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田中美羽(たなか みは、1963年3月30日 - 2004年5月28日)は、兵庫県出身の元女性タレントである。本名は田中康江(たなか やすえ)で、「田中美羽」に改名前の旧芸名は本名と同じである。パートナーズ・プロに所属していた。関西地方を中心に、テレビ、ラジオ、司会、CM、舞台などでマルチな活躍をするタレントとして有名であった。有名な出演としては、朝日放送の探偵!ナイトスクープの初代探偵の一人であり、またラジオ関西のチャチャラジオの初代アシスタントを2000年から2年間勤めた。趣味はギター、バンジョー、アイリッシュ音楽。2004年に交際相手の城田じゅんじに撲殺された。享年41歳。趣味を通じて、元ザ・ナターシャー・セブンの城田じゅんじと知り合い、2000年ごろから自身のタレント活動に加えて、城田のマネージャーともなる。また、私生活面でも城田と交際・同棲するようになった。2004年5月27日夜から翌日未明にかけ、結婚を巡り城田と口論となった(城田は別居中の妻子がいたが、離婚は成立していなかった)。その際、逆上した城田に頭部を何度も強く殴打され、急性硬膜下血腫により28日に搬送先の病院で死亡が確認された。音楽が元の悲劇だな。
2008.08.18
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ザ・ナターシャー・セブンは、1970年代から1980年代前半にかけて活躍したフォークバンド。ブルーグラスやアメリカのトラディショナルフォーク、日本の民謡の他、世界各国の伝承曲をレパートリーとしていた。宵々山コンサートの開催や、107 SONG BOOKの発行を行う。メンバーは、高石ともや(友也)、城田じゅんじ(純二)、坂庭しょうご(省悟)、木田たかすけ(高介)の4名が有名高石と城田の出会いがバンド結成のきっかけ。その当時、京都産業大学3回生であった城田は、既にブルーグラスのバンジョー奏者として活動を始めていた。一方、高石は、自身の音楽活動の方向性を求め、フォークソングの原点を探し求めていた頃であった。二人は意気投合し活動を共にし始める。二人を引き合わせたのはフィドル奏者の井芹誠であった。1971年1月、高石、城田、井芹、北村謙、箕岡修の5名で「バック・ステップ・カントリーバンド」( Back Step Country Band )を編成。 1971年2月28日には、「高石ともやとザ・ナターシャー・セブン」と改名。バンド名の由来は高石が住んでいた福井県の名田庄村(なたしょう、現おおい町名田庄)をもじったものであり、「セブン」は語呂合わせに付けた。命名は、七人の会社長の榊原詩朗による。榊原がマネージャーとプロデュースを行ない、活動を開始した。バンド結成以来、メンバーの入れ替えが頻繁にあったが、1975年から1980年初頭まで続いた、高石、城田、坂庭、木田の4名での活動が、最も安定的で活動的であった。この頃は「ザ・ナターシャー・セブン」と称していた。1973年から始めた宵々山コンサートは毎年開催し、京都の夏の恒例行事となる。全国各地でもコンサートや野外フェスティバルを開催。1976年、107 SONG BOOKを発行し、レコード化する。これはレコード大賞企画賞を受賞した。1977年に自切俳人とヒューマンズーに、杉田二郎グループと共に参加。普段のスタイルとは違う、コミカルな楽曲と演奏を行った。これにダウン・タウン・ブギウギ・バンドを加えてJ・D・S・Nと称することもあった。J-自切俳人、S-杉田二郎、D-ダウン・タウン・ブギウギ・バンド、N-ナターシャーの意味。なお、自切俳人(じきるはいど)とは北山修の変名。しかしだ、悲劇が続くのだ。1980年2月に木田が脱退。そして間もない1980年5月に交通事故で死去。この木田さんはイルカの編曲やバックなどで活躍。木田さんの事故は、シュリークスの神部さんの誕生日でもあり、彼は友人の死を嘆き悲しみ自分の誕生日をそのひにいわくことをやめた。その日はイルカのコンサートの合宿でもあったのだ。また1982年2月には、榊原がホテルニュージャパンの火災事故で死去した。これでも諸口の兄貴は落ち込み、歌うことをかなりの期間やめた。