懇談を終え、構内を歩いていると、一体の像があった。 目の不自由な人が両手を前に伸ばし、手探りをしながら、前へ進もうとしている像であった。 その台座には「光に向かって」の文字がスペイン語で刻まれていた。 総長が語らいの中で、モットーとして紹介していた言葉である。 伸一は、しばらく、この像を眺めていた。 そこには、真理の光を求め抜く“意志”が、見事に表現されていた。 伸一の目には、この像と、パナマ大学の学生たち、そして、愛する創価大学の学生の姿とが重なって見えるのであった。 生きるということは、学ぶということだ。先師の牧口常三郎も、恩師の戸田城聖も、命の燃えつきるまで学びに学んだ。 軍部政府の弾圧によって逮捕された牧口は、独房にあっても必死になって読書に励んだ。 死去する一カ月余り前の葉書にも、「カントノ哲学ヲ精読シテ居ル」とある。 また、戸田も、生ある限り読書を怠らなかった。病床で大講堂落慶の式典の指揮を執りながら『十八史略』を読み、伸一にも、「今日は何を読んだか」と、厳しく尋ねるのであった。 命ある限り、学びに学び、戦いに戦うのだ。そこにこそ、価値創造の人間道がある。
2006年11月17日
2006年11月17日 21:29:24 「教育基本法」が衆院を通過。 野党欠席での可決となった。 TVなどで見ると、現場では、ウサン臭い「愛国心教育」も中にはあるが、この「教育基本法」自体は、自公で、小渕首相のころから「約6年間」論議し、国会でも「100時間以上」も審議しているので、完成度は高いかと。 野党が本会議を欠席したのは、「やらせ質問」や「いじめ」「履修漏れ」などの問題について、“審議が不十分”と。もちろん、目前の「沖縄知事選」をにらみつつ。 だが、「教育の骨格」である「基本法」と、「いじめ」「履修漏れ」問題は、別の問題とも。 しかし、タウンミーティングの「やらせ質問」は、ちょっと被ったw これは自民の「若手」が未熟すぎるとw 見方を変えれば単なる「情報操作」。つか、なにゆえ、やらなくてもイイことを? ホンキで「過去の反省」というものがないのか?w まぁ、でも、「民主党案」よりは、まったく良いw 「民主党案」で疑問なのが、「地方の教育行政は首長(知事など)が行う」というもの。これでは、「政治からの教育の中立性」は、到底、保てないと。 急作りか、いい加減なw 『公明新聞』(今日付)の1面にも、多くのツッコミがw 公明党・西博義理事へのインタビューが、わかりやすくて良い。公明新聞:2006年11月16日付混乱せず106時間審議野党要求どおり 中央・地方公聴会も開催西・衆院特委理事に聞く 政府提出の教育基本法案が15日、衆院特別委員会で可決したことについて、公明党の西博義理事にインタビューした。――教育基本法案の委員会採決に踏み切ったが。西 教育基本法案は、衆院教基法特別委員会などで、一度も混乱せず、政府、民主党の両案を一緒に106時間も審議を行ってきた。 与野党とも、同じ質問が多くなり、民主党の提案者の中にも「すでに申し上げたことですが」と答弁する議員もいた。また野党側の要求により、中央公聴会、全国6カ所の地方公聴会を開催。参考人質疑も先の通常国会で3回、今国会で1回、合計16人からご意見を伺った。 さらに、先の通常国会の会期末、自民、民主両党間で、国会閉会中に修正協議を行うことになっていたが、民主側から「必要ない」と言われ、事実上、閉ざされた。これまで与党側は、野党側の要求に、そのまま応じてきており、採決には十分機が熟している。――野党は採決に反対していたが。西 野党は、高校必修科目の未履修、いじめによる自殺、タウンミーティングの「やらせ質問」などの問題について、十分な審議を求めている。こうした個別の問題は、教育の骨格である教基法の改正と混同せず、各委員会の場で十分議論するべきだ。いじめ問題は文部科学委員会で熱心な議論が交わされている。――民主党案の問題点は何か。西 最大の欠点は、地方公共団体の教育行政について、「その長が行わなければならない」と表記していること。各自治体の教育委員会は、一般行政から独立した組織だ。民主党案は、知事や首長が権限を持ち、彼らの意向が直接、反映されることになる。それでは、教育は政治から中立でなければならない、との基本原則から逸脱する恐れがあり、教基法改正に反対する人はもちろん、改正に賛成する人も危ぐを抱いている。政府案では、現行法の「不当な支配に服することなく」という“教育の中立性”を確保する条文を残し、制度的には、教育委員会を存続させている。 「愛国心」をめぐる表記について、政府案の「わが国と郷土を愛するとともに」は、大臣が「統治機構は含まない」と明確に答弁している。民主党案の「日本を愛する心を涵養し」は、条文に明記されておらず、あいまいだ。 宗教教育に関して、政府案は「宗教に関する一般的教養」と現行法を踏襲しているが、民主案は「宗教的感性の涵養」と表記。信教の自由を定める憲法20条との関係でも問題がある。公明新聞:2006年11月16日付教育基本法案を可決野党が採決ボイコット民主の対案は政争の具衆院特別委写真 野党が採決をボイコットする中、与党の賛成多数で教育基本法案を可決した衆院特委 衆院教育基本法特別委員会は15日夕、政府提出の教育基本法案の採決を行い、自民、公明の与党両党などの賛成多数で可決した。16日の本会議で可決、衆院通過を図る予定。野党は、締めくくり総括質疑と採決をボイコットした。 委員会は、午後1時から締めくくり総括質疑を行い、公明党の斉藤鉄夫氏(政務調査会長)は、2000年3月からの教育改革国民会議(首相の私的諮問機関)や、3年間で70回に及ぶ与党協議を経て政府案がまとまった経緯に言及し、「国民各界の方々に参加していただき議論したことに対し、一定の結論を得ることは国会の責務ではないか」と指摘。 野党が「審議が不十分」と訴えていることに対しては、先の通常国会と合わせて特別委員会での審議時間は100時間を超えていることを指摘し、「経過を考えると、議論が足りないというのは説得力がない」と反論した。 さらに、民主党は独自の法案を提出しているにもかかわらず、審議や採決を拒否したことについて「(民主党が)提出した法案は成立をめざすものではなく、政府案に反対するための道具と考えざるを得ない」と厳しく糾弾した。 採決に先立ち、賛成討論に立った公明党の西博義氏は、政府案について、新時代に即応したものと評価する一方、民主党案について「教育における政治的中立性が確保されず、個人における思想・信条の自由に抵触する内容となっており、到底、容認することはできない」と強調した。 一方、同委員会は同日午前、中央公聴会を開催した公明新聞:2006年11月16日付極めて完成度高い政府案教基法案 民主案に国家主義の懸念記者会見で太田代表強調写真 記者会見する太田代表〈政府案〉 〈民主党案の欠陥〉▼個人の尊厳など理念堅持 ▼国家主義の色彩ぬぐえず▼国家主義の懸念なくす ▼政治的影響受けやすい▼政治的中立性を守る ▼信教の自由に抵触の恐れ 公明党の太田昭宏代表は15日午後、国会内で記者会見し、教育基本法案などについて大要、次のような見解を述べた。 一、今、議論されている(教育基本法の)政府案は、小渕、森、小泉、安倍内閣と4代にわたり、実に6年間を経過して論議してきた(法案だ)。 一、政府案は、現行法の「個人の尊厳」「人格の完成」「憲法の精神にのっとり」という基本的な理念を堅持しながら、(現行法制定後)60年間に新しく提起された問題を全面的に引き受けて、足らざるものを補強する形で提案された、極めて完成度の高いものと認識している。 一、民主党案については、愛国心をうたうということの中から、国家主義的な色彩を排除できないという印象を大変、強く持っている。併せて、教育委員会についても、(民主党案は)教育行政を首長が行うことになっており、教育委員会制度によって担保されている教育の中立性が担保できないのではないかと、深い懸念を持っている。 一、愛国心の問題について、政府案は、わが党が特に主張してきた、(1)国という概念の中から統治機構を除くこと(2)国家主義にならないということ(3)「ナショナリズム」というよりも(郷土といった意味合いの強い)「パトリオティズム」ということ――に留意した表現になったということで、国家主義的ということについては排除できていると考えている。 