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いろいろ考えましたが、グラン・プラス(Grand-Place)はとにかくギルド・ハウスが多いので、一周紹介しようかと考えました。(たぶん誰もしていない試みです)
そんなわけで今回は王の家のある側、北東面にあるギルドハウスの写真から紹介します。
内容はブリュッセルのルーツにまつわる話です。
ブリュッセル(Brussels) 2 (グラン・プラス 2 北東面ギルドハウス)
王の家(la Maison du Roi)と北東側ギルドハウス
ノルマン人(Normanean)の襲撃
湿地の砦(Brussels)
ブリュッセル(Brussels)とセンヌ川(Senne river)
ノルマン人(Normanean)の襲撃
8世紀後半~11世紀、フランク王国の北部地方は、今度はノルマン人の南下で揺れていた。
安定した国が形成されつつあった西ヨーロッパは侵略とも呼べる略奪や、後には半ば強引な入植で脅かされていたのだ。
ノルマン人は、スカンディナヴィア半島やバルト海沿岸に原住していた人々で、それは所謂ヴァイキングと呼ばれた人達の事
である。
詳しくは2010年2月「フレデリクスボー城 3 (ノルマン人とヴァイキング) ヴァイキングと呼ばれたノルマン人」・・でも書いているから見てね。
最初、彼らは春になるとやってきて、金品を強奪。身代金ねらいで女子供をさらったり売り飛ばしたりしていたらしいが、そのうち国に帰らず定住して襲って来るようになったと言う
。東フランクでは住民が武器を取り交戦したそうだが、西フランクでは被害が大きく全体に フランク王国を揺るがす大きな社会問題になっていた
ようだ。
その極めつけが、
885年、ノルマン人のある一派は 700隻の船で3万の兵を連れてセーヌ川を上りパリまで侵略
に
来た事だ。
898年、西フランクの王シャルル3世はついに妥協して彼らに領地を与えた
。
911年ノルマン人の族長ロロ(改名してロベール1世)はノルマン公国を建国。
シャルル3世は建国の条件に他のノマルマン人の南下を防御するように頼んだと言う
。
ノルマン公国については、2009年08月「モン・サン・ミッシェル 3 (ベネディクト派修道院) ノルマンディー公国とノルマン人」でも書いています。
写真はアントウェルペン(Antwerpen)を過ぎてからの車窓
これはベルギー北西部の平野。平野と言うより干拓の必要な湿地帯である。
湿地の砦(Brussels)
ノルマン人(Normanean)の侵略者を監視する為に北海沿岸部では監視と防衛の為の砦がたくさん作られたようだ
。
ブリュツセルの街は、979年にセンヌ川(Senne river)河畔に築かれた砦の一つがルーツになっている。
最もこの時にはすでにノルマン公国は建国していたので、未だ他のノルマン人の侵略が収まっていなかった事が確認できる。
つまりブリュッセル(Brussels)誕生はやはりノルマン人の南下に起因してできた集落だっと考えられるのだ。
今回紹介するのは王の家とCにあるギルドハウス
D(北西ギルドハウス) ・王の家 ・C(北東側ギルドハウス)
雨の日の広場
王の家(la Maison du Roi)

現在はブリュッセル市立博物館(Museum of the City of Brussels)
で、ここには前々回紹介した「小便小僧(Manneken Pis)の衣装コレクションなども展示されている。
現在の建物は、19世紀にVictor Jamarによりネオ・ゴシック建築で再建されたもの。
もともとはここは13世紀にパンの市場だった所で、土地建物はブラバンド公の所有だったと言う。それが 16世紀にこのブラバンド公の血筋から王が輩出された
神聖ローマ皇帝
になったカール5世
(1500年~ 1558年)であり、 スペイン国王
(在位:1516年~1556年) になったカルロス1世の事
で
ある。
もともと父はネーデルラントの領主フィリップ美公で、母はカスティーリャ女王フアナ。
ヨーロッパ王族のサラブレットの血筋から誕生したカール5世にはたくさんの公領の肩書きがあり、ブラバンド公もその一つである
。
王の家(la Maison du Roi)と呼ばれるようになったのはそれからのようだ。
この建物はカール5世が建てさせた・・とも伝えられるが、ここに王は一度も住んでいないらしい。
だが、カール5世はフランドルのガン(現在のゲント)が生まれ故郷だそうでこの低湿地のフランドルをとても愛したそうである。(ゲントはそのうち紹介するがブリュッセルから近い)
屋根や尖塔にはたくさんの像が取り付けられている。肉眼ではほとんど確認できないが・・。
ブリュッセル(Brussels)とセンヌ川(Senne river)
砦の回りにはやがて人が集まり、共同体が形成された
。
湿地にできたこの砦、はbruoc(沼地or湿地)のsella(家)・・と言う語源からブリュッセル(Brussels)に
なったらしい。
中世において、街が発展する要因は何か?
それはもちろん物資運搬の為の川が近くにあるか? と言う要素は大きい。
何しろ唯一の乗り物と言えば馬くらいの時代(中世後半には馬車の存在もあるが)、やはり大きな 物資の輸送手段としては船が一番
だった。
中世ブリュッセルは繊維産業(リンネル)で発展した。それはSenne river (センヌ川)が存在したからである
。
Senne river (センヌ川)は ベルギーを横断する河川の一つScheldt river (スヘルデ川)につながりフランス西部からアントウェルペンを通り北海に注いでいる
。
Scheldt river (スヘルデ川)は、また運河でライン川、マース川さらにセーヌ川とつながり、ダンケルク、リール、リエージュ、といった工業都市をも結んでいるそうだ。
川や運河による水上交通のネットワクークがこの国の発展に貢献したのである
。
しかし、今、そのSenne river (センヌ川)は近くに見当たらない。
実はこの河川は現在首都部では下水道化されている。
ベルギーの河川の汚染度は今も世界の中でもトップクラスの悪さであるが、この Senne river (センヌ川)が地下にもぐる19世紀以前はこれが疫病(コレラやチフス)の蔓延にも一役買う汚染度だったそうだ
。
北東面のギルドハウス
左から・・
19 地方行政官の室 ・・・・・・・・・・・・・・・・現在カフェ
18 画家or左官の組合・・建物名 鳩の家・・・・・・・・・・現在レース屋とチョコレート屋
17 仕立屋の家・・・・・・・・建物名 黄金の小艇・・・・・・現在カフェ
16・・・・・・・・・・・・・・・・・・建物名 天使・・・・・・・・・・・・現在レース屋
15・・・・・・・・・・・・・・・・・・建物名 ジョセフとアンナ・・・現在チョコレート屋
14・・・・・・・・・・・・・・・・・・建物名 鹿・・・・・・・・・・・・・・現在チョコレート屋
注 ガイドブックにより多少名称等が違う。
グラン・プラスは市場として11~12世紀にはあったらしい。
15世紀には市庁舎が、17~18世紀には同業組合(ギルド)の集会所などが建造
駅方面から来るとこの路地から広場にはいる事になる。
だからこのあたりはチョコレート屋がならんでいる。
右から2件目と3件目がGODIVAである。でもここにあまり良いものは並んでいない。
デパートの方がよさそうである。
これが「黄金の小艇」???
この中では一番豪華な建物である。たぶん元は仕立て屋だったようだ。
つづく
リンク ブリュッセル(Brussels) 3 (グラン・プラス 3 西面ギルドハウス)
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