バンドを支えた2人を相次いで失ったこの頃を境に、意見の対立が顕在化し徐々にまとまりを失っていく。1983年には城田が脱退。1984年の宵々山コンサートでは、坂庭が自分のソロコーナーにおいて、再三再四、城田にステージに上がるように呼びかけたが(この時、城田が実際に会場に来ていたかどうかは不明)、結局、城田がステージに上がることはなかった。また、高石は、坂庭が城田に呼びかけているとき、ステージには現れなかった。この直後に、坂庭、進藤が脱退。その後、兼松ゆたか、藤木頌子を加えて、再スタートを切ったのだが、結局、翌年の1985年、活動を停止した。そして、宵々山コンサート自体も、同年をもって、終了した(1994年に再開)。ちなみに、1985年の宵々山コンサートはナターシャーの活動停止後だったので、ナターシャーは出演していない。1998年、高石のディレクティング・マネージャーを担当することになった株式会社マクランサの林 正史が城田と坂庭を説得し、長年の離別を解き、ナターシャ・セブンの再結成を実現させた。 林は高石・城田・金海時代のナターシャのPA担当や、「春を待つ少女」のプロデューサーであるが、フォーク界の人間ではなく、海外から来日する著名なジャズミュージシャンのPAやシンセサイザーの冨田勲のプロデューサー、レーシングカー「童夢」やF1のマールボロ・チームのマーケティング・ディレクターとしてさまざまな世界で活躍しており、彼への信頼感が再結成のきっかけとなった。再結成後は、林のディレクションによりレーコーディングやコンサート活動を積極的に展開。2003年12月、坂庭が死去2004年、城田は刑事事件により音楽活動を停止した。坂庭 省悟(さかにわ しょうご、 1950年1月20日- 2003年12月15日)は日本のブルーグラス歌手、フォークシンガー。はしだのりひことシューベルツの弟分フォークグループ、マヨネーズのメンバーとしてフォークキャンプに参加。1969年にデビュー。高石ともや、杉田二郎、はしだのりひこらとともに関西フォークシンガーの旗手的な役割をなした。1970年にマヨネーズで一緒だった中嶋陽二とともに「はしだのりひことクライマックス」のメンバーとなり、彼の作曲した「花嫁」が大ヒット。その後「高石ともやとザ・ナターシャー・セブン」に参加。ソロ活動もこなすが2003年12月15日、53歳の若さでがんの前に倒れ永眠する。弟はダウン・タウン・ブギウギ・バンドに在籍していた。城田 じゅんじ(しろた じゅんじ、本名・城田純二)は、日本のバンジョー演奏家のパイオニア。静岡県生まれ。京都産業大学法学部卒業。実父は弁護士。高石ともやとザ・ナターシャー・セブン(文中、ナターシャーと略)のメンバーとして知られる。ナターシャーの前身である、バックステップ・カントリー・バンドの頃から高石ともやと活動。1970年代を通してナターシャーとして活躍していたが1980年代に入り意見の対立からグループは活動停止状態となる。そのためアルバム制作ができなくなりレコード会社とは契約不履行となり、ナターシャーの全アルバムが廃盤状態となってしまう。メジャーレーベルでの活動ができなくなったため、各メンバーはそれぞれ独自の活動を余儀なくされる。 城田は坂庭省悟との活動は継続しつつ、バードランド(アイリッシュ、ブリティッシュ・トラッド、ジャズ、クラシックを融合した独自の音楽)との活動にも参画するが、やがて活動の拠点をアメリカに移す(1984年)。アルバイトを余儀なくされる苦境にありながら世界的なバンジョープレイヤーとしての地位を勝ち得る。2004年5月28日、同居中の元タレントでマネージャーの田中美羽と、交際をめぐって口論となり、女性の頭などを殴るなどの暴行を加え死亡させ、傷害致死容疑で逮捕、その後起訴される。同年12月2日、東京地裁は懲役5年の実刑判決を下し、現在受刑者として服役中。この事件により、現在彼の音楽活動は休止中であり、服役後の再開の目処も不明である。
2008.08.18