一、(沖縄県知事選について)大変な接戦であると伺っている。沖縄は本当に苦労してきた県であるし、最も幸せを獲得していかなくてはならないところであると同時に、わが国における位置づけも、アジア全体の中心として、未来性のある平和の拠点であり、経済の拠点にしていかなくてはいけない。そのためには、与党の推薦する候補が勝つことが大事だ。公明新聞:2006年11月16日付教基法案 民主案には社共も反対沖縄知事選で野党 基本政策で一致なく“野合”北側幹事長写真 見解を述べる北側幹事長 公明党の北側一雄幹事長は15日夕、国会内で記者団の質問に答え、教育基本法案が衆院特別委員会で可決されたことについて、大要次のような見解を述べた。一、政府案の作成に際しては、政府・与党が長い時間をかけて議論してきており、法案が国会に提出されてからは、100時間以上もの充実した審議ができた。その意味で、委員会で採決ができたことは良かった。一、与党単独での採決になったことは、非常に残念だ。特に、民主党は対案を出しており、対案については審議もされてきたことから、民主党の議員にも出席していただきたかった。一、(与党単独採決が沖縄県知事選に与える影響について)国家主義的な色彩が残り、教育における政治の中立性が確保できない民主党の対案に関して、社民党も共産党も反対している。教育の在り方を定めた大事な法律で一致できない野党が沖縄県知事選では一致して(統一候補を)支援していること自体、“野合”と言われても仕方がないと思う。
2006年11月16日
2006年11月15日 20:32:15 「クローズアップ現代」で「愛国心」特集を見た。 やっぱ、不安、愛国心w 若い女性教師と男性教師の、それぞれの「愛国心教育」について、紹介があった。 若い男性教師の方は、日本の文化・伝統についての授業。「日本の文化・伝統にはどんなものがあるのか? (文化・伝統の一つである)箸の作法はどうして生まれたか?」などを考える。 若い女性教師の方がアレw 要約すると、「南の島の少女に“日本の風景は四季があって素敵ね”と言われた、日本人の少年の気持ちを考えてみよう」というもの。 生徒から「南の島にも美しい風景はあるのに、日本ばっかり言うのも?」との、強烈な“ツッコミ”があるも、先生の「日本人の少年の気持ちは?」(2回目w)との質問に、最終的には、ほぼ全ての生徒が「(日本は)美しいと思います」。 そりゃぁ、そうですよねw でも、日本人が「南の島の少女の気持ち」で日本を見てどうするのか?w 何の「隠し効果」?w せめて、外国の美しい風景とともに、日本の風景も見せて、「日本もキレイだな」とか、それぐらいの配慮は?w アレか、日本人にとっての「日本」とは、所詮、戦前から「外国人の目に映った国のありさま」ということか?w 「アジアは西洋とは異なる独自の文明圏」としながら、その「アジアの領主」に、日本がもっとも“ふさわしい理由”が、「日本が最初に西洋化に成功したから」とかいうアレか!?(そもそも、ひとまとめに“アジア”とする概念が、欧州のものっぽいw) も、もう、止めてくれぇぇっ!! イヤな、コンプレックスがぁっ!! 外国人の目に映る日本が、何だ! 日本は世界に責任を負っているが、それと目に映った姿は違うぞ! たとえダメなところがあっても、それでも愛せるのが本当の愛ではないのかぁぁーっ!? ('д') ドーンッ! 「若手右派」、やっぱ不安w こういう時こそ、アイヌ民族、沖縄民族、在日朝鮮民族に、文化・伝統の「伝え方」を学ぶときでしょw
2006年11月14日
2006年11月14日 14:48:51 生徒のみならず、教師の自殺まで相次いでいる。 (財)労働科学研究所の調査によると、教師の「ストレス」が、ほかの職種に比べて、かなり高いという。いかに「現場の力」を増すかが重要か。 自殺は、それ自体、最大の悲劇。 また、このような状態では、とても、続出する問題と「闘う姿勢」は整えられない。倒すべき「敵」とは、人間を、生命を破壊する“モノ”のはず。今のままでは、一番、喜んでいるのは「悪魔」だろうw 戦いの要諦は「異体同心」!『聖教新聞』2006年11月12日付男性教師 1.8倍の抑うつ感労働科学研 調査女性は「仕事量多い」4.6倍他職種と比較 気分が沈むなどの抑うつ感が強い男性教職員の割合は、さまざまな職種の標準値に比べ1.8倍に上ることが11日、財団法人・労働科学研究所が設けた「教職員の健康調査委員会」の調査で分かった。仕事量が多いと感じる女性は4.6倍にも達し、教師らが強いストレスにさらされている実態が明らかになった。 教師のストレスに的を絞った調査は初めてという。 調査は昨年11月に実施。岩手、神奈川、大阪、鳥取、大分の公立小中高校などに勤務する約6000人に「職業性ストレス簡易調査票」への記入を求めた。 回答が得られた約2500人分について症状や要因を分析。厚生労働省研究班が2002―04年に、同じ調査票で、さまざまな職種の約2万5000人から得た男女それぞれの標準値と比較した。 その結果、抑うつ感が強いとされた男性は11.5%と、標準値の1.8倍に達し、不安感が強い人も1.5倍、ストレスが頭痛などの症状となって現れる「身体愁訴」が強い人も1.6倍に上った。女性は、不安感が標準値の1.3倍で、抑うつ感と身体愁訴は標準値と同程度だった。 また、こうした症状に至る要因では、仕事の負担量が多いと感じる男性は2.2倍、女性は4.6倍に達し、肉体的に負担が大きいと感じる人は男女とも4倍弱に上った。 委員長の清水英佑東京慈恵会医科大教授(公衆衛生学)は「うつ病になる危険性があるような人も多かった。学校側は、遅れている教師の心のケアにも力を注ぐべきだ」と話している。
2006年11月13日
2006年11月11日 10:17:24 問題が大きくなっている「やらせ質問」。 「タウンミーティング、再開のめど立たず」、「タウンミーティングで国民的な理解を深めてきたとの政府の説明を、伊吹文科相が取り消し」、また「事実関係の徹底調査を続ける考え」とのこと。 絶対に「ころばない」場所で、なぜか「ころぶ」、それが今の「自民右派」w 不意にころんでも、かえって「逆転する」小泉前首相、または、絶対にころびそうなのに、なぜか「ころばない」石原都知事を見習ってほしいw〈やらせ質問〉政府の説明は前提が崩れた 伊吹文科相 (毎日新聞) 伊吹文明文部科学相は10日午前の衆院教育基本法特別委員会で、小泉純一郎内閣時代に開かれた教育改革に関するタウンミーティングの「やらせ質問」問題について、タウンミーティングによって教育基本法改正案への理解を深めたとするこれまでの政府の説明は前提が崩れており、不適当だったとの認識を示した。 今年4月の同改正案提出後、小坂憲次前文科相らは「タウンミーティングで国民的な理解を深めてきた」と説明していたが、伊吹文科相は「タウンミーティングで民意の広がりがあるというのは適当ではなかった」と指摘した。松本大輔氏(民主)の質問に答えた。 伊吹文科相はこれに先立つ記者会見で、文科省が質問案を作成した経緯について「誰が最終的な決断をしたかもある。トカゲの尻尾切りをしてはいけない」と事実関係の徹底調査を続ける考えを示した。特別委では、タウンミーティングを担当する内閣府の林芳正副内閣相が「(調査は)外部有識者を入れたものを考えるべきだと思う」と語り、第三者によるチェックが必要との認識を示した。 一方、下村博文官房副長官は会見で「内閣府からの指示で組織的な構成が行われたわけではないと承知している。それぞれ(開催場所によって)状況や事情が違っている」と、やらせが組織的なものではないと強調した。〈平元英治、衛藤達生〉[ 毎日新聞11月10日 ][ 2006年11月10日12時12分 ] 〈やらせ質問〉タウンミーティング 定着一転、存続の危機 (毎日新聞) 政府の教育改革に関するタウンミーティングで発覚した「やらせ質問」問題は、過去174回におよぶ全タウンミーティングを調査する事態に発展し、今後も問題は拡大する様相だ。小泉前政権が「政府と国民との直接対話」をうたい文句に導入したが、あらかじめ質問者を用意し、政府側の意に沿った質問をさせるやり方は国民の強い不信を招き、「情報操作」との指摘も出ている。政府は信頼回復に躍起だが、タウンミーティングの再開のめどは立っておらず、存続も危ぶまれる状況となっている。 