PR
Keyword Search
Category
Freepage List
ワーテルローの戦い(The Battle of Waterloo)(1815年6月)後のナポレオンについては案外知られていないのではないかと思い、セント・ヘレナ島(Saint Helena)で亡くなりパリに帰るまでのナポレオンをちょっと紹介しておく事にしました。
実はナポレオンと共にセントヘレナ島に渡った者は結構いるのです。
特にナポレオンの側近として島に渡った者の中には、記録係もいるし、後に回想録を書く気満々だった人もいて、実際後に回想録が出されたりしているので島でのナポレオンの事は案外伝えられているようです。
参考の為にウィキメディアコモンズからパブリックドメインの写真を借りてきていますが、オリジナル写真はパリの写真くらいです。
パリの象徴とも言えるエトワールの凱旋門はアウステルリッツ(Bataille d'Austerlitz)の戦勝記念にナポレオンが造らせた記念碑
※ 凱旋門 (Arc de triomphe )の直訳は「勝利のアーチ」
振り返れば、三帝会戦となったこのアウステルリッツ(Bataille d'Austerlitz)の戦闘こそがワーテルローの戦いの因縁になった闘いです。
何しろオーストリアのハプスブルグ家を屈服させ、1000年近く続いた神聖ローマ帝国を解体。
欧州の政治バランスを崩し覇権をフランスがかっさらった闘いだったからです。
そしてそれはどう見ても勝利不可能な闘いでした。
ナポレオン(Napoleon) 2 セントヘレナからの帰還
セントヘレナ(Saint Helena)島
当初のナポレオンの随行員
ナポレオン最後の家
最悪の医者
ナポレオンの死因
消えたナポレオンの本物のデスマスク
遺体の返還請求
Retour des cendres(灰の帰還)
ナポレオンが造らせた凱旋門
ナポレオンの眠るアンヴァリッド(Les Invalides)
下にセントヘレナ(Saint Helena)島の位置を示しました。
えらく遠くに追いやられてしまったのだと改めて思います
実際、アフリカ海岸沿いに南下しギニア湾に入り西に進路をとりセントヘレナに向かった。
※ セントヘレナはアフリカの海岸から1900km。ブラジルから3500kmの離島。
当時は帆船。風が凪(な)いで航行できず、 セントヘレナ沖に到着したのは出帆(8月9日)から67日目(10月14日)。上陸は1815年10月15日。
ナポレオンの最初の感想は「気持ちの良い場所ではない。これならエジプトに残っていた方がましだった。」
※ 遠征先のエジプトを密かに脱出し、フランスに戻りクーデターを起こしてナポレオンは皇帝になっている。
ノーサンバーランド(Northumberland)号での
航海の途中大砲に寄りかかるナポレオン
Newcastle University のUniversity Library Special Collections から見つけました。
※ この絵の複製は大量に販売されているようです。
画家デヴッドにより大分美化された絵で宣伝されていたナポレオンですが、実際は170cmない小柄。
しかも晩年は小太りしてずんぐりむっくり。一番リアル画像かもしれませんね。
それにしても、哀愁(あいしゅう)感がハンパ無い![]()
セントヘレ
ナ(Saint Helena)島
島の発見は1502年。ポルトガル人によって発見され、島はヨーロッパとアジアを往復する船舶の寄港地として使われていたらしいが、本格的に入植するのはイギリスの東インド会社が補給基地としてかららしい。
1660年の王政復古後、王(チャールズ2世)からの特許状を持って 東インド会社は島の要塞化と植民地化を進めていた。
※ 1658年建設された砦が現在のジェームズタウン
そんな経緯があったから、当時の住民のほぼ半分はアフリカからの黒人奴隷だったそうです。
ナポレオンが来る頃は広東貿易の寄港地として活用。当時の島の住人は5800人くらい。
つまり セントヘレナ島はイギリス東インド会社が所有する大西洋上の船舶寄港地
であった。
下の写真は1790年の東インド会社支配下のセントヘレナ島とジェームズタウンの港を描いたエッチングです。ウィキメデイアからかりてきました
セントヘレナ島には砂浜の海岸が無い。
