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ヴイッテルスバッハ家の夏の離宮だった宮殿は、選帝侯の夏の離宮であり、バイエルン国の王の夏の居城でもある。
謎の死を遂げた白鳥城の王様、ルードヴィヒ2世は1845年8月25日、この宮殿で生まれた。
彼の母プロイゼンの王女、マリー・フォン・プロイセン(Marie von Preußen)がこの居城ですごしていた時に彼を出産しているからだ。もし夏の生まれでなかったらこの宮殿ではなかったのだろう ![]()
ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)
シュタイナー・ザール(Steiner Saal)
選帝侯妃達の居室
ルードヴィヒ2世 生誕の間
ルードヴィヒ1世のコレクション
美人画ギャラリー
ルードヴィヒ1世と ローラ・モンテス(Lola Montez)
選帝侯フェルディナント・マリアの妃、ヘンリエッテが本館の建築を進め、息子マクシミリアン2世の時代に中央の本館に接続して両翼ができあがった
。
左右対称の宮殿は選帝侯の居室部と選帝侯妃の居室部に明確に分けられ、中央大ホールもこの頃造られている。
母の造作したイタリア風から付け柱の装飾を加え、フランス風のバロックに改築され広間は明るくなったようだ。
※ 宮殿の増改築はその後も続けられ、内装はバロックに加えてネオクラシックなど時代時代で造作が加えられているのがわかる。
宮殿取り図
左の南翼は選帝侯妃の居室 右の北翼は選帝侯の居室
中央の大ホール
シュタイナー・ザール(Steiner Saal)と呼ばれる広間がなぜ祝祭ホールと訳されたのか不明。
直訳すると石のホールとなる。
ボルゴ・デレ・ニンフェ(Borgo delle Ninfe)からニンフェンブルク(Nymphenburg)へ
この宮殿のニンフは花の女神フローラがモチーフになった
。
花々が咲き誇る夏の離宮だからなのだろうが、これは建築家のアイディアかもしれない。
フレスコの天井画はフランソワ・ド・キュヴィイエ監修
絵はヨハン・バプティスト・ツィンマーマン
中央に配されているのはローマ神。特に注目はメルクリウス(ヘルメス)の存在である。


No12 選帝侯妃の寝室
こちらの天井画もフローラ(花の女神)である。
No20 王女の寝室
ルードヴィヒ2世 生誕の間
庭園側に面したこの部屋でルードヴィヒ2世は生まれた。
この寝室は初代バイエルン国王(マクシミリアン1世)の2番目の妃で最初の王妃となったカロリーネ・フォン・バーデンの為に改築された。
1806年、ナポレオンの台頭で時代は新古典(ネオクラシック)から、帝政様式(インペリアル・スタイルorアンピール様式)に・・。
バイエルンはナポレオンにより王国として承認された事もありマクシミリアン1世はナポレオンに傾倒していたのかもしれない。
ルードヴィヒ2世 生誕の間とは言え、表示意外にそれらしいものは何もない。
ただ、 この宮殿に付随する馬車博物館「マーシュタール博物館(Marstallmuseum)にはルードヴィヒ2世愛用の豪奢な馬車や雪ぞりが展示されている
。
ルードヴィヒ2世と言えば白鳥の城と謳われるノイシュバンシュタイン城に尽きそうであるが、彼がこだわったのは住まいだけではない。
馬車博物館には彼が通常使用する乗り物にまで、どれだけこだわりを持っていたかと言うのが見てとれる。
ある意味城よりも解り易い彼の美学がそこで見られる。
一般のツアーでは時間的に立ち寄る事のない領域である。
※ ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4~5で紹介してます・
リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)
リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)
ブルーサロン
王女の私的サロンですが、王子誕生の時はたくさんの側近が控えていた事でしょう。
意匠がプリントされた壁紙も帝政様式のものであるが、新古典と相まってソフトに押さえられている。
※ 帝政様式は主に家具などのインテリアに見られるがナポレオン台頭の一時期だけ、しかも本来家具などの装飾はもっとガッツリ、インペリアルを主張している物が多くヘタをすると品格が落ちるのだ。
ルードヴィヒ1世のコレクション 美人画ギャラリー

No15の部屋はもとは王妃のダイニングルームだった場所である。
美人画のコレクションはルードヴィヒ1世の物
。おそらく近年この絵画を展示するべく「美人画ギャラリー」は造られたのであろう。
本当にいろんな美女達ばかりが並ぶこの画廊はこのニンフェンブルク宮殿の目玉にもなっている。

ルードヴィヒ1世は美女の姿を後世に残すべく、見初めた美人の肖像画を描かせてコレクションしたと言う
。
よって全てが彼の愛人だったわけではないのだ。
目の覚める美女達は、 実は少しデフォルメされより美しく理想化されて描かれているそうだ。
今で言う美人を集めた写真集的なつもりだったのだろう。
1827年から1850年の間に宮廷画家ヨーゼフ・カール・シュティーラー(Joseph Karl Stieler )に描かせたものらしい。
まさか全て同じ画家とは思わなかった。

Grafin Caroline Holnstein
Amalie Schintling
Helene Sedlmayr
不明
ルードヴィヒ1世と
ローラ・モンテス(Lola Montez)

若き日の第2代バイエルン国王ルードヴィヒ1世(Ludwig I)(1786年~1868年)
ルードヴィヒ1世が退位を余儀なくされた美貌の愛人ローラ・モンテス(Lola Montez)

本名はエリザベス・ロザンナ・ギルバート(Elizabeth Rossanna Gilbert)(1821年~1861年)
美貌のダンサーであった彼女は富裕な資産家の男性の間を渡り歩いたと言う。
1846年ミュンヘンでスペインのダンサー ローラ・モンテスとしてデビューするとすぐにルードヴィヒ1世の目に留まり王室に介入。愛人となる。ルードヴィヒ1世、60歳。ローラ25歳の時である。
政務にも口を出し王に影響力を教唆(きょうさ)するローラは周囲の反感を勝う。もともと老いらくの王の恋を快く思っていなかった国民達・・。
そこに王より年金と伯爵夫人の称号が与えられ、1848年国民の怒りと不満は騒動を越えて革命騒ぎとなった
そうだ。
ローラは国外追放。王は退位を迫られ受諾し、同時に二人の中は終わった
。
その後のローラはイギリス、アメリカ、オーストラリアと資産家男性の間を渡り歩いたようだがどこでもトラブルが絶えなかったようだ。
最終的にはニューヨークで若くして梗塞で倒れ半身麻痺。お金も尽き39歳で亡くなっている。
美女に目の無かったルードヴィヒ1世。ルードヴィヒ2世とはえらい違いです![]()
ニンフェンブルク宮殿つづく
リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 3 (狩猟用宮殿アマリエンブルク)
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