「参加者には大変不愉快なことだろう。運営が不透明という批判が起きてもやむをえない」。内閣府の内田俊一事務次官は9日の会見で政府の非を全面的に認め、陳謝した。 政府の同日までの調査で「やらせ質問」が明らかになったのは、教育改革に関する過去5回のタウンミーティング。政府が事前に用意した質問案は、「新しい時代にふさわしい教育基本法となるよう改正が必要だ」(04年5月、松山市)▽「義務教育の財源が地方に移ると公教育に地域格差が生まれることが懸念される」(同年10月、和歌山市)――など文部科学省の意向を反映させたものだった。「できるだけ自分の言葉で」「『依頼されて』とは言わないでください」といった注意事項を付けたケースもあった。 タウンミーティングは小泉純一郎前首相が就任時の公約に掲げ、01年6月~06年9月に計174回開かれた。昨年の場合、1カ所につき平均1100万円の開催費をつぎ込むなど「劇場型政治」の典型とも指摘されてきたが、自作自演のPRショーの疑いをぬぐえなくなっている。 政府は調査結果が出るまで再開を見送る方針だが、時期については「時間を少しいただきたい」(塩崎恭久官房長官)と述べるのが精いっぱい。タウンミーティング自体は抜本的に見直した上で存続させる意向だが、信頼回復のための妙案は見いだせないでいる。〈平元英治〉[ 毎日新聞11月9日 ][ 2006年11月9日23時48分 ]
2006年11月10日
2006年11月5日 8:40:06 『公明新聞』(10月31日付)より。「教育問題」について考えてみる。しかし、「問題」が多いw 「履修漏れ」「いじめ」などの問題から、「教育委員会」のあり方が議論に。 公明党の西博義衆院議員は、「教育委員会」の制度は“教育の中立性を保つために存続すべき”とし、その上で“権限や役割について、抜本的に充実、強化を”と提案(衆院特委、10月30日)。 昨今、様々な「問題」が起きても、それについての「責任の所在」が、“あやふや”な模様。厳しくいうと、「組織」として「問題に取り組む姿勢」ができてないのか。 「いじめ」については「教育委員会」などによる「隠ぺい」疑惑も。「訴訟対策」かもだが、これでは、とても「いじめと闘う姿勢」とはいえない。 基本的に「教育委員会」があるので、直接的な「国の責任」ではないよう。「国の責任だ」との意見もあるが、それは「国の権限」を強めたいから?w それも一つの手とはいえ、政府や政治から「教育の中立性・独立性」を保つために「教育委員会」はある。日本は過去に、“一日で教科書が黒塗り”(w)になった歴史もあり、「国の権限の強化」よりも、「教育の中立性・独自性を重視」したいのは、もっとも。 ぶっちゃけ、一番、確実なのが、池田先生の提唱される「四権分立(=教育権の分立)」だろう。「共産党政権」ができても、これなら安心w といっても、すぐにはできないだろうから、「教育委員会」の権限・機能強化が確実か。少なくとも、教育者でない人がなるような「お飾り」的な人事があるなら、すぐ止めるべきでは?w あと、「中立性」を前提に、地方の「教育委員会」を“統率”して、対策を打ち出していける「リーダー的な組織」などはないの? また、歳出削減の「事業仕分け」みたく、「教育の事業の仕分け」ができたら良いような。教育の課題を、国(または中立の最上部組織)でやる、上部組織でやる、下部組織でやる、現場でやる、と分けると。 まぁ、少なくとも「責任の所在」ぐらいは明らかにすべきか。このままでは「組織」として、劣っているような。 あと、今話題の「愛国心」について。西氏は「過去に国家を優先しすぎ、国民が有する基本的人権などの諸々の権利が制約されたという教訓は忘れてはならない」と主張。これに対し、安倍首相は“内面の評価はしない”、“統治機構は含まない”と答弁。思ったより、しっかりしてる!w(失礼w)公明新聞:2006年10月31日付子どもの幸せが教育の目的教基法案の実質審議再開“現場重視”などへ転換必要衆院特委で西氏写真 質問する西氏 教育基本法案は30日、衆院教育基本法特別委員会で安倍晋三首相、伊吹文明文部科学相ら関係閣僚が出席して総括質疑が行われ、実質審議が再開した。 質問に立った公明党の西博義氏は、高校必修科目の履修漏れ問題に関して、柔軟で公平な対応を求めるとともに、「これまでの学校教育のひずみの一つであり、現場を責めればよいというものではない」と指摘。子どもの幸せそれ自体を目的とする教育、現場重視、社会に開かれた教育への転換が必要だと主張した。 伊吹文科相は「考えに全く異論はない」と強調。教育再生や現場重視の理念の反映に向け「制度的に改革していくための、教育の基本を定めたのが今回の法案」として、教基法案の成立に意欲を示した。 西氏は、教基法案の愛国心をめぐる表記に関して、「過去に国家を優先しすぎ、国民が有する基本的人権などの諸々の権利が制約されたという教訓は忘れてはならない」と主張。先の通常国会での議論も踏まえ「ここでいう国の概念に統治機構は含まない」「通知表などで内心を評価することはない」との点を再確認し、見解を求めた。 安倍首相は、「『国を愛する態度を涵養』に、統治機構(を愛するという意味)は含んでいない」と強調。学校での評価において「国を愛する心情について、内面に入り込んで評価するということではない」と述べた。 さらに、西氏は、いじめや履修漏れ問題に関して、教育委員会制度のあり方に言及。教育の中立性を保つために制度は存続すべきとした上で、「権限や役割について検討が必要。今こそ抜本的に充実、強化をしていく時ではないか」と訴えた。 伊吹文科相は、「地方と文科省の義務教育、高等教育に対する関与のあり方に問題がある」と強調。教委について、制度の存続は必要とした上で、制度強化の検討は必要との認識を表明した。
2006年11月04日
2006年10月26日 19:07:47 いじめは「いじめた側」が絶対に悪い! いじめは「いじめた人」のほうが人として弱くて、醜い! いじめは「いじめた側」に「人間としての正義」がわかっていない!! 成績や性格がどうであろうと、気持ちが弱かろうと、たとえ一時的に間違いを犯してしまっても、それが「理由」で、精神的・肉体的な「暴力」をふるってよいという「理由」にならないのは、ある意味、当然。 いじめは「人道上の犯罪」であり、「見て見ぬふりは“共犯者”」という確固とした「考え・思想」が大事そう。公明新聞:2006年10月25日付いじめ根絶へ対策急げ「絶対許さない」社会を今こそ“現場発”の解決策を 学校内のいじめが原因で、福岡の男子生徒と北海道の女子児童が自殺するという深刻な問題が相次いで明らかになり、いじめ対策の必要性が改めて叫ばれている。 公明党の太田昭宏代表は18日の記者会見で、「いじめで将来ある命が奪われる。こうした悲劇はなくさなければいけない」とし、政治としても早急に対応措置をとるべきだと強調。「現場で雑務などに追われている教師が百パーセント、生徒に向き合っていけるような体制を組んでいくことが大事」との考えを示した。さらに22日の党愛知県本部大会では、いじめを早期に発見する支援体制構築の重要性にも言及し、公明党議員がひざ詰めで教師などの話を聞き、“現場発”の解決策を提案していこうと呼びかけた。 いじめは、いかなる理由があろうと絶対に許してはならない。あらゆる手段を尽くして根絶させるべきである。公明党は各地で申し入れを行うなど、いじめ防止への行動を開始しているが、太田代表がいうように今後、徹底して現場を調査する中で、実効性のあるプランを提出していきたい。 今回明らかになった福岡県のいじめは、本来いじめの解決に当たるべき教師の言動が発端になったという。一方、北海道滝川市のいじめについては、市教委、学校は「いじめはない」と固執してきたが、遺書内容が報道され、自殺から1年以上たってようやく、いじめを認めた。2件の自殺は、児童・生徒を取り巻く教師をはじめ、学校や教育委員会に問題が潜んでいることを示唆している。 そこには、「いじめ」と聞いても何となく「またか」という、感覚のマヒがあったのではないか。「いじめは昔もあった。大したことはない」とか「こんな時代だから少しくらい」とか「いじめられる側にも問題がある」などという誤った考えがなかったか。「いじめは人道上の犯罪。断じて許さない」という強い意志を学校はじめ社会全体に行き渡らせることこそ、いじめ根絶の大前提だ。