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エディタ理論 Internetの始まりはテクストの送受信、つまりe-mailのようなものだった。 最近光ファイバーでMultimedia、などという住宅の広告を見たが、Multimediaというのはテクスト、画像、音声というように媒体の形式が複数にわたるということを意味し、何も光ファイバーである必要はない。ダイアルアップでもMultimediaはMultimediaだ。 Internetの場合、基本はテクストである。どんな情報も広義の文書に変換されるとか、そういった意味ではない。文書、人間のことばで書かれる文章という意味でのテクストだ。 コンピュータ、とりわけPCというのは、広義の文房具であり、メインを文書の執筆においている。これを当然Internetに接続し、発表する段において装飾が必要であり、Multimediaというのはここで要求される資質と言える。 そう、コンピュータは現代のノートと鉛筆なのである。 執筆に関係するapplicationは複数あるが、マルチタスクで同時に使用できる。エディタ、ワープロ、辞書、また場合によってはブラウザ。音楽を聴きながら書く人もいるだろう。 この内もっとも重要なのはエディタである。ワープロと比べ設定が簡潔であり、スピードは桁違いに速い。思考の停滞を招かないためにもシンプルなインタフェイスと入力速度はきわめて重要だ。ワープロによる装飾は文書ができあがってからで十分だが、つねに出来映えを心配する人もいるだろう。そういう人はエディタでひとまとまりつくり、ワープロでデザインし、というのを繰り返してもいい。 エディタのインタフェイスが素っ気ない、またエディタは機能性に乏しい、という人もいるに違いないが、これはいずれも誤った指摘でしかない。エディタにはワープロにないタブ表示機能があったり、表示に関してもカスタマイズ性は非常に高いものが多々ある。縦書きはもちろん、原稿用紙表示もあるし、ワープロ以上にカラフルなものもある。 決してWindowsのメモ帳やワードパッドを連想しないことだ。無料で素晴らしいものがどんどん手に入る。だからこそ、店頭でエディタというジャンルは扱われないのだ。(MIFESなど例外はもちろんある) Computingの大抵を文書作成に費やすわたしは、エディタについては一家言あるつもりだ。ハッキリ言ってエディタマニアである。いや、理想の文書作成ツールを求めるエディタ求道家と言っても言い。 そのわたしが必要十分、最少理想のインストールエディタを厳選してみた。1.MKEditor ダウンロードランキング1位の人気は、最も操作性のいい タブエディタだからであろう。ぼくは掲示板に複数書き込み をするときなどにタブによる複数文書整理をするのに重宝 している。またこのエディタにはメーラへの送信機能が ある。Editorで書いたものをメーラの送信フォームにその まま送り出せるのだ。 2.VerticalEditor これまた現在ダウンロードランキングで2位につける人気 ソフト。縦書きでも横書きでも対応し、背景色なども自在 だ。しかし、ぼくはこれについてはやはり縦書きの原稿用紙 表示で使いたい。縦書きがこれほど綺麗に表示されるEditor をぼくはしらない。手紙や小説を書くような気分のモードに 最適だ。更にまた、このEditorにはふりがな表示というおまけ が付く。 3.てきすた~ タブエディタとして大変使いやすい。わたしはちょっと変わった 使い方をしている。複数のEditorと同時にMKを常駐させて おき、各々のEditorで文書を作成し、完成したものをMKの 各タブに貼り付け、保存する。こうするとタブの意味が 生きるし、保存先も統一されてファイルの管理がしやすい。 またこのエディタには大阪弁やコギャルことばへの変換機能 があり、役には立たないが面白い。 4.TeraPad 正統派のEditor。秀丸と並ぶ(しかしフリーの)Windows 標準Editorと言って良いだろう。MIFESの代わりに使う人 がいるほどの超高機能とシンプルな外観が特徴。 5.K2Editor、えるの~と、TepaEditor、BigEditなどなど Editorは軽量なのでいくつインストールしても構わないが、 あまりインタフェイスに飽きることもない人は5種類ほど のインストールが良いだろう。 ついでながら現在のわたしのapplication状況を報告しよう。Editorについては上の通り。秀丸は使っていない。ワープロは一太郎だが、大いに不満がある。Wordの方が良いかも。わたしはいっそのことワープロはホームページビルダーのようなWeb作成ツールにした方がいいと思う。多分近々安いWeb作成ツール兼ワープロになりそうなものを購入するだろう。 表計算ソフトは現在ないので、CalcArkを一太郎JAVAなどとセットで購入する予定。プレゼンソフトもここで補う。 メーラはShuriken。ブラウザは最低二つ必要だと考えている。まずMSNExplorer。これはサインイン名とパスワードでどの端末からでも同じ環境でWebを楽しめる貴重なもので、大切なブックマークなどはこのブラウザでネット上に記憶させておけばバッチリだ。しかしMSNEは遅いしタブ表示もない。 Operaを新世代ブラウザとして祭り上げる人も多いが、このブラウザはやはり新型の欠点、バグ、損傷が多い。IEベースのものの方がいいだろう。 そこでわたしはそこそこ速く、またブラウザのタブ表示にかけては現在最高であり他の機能も十分なLunascapeを使っている。
2004年03月25日
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喪の仕事、モーニング・ワークフロイトは敬愛する父を亡くしたときの心理をしっかりと見据えていた。自己分析によって愛する人を失ったときの仕事である喪の仕事を完遂する方法を探った。フロイトにとって父は愛するだけの存在ではなく、ときに恐怖を与える存在でもあった。そしてフロイトは、そうした恐怖からの解放による安心感、そしてその周辺で生じていたある種の憎しみを自覚するにまでいたった。喪の仕事において、人は悲しみを引き受ける強さを身につけ、対象への後悔、懺悔の念を整理し、必要ならば他の対象に似た思いを向けることで、このうつ状態を脱却しなければならない。
2004年03月24日
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ぼくはエディタのマニアで、freeWareを中心に新しいものをこまめにチェックして使っている。しかしapplicationを超えてこれのインターフェイスを規定してしまうのがOSであり、その設定である。これによりwindowの表示が決まってしまう。MicrosoftWindowsを前提にするのはある程度仕方ないとし、WindowsXPの表示、あの重厚で丸みのある表示がどうしても好きになれない。だからOSはXPだが、表示にはWindowsクラシックスタイルを選択している。この気持ち、分かる人はいないものだろうか?
2004年03月22日
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いわゆる付加疑問文において、英語では「ないですか?」と聞かれたとき、もしあるのならYesと答える。ないのならNoだ。 日本語の感覚では「ないですか」と言われて実際ないのなら「はい」と答える。 この感覚の違いは「ないモノはない」という英語的思考と「ないこともある」という日本語的思考、モノの思考とことの思考のすれ違いであると言える。
2004年03月20日
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フリーソフトでてくすたーというタブエディタがある。これはすごい。大阪弁とかコギャルことばに変換できるのだ。ある種の翻訳ソフトのようなものである。以下には昨日のものを貼り付ける。きょうび某内科でダイエット薬を処方されたちうわけや。この薬は医者によってはエライ危険なものと判断され、絶対に出さないちうわけや。極度の肥満の場合だけ処方する医師もいるちうわけや。わいやらなんやらはちーとばかし太っとるちう程度なのやけど、それはここ二年の話で、それよりどエライ昔は30kgほど痩せとった。慎重169cm、体重48kgで中学生以来生きてきたわけや。ふとってからオノレを見るのがイヤになりよった。鏡は家からずぅぇえええぇぇええんぶ排除したちうわけや。鏡ナシで髭をそることが出来るようになるまで、結構エライやった(もっともっともっともっともっともっともっともっともっとも、わいは髭が薄いので週に2回くらいしかそりまへん)。ついでに高校生以来彼女がおらへんちう状態が二月も続くちうことがなかったわいやけど、太ってからのこの二年、すっかりもてなくなってしもた。処方されたのは成分名マジンドール、セノラックスちう薬であるちうわけや。覚醒剤ににた依存性がある(覚醒剤のような効果はない)ちうし、他の薬との併用が危険やったり、鬱や不安のある人は服用禁忌ちうから厄介や。そういうわけで、ほとんどの医師はこれを使いたがりまへん。またわいの場合、二年で30kgちう異常な太り方をしたから特別に処方されたものの、通常処方には身長、体重の基準があり、滅多に適応する人はおらへん。飲みこの世におぎゃあいうて生まれてはじめてちーとの間たつが、う~ん、大仰に恐れられとる割にはあんまり効果を感じないちうわけや。飲んでも作用、副作用ともにあまり感じないのや。きょうびになってやっと、やや夕食時に食欲が落ちてきたな、といったかんじであるちうわけや。あと、これは過食症治療薬でもあるわけで、内科と精神科の中間にある薬といえるちうわけや。やから両方の診療科がある医療施設で、ほしい人は当たってみようわ。