1815年、この島に ノーサンバーランド(Northumberland)号を旗艦として12隻の艦隊でナポレオンは来航する。ナポレオンを警備する名目で島には海陸の将校2181名が増えた
らしい。
とんでもない数である。捨て置かれた身のナポレオンにここまで経費を費やすか? とさえ思ったがやはりそれだけ大物だったと言う事なのだろう![]()
実際、 英国政府はナポレオン派を警戒して島には部隊が駐屯したほか、海軍の艦船が島の周辺を警戒。
また、隣の島であるアセンション島やトリスタンダクーニャ島にも英軍が派遣され警備。3000人の監視がついたとも言われている。
※ナポレオンの死後、彼ら数千人の滞在者は島を去った。
セントヘレナ島でのナポレオン (ウィキメディアから 
ナポレオン救出の為に急襲されるのを恐れてか? 島には常に5隻の艦船がいたし、島の15カ所にナポレオンの状況を監視する信号所が設けられていた。
散歩中、睡眠中などいちいち報告されていたようです。
当初のナポレオンの随行員
英国政府の計らいで、ナポレオンは3人の随行武官を選任する事ができた
。
武官の家族も一緒に同行。
ベルトラン伯(42)
・・皇帝の副官でエルバ島にも同行していた。 妻ファニー。
グールゴー男爵(32)
・・砲兵科出身の将軍。ナポレオンを崇拝。
モントロン将軍(32)
・・1809年からの侍従。ナポレオンがエルバ等に流された時はルイ王朝に走り、戻ってくると再びナポレオンの元に。 妻アルビーヌ。
島で妊娠して出産。ナポレオンの子ではないかと考えられていたが、その子も亡くなってしまった。娘の名はジョセフィーヌ。
ラス・カーズ(49)
・・書記兼通訳として特別に追加。ナポレオン帝政下で枢密顧問。ナポレオンの回想録を書く気で参加。父子で参加。
オマーラ(33)
・・英国の海軍外科医
召し使い10人・・ オマーラ,ルイ・マルシャン,アリ・サン・ドニ,ノヴェラス,サンチーニら。
※ 祖国フランスに残った将校らは軍法会議にかけられて処刑、投獄、流刑されている。
セントヘレナでのナポレオンの住まいだったロングウッド・ハウス(Longwood House)
ウィキメディアでパブリックドメインになっていた写真です。
部屋室は36室。ナポレオンの住居には5つの部屋があったらしい。
現在のロングウッド・ハウスはフランスがイギリスより買い取りして博物館になっているらしい。
ナポレオン最後の家
当初は副総督の別荘だった所を改築、ナポレオンに侍従してきた3将軍やその家族、召し使い10人、侍医、通訳などナポレオンを取り巻く人たちの家は増設され、それなりの屋敷にはなっていたようです。
私たちの認識では今まで捕虜的な過酷な暮らしかと思っていましたが、 行動範囲が恐ろしく限られていた事などを除けばフォンテーヌブロー宮殿の延長的な暮らしぶりだったようです
。
コックも居るし、ワインなども欧州や南アから美味しいのを取り寄せていたようです。
何しろ貿易の寄港地なのだから結構いろんな物が得られたかもしれないですね。
上の写真では清々しい感じですが、セントヘレナは気温的には悪くないようですが 一年を通して曇天が多く、カビの繁殖はひどく夏には耐えられない蒸し暑さ
となったようです。
※ 天気の引用資料をミスりました。引用を隣の島から持ってきてました m(_ _)m
当初降雨が多いとしましたが、実際は降雨は少ないけれど、一年を通して曇天が多く、湿度が高く蒸す日が多かったようです。日記にカビになやまされたとあったので露点は高くカビが繁殖したようです。
セントヘレナは南半球です。夏のピークは3月
ナポレオンは5月5日に亡くなったので、夏の終わり湿度は高い時期のようです。
故遺体の腐敗は早く進み2日後にデスマスクをとろうとした時にはすでに困難な状況にあったようです
病床のナポレオン これもウィキメディアからですが、ポピュラーな絵です
ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)(1769年8月15日~1821年5月5日)
最悪の医者
島の総督であった陸軍中将のサー・ハドソン・ロー(Sir Hudson Lowe)(1769年~1844年)は
、ナポレオンが逃げたら自分の責任。さらに殺されでもしたら一大事。
その為に 必要以上にナポレオンの行動に口を出し、ナポレオンを悩ませる元凶になった男。
何より、 サー・ハドソン・ローの罪は
ナボレオンの主治医を島から追い出した事。