今回の事件を機に、まず、子どもを守るべき大人たちが、いじめを心底憎む共通の認識に立つべきだ。 その上で、現実に起きているであろう「いじめ」を無くすための対策を急がねばならない。子どもたちが自ら命を絶つような悲劇を繰り返してはならない。特に問題なのは、いじめをしている側に、親を含めて罪の意識が薄いことである。カギ握る周りの人 学校側は「どんな理由があろうと人を苦しめるいじめは悪」という姿勢を貫き、いじめを発見したらすぐにやめさせる行動を起こすべきだ。 また、いじめを無くすカギを握っているのは、周りで見ている人たちである。児童・生徒たちには、「自分は関係ない」「見て見ぬふり」は“共犯者”という考え、いじめに対し「やめろ」と言うことの尊さをぜひ教えたい。 今、子どもからの悩み相談を受け付けるNPO法人や弁護士会などには、深刻ないじめの被害を訴える声が多数、寄せられている。背景には、担任や親など周囲の人たちに分かってもらえない現実があるという。子どもたちにとって、悩みを相談できる人がひとりでもいれば大きな救いだ。その人が常に身近にいる社会を作っていくことが重要である。いじめ問題の解決は、“子ども優先”の社会構造改革ができるかどうかにかかっている。
2006年10月25日
2006年11月8日 20:39:20 いじめは「絶対に悪」であり、「道義上の罪」であり、また「単なる犯罪」である! いじめを「根絶」するために。 久しぶりに読んだけど「希望対話」、すごい迫力ですな。「いじめを断じて許さない」という「気迫」が。 いよいよ、いじめを断絶する「時」が来ているような。『希望対話 21世紀を生きる君たちへ』(池田大作 聖教新聞社)いじめ1 いじめた側が100%悪い(より抜粋)「いじめられる人も悪い」は間違い!「いじめた側」が100%悪い!!相談することは恥ずかしくない(略) 名誉会長 (「クラスのリーダー的な人に無視されてから、みんなに無視されるようになった」という)質問に「自分にも何か原因があるのかもしれませんが」とあったが、そんなことを考える必要はありません。君は、どこも悪くない。「いじめている」側が、100パーセント悪い。1000パーセント悪い。 「いじめられている」側に問題があるのではない。「いじめる」側が、自分の中の「もやもや」とかを、ぶつけているだけです。「原因」は、いじめている側の「心の中」にあるんです。 松村 たしかに、今のいじめは、突然、理由もなく、やってくるんです。たとえば、クラスで力のある子が「あの子、むかつかない?」といえば、みんなも「うん、むかつく」と。そして「シカトしようか」となるんです。 白土 彼は、夏休みの中等部の研修会に来ていて、自分から私に声をかけてくれたんです。話を聞いて、びっくりしました。明るくて、はきはきした子で、いじめに悩んでいるようには見えなかったからです。彼自身は「ぼくは、堅くて、柔軟性がないから、人の意見を聞けなかった面があるかもしれません」と言っていましたが……。「いじめられて当然の人」はいない 名誉会長 そうじゃないんだよ! もし、かりに、そういう面が自分にあったとしても、どうしてそれが「いじめられてもしかたがない」ことになりますか。 だれだって、完全な人間なんかいない。欠点だらけです。だからといって、その人を「いじめていい」ことになりますか。そんなことを言ったら、「いじめている」側のほうが、よっぽど不完全で、卑怯ではないか。人間として最低でしょう。 「みんながやっているから」「だれかが言ったから」「いっしょに、いじめないと、今度は自分がやられるから」。もしか、そんな理由で、簡単に人をいじめるのを「柔軟性」と言うのならば、そんな「柔軟性」なんか、ないほうがいい! そんなのは柔軟性ではなく「付和雷同」という。日本人の一番悪いところです。 だから、「いじめられている」人は、決して、自分を恥ずかしいと思ってはいけない。自分を、みじめに思ってはいけない。「恥ずかしがらないといけない」のは、いじめている側です。そちらの方が、本当は「みじめな人間」なんです。 だから、胸を張りなさい。目を伏せてはいけない。そんな、くだらない人間の仕打ちに負けてはいけない。負けたら、自分が損だよ!「いじめ」がなくならない原因 松村 今、思ったんですが、たしかに「いじめ」について話していると、「いじめられる側にも問題がある」という考えの人が、けっこう多いんです。時には、学校の先生方にも、そういう考えの人がいるようで、ビックリしました。この考え方が、“いじめが、なかなかなくならない”大きな原因ではないでしょうか? 名誉会長 「いじめられる側の問題」というのは、たとえば? 松村 よく聞くのが、「暗いから」とか「わがままだから」とか「なまいきだから」とかです。 白土 体つきのことや、「目つきが悪い」とか、「勉強ができる」というのも理由にあげられます。 名誉会長 しかし、反対に、勉強ができないことが、いじめの原因とされることもあるでしょう? 白土 そうなんです。 名誉会長 勉強ができても、できなくても、いじめられる。太っていても、やせていても、いじめられる。「暗いから」といって、いじめられ、反対に「目立つから」といって、いじめられ、じゃあ、どうしたらいいのか。 松村 どうしようもありません。 名誉会長 だから、いじめられる側の責任じゃないんです。100パーセント、いじめる人間が悪い。 第一、「暗い」とか何とか、どんな表情をしていようと、個人の自由じゃないですか! 何も、そんなこと、人からとやかく言われる義務はない。何も悪くない。 白土 その通りだと思います。ただ、その子が「うそをついた」とか「約束を破った」とかが、いじめの原因になる場合もあるようなんですが……。どんな“理由”もすべて“言いわけ”いじめられる側も悪い? 名誉会長 それが事実だとしても、「だから、いじめていいんだ」ということになりますか? たとえ、相手が悪くても、いじめてはいけないんです。 相手がウソをついたら、ナイフで傷つけてもいいのか。そんなことはない。相手の性格が悪かったから、殴っていいのか。そんなことは、絶対にない。それと同じです。「いじめ」は暴力です。どんな理由も、理由にならない。 「いじめられる側にも原因がある」というのは、いじめる人にとって、つごうがいいから、そう言うのです。また、いじめを「見て見ぬふり」をしている人が、自分の勇気のなさをごまかす「言いわけ」です。私は、そう思う。 松村 本当に、そうです。もしも、何かの理由があって「気にいらない」なら、それを友情をこめて伝えて、なおすように努力してもらえばいいんですから。 だけど、そんなことはしないんです。「いじめの材料」に使っているだけです。「いくじなし」だから被害者に? 白土 父親に相談したら、「いじめられるなんて、お前に『いくじがない』からだ」とか言われて、いじめられている自分のほうが悪いように責められた人もいるようです。いじめられるのは「弱い」からだ、強くなればいいんだ、という声はよく聞きます。 名誉会長 それも、まちがいです。いじめを増やしている原因です。 それじゃあ、いじめている人間が「強い人間」なのか。そうじゃないでしょう。人を苦しめる人間の、どこが強いんですか。人間として、一番弱い、一番醜い心ではないですか。自分で自分の醜い心に負けている「弱い人間」ではないですか。 そういう暴力人間を「強い」ように勘違いしているところに、「いじめ」の根源がある。日本社会の狂いがある。 昔も日本は、お隣の韓半島(朝鮮半島)や中国を侵略しておいて、「日本が強く、相手が弱い国だったからだ」と、まるで相手が悪いようなことを言っていた。 その狂った論理が、今も抜け切っていない。社会全体が、今なお「人間としての正義」ということがわかっていない。ここに問題があるんです。 白土 よくわかりました。 松村 いじめで自殺した子に対して、「死ぬのは、本人が弱いからだ」と言った人がいました。 私は、死んだ子が、かわいそうで、涙が出てきました。死ぬところまで追い詰められて、どんなに苦しかったことか……。それなのに、死んだ後まで、なんで、そんなことを言われなければならないのか! だから、池田先生が「いじめたほうが1000パーセント悪い」と、はっきり言ってくださって、本当にうれしいです。