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12月3日20時36分配信 産経新聞 秋田連続児童殺害事件で、殺人と死体遺棄の罪に問われた無職、畠山鈴香被告(34)の第10回公判が3日、秋田地裁(藤井俊郎裁判長)で開かれた。弁護側の証人として鈴香被告の母親と弟が出廷。2人とも、父親の虐待があったり、鈴香被告が長女の彩香ちゃん=当時(9)=に愛情を持って接していたりしたなどとする被告の主張に沿った証言を繰り返した。 母親は、今でも鈴香被告が彩香ちゃんに殺意がなかったと信じていると訴え、最後に鈴香被告の方を向き「バカなことしたね」と語りかけた。弟は「姉が彩香ちゃん事件にかかわっているという疑念はなかった」と話した。被告が極刑を望んでいると発言したことについては、2人とも「死んでしまうのは楽。辛さから逃げようとしていて腹立たしい」などと感想を述べた。 また、公判と並行して行われた鈴香被告の精神鑑定結果の証拠調べも実施。鑑定は、心因性の健忘によって、彩香ちゃんが橋から転落した前後の数秒間、記憶を失っていたとする一方、米山豪憲君=当時(7)=の事件については責任能力があると判断された。 精神鑑定は弁護側の要請によるもので、地裁が鑑定人として青森市の精神科医、西脇巽医師を選任していた。西脇医師の証人尋問は21日の第12回公判で行われる予定。 理解できない。
2007.12.03
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オフコース当初からの創立メンバー小田和正とは中学からの同級生である。知り合ったのは、中学受験のための進学塾。やがて高校時代、フォークソング・ブームのなかで2人を中心としてフォークソングを歌うようになり、これがオフコースの原点となる。高校の文化祭のヒーロ。で、その道に入るパターンはおおいね。音楽をこよなく愛していたのは、小田さんよりも鈴木さんであったようにおもうんだ。大学時代は、仙台の東北大学に在学していた小田が楽器を抱えて、横浜で鈴木たちと練習をしていた。ライブも主に横浜で行っていた。東京工業大学で、電気制御工学を専攻。四年のときには、安川電機に内定までもらっていた。そのライブも、高校時代の同級生がいろいろ、仕切ってくれて、みんなが、応援していた、チケットを女子高、女子大にまで売るのがたのしみだったんだろうな。鈴木の父は電鉄会社の重役。彼もまた、おぼっちゃまであった。しかし、彼の方がいち早く音楽で生きることを選び、ヤマハでバイトしながらアレンジの仕事をしたり、ギターの腕をあげるべく日夜暮らしていたとおもう。鈴木さんは、ヤスと今呼ばれ、ヤっさんともいわれていた。横山ではない。小田さんが大学を出て、音楽の道を迷う。鈴木さんも迷う。互いに、学生でいることで、音楽ができるということで、大学院を受けた、が、小田さんは早稲田に合格し、鈴木さんは落ちた。鈴木さんは、ヤマハでバイトしながら、編曲、作曲の勉強をする。父に大反対されて、勘当までされて、音楽の道を選ぶ。小田さんの家は、好きにされてくれたが、猛反対。音楽のプロも道は、ひどい環境で、演歌が中心で音楽は、不良のすること、コンサートも、やくざが仕切ったり地方では、チケットの売上全部持ち逃げされたり、ひどい、駅前の宿屋で、練習もできなかったり、あの、時代は、フォーク、といって作られた部分がおおく、オフコースも最初、コピーでならしたので、ヤマハのポプコンはオリジナルが主であるが、当初は技術的なあらそいで、コピーをして、なんぼ、であった。小田さんが、ちびで、ヤスが、長身、小田さんが押さえられないギターのコードもヤスのでかい手は、楽勝でおさえて、小田さんは、間違えずにおさえようとするばかり、うつむいて演奏してしまう、しかも、ロングヘアーみんな、ヤスの目が行き、一目ぼれしてしまうのであった、小田さんは人気が出たのは、はやばやと、モデルと結婚して、ヤスが・・キーボードに座ったころからではないだろうか。バンドとしての、ポテンシャルを高めていったのだが、亀裂は生じだ。解散の真相は、本、ギブアップにのっているらしい。でも、僕は読まない。その本を、その本の作者はもう、病没したそうだが。僕の中では、ある言葉を感じている。鈴木は、卒業したかったのだ。オフコースにいるよりも個人で試したかったのだと思う。彼はおそらく、平和的な脱退をしている。で、懇願している。「ぼくがいなくなっても、オフコースは続けてくれ・・・たのむ。」