犠牲への感度



非常事態というものはそれを状態としてでなく事態と
して認識するとき、日常の反対概念となる。しかしこの
認識にトリックが仕掛けられていることを気づかずに
いては、日常という名の非常事態を無防備ですごし、
知らぬ間に屈辱的な姿をさらすことになる。

過去の遺産には犠牲者のうめき声が聞こえるものが
ある。神殿は死者の山と強制、権力による支配とによ
り作られた。残念ながら、被支配者たちのなした何物
かを価値あるものとしてよみがえらせることは、書物
の中でもできない。心に痛みを持ちながら、悪徳の遺産
をせいぜい利用することがわたしたちにできることで
あり、わたしたちがするべきことなのだ。

非常事態のスパンが、長短極端に違ったものを含む
ことは素朴な思考にも明らかだ。今、雷が落ち都市機能
が麻痺すればそれは非常事態だ。そして、そんなことの
ない状態を日常と感じてしまうように、我々の保守的
精神構造がうながしている。今、チョンマゲをして和服
で大勢の人間が歩いていたら、これもまた確かに非常
事態だ。しかし、江戸時代という長い間、それは日常
でしかなかった。

わたしたちは現在日常と感じている、それは慣れによる
部分が大きいだろう、その感覚を思考の遡上にあげる
必要があるのだ。ないというなら、虚無僧や侍と日常
会話をしてみせなければ、筋を通せはしない。

二つの非常事態の中に我々はいる。一つはなお明言を
許さない。今ひとつは痛みと悪徳、それは想像を絶する
だろう、それらの息吹に吹かれていくことが、生活して
いることなのだということである。


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