2004年03月08日
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マイク・タイソンがK-1と契約した。ボクシングルール以外のルールでの試合があるとしたら、K-1との契約で行われる試合になるということだ。ハッキリ言ってタイソンの存在は大きい。現役のチャンピオンなど比べモノにならない名声がある。モハメド・アリに匹敵する存在なのだ。しかも、今現在でも確実に強い。それも、そうとう強いはずだ。で、予想通りだがK-1は世間の注目を浴びればいいとばかりにサップとの一戦を実現させようとしている。ボクシング系の選手であるベルナルドや、今回いち早く対戦を希望したバンナでは、圧倒的に不利だ。このタイソン戦は、おそらく実現しないが、するとしたら一回で終わってしまうかもしれない。キチンとみなが納得するカードをK-1は提示しなければならない。サップで(どうせルールもメチャクチャだろう)客寄せだけというのが一番ありそうで一番イヤな成り行きだ。まずタイソン戦を実現させること、そして勝敗のわからない面白い試合を組むことが必要だ。まずあり得ないが総合格闘技でということなら、勿論桜庭に行ってほしい。日本人の有名ファイターで、実績十分。しかも寝技系の選手だ。公平なルール(と言うとき、基本はナンでもあり、ということだが)なら桜庭に負ける要素はない。単に確実に勝つだけならヒョードルが一番だろうが、これではいくらなんでも客が呼べない。勝敗が見えすぎているし、彼はまだまだ無名だ。その辺さじ加減が肝要だろう。最低なのはサップだ。サップならむしろ軽量級のマッハ、須藤元気、五味あたりを当てた方が勝率も高いし、面白い試合になるはずだ。K-1ルールということなら一番スリリングなのがホーストだ。なんだか負けそうな気もするし、ローキックで勝ちそうな気もする。K-1史上最高の経歴を持っているということを考えても、これは面白い。ミルコを当てるのが今、K-1では№1、総合でもヒョードルと並んでトップにいるミルコはいわば最強の選手であり、タイソンと戦う資格が最もあるということができ、わたしも一番見てみたい。ローキック無しの変則ルールならかなり面白いのではないだろうか?とにかく、格闘技が本当に好きな人たちのために、サップは大けがでもしてプロレスに専念してほしい。
2004年02月16日
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PCを立ち上げる前から今日のネタは決めていた。K-1の話だ。ハッキリ言ってつまらなすぎる。商業的にボブ・サップでおいしい思いをし過ぎたのがその原因に違いない。なぜならサップは、もう総合格闘技でもKー1でも特別な選手ではない。でくの坊という形容が一番ふさわしいでかいだけで弱い選手だ。それに対して更に弱い選手=曙をぶつけるなどして人気を強引に維持させている。昨年サップに事実上の勝利を収めた(強引なやり方でサップ勝利と記録されたが)キモは、打撃の選手ではない。柔術家である。これまでに佐竹と武蔵と対戦し何れも破れた。今日も天田にリンチのような負け方をしている。今度サップはまた名前も顔も誰も知らないが、とりあえず横綱の兄という看板だけは持っている選手と戦うらしい。何故か?サップはもはや名の知れたどんな選手にも勝てない。そのサップでまだ儲けようとしているK-1は浅ましい。しかしよくわからない。今、サップは間違いなく弱い選手だが、それがなぜミノタウロとあんな激闘ができたのか。まして田村に勝つことができたのか?(ホーストは規格外にでかい選手には弱い。)ハングリー精神を失うというのは、こんなにも人を変えてしまうものなのだろうか。
2004年02月15日
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サリンジャー Jerome David Salinger [1919-]米国の小説家。ユダヤ人を父としてニューヨークに生まれる。第2次大戦に志願して従軍した後,長編《ライ麦畑でつかまえて》(1951年)で高校生の欺瞞的な社会への反発を一人称で語って名声を得た。《九つの短編》(1953年)に続いて,〈グラース家年代記〉の連作に当たる《フラニーとゾーイ》(1961年),《大工よ,屋根の梁を高く掲げよ》(1963年)等を発表,真の生き方とは何かを追求している。--------------------------------------------バナナフィッシュのアッシュのようにバナナフィッシュのアッシュのように少女漫画『バナナフィッシュ』は当然、サリンジャーの『バナナフィッシュに最適の日』からそのTITLEを拝借している。主人公のアッシュと日本人少年英二との友情物語であり、天性の才能、何をとってもそう言える非の打ち所のない美少年アッシュが、バナナフィッシュと名付けられた薬物にまつわる一大物語を通過するのがこの漫画のあらすじだ。男性であるわたしが読んだ(すでに日記にも書いたが)数少ない少女漫画の一つ、『バナナフィッシュ』は既に文庫化されており、古典ということばが似つかわしくないのならばせめてスタンダードと形容される名作としての地位を占めている。この作品について一つだけ残念なことがある。それは、アッシュと英二の友情物語的要素が強まりながら物語が進展していくのと不釣り合いなことに、アッシュの超人的な素養が発揮されていってしまっていることに違和感を覚えるのだ。その話は別としよう。男の子にとって、アッシュは理想の権化だ。ゴルゴ13にあこがれる男の子もいるかもしれない。『空手バカ一代』にあこがれたかつての少年もまた、確かにいる。しかし、75年生まれ、70年代生まれの男の子たちが持つ典型的な理想は、当のアッシュに凝縮されているような気がする。それは、多分に女性が男性に求めるものの権化としてアッシュがいるからであるとも言える。『バナナフィッシュ』が少女漫画であるのは、この点において重要だ(作者は女性でも男性でもいい)。アッシュは、不良少年だ。そして、「掃きだめに鶴」などと呼ばれるブロンドの美少年だ。彼はレイプ体験のトラウマを持ち、大胆不敵な度胸の裏にトラウマと繊細な心を持っている。コンピュータを操る頭脳派であり、またケンカ無敵の強腕だ。スレンダーな体を持ち、「太りたくない」とそれでも言う。美しく、強い男だ。わたしにとってもまた、彼は永遠のheroだ。
2004年02月13日
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精神科、神経科の診断結果というものは他の診療科と違い、ハッキリ言ってどうにでもなる。内科で胃潰瘍と診断されて、診断書に癌と記載されることは決してない。しかし、同じことが起こるのが精神科の世界だ。何しろ診断書を書いてもらうとき、目的を聞かれる。で、その目的に適った診断結果が下されるわけである。例えば、復学のための診断書ならある程度元気であることをアピールするものになるし、休職のためのものであるなら「鬱状態にあり2週間の静養を必要とする」などとなるのだ。復学のcaseなら「軽度神経症。学業に支障なし」などが適当だろう。年金でももらおうというのなら、実際のところ単なる不眠症でも「統合失調症。回復の見込み不明」とかというようになる。勿論そうならない場合もある。その辺厳しい医師とそうでない医師とがいるのは確かだ。わたしは仕事もしているし別段気分が落ち込んでもいない。まあ、性格は暗いが。不眠症というのだけは間違いない。今まで色んな目的で色んな病名をつけてもらった。そのための医師という存在すらあった。神経症、自律神経失調症、軽傷うつ病、不眠症、心身症、などなど。これまでで一番印象に残っている強烈なものが初めて行ったクリニックで最初の面接の後ぶっきらぼうに告げられた病名だ。「人格障害」「…、ええっと、乖離性人格障害とかですか?」「自己敗北性人格障害」「ぐふっ!!」(笑いを堪えるのに必死!)先ず、「当たってるじゃん(^^ゞ」ついで、「アドリブ利くな、このおっさん(^^ゞ」そんな病気があるのかどうかすらよくわからない。とにかく笑えることだけは確かな名前である。
2004年02月12日
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犠牲への感度非常事態というものはそれを状態としてでなく事態として認識するとき、日常の反対概念となる。しかしこの認識にトリックが仕掛けられていることを気づかずにいては、日常という名の非常事態を無防備ですごし、知らぬ間に屈辱的な姿をさらすことになる。過去の遺産には犠牲者のうめき声が聞こえるものがある。神殿は死者の山と強制、権力による支配とにより作られた。残念ながら、被支配者たちのなした何物かを価値あるものとしてよみがえらせることは、書物の中でもできない。心に痛みを持ちながら、悪徳の遺産をせいぜい利用することがわたしたちにできることであり、わたしたちがするべきことなのだ。非常事態のスパンが、長短極端に違ったものを含むことは素朴な思考にも明らかだ。今、雷が落ち都市機能が麻痺すればそれは非常事態だ。そして、そんなことのない状態を日常と感じてしまうように、我々の保守的精神構造がうながしている。今、チョンマゲをして和服で大勢の人間が歩いていたら、これもまた確かに非常事態だ。しかし、江戸時代という長い間、それは日常でしかなかった。わたしたちは現在日常と感じている、それは慣れによる部分が大きいだろう、その感覚を思考の遡上にあげる必要があるのだ。ないというなら、虚無僧や侍と日常会話をしてみせなければ、筋を通せはしない。二つの非常事態の中に我々はいる。一つはなお明言を許さない。今ひとつは痛みと悪徳、それは想像を絶するだろう、それらの息吹に吹かれていくことが、生活していることなのだということである。
