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アヴァンギャルド(avant-garde)と言う言葉は第一次大戦以降に使われるようになったらしいが、もともと軍隊の用語で、先制攻撃を仕掛ける前衛部隊から来た語らしい。切り込み隊は、突破口を開く者であり、また開拓者とも言える。階級闘争においては、前衛隊である指導者達、芸術の分野では先駆的な、革新的な、従来にない世界を追う芸術家達(いわゆる抽象画家達)がそれにあたった。ピカソやカディンスキーが有名になると、軍隊用語は革新的な芸術家達を指す言葉として定着してしまった。ところで、アヴァンギャルド(avant-garde)は20世紀から使われるようになった言葉ではあるが、芸術の分野には常に開拓者がいたわけである。近代絵画が生まれる前、19世紀には、しとやかに新しい芸術の表現方法を実践する者達が各地で生まれていた。印象派と呼ばれる人達だってアヴァンギャルドな人達だし、古典から一気に近代芸術にのしあげた19世紀末ウイーンの分離派(ゼセッション・Sezession)もアヴァンギャルドな芸術家の一団と言える。前回はその分離派の本山を紹介したが、今回も分離派の一員であった建築家の作品を紹介。オットー・ワーグナー(Otto Wagner)の集合住宅オットー・ワーグナー(Otto Wagner)の駅舎メダイヨン・マンション(Medaillon Mansion)マヨルカ・ハウス(Majolika Haus)オットー・ワーグナー(Otto Wagner)(1841年~1918年)2010年8月「オーストリア、ウィーン、 カールス広場界隈 Part 1 ワーグナー設計のカールスプラッツ駅舎」でも紹介しているので詳しくは省きます。オットー・ワーグナー(Otto Wagner)の駅舎当時ウイーンの人口は増え、リンクの外に住み市内まで通う人が増加。市は市街への鉄道計画とともに新しい都市計画をオットー・ワーグナーに任せた。1890年に市の都市計画顧問に就任。1894年から始まった市街鉄道では、そのうち2路線の駅舎と鉄橋をオットー・ワーグナーが担当したと言う。(現在は地下鉄U4とU6になっている)前に紹介したカールスプラッツ駅舎(Karlsplatz)はその1つである。鉄道とは言えウイーン市内を走るのでその美観を損ねてはならないし、まして駅舎も街の装飾の1つでなければならない。デザインの均一化を図る目的もあり路線単位でデザイナーが統一されたようだ。カールスプラッツ(Karlsplatz)駅舎右に見えるのがカールス教会で駅舎は左に向かい合う相似の建物。1899年開業。ワーグナーがデザインした当時の鉄道ラインは地下に潜ったがカールスプラッツ駅はハプ駅であり、地下鉄だけでなく、地上では今も複数の路面電車の軌道が交錯している。カールスプラッツ駅が地下鉄になった時(1981年)本来駅舎は取り壊される予定だったそうだ。現在ワーグナー・デザインの駅舎は喫茶レストランと、地下鉄入口の一つとして利用されている。ケッテン・ブルッケン・ガッセ(Ketten Brrucken Gasse)駅舎当時ワーグナーがデザインしたラインの駅舎の一つで、今回紹介するワーグナー・デザインの集合住宅に至る最寄り駅がここ。1899年開通するも第一次世界大戦で閉鎖(1918年)。1925年鉄道は電化され再興。 現在の駅舎は一部ワーグナーのデザインが残っているのみ・・となっているようです。カールスプラッツ(Karlsplatz)もケッテン・ブルッケン・ガッセ(Ketten Brrucken Gasse)の駅舎も鉄とガラスと言う当時では斬新でモダンな素材でデザインされている。メダイヨン・マンション(Medaillon Mansion)ワーグナーが手がけた集合住宅がナッシュマルクト(Nasch Markt)前にある。最寄り駅がケッテン・ブルッケン・ガッセ(Ketten Brrucken Gasse)で半地下のホームからもよく見える。Linke Wienzeile 38 のメダイヨン・マンション(Medaillon Mansion)1898年~1899年施工メダル状のデザインからメダイヨン(Medaillon)と呼ばれるようになったが、実は壁面装飾は分離派会館でもお馴染みのコロマン・モーザー(Koloman Moser)によるデザインである。シュロの下にメダルがあり、その中の少女? のデザインは全て異なっている。マヨルカ・ハウス(Majolika Haus)Linke Wienzeile 401898年~1899年施工イタリア、マジョリカ焼きのタイルで外壁が装飾されている事からそう呼ばれているが、実はこのタイルのデザインもワーグナーではない。アロイス・ルードヴィヒ(Alois Ludwig)(1872年~1969年)1895年~1898年までウイーンの美術アカデミーでオットー・ワーグナーの下で学んだ教え子で、1898年からワーグナーの下で働いている。壁面に施された花の装飾はアロイス・ルードヴィヒのデザインである。ウィリアム・モリスのテキスタイルのような花柄プリントである。メダイヨンとマヨルカは隣あった建物。接続部は別の建物か? こちらもマヨルカ焼きのタイル装飾。よく見れば2階のテラスの手すりが続いている。こちらでは建物の間は接続させなければならない法律があるそうです。双方の建物とも、現役で住居になっている為に内部に入る事はできない。つまり見学は出来ないのである。内部こそオットー・ワーグナーらしい造形が見られるかも知れないのに・・ 通りを走っていると、とにかく目に留まる。皆が賞賛する外側のデザインは、実はワーグナーのデザインではなかった。が、それでもアイアン・ワークとガラスの美しい駅舎、それにこれらマンョンはやはり世紀末ウイーンを飾ったユーゲント・シュテールを代表するオットー・ワーグナーの作品なのである。おわり
2014年10月28日
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先週末は飲み会。月曜に京王プラザのブッフェ、火曜日に品川プリンスのブッフェと忙しくしていました京王プラザは3回目、落ち着いていて会話ははずむ。(月替わりのイベントで差が・・。)品川プリンスは今回初。カニ食べ放題に期待して出かけたのですが・・。カニは微妙。他の料理も微妙。何よりドン引きはローストビーフが焼きすぎて硬くてローストビーフとは言えない代物。しかもへんな味がして最悪に不味い。京王プラザの何倍もあるプリンスの広いホールのレストラン(ハプナ)は食べ物を取りに行くのも遠い。飲み物やフォーク、ナイフさえも自分で取りに行かなければならず、二人で行ったら常にどちらかが席を立っている状態。会話も何もなく、ザワザワ騒がしく落ち着けない雰囲気。プリンス大失敗でした 因みに、双方人気が高くかなり前に予約が必要ですが、プリンスは団体さん御用達に特化しているのかも・・。さて、毎度新規に入る時はそうなのですが写真の仕分けに時間がかかっていますウイーン分離派会館(Wiener Secession)分離派とはウイーン分離派ベートーベン・フリーズ(the Beethoven frieze)ガイドブック、全てのかな文字が異なるので迷いましたが、分離派会館・ゼセッション(Secession)が本家のパンフレットの翻訳です。分離派会館斜め前はナッシュマルクト(Nasch Markt)入り口地下鉄U4が通りの下を走っていて、カールスプラッツ(Karlsplatz)が最寄り駅。つまりオペラ座からも2~3分のところ。※ 分離派会館は、2010年8月「オーストリア、ウィーン、 カールス広場界隈 Part 1 ワーグナー設計のカールスプラッツ駅舎」でちらっと写真紹介した事があります。分離派とは過去の様式から脱却して新しい様式を確立しようとした人達が立ち上げた芸術団体です。19世紀末になってもドイツの芸術カアカデミーは保守的で、若手には作品を紹介する場もチャンスもなかったそうです。そんな旧態依然の閉鎖的なミュンヘン芸術協会から離脱し自由に新しい表現の芸術を世に知らしめようと1892年、ミュンヘン分離派が最初の展覧会を開催。(時代は19世紀、いわゆる世紀末。フランスではアール・ヌーボーが流行していた時代です。)そして1897年には今度はウイーンでも分離派が立ち上がります。ウイーン分離派(Wiener Secession)の創設者の一人がグスタフ・クリムトGustav Klimt(1862年~1918年)でした。時代が時代ですから、当時の彼らの目指した芸術スタイルはウイーン版のアールヌーボーで、ドイツでは雑誌ユーゲントより、ユーゲント・シュテール(Jugendstil)と呼ばれるのがドイツの世紀末様式の呼称です。分離派(ゼセッシォン・Sezession)とは、ラテン語の反抗、撤退、分離の意味を持つSecedoから由来。ドーム下に書かれているのは、分離派のスローガン「時代には時代にふさわしい芸術を(与えよ)、芸術には芸術にふさわしい自由を(与えよ)」金色のリーフでてきたクーポラと白い立方体と正方形の組み合わせのこの建物はどうやら寺院のイメージで造られたようだ。そして建物はクーポラの月桂樹の葉に加えて、壁面に月桂樹の樹木もデザインされている事から建物自体を月桂樹の林に見立てて総合デザインされたのだろうと考えられる。ドームを被う月桂樹の葉は3000枚。月桂樹は勝利の冠でもある。月桂樹は古来、勝利と栄光の象徴であり、常緑樹と言う特性から不死の象徴でもあるらしい。設計はヨゼフ・マリア・オルブリッヒ(Joseph Maria Olbrich)(1867年~1908)オルブリッヒもウイーン分離派の初期メンバーで、オットー・ワーグナー(Otto Wagner)は彼の師匠です。分離派の作品を展示する場として、1898年に僅か6ヶ月で建設されたと言う。分離派の装飾はコロマン・モーザー(Koloman Moser)(868年~1918年)が担当。正面入り口のゴルゴン(Gorgons)は勝利と工芸の女神の象徴だそうだが、ここでは魔除けの意味のが強いかもしれない。確かに拡大すれば髪がヘビ。ゴルゴン(Gorgon)と解るけど肉眼で下からは見えない。ゴルゴン(Gorgon)はホメロスのオデッセイアではでペルセウスに首を落とされ退治された魔物であるが、ここでは、ヘシオドス解釈の3姉妹のコルゴン(ステンノー、エウリュアレー、メドゥーサ)で表現されているようだ。ファサードに置かれた一対のボールは松明(たいまつ)用?亀が地球を背負っているような形状はまるで古代インドの世界観にも似ている。コロマン・モーザー(Koloman Moser)デザインのフクロウフクロウは女神アテナイの使いである。夜目が効く事から未来を見通し切り開く知恵があるようだ。シンプルでスッキリしたデザインは今風にさえ思える。さて、分離派会館内部であるが、中にはグスタフ・クリムトGustav Klimtが製作したベートーベン・フリーズ(the Beethoven frieze)が展示されていて、有料で鑑賞できる。そして、今もオーストリア造形芸術協会の展示場として今と言う時代を表現する若手の作品が紹介されるギャラリーとなっていた。入場は9ユーロ。作品の撮影は厳しく禁止。一部、レプリカが置かれていてそれのみ撮影OKでした。ベートーベン・フリーズ(the Beethoven frieze)ベートーベン・フリーズとは、全長34m、高さ2mの壁画で1902年、分離派第14回の展示会においてクリムトが、ベートーベンの交響曲第九をテーマに制作した作品です。クリムト的にはベートーベンを賞賛して、献げたと言われる作品です。が、当時は卑猥で露骨と揶揄され、1年後の1903年には7つに分けられて壁からはがされ売りに出されたそうです。1973年になってやっとオーストリア政府が買い戻し、1986年より再び分離派会館で展示公開されるようになったと言う曰く付きの作品。それ故今までのクリムトの作品集にはあまり紹介されて来なかった作品だと思います。※ フリーズ(frieze)とは建築用語で、壁面上部に帯状に描かれた装飾レリーフを指す言葉です。壁に直接描かれているので、作品の展示スペースは割と狭い。34mと言う作品の長さから逆算して70m2 (約21坪)くらいか?よく見ると文様などは立体装飾となっている。残念なのは、クリムト作品の絵ハガキや作品集などはメチャ高く、ベートーベン・フリーズの作品集を買って来なかった事だ。どこかに(家)あると思っていたのに部分数枚しかなかった もはや100年以上前の古典なのに強きである。ところで1905年には創設者のクリムトやオットーワーグナーは分離派から脱退している。それは分離派の外部団体としてウイーン工房を設立した事による内部分裂が起因。テキスタイルなど生活全般に応用したかったクリムトやワーグナーと異なり、商業主義に走りすぎる・・と言う反対派と方向性を違えた事による離脱だ。確かにクリムト作品は商業的かもね  ̄ ̄∇ ̄ ̄ウーン次回オットー・ワーグナーの建築から