自信を失うな 名誉会長 そうだよ! だから、いじめられている人は、「自分が悪いんだ」などと思ってはいけない。自信をなくしてはいけない。「どうせ自分のせいなんだ」などと、あきらめてはいけない。 反対に、「自分は、正しいんだ」「いい人間なんだ」「自分には、すごい使命があるんだ」と言い聞かせなさい。本当に、そうなのだから! 心の中で、「君たちが何をしようと、自分は負けない! まちがっているのは、君たちだ! 人の悲しみがわからないキミたちのほうが『悪』なんだ!」と叫びなさい。そして「自分は、一生、人をいじめるような人間にはならない」と決意することだ。 白土 本当は、いじめる相手に対して、「やめろ!」と言えれば、一番いいんでしょうが……。そうすると、「反抗」したために、余計、いじめられるようになる場合もあるんです。 名誉会長 それは状況しだいだし、いじめがひどくならないよう、賢く対処しなければならない。 「いじめは狂犬にかまれたようなものだ」と言った人がいる。正しい反論が通用するような状況でないことが多いでしょう。だからこそ、「いじめ」という狂ったことをするのだから。しかも、今のいじめは、大人が想像できないほど陰湿で、暴力的になっていると言われる。まともに相手をして、けがをしてもしかたがない。 具体的にどうするべきか、これから一緒に考えていきたいと思うが、ともかく、どんな状況にあろうと、まず「心では負けない」ことだ。「あきらめない」ことだ。「絶対に、乗り越えてみせる!」と、まず決めることだ。そう決めれば、状況によって、いろんなやり方があるはずです。
2006年10月25日
2006年10月22日 21:08:12 健康とは、試練からの「挑戦」に対する「応戦」。 『常に病気に立ち向かいながら、ダイナミックに「均衡状態」を維持しようと努める「不断の闘争」』 また、「師弟」こそ人間教育の真髄。 「人は、自らの師の偉大さを語るとき、最も偉大な光を放つ」『聖教新聞』2006年10月22日付池田名誉会長の世界との語らい第12回 カナダモントリオール大学シマー元学長ブルジョ教授 師・戸田城聖先生は、現代人には二つの思想の迷乱があると喝破なされた。 一つは「知識」即「智慧」という錯覚。 一つは、「健康」即「長寿」という混同である。 カナダを代表する一級の知性であるとシマー博士、ブルジョ博士とも、この点をめぐって語らいがはずんだ。 シマー博士はモントリオール大学の元学長で、がん研究の第一人者。ブルジョ博士は同大学の教育学部教授で、生命倫理の大家である。21世紀の「医学と健康」と「健康と智慧」を展望するには、当代随一のパートナーであった。「挑戦」と「応戦」 恩師はよく、健康と生命の関係を「病気上手の死に下手」という言葉を用いて説明された。 ただ病気にかからないよう注意していれば、長生きできるというわけではない。また、長生きイコール幸福で充実した人生とはいえない。 ブルジョ博士も賛同されている。 「医学は寿命を延ばすことには成功しましたが、生命に新しい活力を与えるところまではいっていません」 世界一の長寿国となった日本の現実を見ても、それは痛感せざるを得ない。 そもそも、心の「健康」とは何だろうか――。 「どこにも病気がない」状態を指すのではない。常に病気に立ち向かいながら、ダイナミックに「均衡状態」を維持しようと努める「不断の闘争」であると、博士は定義される。 たしかに、人間の体は常に戦っている。有害な細菌やウィルスなどの侵入に対して、白血球は闘争を挑み、病気になるのを防いでいるのだ。 「安定と動乱が絶えず繰り返されて社会と人間の歴史がつくられていくように、健康もいささか似たところがあるように思えます」 ブルジョ博士の言葉に触れて、私は、あのトインビー博士の歴史観の精髄を思い出した。 さまざまな試練の「挑戦」に対して、人間が「応戦」するなかでこそ、文明は発展する――と。 思うに「健康」とは、病魔の「挑戦」に立ち向かう、「応戦」の力が十全に発揮された状態とはいえまいか。 人間の生き方に即していえば、絶えず、何かに挑戦する。何かを創造する。前へ前と自分の人生を開拓していく。この「闘う生命力」こそ、ブルジョ博士の言われる「活力」であり、真の健康人生の源であろう。博士御自身の健康法も、「問題を積極的に解決して、くよくよしないこと」、そして「よく歩くこと」であるという。(略) 「智慧の開発」について、ブルジョ博士は、「対話」に着目した興味深い教育モデルを提唱されていた。博士は、それを「連帯型教育」もしくは「交流型教育」と呼ばれている。 これは、教師による知識の詰め込みといった、従来の一方通行の教育とは異なる。教師と学生が開かれた対話を重ねながら、相互に英知を触発し合い、豊かな才能を開発してゆく方法である。連帯型・交流型 こうした「連帯型」「交流型」教育によって培われた「智慧」こそ、「人生の苦難を乗り越える原動力」になると、博士は洞察されている。 私は、このモデルに心から共感した。声と声、生命と生命、人間と人間とが、ある時は火花を散らして打ち合い、ある時は魂を交響させて織りなす真剣勝負の対話。そこにこそ、英知の鍛錬はあるからだ。 これを伝えたい。これだけは教えたいという教師の大情熱。これを知りたい。これだけは学びたいとの学生の向上心。両者の切磋琢磨に、みずみずしい智慧は育まれていくのではないだろうか。 人間を磨くのは、師弟である。人間をつくるのも、師弟である。「師弟」という絶対無二の法則に、人間教育の真髄はあるのだ。 お二人の語らいで、ひときわ心躍る一時があった。シマー博士も、ブルジョ博士も、若き日に巡り会った師匠の素晴らしさを、最大の感謝と尊敬を込めて語られたのだ。 「人は、自らの師の偉大さを語るとき、最も偉大な光を放つ」 ある哲人の忘れ得ぬ言葉である。
2006年10月22日
2006年10月23日 11:49:41 衆院特別委員会で公明党・伊藤渉議員が「いじめ」問題について質問した(『公明新聞』2006年10月20日付) 「いじめは絶対的に悪」と強調した上で、「大人自身の意識改革が必要」と指摘 「いじめは、いじめた側が100%、悪い」、ですな。「いじめられた側にも落ち度があった」なんてのでは、“いじめたモン勝ち”になってしまうw それに、もし、本当に“落ち度”があるなら、「対話」や「協力」で解決できるはず。有無を言わせぬ「集団的暴力」に頼る論理は通用しないw しかし、教育現場には「いじめを隠している疑い」があるとか。本当に「いじめは絶対悪」と思うなら、“隠す”などせず「いじめと闘う」「姿勢」を整えるべき。(同) (教師が事務的な仕事に追われている現状などをふまえ、)「家庭や学校に対して、安易に責任を求めるだけでは解決につながらない」「社会全体の教育力を底上げし、教育のための社会へ大転換を」と訴えた。 文部科学省側は、「早寝早起き朝ごはん運動」などを通して、「学校、家庭、地域の連携を図り、地域の教育力の向上に努める」と答えた。 成績が悪くなった「一番の理由」と目されているものが、「生活リズムの乱れ(朝食抜き、夜更かしなど)」というのが笑えるw やはり、全てにおいて「基本が何より大切」か。「生活(食事、睡眠など)」などは、「勉強」以前の「基本」だしw もちろん、人のこと言えないw さらに、『幸福に生きるために 牧口常三郎の目指したもの 』(古川敦 第三文明社)から、牧口先生の「教育哲学」を。 「幸福は相続できない」――財産を相続できても、幸福は相続できない。知識を継承しても、幸福は継承できない。 幸福は、だれからも与えられず、だれも与えることはできない。だから、幸福は、自分自身が勝ち取る以外にない。 自他ともの幸福を創造する人間――これが、牧口先生の「教育の目的」。『幸福に生きるために 牧口常三郎の目指したもの 』(古川敦 第三文明社) いったい、国民教育の目的は何であろうか。……(教師の)諸君が膝もとに扱っている可憐な児童たちを、どうすれば将来もっとも幸福な生涯を送らせることができるかという問題から入っていくほうが、時にかなった適切なことと感じるものである。(『地理教授の方法及内容の研究』) 教育の目的は何か。それは、子どもたちの幸福にほかならない。(略) けれども、教育勅語のもとで行われていた戦前の学校教育は、それとはまったく逆であった。天皇の臣民を養成するという、国家のための教育だった。 牧口は、そうした状況のなかで、あくまでも、本来の教育の姿を求めようとする。