2004年02月07日
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音楽におけるある傾向性について 音楽の歴史を遡行することには、その探究、研究のために役立つ部分とそうでない部分とがある。優れた音楽史は後者を巧みに排除している。そしてまた、音楽史を語るとき肝要なのは、どんな視点がそれを見つめているかである。いかに正確かつ利便性ある音楽史を編んだとしても、それはすでに完結したプロジェクトであり、今日における意味を見出すことはできない。一つの、己が語らされる業をもった何かによって記述されなければ、音楽史論に意味はないのだ。わたしがここで試みるのは歴史の進展と歩みをともした音楽というジャンルを基本的には時系列にそって素描してみることである。そのとき、歴史ということばは特定の意味を持つ。「人類の歴史は脱呪術化、耐えざる啓蒙」「わたしたちは信じたいとは思わない。ただ知りたい」「写真は精神分析が無意識に明かりを照らすように、無意識の映像を明るみに出す」「自由連想法は両者が対等に語り合うカウンセリング形式へと変化していった」「映画の制作において、人間は機械との関係性形成の方法論を会得する」「貧困→技術、大量生産大量消費→個別、特別製、独自」何れのことばも著名な作家によるものをパラフレーズし、あえてその統一感にはこだわることなく列挙したのが上のパラグラフだ。今少しの間、にたような試みを行おう。「ユニクロは時代遅れだ。これからは自分のデザインを含めたオーダーメードへと近づいていく」「今の時代にコンセンサスはない。ヒーローもいない。」「コンピュータの優れたエディタは、優れた文書を市井の人々にその形成契機を与えている」「コンピュータは歴史的にフリー、共有のものである。UNIXの精神を受け継ぐ勢力が、共同と共有のソフトウェア伝統の維持に力を注いでいる」「ソフトウェアには単にフリーというだけでなく、完全な情報公開、オープンソースのものがある」そしてその意図は、これに続く一つの歴史認識へのおぼろげなヴィジョンを消費者各々が無意識里にいだくであろうことを予想し、記述を具体性高いものへと移行させていく、の流れにある。もっとも原初的な音楽は、儀式、とりわけ呪術、宗教的儀式においてむしろ祈りのことば、感謝の発声などのかたちであらわれた(音楽ということばは、ここでは広義に用いられている)。このとき音楽を支配できるのは村の祈祷師であり、村長、長老といった特別な存在がそのコントロールを行った。このとき、例えば雨乞いの祈りの場合を考えてみよう。祈祷師は何か道具を振り回すかもしれない。聞き取れないことばを発するかもしれない。ここで肝要なのは、それがけっしてその原理、いやそれどころかその効果さえ周りの人間にはわからないということだ。当事者に確信があったとしても、革新はないだろう。ブラックボックスの中で行われる音楽儀式は、誰にもその内実を教えてはくれない。クラシック音楽ということばがある。古典、という広い解釈をなすならば、民族音楽なるものもこれにふくまれることになる。民族音楽とは、しかし、屈辱的な名前であると考えねばならない。それはローカル音楽というネガティヴな意味合いをもつものであり、その内実においてもまた、ローカルにしか通用しない力量、少なくともそういった性質があるのだ。いわゆるクラシック音楽において作曲家を作るのは才能の他にあまりに多くのお膳立てが必要とされる。当時のまさに特権階級にあった人間たちが特権的にピアノを所有し、特別に音楽の教師をつける。そしてごく少数の音楽家が生まれる。さらに、その音楽を聴くことのできる階級、できない階級とは厳然と存在し、前者は氷山の一角である。しかし、これらは白人特権階級の快楽文脈に奉仕するものしか作ることのできないメカニズムであると言える。少なくとも、そうした性質を帯びてしまうことは回避できない。そのことに対し批評的であったシェーンベルクらは調正の解体を試みた。しかし、そういった音楽は逆にどのローカル共同体にとっても安心感を与えることができなかった。音楽芸術の域をでなかったのである。ヒンデミットやヴァイルは時代が特定少数者の独占から大衆主役へと移行していくことを看過しなかった。かれらの音楽には、より広い人々へのメディアたりえるものがあった。シャンソン、ロック、ポップ、ゴスペル。本格的な大衆音楽の到来である。ここで前パラグラフまでと決定的に異なる地平に、音楽はいたる。3歳からピアノを習って無くても、音楽をならすことができるのだ。これらの音楽を語弊があることを承知の上で広義のポップミュージックと呼ぼう。ポップは、多くの人間を作る側として受け入れる。しかしなによりその特性はポップという名自体が既に表明している汎用性、通俗性である。ビョークは「ポップミュージックにこそ一番可能性がある」と言った。それはとにもかくにも伝播していく力がそこにあるからだ。’70年代後半に現れたパンクという手法(あえてスタイルとは呼ばない)は、高度なギターテクニックも、幼少期からの音楽との親しみも必要としない。スリーコードのマジックは、言いたいことがあればそれで十分に効果を発揮するのだ。同じ時期に生まれたHIP-HOPにおいては、もはや楽器すら必要ない。HIP-HOPの特長は、ミュージシャンの真似をリスナーがするのではなく、その逆だというところだ。ミュージシャンはストリートからファッションを拝借する。このころには、ヒーロー的ミュージシャンは消えていた。カリスマ的ミュージシャンがポップの主役ではなくなっていったのだ。80年代はじめの日本でネオアコと言われる系統の音楽をならした若者たちは、ハンサムでファッショナブルだが、威厳だとか迫力はない。普通の男の子たちであった。フレディ・マーキュリーや初期デビッド・ボウイを、ロディ・フレイムやエドウィン・コリンズと比較してもらいたい。テクノロジーの発達は音楽にも当然大きな影響をあたえる。シンセサイザーやサンプリングがどれだけ多くの作曲家を養成しただろうか。90年代の主役はオーディエンスだ、といったジョン・スクワイアのことばはまさに喝破というにふさわしいものであろう。クラブ、レイヴの対等、も非常に大きな意味を持つ。そこには作曲家はいない。音楽を鳴らすものはターンテーブルの前にいるが、ライトを当てられることもあまりない。DJと呼ばれるその人々は、ステージを降りたのだ。カリスマDJなどというのはカリスマ流通業販売員と同様、退行であり反動であり、恥さらしの宣伝だ。PCのマルチタスクは文書を作成しながら音楽再生ソフトで音楽を聴くことができる。歴史を振り返ってみてほしい。原初の音楽を思い出してほしい。わたしたちは、気軽に音楽を聴いている。音楽に対して、人間は優位に立ったのだ。そして音楽は広義のTextとして明示的にできる。補足ながら90年代に大活躍したオエイシスというバンドの音楽は「みんなの歌」と呼ばれ、ローゼズがダンスのグルーヴによる一体感までたどりついたあとに、合唱という領域にまでたどり着いた。その音楽の中には、どんな民族音楽にも真似のできない汎用性がある。シェーンベルク架空インタビュー --------------------------------------------------------------------------------シェーンベルク Arnold Sch#nberg [1874-1951]オーストリアのユダヤ系作曲家。ウィーンに生まれ,作曲は後年ツェムリンスキーに短期間学んだ以外ほとんど独学で修めた。20世紀音楽の方向を決定づけた作曲家の一人で,無調音楽からさらに十二音音楽を築き,門下のウェーベルン,ベルクとともに第2次ウィーン楽派(新ウィーン楽派)とも呼ばれる。ウィーンではマーラーとも親交を結び,弦楽六重奏曲《清められた夜》(1899年,のち弦楽合奏版に編曲),交響詩《ペレアスとメリザンド》(1903年),語り手と独唱,合唱,大管弦楽のための《グレの歌》(1900年-1911年)などで後期ロマン派の表現様式を極限まで突きつめたのち,《室内交響曲第1番》(1906年)などで徐々に調性からの離脱を示した。《ゲオルゲ歌曲集,架空庭園の書》(1909年)などで無調時代に入り,《3つのピアノ曲》(1909年)などを経て,モノドラマ《期待》(1909年),声と室内楽のための《ピエロ・リュネール(月に憑つかれたピエロ)》(1912年)などの傑作が誕生。この2作はベルクのオペラとともに,音楽における表現主義の代表的作品となった。1923年発表の《5つのピアノ曲》から12音技法を採用し,同年完成された《ピアノ組曲》でその手法を確」立。1925年にベルリンに移り,《管弦楽のための変奏曲》(1928年),オペラ《モーゼとアロン》(1930年-1932年,未完)を作曲するが,ナチスの台頭により1933年に米国へ亡命,1941年米国市民権を取得。その後も,ナチズムの犠牲者に棒げられた《ワルシャワの生残り》(1947年),バイオリンとピアノのための《ファンタジー》(1949年)などの密度の高い作品を残した。 --------------------------------------------------------------------------------お会いできて光栄です。「よろしく」先ずお聞きしたいのは、貴方のラディカルな作曲法についてです。黒鍵と白鍵の差別を排除し、全ての音を12に分け、一つの音を使ったら、他の11の音を使うまでその音は使わない。