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トリップ -3
トリップの時の癖だ。アラームをセットする。自分でも気が付かないうちに携帯のアラームをセットしていたらしい。もうそろそろ1分。榊さんが戻ってきてもいい頃だ。あの、引き戻される感覚。水面が見えるのになかなか近づけない、あの感覚。まるで水面の向こうには世界がうっすらと見えるのに近づけない。そう、強制的に戻されているのに、不思議と光じゃなく現実を目指している。どこかでまだ生きたいって思っているからかもしれない。死ぬだけの勇気があれば「エンジェルミスト」なんか使わない。生き続けることに何も恐怖していなければ「エンジェルミスト」にも出会わない。不思議なものだ。引き戻される瞬間はなぜか「生きたい」って思っているんだから。少し前までは現実では経験できない感覚を経験しているのに。
榊さんの体がぴくっと動いた。そろそろ始まる。覚醒するときに心臓が動き出す。徐々に。体の機能が一旦停止していたのが、また動き出す。そう、戻ってくる傾向だ。
「どうでしたか?」
私はやさしく語りかけた。そう、この戻ってくる時にあるのは普通の苦痛ではない。まるで、ずっと水中にいて光は見えるのに水面にたどり着けずにもがいている感じ。しかも、どちらかというと、光の世界から強引に連れ戻される感じがあるからだ。だからこそ、戻ってくる時は心配である。けれど、たかが0.001mgのトリップ。このレベルならば違和感も少ないし、得られる快感も短い。そう、戻されるあの「違和感」は少ないのだ。呼吸が乱れている榊さんは、一瞬呆けていた。この症状はひょっとして、精錬方法が違っている。私は気がついた。
「綾瀬」ですらきちんとした精錬方法は知らない。もちろんあたるも同じだ。この「エンジェルミスト」は確かにトリップできるけれど、不完全品である。私はお茶を用意した。あったかいお茶を。
「落ち着きましたか?」
少しほうけているけれど、恍惚としている榊さんの顔をみて、この人はまた「エンジェルミスト」を使う人になるって確信した。どこかに希望を探しているから、けれど、今いる場所に希望がない。だからまたあの光に、快感を求めてしまうんだ。
かつての私もそうだったから。
私は自分が0.002mgのトリップしたときの事を思い出した。
~回想 0.002mg~
「陸、陸」
あたるの声がどこからか聞こえる。そうだ、私は調子に乗って0.002mgにチャレンジしたんだった。それは純粋に試したかったからかもしれない。いや、強がりたかっただけなのかもしれない。時計を見る。トリップしてから五分も過ぎていた。どうして五分も?私はどうしていたのか。あたるに聞いた。
「私は5分間もトリップしていたのか?」
もし、5分もトリップしていたら体のだるさはこんなものではないはずだ。確かにまだ、どこか感覚が鈍っているのも事実。それに、どこかあたるの声が聞こえる前に綾瀬と話した夢をみた感じもする。けれど、何かがちがう。頭の中にもやがかかったような感じだ。そう、まるで睡眠薬を飲んだのに、無理矢理起こされたかのようなけだるさがある。いや、なんとなく覚えている。水の中で音がちゃんと聞こえない時のように、なんだか会話をしていた記憶がある。思い出せない。いや、どこからが記憶なのか想像なのか、妄想なのかがわからない。まるでファルシオンをお酒で飲んだ後、起こされた時みたいな感じだ。私の記憶がすでに私の記憶でなくなっている。
「陸、覚えてないの?」
あたるが話してくれた。そう、私は二分後にいきなり目覚めたらしい。その目覚め方は苦しさで一杯のあの辛さではなく、ある意味普通に近かったらしい。だが、おきてから呆けている。「綾瀬」が話しかけたら普通に答えていたらしい。そう、何に対しても。そのとき綾瀬は、
「このエンジェルミストの作り方教えて?」
と言っていたそうだ。私は得体の知れない薬品名を羅列していたそうだ。実際、この「エンジェルミスト」を作るには複雑な精錬が必要だ。同じ薬学部出身の綾瀬ならば、正解にたどり着くかもしれない。睡眠薬を飲んだ後にたまに起きる「健忘」それに近かった。ただ、どこかにうっすらと記憶がある。思い出そうとすると何をしていたのかも思い出せそうだ。だが、健忘状態が続くのは、危険だ。そう、エンジェルミストの使用方法をもらしてしまいそうだ。それ以降、私たちは0.002mg以上使用するときはビデオカメラでトリップしている自分を撮影する事に決めた。
健忘のときに一体自分が何をしているのかがわからないから。いや、うっすらとは覚えている。けれど、意思がどこまで保てるのかが、いやどれが現実なのか、わからないからだ。あの時のビデオ。そう、大量のビデオは大学の郊外に埋めた。あの場所に。最後に私とあたるとで。だが、どうしても埋められなかった1本がある。それは今も私の手元に残っている。見ることなんてないのにもかかわらず。あの時の最期のぬくもりだけが忘れられない。ぬくもり。私の手にある温もりがリアルへとまた連れ戻しにきた。