人生の目的は幸福にある。それゆえ、教育の目的は、子どもたちの幸福でなければならぬ。教育は子どもたちが幸福をつかむためにある、と叫び続けていたのである。 創価学会の池田大作名誉会長は、「21世紀の教育を考えるにあたり『社会のための教育』から『教育のための社会』へのパラダイムの転換が急務ではないかと、訴えたいのであります」(「『教育のための社会』目指して」)と述べている。国家のため、社会の繁栄のために、人間を手段とするのではなく、一人ひとりの人間の幸福を、社会の目的としなければならない。 社会は残酷なものである。……そのなかで、屋根となって児童たちをかばうことができる唯一の存在は、教師だけであるだろう。……子どもたちが嬉々として登校してくるのは、教師の慈愛にみちた顔があるからである。(「単級教授の研究」)(略) 入学難、試験地獄、就職難などで、一千万の児童や生徒がとても苦しんでいるという現代の悩みを、次の時代にまで持ち越すようなことがあってはならぬと思うと、心は狂わんばかりで、誉められようと謗られようと、そんなささいなことなど、私の眼中にはない。(『創価教育学体系・第1巻』) 『創価教育学体系』という書物は、どの巻の、どの部分を開いても、子どもたちを思う温かな慈愛のまなざしを、強く強く感じることができるだろう。牧口常三郎が、どんなに子どもたちを尊重し、どれほど子どもたちの幸福のために心をくだいていたが、ひしひしと伝わってくる。(略) 幼年時代から青年期に至るまで、十数年にわたる学校生活においての学習指導が、ことごとく知識の詰め込み・ノートの作成で、これをもって学校教育の本質であると思う状態であれば、研究・思考・創作などの萌芽がまったく蹂躙されてしまうのも無理はない。このようにして、日本人の頭脳の大部分は、その間違った教育法の病弊のために頑固となり、学問と生活とがまったく隔離してしまい、われわれの生活は、二元的なものに分裂したのである。(「教育態度論」) 牧口常三郎は、生活と知識がバラバラになっているために、学校で身につけたはずの知識が、実生活では役に立つことがない、と嘆いている。当時、日本の学問の多くが、外国(西洋)から輸入し、真似ているだけで、民衆に根ざしたものではなかった。とにかく、役にたちそうな知識を、子どもたちの頭に詰め込むことが、学校教育とされていた。(略) 学問のない生活は暗中模索に等しい。(略)また、それとは逆に、生活から遊離した学問は空虚になる。(略) 「遺産は相続することができるが、幸福は相続することはできない」という、アルフレッド・ノーベル氏の格言は、幸福と財産との不一致を喝破して余りない。(『創価教育学体系・第1巻』)(略) 実際に、牧口は、世の中において、財産を相続したために堕落したり、悪人や愚かな人間となって不幸を招く場合も多いことを、指摘する。金持ちイコール幸福ではない、ということ。それは、財産を地位や知識などに置き換えても同じである。地位は相続できても、幸福は相続できない。知識は継承できても、幸福は継承できない。地位イコール幸福でも、知識イコール幸福でもない。(略) 牧口は、人間はどうしたら幸福になれるかを追求した。そして、その結論は、自らが幸福を勝ち取る以外にない、ということであった。人びとがこのことを十分に理解するようになれば、おたがいに憎しみ合う不条理な貧富の格差や階級闘争などもなくなるであろう、と述べているのである。 このことについて、池田名誉会長は、次のような話をされている。「(牧口先生は、)いわゆる資本主義の立場も、社会主義の立場も、『物質的満足』に幸福をみている点では同じであるとし、その共通の誤りを指摘されたのである。この点、牧口先生は思想的に、後の冷戦構造も、すでに超越しておられた。幸福は相続できない。『幸福』は、だれからも与えられない。だれも与えることはできない」(『池田大作全集・84巻』) 幸福の第一条件である健康のためには、活動を第一とする。(『創価教育学体系・第1巻』) さらに、牧口常三郎は、幸福の第一の条件は健康であり、そのためには活動が大切である、と述べている。しかも、活動は、価値創造的でなければならない。 幸福は相続できないし、だれからも与えられず、だれも与えることはできない。だから、幸福は、自分自身が主体的に創造する以外にない。これが、牧口の信条であった。自分で幸福になれる人間、そして、自他ともの幸福を創造する人間――まさに、これが、牧口の目指した、教育の目的だったのである。公明新聞:2006年10月20日付大人の意識改革必要いじめ問題 メディア活用し啓発を衆院青少年特委で伊藤氏 19日の衆院青少年問題特別委員会で公明党の伊藤渉氏は、「いじめ」問題について質問した。 この中で伊藤氏は、「いじめは絶対的に悪」と強調した上で、いじめ問題を解決していくためには、「大人自身の意識改革が必要」と指摘。そして、大臣自らが常に、記者会見や政府公報などのメディアを活用し、国民に呼びかけていく重要性を訴えた。 これに対して、高市早苗内閣府特命担当相は、「あらゆる場を通じて呼びかけていく啓発活動は大事」との見解を示した。 さらに伊藤氏は、学校の教員が事務的な仕事に追われ、生徒と向き合う時間が取れていない現状について、「家庭や学校に対して、安易に責任を求めるだけでは解決につながらない」と指摘。問題解決のために、「社会全体の教育力を底上げし、教育のための社会へ大転換を」と訴えた。 これに対し、文部科学省側は、「早寝早起き朝ごはん運動」などを通して、「学校、家庭、地域の連携を図り、地域の教育力の向上に努める」と答えた。
2006年10月20日
2006年10月8日 15:37:02 公明党の山下栄一、山本かなえ両参院議員が、「学校教育」と「企業実習」を並行して行なう「人材育成制度」=「デュアルシステム」を視察。 やっぱり、牧口初代会長の提唱された「半日学校制度」(=半日学んで、半日働く)ではないですか! と。 教育の「最低限の目標」が「一般的な社会人」を育てることなら、一歩も社会に出さずに「机の上だけ」で育てるというのは、ムリがあるのではないですか! と。 例えば、「一般的な農家」を育てるのに、畑にも出さず、土にも触れさせないで、果たして「一般的な農家」が育つのですか! と。 思うのですが、どうなのですか! 「国家神道」を狂信する狂った「軍国主義者」どもが、無謀な戦争に反対した牧口先生を投獄し、獄死させたせいで、日本の「教育改革」が少なくとも「100年」は遅れたとするのは考えすぎですか!! とw公明新聞:2006年10月7日付就業体験が教育に効果デュアルシステムを唯一導入普通科高校を視察東大阪市で山下、山本かなえさんら 公明党の山下栄一、山本かなえ(参院選予定候補=比例区)の両参院議員は6日、大阪府東大阪市の府立布施北高校(岸川和夫校長)を訪れ、同校が取り組むデュアルシステムについて視察した。公明党の谷川孝大阪府議、市議会公明党(平田正造幹事長)の議員団が同行した。 デュアルシステムは、学校教育と企業実習を並行して実施する新しい人材育成制度。同校は2004年度に文部科学省の研究校に指定され、普通科では同システムを導入している全国唯一の高校として注目されている。 この日、山下氏らは2年生の「デュアル基礎」の授業を見学した後、同システムの取り組み状況について聞いた。岸川校長らによると、現在、2年生13人、3年生14人の計27人が同システムに参加。デュアル科は選択制で、1年間を通して製造、保育、介護福祉、商店など24カ所で週1回、企業実習に励んでいる。 同校長は「就業体験を通し、生徒が着実に成長している。進路が明確になって就職を勝ち取った生徒もおり、教育効果は大きい」と強調した。さらに、同システムに参加する生徒7人と懇談し、「周りの人との触れ合いでコミュニケーションが取れるようになった」「職場で励まされ、やりがいを感じる」などの声が寄せられた。 この後、一行は企業実習の生徒を受け入れている株式会社大阪工作所(高田克己代表取締役)を訪問した。 山下氏、山本さんは「デュアルシステムの導入で生徒の社会に対する意識が大きく変わっていることを実感した。学校現場での体験学習にさらに力を入れていきたい」と述べていた。