そして具合の悪くなったナポレオンの為に適切な医師を用意しなかった事。
真の医者がいなくなり、ナポレオンの健康状態は悪化。困ったナポレオンは母に頼みコルシカ島から医者を呼んだ。
それが ナポレオンの最後を看取った医者アントンマルキ(Antommarchi)でありデスマスクの制作者
である。が、ナポレオン自身は彼をヤブ医者と呼んでいたそうだ。
※ François Carlo Antommarchi(1780年~1838年)
※ アントンマルキも後に本を出している。
ナポレオンはアントンマルキが無理に飲ませた当時の催吐薬(さいとやく)である吐酒石(としゅせき)により胃を余計に悪くしてしまう。飲んですぐに粘液を吐き出すほどに悪くなったのにさらに医師は吐酒石(としゅせき)を飲ませている。
そして一日に何度も嘔吐を続ける状態に陥ったようだ。
※ 吐酒石(としゅせき)・・・酒石酸アンチモニルカリウムの別称(K2Sb2(C4H2O6)2)
「ナポレオンは殺された」より
すでに胃が食を受け付けなくなり弱り切った時に今度はイギリス人軍医により便秘の薬と言う理由で甘汞(かんこう)を飲まされる。その量は通常の10倍。
甘汞(かんこう)は塩化水銀( Hg2Cl)。
ナポレオンがいつも飲んでいたビターアーモンドの入った麦糖液と作用してシアン化合物が生成。
2日(5月3日と4日)にわたり飲まされたナポレオンはタールのような物を排出したそうだ(上から出たのか下から出たのかは不明)
そして5月5日に息を引き取った。
これだけ見れば今で言う医療事故が引き金といえる。
でもそもそもは体調の悪い何かがあってのこれら薬である。
Death mask of Napoleon(ナポレオンのデスマスク) ウィキメディアから借りてきました。
パリの軍事博物館に展示されているこのマスクはアントンマルキ(Antommarchi)の子孫の寄贈のマスクらしいです。
ナポレオンの死因
公式にはナポレオンの死因は胃がんと公表されている
。
それは先に紹介した島の総督であった陸軍中将の サー・ハドソン・ロー(Sir Hudson Lowe)が、半ば強制的に胃がんで処理したかったからだ。
万が一にも毒殺であればローの失態
。責任問題である。 持病でケリをつけて早く埋葬して隠したかった
と言う事情があった。
何しろナポレオンの体調が悪いので早く本国の医師に診てもらいたいと言う希望をローが退けてきた経緯がある。まさか本当に病気だったのか? あるいは毒殺だったら?・・と彼はおののいたのだろう。
実際、ナポレオンの死の原因は何か? は非常に大きな問題である。 今の科学で検査すればすぐにわかる事なのだろうが、フランス政府は遺骸の再調査の許可を出していない
。
その理由についてはまた色々ある。
遺骸はナポレオン本人ではないかもしれないと言う不安
もあるだろうが「胃がん死」が一番無難なのだろう。
何にせよナポレオンの解剖はことのほか早く(24時間以内)に始まった。
解剖医はアントンマルキ含む英国軍医の7人。胃の幽門あたりに潰瘍はあったらしいが、ガンが原因でない事だけはすぐにわかったらしい。
問題は肝臓の肥大。
しかし、これはローによって削除させられ本国には隠された。
ところで ナポレオン胃がん説は、ナポレオンの父と妹が胃がんであった事から出た話
であり、ナポレオン自身は生前これは胃ではないと否定しているし、「死んだら必ず解剖してくまなく調べて欲しい」と口癖のように言っていたそうだ。
ナポレオン自身が不可解な体調不良に不審を感じていたのは間違いない。
因みにこの時、ナポレオンの遺言で心臓が取り出され銀の容器に移されてからマリー・ルイーズに送られるはずであった。
以前ハブスブルグ家の分割埋葬のところで心臓の事を紹介しているが、マリー・ルイーズがナポレオンの心臓を自分の棺に入れて眠ってくれるだろうと信じていたのかもしれない。
ちょっと哀れだ![]()
マリー・ルイーズは浮気して相手の子を身ごもり、ナポレオンとの間に生まれた皇子さえ捨てて、もはや完全にナポレオンの事なんか忘れていただろうに・・。
※ 2018年6月「ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓」で心臓の保存について書いています。
リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓
消えたナポレオンの本物のデスマスク
マスク造りを主導したのは英軍の六十六連隊外科医であったフランシス・バートン博士(Dr. Francis Burton)だった
ようだ。一応主治医であったアントンマルキであるが、彼は途中から補佐に入っただけ。
バートン博士はデスマスクと胸像を作ろうとして、石膏が足りず、結局、顔面と頭頂部と頭の後ろの3つの部位の型を造り、後はパリで良質の石膏を手に入れてから作り直す予定だったと言う。
ところが乾燥させている最中に肝心の顔面だけが持ち去られてしまった。
理由は、 すでに腐敗を初めていたナポレオンから型取りした顔ではあまりに醜く関係者には不満だったらしい。
つまり当初制作したバートン博士のナポレオン像の型は消え、後にアントンマルキが別の若々しいナポレオンのデスマスクを造るに至ったようだ。
そもそも、本当にアントンマルキが造ったかはわからない。造形師がいたかも・・。
※ アントンマルキの新しい型からは6つのマスクが制作されたとされる。
バートン博士は当然、自分に返還するよう抗議したようだが、所有権は注文主にあると主張され、最終的には英国政府もさじをなげたようだ。
それ故、 今出回っているナポレオンのデスマスクは、死後の顔ではなく、かなり美化された美しいナポレオンの顔
なのだとされている。
そもそも、 ナポレオンの肖像画家であったダヴィットの描くナポレオンもかなり美化されて描かれている
事は周知の事実。
関係者はナポレオンの名誉を守った? と言う事なのだろう
。
それにしても亡くなったのが5月5日の夜。
6日解剖。7日にデスマスクを採る。
そして8日( 4日目)には錫(すず)の棺に納められて溶接され、さらにマホガニーの棺に入れられて早い埋葬がされている。
わずか2日ほどでナポレオンの体はかなり腐敗。すでにデスマスクを採るには無理があったとされているが、腐敗が進んだ理由の一つは解剖して開いたからだろう。そしてセントヘレナの暑さと湿気も進行を早めたのだろう。
だからそれ故、 20年後に掘りおこしたナポレオンの遺骸が、ことの外、保存状態が良かった・・と言うのが腑に落ちない
。
他にも理由はあるがそこに 遺骸の取り替え説が浮上し、アンヴアリットに眠るナポレオンは本物か? 説が生まれた
らしい。
遺体の返還請求
当初ナポレオンはセントヘレナのジェラニウム渓谷に埋葬された。
本人の希望ではセーヌ川のほとりに埋葬してほしかったらしいが・・。
ナポレオンが亡くなったのは1821年5月5日であるが、イタリアに亡命していたナポレオンの母后に知らせが届くのは7月23日。
セントヘレナは遠い。ナポレオン自身が67日かけて島まで航行しているのだから・・。
8月に息子ナポレオンの亡骸を返して欲しいと言う母の手紙がすくざま英国に送られた。
それに対して、英国側は、フランス政府から正式な要請があれば返還の意志ありと伝えたとされるが、 王政復古でブルボン王朝に返り咲いているこの時期にナポレオンがフランスに戻ることは不可能
だったらしい。
事情が変わるのは1840年のフランス7月革命で再びブルボン王朝が打倒されてからだ。
ルイ・フィリップが王位に就くとにわかにボナバルト派の中でナポレオンの遺体を取り戻す動きが始まる。フランス政府も再び国民の中で起きているナポレオン人気にあやかるべく、公式に英国政府に働きかけることになった。
ナポレオンは革命と自由の象徴として人気が復活していたからだ。
英国のヴィクトリア女王も好意的であったらしいが、当時英国とフランスはアフリカ大陸の利権問題で微妙な問題もあった。
それ故、この件で両国の平和維持が損なわれる問題になっては困る。お互いに譲歩しなければならない問題も含んでいた。
英国としても、棺の中に本当にナポレオンが入っているか? は大きな不安材料だったようだ。
確認の為に元の側近、ベルトランらが派遣されるも、万が一偽物であった場合も、英国に怒りを爆発させてはいけないと言い含められたようだし・・。
Retour des cendres(灰の帰還)
セントヘレナ島から船に積み込まれる棺 ウィキペディアから借りてきました。
1840年7月7日、ナポレオンを連れ戻すべく船はル・アーブル港を出港。
10月8日セントヘレナ島に到着。
10月15日ジェラニウム渓谷の墓地で地下埋葬所の発掘が始まる。
発掘作業は英国側が、しかも真夜中である。