~現実 榊~
お茶を飲みながら、榊さんは徐々に落ち着いてきた。何かの分量が間違っているのだ。私には解らない。いや、むしろあの苦しみがないのならば、ある意味に成功なのかもしれない。だが、あの苦しみは一つの衝動でもある。どうやってもあの苦しみは裂けられないものなのだから。だとしたら、一分間じゃなくもっと短い時間のトリップなのかもしれない。それならばありえる。何かの分量が少なくて、心停止が一分に至っていない。ただ、仮死状態だからこそ近い感覚は得られるのかも知れない。だが、この「エンジェルミスト」は明らかに「覚醒」するときに問題がある。脈拍を測ってみたが、特に異常は見られない。それとも、榊さんは他の何かの薬を常用しているのだろうか?その場合は違った状況であるかも知れない。いや、その可能性は極めて高いだろう。「綾瀬」も安定剤を飲んでいた。でも、大きな変化はなかった。ただ、覚醒の時の苦しみが私たちより少し少なかったかも知れない。私は目の前にあるこの見知らぬ「エンジェルミスト」の分析がしたくなった。いや、それよりもこれがあの片岡が作ったものならば、止めないといけない。誰もあんなことを望んでいなかったんだから。私の深い瞑想は榊さんの言葉でかき消されていった。
「あ~落ち着いた。でも、あの光にさらわれる感じ。そして、優しい声。確かにトリップだね。何か、はまる人の気持ちが解るわ」
榊さんはどうやらあの世界に魅せられたのかも知れない。それだけ、この世界に嫌気があるのだろうか。だが、この様子だと特に問題はないみたいだ。0.001mgで使用している限りは。私はまた日々の繰り返しにどっぷりはまることに決めた。そう、私はもう逃げないって決めたんだ。そうでないと意味がない。あの時を過ごした全てに対して。だからこそ気になる。あのサイト。エンジェルミストを販売しているサイトを調べよう。それにあの見出し。
「陸からの呪縛から抜け、宙(そら)に」
これは、私が管理していたあのサークルに反感を抱いて離れていった、片岡を思い出させる。いや、あれは私の思い違いだった。だが、確かに片岡には悪いことをしたと思っている。その謝罪をすることはなかった。あの時以降私は片岡と接点をもてなかった。恨みからなのか。それとも、まだあの光に魅せられているのか。今すぐ知りたい。いや、私は知らないといけないのかも知れない。今起こっていることを。これはあの時何も出来なかった全てへの後始末なのかもしれない。会社のパソコンで調べたい衝動もあったが、さすがに後が残るのがいやだった。
早く調べたい。けれど、そんなに早く仕事は終わらない。私は早めに仕事を終わらせようと頑張っていた。
「ねぇ、大原くんは私がこんなもの使いたいって気にならないの?」
榊さんが話しかけてきた。確かに気にならないといえばウソになる。だが、それよりも私はあの「エンジェルミスト」のサイトのほうが気になる。
「気になりますけれど、聞いてもどうも出来ないですから」
私はそれとなく答えた。でも、榊さんの話は止まらなかった。多分、誰かに聞いて欲しかったのだろう。辛さを抱えている人はそういうものだ。私も「エンジェルミスト」を立ち上げて、一回だけの投与だけで終わった人から色んな話しを聞いた。なんで「エンジェルミスト」なんかでトリップをしたいのか。
来る人はたいてい同じだった。辛いけれど、誰かに何とかして欲しい。いつか誰かがきて世界を変えてくれるんだ。でも、辛いから、どうにかして欲しいから。逃げたいから。だから「エンジェルミスト」で違う世界にトリップしたかったんだ。私が黙っていたからか、榊さんは話を続けてきた。
「あのね、知っていると思うけれど、私夜働いていたの。でも、そろそろ夜卒業して、昼職つこうって思ったの。その時、ここの社長から声がかかったの。私、バカだったの。住んでいるところもそのままで、買い物癖もそのままで、昼の給与じゃやっていけない。気がついたら、社長から愛人契約を結ばないかって言われた。ここの社長キライじゃないわよ。お金使いもすごかったし。わがままを今まで聞いてくれてたし。でも、実際続いていると、逃げ出したいの。でも、でも、どこに逃げたら良いのかも解らない。私、どうしたらいい?」