この手法は一体どうして生まれたのでしょう?「それは当然ロシア革命の影響、社会主義の音楽への適用だね。音楽の世界で平等ということを実現したかった」あなたは現代の音楽をどうお考えですか?「わたしはもう音楽には興味ないよ」それはどうしてですか?「わたしはね、自分が音楽を終わらせたと思ってる」音楽を終わらせた?それはどういう意味ですか?「20世紀に入るに及び、世界に生じた変化は分かるね?」ええっと、情報網、交通網の発達によるグローバル化、そして大衆化ですか?「そう、その通り。グローバル空間において音楽は鳴り得ない」そこのところをもう少し詳しく教えてほしいのですが…「音楽というものはローカル共同体の中で自分がその約束事に従っているという安心感を与えてくれるものだ。従ってローカル共同体の中で生きることができなくなった時代に、音楽は共通言語とはなり得ない」大衆化、階級の問題はどうでしょう?「もちろんそれもある。旧来の音楽、いわゆるクラシック音楽は白人特権階級の快楽文脈に奉仕するものだった。大衆の台頭移行、音楽は変質を迫られて当然だ」それでは、ジャズやシャンソン、ロックのような大衆音楽はいかがですか?「そういった音楽はある意味で巧みに作られている。たとえばビートルズは世界的に流行した。しかし、このことは彼らの音楽が本当に共通言語に、音楽のエスペラントになったということを意味してはいない。」もう少し詳しく訊きたいですね。「たとえば黒人音楽を考えてみよう。そこで使われる手法にわざと音を半音高くするブルーノートというものがある。この“ずらし”によって本来ローカルにしか響かない音をごまかし的に広く届けているというわけだ」ビートルズの場合はどうなんですか?「ロックの場合ブルーノートではなくノイズがずらしとごまかしの手法として使われている。グローバルに通用する音楽の文脈というものは存在しないが、ノイズによってぶれる音は曖昧にならやや広い範囲に届くことになる」それでは最後に一つ伺います。音楽を離れた貴方が今興味を持っていることはなんでしょう?「プログラミングだね」
2004年02月02日
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中村一義素直に日本の音楽を聴くことができるようになるまで、多くの日本人にはいくらかの時間が必要となる。the brilliant greenあたりから良質な日本のバンドはいくつも出てきていたのにだ。28歳になったわたしは、今というときになってやっとこの壁を乗り越えた。日本の音楽を、素直に聴ける。批評できるし、評価できる。バンドではクラムボンというバンドに強い思い入れがあり、日頃からよく聴いている自分がいる。バンドではないが、調度わたしと同い年のある青年の歌に、わたしはこのところ不思議なほどの魅力を感じ、毎日のようにその音楽を聴いている。それはほぼ間違いなく、世代の魂を共有するもののsympathyだ。そして、その世代にありがちなある種の精神性の共有が、わたしと彼との間にあることが、この関係に多分な影響を与えている。彼は対人恐怖症を持っていた。当初クラブに現れた彼は、姿を見せず、ステージの陰から歌っていた。引きこもり、鬱。親の世代への不信感。それらをわたしもまた共有しているのだ。彼の音楽は暖かい。Nirvanaの洗礼を受け、Lennonに触発された点において、彼は75年生まれの典型的な青年と言える。前パラグラフのNirvanaとLennonとの順序は決して違ってはいない。そうでなければ、彼の音が鳴ることはない。希望、月並みだが彼の音楽全てに共通するのはそこにたどり着かんとするenergyだ。音楽性の話を抜きにしては、かの天才作曲家に対して失礼というものだろう。彼の音楽は前衛と王道と往復する。それはきっと意図してのものではない。むしろ宿命として、彼はそんな音を鳴らす業を背負っている。彼は既に結婚もしている。the brillianat greenの川瀬智子も同じ年齢だが、彼女もまた結婚している。わたしもそろそろ、そんな年頃なのかもしれない。彼が、彼女が、結婚後のこれから、どんな音を聴かせてくれるのか、きっと長い付き合いになることだけは確信できている。
2004年02月01日
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ヒステリックな小泉首相を支持する小泉首相に対して、石原に似てきた、軍人的になってきた、ヒステリックな感じを受ける、などの声が聞こえる。それらの意見について間違っているとはわたしも思わない。しかし、わたしはそれを支持する。9.11以後、テロリズムと言う名の戦争はもはや他人事ではないのだ。軍人的性格をもった政治家はむしろ必要である。--------------------------------------------紙紙というなんとも謙虚な名前のEditorがある。勿論フリーだ。しかしこれは非常に便利。タブEditorではないのだけど、作った文書は全て見出しに表示されるし、いきなり日本語入力もできる(わたしの場合ATOK)。また一行目がTITLEになって自動保存してくれるのも楽でいい。インタフェイスも洗練されており、これがフリーがというのが信じられないくらいだ。また、箱という機能があり、これで文書を用途別などに仕分けしておける。行番号の表示はないが、桁番号は表示されている。是非ともお奨めしたいEditorだ。http://www.ki.rim.or.jp/~kami/
2004年01月31日
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日本人の政治的民度の低さ構造改革には時間がかかる。それが3年や4年ですむことでないことがなぜわからないのか。小泉はダメだとバカなことを言い、田中の娘を根拠もなく擁護する。小泉がこの歴史上もっとも困難な時代にどれほどの功績を残してきたのか、思い返してもらいたい。辻本や管と比べてもなんら政治的主張のない、単なるおばはんが持て囃されてしまうのが今の日本の絶望的民度の低さを表明している。「田中が膿みを出した」?いったい政界財界の誰を糾弾したというのか。あれほど恩のある小泉を、自分の失態で外務大臣辞職後に「抵抗勢力」などと言っているのだから、バカは東大目指す小学生以下。鈴木宗男の方がずっと誠実だ。
2004年01月30日
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これは日本の薬局でも入手可能です。デクサトリムという強力なダイエット薬を使っていたのですが、死者が出て発売禁止になってしまい、マイクロに乗り換えました。これは一月に3万円くらいしますし、3キロくらいしかおちません。しかし、食事制限をしないでもよく、おまけに服用がおいしい。パウダーを水で溶かして飲むのですが、おやつのジュースとして十分なほどおいしいのです。是非お奨めします。
2004年01月29日
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沢山のものを書く人の場合、インターフェイスに倦怠しないよう、洗練されたそれをもつ複数のエディタを利用することが望ましい。わたしが利用しているのは以下の三種だ。何れもタブエディタであり、行番号表示の機能がデフォルトでついている。Vectorや窓の社で入手可能だ。MKエディタ http://www.mk-square.com/ JaJedit http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Bay/5525/ EdLeaf http://www.edcom.jp/ しかし文書作成に肝要なのはむしろ変換ソフトで、スタンダードのIME以外にWindowsに対応したものとして秀逸なATOKを試用してみることをすすめる。テクストエディタはみな入力のスピードが速く、思考を停滞させない。更に変換ソフトなどは思考を加速させると言えるだろう。しかしだ、重要な論文などの場合には必ずワープロソフトによる清書を必要とすることは看過してはならないことだ。それは単にフォントなどの変更にとどまらず、ワープロの持つ様々な機能が文書の完成度を高めるサポートをしてくれるからだ。Wordでも一太郎でも、表現に対する注意などの機能を通じて、推敲を補助する。このサイトを訪れてみてほしい。また、協力を仰ぎたい。http://groups.msn.com/FreewareReview
2004年01月28日
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文書作成に必要なアプリケーションわたしは文書を作るのにいきなりワープロを使うのは得策でないと思う。何しろ入力が遅い。余計な機能も多い。やはりテキストエディタで草稿をつくり、ワープロは清書につかうべきだろう。ワープロでは一太郎とWordが二大ソフトになっているが、わたしは個人的な好みで一太郎を使っている。いずれにせよ、ワープロよりもずっと軽量でそのほとんどがフリーウェアであるテキストエディタは非常に重宝している。多く文書を書く人はそのインターフェイスに倦怠しないよう、複数のエディタを使うことをお奨めする。特に(これはブラウザにも言えることだが)タブ表示のものはありがたい。具体的にはJaJedit、MKエディタ、EDLeafなどだ。また紙というソフトは文頭を文書名にし、自動保存するという優れもので、常駐させているわたしのようなユーザも少なくない。テキストエディタは何れも入力が早く、ものによってはワープロに劣らない機能を持っている。入力の早さは何もタッチタイピングのスピードが優れた人にだけ有効なのではない。早い文書化は、人間の思考を加速させてくれるからだ。しかし、実は文書作成にとって何より肝心なのは変換ソフトなのだ。変換ソフトとはMicrosoftのIMEとJustsystemのATOKのこと(Windows対応ではこの二つしか知らない)。一長一短あるものの、わたしは後者を使っている。なにしろdokomoと入力してDoCoMoと表示されるのだからすごい。ただ前者が無変換キーで即カタカナ表示がされるのに対し、後者は辞書にないカタカナを変換してくれない場合が多い。サップといまでこそ入力できるが、前ヴァージョンではまだボブ・サップがメジャーでなかったため、勝手にサップレゼンテーションなどという変換候補が出てしまった。変換ソフトもまた、思考を加速させるメディアだ。少なくとも日本語の文書を作成する限り、ATOKが理想的だと思う。