2014年10月22日
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加筆しました シュテファン寺院のすぐ近くグラーベン(Graben)通りはブランドショップが立ち並ぶ高級品通りです。そのグラーベン通りがコールマルクト(Kohlemarkt)通りに突き当たった所に今回紹介するウイーン老舗高級食材店があります。そもそもはホテルの部屋で食べる美味しいフルーツやスイーツを探しに入ったのですが、実はコーヒーの焙煎で世界的に有名なお店だったそうですついでに店内にあるレストランも、オーストリアの中でもトップ5に入る有名店だったそうで、たまたま食事もしてきたので紹介します。ウイーンの高級食材店 ユリウス・マインル(Julius Meinl)ユリウス・マインル・アム・グラーベン(Julius Meinl Am Graben)Restaurant Julius Meinl Am Grabenユリウス・マインル(Julius Meinl)の創業は1862年に遡る。最初はスパイス店として店を開きスパイスの他に紅茶やココア、コーヒー豆、砂糖などを販売。その後息子のユリウス・マインル2世(Julius Meinl II)は、1877年にコーヒー豆を美味しくローストする技法を編み出したそうだ。そして、ユリウス・マインル(Julius Meinl)は世界初、コーヒー豆を焙煎して売り出す店となった。コーヒーのパイオニアであるユリウス・マインルは世界中から最高のコーヒーの生豆を入手する事が可能らしい。そして美味しい豆の焙煎技術。今でもユリウス・マインル(Julius Meinl)と言えば美味しいコーヒー・・と絶賛される理由はそこにあるのでしょう。入り口とその上のレストランの外壁が修復中でちょっとガッカリ入り口左には喫茶が併設。軽食もとれるようです。(前がコールマルクト(Kohlemarkt)通り)因みにコールマルクト通りの名は石炭市場の意だそうです。店内はさしずめ紀伊國屋と言った感じ。下は商標となっているマインル・ムーア(the Meinl Mohr)少年の人形。1924年にグラフィックデザイナーのJoseph Binderが手がけたらしい。1階は生鮮野菜にフルーツ、牛乳ヨーグルトやワインショップの他にチョコレートなどお茶や雑貨一般が置かれている。1階は単に高級スーパーと言った感じ。2階は主に高級デリカテッセンに紅茶やケーキやパン、生ハムやソーセージ、オリーブやピクルスなどを扱う専門店が入っている。ユリウス・マインル(Julius Meinl)が成功したのはコーヒーの焙煎だけではなかった。もともと食材店である。ユリウス・マインル2世は第一次世界大戦中に自社開発のビスケットを陸軍省に独占納入して成功。1913年にはオーストリア・ハンガリー帝国だけでなく、コーヒーの輸入と焙煎で世界最大手の会社に成長。ところで2代目ユリウス・マインル2世(Julius Meinl II)(Julius Meinl II)(1869年~1944年)は日本人の女優でオペラ歌手の田中路子と1931年頃に結婚し10年ほど暮らしている。2階にはMICHIKOの名を冠した紅茶が売られていた。年の差40歳。ユリウス・マインル2世は時の財政界の重鎮であり、財力もある。彼女のヨーロッパ・デビューを支えたが、彼女は恋多き女だったようだ。ハムやソーセージの種類はハンパないつい食べたくなり生ハムもスライスしてもらった。ここで買ったチェリーは一粒がこの上なく大きい。そしてケーキやパン、トマト、オリーブ、チーズも購入。今までいろいろ食材店には行ったが、確かに最高の品揃えのお店であった。(枠の関係で紹介できないのが残念)今でもユリウス・マインル(Julius Meinl)のコーヒーは世界に流通しているが、食材店は最盛期には欧州に1000店あったらしいが今はウイーンにあるこの店だけのようです。