箱館戦争(五稜郭)
明治元年(1868年)十月二十日、新天地を蝦夷地に求め旧幕府軍の榎本武揚が八隻の艦隊を率いて鷲ノ木に上陸した。
上陸後、榎本軍は直ちに進軍。
大島圭介は内陸の大野を経て、土方歳三は額兵隊(仙台藩)を率いて海岸沿いにそれぞれ五稜郭へ入城した。
五稜郭は、北方の防備拠点として元治元年(1864)年に幕府が七年がかりで築城したものである。
武田斐三郎の設計によるこの洋式城郭は優美な五角形の土塁から構成されており、各陵から十字砲火が可能で死角も少なく造られていた。
近代戦を想定した造りであったが、この戦争の時期には武器の進歩が著しく艦砲射撃が郭内に届く程であった。
四月九日、新政府軍は乙部に上陸。
各地の戦いで榎本軍は後退を余儀なくされ、五月十一日に新政府軍の箱館総攻撃が開始された。
陸軍は北方から三手にわかれて、また海軍は山の裏手から一斉に攻撃した。
五稜郭の後方に急造された四稜郭も崩れ、榎本軍の拠点は次々と打破された。
応援のためにに弁天台地へ向かう途中の歳三は、一本木関所で戦死。
偉容を誇っていた弁天台場も投降を余儀なくされ、最後の砦であった千代ヶ岡陣屋も中島三郎助親子の奮戦の甲斐もなく戦死し制圧された。
ここに到って、新政府軍の参謀・黒田清隆らの勧告により、榎本は開城を決断し十八日に明け渡しをした。
慶応四年(1868)年、鳥羽・伏見の戦いではじまった一年半に亘る戊辰戦争の終焉である。
【主な役職】
榎本武揚: 総裁
松平太郎: 副総裁
永井尚志: 箱館奉行
大島圭介: 陸軍奉行
松岡四郎次郎:江差奉行
土方歳三: 陸軍奉行並兼箱館市中取締
荒井郁之助: 海軍奉行