第八十九段
【本文】
むかし、いやしからぬ男、われよりはまさりたる人を思ひかけて、年経ける。
人知れず われ恋ひ死なば あぢきなく いづれの神に なき名負ほせむ
【注】
〇いやし=身分が低い。
〇思ひかく=恋い慕う。
〇年経=多くの年月を送る。
〇人知れず=ひそかに。
〇恋ひ死なば=もしも恋しさのあまり病気になって死んだとしたら。「な」は完了助動詞「ぬ」の未然形。『万葉集』には「おもひしぬ」の語も見える。「われ恋ひ死なばあぢきなく」で、あぢきなく」が、「かいがない。つまらない。」の意となり、「あぢきなく神になき名おほす」で、「あぢきなく」が「不当にも」の意にはたらくよう表現が工夫されている。かの『徒然草』の《花は盛りに》「椎柴、白樫などの濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、心あらん友もがなと、都恋しう覚ゆれ」の「身にしみて」が、「椎柴、白樫などの濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて」で、椎の木や白樫などの夜露に濡れているような葉の上に月光がきらめいているのがしみじみ美しく感ぜられ」の意となり、「身にしみて、心あらん友もがなと、都恋しう覚ゆれ」で、心の底から、情趣を解する友人がいればいいのになあと、都が恋しく思われる」の意となるように、一つの単語に複数の意味があるのを利用して、上の文とのつづきと、下の文とのつづきとで意味を変えて用いている。
〇あぢきなし=かいがない。つまらない。不当だ。
〇なき名=根拠のない噂。身に覚えのない評判。
〇負ほす=罪をかぶせる。
【訳】
むかし、身分が低くはない男が、自分よりは身分が高い女性に対し恋心を抱いて、多くの年月を送った。
ひそかに人に知られぬように、もし私が恋い死にしたならば、不当にも、どの神様に 無実の汚名をきせようか。