2004年01月27日
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ブラウザにはSleipnirを使っている。やはりポイントになるのはカスタマイズ性の高さだろう。といっても、わたしが重宝しているのはむしろEnd User的なこのソフトの持つ扱いやすさである。Lunascapeと同様のタブ表示は非常にありがたい。また検索エンジンがバーにあり、これもありがたい。Lenascapeの方がタブブラウザとしては優れているが、Sleipnirは必要十分ということくらいを言える。ブラウザにもとめることを他にあげるとしたら、それは何よりもMSNExplorerだけが現在実現している、IDとパスワードによりどこからでも同じ環境でブラウジングができるということだ。また、OperaやNetscapeのようにメールが付随することは好ましい。
2004年01月26日
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ちょっとリッチなメモ帳という謙虚な名前をしたフリーウェアがある。しかしながら、そのないようはワードパッドなどとは比べものにならないほど優れている。フォントは豊富で表示サイズのカスタマイズ、更にはTextの色まで指定できる。太字、斜め、下線、左、中央、右も思うがままだ。しかしこのソフトが決定的に優れている点はタブエディタであるということだろう。ブラウザにしろ、エディタにしろ同じである。タブ表示ができることは便利だ。換言するなら、タブ表示ができないことは非常に不便だ。
2004年01月25日
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デジタルな世界現実世界はデジタルであるという根拠こう考えてみてはどうだろうか?現実世界それ自体というものを想定することはできない。知覚によってのみ、われわれが現実世界と呼んでいるものは存在を許される。そして、その知覚を規定するのは言語である。言語は明らかにデジタル媒体だ。だとすれば、現実世界なるものはデジタルでしかあり得ない。現実はアナログでなくデジタルだ。--------------------------------------------世界には、実際のところ驚愕するほどに共通性をもつ多ジャンルの方向性がある。医学の、学習の、生活の、芸術の、つまりはもはや全てのジャンルにおいてということができるわけであるが、それら諸事象には同じ発展傾向が、進展方向性が見出される。それはインタラクティヴな性質を高めていくという結論へ至る。インタラクティヴであるための大前提は人間の全体的な啓蒙と服従欲、被支配欲からの脱却であるといえる。もっともインタラクティヴでない状態とは、芸術に例えるのならば凝視することもはばかられる神聖にして偉大、荘厳さはひれ伏すことに根拠を必要としない、そういう関係性にある。そして順序を追えば、前パラグラフのような仏像への礼拝から、美術館に陳列された芸術に対して積極的に見ることで分析、評価、認識、感化といった人間サイドからの動向が生じる段を通過していく。芸術は人間を根拠なく単に弱者とし萎縮させることから、人間に人間の側からの動きを促進させることにその主要な機能を移行させていく。とりわけ近現代の芸術はDuchampの泉に代表されるような思考能力の発動、向上の刺激剤として働き、ここでは多様な解釈の成立という事実が人間サイドの一層高度な積極性を生じさせる。「人類の歴史は耐えざる啓蒙、脱呪術化」(ヴェーバー)テクノロジーの発達と学習環境の良質化とは人々にこの美術ジャンルにおいても啓蒙をもたらす。絵を描くことのできる人(手段はあまりにも豊富だ)が時代とともにどれほど増えてゆくのか。3歳からピアノを習っていなくてもいい。スリーコードのギターポップ、パンクという様式はテクニックのない人々にメッセージを伝える方法論として音楽の使用を許した。楽器を持たなくてもhip-hopは表現として機能する。「人はもはや信じない。ただ知りたい」(シュタイナー)信じることは場合によっては犯罪的な結果をもたらすし、 少なくとも知的堕落を招くことならば多々起こす行為と言える。信仰ということばからもこれが宗教的精神営為であることは間違いないが、根拠を求めることこそが知性であり、無根拠とは利己主義の安寧であり共犯である。科学の発達、いやむしろ卑近な例として識字率の向上のようなことがどれほど多くの衆愚状況を好転させてきたかは計り知れない。コンピュータがもたらす利便性は人の強さへと直結し、またその操作がもたらす啓蒙的性格をとりわけテクスト制作とプログラミングに見いだせる。人はただ読むだけでなく書くようになった。人はただ配達される新聞の読者であるのにとどまらず、情報を発信することを始めた。インターネットによるコミュニケーションの土着性からの脱却、多彩かつ高度な人間の本質たる言語使用による関係性の促進、こうした傾向にインタラクティヴとの形容を与えるのは不自然ではないだろう。人は芸術作品を作り出した。そして人は、芸術作品に入りこみはじめた。人のふれ方が動作原理になる芸術が作られるようになった。精神分析は自由連想法からカウンセリング形式へと変わった。娯楽、ゲームもまた、ある種の社会的関係性を洗練させる媒体としての側面を持ち始めた。世界は、インタラクティヴになってゆく。
2004年01月24日
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漫画家の話として聞いたことがある。主人公が男性であれ女性であれ、苦労して苦労して異性にもてようとする作品の場合、作者自身は大抵もてるらしい。逆もまた真なりで、主人公に異性が容易なかたちで集まってくるような漫画の作者は、もてない人が多いというのだ。『ゴルゴ13』あたりはそうとうもてない作者が書いているということか。閑話休題。漫画で泣いたと言えば、西原理恵子の『ぼくんち』である。特に3巻は泣きながらずっと読んでいた。あの漫画の主張は、悲しいときには笑うんだ、ということに集約される。それだけでもう、切ない気持ちになるじゃないか。ところで、西原理恵子って結構美人。タイプだな。ぼくは28歳の男だけど、読み込んだ少女漫画が二つある。『有閑倶楽部』と『バナナフィッシュ』だ。あっ、あと『ちびまる子ちゃん』もか。そういう人は結構多いと思う。> >
2004年01月23日
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単純な区分だが、興奮、覚醒系の脳内物質はアドレナリン(英語ではepinephrinだが、ここではアドレナリンに統一)、ノルアドレナリン、ドーパミン、があげられる。アミネプチンという現在入手できないクスリはアドレナリンを刺激するという。これによりおこる反応は覚醒、興奮、疲労回復、攻撃性向上、痛みへの強い対応、不眠などだ。ノルアドレナリンは精神科、神経科などで処方される抗うつ薬により刺激される。これもまた元気系の反応が出るが、逆の鎮静系であるセロトニンと同様に、食欲を抑える。逆に上記のドーパミンは食欲を向上させるという。ノルアドレナリンを刺激するクスリは代表的なものにルジオミールがある。また、SNRI(選択的セロトニン、ノルアドレナリン再取り込み阻害剤)という新種のクスリであるトレドミンにより、セロトニンと同時に刺激を受ける。これはドーパミンが精神的覚醒を強める(覚醒剤にもこの効果がある)のに対し、むしろ肉体的覚醒、体力向上に役立つ。個人輸入可能なナルコレプシー薬がこれを最も刺激するかもしれない。ドーパミンについては精神科で簡単に処方されるドグマチールという健康薬、また抗うつ薬のアモキサンが刺激を与えると言われ、話題のリタリンもノルアドレナリンと同時に刺激を与える。逆に鎮静系といえばセロトニンは落ち着きをあたえ、SSRIであるデプロメール、プロザック、また類似のレスリンというクスリにより刺激され、落ち着いた幸福感、鎮静感が生じる。プロザックは個人輸入で、他の上記二種類は精神科でよく出る。ギャバもまた鎮静系で、眠気と安心感を起こす。睡眠薬はこれを刺激するケースが多いのだ。もてる作家、もてない作家 (AM 01:10)漫画家の話として聞いたことがある。主人公が男性であれ女性であれ、苦労して苦労して異性にもてようとする作品の場合、作者自身は大抵もてるらしい。逆もまた真なりで、主人公に異性が容易なかたちで集まってくるような漫画の作者は、もてない人が多いというのだ。『ゴルゴ13』あたりはそうとうもてない作者が書いているということか。閑話休題。漫画で泣いたと言えば、西原理恵子の『ぼくんち』である。特に3巻は泣きながらずっと読んでいた。あの漫画の主張は、悲しいときには笑うんだ、ということに集約される。それだけでもう、切ない気持ちになるじゃないか。ところで、西原理恵子って結構美人。タイプだな。ぼくは28歳の男だけど、読み込んだ少女漫画が二つある。『有閑倶楽部』と『バナナフィッシュ』だ。あっ、あと『ちびまる子ちゃん』もか。そういう人は結構多いと思う。