『月刊公明』2006年4月号景気回復は「フリーター・ニート」に及ぶか(より抜粋)労働政策研究・研修機構小杉礼子 最近刊行した『キャリア教育と就業支援』(小杉礼子・堀有喜衣編著、剄草書房)では、アメリカ、イギリス、ドイツ、スウェーデンで展開されている大人への移行を支援する政策を比較分析したが、どの国でも若者を学校から職業生活へスムーズに移行させるために、職業教育と普通教育、アカデミックな教育をどの段階でどう学ぶのか真剣に考えられていた。特に、義務教育を終える数年前から、本人に職業的方向付けを意識させ、就労現場を体験する機会を与えるばかりでなく、求職活動の仕方など職業生活にかかわる具体的でかつ幅広い知識を伝える教育が共通して展開されていた。新卒で安定雇用に入れるとは限らない現状を考えれば、わが国でもこうした教育が改めて重要だろう。 また、特に職業生活への移行が難しい若者に配慮したプログラムがあった。アメリカでは高校中退予防プログラムがあって、専門家が高校内に常駐し履修指導や学習相談等の個別指導に当たっていた。学校を離れた後のプログラムとしては、同じくアメリカには、就労するために必要な意欲・構え・知識・技能を身につけることを目的とした寄宿制のプログラムがあり、その成果は高く評価されていた。若者の自立には、教育と労働が融合したプログラムが必要だが、それは、これまで新卒就職・採用の慣行が広く若者を覆っていたわが国では、未発達の分野である。今後の政策の一つの重点はここにあろう。
2006年10月07日
2006年10月7日 17:41:23 教育改革のための「教育再生会議」が内閣に設置される。 教育改革も「教育再生会議」もイイのだけど、TV報道では「桜井よし子」も会議のメンバーになるとか? 単なる「杞憂」ならヨイが、正直「不安」w オレの中では「ジャーナリスト」を名乗りながら「週刊新潮」に連載している時点で、すでに終わっている……(「週刊新潮」に命じられた、1990年以降の損害賠償金の総額が「1億円」突破間近w〈『柳原滋雄WEBサイト』より〉)。 しかも、「祭神名票」を盾にして靖国参拝を擁護しようとして、結局「失敗」してるし……w(「祭神名票〈合祀名簿〉」=政治から宗教への干渉=無効、または憲法違反w) 日曜朝のテレ朝で、韓国のノムヒョン政権のこと「クレイジー」とか言ってたし……www どんなにキライか知らんけど、民主主義の政権に「クレイジー」いう人、アタシ初めて!www もしや、これが「再チャレンジ」?w なまじ知ってるせいで、「教育再生会議」が、かえって心配ですw公明新聞:2006年10月6日付教育再生で与党協議会設置衆院補選の完勝へ総力テロ特措法延長など成立期す自公幹事長 自民、公明の与党両党の幹事長、政務調査会長、国会対策委員長は5日、都内で会談し、今国会の対応などについて協議した。公明党から北側一雄幹事長、斉藤鉄夫政調会長、漆原良夫国対委員長が出席した。 会談では、教育改革を進めるための「教育再生会議」が内閣に設置されることを踏まえ、北側幹事長が「政治として、きちんと受け皿をつくって対応していくべきではないか」と、教育問題に 関する与党協議会の設置を提案し、早期に立ち上げることで一致した。同協議会では教育基本法案だけでなく、ニートやフリーターの問題なども含め、幅広く議論する方針。 また、自民党の中川秀直幹事長が、安倍晋三首相から今国会での着実な法案処理について協力要請があったことを紹介。その上で、11月1日で期限が切れるテロ対策特別措置法の効力を延長する同法改正案と、前国会からの継続審議になっている(1)教育基本法案(2)防衛庁を省に移行させる防衛庁設置法等改正案(3)憲法改正の手続きを定める国民投票法案(4)道州制特区推進法案――の5法案について、今国会で成立させることで一致した。 一方、22日に投票が行われる衆院神奈川16区、同大阪9区の両補欠選挙について、「二つとも絶対に勝とう」と、完勝へ総力を挙げて取り組むことを確認した。 民主党が補選前の開催を求めている党首討論については、「望むところだ。ルールに従って、しっかりやっていこう」と応じる方針で一致した。 与党両党の幹事長、政調会長、国対委員長による会議は、今後、週1回、定期的に開くことも決めた。
2006年10月06日
2006年9月29日 23:12:04 安倍新総理は「公教育改革」を政権の柱に掲げている模様。 「公務員」は、どんなに「失敗」しても「食っていける」のがね、プロじゃないなと。かといって、1点2点の「平均点」を競い合っても意味なさそうだし。 やはり、「子どもの社会性を育むべき」ってのが、最近、よく言われるか。勉強は一人でできる「引きこもり行動」だ、ともw 牧口先生も「半日学校制度」を提唱されたし。 そもそも、少なくとも「一般的な社会人」を育てようってのに、社会に一歩も出さず、「机の上だけで」ってのもムリがありそうな。 まぁ、人のこと言えませんが ('д')v で、教育といえば、やはり「創価学会」、その前身は「創価教育学会」w 初代会長・牧口常三郎先生による『創価教育学体系』は、日本人による初の「教育学説」という。新渡戸稲造博士も「久しく期待したる…」と「序文」を寄せてくれた。 「教育は子どもの幸福のためにある」――言い替えれば「教育のための社会」を提唱された牧口先生は、狂った軍国主義者に迫害され投獄、非国民・罪人として獄死された。 そして、「教育は政治・戦争のためにある」――つまり、「社会(政治・戦争)のための教育」を選択した軍国主義者らは、世にも惨めな最期を向かえた。旧日本という国とともに。 右であれ、左であれ、「教育」を政治・戦争・経済などの「手段」にするものは、最後は「人間」を「手段」にする。「教育」は、「子ども」は、「人間」は、人間にとっての「目的」のはずだ。 新渡戸博士も、当時の「不健全な思想行動」、つまり「急速な右傾化」を批判したために、軍部から「国賊扱い」されていたとか。 よし! 許さん!! 世界に広がれっ、「ヘイト極右」!!『聖教新聞』2006年9月27日付名字の言 第29回「全国人間教育実践報告大会」(24日)が開かれた盛岡市は、牧口初代会長と親交が深かった新渡戸稲造博士の生誕地でもある。 牧口会長が新渡戸博士と知遇を得た当時、博士は現在の東大の前身の一つ・旧制一高の校長を務めていた。博士は教壇に立ち、学生が席を奪い合うほどの名講義を行うなど、教育者として輝く足跡を残している。 博士は牧口会長の大著『創価教育学体系』に序文を寄せた。その中で日本の現状の行きづまりを指摘。経済上の窮迫と不健全な思想行動が目視できないところまできている、と。不健全な思想行動とは、当時の急速な右傾化を指す。 国際人としての博士は、軍部から国賊扱いされ、生命の危険にもさらされていた。続いて「教育以外に国を立て直す力はない」と断言。国を憂え、教育を本とする信条が明確に示されている。 その博士から「久しく期待したる我が日本人が生んだ、日本人の教育学説」と称賛された牧口会長も、国家から弾圧され獄死した。創価教育の命脈は戸田会長、池田名誉会長の壮絶な戦いによって引き継がれ、今や日本を支える確たる柱になっている。 「教育のための社会へ」――子供の幸福を根本にした社会の構築こそ、私たち大人の責任である。(濤)
2006年09月28日