苦しい胸のうち。小田も、鈴木も。苦しんだ。小田は、ぼうぜんとし、解散をきめていたところもある。たぶん、ヤスの脳裏には「安川電機の内定を断りにゆく」その 光景。「音楽の道をゆくといったときに、父に罵倒されたこと」その、光景。ぼくは、オフコースにいなくてもいい、一人でいろんなことをやってみたい。オフコースの歌が、売れ出したのは、小田さんの別れの歌。しかし、バンドとして、「さよなら」のクライマックスは、ヤスの、鳴くギターである。ヤスのコーラスは、ファンがおおく、ヤスはあえてソロでは披露しなかった。その声は高く、澄んで、きれい、ぶれない。小田さんにあわすため、その声をだすようになった。小田さんの声が前に出てゆくのは、オフコースのメンバーがコーラスで支えていたからだ。郷ひろみにて提供した歌。素敵にシンデレラコンプレックス が1983年に大ヒット。作詞は秋元康トヨタカローラのCMにも使われた。鈴木康博のコーラスワーク、ギターは高い技術をもち。オフコースが、スターダムにのしあがったのは、鈴木の音楽技術の高さを評価していいと、思う。コカコーラの歌もCMで担当。僕は思う。彼らがその塾で,あうことがなかったら、鈴木が小田を音楽の世界にひきずりこまなけらば、音楽シーンはなかったろう。売れることと、評価されることと、それが実は重要ではないようなきがしてくる。最近、ぼくは。音楽を楽しんでいるのが、実は小田さんよりも鈴木さんなのだとおもう。全国のフォーク系のライブハウスを回ることこそ、音楽の原点であり、音楽の道を選ぶことの結果であったとおもう。好きだからやっていること、それが一番、
2007.07.15
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出雲サンチュウは、出雲大会島根大会、金で通過。中国大会は、競合を相手に 金。吉川先生の指導がいいな、これほど、完成されたものが本大会、銀。でおわる、彼らはもう高校生だろう。それでな、直太郎の「虹」どうぞ。ここ
2009.08.02
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失踪時年齢 8才失踪日時2000(H12).10.20失踪地岡山市網浜 夕方、自宅を出たまま帰宅せず行方不明に。もう、9年がたち、17歳。忽然と消える、そういうことはありえない。家出する理由もあったのだろうか、岡山には不思議な未解決事件が多すぎる。なぜだ、岡山県警さん、
2009.08.13
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赤い鳥のことばっかりですいませんが、ネットで調べても、不思議なことにファンのサイトがまったくない。なぜだろうか、チューインガムでさえも、あるのに、あれだけのヒットをとばし、きちんとしたコンセプトですばらしい音楽で、封印のようにされている。しかし、ベストはでているが、「かみふうせん」「ハイファイセット」に分裂してもそれぞれ、ヒットをだすというすごさ。大川茂氏の金庫破り見張り番で逮捕さえなければかなしかし、あれも、いろいろあったんだ。彼は秀才で医学生だったんですよね。考えても見れば、赤い鳥で新居山本、後藤夫婦とセットになり、大川さんは、一人、孤独だ、精神的なものがあったろうとおもう。皮肉なもので、売れると、すごい金が入る。すごい贅沢な暮らしができる、魂をうってしまう。しかし、いつまでも夢は続かない、時代や風の向きは変わる、いつまでも、ネバーチェンジでいく、それもいい。しかし、売れなくなると、惨めな風が吹く。それでも、やり続ければ、いいのだろう、しかし、そこまで人間なかなかできない。本当に好きだったんだろう、大川さんよ。音楽の道を選んだろうよ、大川さん、大川さん、もう一度、機会を誰か上げてくれ、街角でもいい、歌えばいいさ、立ち止まる人がそきにいるだろう、きっと、昔の仲間が電柱の影から見てるよ。みんな、思ってるんだ、あのときの音楽と、あのときの気持ちを、もう一度、やるか、赤い鳥、やればいいやないか、なあ、親愛なる大川茂へ長七より、愛をこめて紙風船
2007.10.21
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