会津戦争(白虎隊)
鶴ヶ城 白虎隊行列
1年5ヶ月にわたる戊辰戦争で最も悲惨を極めたのが会津戦争である。
主力の武士のみならず少年や婦女子も剣をとり戦った。
会津戦争では母成峠が最初の激戦地であり、慶応四年(1868)八月二十日本営の二本松城を出発した西軍(新政府軍)は翌二十一日朝戦闘を開始した。
母成峠の地形は守備していた東軍(会津軍)に相当有利な状況であったが、兵力、火力に勝る西軍に更には濃霧が味方し午後四時ごろには総崩れとなった。七時間程で東軍が敗れた。
母成峠から西下すると猪苗代の城下に入る。猪苗代城は若松城(鶴ヶ城)の支城で別名亀ヶ城といわれ鶴ヶ城と対を成している。
東軍は城に火をかけ放棄し、西軍は十六橋を目指した。
十六橋は猪苗代湖から唯一流れ出す日橋川にかかっている橋で、若松城下へ道筋である。
東軍はこ橋を破壊しようとしたが間に合わなかった。
八月二十二日午後四時ごろ進撃してきた西軍の邀撃のため援軍に駆けつけたのが白虎隊(二番士中隊)である。
十六橋から滝沢峠を越えて若松城下へ至るところでの戦いに敗れた白虎隊士37名は、他の味方と共に敗走した。
戸の口堰(飯盛山の中腹をうがち猪苗代湖の水を若松方面に引く灌漑用の洞穴)を通れば飯盛山へ抜けられることを知っていた隊士の言で、隊士の何人かが首尾よく通り抜け飯盛山の中腹から若松城下を見下ろした。
そこで見たものは、火煙を上げる若松城の姿(実際は、城下の火災であった)であり、落城と錯覚して絶望した彼らは自ら若い命を絶った。
【白虎隊】
会津藩では、西軍を迎え撃つために新たに軍の再編成を行った。
年齢別に次の四隊に大別された。
・白虎 15歳から17歳
・朱雀 18歳から35歳
・青龍 36歳から49歳
・玄武 50歳以上
さらに、身分によって士中組、寄合組、足軽組に分かれる。
語り伝えられている悲劇の主人公は、白虎隊二番士中組である。
20名が飯盛山で自刃したが、16歳の飯沼貞吉は蘇生した。
現在の隊士の墓は、明治二十三(1890)年に建てられ、飯盛山の白虎隊自刃の場から市街地の木々の合間に鶴ヶ城が小さく垣間見える。
彼らが、城が炎上し落城したと錯覚したのも無理からぬところである。