おそらく転機がきたのは第二次大戦後、そして1960年代、業務提携? あるいは買収されたか? 創業以来の店舗は縮小。2000年には食料品部門の撤退をして残り店舗はドイツ系の「Billa」や「SPAR」が買収。ユリウス・マインル(Julius Meinl)は立て直しの為にコーヒー部門のみに特化したようです。Restaurant Julius Meinl Am Graben2階にあるレストランはユリウス・マインル・アム・グラーベン(Julius Meinl Am Graben)の直営のレストランでした。1969年創刊のフランスで最も強い影響力を持つレストランガイドブック「ゴー・ミヨ(Gault et Millau)では高い評価をされているレストランだそうです入り口が割と地味な所にあり見落としやすい場所。オープンと同時に入ったのだが、空いていた。 窓から見えるのはグラーベン(Graben)通りとペスト記念柱何より美味しかったのだが、その飾り方に感激。アートでしたパンと一口前菜 一口サイズのクロケットです。モッツアレラ・チーズ(Mozzarella) 19ユーロ前菜にローストしたフォアグラとテリーヌ(Biogansei Eber) 25ユーロフィレ肉のパイ包み(Meinl's Wellington) 41ユーロウイーン風カツレツ(Wiener Schnitzel)とサラダ 26ユーロコーヒー・メーカー本来なら食後のコーヒーとデザートははずせない。でもこの日突然の胃痛で苦しくて食べられなかったのです 振り返ってみればレストランは当然ながらお店のお総菜や生ハム含めて今回の旅行で一番美味しい店だったかも・・
2014年10月14日
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最近海外での日本 人気はかなり高くなってきているようです つい先頃、和食が世界文化遺産に登録されましたが、近いもので日本のお弁当も高評価があるようです。栄養バランスを考えたヘルシーな中身は当然ですし、経済的にもGood。しかも可愛く自分らしくアレンジして行けば職場で注目です。My弁当を持って学校や会社に行く・・と言うのはもはや日本人だけでなく、海外の若い女性達の間でもちょっとしたブームになって来ているようです。実際、今回アメリカに住む甥の彼女からお弁当箱が欲しい・・と依頼があったのです そもそも海外でのお弁当ブームの火付け役は、幼稚園生の母達のキャラ弁の影響もかなり高いと聞きます。(みなさんネットにすぐにアップするからね・・)が、実際大食のアメリカの人が日本の小さなお弁当箱で足りるのだろうか? と言う疑問がわきました。姉は大食漢の彼女がこんな小さなお弁当箱で事足りるはずがない・・と言うのです。確かにそうかも・・。しかもその彼女は食べる事は大好きだけど自分で料理を作る気は全くない人です。そんなに日本の冷食が普及しているとも思えない。(中身は甥が作るのかな?)彼女の弁当箱の中身がとっても気になる私です サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 2 (聖アンブロージョの聖櫃)ラテンの教父(Latin Fathers)聖域である内陣修復再建されて新しいとは言え、今まで見て来た教会とはかなり建築スタイルが違う。この教会はラテン十字ではないが、内陣、聖域(Sanctuary)の上は8角形のドーム状の天蓋になっている。前回この教会はロンバルディア・ロマネスク様式と紹介したが、ここから見ると2階建てのバシリカ構造で、建物内部に関してみれば円蓋式バシリカで、ロマネスクと言うよりは、初期ビザンティン様式かも・・。下は天蓋の中心の聖アンブロージョのモザイク(修復後の物)聖アンブロージョ(Sant'Ambrogio)・ アンブロジウス(Ambrosius)(340年? ~397年)ラテンの教父(Latin Fathers)聖アンブロージョは、古代ラテンのキリスト教会を代表するラテンの教父(Latin Fathers)の一人だそうです。