「東雲 忠太郎」の平凡な日常のできごと

「東雲 忠太郎」の平凡な日常のできごと

2025.10.29
XML
カテゴリ: 転職・就職


 ハチグチウィンさんは、50歳を過ぎていた。どこにでもいるような中年男性だ。職場では誰からも嫌われず、しかし特別に好かれることもなく、静かに自販機の前で缶コーヒーを飲む。毎年10月が近づくと、近所の大学で「ハロウィンパーティ」のポスターが貼られる。彼は毎年のように、それを「八口ウィンパーティ」と読み間違えた。つまり、自分の名前が貼られていると思っていたのだ。
 最初は冗談のつもりだった。「お、また俺の季節が来たな」と笑っていた。だが年を重ねるうちに、その錯覚のほうが現実よりも鮮明になっていった。職場でも家庭でも、誰も彼の存在を特別視しない。それなのに街では「ハチグチウィンの夜を楽しもう!」という文字が光っているように見える。
 ——誰かが、自分を祝ってくれている気がした。
 しかし、今年の10月31日。ウィンさんは気づいてしまった。
 そのポスターをまじまじと見つめた瞬間、「ハロウィン」という正しい文字が、ただのイベント名として目に飛び込んできたのだ。そこに自分の名前は、どこにもなかった。
 「なんだ、俺の人生、ずっと消化試合だったのかもしれんな」
 自分でも驚くほど自然に、その言葉が口をついて出た。
 若いころは夢があった。誰かに認められたかった。家族を守りたかった。だがいつの間にか、それらは日々の雑務と同じように“消化”していくものになっていた。結果も感情もなく、ただこなしていく日々。その果てにあるのは、空席のスタンドと、もう響かない応援歌だけだ。
 その夜、ウィンさんは一人で小さなコンビニの前に立ち、缶ビールを開けた。通り過ぎる若者たちは仮装をして笑いながら写真を撮っている。彼の顔を見ても誰も気づかない。誰も「八口ウィンさんだ」とは言わない。
 しかし、不思議と寂しさはなかった。
 「まぁ、消化試合にもルールはある。最後までやることに意味があるんだろうな」
 缶ビールを飲み干し、彼は夜風に向かって軽く笑った。
 遠くで花火の音がした。
 それが祝砲なのか、誰かの打ち上げなのか、彼には分からなかった。
 ただひとつだけ確かなのは——ハチグチウィンさんはその夜、初めて“自分の人生の主催者”が自分自身であることに気づいた、ということだった。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2025.10.29 22:39:27


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: