折れず曲がらず良く斬れる

折れず曲がらず良く斬れる

2005.02.06
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 秀吉の秀頼可愛さに翻弄された秀秋。13歳で小早川に養子に出され、養父の隆景が亡くなって16歳で家督を継ぎ、慶長の役に総大将として朝鮮出陣。明軍に囲まれた加藤清正の蔚山城救援で武功を挙げるも総大将として軽挙だと軍目付けの三成らの讒言で筑前名縞0万石から越前北庄14万石へ転封を命ぜられるも家康の取り成しと秀吉の死でうやむやに。

 関が原の合戦の時まだ19歳(満年齢だと18歳、今なら高校3年)、彼が本物の野心家なら松尾山から駆け下りて家康の問い鉄砲に反撃を加え、家康の首を取り、あわよくば秀頼の天下を横取りできたかも知れない。秀吉や信長ならそうしたでしょう。

 太閤秀吉に秀頼が生まれて用済みになって捨てられた。慶長の役でも武勲を挙げながら正当に評価されなかったばかりか叱責を受けた。関が原での行動は裏切りではなく、太閤秀吉への復讐だったと言うのが著者の主張です。

 毛利の両川と謳われた養父隆景が存命なら秀秋も心強ったことでしょう。彼がいれば吉川広家の暗躍もなく毛利は西軍の主力として戦ったでしょう。豊臣連枝の秀秋カードを使えば毛利の天下も夢ではなったはず。天下を盗る気の家康と盗る気のない輝元の覇気の差が関が原の帰趨を決めたと言えるでしょう。危険を冒して松尾山の小早川の陣に鉄砲を撃ちかけた家康と大阪城に籠ったままの輝元では格が違いすぎますね。

 違い鎌の朱の陣羽織(東京博物館蔵、伝小早川秀秋太閤秀吉より拝領)に魅せられて小早川秀秋の事を詳しく知りたくなりました。彼は21歳岡山で亡くなります。10代の重すぎるストレスが原因でしょう。岡山在城わずか2年ですが検地を行い年貢の引き下げなど善政を行っています。酒乱だった等のエピソードが残っていますが殺生関白と同じ類の後世の創作でしょう。

 豊臣連枝に生まれ、過酷な運命に翻弄されながら心ならずも裏切り者の汚名を着てしまった。器量がなかったと言えばそれまでだけれど。

 南宮山の毛利のようにできることなら傍観したかった。だけど家康の問い鉄砲で動かざるを得なかった。松尾山から見る戦況は西軍は緒戦は奮戦し優勢だったがいかんせん兵力不足で戦線は膠着状態、そこへ桃配山から家康本隊3万が後詰(予備隊)として戦線に加わる気配をみせた。南宮山の毛利が空弁当で動かぬ以上、時間が経てば勝つのはどちらかは明らかです。傍観していれば勝った東軍の標的にされてしまう。

 西軍は負けるべくして負けた。三成は家康の天下盗りに昂然と立ち向かった太閤秀吉にとっては忠臣だったけれど太閤の秀頼可愛さの心ばかりを優先し道理に反して秀次、秀秋の失脚に加担した。これでは人望のないのも頷けます。豊臣の家臣団を束ねる力量はない。例え西軍が勝ったとしても秀頼の時代は続かなかった。

 慶長の役では違い鎌の朱の陣羽織で自ら槍を持って戦った16歳の総大将・秀秋の方が大阪城に籠ったまま一度も千成瓢箪の馬印を使わなかった秀頼よりは男らしい気がします。





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最終更新日  2005.02.07 02:50:54
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