ギリシャ語にも精通していた彼は東方の教父の思想をラテン語で西方教会に翻訳して教えをもたらした西方キリスト教神学の貢献者で、西方の水準を高めた学者だったようです。(もともと聖アンブロージョは、ただの司教ではなく、高学歴の法学者)つまり教父と言うのはもともとラテン語を軸にする研究者であり神学者だったと言う事。ところで彼のキリスト教神学は、後にアウグスティヌス(Augustinus)に影響を与え、アウグスティヌスはさらにプラトン主義やストア思想を組み込み、中世のキリスト教神学のスタンダード思想を確立して行ったようです。共にカトリック教会だけで無く、正教会など他の宗派からも聖人視されているのはキリスト教会の父として崇敬されているからなのでしょう。内陣のドームと中央祭壇中央祭壇は大理石の4本の支柱でさささえられた天蓋と、その下の台座には金箔の施された祭壇布がかけられている。祭壇後方に半円の開いた壁が見えるが、その向こうが地下聖堂クリプト(Crypt)である。台座はあたかも黄金のレリーフで造られているようにみえるが、台座のカバーとして彫金仕立ての祭壇布が4面に掛けられているようだ。祭壇布は9世紀、金細工師のボルヴィーノの傑作。台座自体は創建当初の4世紀のものらしい。台座の上の天蓋にはキリストとペテロらのレリーフが施されている。レリーフは9世紀のもの)後陣の天蓋後陣の天蓋を見る限りでは、東方の円蓋式バシリカそのものである。ここは正教会か? と思うイコンのようなモザイク画 壁画には聖アンブロージョの仕事が記録されている。地下聖堂クリプト(Crypt)内陣下のクリプトには聖アンブロージョ(Sant'Ambrogio)の遺物が祀られていると言う。データによればここに祀られているのは聖アンブロージョ (Ambrogio)と、殉教者聖ジェルヴァジオ(Gervasio)と聖プロクシオ(Protaso)の遺骸らしい。もちろんこれらは後年造られた聖櫃である。ところで写真で拡大してみても二人しかわからない。聖アンブロージョ (Ambrogio)の遺物はもしかしたら水晶と銀の骨壺に収められているかも・・。礼拝所の1つキリスト教発祥当初は神やキリストの姿をそのまま表現するなどあり得なかった事。最初は太陽のマークでシンボリックに表現されていたそうだ。聖人の彫像はバロック期には全盛だった気がするが、本当に彫像が現れるようになったのはいつ頃なのだろう?内陣左脇から外庭に出られる。見えるのは教会内陣ドーム(正面は右奧)右の建物がたぶんブラマンテの設計によるルネサンス様式のカノニカ (Canonica)外庭に続く柱廊もブラマンテの柱廊と言われるのでたぶんそうなのだろう。ブラマンテ(Bramante)(1444年頃~1514年)以前(2014年7月)に「ミラノ(Milano) 1 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 1)」でブラマンテの付け足した「ブラマンテの僧院廻廊」を紹介した事がある。ブラマンテは寝殿造りの回廊が好きだったようですね。サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio)おわり次回はウイーンに行く予定ですが、まだしばらく大阪に滞在しているのでイレギュラーになりそうです back numberリンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)
2014年10月07日
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鉄道関連のリンク先をラストに載せました。Break Time(一休み)東海道新幹線開業50周年の日ただいま大阪に来ております。(たまたま昨日) そうしたら何と昨日(2014年10月1日)は東海道新幹線開業50周年の日だったのです。東海道新幹線は1964年10月1日、東京オリンピック・パラリンピック開催に合わせて開業されたそうです。今年は調度50年の節目の年。そして日本が再び次のオリンピックに向けて新たな飛躍をしようとするグッドタイミングな年でもあります。