余裕のない人はいつもこうだ。だれかにいつも答えを求める。そして、その正解が違っていたら、相手を嫌悪する。楽なんだ。自分で決めないから。いや、自分で責任を持たなくていいから。だから、占いがはやるのかも知れない。誰かに未来を、自分を決めて欲しいから。決定付けてもらえたらその通り進めばいいだけだから。上手く行かなかったら、その決定した人を非難すればいい。あの時、私は「エンジェルミスト」に魅せられて本当に戻って来られなかったら。あのままあの光の向こうに逝ってしまっていたら。私はどうしていただろう。多分何も、誰も恨まなかった。私は逃げているようで、どこかで理解していたのかもしれない。いや、本当に理解をしていたらあんな結果になんてならなかった。私は過去の自分だったら、榊さんのこの相談を、いや相談ですらない。ただの愚痴を聞き流していただけかもしれない。そう、他人の人生だから私は干渉しないと決めていたから。それに、榊さんの運命に立ち向かうのは私でない。榊さんだから。私は色々な思いを胸に語りだした。
「榊さん。だったらすべて、捨ててみたらどうですか?住んでいるところも変えて、プライドも捨てて。でも、変わるってそういう事だと思いますよ。自分の半身をもぎとられる。それくらいの痛みと違和感が付きまとわないと何も変わりません。そのエンジェルミストで確かに『トリップ』は出来るかも知れません。でも、それじゃ何も変わらないんです。そう、変えられないんです」
私は自分で言いながら、まるで昔の自分に言い聞かせているみたいだった。そう、私は結局気がついていたにも関わらず、何も出来なかったんだ。何一つ変えられなかった。
オフィスの傍らで固まっている榊さんがいる。真実を突きつけられたら人はイヤなものだ。夢から無理矢理覚めさせられるのと同じ、エンジェルミストからの覚醒と同じ。
多分、榊さんはまたエンジェルミストを使用するだろう。そして、繰り返す。私には何も出来ない。そう、あの時と同じに。
「すまなかった」
私の悲痛な声はただ、闇に消えて言っただけ。そう、それだけだ。
私の頭の中に、あの時のことがフラッシュバックする。その思いを消すためにもくもくと働く。そう、今の私には慰めも必要じゃない。ただ、現実の世界で何かがおこるかなんて変な期待もせずにただ繰り返していくだけ。でも、この繰り返しが続くということは幸せなんだ。何も起きない、平和な日々。単調な日々。明日おきても予想が出来る明日。それこそが幸せなんだ。私はそう思うことにしている。ただ、目の前の仕事を片付けることだけに専念して。
仕事を終わらせて家に帰る。家についてすぐにパソコンに電源を入れる。そして、控えていたアドレスを入力する。
青い空と、光をモチーフにしたトップ。エンジェルミストでトリップした時に見る世界に良く似ている。そう、誰もが同じく光の存在をそこで知る。まるで、その神のような、また、母のような光。けれど、このサイトには「エンジェルミスト」の手に入れ方はどこにも書かれていない。それどころか、私のブログサイトのリンクもはってある。一体ナゼ?そして、サイトに「会員になりませんか?」とある。それと、オフ会の知らせ。いったいどうやって、榊さんは「エンジェルミスト」を手に入れられたのだろう?私はとりあえず、会員になるためのページを開いた。そこに書くことは氏名や、連絡先ではなかった。
なぜ「エンジェルミスト」を使いたいかという項目だった。こういう審査をしているのか?確かに私も聞いた事はある。けれど、理由なんて人それぞれ。
いじめ、失恋、暴力、失望感、興味本位。
様々だ。
誰もが現状のどこかに不満を持っている。そんな世の中だ。違う世界をのぞいてみたい。
そう思う人も多いはずだ。私は当たり障りのない事を書いた。だが、返事はすぐに来ない。どうやら、組織じゃなく、個人で行っているサイトなのかもしれない。私は即席で作ったフリーメールを何度か見たがメールは返ってこなかった。携帯にメールが入る。母親からだ。
「郵便物届いたかい?」
そうだ、「綾瀬」から手紙が来ているはず。
私は郵便受けを見た。封筒が入っている。
開けると中にもう一つ封筒。差出人は「綾瀬ひかる」だ。中を開けてみる。
「みんなあれからどうしているのかな?あれから三年たったから、ちょっとは大人になったのかな?それともトリップで逝ってしまったとか?とりあえず、次の日曜。十一月二十七日に大学で会おうよ。全員そろうよね。来なかったらのろうわよ」
ハイテンションな綾瀬だ。確かにあのことがあってから、どうしてという思いはある。二十七日。後ニ日だ。それに、三年前にあのことがあったのも十一月二十七日だ。偶然なのか?それとも何かあるのか?とりあえず、明日、あたると会おう。そして、もう一つ「あれ」も探しに行こう。やはりサークルの常連に送っているのならば片岡も来るのだろうか。私は少しの不安を覚えた。
一体どんな同窓会になるんだ。四人だけの同窓会。確かにはじめの時が一番良かったのかも知れない。まだ0.002gしか使っていないあの頃が。
私はまだ仲良かった時を思い出した。
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