2004年01月22日
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歴代ぼくの彼女はすべからく男前女でした(^^ゞ。「好きなmusician?カーティスとコモドアーズ」「たばこ?マイルドセブン」「趣味?生きること自体じゃないの?」「酒?カクテル嫌い。日本酒か水割り」例えばこんな具合でしたね。男は一度好きになった人のことを、一生好きでいるものです(未練とかそういうんじゃなくてね)。女性は全然そうじゃないと知人が言ってました。
2004年01月21日
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既に掲示板にも書いたのですが。--------------------------------------------この話を発信しようかどうか、ぼくはずっと悩んできた。それは大いに不本意な誤解を招くおそれが多分にあるからだ。しかし、シュタイナーに関するCommunityを作ったこの機会に(http://groups.msn.com/SteinerLab/ )思い切って複数のサイトにこの書き込みをすることを決心した。ケロイドさん、8番目のサルさん、オリビンさん、カナリアさん、LeoneedさんらNET仲間は、わたしが決して宗教くさい人間ではないことを分かってくれていると思う。シュタイナーはキリスト教と関係があるが、その思想は当宗教と明らかに矛盾している(とわたしは解釈している)。回りくどくてもうしわけないが、更にまた、わたしは大学時代に異端審問や魔女狩り、黒猫殺しなどキリスト教の犯罪を散々に断罪する試論をいくつも書いてきた。そして、仏教の方がよほど思想として優れていると今でも確信している。ところがだ、わたしはキリスト教に密接に関係した、ある治療法によって救済された過去を持っている。具体的には、奇形なみの猫背、首の軋轢と痛み、不気味なほどの内股、これらを背負って20年以上生きてきたわけだが、これが、「十字式」という治療法によってほぼ完治したのである。針、指圧、オイル、ヨガ、アーユルヴェーダ、整体、接骨院、整形外科、枕、ベッド、電気、リフレ、アロマ、クスリ、何れも長く根気強く続けた。しかし治らなかった上記の症状が、わずか数回の「十字式」によってほとんど消えてしまったのだ。ハッキリ言って、この治療は見た目にもすごく怪しい。強く体にふれるわけでもなく、道具を使うわけでもなく、キリスト教徒とおぼしき治療者はまるで悪霊退散の儀式のような「はっ、いやっ!いだっ!とうっ!」などと声をはっしながら軽く体に(背中)ふれるだけなのだ。しかも、その時間は2~3分程度である。肩こり、神経痛などに悩んでいる人には是非おすすめしたい。ホームページを参照下さい。http://www.jujishiki.co.jp/ 治療施設は全国に数カ所あります。決してこの書き込みは広告などではありません。
2004年01月20日
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誰とは言わないけど(楽天の人じゃないよ)「心病む人のページ」みたいのつくってるアホダレがいる。言ってしまえ、勝山とかいう絶望的に不細工なやつです。わたしも既に書いた通り、精神科通ってます。だけどそれがHPのテーマになったりしちゃあ情けないでしょう?「わたし病気です」なんてな書き込みばかりの掲示板があったりして。とりわけ鬱病なんてベタ、スタンダード。こんな時代にハッピーなやつなんていません。その辺腹をくくって生きてくのがまっとうな大人というものです。わたしの複数のHPにも精神科通ってる人はいっぱいいます。けどみんな、哲学したり、音楽やったり、絵を描いたり、ぼくみたいに翻訳やったりしてるわけです。「職業は病人です」てな人は甘ったれ。
2004年01月19日
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MicrosoftとUNIXのアプリケーションについてデファクトスタンダードとなっているWindowsにもわたしは高い評価をしています。日記にも書きましたが(エディタ日記)freeで多くの名作が入手できる。Windowsのエディタと言えばやはり秀丸でしょう。これには秀逸なメーラである鶴亀も付属するため、やはり評価しないわけにはいかない。しかし、いわゆるGUIはユーザの愚民化につながるのではないでしょうか?ディレクトリという概念を知らずに何年もWindowsユーザを続けている人はままいます。中にはOSという概念すら知らない人がいる。UNIX、正しい後継者はFreeBSDでありLinuxではないのですが、ここではあえて区別はしません。アプリケーション(マイナーなものもメジャーなものもふくめ)を比較したとき、先ずWin側のWordとUNIX側の一太郎とで後者の方がはるかに優れていることは使用してみればわかることです。とりわけ一太郎ArkはWebページを作成するのに非常に重宝します。エディタに関して言えば(日記、エディタ日記参照下さい)Winでは秀丸、一方UNIXでは一太郎などJustsystem系エディタをはじめ多くのフリーソフトが流通しています。この点において両者は互角と言っていいでしょう。決定的に違うのは入力変換ソフトです。Winの場合デファクトとしてIMEとなっていますが、UNIXの場合には(数種類ありますが)ATOKが基本です。つまらない例えを言えば、dokomoと入力してDoCoMoと変換されるのがATOKです。IMEとは新語などに対しても対応力がまるで違います。続いてブラウザの比較をしてみましょう。UNIXのスタンダードであるNetscapeはplug-inブラウザであり、Messenger、composer、Mailが付属しています。この理念はMicrosoftをはるかに凌駕するものです。しかし、MSにはMSNExplorerという突出してすぐれたブラウザがあります(XP以後)。これは全国どこにいても(エッジとかそういう問題でなく、NETカフェなどでも)ブックマークなどを共通させることができ、Messenger、Mailも付属しています。これにかんしてはMSの完勝と言えるでしょう。一方UNIX陣営では高速を売り物にするOperaブラウザがあります。今後の発展に期待したいところです。
2004年01月18日
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もう5年ほど精神科に通院してる。リタリン処方なんかもそのおかげで実現してるわけ。その間、相性の合う医者を求めて何件かの病院に訪れた。しっかし驚くのは、その診断結果の違い。関内のある医者。「あなた人格障害です」…おいおい。鎌倉のある医者。「ゲーテは君みたいな人がいるのを天国で喜んでるよ」…褒めすぎ。ちなみにこの医者との面接はドイツ語で行っていた。今は上大岡にあるヒルサイドクリニックというところに通ってます。主治医の荻久保先生、すごくいい医師です。追記。わたしの精神科、神経科診断結果関内某クリニック:人格障害鎌倉某診療所:繊細な人横浜某クリニック:心身症現在通っているクリニック:鬱病三浦某病院:不眠症鎌倉駅近く某診療所:統合失調症なんだこれは?
2004年01月17日
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エディタ論ぼくは複数のエディタをインストールしている。エディタは軽量なのでこのことに全く問題はない。ワープロソフト(一太郎をぼくは使っている。他にWordなど)の容量を考えれば、エディタくらいは10種類程度インストールしておいても構わないはず。ではなぜ複数のエディタを使う必要があるのか?文書を沢山書く場合、そのインタフェイスに対して倦怠感を感じてしまってはいけないからだ。ワープロはあくまで清書用であり、文書作成は高速なエディタで行うのは、多くのPCユーザが行っていることだろう。どういったエディタが好ましいか?と考えると、NoEditor、TeraPad、TepaEditorといったインタフェイスのデザイン性に優れたものが先ずあげられる。文字数や行番号が表示されるものもある。しかしそれ以上に便利なのがタブ表示が可能なエディタである。具体的には先ず第一にMKEditor、最近のものではManaやTexterがあげられる。これらは複数の文書を書く際に非常に重宝する。文書をいくつも作り、バックアップしたのはいいが、それがどこに格納されているのか忘れてしまう場合がある。これは非常にこまったことだ。ぼくの場合、texterやManaで掲示板書き込み文、HP掲載用文書、日記、Mail文書を書き、常駐させているMKEditorにコピー、ペーストして保存することで、自分の書いた文書を管理している。
2004年01月15日
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吉田がデビュー戦でホイスに圧勝したとき、同じ日にノゲイラと激闘を演じ日本中の人気者になったボブ・サップよりも強いと思った。ホイスとの再戦は精彩を欠いたが、今、吉田に関して不安はない。ヴァンダレイ・シウバとのあの激闘があったからだ。判定負けとなったが、判定は本当に微妙で、吉田勝利としてもよかったくらいだと思う。マストジャッジ制でどちらかの勝利を決する場合、ラウンドが2,3では少なすぎるのではないか。再戦をみてみたい。年間ベストバウト!