いろいろ記念セレモニーもあるようですが、JR東海では、1日、東海道新幹線全17駅の改札口で新幹線をご利用のお客様にプレゼント・・と言う事で記念クリアファイルを配っていました。もちろん限定50万枚で、しかも改札に入る時にのみ配布。(時間は不明)東京駅ではもらえなかったのですが、たまたま新大阪の駅で配っている所に遭遇したので頂いてきました。超ラッキー d=(^o^)=b イエイクリアファイル左が表、右が裏。今までの新幹線の歴史を物語る素敵なファイルです。しかもドクター・イエローも入ってる。素晴らしい ~(^∇^~)(~^∇^)~マニアらしき人もファイルもらいに来ていました。それでアレ? と気が付いたのです 何て運がいいの (^人^)パンパン 人(-_- )一礼今や世界に売り込みに出かけ、採用されている新幹線の開業は実は終戦から19年目に開催された東京オリンピックとパラリンピックの為だったそうです。それは日本の復興と民主化の象徴の産物であり、国家的一大事業だったと言います。その後1970年には大阪万博があり、1972年には山陽新幹線が開通。1972年は日本の鉄道100年記念と言う節目でもありました。たまたまなのですが、1972年に頂いたおじいちゃんの記念品が出てきました。鉄道100年記念に大阪鉄道管理局長から頂いた金属のプレート。当時、JRの線路下倉庫を3つ借りていたおじいちゃんはJRのお得意様としてこのプレートを頂いたそうです。同時に山陽新幹線の試乗チケットも頂いたそうです。(下)チケット裏側50年もたつのに新幹線は今も変わらずフレッシュな鉄道と言う気がします。中国には技術提携してパクられましたが、これからも新幹線は世界に誇る日本のブランドです。寿司と同じく日本と言えば新幹線・・と言ってくれる外国人が増えるといいな・・と思います。ガンバレ新幹線 o(*⌒O⌒)bふぁいとっ!!そう言えば車内でコーヒーを頼んだら、50周年記念にキリマンジャロのスペシャル・コーヒーが出てきました。キリマンジャロの故郷タンザニアも建国50周年だそうで、コラボ企画のようです。いつものコーヒーより本当に美味しかったです。初期の券売機ヘーっと見ていたら、もっと面白いものが出てきました。下は自動券売機の中のプリントのゴム印です。初期の券売機のチケットはゴム版にインクを乗せてプリントする・・と言う原始的なプリントだったようです。上下の写真とも、上がゴムの種印部分で、下はインクで版したもの。(ゴムの部分がみえにくいですが・・。)製品の年代はおそらく昭和40年代。オムロン製の自動券売機のゴム印です。(摩滅するので交換して捨てられるべき印で、大阪鶴橋の駅のマシンの物。)20円と50円区間のもの。何でこんな物が出てきたか? と言うと、当時おじいちゃんのビルに立石電機(オムロン)の券売機のメンテの事務所が入っていたからだそうです。捨てるべき物を拾ったのかも・・ (* ̄- ̄)驚いたのは当時のキップが機械の中でゴム版によりキップを刷っていた・・と言う事実。すごい、自動というよりむしろアナログだ・・ 関連のBack numberリンク ドクターイエロー(Doctor Yellow)リンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1 (機関車と制御車)リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 2 (列車レストランのメニュー)リンク ユーロスター(Eurostar)リンク ミュンヘン中央駅(München Hauptbahnhof)リンク ザルツブルグ中央駅(Salzburg Hauptbahnhof)リンク ブリュッセル中央駅(Brussels Central)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 1 (メトロとプレメトロ)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 2 (プレメトロのトラム)リンク 西武鉄道のレストラン列車「52席の至福」
2014年10月01日
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