「私の始めたラクロス」
最近、よく「ラクロスと楽しさ」について考える機会がある。競技スポーツとして「勝つこと」のみを優先するチームが日増しに増えてくる今日このごろ。近年、特にリーグ戦は緊迫した接戦を繰り広げている。それは素晴らしい成長であり中四国地区を全国区足らしめるに充分な「成果」であると思う。私のコーチとして目指すものも当然その先にあり、まだまだ到達し得ない目標である。走りつづけるチーム、求めるのはもっと高いレベルでの競争、チームとして地区として全国レベルへの挑戦。さらに個人としてユースでの活躍の末には日本代表としてW杯出場という道。全てが可能性の塊であり、ワクワクするような夢のような環境がここにある。
今年4年生が卒業すると、私と同じ学生時代を過ごした人はいなくなる。「私たちのころの~」という話が全く通じなくなって然りである。今になって「古きよき時代」について語らう気はない。あのころはよかったといえることといえないことがあるし、環境面で言えば比べ物にならないほど整ってきている。ま、8年もやってて環境が変わらないほうがおかしいけどね。で今思えば、その歴史の副産物として「競技スポーツ化に成功した」チームと「取り残された」チームに分化したのではないかと思う。ただ、取り残されたことは「失敗」ではない。そういう道もあるはずだ。ただ一方のみを善とはするべきではない。しかし、今の風潮は競技スポーツとしての道しか見えない選手が多いことも確かだ。
カワサキでたまに聞くことがある。「ラクロスを楽しんでいるか?」と。勝つことのみを善とするのが競技スポーツだ。どんなスポーツでも競技として行う以上目標があり、それを達成する瞬間はこの上なく楽しい。その楽しさに相応する厳しい練習を積み上げた成果だから当然だ。しかし「ラクロス」の本当の楽しさは単なる競技スポーツのそれとは少し違うと思っている。「ラクロスメイクスフレンズ」の文字通り、チームを超えた友情を得たときやチームを超えた経験をしたときに、楽しさはもっと大きくなる。ときに「目標」の大きさに苦しくなった時、自分のしている練習が苦しくなった時、その痛みを共有できる友はいるか?チーム以外にもその「友」ができるのがラクロスだと思う。違うチームで違う目標を追っていても「目標に向かう姿勢」は同じはずだし、そういう同志がもてるのがラクロスだと。そういう同志かつライバルとラクロスや自分たちの将来について語らい、自分たちのラクロス環境をどうやって育てていけるかを語らう時間はかけがえがないものになるはずだ。今、皆はそういう仲間を一人でも持っているか?
このごろ「草ラクロス」なるものが存在しているのをご存知だろうか?週末にパスキャッチが生活の一部になる。思い出すのは、その昔、私たちが一本のクロスだけで充分放課後ラクロスを楽しんでいたこと。ゴールがあり友達が揃えばなおさら面白かった。そして時々、海を越え山を越えクロスを持って他のチームの「友人」に会いに行く。これ以上楽しい「遊び」はなかった。
今年で卒業4年目になるが、岡山に来てから時々同志と集まることがある。懐かしい話に花を咲かせ、今またクロスを持とうとしている友もいる。私は当時勝ち負けをきそった仲間と、今一緒に話せてー緒にラクロスができることが幸せだと思う。こうして年をとっても、結婚して子供が出来ても、家族でラクロスができる環境があれば、と思う。それがラクロスの本当の楽しさだと信じてやまない。一生ラクロス・家族でラクロス。