三河の住人の庵

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津和野 坂崎出羽守の墓 


墓は 正面「空一峰玄秀大居士」、右側面「坂井出羽守」と刻まれている。

  • 坂崎出羽守墓.JPG


慶長6年(1601)坂崎出羽守は 関ヶ原合戦の功により石州津和野3万石の領主となった。
津和野城の大改築、城下町の設営、新田開発、和紙増産、鯉の養殖等の治績がある。
現在の津和野の礎を築いた名君であったが 在位わずか16年で亡くなった。


元和元年(1615)大坂夏の陣において大坂城落城の際に、出羽守は徳川家康の依頼を受け、家康の孫娘で豊臣秀頼の正室である千姫を燃え盛る大坂城から救出した。
しかし、顔に火傷を負いながら救出した出羽守を千姫は拒絶した。

千姫は父秀忠の命により桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚が決まった。
このため 出羽守は面目を失った。

元和2年(1616)9月、津和野藩主・坂崎出羽守が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は自害、坂崎氏は断絶した。

千姫事件である。

この前後の出来事

家康の死  元和2年4月17日
 <9月時点での家康激怒はありえない。>

騒動    元和2年9月10日 家臣百十数人と江戸の屋敷に立て籠もる。
出羽守の死 元和2年9月11日 自害(家臣による殺害?)
千姫輿入れ 元和2年9月26日 桑名到着
 <輿入れ行列襲撃計画はあり得る。>

だが この時 出羽守56歳 千姫20歳
 <千姫を娶るには年の差がありすぎるのでは?>

真相はよくわからない。

ともあれ 

津和野城主坂崎出羽守直盛は江戸で死に 坂崎家は一代16年で断絶した。

翌 元和3年(1617)津和野には亀井政矩が因幡鹿野城(鳥取県鹿野町)から4万3千石で移封した。
亀井家は以後 11代続いて明治を迎えた。

出羽守没後 13回忌に、津和野の町方大年寄をつとめていた堀平吉朗によって墓が建てられた。
坂井出羽守としたのは徳川家をはばかって変名したといわれている。

関ヶ原合戦で改易され津和野で坂崎直盛の庇護を受た出羽国横手城主小野寺義道が墓を建てたとの説もある。 


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