三河の住人の庵

三河の住人の庵

勝海舟の朝鮮論考



朝鮮といへば、半亡国だとか、貧弱国だとか軽蔑するけれども、おれは朝鮮も既に蘇生の時機が来て居ると思ふのだ。凡そ全く死んでしまふと、また蘇生するといふ、一国の運命に関する生理法が世の中にある。朝鮮もこれまでは、実に死に瀕して居たのだから、これから屹度蘇生するだろらうヨ。これが朝鮮に対するおれの診断だ。
しかし朝鮮を馬鹿にするのも、ただ近来の事だヨ。昔しは、日本の文明の種子は、皆朝鮮から輸入したのだからノー。特に土木事業などは、悉く朝鮮に教はったのだ。何時か山梨県のある處から、石橋の記を作ってくれと頼まれたことがあったが、その由来記の中に「白衣の神人来りて云々」といふ句があった。白衣で、そして髯があるなら、疑もなく朝鮮人だらうヨ。この橋の出来たのが、既に数百年前だといふから、数百年も前には、朝鮮人も日本のお師匠様だったのサ。

<中略>
朴泳孝は、善人だ。何時かおれの所へ来て、某伯が金を千両貸すといはれるけれども、否だといふから、そんならお前は、金があるかと問うたら、金はありませんといふのヨ。おれも面白い男だと思ったから、どうだ、おれが金を遣らうかといったら、大層悦んで、先生が下さるなら貰ひませうといったから、月々少しづつ呉れて遣ったヨ。人間も生れが大事だ。小国でも、貴族は貴族だけ潔白な心を持って居る。
あれも自国の外交の事には、余程気を揉んで居たと見えて、嘗て金玉均と同道して来て、種々の問を起すから、おれは露西亜には依りなさいといったら、金玉均は、おれの語を誤解したと見えて、ひどい事を仰せられるといったが、その後は、丸で来なかったヨ。なに、おれも依りなさいといった処で、屈服しろといふ考ではなく、ただ強大の隣国を敵にしては不利益だといふ意味なのサ。

金玉均  明治15年(1882年)来日 
     明治17年(1884年)甲申の変後に日本亡命
     明治27年(1894年)3月上海で閔妃の刺客に暗殺される

日清戦争 明治27年(1894年)7月~明治28年3月

勝海舟  明治32年(1899年)1月19日没

日露戦争 明治37年(1904年)2月~明治38年9月

伊藤博文 明治42年(1909年)10月26日安重根に暗殺さる

日韓併合 明治43年(1910年)8月29日


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