2004年01月10日
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美術館の機能-ベンヤミンベンヤミン芸術論における美術館の機能、そして芸術の転がる先 ベンヤミンが遺した『複製技術時代の芸術作品』、『写真小史』といった著作は有名な芸術論である。しかし、それは芸術を主役としない芸術批評と言える。 そこで肝心なのは人間の知覚、歴史的スパンでの時間の中での世界認識の変容、そしてその変容がどのような方向性と可能性とを持っているのか、そこにこれらの作品の主題がある。 時代の流れの中、美術館というメディアが現れる。それは多量の作品を収集陳列すること、またそれを不特定多数の人間に入り口広く公開するという働きにより人と芸術に新しく、またこれまでとはいささか異質なコミュニケーションが成立し、意図せざる新しい時代の文化を排出した。 美術館で芸術(実はベンヤミンの芸術批評における芸術とは便宜的に用いられているものでしかない。芸術の概念は、そのため、広義に捉えてほしい)に接するとき、人は、かつてのように「まだ見ぬ伝説の美」をもとめて行脚を続けてきたりはしていない。逆に芸術が、それも色んなところから長旅を経てやってくるのだ。 だれもここでは芸術を拝まない。芸術は陳列という提示形式により、およそ拝むようなものとしては知覚され得ないだろう。かつての宗教的、呪術的儀式の道具が人を拝ませ、畏怖させたのとは対照的な芸術との関係性が成立する。 ここで人は芸術に対して批評的であることも冷笑的であることもできる。芸術をテクストに思考する。これは美術館の生み出した芸術の持つ啓蒙的性格の発現と言えるだろう。こうして時代は芸術が思考を必要とする啓蒙のモメンタムを迎える。 かつての芸術は、宗教儀式の道具であれどこかの神殿の装飾品であれ、人間に恐怖感にも近い抑圧を与えていた。それは絶対無比であり批評の俎上に上げることなど言語道断の、無批判を大前提とする神秘的、絶対的存在として、人に対しては支配的に君臨するものであった。 そもそも、何者かに見られることで存在意義を持つようなものですらなかったのである。芸術は、美術館の登場でそのあり方を一変する。 美術館で人は見せるために展示された芸術を見、個人の思考によってその芸術を知る。以前ならばまともに見ることすらおそろしかった芸術、それは一方的に、しかも存在するという事実一つで人間に恐怖を与え、人間を知という既存権力への冒涜から遠ざける政治的機能を持っていた。 人を保守的、無思考=奴隷的存在の要件である素朴な服従に必要な愚かさという能力を一方通行の不可視なメディアを通じて注入し続けていたわけだ。 心理ビジネスと霊感商法はいつの時代にも存在する。彼らはルターとグーテンベルクを悪魔としないといけない。それはともかく、大衆は啓蒙されてしまった。この知への情熱を否定することは、衆愚主義への準備作業となるのである。 知的であり批評的であることは、その善悪も損得も無関係に、未知のものを理解の射程に捉える。知的態度とは知の認識による全てを利害とは無関係に肯定するものである。 もし芸術の頭脳的な鑑賞を「神秘、人間に不可触の神聖、批判など不可能な偉大」といった敬虔で綺麗なことばで否定するなら、それは「知ることによって無効となる力」の側からの言説である。そして、そうでしかない。 知ること、そしてその絶え間ない知的努力による何よりも、何も知らず根拠など求めず信仰し、己の心を無知蒙昧と信仰によって完成する楽園に温存しようとするのがこうした物言いをさせる欲望の形式だ。知って、知性が認知して、そのために否定せざるを得ないことなどはじめから無価値であるという正論は、「明晰であることの過酷さ」「自由でいることの孤独と不安」に耐えられない人々には無意味だ。美術館に啓蒙的機能があることは確認した。未知の領域を、人々は思考を媒介して再認識した。ここに、既にインタラクティヴな方向性が垣間見える。人は芸術へのアクセス権を獲得し、その影響によって思考し行動することが可能になった、という意味で。また、人が脅えるどころか楽しんで、はっきりと言えば芸術に対して優位な立場から対象との関係を成立させていることも重要である。人は知性と技術によって強くなったのだ。視覚対象の典型として芸術を考えてみても、人は古い時代の美徳であった素直だとか服従だとか、常識を備えていればファシズム待望の準備でしかないと分かる概念を、もはや持たない。近年の芸術作品には触れたり中に入ったり加工したりといったものが多く出てきている。これが主流になるのに10年とはかからないだろう。視覚と思考が接触した芸術は、インタラクティヴの度合いを増して今日に至っているのである。体験する芸術。自ら有り様に関与する芸術。このインタラクティヴな芸術は一層その性質を増し、またスタイルにも大きな変化を遂げながら歴史の傾向性を示していくと確信できる。さて、人がコントロールできる芸術、というものをどう考えるか?これを肯定できるか否かは一つの試金石である。操作可能な芸術にはありがたみや高尚さがない、それは事実かもしれない。そして、芸術に市井の人々が加工をしていくなど冒涜的だと、やはり言う人は言う。しかし、芸術のコントロールという行為には人が芸術とのスタンスをとるための練習でもあり、当然、芸術でない外界諸事象との関係性を取り結ぶ練習でもある。可能性としては複数の才能が化学反応を起こすような芸術の到来もあり得る。そしてここまで歩みを進めたなら、もはや冒涜的であるということはほとんど、人間性の保証である。冒涜を野蛮とする敬虔な人間のありかたはこうだ。因習、悪弊は伝統とする。既存権力の害悪には社会のためにと正義感たっぷりに共犯関係を結ぶ。美術館へと芸術作品が移っていった時期、少なからぬ人々がそれを芸術の終焉と感じた。その気持ちを察することはできる。芸術が我々に感じさせてくれた荘厳さ、畏敬、神秘、そういった要素がなくなってしまうことは、これらの概念を政治的に危険な部分と関連づけずに考えるなら、確かに、ここに芸術が喪失した巨大な要素があるとわかる。ベンヤミンは偉大とか天才とか無二といった念、威圧的な作用を持つそれらの概念をアウラとし、芸術作品の歴史をアウラの消失過程として捉えた。ベンヤミンは、彼自身がノスタルジックな芸術を愛したにもかかわらず、この芸術の変動にポジティヴな可能性を見いだした。既に述べた美術館のもたらす機能もその一つである。例えば美術館の芸術作品は、それを単に視覚器官によって知覚するのではなく、単純一方通行な受容関係の形成を起こすのではなく、(知覚と認識や感情は現実的に不可分であるが)思考し、心理的営為を経て、物質たる芸術にその結果としての知覚像を見いだす仕方で現れる。知覚のあり方は当然個々人により異なるが、時代の知覚というものも存在し、歴史の中どの時代にも特色や傾向を持った時代の知覚が存在した。主に視覚という知覚器官を通じて出会う芸術などもそれ自体の有り様は原理的に問題となりえず、この物質が人の受容体験の中でどう認識されこれは一体?」と思考せざるを得ない。「泉」は思考を喚起する装置なのだ。「つまり、ある文学が時代の生産関係にたいしてどういう立場にたっているのかと問うまえに、生産関係のなかでどうなっているのか、と問いかけてみたい。この問いは、ある時代の作家が作品を生産するその生産関係の内部で作品がになう機能に、直接向けられている。」(「生産者としての作家」『ベンヤミン著作集9 ベンヤミン 晶文社)作品は固定的存在ではなく、生産プロセスの中においても(これは結局社会の中において、ということに等しく、「受容形式の中において」とも換言できる)、関係性の中に存在すると言うのである。生きた動的な社会の中で、関係性において作品はその有り様を変化させる。芸術は確かに、よりインタラクティヴに、よりコミュニケーション的に存在形式を変化させていく。政治性の側面からの、この理論の補足など、ラディカルな現実の前で野暮なことかも知れない。
2004年01月02日
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いい加減にしてもらいたい精神科医の質問。「人があなたの悪口を言っていると思いますか?」そりゃ、言われてることもあるでしょう。「あなたは今身の危険を感じていますか?」東京やフランクフルトにいれば誰でも感じてますよ。「あなたを脅かしているものが何かありますか?」年齢と贅肉。「誰かに追跡されてると思うことはありますか?」そんなこと考えるほどナルシストじゃないですね。「頭が突然とれてしまいそうな気になりますか?」どちらかといえば髪の毛が抜けてしまう心配がありますね。「宇宙から電波が来ていますか?」来てても日常でもう手一杯なんで、気にしてられません。「歌や小説が自分のためのものだと思いますか?」自分のためのものでもあるとは思いますね。 …、ほとんどことばのリンチである。こんなこと毎度聞かされてたら誰でもおかしくなるでしょう。
2003年12月31日
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精神分析ということばには大きく分けて二つの意味があります。先ずはフロイトの精神領域に関する理論、学問。そしていまひとつは、自由連想法などの治療法、です。この後者の側についてですが、その歴史を考えてみましょう。自由連想法を導入する以前、フロイトは催眠療法による患者からの言葉の引き出しを行っていました。ところが、言葉の引き出し作業が覚醒状態でも可能であり(催眠の睡眠に近い状態でなく、知的、明晰な目覚めの状態でも十分に可能)、患者から覚醒時にことばの自由な連想を行わせ、治療者はその分析、アシストをおこなうというものへと、フロイトの治療法は変わっていきます。これが自由連想法です。この催眠から言語連想へのシフトというあたりがフロイトの近代的性格を象徴していますね。わたしのフロイトに関する試論が下にありますのでごらんください。現代の精神分析治療は、自由連想法だけではありません。フロイトの理論としての精神分析をベースにして様々な治療法が開発されているためです。そして、メインと言いますか、主流として行われている精神分析治療は、いわゆるカウンセリングに近い、治療者と患者のことばのやりとりというインタラクティヴな性格を持ったものとなっています。時代自体、インタラクティヴへと向かっています。
2003年12月29日
