三河の住人の庵

三河の住人の庵

慶長5年 関ヶ原の合戦



慶長5年(1600年)9月15日。
石田三成方の西軍8万の陣を家康方東軍10万が攻撃。
三成の笹尾山、宇喜多秀家の天満山、小早川秀秋の松尾山、毛利秀元の南宮山。
この陣に囲まれた姿の東軍。

関ヶ原布陣図.JPG
(関ヶ原町HP 陣形図より 無断借用)

素人目にも 西軍断然有利と見て取れる。

だが 南宮山の毛利は 前門の吉川がすでに家康に味方の密約を結んで傍観。
笹尾山と天満山の中間に陣取る島津も最後まで動かず。
天満山の宇喜多陣営に対する福島正則隊の攻撃で戦いは始まった。

勝敗を決したのは 松尾山に陣取る小早川秀秋が 東軍に寝返って
大谷隊を攻撃したことによる。
つられて 赤座・小川・朽木・脇坂の諸隊が大谷攻撃に転じて 大谷吉継は討死に、西軍が崩れ始めたのだ。

松尾山.JPG
松尾山 小早川陣跡の碑

松尾山は標高293.1m、頂上から 戦場は一望の下。
ここから 下り30分の道のり。
麓には 赤座はじめ4隊が陣取っていた。

関ヶ原決戦の地.JPG
決戦の地

勝敗を決めた 決戦の地は 三成の笹尾山から 300mほどであろうか。
敗戦を認めた三成は 笹尾山から 北国街道を落ちていったという。

笹尾山.JPG
笹尾山


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07年10月21日作成



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