ハワイ王室物語

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プルメリアグリーン 美しく・・・そしてせつないハワイ プルメリアグリーン

ハワイ王室物語

リゾートのなかのリゾート、ハワイ。
その歴史をたどると、意外な断面が見えてくる。時は、1881年。
明治政府が始めて迎えた国賓、それは、ハワイのカラカウア国王であった。
“メリー・モナーク(陽気な君主)”と呼ばれた王が要請した四つの提案とは。

この物語は2001年ハワイを訪れた時に、
日本航空での“Winds”を参考に書き上げたものです。
今まで何気なくハワイを訪れていたのですが、この書物を読み終えたあと、感動が残りました。
それを皆様にお伝えしたく、引用させていただきます。


1881年のこと、明治政府が始めて迎える国賓として、来日したのが、ハワイのカラカウア国王。
その際、姪のカイウラニ王女と若き天皇家新王との縁談を、明治天皇に直接申し入れ、
移民派遣の要請も行っている。それから10年あまり後のハワイ王朝の終焉にいたる、さまざまな出来事・・・。
読み終えたら、きっと“ハワイ”がより身近になる、ちっとせつないお話を。


鹿鳴館に似ている。

ホノルルの官庁街、キングストリートに面して、建つイオラニ宮殿と初めて対峙したときは、私は、無意識のうちに、そう呟いていた。
もちろん、1883年(明治16年)に完成した鹿鳴館の黄金時代は、4年後に、井上馨が失脚するまでのわずかな年月であり、しかも、1940年(昭和15年)に、人知れず取り壊されてしまった建物の在りし日の姿を、私が知るはずも無い。
それは、たぶん写真や模型からの印象に過ぎなかったのだが、私は、ふたつの建物の背後に、共通した運命のようなものを感じ取っていたのだと思う。
どっしりと威容を誇る四角い建物は、1階、2階の正面部分に、回廊のようなヴェランダが配されている。これは、ビィクトリア朝後期、アジアなどの植民地でポピュラーだったヴェランダコロニアルというスタイルだ。そして、実は、鹿鳴館にも、同じように回廊のヴェランダが巡らされていた。
イオラニ宮殿の竣工は、1882年のこと。宮殿として使われたのは、それからハワイ王朝が終焉する1893年まで。
つまり、鹿鳴館とイオラニ宮殿は、同じ時代を生きた建物なのである。

イオラニ宮殿の建設を命じたのは、ハワイ王朝の創始者カメハメハ1世から数えて、7代目の王になるデイヴィッド・カラカウアである。ハワイ王族の名前は、現在、通りの名前になっているものが多いのでカラカウアも、ワイキキの大通りの名前と言ったほうが分かりやすいかもしれない。彼が宮殿建設の期間を使って計画した世界一周旅行、その目的地のひとつが日本だった。
“おしのび”の旅ということだったが最初の訪問地であったサンフランシスコの領事から連絡を受けた日本では、急遽、国賓として迎えることにした。
明治政府にとって、実は最初の国家元首訪問だったのである。


当時の新聞には、

太平洋の彼方からの賓客を待ちわびていた様子が記されている。
港には、大砲が響き、ハワイ国家“ハワイ・ポノイ”が厳かに演奏された。思いがけない大歓迎に、カラカウアは、直立不動のまま涙していたと言う。
旅の一部始終は、荒俣宏翻訳の「カラカウア王のニッポン仰天旅行記」に詳しい。
この旅行記を記したのは、ウィリアム・N・アームストロングという人物である。
当時、ハワイ王国の国務大臣を勤めていた彼は、随員の一人だった。アメリカ人宣教師の息子としてハワイで生まれた彼のような人物がそのころ、政治にも大きな影響力を与えていたのだ。
列強の脅威にさらされる太平洋の小国と言う意味では、同じような運命にあった日本とハワイだったが、二つの国には、決定的な違いがあった。それは、ハワイが政治にまで外国人を介入させたのに対し、日本は、知識や技術こそ学んだが、政治には、外国人を関わらせなかったことである。
明治の元勲たちは、たとえ手探りであろうとも、国の舵取りを他人に、委ねようとはしなかった。その決断は、二つの国を異なる運命へと招くことになる。
アームストロングの旅行記に書かれたカラカウアは、子供のようにやんちゃで陽気なポリネシアの王様である。「メリー・モナーク(陽気な君主)」という愛称は、そんな彼の一面をまさに、物語っているのだが、これが、もともとイギリスのチャールズ2世に与えられた愛称であることを考えると、複雑な気持ちになる。クルムウェルの改革後、王制復古で王座に復帰したチャールズ2世は、すっかり王権を制限されてしまっていた。外国人に政治を牛耳られていたカラカウアも、おなじ立場だったのである。


外務省に残る「布哇皇帝来航日記」

には、日本によれば3月11日の午後2時、王が明治天皇のもとに平服で参内下とある。
カラカウアは、このとき、随員には、内密に、驚くべき提案を携えていたのである。
そのひとつが、日本の皇室にハワイ王室との縁談を持ちかけたことだった。
来日当時、攣りの相手役を務めた山階宮定磨(後の東伏見宮依仁親王)に姪のカイウラニ王女を娶らせようとしたのである。カラカウアは、山階宮をきにいってしまったのだろう。このとき、山階宮は15歳、カイウラニは、わずか5歳だった。
縁組は、王様の気まぐれな思い付きだったのだろうか。山階宮をみそめたのは、偶然だったのかもしれないが、カラカウアは、自国の存続に、危機を感じていて、同じ太平洋の島国である日本の力を借りようとした。その気持ちは、間違いなく真剣だった。だからこそ、彼は、一人で参内したのだ。
されにしても、この縁組が実現していたなら、歴史の歯車は、どう廻っただろうかと思う。カラカウアの妹リケリケと、スコットランド出身のアーチボールド・クレグホーンの娘として、生まれたカイウラニ王女は、瞳に哀愁を漂わせていた。それは、美人のお姫様だった。
1889年13歳の時に撮影された着物姿の写真が残されている。銘仙の矢絣を着た写真を見ていると、彼女自身、日本との縁組のことを意識していたのではないかという気になる。しかし、カラカウアの申し出は、翌年、井上馨の書面で丁重に断られている。

つづく・・・





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