2006年9月23日 9:30:55 「国旗・国歌問題」を考えてみる。 ・現在の「国旗・国歌」を、様々な思いから「変えたい人」もいる。(ドイツは「変わった」w) ・教師には、指導要領に沿って「指導」をする「義務」がある。(どれだけの?) ・教師にも「思想・言論の自由」がある。 ・世界的に見て「国旗への起立」と「国歌の斉唱」は当然。(でも、「強制」は少ない?) また、右翼(ナショナリスト)さんたちは「複雑な問題」を起こしてくれますなw 素直に、天皇の言うこと、聞けばイイじゃんw めっちゃイイこと言っとるしw(「強制にはならないように」) ぶっちゃけ、自分が「国旗・国歌」を、そんなに好きになれないのは、「極右」の逆宣伝のおかげだw あの、「観念的」で「好戦的」で「人種差別主義的」で、半分“やくざ”のような、“テロリスト”のような、あの「やかましいバカなチンピラども」を、まず、まともな人間にしてくれ!w 「国旗への起立」と「国歌の斉唱」は、それからでヨシっ!w とりあえず、あの「街宣車」、ピンク色に塗っちゃえ!!www『asahi.com』2006年09月21日21時30分式での起立・斉唱定めた都教委通達は「違憲」 東京地裁 入学式や卒業式で日の丸に向かっての起立や君が代の斉唱を強要するのは不当だとして、東京都立の高校や養護学校などの教職員が都教委などを相手に、起立や斉唱義務がないことの確認などを求めた訴訟の判決が21日、東京地裁であった。難波孝一裁判長は、違反者を処分するとした都教委の通達や職務命令は「少数者の思想・良心の自由を侵害する」として違憲・違法と判断。起立、斉唱義務がないことを確認し、違反者の処分を禁止した。さらに、401人の原告全員に1人3万円の慰謝料を支払うよう都に命じた。都側は控訴する方針。 教育現場での国旗掲揚や国歌斉唱を巡り、憲法19条が保障する思想・良心の自由の侵害を明確に認めた判決は初めて。同種の訴訟では、処分を争う教諭側が敗訴する例が相次いでいた。 判決は、都教委の通達などは各校長の裁量を許さない強制的なもので、教育基本法が禁じた「不当な支配」にあたるとし、都教委の指導を全面否定する内容となった。 問題の通達は03年10月に各校長あてに出された。教職員が国旗に向かって起立し、国歌を斉唱するよう定め、違反すれば、停職を含む懲戒処分の対象とした。 今回の裁判の特徴は、職務命令や処分が出る前に、起立や斉唱などの義務自体がないことの確認を求めた点だ。都教委は「具体的な権利侵害がない」と門前払いを求めたが、判決は「回復しがたい重大な損害を被る恐れがある」として、訴えは適法と判断した。 難波裁判長は、日の丸や君が代が皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきた経緯に言及。式典での掲揚や斉唱に反対する主義・主張を持つ人の思想・良心の自由も憲法上保護に値する権利だと述べた。 通達について「教育の自主性を侵害し、一方的な理論や観念を生徒に教え込むことに等しい」と指摘。国旗掲揚の方法まで指示するなど「必要で合理的な大綱的な基準を逸脱した」として、校長への「不当な支配」にあたるとした。 その上で、起立や斉唱の強要は思想・良心の自由を保障する憲法19条に違反すると判断。国旗・国歌は自然に定着させるのが国旗・国歌法の趣旨であることにも照らし、教職員への職務命令は違法とした。
2006年09月22日
2006年6月3日 20:57:49 今国会は「会期延長せず」(小泉首相)に、「重要法案」は9月に先送りですと!? まったく、オレが「政治」について書かないと、すぐコレDA!! ちょっと本気になった程度の「民主党」に、イイようにやられてからにっ!! よっしゃ、いっちょオレが、昨今の政治ネタを「なで斬り」してやるZEEEE!!(ヒマ人) まずは「教育基本法」だっ!! TBSの「サンデーモーニング」で見たが、成績表に「愛国心」の評価がある学校では、「古い寺院や、仏像を見て、“あぁ、イイな”と思って、作文に書いたら、評価する」のだとか!w うん、頼りねぇぇぇぇっっっ!!!wwww 「仏像を、“イイね”と君が言ったから、それがお前の、愛国心評価!」 ま、もとより、「学校の評価」が、人を正しく「評価」できることはないとはいえ、これはかなりなw つか、そもそも、「愛国心」のある人って、どんな人?w エジソンは、子どもの頃、学校で先生から「頭が悪い」「バカ」だといわれ、自宅で勉強をした。創価学会の初代会長・牧口常三郎先生と2代会長・戸田城聖先生は、無謀な戦争を続けて、国民を苦しめる「軍国主義」に抗して、牢獄に入り、牧口先生は「非国民」「罪人」として“獄死”された。「一宗が滅びるのを嘆くのではない、一国が滅びるのを嘆くのだ」といわれ、命をとして非暴力で戦った、牧口先生が!! 何をもって「頭が良いか」とする基準もないが、何をもって「愛国心があるか」も判断できんNEw 意外と、日本の「保守」って、現実的に見えて「観念的」というか、「原理的」というか。考えてるようで、「勢いだけ」というかw それでも、一部の「革新」よりは、はるかに現実的なんだろうけどねw まぁまぁ、どうせ“できない”なら、少し遠慮がちにやってくれとw 右も左も、どっちもさw よし、今日はココまで!! 「なで斬り」? 知らんね ('д')
2006年06月03日
クリスマス・イブだっていうのに、時代は今、「愛国心」がどうとかこうとか! TVでも議論が白熱し(過ぎ)ますねw 自分(不勉強)なりに意見を述べると、「愛国心」を持つことは、ある意味「当たり前」だろうけど、どうしてそれが「非難」「否定」されるのか? やはり、戦前戦中の「治安維持法」が頭をかすめるからか? 創価学会初代会長の牧口常三郎先生も、「治安維持法違反」「不敬罪」で逮捕、投獄。さらに、己の信念を曲げないことで「獄死」された。 日本初の教育学説である「創価教育学説」をあらわした大学者であり、小学校校長として人々に愛され、尊敬されていた牧口先生は、この国の大きな歪みが原因で「罪人」として獄死された。 日本の暗い暗い「歴史」だ。 今や、「治安維持法」の復活なんてありえないと思うけど、「思う」で止まり、信用しきれないのは、やはり「前科一犯」だからか?w その牧口先生が言われた「愛国心」の考えが、非常に鋭く、感動した。 ……と言っても、『外から見た創価学会』(村尾行一著)で、牧口先生を敬愛されている大学教授(創価学会員ではない)の方から“間接的”に学んだだけなので、大して詳しくはない。 その考えの基本は、「徳育(道徳教育)」とは「知育(知識教育)」に含まれているというもの。 牧口先生の時代(戦前)から「道徳心の欠如」が問題とされていたようで、それに対し、教育としては「体育」「知育」に、「徳育(親、国を愛する教育、道徳教育)」を加えたとか。 しかし、牧口先生は「徳育」とは「知育」の延長線上にあるもので、“だれだれを尊敬しろ(道徳教育)、ということは教えることができない”とし、“その人がどういった人で、どういった働きを我々になしているかを知る(知識教育)ことで、子供でも自然と尊敬できるようになる”と述べられたそうだ。 自分なりに解釈すると、 “見ず知らず”の「誰かさん」がズイッと現れて、「俺を愛せ!」と言っても、愛せないのは当然のこと。 しかし、その人が、実は自分の「親」であり、過去に大変な思いをしてまで自分を産み、育ててくれたことを“見て知る”ことで初めて「あなたを愛する!」ことができる。ということか? つまり、「徳育(愛せよ)」とは「知育(見て知る)」が伴わなければ不可能であると。親を知らない人も、国を意識したことのない人も実際にいるのだろうから。 憲法に「愛国心」を盛り込むことを“悲願”のように思う人もいるだろうけど、この考えからいくと“憲法に盛り込んだだけ”では、ほとんど何も変わらないだろう。 「知育」と対比すれば「憲法」は所詮、「骨格」に対する「外殻」に過ぎない。 その上、“成果”が出ないことに焦り、骨格が弱い状態で、外殻ばかり強くすれば(無いとは思うが「治安維持法」の復活など)、タコが重装備のヨロイを着るようなもので、いよいよ「自己破綻」する可能性大w だいたい、“道徳心が欠如してきた”からって「愛国心」を持ち出すのが、すでに戦前と発想がかぶってるし。他にないのんかとw 道徳心を育てる手段はw それなら「知育=教育」をすれば良いということだが、ここでゴマカシがあれば、元も子もない。 そもそも、「教育」や「愛国心」とは“誰のため”にするものなのか? 牧口先生は、「教育とは子どもの幸福のためにある」と叫ばれた。 「国家」や「社会」「経済」の発展ために「教育」と「子ども」を利用するのは、もうナンセンスだ。 「社会のための教育ではなく、教育のための社会」であり、「国家あっての教育ではなく、教育あっての国家」。「国家あっての人間ではなく、人間あっての国家」だろう。それが「人間のため」であり、「人間主義」だ。 「国家」が存続しても、「人間」が絶滅しては、しょうがないw む、難しい……。結論としては、「憲法」に盛り込んでも、そう変わらない。なら、焦らず、より深い「知育」から始めなさいと? さらに、「知育」といっても、「こどもの幸福ため」であり、「国の存続ため」では通用しないだろう。そして、その「知育」とは「両親」「地域」「国家」「世界」と広がっていくべきものか。
2005年12月24日
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