限られた 関係者のみが墓に集まり、他の者は船から下りる事も禁じられ全てが秘密裏に行われた。
棺の中を見ることが許されたのも数人のみ。
この厳戒態勢がより皆の不審をかったらしい。
さらに疑問の元になったのは 1821年の埋葬時と1840年の発掘時の棺の状況の微妙な違い
。
加えて、 英国のジョージ4世がナポレオン信奉者
で1820年~25年あたりにナポレオンのミイラとなった遺骸を本国に運びウエストミンスターに置いたと言う まことしやかな話し
がある。
ここに 英国がナポレオンの遺骸をすでに本国に運んでいたので別人でナポレオンの棺を造ったと言う説が生まれた
のだろう。
1840年12月14日にクールブヴォア(Courbevoie)に到着したナポレオンの棺
ウィキペディアから借りてきました
棺を乗せた船はル・アーブル港からセーヌ河を遡ってパリまで到着。
パリではナポレオンは葬列車に乗って市内を移動し凱旋門の下を通過。そしてアンヴァリッドへ。
ウィキメディアでパプリックドメインになっていた写真ですですが、元はポスト・カード。
ナポレオンが造らせた凱旋門

1806年、ナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まった凱旋門の完成は1836年。
最初に紹介したように遺骸が祖国に戻った葬送の時に下をくぐり抜けてパレードしていますが、ナポレオンが最初に構想してから王政に移行し、再び共和制に政権が変わっているので、 時の事情は建築デザインなどにも影響を及ぼしたようです
。
その為なのか?新古典様式とうたっている割には微妙。
当初は帝政様式でデザインされてもっと装飾も多かったのではないか? と思うのです。
ところで、現在は真下が無名戦士の墓碑になっているので車両の通行はできません。
凱旋門は他にもありますが、放射状に道の集まるエトワールの凱旋門はナポレオンの葬送で遣われ、後にヴィクトルユゴーの遺体が安置され、第一次世界大戦の同盟国の勝利のパレード等国家的なイベントに利用される場となって行ったようです。
無名戦士の墓(シャンゼリゼ方面
こちらもウィキメディアでパプリックドメインになっていた写真ですですが、元はポスト・カード。
葬列はアンヴァリッドにもうすぐ到着。
ナポレオンの眠る
アンヴァリット(Les Invalides)
オリジナル写真は外観だけですが、ナポレオンの墓地となっているパリのアンヴァリッドを紹介。
これも古い写真ですが、外観は変わらないので・・
正式にはオテル・デ・ザンヴァリッド( L'hôtel des Invalides)
1671年にルイ14世が傷病兵を看護する施設として造った軍病院に始まり、廃兵院でもある。
現在は一部軍事博物館となっているそうだ。

付属の礼拝堂ドーム教会は、もともと聖ルイ(ルイ9世)の遺体安置のために建設された堂。
そこに地下墓所が設けられ、ナポレオン・ボナパルト(フランス皇帝ナポレオン1世)の柩が中央に安置され、囲むようにナポレオンの親族や武将の廟が置かれている。
Tombeau de Napoléon(ナポレオンの墓)
私自身は中に入っていないので、ナポレオンの棺の写真を 上下共に、
ウィキペディアから借りてきました。
建築家ルイ・ヴィスコンティによって設計されたこの墓は1861年に完成。

思う以上に立派な葬列をもって葬儀が行われていたようです。
ナポレオンがヒ素に犯されていたと言う問題は次回にその根拠を紹介したいと思います。
Back number
リンク ナポレオン(Napoléon) 1 ワーテルロー(Waterloo)戦線とナポレオンの帽子
ナポレオン(Napoleon) 2 セントヘレナからの帰還
リンク ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Green
ナポレオン関連
リンク ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠
リンク ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式
イングランド国教会と三王国の統合3 名誉… 2025年11月11日
イングランド国教会と三王国の統合 2 ピ… 2025年09月28日
イングランド国教会と三王国の統合 1 ジ… 2025年07月28日