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ポップミュージックの挑戦とりわけカナリアさんに読んでもらいたいメッセージです。 シェーンベルク架空インタビュー(links-j) でわたしがはみにみながら書いた その内容はご覧のとおりです。 ところで、みなさんの尊敬する人と言ったら誰になりますか? わたしならジョン・ライドンになります。かれがPiL時代に出した Flowers Of Romance という超問題作に、80年代のバンドは 答えを出せなかった。この作品の主張は、リズムの否定だった、 快楽主義的で単純、原始的なリズムはカタルシスを安易に与える。 ここで発生するのは現状の温存、事勿れ主義、本質的解決を 忘却し或いは看過して安楽に甘んじる、そういったことだ。 80年代のバンドといえばthe Smithsとaztec camera(イギリスでは) が重要な二大グループだが、何れも問題意識を抱えつつ、 メロディとアンチヒーローへむかう姿勢とに終始した。 80年代のバンドとは一般に言われていないが、89年に登場 したthe stone rossesはグルーヴ、主役なき、いや、誰もが主役 という意識で鳴らすリズムでライドンの問題を解決してみせた。 すくなくともわたしにはそう思われる。 どうようの問題をメロディにおいて解決して見せたのは アメリカのpavement、イギリスではblurだろう。少なくともこの ふたつのバンドは新しい快楽文脈の名にみあうだけの 曲をいくつか残している。神秘主義者のリアリズム (PM 04:21)$B$5$s!’(B l$NJT=82hLL$NA`:n%a%K%e! $B!W$rF~$l$F$/$@$5$$(B> $B?@Hk$rJ9$$$F!"IaDL?M$O$I$s(B$B$J%$%a!o$KM-L>$G!"$=$N0u>]$N6/$$?M$bB?$$$+$bCN$l$J$$!#(B$B$7$+$7!"$*$=$i$/:G$bM-L>$J?@Hkl9g$O!"LU?M$N$h$&$K!"???????@8$N=t7k2L$NCf$ro$N2J3X$NN)>l$+$iK=q$rI>2A$9$k>l9g!"$=$NI>(B$B2A$??????@$O!"K=q$=$N$b$N$+$??????@$i$l$F$$$k$N$G$J$1$l(B$B$P$J$i$J$$!#HcI>2H$,$3$N$h$&$??????@$KN)$D$H$-$K$O!"(B$BL^??????@K=q$??????@=R$,??$??????@-$HL7=b$9$k$b$N$G$O$J$$$3(B$B$H$rM}2r$9$k$@$m$&!#Cx-Mh$r>|K>$5$l$?E/3X??????@$r$7$F8+$;$h$HMW5a$7$F$/$k$@$m(B$B$&!#$@$,!"$3$&MW5a$9$k$3$H$G!"$R$H$D$N:x3P$K4Y$C$F(B$B$$$k$3$H$K!"?M$O5$$E$3$&$H$7$F$$$J$$!#$J$??????@$G$O$J$/!" l(B>$B7I6q!#4X:,=g0l!!(BLazyLinePainterJUNmessenger:??????@msn.come-mail$B!’(??????@yahoo.co.jpCOMMUNITY$B!’(Bhttp://groups.msn.com/linksj__________________________________________________Do You Yahoo!?Yahoo! BB is Broadband by Yahoo!http://bb.yahoo.co.jp/
2003年12月28日
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ぼくはエアエッジを使い、非常に小さく軽いPCを使っている。これにはエディタに秀丸、ワープロに一太郎(もちろんATOK)で立派なオフィスはインストールしていない。一太郎で表計算も可能だから。プリインストールの軽いオフィスで十分。ブラウザは軽量高速のOpera。メーラは秀丸についてくる優秀な鶴亀。もう一つオールインワンのラップトップPCが家にあり、これは前例のハードディスク30Gの二倍容量がある。一太郎、花子、美写楽、Adobeブラウザ、Dreamweaber、ルナスケープ、Shurikenとmsの装備をし、さらにマルチOSでMLDのLinuxも使っている。デスクトップにしないのは、引越しなどでの手間が格段に違うから。19日の日記 (PM 04:04)さん: ところで、みなさんの尊敬する人と言ったら誰になりますか? わたしならジョン・ライドンになります。かれがPiL時代に出した Flowers Of Romance という超問題作に、80年代のバンドは 答えを出せなかった。この作品の主張は、リズムの否定だった、 快楽主義的で単純、原始的なリズムはカタルシスを安易に与える。 ここで発生するのは現状の温存、事勿れ主義、本質的解決を 忘却し或いは看過して安楽に甘んじる、そういったことだ。 80年代のバンドといえばthe Smithsとaztec camera(イギリスでは) が重要な二大グループだが、何れも問題意識を抱えつつ、 メロディとアンチヒーローへむかう姿勢とに終始した。 80年代のバンドとは一般に言われていないが、89年に登場 したthe stone rossesはグルーヴ、主役なき、いや、誰もが主役 という意識で鳴らすリズムでライドンの問題を解決してみせた。 すくなくともわたしにはそう思われる。 どうようの問題をメロディにおいて解決して見せたのは アメリカのpavement、イギリスではblurだろう。少なくともこの ふたつのバンドは新しい快楽文脈の名にみあうだけの 曲をいくつか残している。
2003年12月19日
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Leoneedさん賞賛のShurikenはわたしも使っているメーラです。以前はYahoo!メールのポップ使用ができないといった欠点がありましたが、今は問題なく利用できます。Shurikenは(詳細はわかりませんが)おそらくヴァージョン毎に著しい進歩を遂げているように思います。 これはShurikenに限らず一太郎などJustsystemの製品全般に言え、文書作成にとって最も重要な役割をはたすATOKも、進化するJustsystem製品です。 以前Yahoo!メールやホットメールのメーラによる使用をしたいと考え、ShurikenとEudoraを併用していましたが、今はShurikenのみです。Shurikenはマルチアカウントに対応(単に複数アカウントの送受信ができるということではなく、見やすいわかりやすいインタフェイスを持っている)しており、Becky!と並んでベストのメーラと言えるでしょう。 Leoneedさんの指摘なさっていたニュースについては、わたしはまったく利用しないのでわかりません。以前ニュースを使ってみたのですが、有効に利用することができませんでした。いい使い方があれば教えてほしいと思います、よろしく。 複数アプリケーションの統合という発想は時代の方向性を考えても適切です。Netscapeは明示的にブラウザ、メーラ、コンポーザーが一体となっており、この点発想がMicrosoftより進んでいます。ただし、これはNetscapeが優れているということではありません。 わたしは街中でみる「パソコン&インターネット講座」というような看板に大変違和感を感じます。コンピュータは繋げたもの勝ちで、現在ではネット利用を前提に関係するほぼすべての製品も設計されています。インターネットという固有名詞に固執するのではなく、ネットワークだからコンピュータだと考えるのです。 Operaのような優れたブラウザがShurikenメーラ、てきすたー(非常に気に入っているフリーのエディタ)や一太郎(一太郎は既にShurikenと連携してます)のようなワープロ、そしてワープロはみなウェブデザインに対応しているかdreamWeaverのようなアプリと連携しているべきでしょう、また写真や個人的なカレンダーともセットになっていてほしいと思います。 .NET、messengerとの速やかな連続性も期待したい。 以上、てきすたーエディタを使って書きました。
2003年12月18日
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ふじなが様、お役に立てれば光栄に存じます。 夢というのは他の全ての体験と違った特殊性を 持っている。それは、体験をリアルタイムで 通過することがなく、夢の体験とは必ず夢の 回顧、思い出しの形式をとる。ああ、今自分は 夢の中だ、夢世界で何をしようかな、などという ことはありえない。 まれに夢の中でそれが夢と気づくケースはある が、それは夢というよりまどろみだ。 少なくとも夢らしい夢においては唯一思い出す ことで追体験することができるだけだ。 では、人は追体験に先行すると思われる 夢体験、夢見をいつおこなっているのだろう。 ノンレム睡眠時、レム睡眠時など色々 用語は出てくるが、そもそも脳波からですら 体験内実は想像できないのだ。 しかし、既に述べた、思い出しにおいてのみ 夢は疑似体験可能であるということ、そして、 夢は必ず目覚めに直結するということから 敷衍できることがらは多い。夢が映画のように 終わってその後は普通の睡眠状態になる などということはありえない。finとか字幕が でて終わる夢はなく、目覚めに直結している のだ。 そしてこのことは絶対忘れてはならない。 外的刺激、例えば近くでコップが割れた音 で目がさめる、など、内的、外的刺激あるいは 反応が目覚めの契機となるのは間違いない。 夢がこの目覚めに直結していることは既に 明らかであるが、目覚め刺激、覚醒反応の 内容が尿意であるかベッドからの転倒である か、ということが夢の内容を規定する。 と言うか、目覚め契機を終点とした夢を われわれは体験している。 ちょっと考えてみよう。と言うことはだ、 夢が目覚めに直結し、目覚めの契機に よってストーリーの終点が決まる、という 時間軸の異常が発見できる。 つまり、夢は目覚めた直後に目覚め契機 へと時間を逆方向に進む一瞬の営み であるということになる。 どうだろう?
2003年12月13日
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鏡では左右が逆になって映る、という定説がある。 少し考えただけでも、これは誤りであるとわかる。 だって左右入れ替わってないでしょう。 鏡に映る像は、しかし、何か実物と違う。 散々考えてやっとわかった。鏡において、像は 裏表反対に映るのだ。
2003年12月12日
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実は以前名画のオークションにスーツ着込んで行って来たことがあります。そこで学んだこと。オークションを仕切ってるあの人は「オークショニア」というらしい。また金額決定の際、その金額を、また一つの区切りをつける意味も含めて「ハンマープライス」というらしい。そして、出席者のほとんどはダダもシュールも知らない俗ぶつでした。
2003年12月05日
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精神分裂病があまりにネガティヴなことばであるため、近年このような呼び名に改められた。しかしこの名称のもつ守備範囲の広さは、不眠症すらも含んでしまいかねない。ところで、ぼくはもう5年も自他共に認めるうつ病だ。だけど、人生のどんな側面でも、病気をエクスキューズにしたくないと堅く思っている。
2003年12月02日
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ヘビメタに気持ち悪さを感じるのは、二点ある。ナルシスト的長髪と自己陶酔したギターソロ、これがポイントだろう。その対極にあるパンクは、そしてその影響を受けた者たちはみな単発で、技術に選考する思いや衝動がある。ジョン・ライドンを誰より尊敬しています。
2003年12月01日
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